牧会者の道
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目次
第一章 牧会者論
第一章 牧会者論
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第一節 召命を受けた者たちの生き方1 ノア
歴史的に見れば、アベルの血統を通してのみ蕩減の因縁が結ばれるようになるので、ノアは神様から召命される前にも、多くの蕩減を受けてきたのです。それで、神様の命令を受けて百二十年にわたって条件物をささげようとする時、サタンの攻撃があったのです。「こいつ、よくやるな。どれだけ神様を愛するか見てみよう。お前が百二十年間で、箱舟を造れるか、さあ見てやろう」と言って、試験したのです。皆さん、考えてみてください。舟を川辺に造るならともかく、山の中に造るというのですから、これは根本的に狂っていることではありませんか? これは、反対を受けざるを得ないことです。絶対、正常には見えないことです。また、ノアが舟を造りに行く時、「きょうは昼食を食べて、ちょっと散歩してから、登らねば」というような気持ちで山に登ったのでしょうか? そうではありません。御飯を食べるのもそこそこにして、舟を造りに山に登ったのです。
百二十年間で舟を造れと神様が命令されたけれども、百二十年のその期間を短縮しなければならないという心情をもって、夜も昼も全心全力を尽くしたノアでした。このように、天性の気概と節義を立てたのです。(一八―一五六)
皆さん、ノアの家庭について考えたことがありますか? ノアは、山の頂上で箱舟を造りました。平地ならともかく、山の頂上で箱舟を造ったということは、常識を超えた、常識を超えるどころか、度を超えるのにも、とんでもなく度を超えたことです。一般的に見る時、正常的な立場で見る時に、ノアは狂った人間に近い行動をしたのです。舟を造ろうとするなら、川辺に造らなければならないのに、山に造ったのですから、これは常識を超えたことです。
これを命令した神様は、冗談で命令したのでしょうか? 違います。生涯をささげて耐え難い道を行かなければならないのが、ノアの路程であることを誰よりもよく知っておられた神様は、ノアの受難の道より平坦な内容をもって命令されたのではないのです。それよりももっと難しい内容があったので、それを条件として解決できる、一つの方便になることを願われる心をもって、ノアに百二十年の間、受難の道を行けと命令されたのです。そのような神様の心は、どれだけ悲惨であったでしょうか? 言うに言われぬほど、悲惨だったのです。
ですから、ノアがその命令を受け入れるか、受け入れないかという緊張した瞬間において、ノアが順応する立場を取る時、ノアよりもっと喜ばれた方が神様ではないでしょうか? また、ノアよりもっと悲しまれ得る方も神様です。そのように、喜びと悲しみに対して責任をもてる、そのような主人の立場でなければ、神様の立場にはなれないのです。(四八―六九)
ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、百二十年間闘いました。それは簡単なことではありませんでした。百二十年後にこの地を審判するという神様の命令を受けたノアは、「一年が過ぎたから、あと百十九年残っているなあ」と言って待ってはいなかったのです。神様は、大きなみ旨を抱いて、大きなみ旨に対してくる人の前に、一度約束をされるというのです。(一九―二三七)
勝利しようとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか? サタン世界に入っていって打たれなければなりません。ヤコブがサタン世界を代表するラバンの家庭に入っていって、十回もだまされたということは、十回打たれたということと同じだというのです。しかし、ヤコブは天のみ旨の前に立つ時まで、黙々と待ちました。ノアも同じです。ノアじいさんも、百二十年の間耐えて神様の前に忠誠を尽くしました。神様は百二十年後にこの世を審判することを通告されながら、ノアにアララテ山の頂上に箱舟を造れと命令されました。どうして神様はこのような命令をされたのでしょうか? この命令は常識的に見る時に、正常なことではないのです。舟を造ろうとすれば川辺や海辺に造らなければならないのに、どうして山の上に舟を造れと言われたのでしょうか? それは、その時代の数多くの人々、すなわち、全体が反対し得る立場にノアを立てるための作戦でした。その時代の人々の中には、ノアを言葉で審判しない人はいませんでした。そのような立場に立たなければならないのです。ノアじいさんが、百二十年間箱舟を造るのを見て、老若男女を問わず、狂ったやつだと後ろ指を指し、足で蹴り、ありとあらゆることをしたというのです。これは、サタンをして、したいことを象徴的であれ、形象的であれ、すべてなすことのできる立場に立てるためでした。
神様が愛し、神様が立てた人は、サタン世界からまず打たれるようになるのです。サタン世界でまず打たれれば、サタン世界を打つことができるからです。審判とは、そのようにすることなのです。神様が愛する息子、娘を最初に打たれるようにして、次にサタンを打つのです。ノアもそうでしたし、イスラエルという勝利の基盤を立てたヤコブも、ラバンの家でだまされたのちに奪ってきたのであり、モーセも同じであり、イエス様も同じなのです。(一四―一一二)
私たちは、百二十年間、山に箱舟を造ったノアの行動から、さらに他の例を見ることができます。彼は、その長い間、サタンと闘ってきました。ノアは、妻をはじめとした家族、隣人と親戚から排斥を受けなければなりませんでした。彼の国から、そして世の中から、嘲弄と反対を受けました。一度でも、その仕事を放棄しようとしていたなら、彼はもう一度、サタンの侵犯を受けていたでしょう。しかし彼は、そのすべての困難を克服して、その使命を完遂するのに成功したのです。
彼は、サタンと対抗し闘って、自分をサタンから分立させました。神様は、彼を愛するようになり、彼は神様の愛の中に住むようになりました。しかし、それがすべてではありません。誰かが神様の愛の中に住むようになれば、神様はその人をサタン世界に送り出し、困難と苦痛の中で、その人自身を犠牲にするようにさせるのです。そこにはもちろん、彼を鍛練するという理由もありますが、全世界を救うために自分を精いっぱい犠牲にしようとする彼を通して、神様はもっと多くの人々を救おうとされるのです。義人であり、正直な人であり、善なる人であったノアは、いつも悲しい心情で、涙を流しながら、自分を犠牲にしなければなりませんでした。彼は自分のためではなく、他人のために自分を犠牲にしなければなりませんでした。(五二―五二)
ノアじいさんは、迫害が激しく荒々しい環境の中でも、渾身の力を尽くしていったので、その環境に勝利することができたのでした。神様の法度の前に、息子としての忠孝の道理を尽くすだけだ、という謙遜な心をもって進んでいったのです。神様の前に進めば進むほど、環境の非情さを感じ、悲しみを覚えましたが、そのような時であればあるほど、ノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼の行く道を遮る者がなかったというのです。何の話か分かりますか? そのようにして百二十年間を過ごしてきたノアのことを一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打つすべての方法を動員し、反対するだけ反対しましたが、神様が中心として立てたその基準から見て、ノアは少しのずれもなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、真の勝利者として立てたものです。ですから神様は、この基準に反対するすべての怨讐の要素を清算させようとされたのです。このように、最後まで打たれていけば、素晴らしいことが起こるのだというのです。(一八―一五九)
2 アブラハム
2 アブラハム
P.45
アブラハムを見てみましょう。アブラハムは、偶像商の息子です。豊かな生活をしているアブラハムに神様は、「おい、アブラハム、お前の家から出てこい」と命令されました。するとアブラハムは文句を言うこともなく、どこに行けば豊かに暮らせるという保証も受けずに、自分が住んでいるカルデアのウルを、すべて捨てて去ったのです。それで、どうなったのかといえば、国境を越えるジプシーとなったのです。神様が出てこいと言われれば、出ていくのです。出てきたあとには、どんな困難なことがあっても、出てきたことを後悔したり、神様に対して恨んだりしてはいけないのです。恨みをもてば、再び堕落したアダムと同じ立場に帰ってしまうのです。
アブラハムはアダムより、もっと絶対的に神様を信じなければなりません。そして、神様と一つにならなければならないのです。そうしてこそ神様の愛を受けるようになるのです。アブラハムは、神様がどんなに引っ張り回しても、恨むことなく感謝する心をもっていったので、神様も彼を愛され、彼に、「お前の子孫は、天の星のように、地の砂つぶのように繁栄するであろう」と、祝福してくださったのです。(五三―四三)
アブラハムを見てみましょう。神様は偶像商である彼の父親から、彼を分立させました。彼は、家族、祖国、物質的な富、そして、すべてのものを捨てなくてはなりませんでした。そのように、サタン世界から彼を断絶させることにより、彼は、カナンに入っていくようになったのです。神様は、彼を鍛練し、彼をして、彼自身の民族だけでなく他の民族、さらには怨讐のためにも泣くことができるようにさせながら、摂理を発展させました。
神様は、彼に祖国を離れ、他国に行くようにさせながら、このことをなされたのです。彼は、ジプシーのように流浪していったのです。彼は、いつも切実な心情で泣き、祈祷し、神様が自分の祈祷を通して人々を救ってくださることを願いながら生きました。それで神様が、彼の子孫たちが天の星のように、地の砂つぶのように繁栄するであろうと、祝福されたのです。
聖書を見ると、私たちは、神様がアブラハムを祝福され、彼を無条件に愛されたような印象を受けます。しかし、そうではありません。アブラハムは、愛する家族、祖国、物質的な富、そしてその他のすべてのものをあとに残して、神様が選ばれた未知の地に行き、いつも神様と人々のために涙を流すことにより、サタンから自分を分立しなければなりませんでした。彼は民族のために多くの祈祷をし、国のために多くの苦痛を受けたのです。
そのような条件を通して神様は、アブラハムを信仰の祖先として立てることができ、また数多くの後孫が繁栄するように祝福できたのです。このような内容は、聖書には記録されていませんが、神様が彼に祝福を与えたのは、そのような背景があったからなのです。(五二―五三)
アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが一番愛する人でした。しかし、神様は賢く愛らしいこの息子を奪ってきたのです。アブラハムが願ってきた世界は、彼の父親の思いとは違いました。怨讐の息子ではあったけれども、考えることがその父とは違っていたのです。アブラハムは、自分の家族のためだけでなく、未来のイスラエルを心配する心をもっていたのです。そのようなアブラハムを神様が奪ってきたのですが、どのようになったでしょうか? 成長していた時には、彼の家族や親戚が、自分の味方だと思っていたのに、そのすべてが怨讐となってしまったのです。その上、自分の国と氏族から離れ、自分の父母に反対してからは、アブラハムの行くことのできる家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあるのかというのです。それこそ、一人残されたのです。そのためにアブラハムは、行く先々で試練と苦痛を受けるようになったのです。エジプトに行った時には、パロ王が彼の夫人を奪おうとしたり、どこへ行っても追われる身となったのです。(一八―一六〇)
嘆かわしい悲惨な歴史を収拾するために、神様はアブラハムを選ばれ、流浪の生活をさせたのです。そのようにしてアブラハムは、情の染み込んだ地、故郷をあとにして、旅人の路程を歩まなければならない悲惨な運命の道を選ばざるを得なかったのです。
ですから、アブラハムの行く道は、悲惨な道でした。国境を行ったり来たりしなければなりませんでした。ジプシーの隊列に入らなければなりませんでした。異邦の地で、よそ者の身を免れることができませんでした。それだけでなく、パロの悪賢い計略によって、自分の妻を奪われ、自分の一族が孤立する状態にまで追い込まれました。(六四―二一〇)
しかし、そのように追われる行路でも、アブラハムは自分の父母と親戚から愛を受け豊かに生きることよりも、イスラエル民族が自分を呼んでおり、幸福の基盤が自分を求めているということを切実に感じていたので、ジプシーの行路でも夜空の星を見て、ただ神様に願ったことは、望みの天国に行かせてほしいということだけでした。
そのために神様は、アブラハムに祝福をしてくださったのです。彼の前に近づくつらい苦痛と困難な環境は、他の人であれば、自分を呼び出した神様を背信し、自分の立場を嘆くようなものでしたが、アブラハムはそのような立場でも、神様とさらに深い因縁を結び得る心情で侍っていったので、彼の前には幸福の門が開くようになったのです。(一八―一六〇)
3 ヤコブ
3 ヤコブ
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神様は、ヤコブを祝福しました。祝福を受けたヤコブは、ハランへ行き、二十一年間受難の道を行きました。彼は、ラバンに十回もだまされながら迫害の道を行ったのです。彼は悲しい立場にいました。環境を中心として見たとき、嘆息と絶望に突き当たる立場に立っていました。しかし、絶望を訴えるヤコブになっていたとしたなら、自分自身を中心として嘆息するヤコブになっていたなら、彼はイスラエルを代行する民族的権限をもつことはできなかったでしょう。ヤコブは、二十年を越える受難の道にあっても、祝福が変わらないものであることを最後まで信じたのでした。環境がどんなに変わっても、変らないものがあるのだと信じたのです。どんな財力が前を阻んだとしても、それを切り抜けて進んでいったのです。ラバンは、他のものを提起して、ヤコブの行く道を阻むようにしたのです。しかし、最後の勝利は誰に帰されたのかといえば、ラバンにもたらされたのではなく、ヤコブにもたらされたのです。
そのような歴史的な結果をもたらさなければ、神様の勝利の日を、この歴史上に残すことができないので、そのようになしたのです。ですから、嘆息していた天が勝利できる基盤は、嘆息する群れが絶望しない時に立てられた歴史であったということを、皆さんは知らなければなりません。
ヤコブがそのような絶望の嘆息圏に追われていましたが、嘆息することなく、絶望することもなく、堂々と未来の祝福を信じて進む立場に立ったのです。その結果、第一イスラエル圏が成立したことを知らなければなりません。
神様もこれと同じです。神様がどんなに嘆息圏内に染まっていても、その嘆息によって希望を失いはしませんでした。その嘆息によって、創造理想を失いはしませんでした。嘆息が強ければ強いほど、加重されれば加重されるほど、心情と理想を中心として、創造理想を成就させることを誓う内的な決意をしてこられました。
ですから、天が行く道は、嘆息圏の渦巻きの中に巻き込まれて回りますが、そこに融合されるのではなく、嘆息圏を踏み、立ち上がり、勝利の日を開拓していくのです。
そのようにしなければ、神様が嘆息圏を大々的に抜け出すことのできる道がないのです。ですから、絶望と苦痛が極まった立場でも天にすがって、「どのような立場でも絶望しない神様であり、落胆しない神様だ。嘆息するような立場で刺激を受ける神様であるはずがない」と信じ進んでいく群れには、絶対に勝利が与えられるという事実を、皆さんは知らなければなりません。(六四―二一二)
ヤコブは神様の祝福を受けることを貴く思い、その祝福を受けるために人間世界にないことをすべてしました。神様の約束を絶対的に信じてハランの地に逃げていき、あらゆる精誠を尽くしてあらゆる困難を克服しながら二十一年間闘ったのです。どれだけ反対を受けるとしてもそれを克服し、神様と一つとなる愛の場に行かなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。(五三―四三)
ヤコブは家を去り、ハランに行って僕のように過ごしました。彼はおじのラバンからだまされました。彼のおじさんは、彼が願っていたラケルの代わりにレアを与えたのです。ヤコブは、ラケルを手に入れるや否や、そこを逃げ出し、家に帰るようになったのです。二十一年にわたった困難の基盤の上で、初めて神様は彼を祝福することができました。この期間に、ラバンは彼を十回もだましました。しかし、このようなすべての苦労を経ることにより、彼はハランを去ることができました。
彼はこのような困難の中でも、彼をだました人々のために祈祷する心をもっていました。また、天使とすもうをした彼の行動は、彼が自分の使命を遂行するために妨害となるサタンに対抗して闘った行動でした。(五二―五四)
ヤコブは骨が外れながらも、死力を尽くして闘いました。「私が二十一年間苦労してきたことが、この闘いで判決されるのだ! きょう、この一晩の闘いに勝つか、負けるかによって、私の一生の運命が左右され、イスラエルの祝福の基盤が左右されるのだ!」という思いで、命を懸けてすもうをしたのです。天使が来て冗談で「すもうをしよう」と言うと思いますか?
天使が来た時ヤコブは、神様の使者として来たことを知りました。ですから、「私を滅ぼすための使命をもって来たのか、でなければ福を与えるための使命をもって来たのか?」と問えば、「福を与えるために来た」と答えたので、「福をくれるならくれればいいのに、なぜくれないのか?」と言えば、「責任分担が残っているのでそのままでは与えられない」と言うのです。すなわち、ヤコブがすもうをして勝たなければ福を与えることができないというのです。言い換えれば、命を懸けて闘わなければ与えられないというのです。そのような条件を懸けていで立った時、ヤコブは「よし、私の指が抜けても、絶対に負けはしない」と決心し、刀で打たれても放さず、首を切られても離れないという心をもってすもうをしたのです。どれくらい闘ったでしょうか? 一晩中闘ったのです。お前が死ぬまで放さないという心で闘ったのです。
ここには、神様も立ち会い、サタンも立ち会っていました。ところで最後の決定をするその場で、ヤコブはどれだけ切ない思いだったでしょうか? 天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか? 十分? 一時間? 二時間? 七時間以上闘ったというのです。(二〇―二二九)
4 モーセ
4 モーセ
P.52
天の行く道が悲惨な道であったので、モーセについていく人々も悲惨にならざるを得ませんでした。イスラエル民族の行く道も悲惨でした。モーセの行く道も悲惨でした。パロ宮中四十年以後に、イスラエル民族の側に立ったモーセは、宮中から追い出され、イスラエル民族の前に自分の姿を現すことができない運命となり、ミデヤン荒野で牧者の生活をするようになりました。彼は食べ、住む生活において、悲惨な生活環境に追われたのです。(六四―二一〇)彼が宮中を去り、ミデヤン荒野で羊を飼う牧者生活をしながらも、秘めていたただ一つの思いとは何でしょうか? 彼は、「イスラエル民族の側に立ったために、このようなことになった」と、落胆はしませんでした。自分がこのようになったのは、イスラエル民族のためだとは考えませんでした。モーセが神様の信任を受け得る動機がここにあるのです。失敗はイスラエル民族にありましたが、私がこのようになったのは、神様のためにこうなったのであり、私が孤独を感ずるのは、神様の孤独を代わりに責任をもつために感ずるのであり、私が犠牲となるのは、神様の悲惨さを防御するための盾として犠牲になるのだと考えたのです。このような心情で四十年間羊を飼い、群れを率いて回る時、狼の襲撃がどうしてなかったでしょう、毒蛇の群れの脅威がどうしてなかったといえるでしょうか? しかし、どんなに危険が加重され、孤独と嘆きが吹きすさんだとしても、私がこのようになったのは、イスラエル民族のゆえではなく、神様のゆえだと考えました。このように偉大な内的覚醒をしたモーセは、「神様のみ旨が成されるその日まで、私は忠誠を尽くす」と思ったのです。
そのようにして、神様のみ旨を受け継がなければならないイスラエル民族が彼に対したのです。彼は「私がイスラエルのためにこうしていで立ったのは、結局神様のみ旨のためだった」と思いながら、自主的な権限をもって民族の先頭に立ったのです。多くの民族があるとしても、その民族の前に立つために、堂々とした、内外の心的態度が備えられたモーセでした。
十年の歳月が過ぎ、二十年を経て、三十年、四十年の歳月が流れた時、モーセはパロ宮中の四十年間の豪華な生活の中で目的もなく過ごした過去のことを回想しながら、「パロ宮中を欽慕する自分となっては駄目だ」と思ったのです。
自分の前に近づいてくる受難の道が加重されればされるほど、パロ宮中で生活していた以上に自分が願っている神様の願われる国、一つの天地に号令できる一つの宮中を、欽慕するようになったのは明らかなことです。イスラエルの王権を中心として、イスラエル民族が解放される日、万民が高らかにこの権威をたたえ得る世界的な主権国家を欽慕しただろうというのです。
誰でも、彼の思想に主管を受けることを堂々としたものと思い、十二支派の後孫として生まれたイスラエル民族と自分の先祖たちの伝統を引き継ぎ、深い精誠を昔から受け継ぎ、特権的な権限をもった人々もモーセの思想と伝統とその立場に従っていかなければならないので、モーセをイスラエルの代表として神様が命令されたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。(六四―二一三)
それでは牧者としての四十年間の生活は何であったのでしょうか? イスラエル選民を率いるための準備生活であったので、四十年以上の受難の道が前にぶつかってきても、それを克服できる力を育てる鍛練と試練の期間として神様は考えたのです。そのために、モーセをもう一度立て、イスラエル民族の前に送ったということを、皆さんは知らなければなりません。
では、モーセが孤独な立場で、神様の祝福の因縁を引き継いで進んでいけたのはなぜでしょうか? 希望のイスラエル国家を愛し、希望のイスラエル国民を保護することを、自分の生活環境を越えてあすの希望の帆のように、彼の心の中に追求の対象としていたので、困難な四十年ミデヤン荒野も無難に過ごすことができたということを、皆さんは知らなければなりません。
万一、そこで少しでも自分の過去のことを思っていたなら、すぐに宮中の豪華な生活を夢見、その環境を慕わしく思い、自分の環境と比較してその差が多ければ多いほど悲しくなったでしょうが、そのことを夢にも思わない立場に立ったモーセだったので、捨てられた立場からもう一度、イスラエル民族の主人の立場に呼ばれ得る因縁を結べたのだということを、皆さんは知らなければなりません。
外的に見れば、モーセは完全に時を失った人のようになったのです。パロ宮中で時を失い、ミデヤン荒野で四十年間も天の前に時をもつことができない男性のように、孤独に生きてきました。しかしモーセは、時を待ち焦がれ、天が約束したその日を待ち焦がれていくイスラエル民族を救ってあげようとする心と、失った時と環境を克服して越えていくことのできる忠烈の操が残っていたので、イスラエルをもう一度一つにすることができ、イスラエル国家を救ってあげることができたということを、皆さんは知らなければなりません。
そのことをなすにおいては、他人では分からない内的心情が、どれだけ神様と近い場所にいなければならないでしょうか? 神様がその心情に従い、同情せざるを得ない深い縁が背後で結ばれていたのです。しかし、そのような立場に立った人は、必ず天を代表する一つの時を迎えるようにしてあげるのが天の責任であり、また迎えなければならなくなっているのが天のみ旨だというのです。(五七―三〇一)
5 ダビデ
5 ダビデ
P.55
また神様は、み旨に対して現れた多くの我々の先祖たち、特に悲惨な牧者であるダビデを選び、イスラエルを指導する立場に立てたことを知らなければなりません。彼は孤独な一人の牧者でした。誰とでも親しくなれる立場に生まれたのではありません。しかし民族のために、心配することにおいて、誰よりも孤独な立場に立って心細い立場で天を欽慕しました。心の深い所では、神様の嘆息を心配し、イスラエル民族に対する神様の心配を解消するため、誰よりも深い心情の中で、神様の前に祈祷したことを、私たちは知らなければなりません。
ペリシテ人の巨人ゴリアテが堂々とした権威をもってイスラエル民族を無視して出てきた時、イスラエルの将軍たちが全滅する立場に立った時、ダビデは、羊飼いの牧童の服を着て、棒切れと石を持って現れたのです。彼が主人としたのは人間ではありません。国家からの命令を受けていたのでもありません。天の主権者の代わりに主人として立てられたのです。自分の先祖の誰よりも天を信じ、進んでいったのです。天が生きているということを知っていました。死の場に直面しても、天が守ってくださることを信じました。
そのような立場に立ったダビデは、行く道は孤独でしたが、心の中は孤独ではありませんでした。悲惨でしたが、悲惨ではありませんでした。そのようにすることにより、天の嘆きを解消することができ、彼らを守ることにより、天の恨みを解くことができる道があると信じていったダビデの前に、天は共にいてくださったのです。このため、どんなに堂々としたゴリアテも、ダビデの前に一つの草のように倒れざるを得なかったという事実を、私たちは知っています。
天がこのように悲惨な歴史的事由をわきまえてきたことを、私たちは知っています。このような悲惨な立場では神様が守ってくださり、弱り果てた人々がもう一度回生することを神様は見せてくださいました。(六四―二一一)
6 洗礼ヨハネ
P56
6 洗礼ヨハネ
皆さん、また、洗礼ヨハネを見てみましょう。彼も自分の愛する家から出て、荒野生活をしました。自分が愛する家庭、世間の因縁をすべて否定して、神様のみ旨を絶対視して、神様と一つとなる道を行ったのです。神様が、すべての面でアダムとエバより立派であり、神様を信じきれなかった天使長以上に神様に忠誠を尽くせる基準を立てたと認定し得る、そのような生活をするように追い立てたのです。(五三―四四)
イエス様を見る前に、洗礼ヨハネを見てみましょう。洗礼ヨハネは荒野へと導かれました。すなわち、彼は家を離れ、過去の自分から決別し、荒野に行き、いなごと蜜を食べながら過ごしたのです。彼は、来られるメシヤ、神様、そして、彼の国と民族のために涙を流しました。これが、洗礼ヨハネが彼より前に来た預言者たちと異なる点でした。彼は、メシヤが、来たるべき世界を統治されることを願いました。
そして、彼が祈祷する時は、人並み外れた意味の涙を流しました。彼は国のために涙を流し、ユダヤ民族が願っていた、サタン世界を治めるためにメシヤが来られることを願い、涙を流し、神様のみ旨のために泣きました。このような意味から見るとき、彼は預言者の中でも一番偉大な預言者でした。
言い換えれば、他の預言者たちは、来られるメシヤを迎えることができませんでしたが、洗礼ヨハネは、来られるメシヤのために、その道をまっすぐにすることができたのです。他の預言者たちは、来たるべき方のための祈祷はできませんでしたが、洗礼ヨハネは、その方のために祈祷し、その方のために仕事をすることができたのです。それが違っていました。彼が一番偉大な預言者であったのは、正にこのような理由によるのです。
しかし、ヨハネは彼自身の国の統治者としてのメシヤのために祈祷をしましたが、反面、イエス様は全世界の統治者として来られたのでした。ヨハネの観点は、神様の心情と多少の差異がありました。これがすなわちイエス様と一つになれない出発点となったのです。
ヨハネのメシヤ観は、自分の国のためのメシヤ観でした。ですから、メシヤがイスラエル民族を救うために来られるだろうと夢見ていました。彼はイエス様がイスラエル民族の規則であったモーセの律法を守ることを期待しましたが、イエス様がそれを守るのではなく、むしろ、それを犯していることを知りました。
しかし、イエス様は全世界を救おうとされたのでした。イエス様の視野はもっと広く、ヨハネとは違いました。イエス様の視野には、一つの国家というものはありませんでした。そのことが彼らを、互いに違う道に行くようにさせたのでした。ですから洗礼ヨハネは、イエス様に反対していたイスラエル民族の側に立つようになり、そのため自ら死を招くようになったのです。
もし、彼がイエス様の側に立って、イエス様と一つになっていたならば、彼はイエス様の一番弟子になっていたでしょうし、洗礼ヨハネの弟子たちもイエス様の使徒となっていたでしょう。そうなっていたなら、洗礼ヨハネの追従者たちと、そして洗礼ヨハネをすべての預言者の中で一番偉大な預言者として信じてきた民族が、イエス様に従っていたでしょう。(五二―五四)
7 イエス様の三弟子
7 イエス様の三弟子
P58
イエス・キリストが、神様の愛を身代わりする仲保的な化身として現れたように、今日私たちは、イエス・キリストの希望と信仰と愛を受けて、この地上において、どんなに悪なる人の前でも、一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければなりません。そのような存在とならなければ、どこに行ったとしても、イエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立することはできないというのです。そのため、今日私たちは、このサタン世界の前に神様の希望、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに報いなければならないのです。
ところで、イエス・キリストの部分的な希望に対して報いるのでなく、イエス・キリストの部分的な信仰に対して報いるのでなく、イエス・キリストの部分的な愛に対して報いるのでもなく、全体に対して報いることができなければなりません。人間は、今までその一つの基準をこの地上に探し立てて、報いようとしましたが、全体に報いることができませんでした。しかしイエス様は、三弟子を通して、それを表そうとされたことを皆さんは知らなければなりません。
それでは、信仰の結実体として現れた人は誰だったのでしょうか? それはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのでしょうか? これはヤコブだったのです。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのでしょうか? これはヨハネでした。
この三人が、キリストの福音の部分部分に責任をもって、一つになり、進んでいくことによって、今日私たちが信仰の結実を譲り受けることができ、愛の結実を譲り受けることができたのであったし、また摂理歴史は、そのようになることを願いながら、流れてきたというのです。そのため、三人が和合して一つの完成体として完結させなければならない最後の道です。これが、キリストがこの地上に残された最後の教えであったのです。
それゆえに、今日皆さんが最後の完成者として現れるためには、キリストの代身者とならなければなりません。ところで、もし皆さんがキリストの三弟子を根とした、一つの不変の実体として立たなければ、三弟子を立てて新郎となられたイエス様の前に出ることができなくなるのです。これを思うときに、今日私たちは、ペテロを立てられた希望の実を、私自身の中に成就しなければならないのです。ヨハネを立てられたその愛の実を、私自身の中に収めなければならないのです。(一―九二)
8 ペテロ
8 ペテロ
イエス様が十字架の道、ゴルゴタの山頂の寂しい道を行かれた時、誰をもう一度振り返ってみたのかといえば、愛する十二使徒の代表であるペテロを、もう一度顧みられたのでした。それは、自分の後ろにまず最初に来なければならないペテロの心が、変わるのではないかと心配されたからです。このように、神様のみ旨を心配する自分の心が悲痛であるにもかかわらず、愛する心でペテロを顧みられたイエス様のその視線を、今日皆さんはもう一度感じなければならないのです。
しかし、ペテロは三度もイエス様を知らないと否認しました。それで、天のみ旨と完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係ない立場に立つようになったのです。このようなことを知っていたイエス様でしたが、地上の誰か一人でも死の道に向かっていく自分の後ろを死守し、心で、体で同情してくれる一人の人を探そうとされていたので、愛する第一弟子であるペテロを顧みられるようになったのです。このように、一人の真の人間を探そうとされた思いが、愛する弟子ペテロを見つめるその視線の中に染み込んでいたということを、今日皆さんは知らなければなりません。
神様の全体的な摂理に責任をもってこられたイエス様においては、このような立場に立つようになった時、これ以上悲しい場面はないでしょう。なぜならば、人間たちの不信によってゴルゴタの道、死の道を行く自分の使命を引き継ぐことのできる一人の人を探そうとする切ない心情を分かってくれる者が、一人もいなかったからです。それで、イエス様は、言うに言えない悲しみに染み入っていたのです。ただ神様だけが、イエス様の切ない心情を分かってあげ、イエス様の寂しい事情を心配してくださいました。
イエス様は、自分の三十余年の生涯の中で、ただ天の悲しい事情に代わって歩んできた苦労の路程を回顧してみた時、人間に対し叱りつけたいし、地に対し呪いたい心でいっぱいでした。ところが、自分のそのような心を抑えて、自分の歩みをとどめ、従ってきているペテロを見つめられたのです。このようなイエス様の内的心情を今日皆さんが感じることができなければ、イエス様を中心とする神様のみ旨を代わりに引き継いで、万民の前に潔い立場で立つことができないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
では、このように寂しく、苦難の路程で一生を終えるイエス様を見つめていたペテロの心は、どうだったでしょうか? 彼は過去にイエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れることができず、寂しい中で呻吟し、言葉もなく物悲しい立場に立ったことでしょう。悲しいイエス様を侮辱し、罪のないイエス様を恨み、罪のないイエス様を縛り、引っ張ってゆくその姿を見ながら、ペテロの心ももちろん大変痛かったことでしょう。
しかしペテロは、イエス様が全人類を顧みられるための代表的な使命を帯びて来られたメシヤであると悟ることができなかったので、弟子たちを代表して出ていくことができず、自分のことだけを考える立場に立ってしまったのです。このような立場に立っていたペテロの前に女中たちが出て、キリストの仲間ではないかと質問した時、三回も「知らない」と言うようになったのでした。このようなペテロ一人の姿が、地上の人間たちを代表する立場であったことを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
私たちが、このようなイエス様とペテロの立場をもう一度回顧してみたとき、三回も「知らない」と言ったペテロをイエス様が再び振り返られたことは、ペテロとイエス様の間だけで起こったことではなく、全歴史過程がそうであったということを見せてくださったのです。(二・二五)
ペテロは、困難な立場に立たれた師を、三回も知らないと否認しましたが、イエス様は心から自分の方を振り返り、見つめました。ですから、自分の困難さや自分の悲しみ、自分の事情も忘れて振り返られるイエス様を見たペテロの心の中には、一大変革が起こったのです。ペテロ自身はそのようにイエス様を三回も知らないと言ったにもかかわらず、イエス様は、御自身の悲しみも忘れたまま、心から自分のために、自分の将来を心配してくださったのを見て、ペテロの感情は爆発したのです。また、主と共に喜怒哀楽を共にしていた昔の因縁を感じた瞬間、ペテロはその場で、自分の正体を知るようになったのです。
イエス・キリストが、天のみ旨一つを成すために、自分の生命を覚悟し、天に向かって死の道を行きながらも、少しも人間的な悲しみにくれることなく、凛々しく人間救援の道を開拓するために努力する姿と、不足な自分までも心配してくださるのを見ながら、ペテロは、心から不足なることを感じたのでした。すなわちペテロは、ただイエス様のために忠誠をささげなければならない弟子の立場に立っていることを思いながら、神様を身代わりするイエス様の立場と、イエス様を身代わりしなければならない自分の立場を比較してみる時、自分のイエス様を信じる信仰と、イエス様が神様を信じる信仰とは、天地の差があることを感じたのです。
そして、自分は「イエス様を信じる」と言ったが、主のように天を中心として信じるのではなく、自分を中心として信じていたということが分かった瞬間、自分を見つめられるイエス様の視線の前に、身の置き場をなくしたくらいの衝撃を受けたのです。すなわち、不信の自我に対し、嘆息したのです。
天に向かう信仰路程において、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑うことなく進んでいくイエス様を見た瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きなければ、という衝動感が起こったということを、皆さんは知らなければなりません。不信の自我に気づいた時から、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいは、互いの生涯路程を比較しながら、自分の不足感をさらに感じるようになったのです。
イエス様が、天のみ旨一つのために、この地上の万民のために、自分の幸福を求めず、自分の全部を天の前に祭物としてささげ、十字架に引っ張っていかれながらも、恨むことをされない姿を見守りながら、三弟子は、自分たちの生涯が、あまりにも自己中心であったことを感じるようになったのです。そうして、自分を中心とされないイエス・キリストの前に弟子たちは、自らを反省し、イエス様がいつも願われていたみ旨を引き継いで、この地上でそのみ旨を実践しようと決意し、誓うことができたのです。
その次にペテロはどんなことを感じたのでしょうか? 自分の不信を感ずると同時に、周囲の不信を感じたのです。誰に聞いても「罪がない」と言う罪なきイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛りつけ、鞭打って喜ぶ姿を見ながら、ペテロは迫害を受けられるイエス様の視線の中に、イエス様の切なくも寂しい心を見透かすことができたのです。このように、悔しい立場でも、天の道を守っていかれる姿を見せられたイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の環境の不義さを感じたのです。ここでイエス様の弟子のペテロは、イエス・キリストの側に立つことのできない悪なる群れを滅ぼすために主が再び来られるまで、周囲の不義なる勢力と闘おうと、正義に満ちた覚悟をしたのです。(二・二八)
この愚かなペテロ、ヤコブ。彼ら使徒は、何の使徒ですか? ペテロと皆さんが異なる点はどこですか? もっとも、イエス様が十字架につかれに行くのに、それを見て黙って逃げて回っていた彼らより、皆さんはましでしょう。しかし、イエス様が亡くなられて復活したのち、悔い改めたので、もう一度、使徒の名を与えたのです。すなわち逆さまになったのです。ですから、ペテロは逆さまに死にました。皆さん気分が悪いでしょう? そのような使徒たちから伝えられた宗教がキリスト教だということを、皆さんは知らなければなりません。背信した彼らが、仕方なく結束して立てた宗教を信じられますか?
先生は彼らに抗議します。彼らに会い、攻撃します。あきれた話です。(二〇・九一)
9 ステパノ
9 ステパノ
P64
ステパノは知恵のある人ではありませんでした。冒険性があり、少し足りないような人でした。しかし、生命を懸ける時は、見事に決心していく気質がありました。このような気質が、殉教者としての要素になったのです。それにより、彼はキリスト教で、一番目の殉教者になったのです。このような立場で見たならば、ステパノは他の人より、はるかに高い位置にいることは事実です。(一八・二八二)皆さん、ステパノを知っているでしょう? 彼は無学な人です。大変愚かな人だというのです。石を投げられて死ぬことを知っていながら入っていったのですから、愚かなやつではないですか。皆さんも考えてみなさい。人はみな、一度は死ぬのです。何日も病んで苦痛を受けて死ぬよりも、銃弾に当たって死ぬとか、また、公的な立場で鞭打たれて死ぬことができれば……。死ぬのは同じだというのです。どれが一番楽かといえば、公的なことをして死ぬのが楽なのです。そのような考えをしなければなりません。(八二・一八〇)
10 使徒パウロ
10 使徒パウロ
使徒パウロが、小アジア一帯を伝道しに回った時、死が伴うような多くの問題がぶつかってきました。自分の氏族が脅かし、異邦人が脅かし、怨讐たちが脅かしてきましたが、使徒パウロは、その危険を自分が当然受けなければならない預言者の責任と開拓の使命だと思い、進んでいったのです。自分の短い生涯路程において、歴史的なすべての受難の行路を迎え入れて、これを糾合し、蕩減していこうという一念のもとに、開拓路程を歩んでいったのです。それにより、キリスト教が樹立される基礎ができあがったということを考えてみる時、皆さんは、使徒パウロに比べられる立場ではありません。
使徒パウロは、祝福が何であるか知りませんでした。天の血族がどのように成されるのかも知りませんでした。私たちが知っている全般的な内容を知る立場ではありませんでした。ただ一つ、自分個人の救援のためにそのようにしてきたのです。(三〇・一一一)
11 それ以外の預言者たち
11 それ以外の預言者たち
P65
神様が送られた預言者たちは、自分のための存在ではなく、神様が「手を取れ」と言われれば取らなければならない、神様にすがるしかない存在です。どんな責任者でも、そのようにしなければ、神様にすがることができないので、落ちてしまうのです。しかし、彼らの苦労に対して同情する前に、彼らを送るまで神様の苦労がもっと大きかったことを知らなければなりません。(一一・二八一)「エステルの笑顔をもちなさい。どんな冷遇を受けてもすべて受け入れることのできる姿をもちなさい。悲しくても悲しまない姿をもちなさい。悔しくても、その悔しさを忘れることのできる姿をもちなさい。悔しさに心が痛んでも、生まれたことを忘れることのできる覚悟をして耐えなさい」と神様は勧告されました。このような事実を回顧してみるとき、神様は今日、このように現れなければならないという事実を、皆さんは知らなければなりません。(一七・九二)
二千年前イエス様は、ベツサイダの近くにある野で、多くの群れにパンを配ってあげました。ところで、パンを食べた人々が、どうしてみんな滅んでしまったのでしょうか? み言を聞いたその民族が、どうしてイエス様を裏切ったのでしょうか? 三年間一緒に苦労しながら従っていた弟子たちがどうしてイエス様を裏切ってしまったのでしょうか? 彼らが裏切った理由は、み言がその日その日のためのみ言であるとだけ思い、与えられるパンが、その日の、その一時間の、腹を満足させるために下さるものとだけ思っていたためです。イエス様が下さったみ言が自分自身を通じて、世間の果てまで広めなければならないみ言であるということを知りませんでした。イエス様が与えてくれるパンが、自分を通して世界人類に配って与えなければならないパンであるということを知らなかったのです。(四・八五)
皆さんは、中世において清貧の生活をした代表者としてのフランチェスコ(Francesco)を知っておられると思います。彼は、清貧を主張しました。そのようにしながら、困難な生活、外的な環境に追われていながら、恨み、不平、悲しみ、苦痛を感じたりしませんでした。そのように感じていたなら、天のみ言を引き継ぐことはできませんでしたが、その苦痛の中で新しいものを模索する、そのような立場に立っていたので、神様が協助したのです。そうして、新しい時代を私たちがそこから探し出すことができるのです。(六六・四一)
私たちが、聖フランシスの聖業を通じて知っているように、万物、すなわちすべての被造物が擁護してくれることが、どれほど幸福なことですか? もちろん今まで、皆さんは迫害もたくさん受けたことと思います。済まなく思います。しかし、仕方がありません。お父様がそうされたからだというのです。代わりにお父様を所有し、お父様の心情を所有してください。(一一・三二二)
韓国にキリスト教が初めて入ってくる時、トマス(Thomas)牧師が血を流しながら死んでいくその場で祈祷する時、「お父様、私がここに来て死にます。私は救われるために伝道に来たので、私は天国に行き、この民族は地獄に行かなければなりません」という祈祷をしたでしょうか? 違います。「お父様、私は死んでも私が流したこの血の代わりに、この民族を復活させてくださいませ」という祈祷をしたのです。そうしたので、三千万民族が、彼を神の息子として追慕できたのです。
国を利用して自分が輝こうとする人は、国とは関係のない人です。私たちは涙を流しても、世界のために流さなければなりません。ここで国家的な悔い改めがなされなかったので、国家のために涙を流さなければなりません。まだ世界的な悔い改めがなされなかったので、涙をとどめることができないのです。そうすることのできる未来に向かっていく人々は、歴史のみ旨の前に因縁を結ぶようになるでしょう。
皆さんは、自分を中心として出発するのでなく、神様を中心として出発しなければなりません。自分を中心として出発すれば、神様に痛みを残すのだということをよく知らなければなりません。皆さんは、必ず神様と共に行かなければなりません。祈祷ができなくてもいいのです。神様が悲しければ、我知らず悲しい心となり、今日のように、天気が晴れ澄んで、環境に喜ばしい内容があれば、我知らず喜ぶ立場になればよいというのです。(三二・一一一)
第二節 現代の祭司長、責任者の行く道
第二節 現代の祭司長、責任者の行く道
P69
1 牧会者の起源はレビ族の祭司長我々統一教会の信徒たちは、アベル的立場で国家的祭壇を設けなければなりません。分かりますか、どういう意味か。国家的です。民族を代表する国家的祭壇を設けなければならないというのです。
祭壇を設けるためには、祭司長の責任を果たさなければなりません。祭司長の責任を果たそうとすれば、祭司長がいなければなりません。ですから祭司長がいないのに祭壇を設けてはいけません。祭司長がいなければなりません。祭司長になろうとすれば、どうしなければならないのでしょうか? 全世界にあって、神様が愛する祝福を受ける一族にならなければなりません。そうでなければ駄目だというのです。それはレビ族です。分かりますか? レビ族でなければ駄目なのです。
今日、統一教会の教会員たちは、どのような立場に立てられたのかというと、レビ族と同じ立場に立てられました。それではレビ族とは、どんな一族だったのでしょうか? それは、所有するものがない一族です。十二支派たちが支派を編成して、土地を分配される時、レビ族は分け前を受けましたか? (受けませんでした)。受けなかったというのです。体しかありませんでした。体しかなかったのです。自分の所有物というものは、何一つなかったのです。
レビ族という一族は、自分の所有の分け前がないというのです。彼らの所有するものといえば、どんなものでしょうか? 聖殿です。彼らの所有は、聖殿しかないのです。聖殿の中には、祭壇があります。そして、祭壇があると同時に、祭壇の上に祭物があります。祭物を祭事にささげて、贖罪の恵沢を民に与えたのちに、祭物を自分の取り分として取るしかないのです。そうでしょう?
そのようなことを考えるとき、我々統一教会は、どのようにしなければならないのでしょうか? 我々統一教会自体は、レビ族のような立場に立たなければならないというのです。そうしようとすれば、私たちは、所有するものをなくさなければなりません。所有するものが多いですか、皆さんは? 自然にそのようになっていなければなりません。
ところで、一つ心配になるのは何でしょうか? そのような立場に立ったならば、祭司長にならなければなりません。祭司長となって聖殿をもたなければなりません。そして、聖殿をもったのちには、祭壇を設けなければなりません。また、祭壇を準備したなら、祭物をささげなければなりません。祭物をささげなければならないというのです。祭物をささげようとすれば、神様がこの地上の人類を救うために、昔は、羊と牛をつぶして祭物としてささげさせましたが、一番最後には、自分の一番愛する息子を祭物としてささげさせたのです。一番愛するもの、一番大切なものを、祭物としてささげよというのです。一番大切な祭物とは何ですか? 自分です。ですから、自分を祭物としてささげよというのです。
ですから、イエス様がこの地上に来て、もし祭物をささげて勝利していたならば、大祭司長になっていたのです。ところが、大祭司長になれずに、祭物になって亡くなってしまったのです。それゆえに、今日私たちは、大祭司長になる前に何をしなければならないのでしょうか? 祭物をささげなければなりません。祭物をささげようと思えば、どのようにしなければなりませんか? 血を流さなければなりません。裂かなければならないし、犠牲にならなければならないのです。それが原則です。犠牲にならなければなりません。
このようにして、私たちがある基準をなして、この民族が私たちによって、天の前に立てられるようになる時に、イスラエル十二支派は、ユダヤ民族は、このレビ族が正しくなせるか、なせないかによって、その民族の興亡が左右されたというのです。祭司長たちが腐敗すれば、その国も滅びるのです。祭司長が忠誠を尽くせば、その国も栄えるというのです。過去の歴史がそうだったというのです。(一五五・二七六)
2 レビ族の祭司長の行く道
2 レビ族の祭司長の行く道
P71
将来、統一教会がどのように進むのかといえば、教会があくまで主流です。教会は、レビ一族に該当するというのです。レビ族には、持ち分がないのです。そうでしょう? 聖書を見ればそうです。レビ族は、支派は支派ですが、持ち分がないのです。その持ち分とは何でしょうか? 教会が持ち分です。それでは、支派の中で中心支派とは、どんな支派でしょうか? 十二支派の中で、分け前を受ける支派が中心でしょうか、分け前を受けないレビ族が中心でしょうか? どれですか? (レビ族が中心です)。レビ族が中心です。それに間違いないでしょう? (はい)。ですから、月給をもらう者は、傍系です。月給を受けずに、教会を守りながら活動する人が、原理的な立場に立った主流だというのです。これが、レビ族の行く道です。
祭司長の取り分というものは、祭壇に供えた祭物以外には、食べるものがないのです。分かりますか? 取り分は、それしかないのです。それで、聖殿を中心として、至聖所に入って自分の生命を尽くす、祭物をささげることのできる祭司長になってこそ、取り分を受けるようになっているのです。
ですから、統一教会の主流の路程は、教会で忠誠を尽くす人々がなすのだということを知らなければなりません。そして、それ以外の人は全部、教会に十一条をささげよというのです。ささげているでしょうか? (はい)。レビ族が設ける教会の祭壇の前に、すべての十一支派は、十一条をささげなければなりません。これから、十一条をささげなければ、統一教会の教会員ではないというのです。本来は十の三条をささげなければなりません。一つは自分の国のために、一つは世界のため、一つは神様のために、教会のために……。教会のために、国のために、世界のために、十の三条をささげなければならないというのです。
ですから、共産党は、このことから、現物税は三○パーセント以上だということを知らなければならないというのです。分かりますか? (はい)。大韓民国でも、税金が三○パーセント以上に上がるでしょう? 三○パーセントが何ですか。八○パーセント、九○パーセント……。
統一教会は、そのようにして、全部投入するのです。「そのような立場に従おうとしてそうなのだ」、そのように考えるのです。「ああ、生活が大変だから、教会長、教域長をやめよう」と言って、月給をたくさんくれる所を訪ねていく、そのような指導者がいたり、そのような責任者がいるならば、それは偽者です。教会と神様のみ旨を知らない者たちだということを知らなければなりません。いくら自分が不足だとしても、現在の職場を捨てて、「ああ、教会に連れていってください。月給がなくても行きます」、このような思想のない人は、統一教会の人ではないということを知らなければなりません。分かりますか、何の話か? (はい)。(八四・一六二)
地域長、地区長とは何かといえば、祭司長です。祭司長は、どの一族から出たのかといえば、レビ一族から出ました。それでは、レビ族は、イスラエル民族がカナンの地に復帰された時、どのようになりましたか? レビ族が分け前を受けましたか、受けませんでしたか? 皆さん答えてみなさい。カナンの地に復帰したあと、十二支派に分かれた時、分け前にあずかりましたか、あずかりませんでしたか? それも分かりませんか? (あずかりませんでした)。レビ支派は、分け前にあずかることができませんでした。レビ族は、祭司長一族であるので……。祭司長一族は、カインたちが食べさせ、生活させなければならないのです。分かりますか?
贖罪を受けるためにささげる祭物は、贖罪を受ける人々がささげるのです。祭物は、カインたちを贖罪してあげるためのものなので、カイン側で、アベルに祭物をささげ、食べさせ、生活させなければならないのです。分かりますか?
アベルは誰が食べさせて生活させなければならないのですか? 父母が食べさせ生活させなければなりませんか、カインが食べさせ生活させなければなりませんか? (カインです)。カインがアベルを食べさせ生活させる代わりに、アベルは生命をささげるのです。物質的なものを基準とするカインと、人を基準とするアベルが、ここで一つとなるのです。それによって、復帰の基盤がなされるのです。イスラエル民族を代表する祭司長たちは、アベルの立場であるので、カインを復帰するための苦労の代価を支払い、カインを持ち物としてもつのでなく、人であるカインをもつようになるのです。分かりますか? (はい)。したがって祭司長の所有する持ち物とは何ですか? (カインです)。カインなのです。物質を分けてもらうのではなく、何を分けてもらったのですか? 人を分けてもらったのです。ですから、レビ一族は、イスラエル民族の中のどんな一族よりも貴重な一族だというのです。皆さん、カインになる人が大事ですか、物質が大事ですか? (カインになる人です)。カイン側の人が大事だというのです。これを皆さんは知らなければならないのです。ですから、カイン側の人々は、アベルを食べさせ、生活させなければならないのです。
統一教会を例にして見たときに、統一教会全体の前に、アベルは誰ですか? (先生です)。統一教会全体の前に、アベルは先生であるので、皆さんは先生を食べさせ、生活させなければなりません。そして、先生はアベルとして犠牲となって、カインたちを生かしてあげなければなりません。それが先生の使命です。分かりましたか? 統一教会の教会員たちが、先生を食べさせ生活させてあげなくてはならないのです。そうでしょう? 先生が月給をあげれば、原理原則に反しますか、一致しますか? (反します)。ですから、月給をあげては駄目なのです。
ところで、婦人たちは「どこどこは月給をもらっているのに……」と言います。しかし、それが大事なことではありません。どこの誰よりも教域者がもっと重要なのです。分かりましたか? 地区長、地域長たちが、さらに大切であるので、第一骨髄分子として、責任をもつ、そのような人々には、月給を与えないのが原則なのです。月給をあげることにおいて、私が月給をあげたくてあげるのは良いけれども、地区長、地域長が要求して月給をあげるのは、駄目だということです。原則がそうなのです。
ここにいる地区長夫人、あるいは、地域長夫人たちは、「私たちは、こんなに苦しい生活をしているのに、先生はあのように良い暮らしをしているのですから、私たちを愛する先生であるならば私たちに少し分けてくれなければならないのに」と言うかもしれませんが、それは先生の使命ではないというのです。分かりますか? 皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。本部に対し、求めるなというのです。(四四・一四六)
3 祭司長の祭物精神
3 祭司長の祭物精神
P75
私たち教会の組織で見れば、地域長、地区長たちは祭司長たちです。地域長、地区長たちとは何ですか? (祭司長です)。伝道隊員たちは、正しい考えをもたなければなりません。それでは、祭司長たちは誰がなるのか? レビ一族がならなければなりません。イスラエル民族の中で、他の支派たちは全部、取り分にあずかりましたが、レビ族は、取り分にあずかりましたか? あずかりませんでした。なぜ、あずかることができなかったのですか? 祭司長は祭物だからです。祭司長は何ですか? (祭物です)。祭物は何かといえば、犠牲を伴うものです。犠牲にならなければなりません。ですから、何を与えることができますか? 血を売って食べて生活するのだというのです。何のことか分かりますか? 祭物は、所有権がないのです。祭物に所有権がありますか? 「私は、なにがしの息子です。私は、なにがし家の主人の伜です」と言いますか? 祭物は共同所有です。所有権のない者なのです。所有観念がありません。ひたすらに、主人がしようというままに従っていかなければなりません。自分という所有観念がないのです。
その次に、存在意識をもってはいけません。「私がこのように生きるのは、気分が悪いのに……」と言いながら、自分を主張したり、存在意識をもったりすれば、天の反逆者になるのです。私は生きているが、死んだのと同じだと思わなければならないのです。イサクが、み旨を成したのは、所有観念がなかったからです。「私は、あなたの息子ではないですか」と思ったなら、「父親が殺す道理がどこにありますか」と、反抗したでしょう。そうしていたなら、み旨を成すことができないのです。しかし、イサクが立派だったのは、黙して語らなかったことです。不平を一言も言わず、ただひたすらに死んでいったのです。ここで神様が彼を捕らえてくださったのです。
同じように、統一教会の地域長、地区長たちも、ただひたすら座って、飢えなければなりません。(笑い) 目がぱっちりとしてきて、頬がやせ、元気なく、ふらふらしながら、倒れて死んでみよというのです。そのように悲惨に死んでも、不平があってはなりません。そのような人は、立ち上がるのです。そのような人には、皆が頭を下げるというのです。もし、そのようにしても滅んだとするなら、キリスト教歴史、神様の復帰歴史は、根こそぎ、崩れてしまわなければならないのです。
ですから、先生も監獄に入って、死地に行っても、静かにしていたというのです。さらに、死ぬことができなくて、恨みだったというのです。「私は死ななかったのだから、生きて責任を果たさねばならないなあ」と思っているのです。所有意識がないのです。「私は、あなたの息子ではないですか? 息子をこのように苦労させる法がどこにありますか?」そんなふうに言えないというのです。地区長、教区長婦人たちは、はっきり知りなさいというのです。分かりましたか?
レビ族には、取り分はなかったのです。「月給が二万五千ウォンだ、三万ウォンだ、五万ウォンだ……。私は月給をもらわなくては……」このような思いを抱く牧会者の、その教会は滅びるのです。そのような宗教は、しまいには、サタンの祭物になってしまうのです。ですから、先生にお金があって、使ったあと残ったといっても、皆さんにあげては駄目だということです。分かりますか?
皆さん、お父様に月給をもらうようになっていますか、ささげるようになっていますか? 祭物を、お父様からもらうようになっていますか、ささげるようになっていますか? (ささげるようになっています)。はっきりと知らなければなりません。皆さんの新郎たちがそのような思想をもっているなら、滅びてしまうのです。工場職員と他の仕事をする人には、月給をあげたとしても、教会責任者に月給をあげないのは、原則を立てるためです。全部滅びたとしても、天道に従って三人だけでも残って、これだけ守っていけば、統一教会員は滅びたとしても、統一教会は滅びないというのです。皆さんが、みんな離れて出ていったとしても、滅びないのです。これをはっきり知るべきです。本部から送ってくれるお金でもって教会を立てることも、原則から外れたことです。そうではないですか? (四三・二二一)
祭司長たちは、月給をもらって天の仕事をするのではありません。月給をもらって生活するのではありません。「私の生活がどれだけ乏しいのか……。もらわなければなりません」と思うのではありません。犠牲の代価をもらい生活しなければなりません。血を流すところには、皆が頭を下げるようになっています。そうでしょう? 涙を流さず、犠牲にならずに代価を求める祭司長は、腐った祭司長です。皆さんは、それを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。地域長夫人たち、手を挙げてみなさい。このようなことを、しっかりと分からなければなりません。地域長、地区長、しっかりと分からなければなりません。
皆さんが月給をもらうようになるならば、まず先生に月給を与えてから、もらわなければなりません。そうですか、違いますか? (そうです)。原則がそうだというのです。ところで、皆さんがいつ先生に月給を持ってきてくれましたか? 皆さんが十一条をささげなければならないのです。それを皆さん、知らなければなりません。
私たち教会が、このような時点に来ているので、今の時は、うっかり間違えば、男性たちがうわつきやすい時なのです。自分勝手に、自分の思いを中心として考えていけば、大変なことになるというのです。ですから、皆さん方が、そのような男性を屈伏させて、引っ張っていこうという自覚をしなければならない時だということを、はっきり知らなければなりません。(四三・二二五)
皆さん、米国を見なさい。米国が今日このように富国となった原因が何であるかといえば、自分たちにお金が入れば、食べるものも食べないで、着るものも着ないで、自分の住む家も建てないで、まず教会を建て、その次には教育機関を建て、その次に自分の家を建てたのです。先生もその思想を知ったので、またそれが原則であるので、まず教会を建てようとするのです。
ですから、私が今年、家を買おうと涙ぐましい思いで準備しておいたお金も、教会のために、ヨイド本部建設のために投入したのです。その次には、学校を建てるために、未来の後孫のために……。現在は犠牲となるのです。そうでない民族は滅びるのです。分かりますか? (はい)。皆さんはそれを知らなければなりません。これが神様のみ旨のためにすることであり、未来が願うことです。未来は後孫を意味するのです。未来を復帰するために現在を犠牲にするのが、蕩減復帰摂理歴史ではないかというのです。(四三・二二三)
今日私たちは、この世界を救うために神様の前に祭司長の責任を負った者として、み旨のためだけに、後代のためだけにしなければなりません。自分が、み旨のために犠牲となり後代のために犠牲となっていく人は飢えません。御飯に飢えないのです。御飯に飢えてみなさい。ただ飢えて死ぬという感じなのに、ここに逃げ、あそこに逃げしながら、それを避けていくというのです。疑うならば、皆さん一度やってみなさいというのです。死ぬ道を行っているのに、死なないのです。このように下がっていくようなのに、下がっていかないのです。自分のためにすれば下がっていきますが、神様のためにすれば上がっていくのです。ひたすら、くねくねしながら上がっていきます。これが、十二の峠です。
アリラン峠はいくつの峠ですか? 十二の峠だというのです。神様を愛し、夫を愛する女性の心と同じ心をもって「どんな困難な道でも耐えていく。おなかがすいても耐え、涙の道も耐え、越えて、また越えていくのです。私は死んでいなくなっても、あなたの願いの基盤の上に、勝利をたたえることのできる栄光の席で、私たちの後孫たちが称賛することのできる、一つの新郎新婦として会いましょう」と言いながら……。アリラン峠が十二の峠だと言ったでしょう? そのアリラン峠は、復帰の峠です。韓国の民謡を見れば、韓国の民たちは、本当に啓示的な民族だということを知ることができます。なぜ十二の峠という言葉が出てきたのでしょうか? 復帰路程がそうだというのです。皆さん、これを知らなければなりません。
ですから、祭司長の責任は祭物になることですが、祭物になった者は、存在意識と所有観念をもってはいけません。お金が少し入れば、「このお金で私に必要なものを買わなければならない。私に鏡がないので、良い鏡を一つ買わなければならない。ブラウスが着たい。ワンピースが着たい。あのツーピースを一度買って着てみたならいいだろうに」という、こんなくだらない考えをしている婦人たちはみんな反省しなければなりません。「私が、こんなものを着る前に、この民にそのように着せなければならない。私が良くなる前に、国が良くならなければならないし、世界が良くならなければならない」と考えなければならないのです。このようにしなければならないのが祭司長の使命です。分かりますか? 私が食べることより、この国の人々を食べさせなければならないし、私が豊かに暮らすことより、この国を豊かにしなければなりません。このようにして、この峠を越えて、イスラエルの主権をもてば、祭司長は何になるのでしょうか? その時まで祭司長として万民を代表して犠牲となり、万民がその前に頭を下げる祭司長の訓練を受けてきたので、主が来て新しい主権をもつようになる時には、主権を代行する責任者となるのです。分かりましたか? 主が歴史を通して受難の道を耐えて歩んできた伝統を祭司長の立場で引き継ぐためには、死の道も、腹のすく道も、あるいは困難な道、追われる道も、克服していかなければならないのです。これが祭司長が歩まなければならない道であることを、はっきり知らなければなりません。(四三・二二三)
4 祭物の復帰過程
4 祭物の復帰過程
P80
旧約時代に祭司長は、祭物を中心として、神様と関係を結びました。旧約時代は、祭物を中心として、一つとならなければなりません。それは、なぜそうかといえば、祭物は対象で人間は主体的立場であるので、対象が神様の前に公認を受ければ、主体も公認を受けることができるのです。完全なマイナスが現れれば、完全なプラスは自動的に生じてくるのです。また、それと同じように、完全なプラスが現れれば、完全なマイナスは自動的に生じるのだというのです。これは天地が相対因縁になっているからです。このような原則を見るとき、人間は、祭物と一つにならなければなりません。もし祭物と一つになれば、その上には誰がいるかといえば、神様がいます。
万物を中心として見るとき、物の中には、真のものと偽りのもの、憎むべきものがあります。例えば、最近先生が皆さんに食べるなという犬とか蛇とかのようなものは、みんな憎むべきものだというのです。しかし、牛とか羊とか鳩とか、このようなものは、善なるものです。これらは、万物の中で一番善なるものです。祭事膳に供える肉として、脂こいものは、供えてはいけません。脂こいものに傾いては駄目だというのです。脂こいものが多ければ調和が取れないというのです。ですから祭事膳に供える肉は、脂が多く生臭いにおいが強いものではありません。たこや鯔のように、からりと乾いた肉が祭事膳に上がります。このような事実は、すべて陰陽の相対的理念から生ずるのです。
ですから、祭物時代において、善なるものを選んでみると、牛と羊と鳩だったのです。それでは、これらは何を象徴するのでしょうか? 遠い山を見つめて、ものを噛んでいる牛は、復帰されなければならない人間を象徴しているのです。言い換えれば、日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味をもつ)、復帰される日だけを待っている人間を象徴するというのです。
また羊というものは、軟弱な獣です。図体は大きいのに、自分より小さい山の獣に捕まって食べられてしまうのが羊です。羊は、弱いものを象徴します。それでいて抵抗しません。羊は、主人がつぶす時も抵抗しない獣です。昔、祭事に使おうと羊を捕まえた時、抵抗した羊は祭事に使いませんでした。反抗せず、「メーメー」鳴きながら、ただ、同情を求めるように、物悲しく哀れに泣き叫ぶ、そんな羊だけを捕まえて、祭物としたのです。むやみに殴って、足で蹴って捕まえた羊は、祭物として使わなかったのです。また、鳩は何を象徴するのでしょうか? 私たちはよく、「鳩のような瞳」と言います。「鳩のような夫婦」と言うのです。それは鳩が、愛を象徴するからです。
このようなことを見るとき、これらは獣の中で善なる意味で次元の高いものだというのです。そうであるから、これらを獣の中から抜き出しました。人間は、それらのものと一つとならなければならないのです。すなわち、牛のような忠誠で、羊のように犠牲となり、鳩のように情的(愛)になれということです。言い換えれば復帰の内容を代表する万物を中心として一つとなり、神様と関係を結んでいけということです。
それでは、それらと一つとなるためには、どのようにしなければならないのでしょうか? 反対にならなければなりません。僕に屈伏しなければならないし、嫁に屈伏しなければなりません。そうでなければ復帰ができません。皆さんが姿勢を変えなければ、絶対復帰ができないのです。
ある人は、「私は博士なので、博士の権威を立ててくれなければ、統一教会に行けません」と言います。そんな人は、来たければ来て、来たくなければ来るなというのです。そんなことは、先生の知ったことではありません。神様の前に博士がいますか? 全部小学生のようなものでしょう。そうではないですか? また、親なる神様の前に大人がいますか? みんな子供たちでしょう。
では、旧約時代は祭物時代で、その次は何の時代ですか? 新約時代は何の時代ですか? イエス様が、完成された祭物実体としての資格を備えてこられました。ですから、旧約の結実はイエス様なのです。
イエス様が、旧約時代の祭物実体の結実として来て、神様の前において、万物とカインをそのまま祭物としてささげていたなら、教団と国を復帰したでしょう。このようになれば、アベル型国家が成立されるのです。そして、サタン世界の万物も結局復帰され、カイン側教団も民族も、なくなっていたでしょう。ですから、イエス様は万物を身代わりする結実であり、教団を身代わりする結実であり、イスラエル民族を身代わりする結実です。
イエス様が、このような立場であったので、サタンは民族を失ったとしても、その結実であるイエス様と交換しなければならなかったのです。ですから、十字架の代贖が行われるようになったのです。救いを受けるべき民は、イエス様を祭物としなければ復帰できないのです。これがすなわち、キリスト教の新約時代です。分かりますか?
その次には成約時代です。イエス様は、再び来ると言われましたが、成約時代に来る時は、どのようになって来るでしょうか? 祭物の結実であり、アダムの結実であり、そして内的な結実においても、カインの蘇生的結実と長成的結実となって来なければなりません。ですから、カインを屈伏させなければならないのです。そのためにイエス様は、十字架で亡くなられる時、霊的に、そのようなすべてのことを、みんな備えていかれたのです。蘇生的な結実と長成的な結実を成したというのです。それが何かといえば、天使世界の屈伏と、養子的な立場の実体圏を復帰した立場に立ったので、カインを蘇生的に屈伏させ、長成的に屈伏させたというのです。イエス様は、洗礼ヨハネの仕事を身代わりして死にました。洗礼ヨハネの使命を果たして死んだので、結局息子の役目は果たせませんでした。したがって、蘇生的天使長型と長成的養子型を復帰しなければならない中心存在として、また、これを結実として現さなければ、再臨主がこの地上に来ることができないのです。蘇生的天使長型と長成的養子型、この二つを結合しなければなりません。そうしたのちに、ここに新郎が来るのです。
再臨主を来させることのできる動機を、地上のキリスト教が準備しなければなりません。エバがアダムを誘って堕落したので、後のアダムであるイエス様が再臨できる動機を準備するためには、地上のキリスト教が世界的なエバ圏、新郎圏を形成しなければならないのです。そうすれば新郎は、特別なキリスト教国家を中心として、そこに訪ねて来られるのです。(四四・三〇四)
復帰するには、まず、祭物から復帰しなければなりません。祭物は代身存在です。アブラハムの祭物は、アブラハムとそのみ旨を身代わりするものでした。
養子になろうと思えば、祭物の王とならなければなりません。私たちは、天宙のための祭物です。完成したアダムは、それ自体が祭物です。祭物、祭司長、養子、先生の名前に託して、サタン世界のものを奪ってこなければなりません。
私たちには、祭壇が別にあるわけではありません。私たちが横になって寝る所がすなわち祭壇です。これを汚してはいけません。自分が祭物にならなければなりません。そして、自分を祭物としてささげることのできる祭司長がいなければならないのです。
神様は、先生を祭壇として贖罪の過程を経させて、皆さんを祭司長の席に立たせようとされます。そうしたのちに、養子になるようにさせます。養子は、代身権限をもつものです。そして、大祭司長の過程を経たのちに、直系となるのです。(一一・一六一)
5 統一教会の牧会者の使命
5 統一教会の牧会者の使命
P85
本来、信仰生活というものは、歴史路程が立証しているように、祭物の道を引き継いでいく道です。祭物の道を引き継いで、それだけで終わるのではなく、この祭物が民族を連結させ、天の前にその結実を取り戻さなければならないのです。それが祭物の使命です。言い換えれば、私自身の救いだけで終わるのではなく、自分自身の救いのほかに、全体の救援になるように連結しなければならない責任があるというのです。それだけではなく、祭物として立たせてくれた主人、言い換えれば、神様なら神様の目的を解怨してあげなければならない、解いてあげなければならない、そのような蕩減的な立場もあるのです。このように見るとき、そのような中間の立場が何であるかといえば、祭物となった私たちです。私たちが、中間の立場に置かれているのです。皆さんが知っているように、祭物は、必ず人の前に置かれると同時に、神様の前に置かれるものです。この祭物が正しくささげられたときは、その人が福を受けることができるのであり、その祭物に対する神様の願い、あるいは、神様の恨みが解かれるのです。このような重要な立場に立っているのが祭物です。
このように見るとき、個人的祭物時代を経て家庭的祭物時代を経なければならないし、その次に、氏族、民族、国家的な祭物時代に移っていかなければならない、このような次元に立っていかなければならないのではないでしょうか。今までは、私自身が霊的に、祭物的立場に立って民族を代表し、国家を代表し、あるいは、世界を代表してきましたが、今や私たちは、実体時代に入っていくのです。
過去には、霊的な民族を抱き締めて責任を果たせば、あるいは、霊的な基準で神様のみ旨の前にかなうことのできる責任を果たせば、それで十分でしたが、これからは、さらに実体時代に移っていかなければならない時です。このような問題を考えたとき、昔の私たちと今日の私たちが行かなければならない道の次元が、桁外れに違っているということを教えてくれるものであるということを、皆さんは知らなければなりません。
それでは今、統一教会自体を見ると、私たち統一教会はどこに立っているのでしょうか? 霊的な基準の時代においては、この肉的な基準は後ろに置かれていましたが、今の時代はそうではありません。霊肉を中心として、霊的な面や肉的な面で民族を代表する中心的な場に立っています。
ですから、祭物自体が問題となるのです。その祭物自体は、神様が見て、祭物として受けることのできる歴史的内容をもっているでしょうか? これが問題となるのです。今まで育ってきて準備されたその祭物自体が、神様が見るとき、精誠を込めた祭物であるかということが問題となるのです。
統一教会自体が、この民族の前に登場して一つの祭物的な使命を果たさなければならないのならば、その祭物の立場に立っている統一教会として、今まで経てきた歴史時代において、祭物として、神様の前にふさわしい内容を残してきたのか? これが問題となるのです。もし祭物として、そのような内容を残せなかったのならば、ここには、必ず祭物としての汚点が残っているのではないか。そのどこかに傷があるので、これをきれいに洗ってしまうか、清めてしまわなければならない部分が残っているのではないかというのです。これを誰がするのでしょうか? そういう問題が残されているのです。それでは、これは祭壇に上がってできるのでしょうか? できません。祭壇に上がる前に、内的な準備と外的な準備を備えて、天が見て「ふさわしい祭物だ」と言うことのできる祭物にならなければならないということを、私たちは悟らなければなりません。
このように見るとき、統一教会が霊的にも肉的にも、祭物的な使命を果たさなければならないのです。それでは、祭事をささげる祭司長とは誰でしょうか? これが問題となるのです。神様がなるのでしょうか? この地上の誰かがならなければならないのでしょうか? このように見るとき、今まで、霊的な分野に責任をもってきた先生が、今から祭物をささげる祭官にならなければならないのではないかと思われるのです。それでは、皆さん自身が、清い祭物にならなければならないのはもちろんですが、祭事をささげなければならないその主人も、やはり同じです。祭事をささげるその張本人が、その祭物を育てるのに精誠を尽くしたかということが問題となるのです。
その祭物が、まだ清くなっていないなら、その祭司自体にももちろん責任があるでしょうが、祭物を準備してきた祭司長の立場に立っている、その方にも責任があるのです。このようなことを今まで考えてきました。(七六・一四)
私たち統一教会が行く復帰摂理の道において、その骨髄思想とは何でしょうか? 祭物に従っていく道です。これを皆さんは知らなければなりません。祭物とはどんなものでしょうか? 「あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」と言われました。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くせというのはどういうことでしょうか? 首を投げ出せということです。結論は簡単です。首を投げ出せということです。命を投げ出して神様を愛せということです。
生命を投げ出すのには、嫌々無理に投げ出すのではなく、狂ったように喜んで投げ出せというのです。それを神様は喜ばれるのです。命を投げ出すのに、泣きながら投げ出すのを神様は願われるでしょうか。でなければ、気も狂わんばかりにうれしくて、死ぬか生きるかも分からず、死んでもいいと、ひたすら踊りを踊りながら投げ出すのを喜ばれるでしょうか? どうですか?(四八―一一四)
祭司長になろうとすれば、聖殿がなければならないし、祭壇がなければならないし、民がいなければなりません。祭壇は民のためにあるものであり、祭物と祭司長は、天地のためにあるのです。ですから、皆さんが今、祭司長の立場に行かなければならないのです。皆さんが隣近所を訪ねて歩くのは何のためですか? 祭壇をつくるためです。皆さんが祭司長になろうとすれば聖殿がなくてはなりません。ですから村に行ったなら、心棒をつんで聖殿をつくらなければなりません。その次には、祭壇を築かなければなりません。祭壇とは何ですか? その村の涙の聖地です。み旨が成される時まで必要な祭壇をつくらなければなりません。(一一・二一四)
ある教会長が祭物をささげる祭司長の立場にいるならば、その祭司長と祭物は、一つとならなければなりません。祭司長の前に祭物が絶対順応しなければなりません。いつまでそうしなければならないでしょうか? 血を流すまで順応しなければなりません。このような基準になって、どんな困難なことがあっても順応し、一次、二次、三次まで、生死を越えていくことのできる決意ができる基盤さえできれば、神様はそこに臨まれるのです。
ですから、皆さんが伝道する時、一人に対する時も、その人を絶対一人と思うなというのです。何のことか分かりますか? 絶対一人の人と思わず、部落ならば部落を代表する人だと考えよというのです。また、自分自身は祭司長ですが、どんな立場で祭物をささげる祭司長であるかということを自覚せよということです。
郡ならば郡を代表する祭司長だという信念をもてということです。そのような信念をもってある村に入っていった時に、その教会長の前に現れる人が、村自体を代表する人でなくてもよいというのです。ただ一人の人が現れたとしても、彼が信念をもって、祭司長の基準を中心として対象の立場で一致して、自分の命令に従い祭物的行動、すなわち、犠牲となることを有り難く思い行動することができるようになる時、その蕩減範囲は、個人的な一対一ではなく、郡を代表する蕩減範囲となるのです。何の話か分かりますか? (はい)。
それでは、郡を代表することのできる蕩減範囲が、自分がそのように考えたからといってそうなるでしょうか? この地上に自分自身が立つことができないので、自分が、郡であれば郡を中心として闘い、祭物となる過程で勝利して、復活した実体的基準を備えることができなければ、祭司長の立場に立てないのです。自分自身が、そのような立場に立つことができないので、これから来られる主を中心として、そのような条件を平面的に共に世界化させて、帰ろうというのです。これが再臨思想です。分かりましたか? (はい)。
再臨主をなぜ送らなければならないのでしょうか? 各々個人がみんな、再臨主と同じ心を中心にして、郡なら郡で、祭司長の役割さえすればよいのではないかというかもしれませんが、その皆さんの考えをもってして、郡責任者として、祭司長の基準を歴史的に、天的に、霊的に、時代的に蕩減する勝利的立場に立っているのかというときに、そうではないというのです。
このような点から見るとき、イエス様は、四千年の結実体として、イエス様には個人も含まれているし、四千年間なしてきた家庭も、氏族も、教会も含まれているし、四千年間備えてきたイスラエルの国家も含まれているのです。ですからイエス様と、四千年間備えてきたイスラエルの国全体を比較してみるとき、むしろイエス様のほうが、内的な価値がより高いというのです。そうでしょう? さらに進んで、イスラエルの国だけでなく、世界を通じて結実的存在として来られるのですから、イスラエルの国がイエス様を信じて世界のために祭物をささげていたなら、世界は、既に救援を受けていたでしょう。
このような点から見るとき、全体四方を身代わりする中心的価値基準をもって、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を越えることのできる、中心価値の路程を行かせるために、全体を代表することのできる一人を送られるということは、神様の蕩減復帰摂理において妥当なことだといわざるを得ません。ですから、再臨主は必ず来なければなりません。(四七・二九四)
宗教が出てくる前には、必ず預言者を送るようになっていますが、その預言者は、その時代において、宗教の責任者として使命を果たすと同時に、死ぬ時には、必ず後継者は誰だと、宣布して死ぬのです。後継者を立てることができずに行くようになれば、預言者の使命が連結されないのです。そのため、エリヤのような預言者も後継者を立てたのです。
祭司長思想を中心として統一教会を見るとき、統一教会の先生は、どんな使命を果たさなければならないのでしょうか? 個人的使命、家庭的使命、氏族的使命、民族的使命、国家的使命、世界的使命、天宙的使命を果たさなければならないし、神様の心情を中心として、神様の体としての使命まで果たさなければなりません。これをすべて完結させる総体、全被造世界を代表する、総体的価値の内容をもって内的価値の基準をなした立場に立ってこそ、全世界を奉献できる祭司長になることができるのです。個々で、相対と一つになる日には、新しい復活の生命圏が開くようになるのです。復活の生命圏が開くことによって、復活した個人と、家庭と、氏族と、民族と、国家が生じるようになるのです。(四七・二九六)
ですから、神様が願われ、先生が願っていたものとは何でしょうか? 祝福を受ける皆さんの家庭の後ろに、民族がついており、国家がついており、世界がついていることを願いました。民主世界全体が懸かっていることを願ったのです。しかし、懸かっていませんでした。したがって統一教会は、再蕩減歴史を歩むのです。
この再蕩減歴史を行おうとするならば、どのようにしなければならないのでしょうか? 祭司長は、祭物をもって蕩減するのです。過去には物質をもって蕩減をし、次には息子、娘をもって蕩減をしました。それでは、今は何をもって蕩減しなければならないのでしょうか? 妻と夫を中心として蕩減しなければならないのです。このように蕩減してきたというのです。何のことか分かりますか? (はい)。
今は息子、娘を中心として蕩減する時代ではないというのです。過去には、カインとアベルを中心として一列に立って前後関係を決定した時代でした。しかし、今は横的な関係を決定する時です。時が違うというのです。なぜそうならなければならないのでしょうか? 完成時代というものは、父母を代表する時であるからです。ですから、父母の家庭がアベル家庭ならば、完全なその家庭と、カイン的な立場にある皆さん、祝福を受けた家庭が完全に一つになるためには、夫婦が祭物にならなければならないのです。先生の家庭を中心として、祝福家庭が一つにならなければならないのです。これが原理です。分かりましたか? (はい)。(三六・三一四)
州責任者たち、立ちなさい。州責任者というものは、神様の前に何百万名もの生命に責任をもつ祭司長です。祭司長だということを知らなければならないというのです。皆さんの州で死んでいく人々のために手を合わせて祈ってあげる責任を、皆さんが負ったということを知らなければなりません。死んでいく人々のために……。毎日、二十四時間にどんな人々が皆さんの州で死んでいくのか分かりますか? ですから、皆さんが遊んでいる時、皆さんが寝ている時、死んでいくようになれば、その霊たちが讒訴するということを知らなければなりません。
そして、皆さんの州で犯罪を犯し、獄中へ入れられて法廷に呼ばれていく人がいたなら、皆さんが責任をもたなければならないということを知らなければなりません。それだけでなく、皆さんがその州のすべての生命を神様の前に連れてくる責任を負ったということを知らなければなりません。皆さんを見ているすべての自然は、先生が言ったように「お前たちの州で人が犠牲となり、このような若者たちが獄中に入り、このような人々が行く道が分からず彷徨しているのに、お前たちは何をしているのか?」と言うのです。皆さんを見ている万物が讒訴し、天地のすべての万物も讒訴するということを知らなければなりません。また、自分がもっている、その地が讒訴するというのです。一日も早く私の手が届き、私の言葉が伝えられなければならないし、村を越えて山頂まで、すべての万物まで私の精誠が届かなければいけないということを感じなければならないのです。
では、祭司長として祭物をささげ祭事を供えるのに、人が集まらなければ、それは祭司長の責任です。私が代わりに泣き、涙を流し、私を打ってこの民を許してくださいと祈祷しなければなりません。祈祷しなければならないのです。私に罪が多いので人々が来ないのだと考えて、民族のため、州のため、自分の罪を悔い改めなければならないのです。皆さんが祈祷する場所が床であれば、その床が乾かず、二十四時間涙にぬれていなければならないのです。そうすれば神様が伝道すべき人を見せてくれ……、神様が同情しなければなりません。州を代表して、「よし、私はお前の味方だ」という通告を受けなければならないのです。そして、皆さんの前に訪ねてくる人に、王様のように侍らなければなりません。その国の王様のように侍ることのできる心をもって……。私が僕になって侍らなければならないというのです。罪人が罪を脱ごうというのですから仕方がないのです。王のように侍れば侍るほど、皆さんの蕩減が早くなるのです。そうではないですか? 私が下に降りていって罪のある人に侍ったので、その間に蕩減条件がたくさん立てられるのです。
ですから、一人から十人、十人から百人、百人だけ超えなさいというのです。そのような日には、自動的に広がっていくのです。そうです、皆さん。何のことか分かりますか? (はい)。今までの考えを覆せというのです。何、私がアベルだとか何とかって……。アベルなら祭司長の役目をしなければならないでしょう。民もなく、罪を犯したその民をもっては、祭司長には絶対になれません。皆さんが、そのような心をもてば、人々は友達になれなくても、神様が友達になってくださるので、神様が春風を煽ってくれるのです。先生は、ワシントン大会のような不可能なことで、勝利をもたらしたのです。先生は、そのような心をもって、黒人だろうと黄色人種だろうと、神様のように高め、侍ったというのです。そのような祈祷をし、そのような涙を流したのです。何の話か分かりますか? (はい)。(八九・二八九)
皆さんは先生の代身者です。皆さんが先生のようであれば、州に対するすべての責任を自分が負って、良い福は捨て、悪い福はたくさん背負おうと考えるでしょう。
祭司長の責任を果たしますか? (はい)。そうしようと思えば、皆さんが高い山に登った時、その州の人々が「早く早く救ってくれ」という声を聞くことができなければならず、霊界の先祖たちが「早く早く救ってくれ」と言っている思いを感じなければなりません。その中で責任を果たさなければならないのです。それが祭司長です。祭司長の資格証をもって、自分の責任を果たさなければならないというのです。どんなに頭が痛くても「痛い」と言えず、どんなに疲れていても「疲れた」と言えないのが祭司長です。神様が休めと命令した時だけ休むのです。責任を果たせなければ、逆に蕩減を受けて病気になるのです。
ですから、その道を避けていくために、自体内で迫害を受ける道をつくっていく、そんな道を行かなければなりません。祭司長は、一番下から、下で食べるその御飯を食べ、ずっと上がっていかなければなりません。着ることも住むことも、その一番どん底から……。すべてを復帰していくのです。そのような生活をすべきだというのです。ですから、国と一つとなり、民と一つとなることによって上がっていくのです。悲惨なことです。
そのような意味で、先生が迫害を受けたことを有り難く思う時が多いのです。私の家庭がし、私の教会がする蕩減を、外部でこのように騒ぐことによって、外的蕩減として全部消化しているのです。ですから責任者は苦労しなさいというのです。苦労することは、蕩減条件を提示することになります。寝ることもしないで祈祷して、ひたすら休まず努力して、外的蕩減をしてあげることによって……。
祭司長はそのような道を行くのです。皆さん方が責任を果たさずしては、大言を吐くことはできません。脇目を振ることはできません。私が心で、誰がどうだと評することはできないのです。私が罪人なのに、祭司長である私が責任を果たせなかったのに、どうして批評できますか? 分かったでしょう? (はい)。(八九・二九二)
第三節 牧会者の使命
第三節 牧会者の使命
P95
1 「真の師」としての牧会者「イエス様は子羊だ」という言葉を私たちは学んでいます。また、「牧者」という言葉も私たちは学んでいます。従順に生きた経験をもった者であってこそ、他人を従順にさせることのできる法を知るのです。ですから、イエス様は「私はもてなしを受けに来たのではなく、もてなすために来た」とも言ったのです。
皆さんもそうです。ある指導者がいたとして、その人が堂々とした中心的資格者である時には、そこには不平がなく、頭を下げて従っていきたいと思うのです。そのように従っていく伝統を引き継ぐことにより、一つの新しい平地に到達するのです。
「偽りの牧者」は、羊を追いやっていくとしても、追いやっていくその目的が違うのです。羊の生命をねらって被害を与えるために現れるのです。「善なる牧者」は、全くその反対です。どこに引っ張っていくとしても、羊のためを思って引っ張っていくという立場に立つときに、彼は善なる牧者になるのではないでしょうか。ところで、羊の群れの中に、ついていく途中で「やあ、我々は行くのをやめよう」と言う羊がいるでしょうか。そのような羊は、山羊になるしかないのです。
順応と不平を考えて見たとき、真のものと接することのできるものは、不平ではなく順応だということを皆さんは知らなければなりません。驕慢と犠牲がぶつかるようになるとき、驕慢が主体になるのではなく、犠牲が主体として残るしかないことを、皆さんは知らなければなりません。強制と従順がぶつかり合うとき、どちらが主体として残るようになるかといえば、強制は退いて、従順が残るというのです。これを皆さんは知らなければならないのです。
聖書が教えてくれた犠牲であるとか、柔和と謙遜だとか、従順であるとか、服従であるとかいう言葉は、たやすく、一つになり得る、新たな群れをして、新しい革命のための重要な提示であり、重要な信条であり、重要な綱領であるということを私たちはここで主張することができます。(六六・六〇)
皆さんの前には、真の牧者も偽りの牧者もいるのです。ですから今や皆さんは、それを正しく分別しなければなりません。真の牧者は「自分が真の牧者だ」と言いません。いつの時であれ、黙々と神様のみ旨と、すべての万象を自分の心に抱いていくのみであって、自分の立場を弁明しません。ですから、イエス様もピラトの法廷に立った時、悪党たちは自分たちが正しいと主張しましたが、イエス様は自分を弁明しなかったということを、皆さんは振り返ってみなければならないのです。
ところで、終わりの日には、どちらが真であるか、偽りであるかを分別することができない時があるのです。それで神様は、そのような時を迎える人間に、「頭に油を塗って密室に入って祈祷しなさい」と言いました。互いに自分が正しいと主張していけば、極度な混乱と混沌が起こり、誰が真の牧者であるか、偽りの牧者であるかを区別できないので、静かに密室に入って自ら祈祷し、判断しなさいと教えてくださったのです。
真の息子は、父親が自慢してくれない以上、自ら自慢することはせず、自分を弁明することもしません。父親の栄光の座に立ったとしても、それを自慢せず、むしろ自らを低くするのです。ですから今日、皆さんもそのような人になるために絶えず努力しなければなりません。
今日、私たちの教会を中心として見るときも、皆さんは分かりませんが、先生が、そのような道を開拓するために霊的な面で、あるいは実体的な面で、熾烈な闘いを展開しているということを知らなければなりません。(三・二一〇)
終わりの日を迎えた皆さんは、ただ天のお父様のみ旨に従うだけにとどまるのではなく、万民を引っ張っていく指導者にならなければなりません。お父様のみ国が成し遂げられた時、万民を引っ張っていく指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければならないというのです。そのためには皆さんが、誰の力も借りずに、皆さん自らの隠れた精誠の贈り物を、お父様の前にささげる羊の群れにならなければなりません。
強盗とは、どんな人ですか? 自分のものでないものを自分のものとして利用する人です。今日でも、そのような人々が多いのです。私たちの原理を自分勝手に活用して、自分たちのものであるように使っているというのです。天のものとして受けたなら天のものとして返し、自分のものとして受けたなら、自分のものとして使うのが正しい人間です。天のものを自分のものとして利用する強盗のような人になってはいけません。
それゆえに、今皆さんは、アベル的な存在として立つための、ある条件をもたなければなりません。真の牧者の倉庫に入れる真の実を結ばなければなりません。真の牧者が喜び楽しむことのできる真の実、真の穀物にならなければならないということです。(三・二一二)
皆さんはイエス様を「羊を追う牧者」、あるいは、「善なる牧者」として比喩するのを聞いたことがあると思います。平和な時には、牧者が羊を追っていく時、先頭に立って追っていきますが、危険がある時には、羊を前に立てて追っていきます。
今日私たちは、サタン世界を後ろにして闘うので、彼らを前に立てて追っていかなければならないというのです。そうできる立場に立てない人は、絶対天の側になることはできません。このようにしながら、私たちは個人が越えるべき峠を越えなければならないし、家庭が越えるべき峠を越えなければならないのです。(三一・一四)
涙のない指導者に出会った教団、民族、世界は滅びるのです。滅びるのが原則です。イエス様は教団を抱き締めて泣きましたが、教団から追い出されました。民族を抱いて泣きましたが、民族から裏切られました。世界を背負って、血と汗を流して泣きましたが、世界は分かってくれませんでした。真の牧者とは、すなわちこのような人です。そして真の友、真の師とは、すなわちこのような人です。(四・一六七)
2 医者としての牧会者
2 医者としての牧会者
P98
皆さん、神様の目から見れば、堕落した人間はみんな死の病にかかっているのです。最近の不治の病は癌だといいます。ですから、癌にかかったとしたなら、その人をどれだけかわいそうに思いますか? あの人は最後の道を行くのだなあと思うのです。けれども、堕落によって生じた病は、それ以上のものです。そのような病気にかかった人々に、その病気を治すことのできる注射と薬があって、その病気を治す立場に立ったとすれば、その父母や兄弟はどれほど喜ぶでしょうか? 時間を争って、その薬を投与するのではないかというのです。
そのような立場から見るとき、私たちの原理運動というものは、神様が見て死ぬしかない人、神様の子女のようであるが、それこそ永遠に死ぬしかない人、病気にかかって死ぬようになった人々に、急いで薬を飲ませたい神様の立場でする運動だということです。
六千年間という長い間、人間がこの病気にかかっているが、治そうとする人もなく、薬を探してみた人もいない不治の病気であったのです。これを治せる薬があり、彼らを生かすことのできる立場にあったなら、神様はどれほど忙しく動かれるだろうかというのです。神様は、全世界人類を生かしてあげたがっているのです。原理運動に参加する人々は、神様の特命を受けて、そのような病人たちを生かしてあげるために、注射を打つ人であるということを皆さんは知らなければなりません。原理のみ言を受ければ、注射を打たれたのと同じです。心に喜びが来るし、慰安が来るのです。こうして、再び生き返ることができるという事実を考える時に、これを見つめられる神様は、どれほど喜ばれるでしょうか。皆さんが、その神様の息子、娘であるならば……。その兄弟が死地から生き返り、兄さんや姉さん、兄嫁が生き返ったのと同じ立場に立ったと考えれば、どれほどうれしいだろうかというのです。
死地にいる人で、自分が一歩歩むことによって生き返ることのできる道があるということを知りながら動かない人がいるとすれば、それは悪なる人です
私たちは、生命を救うための目的をもった人々です。ですから、いい加減にできない問題であることを、皆さんは知らなければなりません。注射を与えるのに、むやみに与えることはできません。生命を扱うことは厳粛なことであるので、厳粛な姿勢で、天命により生死を判決する、そういう立場に立たなければならないということを、皆さんは自覚しなければなりません。
もし、この薬を飲めば生きるにもかかわらず、どんな薬も、この世で作った薬はすべて飲んでみたが、効果がないのでいっさい薬は飲まないという人に会ったとき、本当に、この薬を飲めば良くなると考える皆さんの表情はどれほど深刻だろうかというのです。
また、この世で一番愛する人、一生を通じて会いたいと願ってきた人に会えるのですが、同じ時間に自分が助ければ、死地にある人を生かすことができるというとき、どうしますか? 愛する人に会うのか、この死地にある人を救ってあげるのか、ということを考えるときには、数十年ぶりに会う、愛する人を後回しにして、死地にあるこの人を生かしてあげるのが、人生の道理だと見るのです。
皆さんが、そのような姿勢で一歩一歩、神様と共に、神様に侍り生命問題を扱っているという、そのような厳粛な心情をもっていけば、必ず神様は共にいてくださるし、何か分からず押される、何か分からないが引っ張られる、そんなことを感じるようになるのです。(六九・一六三)
統一教会は今、伝染病が世界に広がっているので、これを治してあげようと、みんなが統一薬局を設けているのです。先生も、その仕事をし、小さいもの、中間のもの、大きいものの区別なく、みんな瓶を持って三千里(注:韓半島)津々浦々に……。瓶とは何の瓶ですか? 薬の瓶だというのです。注射器を持って、注射薬瓶を持って、三千里半島に出向いて、注射を打たれまいとする人をつかんで打ってあげようとするのです。言うことを聞かなければ、「こうしてこそ治る。絶対損にはならないから、一度打ってみなさい」と言って打ってあげるのです。そうして一度打ってみると、前より気分が良いので、次には「来るな」と言ってもついてくるのです。分かりますか? そのような仕事をしようとするので、統一教会の信徒たちは三千里を夜昼なく、慌ただしくひたすら走るのです。
では、それは良いことですか、悪いことですか? 死ぬべき病気にかかった人を治してあげる日には、死ぬ時も「アイゴー、あの先生!」と言って探すようになっているのです。そして、医者の先生が立派で、死ぬべき病気を治してあげれば、もう一度死ぬべき病気にかかって死にそうな時、その先生を呼ぶのです。呼びませんか? 呼ぶでしょう? それよりもっと悪い病気にかかっても「アイゴー、この世には、なにがし先生しかいない。また治ればいいなあ」と。救い主と呼ばれる医者になることができるのです。分かりましたか?
統一教会の人たちは、先生から何の薬をもらったか分からないのです。統一教会の薬を飲んで少し良くなった人々は、死ぬような病気になっても、「先生ー」と言うようになっています。気分が悪いですか、いいですか? その時、病気が違うものになれば、そこには違う処方が出てくるようになります。統一教会の処方は一つだけでないことを知らなければなりません。ですから、三千里半島、世界がこのようになっているので、世界に伸び進んでいかなければなりません。これが私たち統一教会の使命です。(六三・一八一)
私たちは、金をもうけるための医者ではないというのです。生命を生かすための医者だということを知らなければならないのです。ですから私たちは、険悪な病気、病気の中でも一番治るのが難しい病気を占領しなければならないというのです。そうであるほど、名医になるというのです。(八七・八八)
皆さんが名医になろうと思えば、多くの問題にぶつかり、鍛練しなければならないのです。ですから、千人であれば千人、万人であれば万人に対するたびごとに、生命を扱うので、その生命の動向に対して検討しなければなりません。
皆さんが伝道するとき、どれほど生命を重要視しながら伝道したのか、ということを反省してみようというのです。医者には自分がどこか痛くても、体の悪い人間が訪問してくれば、彼のために治してあげなければならない責任があるのです。
もし、その病気が私にしか治せないとすれば、そして手術をしなければならないのならば、メスを執って、自分の病気を忘れ、何時間でもその生命のために対応しながら、その人のために自分の技術を投入するのが医者の道理ではないですか。そのような医者は、医者の中の真の医者だと見ることができるのです。もし、手術を終えるや否や医者が死んだとしても、その医者は、医者として真の生涯を終えた人だということができるのです。もしそのようにしてその病気が治った人がいるならば、彼は一生の間、その恩徳を忘れることができないだろうし、そのような事実を自分の後孫に遺言にしてまで残そうとするというのです。
皆さんが、将来指導者になる時には、真心から病人を治療する、そのような医者の立場に立たなければなりません。病気になった人の心霊状態が低下したときには、夜でも昼でも時間を選ぶことなく、夜通しその人と共に涙を流して、その人を治療してあげるために努力しなければならないのです。それが霊的な指導者なのです。皆さんは生命を生かしてあげるために、何日夜を明かしてみたのですか? 命を救うためにどれだけ忙しい歩みをしてみたのですか? そのようなことが、これから皆さんが霊界に行くようになれば、表彰の対象になるでしょうし、一つの人格的な基準になるのです。
皆さんは名医になりたいですか、そうでない医者になりたいですか? (名医です)。そうなりたければ鍛練しなければなりません。それを仕方なくするのでなく、研究心をもって、「私でなければ駄目だ」というそのような心をもってしなければなりません。
このような運動は多くの人々がしなければなりません。病院を設ければ、人がたくさん来なければならないでしょう。たくさん来るようにするためには、それに対する訓練が必要なのです。病気になった人が、「一度病院に行ったのだが、あそこは注射をやたらに打つんだ」と言うようにでもなれば、再度行くでしょうか? 今、病気がいくらか良くなっていても、次に薬を誤って使えば、駄目にしてしまうというのです。原理のみ言を語っても、この言葉を相手が受け取るか受け取らないかを見て、語らなければならないのです。
患者が一番喜ぶ言葉は何かといえば、医者が「あなたは、こうこう痛いでしょう?」と言えば、一番うれしいというのです。言葉は言わなくても……。(六九・一六五)
皆さん方は神様と人類に愛の注射を打つ医者であり、看護婦です。患者が「嫌だ」と悪口を言っても、気にせずにそうしなければなりません。子供たちが病気になって注射を打つ時には、大騒動になるというのです。(笑い) それでも注射を打たなければならないでしょう。「嫌だ」とみんな言いますが、すぐに分かるのです。
体の悪い人には注射が必要なのです。初めは皆さんを迫害するでしょうが、あとで病気が治れば、皆さんを理解してくれるのです。人々は、皆さんに反対したことが正しくないということが分かるようになり、謝るようになるのです。私によって、ムーニーによって、統一教会によって……。さあ、愛の注射を打つのに、逆に打っては駄目ですよ。「神様の心情!」と言って打たなければならないのです。(九八―七九)
3 開拓者としての牧会者
3 開拓者としての牧会者
P104
歴史の流れが暗澹たる方向に行く時、その歴史を創造していく立場に立った人たちは、時代的に、歴史的に、その時代において案内者になりました。しかし、このような案内者になる時までは、必ず開拓者の責任を負っていかなければならないのです。開拓者は、ある目的に向かっていく時に、誰よりも強くなければなりません。それは、新しい世界を自ら求めていくには、苦難の中で、信仰と生命まで懸けなければならない闘争が伴うからです。したがって私たちは、開拓者が行く道が難しければ難しいほど、必ず、それに比例して冒険が増えるようになるという事実を知らなければなりません。
それゆえに、開拓者は目的地に向かって、誰も知り得ない困難を打開していく責任者にならなければなりません。このような困難な過程を克服した勝利者にならなくては、開拓者の名分を備えることができないのです。ですから、開拓者を願うことは、学生が先生のような案内者を必要とするのと同じです。
今日、国家が新しい方向性を模索するような時においても、必ず案内の役割をする指導者が必要です。また、歴史上においても、やはり同じです。このように、歴史的な新しい目的を追求し、その目的を達成するためには、必ず困難な使命を負う開拓者の立場に立たなければならないのです。開拓者の立場に立たなくては案内者の役割をすることができないという事実を、私たちは、環境的与件を見てもよく分かります。
このような観点で見るとき、人類を救援する復帰摂理路程においても、やはり、神様のみ旨を中心とした案内者が必要なのです。六千年の長い歴史路程を見るとき、み旨は、個人から始まり、家庭・氏族・民族・国家・世界的摂理時代にその段階が一段階ずつ高くなれば高くなるほど、それに比例して開拓者が必ず必要なのであり、案内者も必ず必要なのです。
アダムの家庭においても、アベルがその時代の家庭を復帰していくにおいて、開拓者の使命を果たしたのちにこそ、案内者の役割をすることができるのです。開拓者の使命を果たすためには、正常な立場でない非正常的な立場に立ってでも、不利に押されていく環境に押し出されてしまうのでなく、その環境を打開して、自分が主動的な立場に立って、新しい行路を探していかなければなりません。言い換えれば、目的を成就できる方向に一致させようとする立場に立たなければ、開拓者の使命を果たすことはできないのです。
開拓者は、新しい目的を追求していく過程において、環境的に近づいてくるすべての困難な与件を、主体的立場で多角的に克服していかなければなりません。そうでなければ、開拓者になったと見ることはできないのです。それゆえに、開拓者の使命を完遂した立場で、案内者の道を行ってこそ、正しい案内者になることができるのです。
ノアの家庭を見れば、ノアも彼が生きていた時代を代表して開拓者の使命を経たのちに、天の案内役を引き受けるようになったのです。アブラハムもやはり、開拓者の使命を経たのちに、初めて相対的な権限を備えて、個人ならば個人、社会ならば社会に対して天の案内役を引き受けるようになったのです。モーセもやはり同じです。このように開拓者の過程を経なければ、案内者の責任をもつことができないのです。新しい目的地に向かっていく時には、必ず自らが探険していかなければならないのです。開拓的な内容を実地に経ていかなければならないというのです。私たちはそのような事実を、歴史を通してよく知っています。
イエス様御自身も天と地に分立された二つの世界を、神様が願われる目的の世界に帰結するためには、必ず開拓者の使命を果たす過程を経なければならないのです。それゆえに、ここに伴う冒険的過程を経て、すべての問題を打開し得る相対的権限を備えずしては、二つの世界を統合して、一つの基盤を整えて、勝利し得る決定権を立てることができないのです。そうでなければ、歴史的であり、世界的であり、宇宙的な案内役を引き受けることができなくなるのです。
それゆえに、案内者の立場を完全に備えて、全体を代表して、責任を負う立場で目的を達成するのが正しい人生の道だということができるのです。そのようになる時、初めて真なる指導者の一生が決定されるのです。このように指導者というものは、一瞬間に決定されるものではありません。人類を中心として、全体的な内容を備えて、歴史的事情を解いていく立場に立つようになる時、初めて神様の前にふさわしい指導者として決定され得るのです。(三〇・九三)
従っていく人は開拓者ではありません。開拓者というものは、先頭に立つ人をいうのです。歴史を引き継いであがめながら行く人は開拓者ではありません。そうでしょう? 歴史がない場で、歴史を創建していく人が開拓者です。ですから、学ぼうという動機をもっていく人は、開拓者だと言うことができません。そのような人は、ついていく人であり、まねていく人です。
開拓者には、歴史がないのです。決まった方向がないのです。自分自身が歴史であり、方向です。自分が誤った歴史の因縁に結び付けられるようになれば自分自身は自然に破綻し、方向が間違っても自分自身は木っ端微塵となり、その生命の本質も救い難いほど破綻してしまうのです。
ですから、開拓者に信仰の道があったなら、その信仰の道は絶対的な信仰の道なのです。水に溺れた人は助かる道を求めて、藁をも救いの綱としてつかもうとするのです。開拓者には、ついていく歴史もなく、見倣う見本もありません。自分自身が歴史であり、実体であり、自分自身が勝敗の決定を備えなければならない立場であるので、どれほど深刻かということです。開拓者とは、そのような道を行くのです。(四五・三一六)
カナン福地に向かって歩んでいく四十年荒野路程において、日々過ぎていく歳月と共に、一緒に流されていってはいけません。新しい日を準備して前進する群れとならなければ、荒野で鷹の餌になってしまうのです。私たちは、歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を切り抜けていき、あすに向かう希望の前に準備の態勢を備えなければなりません。(一九八六・五・六)
歴史上に、「私は世界のための開拓者だ」と言って出てきた人がいますか? そのような人がいるとしても、その人が歴史の受難期を逃避して歴史の開拓者となろうと誓うのなら、彼は歴史の前に糾弾を受けなければならない人になるのです。
それゆえに、世界的な開拓者となり、また歴史の前に新しい開拓者となろうと誓う人がいるならば、彼はその受難の道を、自分の当然なる運命の道として、受け入れることができなければなりません。悲惨な環境を克服していく時において、それを自分の生まれつきの運命として考え、それを成せない時には、むしろ死ぬほうがましだと思い、それを当然のことと受け入れることができなければなりません。それに対して、不平を言うのではなく、当然のこととして受け入れなければならないのです。(四五・三〇五)
より価値ある開拓者はどんな人でしょうか? 現実に価値あることを追求するのではなく、未来により一層価値あるものを追求する人です。現実よりも未来に無限なる価値を置き、そこに全心を注ぎ、そこに命を懸けて無限に努力する人です。
生命を脅かす死の道があっても、それを当然のこととして受け入れることを決意した者たちだけが、開拓者として歴史の一翼を担うことのできる資格者です。現実基準とともに未来に仕事を残そうとする人は、開拓者となることができません。開拓者はいつも現実を否定し、また否定していかなければならないのです。(四五・三一四)
今日の世界を、新しい世界として造り変えるためには、ここに非常に強い力が消費されるのです。戦争を解決する時も、それ以上の力が必要なように、全宇宙を導いていくためには、莫大な力が投入されなければならないのです。しかし、そのように投入された力を、その時点で団体に、あるいは、歴史のある時代にそのまま残すことができるかといえば、そうではないというのです。
冒険をして、闘争して、開拓し、成されてきたすべての結果は、消耗された力に比例して現れるだけでなく、反比例して現れることもあり得るということを、皆さんは知らなければなりません。百を消耗させれば、必ず百もたらすのではなく、十を、あるいは一を、あるいは一つの所得ももたらすことができないこともあり得るというのです。
このように、開拓者の生活は、消耗戦のような闘いです。しかし単純な消耗戦をもって、開拓者の道が打開されるのではありません。目的の一点に到達する時までは、消耗される時間の連続であり、消耗される生活の連続であることを皆さんは知らなければなりません。しかし、消耗された努力の代価が現れないといって、失望する人は、開拓者の隊列に同参することができません。(三〇・九八)
皆さん方は、心情世界の開拓者とならなければなりません。その開拓者が行く道は、克服と忍耐があるだけです。それが生活哲学です。そのような立場は、誰も理解することができません。大変で、非常に疲れる立場です。疲労困憊するほどに疲れる時が多いというのです。しかし、「私一人が倒れるのはよいのですが、お父様! この地上に、私のような人でもいなければ、あなたは、どれほどかわいそうでしょうか? 私が第一の希望となれないとき、第二、第三の希望となり得る、そのような息子、娘がいないことを感じれば感じるほど、あなたはどれほどかわいそうな方であるかを知るようになります」と言わなければなりません。皆さんは、そのような心をもたなければなりません。ですから、統一教会という新しい宗教を中心として、開拓者の旗を立てなければなりません。
そのような開拓者の使命を果たしてからも、恥ずかしさを感じなければなりません。「神様が、また共にいてくださった」ということを感じなければなりません。死地の交差地を通過するたびごとに、私は既に捨てられた体だと思うのですが、神様は、そのような私を一層心配してくださり、支えてくださいます。皆さんが祈祷するより、神様は皆さんをもっと心配されるというのです。ですから、祈祷する必要がないのです。心情の世界では祈祷する必要がありません。孝行する道は、父母に要求する道ではありません。行くその道が孝を証する道にならなければなりません。(三一・五四)
開拓者は愚鈍で無知な熊のようでなければなりません。熊のいとこにならなければなりません。熊は木に登って落ちれば、痛くてもまた登ります。その生活する所は、依然木の下なのにです。(笑い)
私が、熊になってみることはできませんでしたが、話は聞きました。熊のように愚鈍な根気がなければなりません。しかし、皆さんには、まだ十分でない面が多いのです。先生は、至らぬ者の隊長です。(二八・二一一)
皆さんは、開拓精神が強い人にならなければなりません。そのような決意をした人が必要です。物静かな人は開拓精神がありません。義憤に燃える人、義憤に燃え、自分の生命を惜しむことも知らず、怨讐のために決意した、そのような人に神様は役事してくださるのです。(二〇・一五八)
歴史的な運命の道を開拓する統一教会の食口たちは、どのような道を修めなければならないのでしょうか? 我々は、三千万民族と三十億人類のための開拓者です。あなた方は、目に見えないつるはしと鍬を持たされています。それではそれを、どうしなければならないのでしょうか? 後孫たちから、これをもう少しこのようにしてくれたならばという評価を受けてはいけません。我々の先祖たちが、どうしてこのような道を歩いたのかと、頭をあげて振り返らせ得る道を修めなければなりません。皆さんは、このような道を修めなければならない開拓者です。(一二・一六一)
4 天の密使としての牧会者
4 天の密使としての牧会者
P111
天のために行く人々は、サタン世界に派遣された密使です。個々人において、大きかったり小さかったり、広かったり狭かったり、高かったり低かったり差異があるかもしれませんが、各々がなしている生活自体は密使の生活を離れてはいけないのです。ここにはいつも生死の脅威が介在しています。ちょっと間違えば、永遠の生命の問題が左右される、このような立場に置かれるようになるのです。それゆえに、永遠の生命を支えることのできる、永遠なる生命を保護してあげることのできる私たちの祖国を探そうとする観念が、その環境より何百倍強くなければ、密使の生活をすることができないのです。その祖国の栄光を見つめる心をもって祖国の恨みを解いた時に、万民が喜ぶのだということを考えて、新しい歴史を創建して、祖国光復の一日を迎えるその時に自分の功労が表れることを思いながら、現在の立場を無視してしまうことができなければならないのです。そのような心が先立たなければ、密使の使命を遂行することができないのです。言い換えれば、祖国光復のための希望が現実の希望より千倍、万倍強くなり得る心になってこそ、きょうの生命と取り替える恨みがあったとしても、それを克服して密使の使命を遂行できるのです。
もし、そのように責任をなしていて、不意の事故で犠牲になったとしても、その場には新しい責任者をもう一度派遣することができるのです。彼は既に死んだとしても、彼の友人になることができるし、彼の側に立つことができる人々が生まれるのです。彼が模範になる立場で生きてきたので、たとえ彼が犠牲になったとしても、そこには彼の側になることのできる人々が残るのです。このような人々が残っている限り、神様はその基盤の上に代身者を送ることができるのです。しかし、そうできない立場で死ぬようになるときには、そこで彼がどんなに苦労したとしても、それで終わってしまうのです。(二九・四〇)
神様はどのような方であられるのでしょうか? 神様は密使の大王であられるのです。祖国光復のため、サタン世界に現れた密使の大王であり、総指令官であられるのです。それでは、そのような神様が、この地に対して「私が神様であり、私が教えることのできる真理はこれだ」と、六千年の間に一度でも主張した時があったでしょうか? ありませんでした。けれども、神様は私たちの清い良心を通して指示し、因縁を結ぶために苦労してこられました。私たちの心の根本を広げることによって、一致させることのできる自由な世界に引っ張ってきたのが六千年復帰摂理の歴史です。
このようなことの総責任をもち、この地に来られる神様の息子には、密使の使命を外的、内的に連結させなければならない使命があるため、外的にぶつかる怨讐のような環境の困難は、内的面において神様と一致することのできる刺激的な内容になるのです。困難な環境が分立させるのではなく、むしろ密接な内容として一つとなることができるようにさせるのです。ですから、そのような所には、必ず神様が現れて、祝福して、神様が共にあって闘ってくださるということを認定せざるを得ないのです。(二九・四九)
このような立場で、皆さんはどのような姿勢を備えなければならないのでしょうか? 祖国光復のための信念が、何よりも一層高く胸の中に燃えていなければなりません。言い換えれば、六千年の間、神様が待ち焦がれてきた祖国を建設する旗手となり、先鋒に立つ精鋭部隊の一員として、開拓者になるという、この大変な使命に責任をもつ自負心を感じなければなりません。やって来ては去っていった数多くの人々が、もつことを希望したが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時しかない、特権的な使命を負ったという厳粛な責任感をもたなければならないのです。
ですから、食べて、寝て、行って、来るすべての生活が、祖国創建のためのものでなければなりません。神様から特別に派遣された密使として、凛々しく立派にこの使命を遂行しようとして行ってくれることを、神様がどれほど待ち焦がれていらっしゃるでしょうか? 今までは、ひどく追われて、ひどく追い回されました。国家の足場を備えて全体の内容を提示し、一度も広げることのできなかった天のそのみ旨、祖国を建てることのできる、そのようなみ旨を立てなければなりません。今まで、そのみ旨を一度も立てることができなかったのです。しかし今は、そのような祖国を建てることができます。その祖国には主権があり、その祖国には国土があり、その祖国には国民がいます。また、そこには単一民族の血統が因縁を結んでおり、他の民族がもつことのできない歴史があります。そのような祖国のために、私たちは密使の使命を遂行しなければなりません。そのような使命を自らが早い時期に完遂すればするほど、祖国光復の基盤が自分によって次第に近づいてくるというのです。きょう苦労の代価を支払うことが、祖国光復の一日を近くに迎えることのできる基盤となるのです。このような事実を思いながら皆さんは、生きて密使の使命を完遂しようという決意をもっていかなければなりません。そうでなければ、これから、神様が私たちにもたらしてくださる世界的祝福と天運を、私たちのものとして迎えることができません。(二九・四一)
密使が取らなければならない態度とはどういうものでしょうか? 自分が生き、死ぬことが問題ではありません。密使はいつも生死の脅威を受けており、死がいつもその前に立ちふさがっています。ですから、生死の境界線から死を踏み越えた立場にいる神様の代身者であるのです。三十八度線を越えてみた人は、その気分が分かるかもしれませんが、密使は国境線を越えるそのような冒険の世界で、死の足場を踏み消すことのできる確固とした生活態度を取らなければならないのです。
同じように、今日私たちが、新しいみ言を伝えるにおいて、み言だけを伝えていては駄目です。まず人間的な面で手本となり、生活的な面で手本となり、行動的なすべての面で手本にならなければなりません。すなわち、その村で、上下関係や、すべてのことで彼らの前に手本にならなければならないのです。どの面においても、彼らより劣ってはいけないというのです。彼らが「あの人は、私たちの村で本当に必要な人だ」と言うことができ、自分が去ろうとする時には、部落が一致団結してそのまま続けてここに住んでほしいと願う基盤を築かなければなりません。そのような基盤を築かなくては、私たちの立場で目的を成就するということは、大変に困難なことです。
皆さん方は、そのような生活をしてみましたか? 自分が生まれた民族の前に、二年、三年、十年の歳月の中で、一日でもそのような生活をしてみたかというのです。密使の使命を完遂することで責任がすべて終わるものではありません。その民族や国家で祖国の目的を達成させるための特命を受けて派遣された、そのような人がいるとすれば、その使命を十年や二十年かけても達成できないのです。また、自分一代において、その使命を果たすことができず、代身者を立てて使命を引き継がせていかなければならない人たちもいるのです。ですから、このような特命を中心として、いつも気を遣いながら、それこそ、生きた祭物のような立場で自分の責任を遂行しなければなりません。その責任を展開させることができ、収拾することのできる一人の責任者にならなくては、密使としての目的を成し遂げることは不可能だということを知らなくてはなりません。
このような観点で見るとき、生活態度やその他のすべての面で違わなければならないのです。その部落において、誰も責任をもつことのできないことを自分の当然なる責任として考え、責任を負うことができなければなりません。その部落を身代わりして打たれることがあれば、その打たれることが、密使として責任を完遂することのできる一番早い道です。部落のために打たれ、死ぬことなく進んでいくようになる時に、部落が全部屈伏するようになるのです。(二九・三九)
密使は、いつも祖国のために生きる人なのです。本然の主権者が神様であられるので、「お父様、お父様だけがいらしてください」という生活をし、その姿勢をもたなければなりません。私たちは、今どのようになるか分からない立場なので、私が死ぬとしてもお父様と共に死に、追われるとしてもお父様と共に追われ、追い回されるとしてもお父様と共に追い回され、闘うとしてもお父様と共に闘うという心が密使の生活圏内からなくなってはならないのです。秘密があれば、心を集めてその主権者の前に報告しなければならない責任をもっている人が密使です。ですから、そのような心をもっていくにおいて、死の道を、十の峠を越えたというからには、十の峠以上の実を結ばなければなりません。結び得ない時は、神様の前に裏切り者となってしまうのです。
共産党たちがスパイ教育を受けて、南韓に下ってきて南韓の実状を見ても、なぜ自首できないのでしょうか? その背後には、他人には分からない密使の生活の中で、今自分が住んでいる南韓の生活よりも、何百倍も熾烈な困難な峠を克服して越えたことがあるので、環境的な現実問題にならないのです。ですから、彼らは自首せずに、再び北に帰っていくのです。(二九・四九)
天が作戦を立てて展開してくる苦衷(=困難)となる環境を克服して、自分の足場を発展させることができなければ、祖国の運命を決める大きな責任を完遂することができないのです。ですから、祖国のための大きな使命を見つめるたびごとに、密使の使命を帯びた人の態度と行動が深刻にならざるを得ないのです。
例えば今、北韓がスパイを南韓に送っています。このスパイたちが、南に派遣されるためには、まずスパイ生活をするための訓練を受けなければならないのです。では、訓練を受ける時に、何をまず習得しなければならないのでしょうか? 南韓のすべての風習を習得しなければなりません。言葉も南韓の言葉を話さなければならないし、生活もやはり、南韓の生活方式に慣れなければならないのです。彼らは南韓の生活にどれほどよく適応するかによって、自分の生死問題が左右される、そのような運命が懸かっているのです。
ですから、生活環境をすべての専門的な分野にまで吸収することのできる自分自身をどのようにつくるかということが、スパイ訓練の原理になっているのです。言葉や生活的な習慣において、今まで南韓で生きてきた人たちの前に少しでもぎこちなかったり、おかしく見える面があってはいけないというのです。平凡で、普遍的な環境を、そのまま自分の生活の中で表現化して生活しなければならないのです。
北韓には、北韓の人たちの風習があり、北韓の人たちの生活習慣があり、北韓自体の社会的な制度があるので、そのようなものが我れ知らず、ある環境で現れるものです。それにもかかわらず、このすべてのものを除去してしまい、他の国の人、または、他の地方の人として行動するということが、どれほど難しいことでしょうか? 二重三重の神経を遣わなくてはならないのです。何かの行動を一度するのに、あるいは、言葉を一言言うのにも必ず二回、三回考えて、注意しなければならないのがスパイたちの立場であることを、私たちは推し量ることができます。
もし、その行動や口ぶりが南と少し違うとか、生活習慣が少し違うという時は、それが、自分の正体がばれ得る一つのきっかけになるのです。このように、自分が生きてきた生活環境とは違う所で生きなければならないのがスパイの生活なのです。そのような生活をしようと思えば、内心においてどれほど苦痛が大きいでしょうか? また、そのような生活に浸るためには、どれほど多くの訓練をしなければならないでしょうか? このような生活を私たちもしているというのです。
地方にいる私たち統一教会の責任者は、今は少し良い立場にいますが、草創期には、それこそスパイと同じであり、特命を受けた密使のような立場で生活せざるを得ませんでした。それでは、そのような生活をするためには、どのようにしなければならないのでしょうか? 自分の主張を訴えて、それをその地方の全体に適用させようという態度を取ってはいけないのです。
ところで今日、私たち統一教会の責任者たちが今まで歩んできたすべての過去の出来事を推し量ってみる時、このような生活をしてきたかといえば、そうでないというのです。その地方に行くや否や自分の所信のまま、内心にあるものをすべてさらけ出して、周囲の人がどのように思おうとも、自分だけが独走する立場でみ言を伝えたのでした。このような行動が私たちの活動に大きな支障を招来したことを、私たちはもう一度回想せざるを得ません。
天の密使としての使命を担ったのですか? そうでなければ特使の使命を担ったのですか? 怨讐の世界というものを忘れてしまい、その国全体を身代わりする特使の任務に責任をもつように、今まで私たちが勝手に行動してきたので、ここで言うに言えない犠牲の代価を支払ったのです。(二九・三三)
皆さんが、今み旨を中心として新たに覚悟しなければならないことは、「神様から密使の特命を受けている私の体である」ということです。ですから、自分自身が行動一つ誤ることによって、その環境に及ぼす影響は自分一人にだけ局限されるものでなく、祖国という広大で大変な内容に連結されるという事実を知らなければなりません。(二九・三六)
皆さん方は、新しい密使です。神様から新しい命令を受けて、新しい世界に立った皆さんです。今、皆さんは深刻にならなければなりません。威信をもって村の人々に対してはいけません。皆さんの生死問題が懸かっているし、今までの世界問題が懸かっているのです。ですから、深刻な心をもって、新しい運命と共に私の基盤を築き上げ、密使の任務を果たさなければなりません。サタン世界に倒れることのない基盤を築くために、自分の生活態度を良くしなければなりません。そうであるにもかかわらず、昔そのままの習慣をもって、新しい命令をしてもしなくても気にせず、私のしたいままするという心をもっては、神様のみ旨を成すことができません。
新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うものです。新しい現在の視点と、過去の視点が互いに違うというのです。過去の段階と現在の段階とは、全く違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意をもって、新しい環境の基盤を備えなければ、新しいみ旨を成すことができないのです。
摂理の段階も、一段階、二段階、三段階、このように段階的に上がっていきます。ですから皆さんは、次の段階に上がるために、自ら実践できるという心をもたなければなりません。そのようにして実践したことが、環境に適応されるとき、これをどのように、実として得ることのできる個体となるかというのが問題となるのです。このような問題を見るとき、皆さん方はまだよく分かっていません。十年前に入ってくる時のその心でも現在の心でも先生に対し、神様に対するのにおいて同じだということです。今の心がその時の心より劣っていれば押し出されるようになるのです。
今まで、神様が復帰してこられた過程には、天の秩序であるとか、天の礼法であるとかいう、すべてのものが加重されてきています。加重された、このような時代圏に自分が立っているにもかかわらず、昔、世間知らずであったその時の心より、さらに劣った心をもっていていいでしょうか? 部落での密使の使命と、道での密使の使命は異なります。事情が違うのです。また、一国の主権を中心として、密使の責任をなす時にも異なるのです。過去と同じ能力をもってしてはいけないのです。ですから、新しい命令と新しい指示がある時には、その命令に従って自分の生命を投入して、再出発をしなければなりません。過去にしてきたその基盤をもっていてはいけません。再投入をしなければならないのです。(二九・四六)
皆さんは、祖国を立て、祖国を輝かせ、祖国と共に住み、祖国内で死ぬことのできる自分にならなければなりません。今まで天の前に、誰もその責任を負うことができず、一時に一度しかできないこの厳粛な責任を、疎かにしてはなりません。一度聞いて十考え、一度聞いたことをもって十種類以上のものと比較しながら進まなければなりません。天の運勢をここに現すためには、自分が千回恥をかいたとしても、それを気にせず、また、百回死の道があるとしても、それを気にせず行こうという信念をもって進む時、神様が皆さんの行く道を守ってくださるのです。なぜならば、先生が今まで歩んできた生活の中で、そのたびごとに神様がお見捨てにならなかったことを体験したのですから、皆さんも神様が保護してくださることは間違いないのです。
ですから、祖国光復のための一つの主体的な使命者として、自分が引き受けた一つの道なら道、一部落なら部落で、この責任を遂行する人は私しかいないという信念をもって、絶対に後ろに退いてはいけません。ここで裏切り者になってはいけません。天命に適う責任を果たせなくては駄目です。責任のない裏道においては、この道を越えることはできないのです。
寝ることもしないでやらなければならないし、食べることができなくてもしなければならないし、追い出されながらもやらなくてはならないし、死ぬとしても決定を下して死ななければなりません。皆さんがこのような決定的な使命を遂行しようと、新たに決心していく時、皆さんの行く道は、当然開かれるのです。しかし、そうでない時には、先生が皆さんを立たせて、信じ望んできた希望の世界、光明の世界が、逆に暗闇の世界になるのです。先生はこのような問題を心配しています。それでこの時間、皆さんの前に残してあげようと思うのが、「密使と祖国」という問題です。
神様が、この国を訪ねられたその目的を達成して、すべての民族が挙国的に神様の名前を賛美しながら、栄光の一日を万世に誇ることのできる、その時がいつ来るでしょうか? この使命を失うことなく、これを求めるのが私の生涯の目的であると誓いながら行くことのできる皆さんになる時に、皆さんの将来に祖国光復の希望の日が近づいてくるのです。そうでない時は、皆さんの前に受難の道が来るようになるのです。また、皆さんが責任を果たせないことによって、その結果が三千万民族の前に残されるようになることを知らなければなりません。
密使は、その姿が良いからといってなれるものではありません。また、能力が多くてなれるものでもありません。密使の使命は、神様と心情が一致した立場に立って、その国の風俗を正しく立てると同時に、絶対的に忠誠を尽くし、その環境を収拾しなければなりません。これだけなせば、その日には、天の主権者である神様の直接的な命令を受けた代行者の立場に立つことができるのです。そのようになれば、神様が責任をもたざるを得ないというのです。皆さんが、密使の責任を負うようになれば、そのみ旨は必ず成就されるということを、先生は何年もの経験を通じて知っています。皆さんも、このような行動をしていくことを願うので、きょう少し語ったのです。(二九・五〇)
5 牧会者の使命
5 牧会者の使命
P122
皆さんは、何を復帰しなければならないのでしょうか? 嘆息圏にある万物を復帰しなければならないし、人類全体を復帰しなければならないし、地獄にある霊人たちまでも復帰しなければなりません。それでは、その次には何を復帰しなければならないのでしょうか? 神様の悲しい心情を、喜びの心情として復帰してあげなければならないのです。(四・一二九)皆さんは、
①血統を通して神様の息子、娘であることを証し、
②真理を通して神様の息子、娘であることを証し、
③生活を通して神様の息子、娘であることを証し、
④仕事を通して神様の息子、娘であることを証することのできる、
一つの基準を探し立てなければなりません。その一つの基準を探し立てることができなければ、皆さん方が教会に出て信仰生活をすることは、お使いをしているにすぎなくなるというのです。(三・四〇)
公的なことは歴史が保障し、時代が保障し、未来が保障してくれます。すなわち、歴史性と時代性と未来性を帯びているのです。歴史始まって以来、公的使命を完遂した者はいませんでした。皆さんは、「公的な使命者」という信念をもって闘ってほしいと思います。ところで、一つ肝に銘じなければならない事実は、「私が公的使命者」として立つようになったのは、私自ら公的使命者として立ったのではないということです。その因縁は、はるか遠いものです。皆さんは、神様の公的な利益と私たちの先祖と現実のいろいろな環境を打開するために、その位置に立つようになったのです。(一一・二七〇)
使命というのは、第一に歴史的でなければなりません。その次に世界的でなければならないし、その次には未来的でなければなりません。このような三時代の使命を私たちは負うのです。(四六・一五一)
皆さんが知っているように、きょうは収穫の日といい、「子女の日」だと言いました。今日この地上の堕落した私たち後孫たちは、多くの収穫の日をもちました。春に種を蒔けばそれが夏に育って、秋を迎え結実したその結実を自分のものとして刈り入れてきました。そして刈り入れたその結実を、またさらに植えることのできる日を待ってきました。今日人間たちは、刈り入れた喜びと蒔く喜びをもってきましたが、神様はまだ刈り入れに喜びをもつことができませんでした。また、刈り入れて、新しい種を取り、もう一度蒔くことのできる喜びをもつことができなかったというのです。蒔いておき、因縁をもち、その蒔いた芽から再び十倍、百倍、六十倍、三十倍以上の収穫をする望みの日を、神様はもってみることができなかったというのです。
このようなことを考える時、今日、このごろは遅い秋ではありますが、統一教会の信徒たちにおいては、取り入れた穀物、刈り入れの実に対する時には、過去に刈り入れた人の立場で刈り入れては駄目だというのです。
私の手で取り入れた一株の穀物、一つの種は、この天地万物を造られたお父様が、その愛の心情の園の中に、愛する子女たちの手を経て蒔かれることを願われるでしょうから、その願われる願いを、私を通して実践することができる代身者の立場に立って、取り入れ、蒔くことができる皆さんにならなければなりません。それでこそ、今から取り入れることができる人になるだろうし、今から蒔くことができる人になれるというのです。(一五一・一〇八)
大きな愛は、完全なところからなされるのです。分かりますか? (はい)。統一教会が有名になり、統一教会の時が来れば、皆さんが花開くようになります。花が開くようになれば、皆さん方の花の色が変わらなければならないし、その次には、香気を漂わさなければなりません。色が変わらなければなりません。そうですね? (はい)。成熟期に入って、花が咲くようになる時は、色が変わるようになります。ですから、花が出てこなければならないし、香りが出てこなければなりません。皆さんが香りを漂わさなければなりません。
統一教会の神髄の、隠れた愛の花を咲かせ、隠れた愛の香りを漂わすことのできる、このような愛の粉(注:花粉)にならなければなりません。愛の香りでこの世の浄化作業をするのです。それは、どうですか? この世を浄化しよう、大学にも、農村にも、都市にも、学界にも……、この香りが震え動くようになる時、この世では嘆息する人がいるはずはないし、自ら「唯我独尊」と言って、自分自身を中心として万々年、主体になろうと主張する人はいないのです。それが当然の道理です。上がったら下がらなければならないし、下がったら上がる、それを知るのです。今自分が、「私は、時を迎えたので、今、下がらなければならない」、それを知るのです。全部がそうなので、万年歴史を周波数のように生きようというのです。そのように見れば公平だというのです。公平です。(一六三・一二二)
私たちは倍達民族にならなければなりません。倍達とはどういう意味ですか? 倍達民族は配達夫民族です。(笑い) そうではないのですか? 遠く離れた人を待つ時、その人の便りは誰から来ますか? (配達夫です)。手紙で来るでしょう? その手紙は配達夫を通して来るのです。そうでしょう? (はい)。その手紙を受け取れば、いいですか、悪いですか? (いいです)。ところで、皆さんの中に配達夫をもてなしてあげたことのある人がいますか? 首を長くして手紙が来るのを待っていて、配達夫が手紙を配達してくれればいいと、受け取って部屋に走って入っていく人はいますが、昼食の時間になったから昼食でも食べていってくださいと、配達夫をもてなす人はいないのです。配達夫はかわいそうだというのです。数多くの人々に情のこもった便りを伝えてくれますが、月給をもらって配達夫に税金をあげる人がいますか? 一度でも配達夫を丁寧にもてなしたことのある婦人がいれば、手を挙げてみなさい。かわいそうな人を一度ももてなさなかったということです。
統一教会の人たちに、配達夫の使命を行うように言ったのですが、家ごとに良い便りを持っていってあげる配達夫になりましたか? 配達夫が手紙を持っていってあげながら、「きょうの天気は本当に暑い盛りだなあ。汗がどうしてこう出るのだろう」と言いながら、広い板の間に上がって、「冷たい水を一杯持ってきてくれ」と主人に言う配達夫がいますか? 配達夫は蔑視を受けるというのです。そうでしょう?
倍達民族とは配達夫民族です。これは、私たち統一教会を指していう言葉です。私たちは、愛の配達夫にならなければなりません。神様の愛を世界に配達する配達夫になろうというのです。これはどんなにすてきなことですか? 何民族ですか? 倍達(配達)民族だというのです。
また、白衣民族とは何のことですか? 死んだ人の葬式をする時、白衣を着ませんか? (笑い) 白衣は表紙として使われます。白衣は何に使うのですか? 表紙に使われるのです。真っ黒な夜中に真っ赤なものが表紙になり得ますか? 真っ黄色なものがなり得ますか? 真っ白な色しかないのです。真っ黒の天地において表紙になり得るものは、白色だというのです。死亡が満ちた暗黒世界では、神様の愛を中心とした白衣だけが表紙になることができるのです。先生は統一教会を中心としてこの仕事をなしてきたといえます。(三四・三五七)
今私たちが願う希望の基準とは何でしょうか? 神様が探している真の父母を中心とした、真の子女を中心とした、本然の縦を中心とした神様の家庭を立てて、その家庭に天地万物を主管するようにさせるためのものが神様のみ旨であることを知ったからには、今日、皆さん方のすべての考えと、皆さん方のすべての生活の中心と、皆さん方のすべての活動や行動全体の内容に、この一つの目的を完結させるための責任をもち、この一つの目的を完結させるために心配し、この一つの目的を完結させるために闘う……。そのような信念をもとうとする、確固不動な自分にならなければなりません。このようにならない限り、お父様のみ旨とは永遠に一つになることはできないというのです。(一五二・一八六)
先生が今まで何度か「伝統を立てよ」と言いました。この言葉を皆さんは何度も聞いたはずです。伝統を正しく立てなければなりません。伝統を立てられなければ、滅んでしまうのです。伝統とは、その国の愛国思想を連結させて立てるのではないですか。ですから、思想的伝統を立てる時期は、この時代しかありません。分かりましたか?
皆さんが妻と共にこの時代を迎えたという事実は、本当に驚くべきことです。世界が統一されることよりもっと難しいことです。世界統一はここから始まるのです。ですから皆さんは、どの時代のどんな人よりも幸福であり得るのです。そのような立場であるので、そこには、悲しみと喜びが擦れ合っているのです。そのような悲しみと喜びをすべて消化させることのできる主体性をもたなければならないのが統一信徒、特に地方教会に責任をもった皆さん方の使命であることをよく知らなければなりません。
皆さんが教会長の時代に、天国の伝統的路程がこうこうであるということを万民に見せてあげ、間違いのない道、高速道路のような道を敷いてあげなければなりません。そのようにすれば、皆さんは千年万年、彼らの血の中に、肉の中に、精神の中に生きて残るでしょう。分かりますか? (はい)。うれしいことがあっても、石碑が立っている皆さんの墓を見つめるだろうし、皆さんが行き来していた山があれば、その山を行き来しながら、歴史を吟じながら、「この喜びをあなたが受けてください」と称えながら、皆さんに喜びを返そうとするのです。皆さんは、そのような祖先になるでしょう。それは生きがいのある人生です。分かりましたか? (はい)。
一生の間、大路で思いっきり食べて、笑って、踊って暮らしてから墓に行けば、福になることがありますか? そのような人の墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人の墓には、その国が生きている限り花が咲くでしょう。(四六・三四七)
6 使命に対する自覚
6 使命に対する自覚
P128
万民に対して、自分が責任をもっていく立場、民の生命に責任をもっていく立場、あるいは、自分が身を置いている郡ならば郡、面ならば面にある、数多くの生命に責任をもっていく立場は、一人お父様と関係を結ばなければならない祭物の立場であることを知っております。心から、お父様の前にささげることのできる自分の価値がどんなものであるかを確定し、あなたは全知全能であられる方で、完全なるお方であるので、あなたの前にささげられた一つの祭物も、完全なるものとしてささげられることを願う心をもって、すべての精誠を尽くし、すべての忠誠を尽くし、お父様の前にささげる生活が生涯路程とならなければいけないということを、我々は知っています。(四七・二七九)皆さん、「シルバー・ストリート」という映画を見ましたか? その映画を見た人は手を挙げてみなさい。おお、多いね。全くそれと同じですよ。今、人間の生命が地獄に向かって走っているのです。運転手がおらず、今、正に走っているのに、その中で踊りを踊って「ああ、いいなあ」と、今、扉の壁にぶつかっているのに「ハハハハ」と笑ったりしているというのです。
では、それを知っている人はどうしますか? 知っている人は冒険をしなければならないでしょう。知っているなら、じっとしていられるかというのです。神様が見られる時、そこに自分の息子、娘たちがたくさん乗っているのに、「いいなあ、いいなあ」と言われるでしょうか? 「ああ、あれで当然だ」、そう言われるでしょうか? (いいえ)。それを知って、自分の生命を覚悟し進んでいくようになれば、その人が地獄に行く人でも、天国に連れていくのです。そうして蘇生すれば、天国に連れていくことができるのです。
今、国が滅び、世界が滅びる、世界が今地獄に走っていく、このような状況なのに、そこで冒険をして私が死ぬようになれば、地獄に行くだろうかというのです。最高の天国に行くことができるのです。それが何のことか、分かりますか? (はい)。そのような考えをしなければなりません。皆さん方はそのような人になれ、というのです。そのような人をつくろうというのです。それは悪いことですか? (違います)。そう、不平はないですか? (はい)。(九一・三一六)
第四節 牧会者の責任
第四節 牧会者の責任
P130
1 牧会者とは選ばれた者先生の一生のモットーは、「神様の代弁人」でした。きょうから、皆さんは天的な代弁人になってくださることを願います。そして、神様の代役者になりなさい。また、神様の代身存在となりなさい。さらには、神様の代死者になってくれることを願います。(九・七)
伝道師(引導者)は、その地方の祭司長です。寝ることもしないで、人々のために福を祈ってあげなければなりません。多くの人を助けてあげるために、祭物を扱わなければならないので、精誠をささげる苦労をしなければなりません。祭事には、実体(引導者)と主人(神様)が一つ(一体)となってこそ応答があるのです。(九・八〇)
伝道地では、自分の骨肉が溶けていくような感情をもたなければなりません。「お父様! 私はこんなに足りません。それでも私が行かなければならないので切ないのです」という祈祷と心情で、壇上に出て説教するようにしなさい。自分を中心としないで、父母と天地を身代わりし、神様の通牒文を持って進む、神様の精兵だと思いなさい。(九・八〇)
皆さんが民族を身代わりして闘っていき、その部落、その面、その郡、その道のために責任をもって出ていくからには、その立場は、皆さんが一人悲しみ、一人訴える立場ではないことを知らなければなりません。皆さんは、そのような立場にいればいるほど、み旨と人類のために悲しみ、人類のために訴え、人類の将来のために神様の側に立って闘わなければならないのです。皆さんは、そのような立場で、天の協助を受けて闘わなければなりません。
神様が地上に一つの中心を選び立てるためには、偽りの心をもって訪ねてこられるのではありません。御自身の肉の中の肉であり、骨の中の骨であり、骨髄の中の骨髄の心情を注いで、一つの心情的中心を選んで立てられるのです。このような立場が本当の「真」です。これは歴史上一度しかないことなので、最高の情熱と最高の心情を注がずには、一つの真の基準を立てることはできません。ですから、神様は個人的にもそのように訪ねてこられ、家庭的にもそのように訪ねてこられ、民族的にもそのように訪ねてこられ、国家、世界的にもそのように訪ねてこられたということを知らなければなりません。
それでは、今日、私たちはどのような人たちなのでしょうか? そのような伝統的な因縁によって選ばれた者たちであるので、私たちの心と血と肉には、その思想と伝統が植えられていなければなりません。(一四・一〇)
皆さん自身、私たちによって世界が、宇宙が回っているのです。ですから、皆さんの祖先は上にいて、これから皆さんの後孫はこのようになって、この線で皆さんの祖先と後孫が回ることができるのです。そのような驚くべき役事が今、起きているというのです。皆さんが、どれだけ大変な位置に立っているのかということを、皆さんは知らないというのです。皆さん方が軸なのです。(九五・一〇七)
2 召命に対する姿勢
2 召命に対する姿勢
P132
天は私に対して要求しておられます。「新しい世界を建設せよ」というのです。既にほつれて乱れてしまった事件を、解決せよという責任を与えてくださったのです。それでは私はどんな立場にいるのでしょうか? 私の一つの個体は、なくてはならない存在です。人類のものであり、世界のものであり、お父様のものであるからです。
不足な民族であり、不足な私たちですが、召命を受けた私たちは、おそれ多い心情をもたなければなりません。国家、民族のために全力を尽くしていった人々も許されなかったのに、私たちを呼び出して息子としてくださったという事実を考える時、感謝する心と、おそれ多い心情をもたなければなりません。(九・三四四)
先生が二十歳前の幼い時期に、この大変な天のみ旨を知り、天的な大命を受けたその日から……。このとてつもなく大きなことを、神様が約束すると同時に、それを感じて、それを希望にしていかなければならない自分は、その大きなことをそのまま受け入れ、そのまま自分のものとすることができずにいることを知りました。持ちこたえるのにあまりにも大きく、それを受け入れるためには、内外にすべてのものを備えなければならない自分自身の責任が、どれほど大きいかということを切実に感じざるを得ませんでした。
前に置かれている大きな目的を見つめて、喜ぶことよりも、その目的に対して責任をどうやって果たすか。その責任を果たすためには、自分自らに任せられた生活過程において、私が受け持たなければならない義務感と責任感が、どれほど大切であるかということを感じざるを得ませんでした。その感じる分野が、個人を越えて、家庭を越えて、氏族を越えて、民族、国家、世界まで伸びていくのです。(一五六・一〇七)
皆さん、ここにダイヤモンド鉱があったとしましょう。自分だけ知っているそのような所があれば、どうしますか? 他人に知られないように許可を出してもらいますか、もらいませんか? そのためには、自分の家、財産も売らなくてはならない場合も生じるでしょう。自分の妻を売って多くの家庭を救うのであれば、それは罪ではありません。自分の息子を売って、その国の多くの息子、娘を救うのであれば、それも罪ではありません。しかし、自分の欲心のために売ってはいけないのです。したがって、その鉱山がこの国、この民族を生かす道であり、世界万邦の人間たちが生きることのできる道であるというときは、その許可を得るために、妻と息子を売ったとしても歴史の罪になることはないのです。私たちが国を生かすために、世界を生かすために、妻や息子を売ることは、いけないようですが、そこにはむしろ世界が褒めたたえることのできる宝物の根源が宿ることができるのです。
皆さん考えてみましょう。今現在、私たちが行く道はどんな道ですか? 「最後の道だ」と言いました。ですから、その生きがいを無限に感じることができなければなりません。もう一度新しい自覚をもたなければなりません。(二一・三一四)
私がアメリカに来て闘うのは、誰かが脅かすからですか? 自ら願ってこの闘争をするのです。どんなに迫害を受けてもはね返して進んでいくのです。それで皆さん方は、どのようにしなければなりませんか? 自ら願って、それ以上しなければなりません。強制によってそれ以上しなければなりませんか? 強制によってでも、それ以上できないのなら、滅んでしまうのです。簡単だというのです。理論的に簡単だというのです。
それで皆さん、自願教会ですか、何ですか? (自願教会です)。自願でなければ、ここからみんな出ていって、稼いで食べて生活していくほうがましだというのです。ここに来て伏せている必要はないというのです。御飯が恋しくて、出世が恋しくてここにいますか? 成功が恋しくて? (必要ありません)。ないのです。皆さんはムーニーです。迫害を受けたりするのは、召命を受けたからです。人類を身代わりし、歴史の代身となり、天地の代身となって召命を受けたので、それは不可避的です。
召命の責任を果たせない限り、死があるのみです。どんな価値もないということを知らなければなりません。御飯を食べて生活すること自体が恥ずかしいことです。女房を連れて生きるということが恥ずかしいことです。先生は、そのようなことをすべてはね返して、この仕事をしているのです、それをすべて否定して。それは深刻な場面です。違いますか? どんな場面ですか? 皆さんはどうですか? 皆さん、先生の顔を見にここに来ましたか? (いいえ)。使命があるからです。私が言うことは、皆さん方に何か朝のあいさつをするためのものではありません。使命をもって話をするのだということを知らなければなりません。(一二八・四六)
いつも時代の責任者は、自分が優れていて選ばれたと考えてはいけません。多くの先祖の功績を通して、多くの犠牲の代価を支払って、その立場にいるという事実を……。私が優れていて、私が立派で大衆から搾取するのではなく、より大衆のために行くことができる主権者の姿勢をもたなければならないというのです。統一教会でいえば、統一教会を主とする国家ではなく、国家を救うための統一教会です。世界を自分のものとして造るための統一教会ではなく、世界を生かすための統一教会にならなければならないのです。このようになる時は、いつも天が共にいるのです。分かりますか?
ですから、この伝統を知って、責任者となった人たちは、仕事をしなければなりません。責任者となった人たちは、自分が優れていてこの立場に上がってきたと考えるなというのです。(一三〇・三〇四)
信仰の道では、召命を受けるのも難しいのですが、その召命を受けてから、それに従っていくことも極めて困難だということを感じるようになるのです。
ですから、皆さんが信仰の道を行くのにおいて、どのような心の姿勢をもたなければならないかといえば、いつも円満に心の門を開けておかなければなりません。空気をパンパンに入れたゴム球のように、心を丸くして、誰にも偏らずに対することができなければなりません。そのような立場をとって進んでいかなければ、信仰の道において必ず冒険が起こり、ひっくり返る路程が起こるのです。私たちは、このようなことを往々にして感じることができるのです。
心がいつもくぼむことなく、主体的な立場に立つと同時に、円満な立場に立っているためには、いつも自分自身を磨いていかなければなりません。そうでないまま激越なる立場に立つようになれば、その激しさによって心が傾いてしまうようになるのです。悲しい立場に立てば、衝撃を受けるようになって、自分の本性からずれて、心がめげてしまうようになるのです。ですから、いつも自分の心性を中央に位置するようにしながら、自分の心性がどのようにならなければいけないかということを知って、それを調整することができる生活態度が必要だということです。
ちょっと考えてみれば、心を気球のように思うことができます。心が気球のように高く浮かび上がっているようになる時は、すべてのことが貫徹されます。しかし、この気球が、低気圧になれば、スーッと降りてくるように、心も下がってくる気分になる時があります。そのような時には、その基準でそのまま前のような姿勢でいれば、これは必ずめげてしまうのです。
下がってくる立場に立つようになれば、必ずもっと下がっていくし、その後、反対に押して上がっていかなければならないのです。それでは下がってくる時には、どの程度まで下がってこなければならないのでしょうか? どん底まで下がっていかなければなりません。一番下まで下がっていくようになれば、反作用によって再び上がっていくようになるのです。気圧がしきりに下がっていく立場で、ある基準まで下がっていけば、逆に反作用によって上がっていく立場に立つというのです。
したがって、皆さんは下がっていく立場を守るのか、でなければ現在の立場で押して上がっていく作用をするかして、心の基準を調整することができる信仰態度が必要だということです。(四〇・六九)
3 牧会者の資格
3 牧会者の資格
P137
①牧会者が供えるべき資格私たちは、何の代身とならなければならないのでしょうか? 皆さん自身は、例えば顔が良いわけでもないし、何の経歴があるわけでもないし、持っているものもないけれど、心は最高の基準を願うというのです。どんな代身者となるのでしょうか? 家族に責任をもつことができる代身者になるのはもちろんですが、さらに進んで国の代表者、世界の代表者にならなければなりません。そのためには自分自身が世界的な基準をもたなければなりません。
この世界的な基準をもとうと思えば、絶対的な基準に近づかなければならないのです。しかしまず、家庭の中心を通さなければ、民族の中心を経ていくことができません。また、民族の中心を通さなければ、国家の中心を経ていくことができないし、国家の中心を経なければ、世界の中心に出ていく道理がありません。皆さんは、このような事実を知らなければなりません。
今日、歴史の方向がこのようになっているので、数多くの人々は、自分を中心としてその国の主権者になりたがるし、責任者になりたがります。さらに進んでは、世界の指導者になりたがります。しかし、そのような人は、まず家庭の門を越えなければならないし、氏族の門を越えなければならないし、民族の峠を越えなければならないし、国家と世界の峠を越えなければならないのです。そうしてこそ、世界的だといえるのです。この世界的だというのは、一等だということです。一等にならなくては駄目だというのです。(二四・二五六)
一番問題になるのは何かといえば、皆さん方は神様の所有権を決定しなければならないというのです。一人の男性、女性として、神様が、「お前は永遠に私の娘、息子だ」と言うことができなければなりません。息子、娘という名前だけもっていては駄目です。息子、娘の、そのすべての中心的な素性、性稟の中心的すべてのものを総合させ得る愛の主体性をもつことによって、神様がそれを希望することができ、立てたいと思わせる息子とならなければなりません。
「お前は、私の愛する息子だ」と言えなければなりません。息子だというだけでは駄目なのです。「お前は本当に私の愛する息子だ」、そう言えなければなりません。その言葉が必要なのです。なぜでしょうか? 堕落により、歴史的な傷を残した我々の先祖の歴史を知っておられる神様であるからです。アダムは、本当の息子になれずに堕落したというのです。ですから、「お前は私が本当に愛する息子である」と言い得ることが必要なのです。
それを公認してもらうのに、どれほど努力しなければならないか分かりますか? 努力してみましたか? 神様がおられる祭壇があったとすれば、教会壇上があれば、そこで涙を流して、そのような公認を受けなければなりません。高い山に上がって、祈祷しなければなりません。「あなたの愛だけが、私のすべての必勝の盾となるのですから……」と言って。教会の責任を負って、数多くの生命の一つの真の芽となり、彼らを接ぎ木して復活させてあげなければならない責任を負った者が教役者ですが、自分自身が、神様の愛を受けることのできる息子としての公認を受けられない立場に立って、数多くの人たちの生命を指導するということは、言語道断です。(二一・二二三)
皆さんは、イエス様が神様の身代わりとして証をなし、神様の身代わりとしてサタンと闘い、神様の身代わりとして亡くなられたのと同じように、そのようなイエス様のために証していかなければならないし、イエス様のために闘わなければならないし、イエス様のために死ぬことができなければならないというのです。
さらに皆さんは、そのような立場に立ったのちに、自分を証してくれる、もう一人の食口をもつ人にならなければなりません。そのようになれば、イエス様を証した使徒たちがいたように、皆さんも自分を証する人が生じるのです。すなわち、皆さんが神様の息子、娘だといえる立場に立つためには、皆さんは変わらない神様の息子、娘だと証できる一人の食口をもたなければならないし、皆さんのために闘ってくれる食口をもたなければならないし、皆さん自身のために死んでいくことのできる食口をもたなければならないというのです。(三・一四三)
復帰は受けてするものではありません。復帰の道は開拓して進んでいく道です。サタン世界のものを受けていては、復帰の歴史をなすことができません。天のものを与えなければなりません。与える時に何を与えなければならないでしょうか? 真なる心情を与えなければならず、真の人格を与えなければならず、真のみ言を与えなければならないのです。
そのためには、真のみ言の基準を立てなければならず、真の人格の基準を立てなければならず、真の心情の基準を立てなければなりません。個人的に、家庭的に、国家的に、世界的に、全体的な基準の真なるみ言と、真なる人格と、真なる心情を立てなければなりません。この範囲を広げ、世界的な一時を用意して、世界全体の蕩減基準を立てるための責任者として来られる方がメシヤです。その方は深刻な歴史の背景を中心として来られるということを、皆さん方は忘れてはいけません。(一四・一二)
自分に新しいものがあれば、これを誰にあげようかと考える人は、滅びません。それでこそ、周囲の人たちにはもっと良いものをあげたい心が残るようになるのです。自然屈伏は命令をしてなされるものではありません。自分自身が隠された立場で実践することのできる人であってこそ、統一教会の責任者となることができるのです。また、その地区なら地区、地域であれば地域に責任をもつ位置で、勝利できる専門家として神様の前に行くことができなければなりません。そうして、自分が願っていた天国が建てられる立場に立って、その専門的な権威を永遠にその環境に残すことが、神様の願いであることを知らなければなりません。(二九・一一六)
教役者(伝道者)は、何よりも経験がなければならないし、伝道対象者に衝撃的な心の動揺をもたらすようにしなければなりません。(二三・二四九)
皆さんの中で、地区長であれば地区長生活を十年以上したという人があると思いますが、それが重要ではありません。十年でなく数十年間したといっても同じです。数日前には、地域長として十七次まで引き継いでいる人が何人かいると報告を聞きましたが、十七次でなく、百八次を受けていたならどうしますか? そんなことよりも、そこで人を中心として心酔してみなければなりません。そのようにしてみることができない人は駄目です。資格がないというのです。
神様の愛を中心として、人と人同士で会って夜を明かし、未来を語り合い、また、太陽を見つめながら、太陽に詩を詠み、あるいは流れている川の水を見つめて、何かを感じるとか、どんな文学作品にも感じることのできない感情を、人と人の因縁を通して感じてみない限り、神様の息子、娘になることはできないのです。それを感じながら生きてこそ、人としておもしろみがあるのです。
世間で何か大きなことを一度してみようとするならば、大きな心をもって、そこに対して準備をたくさんしなければなりません。人は準備がなくては、大きな目的を成し遂げることはできないのです。ですから、目的が大きければ、そこに対備する大きな準備が必要です。長い期間の試練と、あるいは鍛練を経た準備が必要だというのです。準備がうまくできなければ、成功できる時が来ても、その目的を達成することはできないのです。
昔からずっと英雄、烈士たちが、この地上に多く来ては去っていったけれども、その英雄烈士たちが国家的な仕事や、あるいは世界的な仕事を成就するには、必ずその成就され得る環境的な基盤を磨かなければならなかったというのです。環境的な基盤を磨かなければならなかったのです。また、どんなに環境の基盤ができたとしても、神様がいて、時を合わせてくださらなければ成功することはできないというのです。環境とこの天運、そして時というものが必要だというのです。時があるというのです。(一五六・九)
では、飛行士一つになるためにも何十年を……。宇宙飛行士になるためには、費用をどれほど多くかけて準備しなければならないでしょうか? また、それに対する知識がどれほど豊富でなければならないかというのです。「ただ単に、統一教会でも既成教会でも、私たちアメリカの生活でも、ただそのまましながら行けばいいのではないか」という人は、許すことができないということを知らなければなりません。私たちは、死の障壁を突き抜くために、死の障壁を撃破するために行くという事実を知らなければならないというのです。それなのに、寝ることができますか? 自分の思いのままにできますか? できないというのです。しっかりと原則的な基準を立てて行かなければならないというのです。(一二四・一七九)
②牧会者がもたなければならない誇り
私が来たのは、皆さん方を滅ぼすためではありません。皆さん方を苦労させるために来た人ではありません。皆さんの家庭を、世界を助けるために来たのです。皆さんの息子、娘が、世界の息子、娘として歓迎を受けられる日が、皆さんがこの峠をすべて越え、世界万民が涙をのんで私たちを呼んで歓迎することのできる時が来ることを私は知っているので……。
私は独り寂しい六十年の生涯を歩んでくる間、天を信じ、天を知り、間違いない事実であることを知るようになったのです。今は、私は独りではありません。世界に同志がいます。世界を指導する数多くの人々が私の行く道をあがめ慕い、しっかり闘ってくれと願い、先頭に立ったことを分かってくれているので寂しくないのです。
そのような師に、皆さんは侍り、その命令の前に勇士の旗印をもって進むという驚くべき事実、これは天地の前に誇ることができることです。歴史が消える恨みがあったとしても、この勝利の席は消すことができないという信念をもって涙で誓い、前進する時には、必ず神様が共におられるということを皆さんは感じるのです。生きておられる神様を発見するのです。(一六六・一七九)
皆さんは注目の主人公たちです。見るに足りない皆さんですが、皆さんは注目の主人公たちです。「たとえ私の手には何もないけど、この手を通して世界に向かうことのできる道が連結している。私のすべての視線を通して神様の視線が連結されている。私の感情を通して心情の根が連結されている。私が行く一生の行路を通して、天の摂理の方向が駆け回る。私の五官を通して感じられる感覚、感性は全部、天が注目する主人公として感じる感性である」という自負心をもたなければなりません。
膨大であり、大変な歴史的終末時代において、その誰よりも信任することのできない孤独な立場におられる神様の前に、私たちが信任の対象になることができるとするならば、それ以上願うことがありますか? それ以上願うことがあるかというのです。死んでもいいというのです。私の肉身が水になって流れていっても何の恨みがあり、粉となって飛んでいっても何の恨みがあるかというのです。この世には犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。死んだ者は犬も食わないというのです。(六二・一四〇)
公職で仕事をするのは、父母の身代わりとして仕事をすることです。ですから、工場で仕事をすることが重要なのではないのです。勝共連合で仕事をすることが重要なのではないのです。どんなことが重要なのですか? 教会の地域長、地区長、父母の版図を広げていく伝統的な路線で仕事をしていることが何よりも重要なことなのです。(四四・一四五)
4 牧会者の責任
4 牧会者の責任
P144
①責任の動機は神様この地上に生きている人々は、誰もが責任を負って生きなければならないことを私たちは知っています。家庭を考えてみる時、父母に父母としての責任があれば、子女には子女としての、その父母の前にしなければならない責任があるのです。また、その家庭は社会と国家の前に責任があるのです。一つの国においても、その国は世界の情勢、世界の歴史路程において、神様が任せてくださった責任を負っているのです。世界を見ても、その世界は一つの宇宙を指向する摂理路程の前にある段階的な過程で責任を負っているということを私たちは知っています。このように上がるようになれば神様も今日、この地に対して歴史過程を経ながら責任を遂行するのに苦労しておられるということを私たちは知るようになります。
責任が落ち着く場所は、いくつもあるものではありません。個人が生まれて責任を果たすのも、その責任の動機が個人にあるのではなく、自分の国にあるものでもありません。最終的には、神様が動機となるのです。
家庭が負うべき責任の動機も、家庭にあるのではなく、ある国家の形成の動機も国家にあるものでもなく、また世界が動機になるのでもなく、その動機はすべて、神様に帰結されるのです。ですから、その動機の起源を探してみた時に、神様からでないものはありません。それでは、その動機によって千態万象に展開して我々の前に与えられたその責任も、神様が動機となっているので、結局神様の責任と一致せざるを得ないということは、言うまでもない事実です。
このような点から見るとき、私たち人間には心が願う責任があり、体が願う責任があるのです。それでは、心が願う責任とは何ですか? このすべての責任を与えられた神様の目的を中心として、その目的を成し遂げるのです。ですから、心はこのような責任を果たせと命令しなければならないのです。ですから、私たちの心は、その命令をするためにあるのであり、神様の目的を成就するためにあるという事実を知るようになります。(二六・二一四)
②牧会者の責任
私たちは、瞬間瞬間にも、責任のない生活をすることはできません。責任を負わなければなりません。責任を負うということは易しいことではありません。ある団体の責任を負うとすれば、その団体の方向を提示しなければならないのです。ある家庭の責任を負ったとすれば、必ず方向を中心として、責任が起こってくるのであって、方向もなく、ただむやみにするのでは責任者になることはできません。
歴史的な責任者になるためには、現在の歴史観を通して過去をその方向に一致できる責任的内容をもって進まなければなりません。そのようになる時、彼は責任者としての役目を果たしたといえるのであって、そのようにできなくなる時には、その責任者に責任追及というものが起こってくるのです。歴史的に追及するのであり、時代的に追及するのであり、未来的に追及するのです。このように見たとき、きょう一日の瞬間が、どれほど大変な瞬間であるか、ということを知らなければなりません。
成功は他の場所で始まるのではないというのです。ある相対的なものから始まるのではなく、私から始まるのです。私を中心とした時間圏内で左右されているというのです。時間圏内で左右されるのですが、その時の方向設定いかんによって、千態万象に変わるのです。それによって、千態万象の変形が、変化した状態が、そこで展開されるようになっているのです。(六八・二一三)
皆さんは何に責任を負わなければならないのでしょうか? 一番目は霊界に責任を負わなければならないし、二番目は世界に責任を負わなければならないし、三番目には後孫に責任を負わなければならないのです。この道が今日統一教会の人たちが負っていくべき復帰の道であり、統一教会が負っていくべき運命の道です。(二四・二〇〇)
皆さんはどんな指導者にならなければならないのでしょうか? 真の父母のような指導者にならなければなりません。その次には? 祈祷をして作戦を立てなければなりません。その次には真理を普及しなければなりません。このようなことが、指導者がしなければならない重要な仕事だということを知らなければなりません。普及はどこから受けるのですか? 神様から。作戦はどのようにするのですか? 神様の作戦法を学んでするのです。神様の作戦法を学んで最高の作戦計画を立てるのです。
その次には、私が指導者の責任を負ったので、その誰も侵犯することのできない、ただ一人の責任者である私が立つこの立場は、真の父母の立場だという信念をもって、神様と共に和合して作戦を行うのにおいて、まず知らなければならないのは天の法度です。これは先生が経験を通して皆さんに語ることなので、そのまま実践してみなさい。そうかそうでないか、一度やってみなさいというのです。分かるでしょう? (はい)。そのようにすれば間違いなく、今後皆さんの行く所は発展するのです。(四六・三〇〇)
いったん責任を負えば、その人は先生の代身者です。何か事があれば、その時の決定権はその責任者にあります。それを決定するためのすべての材料は、周囲の人々が集めて与えてくれるようになります。その材料を根拠として決定するのは、責任者でなくてはいけません。重大なことを決定するために責任をもつ人は、真剣な祈祷をしなければならないのです。自分の気分のまま、自分の思いのままに決定してはいけません。神様の仕事に責任をもつ今、重大なことを決定しようとするのですから、ここで間違いなく神様は役事してくださるでしょうけれども、相対の位置にいる人にも神様は役事してくださいます。責任者は、そのようなことも総合して決定しなければならない重大な責任をもっているということを、皆さんは知らなければなりません。(一五・一九〇)
私がイエス様を信じるといっても一遍に「イエス様!」と言ってはいけません。橋を架けていかなければならないのです。私たちの平面的生活において、橋を架けるために、例えば、教会であるならば、教会に行くようになるならば、その教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は、自分の目的を達成しようとする人ではありません。もし、そのような人がいれば、その人は指導者になれないということを皆さんは知らなければなりません。指導者には、中間の橋を架けてあげなければならない責任があるので、訪ねてくる信者たちのためにそうしてあげなければならないのです。(三二・一六五)
皆さん、私が統一教会の責任者であり、皆さんは教会長です。教会長であれば、その教会の管轄の郡であれば郡の山村、あるいは峠を越えた遠い山里の田舎の奥深く、新しい時の到来を知らずに生きている農家の家を訪ねていって、「天が愛する人がいた」と言って、捕まえて涙を流してみましたか? この者たち! 自分の足が削られるように、郡であれば郡全体を、自分の喉がはち切れるように、自分の目が見えなくなるように、自分の耳がふさがるように叫んでみましたか? 座ってただで得るものを願い、気の狂った鬼のようにあちこち行って、「自分の事情を分かってください」と言う立場に立っては駄目だというのです。それは通じないという事実を知らなければなりません。それを通していく団体があったとすれば、その団体は滅びるのです。
「私が抜けて悲しいし、私が入ってうれしい……」、先生はそのようなことは眼中にもないのです。昔、イエス様の弟子たちが、イエス様をおいてどうこうするうちに、みんな滅んでしまいました。どちらもみんな滅んだのです。何のことか分かりますか? (はい)。私たちのための私です! 私たちのための私だというのです。その私たちは統一教会に限った私たちではなく、神様のための私たちです。(七一・一三三)
今日私たちが、この統一の理念を前に置いて、険山峻嶺に向かって走っているのを、バスとか自動車にたとえてみる時に、皆さんはここに乗る運転手と同じです。困難な行路を走る、目的に向かっていかなければならない時間が決定されていて、どうせその期間内に行かなければならない復帰的な数理の路程が残っていることを知って、その道を走っていく、制限された期間内にその道を突破しなければならない責任を負った運転手だというようになる時には、困難であればあるほど、時間が短ければ短いほど、そこに比例してそれ以上、何倍か以上の悲壮な覚悟と非常な精神力を投入して、ハンドルを回さなければなりません。そうでなければ、その道を突破することができないということが常例だというのです。
そのようなことを私たちが知っているとするならば、今日この国家的危機、世界的危機、めちゃくちゃになって出てきたすべての現実的な事態を見るようになる時、この道をうまく回りながら、うまくハンドルを切りながら、目的地まで引っ張っていくことのできる、この国、この民族を指導することができるハンドルマンは、どこにいるでしょうか? このように考えてみる時、これが心配とされるのです。
先ほど、教会長も語りましたが、私たちでなければこの民族を救うことができないというのです。そのような言葉を聞いて、答えれば答えるほど私たちの二つの手と一つの精神は、必ずこの国とこの民族が行く道において、ハンドルを握った運転手のような責任を負わなければならないのです。
けれども、その人が行く道は坦々たる大路ではありません。折れ曲がった険山峻嶺、今まで歴史始まって以来誰も行かなかった道、その道を制限された時間内に行かなければならない運転手のような責任を負ったというような立場になる時に、現在この瞬間に走っているとしても、今から走らなければならない残された道を心配せざるを得ないのです。今までのすべてのことは過ぎ去りましたが、これから行かなければならない険しい路程が残っているので、この先近づいてくる路程の前に私自身を心配し、私自身をそこに対備し、準備しなければならない立場に立つようになる時、私自身がどんな態度を取り、どのように収拾し、この難関を突破すべきだろうかということが問題として提起されるのです。
このような立場で皆さん方が今、私たちの行く道をもう一度見つめ直すようになる時、私たちは開拓された道を行くのではありません。開拓しながら行かねばなりません。開拓しながら行かなければならない、このような立場に置かれていることを、皆さん方は知らなければなりません。(一五二・六一)
この韓国に立てられる国とはどんな国でしょうか? 南北が互いに流通し、交流するようになる時、共産国家が立てられるのか、今日の大韓民国としてそのまま置くようになるのか、どちらでもない新しい国を追求するのでしょうか? このような問題をおいて見る時、私たちの時代が次第に近づいてくるのを感じるようになります。皆さんがこれを支えて責任を負うべき統一の群れであるならば、そこに対する責任感をどれほどもっており、また、ある程度の犠牲の代価を払うことができる決意ができているかというのです。君たち、自信がありますか? (はい)。三十八度線を越えて、北韓五道の市郡を中心として、私たちの基地を造らなければならないのではありませんか?
人員が足りないこの時に、誰があの北韓の地、定州ならば定州の責任者になるでしょうか? 考えてみましたか? 定州の郡であれば定州の郡を中心として、私が教会長にならなければならないと、十年、二十年準備して、それでも駄目なら後孫の前に「お前、一生懸命勉強して、一生懸命準備して、その日を迎えたなら、定州の地に天の因縁を身代わりする教会長となれ」と遺言して死ぬことができる精誠をささげる皆さんになってみましたか? 先生は今までそれを考えて準備しているのです。
そのようなことを考える時に、若い者たちが地方に帰って自分の息子と婦人たちを連れて、「へへへ」と笑って生活するようになっていますか? 生活するようになっていますか、いませんか? (なっていません)。死んでも国は残していかなければなりません。死んでも息子たちに国は残してあげていくべきでしょう。新しい決心をしなければならないというのです。「私は、あの蘇満接境の一地方に行って共産党と額を突き合わせて、朝夕銃の音を聞きながら、国境地帯の見張りの役割をなす教会長にならなければならない。国が分かってくれなくて、誰も分かってくれなくても、生命を引き換えにしても、その国を愛する忠節の思いは変わらない」という決心をしなければなりません。それで満点なのです。世間が分かってくれなくてもかまわないというのです。霊界に行けばすべて明らかになるようになっているのです。
このようなことを考えてみる時、人が足りないということを皆さんは知らなければなりません。人が足りないということを知らなければならないのです。かかしのような男でもラッパをかつがせて、あるいはロボットを造って北韓の地に送ってラッパを吹かせたいのが先生の思いであり、神様の思いです。口をもった、感情をもった男性として生まれて、それも二十歳、三十歳の若い心と体をもっているのに、原理のみ言を行えないというのは話になりません。
目玉が腐ってしまうくらいに、夜寝ずに勉強をしなければなりません。腹が減って骨だけ残ったとしても、準備しなければなりません。そのようにして骨だけ残ったやせた体が、天の愛を根こそぎ受けることのできる体になり得るというのです。神様がそのか弱い、一人の男性ならば男性に、期待をすべてかけることができるのではないかというのです。
怨讐の地に入って責任を果たそうと思えば、南韓の地で修練をしなければなりません。揉まれなければなりません。闘いもしてみなければなりません。死ぬことを覚悟する立場で、不忠の道理ではなく忠の道理を残して、倒れていく姿を立てても、「天の同情は嫌だ」と言うことのできる父親になろうというのがどれほど悲惨なものですか? 神様がそうであるので私もそうあらざるを得ないのであり、神様がそのような道を経ずしてはこの地上に正常な伝統を立てることができず、人間を愛したという条件を立てることもできないので、神様はその道を治めてこられたということを確実に知らなければなりません。(四九・一一四)
③怨讐までも愛してあげなければならない
この宇宙の中で一番の難物は何でしょうか? 一番難しい問題とは何でしょうか? 一番大きな十字架とは何かというのです。それは何ですか? サタンです、サタン。この責任を誰が負うかというのです。「私が責任を負います。私たちが責任を負います」と言う時、神様が「よし、お前が責任を負え」と言える私たちとなったなら、サタンに対する神様の苦痛の種はなくなるでしょう。皆さんが、サタンに責任を負いますか? (はい)。神様も六千年間サタンの首を断ち切りませんでした。六千年間讒訴してすべて……。
そのようにしてきたのですから、どれほど憎いでしょうか。どれほど憎いか、皆さん考えてみなさい。全知全能の神様も今まで六千年間苦痛を受けてきたのに、そのようなことに責任を負う統一教会の信者たちは、どれほど苦痛を受けるでしょうか。皆さんがサタンに責任を負うとすれば、サタンが皆さんのもとで、素直に順応するでしょうか? サタンが責任を負うようにほうっておくでしょうか? どうでしょうか? (順応しないでしょう)。
そのようなことに誰が責任を負うのかというのです。誰が責任を負うのかです。責任を負おうとすれば、サタンを防御できる秘訣をもってしなければなりません。サタンができないことをしなければなりません。サタンは破壊的存在であり、魔手的な存在だというのです。破壊する存在だというのです。サタンは、善なる存在があれば、ただ何でも破壊しようとするのです。ですから、サタンができないことで何がありますか? サタンに勝とうと思えば、反対に、悪なるものを私たちが破壊しなければならないのです。
では皆さん、善なるものを破壊するのがたやすいですか、悪なるものを破壊するのがたやすいですか? どうですか? また善なる人が悪くなるのが易しいですか、悪なる人が善になるのが易しいですか? どうですか?(善なる人が悪くなるのが易しいです)。サタンはエデンの園でも、善なる人を悪につくり変えてしまった大将です。
では、その責任を負うことができますか? (はい)。答えれば「はい」と言いますが、それを考えてみよというのです。考えてみましたか、皆さん。皆さんに今、共産党をすべて任せ、サタンをすべて任せれば、「ああ、待ちに待った贈り物ですから受け取ります」と言いますか? (はい)。もしそのようになったなら、皆さんは共産党の救世主になるでしょう。サタンの救世主になるのです。このような問題にまで、責任の領域が拡大されるということを考えてみなければならないのです。
そのような問題を処理することのできるすべての原則を探してみる時、何でもないというのです。それは、「信じてあげ、ためにしてあげ、愛してあげる」しかないのです。皆さんが十字架を負わなければならないというのです。そのほかには、可能な道はないというのです。皆さん、それが良いですか? (はい)。それを考えてみなさいというのです。人を信じるということを考えてみて、人のためにするということを考えてみて、人を愛するということを考えてみなさい。これは、本当に難しいことです。自分が自分を犠牲にさせることは難しいのです。
皆さんは人を信じ、人のために行い、人を愛することを、心からできますか? 仕方なくするのか、心からするのかという問題においては、どちらですか? 神様はどのようにされると思いますか? 神様はどのようにされるか考えてみましたか? これは神様も大変なことではないでしょうか。神様御自身も、それを無難に「心から成した」と言える実験を通して、証拠として立てたいのではないかというのです。完全に信じられない立場、完全に「ために生きる」ことができない立場、完全に愛することができない立場に立たされたにもかかわらず、信ずることができ、「ために生きる」ことができ、愛することができたならば、それは完全なものだというのです。(七二―三一八)
④責任遂行の心の姿勢
任命を受けた人々には、必ず引き受けた責任の量があります。職場において、課長であれば課長、部長であれば部長として任命を受けたならば、そこには、必ず引き受けた職責に従い、その人が成すべき責任量があるのです。また、その責任量を完遂するのには限界点があります。永遠になすのではありません。ある期間に、限定されているのです。(三二―五八)
責任を負う前に、どのような心をもたなければならないのでしょうか? 責任を成し遂げられなければ、命と引き換えというくらいの信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決しようという、大変な解決点が生まれるようになるのです。(一九―一四二)
いったん責任を負えば、その次には戦闘です。お前が負けるか、私が負けるか、という闘いをしなければなりません。その闘いで皆さんは、皆さん一代に、少なくとも反対の立場にいる三人以上を自然屈伏させ得る基盤を固めなければなりません。
神様には、手段や方法が、絶対に通じないことを知らなければなりません。また、一生、み旨の前に、受けるための立場に立っても駄目なのです。み旨の前には、ただ与える立場に立たなければならないのです。
既成教会の責任者は、怨讐サタンに対して闘う以上の信念をもって闘わなければならないし、生死の問題を提示して進まなければなりません。それは簡単なことではありません。一次、二次、三次と続けて進んでいかねばなりません。
このような基盤の上で、皆さんが、神様のみ旨のために、南韓各地に押しやられるようになるときに、皆さんの背後で神様が見つめておられるし、千々万聖徒と、天軍天使、そして皆さんの善なる先祖たちが、皆さんの一つの個体の動きを見つめているのです。ですから、統一教会の運命は、皆さんの双肩にかかっているのです。統一教会の運命だけでなく、この民族の運命と世界の運命が、皆さんの双肩にかかっているのです。
このような、大変な焦点に自分自身を立てて、神様と共に行き、神様が願っておられた人類と共に行かなければなりません。そのような人たちは、彼らが行く正しい姿勢の前に、神様が擁護してくださるのです。
皆さんは、「お父様が摂理の中心となる個人を探されるために、どのように犠牲になられたかを知っております。私を中心として、私の氏族を探し、私の民族を探すことのできる天的な代身者として行くことを願うので、お父様、共にいてくださいますように」と祈祷しなければなりません。これは、どれほど厳粛な祈祷ですか? この地上の数多くの地域ごとに、そのような人を立てたいのが神様の願いではありませんか?
今日私たちは、そのような厳粛な使命感をもってこの仕事をなさなければなりません。真に与えよう、そして耐えよう、勝利しよう、人類の前に血と汗と共に、真実を与えようというのです。真でなければ、歴史に残ることはできません。(一四―一三)
皆さんは、責任に対しては、世間で最高にかわいそうな人となり、また責任を担うためには、すべての精誠を尽くさなければなりません。「私のなせることはすべてなして敗者となるときには、私はその盃を快く飲みます。それ以上の能力がないので、滅びてもいいし、私が統一教会の指導者となれなくてもいいし……」先生はそう考えるのです。神様がおられるならば、そのような人を絶対滅ぼすようにはしません。絶対滅びません。「お前ができなかったならば、私がする。私が責任をもとう」というように、既に神様が、責任を負おうという心をもって来られているのです。そのような心性をもって一貫していくようになるとき、神様は、そのような息子が失望し、絶望するようには絶対されません。それは私が、歴史的体験をたくさんしたから分かるのです。非常なことをするので、非常な奇跡が起こるのです。分かりますか? 人の心や、父母の心や、神様の心は、同じなのです。みな同じだというのです。(八一―三一四)
自分が責任をもっていた部落を去るようになるとき、その部落に来た当初に「こうして、このようにします」と祈祷したことに対して責任を果たしていない場合、「もう一度来よう。私がこのようにしたかったことを果たせず去るのだから、もう一度来よう」と思って、涙を流しながら、背を向ければ、その人の道が開かれるのです。何のことか分かりますか? 「ああ、この部落は悪い所だから、私をここから全く違う所に人事異動してください」。これは誤りです。(笑い) 自分が良い所に行くならば、ここは誰が責任を負うのかというのです。自分より劣った人が来て、責任を負うことができますか? 自分より優れた人が来て責任を負うとすればどうですか? 自分より優れたその人は、もっと良い所に行くべきなのにです。深刻な問題です。
ですから、責任部署から去るようになるとき、自分が責任を果たせなかったなら、「お父様、私は今去ります」と我れ知らず、止めどもない涙が流れる、そのような心の主人公にならなければなりません。去るときは、「天よ、なし得る最大の努力をなしました。夜も昼も、一切の心、この上ない精誠を、すべてささげました」と言える立場、天が見ても、それ以上できないという立場で去るようになるならば、その人がその立場でなすべきことのすべてはなし得なかったとしても、自分がなした価値以上を、天は報いてくださるのです。皆さんは、それを知らなければなりません。(五六―三三)
私たちの任された責任を黙々と果たせば、責任を果たしたとしても不足感を感じ、良ければ良いものとして、天が喜ぶ前に私が喜ぶことはできないし、悪ければ悪いものとして、私が悪いとする前に天が悪いと思うのでは、と心配する皆さんにならなければなりません。そして自分を忘れて、全体のために忠誠を尽くすことのできる、実績基準をもって進まなければならないのです。それが、天に従っていく子女の道理だということができるのです。(一五五―二四四)
⑤創造本然の責任を負う勝利の勇士
これから、皆さんがみ旨の代身者となり、地方や、ある場所に送られるようになるとき、皆さんは自分自身に対して、責任を負うことができなければなりません。自分に責任を負えない人には、他の生命を任せるわけにはいきません。自分に責任を負うことのできる者でこそ、他の責任を負うことができます。自分に対する責任を負ったあとでこそ、この理念を立てることができるようになります。そうでない者には、理念を立てることはできません。
神様は今まで、私自身に責任を負うことができるという者を、天地の中で見いだすことができませんでした。しかし、皆さんが自分に責任を負っていけば、それが出発の起点になります。民族も、世界の思潮も、すべて責任所在の圏内で動いているのです。私たちが食べる御飯も、着る服も、私たちに責任を問うています。責任を負うことができなければ、万物に対する面目がなくなります。ですから皆さんは、全体の前で責任を負うことのできる者となってくださることをお願いします。そのような立場に立ってこそ初めて、神様に対して、「創造主であり、お父様であり、主人である」と言うことができます。
人間は堕落してから、責任を負うことのできる立場を失ってしまいました。真の父母の前に真の子女となることができず、真の主人の前に真の主人の者になることができませんでした。
神様は、万物に対しては絶対者であり、人間に対しては父母であり、天地に対しては真の主人であられます。皆さんは、出発の目的をどこに置いていますか? 神様を身代わりすることのできる実体となることができますか? 神様は真のお父様であり、真の主人であられるので、私たちは、これを身代わりすることのできる立場まで進んでいかなければなりません。そうでなければ、生命の主人を無視することになります。
私たちは、絶対者に対しては生命を、真の父母に対しては愛を、真の主人に対しては忠誠をささげなければなりません。そうでなければ、創造主の真に満ちた生命と、真の父母の真に満ちた愛と、真の主人の真に満ちた道理と、因縁を結ぶことはできません。自分自らに責任を負うことができなければ、すべての隣人と因縁を結ぶことはできません。
皆さんの中には、自ら統一の使徒であることを自負する人が多いと思います。しかしそれよりは、主体に対する対象の価値に責任を負う人にならなければなりません。このような人は、永遠不変な価値の存在として公認されます。皆さんが地方に行くようになるときには、責任を負うことのできる創造主の立場、父母の立場、主人の立場を身代わりして行かなければなりません。万物は神様がいなくて嘆息するのではなく、神様の代わりに責任を負える人がいなくて嘆息するのです。皆さんは、自分自らに責任を負わなければなりません。責任を負うべき所があれば、雪が降ろうと雨が降ろうと、行かなければなりません。
神様は、創造主としての、絶対者としての、真なる父親としての、真の主人としての責任を負っておられます。ですから、復帰摂理歴史をなしてこられたのです。もし、神様がこのような責任を負われないとすれば、復帰だとか天国だとかということは、あり得なくなります。神様は裏切られ、追い出されたとしても、絶対者の立場をほうり出されません。神様は、絶対者として、父親として、真の主人として責任を負われます。皆さんも、絶対者の責任、父親の責任、主人の責任を代わって負わなければなりません。
責任を負うことのできる資格がないといって拒否しないで、父親としての責任、主人としての責任を負って進まなければなりません。神様は三方に責任を負っていかれるのに、皆さんは一方だけでも責任を負わなければなりません。皆さんが責任を負って地方に行けば、その地方の万物は、皆さんがどのような価値をもった存在であるか分かります。環境が証してくれます。どのような証をするのでしょうか? 「あなたは、私たちの生命を救ってくださる方であり、お父様の化身であり、私たちの地域の主人である」と証してくれるでしょう。すべてのことを皆さんに任せて、ささげたい心が動くでしょう。
皆さんが創造主として、父親として、真の主人としての責任を代わって負うとすれば、どこに行っても、天地が皆さんを助けるでしょう。皆さんは、絶対者の責任、父親の責任、主人の責任を負わなければなりません。それに責任をもって進めば、絶対に排斥を受けません。今日、すべての人々は、自分の行動と、自分の生命と、自分の心情に責任を負ってくれる人を探しています。このような社会が、理想社会です。責任を負って、命を覚悟していけば、同志がたくさん現れます。
皆さんが地域に出ていくとき、生命をつくられた創造主としての責任、父母としての責任、主人としての責任、この三つの責任を負わなければなりません。そうできなければ、絶対者の代身者、真の父母の代身者、真の主人の代身者に、絶対なることができません。これさえもできないなら、存在世界から追放されるしかありません。責任を負うことができなければ、絶対服従で侍らなければなりません。ですから皆さんは、自分に責任を負うことのできる立場に立たなければなりません。絶対者の代身となり、真の父母の代身となり、真の主人の代身となって、責任を負う勝利の勇士とならなければなりません。天は、そのような存在を待ち続けておられるのです。(一一―一三八)
5 任命を受けた者の使命に対する姿勢
5 任命を受けた者の使命に対する姿勢
P161
任命を受けた人たちには、必ず引き受けた責任の量があります。職場において、課長ならば課長、部長であれば部長として任命を受けたなら、そこには必ず引き受けた職責に従い、その人が成すべき責任量があるのです。また、その責任量を完遂するのには限界点があります。永遠になすのではありません。ある期間に、限定されているのです。それでは、その期間とその量は、どれくらいになるでしょうか? 皆さんの一生を七十年、八十年、あるいは百年として見るとき、この一世紀圏内においてどれほどのことをなすことができるかが問題となるのです。また、どのようにしなければならないのでしょうか? 他の人と同じように忠誠を尽くすというとき、そのような忠誠の量を満たすためには、他の人が十時間だとすれば、私も十時間し、他の人が十年なすようになれば、私も十年なさなければなりません。そうすれば、同じようになすことができます。しかし、その人より早くしようと思えば、十時間以上をしなければならないのです。
そのためには、そこに加重される努力と精誠が必要です。例えば、時間は十時間しかないのに、他の人より早く目標を達成するためには、どのようにしなければならないでしょうか? 加重された努力と精誠を投入するしかありません。ですから、寸時を惜しんで、すべての精誠をみな傾けなければなりません。寸時が勝敗を決定することを感じながら生活する人であるならば、その人の一日は輝く一日となるでしょうし、その一日は永遠なる価値の世界と通じることのできるものとして、永遠なる世界の因縁の上に立つようになるでしょう。
任命を受けて、使命を完遂するのには、必ず期間があります。家を建てるときも、どのように建てるのか、またいつまでに建てるのかに対する、全般的な設計をしなければなりません。このように、ある設計のもとで着手しなければならないように、私たちも、一定の設計のもとで任命を受けて、仕事に着手しなければならないのです。その仕事にいったん着手したならば、与えられた期間内に完遂しなければなりません。与えられた期間内に完遂するにおいて、その設計以上の完璧を期して期間内に完成するようになるとき、そこには、必ず表彰するようなことが起こってくるのです。
与えられた期間内に、設計よりももっと完全になしたというときは、それは正常的になしたものではありません。非正常的になしたものです。それは何でしょうか? それは、その人の努力と精誠が加えられたので、そのようになすことができたのです。設計どおりになしたなら、何の問題も起こらないでしょう。それは誰でもできます。しかし、設計以上の完璧を期しながら、設計者が計画した時間を短縮させるのは、誰もができることではありません。
それでは、今日任命を受けた者として、もつことができる特権とは何でしょうか? この特権というものは、固定された量を、指定された期間に完遂しなければならない特権をいうのではありません。それは誰でもできることです。任命を受けた者の特権は、誰も干渉できないもの、設計者も干渉することができないものです。すなわち、絶対視することのできる権限でなければならないのです。十時間、同じように仕事をし、同じように寝たとしても、その時間に多くを考え、また、その仕事に苦労をし、精誠をささげることが他の人の倍になるときには、その人によってなされた結果を、この宇宙は最大に表彰するでしょう。
そのような立場を備えた人が残っている限り、世界は永遠に残るのです。その人以上の価値をもつ人が現れない限りです。運動競技において、一度立てた記録は、破られなければ、永遠に残るのと同じです。ですから、その記録に対して、そこに到達するための方向性を立てなければならないのです。任命を受けた者として、これは当然のことです。指示を受けた量を、与えられた時間になすようになれば、メダルをもらうことができるし、表彰を受けることができます。それは、自分自身の使命です。直接的な使命であるのです。これを私たちができなくてはいけないというのです。
個人ではできないからといって、二人でしてはいけません。賞を受けるとき、二人で受けることができるかというのです。このような観点から見るとき、命令を受けた人は、責任を、自分を中心として遂行したがります。誰かが干渉するのを嫌がるものです。それは自分自身の権威があるからです。この厳粛なる権威をもっていることを忘れてはいけません。(三二―五八)
皆さんが、一つの生涯を生きていく間において、与えられた使命の量を知っていますか? 今まで一生を歩みながら、責任を遂行する立場にいるにもかかわらず、その量を知らないのです。だからといって「私はどうしようもない。だから、努力する必要もない」と言う人がいるとすれば、その人は一番かわいそうな人です。努力しなければいけません。
私は何をするのでしょうか? この民族の前に、世界の前に、天地の前に、私はどのような人になるのでしょうか? このような心ができていません。このような心が備えられていない人は、任命を受ける資格がありません。それで、これを知るために、哲学とか宗教だとかいう問題が出てきたのです。また、今私たちはどこに行くのか、という問題が起こってきます。現在の位置と立場を知るためには、まず四方、前後左右が、どのようになっているかを知らなければなりません。
任命を受けた主体的な権限をもった人自体は、干渉されることを嫌います。しかし、干渉をすることのできる絶対的存在が現れれば、干渉を受けるのです。
今日、人々は、「私を愛せ、永遠に愛せ」ということを、言葉でだけ終えてしまうのです。絶対的な立場で愛することのできる人になるためには、「愛せ」ということを言う前に、まず愛さなければなりません。そこに、相対的に報いがなされれば、それは、絶対的基準になるのです。
人が主管を受けるのを嫌うのは、完全なる相対、すなわち、絶対的な相対が決定されていないからです。絶対的な立場で主張するのは、完全なる相対を決定するためのものではないでしょうか。完全なる相対が現れるようになるときには、全部みな、あなたのものであり、私のものとして、和してしまうのが因縁の世界です。どんなに器量の良い男性や女性がいたとしても、自分が絶対視できる完全な相対が現れるまで、待たなければならないのです。
このような観点から見るとき、皆さんは、生涯をおいて任命を受けてきました。それは、誰も干渉することのできないものです。神様もどうすることもできません。過去、現在、未来の歴史時代において、誰も絶対に干渉することができません。絶対的な基準にならなければならないからです。そうでなければ、それが個人・氏族・民族・国家・世界に進んでいくことができないのです。これをよく知って、任命を受けた責任を果たさなければなりません。
任命を受けた量が大きければ大きいほど、範囲が広ければ広いほど、そこに対する期間も、十年、百年、千年の期間がかかるのです。普通の人が十年、百年、千年かけなければならない精誠、また数十代を経て成さなければならない精誠の度数を、一代でささげなければならないことも起こってくるのです。その時に、そのような千年の精誠をささげることができるか、できないかということが問題です。(三二―六〇)
6 牧会者がもつべき内的姿勢
6 牧会者がもつべき内的姿勢
P165
①一番下から出発しなければならないきょう、伝統的思想を立てるために出発する人たちが、正に皆さんです。ところで人が多過ぎます。きょう、この場に何名が参席しましたか? (五十五名です)。この五十五名も、多過ぎるというのです。この多くの人たちが、ある地域であれば地域に、責任を負っていかなければなりません。地域長という立場から出発するのではなく、一番下から出発せよというのです。忠誠を果たす地域長になる前に、忠誠を果たす信者になれというのです。忠誠を果たした信者になれば、自分が地域長になることを願わなくとも、地域長になるのです。金脈がどんなに地の中に埋もれていたとしても、必要な人によって掘られて、その価値を発するのと同じように、必要な存在は現れるようになっています。その上、この統一教会は霊界と関係を結んでいるので、深く埋もれていたとしても、簡単に掘り出されるのです。
皆さんの中に、「私がこのようにすれば、区域長から地域長になるだろう」という思考方式をもっている人がいます。そのような人は、自分のために生きている人です。そのような人が行く道は、周囲から永遠に切られてしまうのです。その人を好む人だけがついてくるのです。このようになるのが問題です。
百年であれば百年を、教会のために生きてみようという心をもたなければなりません。この世には、甲という人、乙という人など、多くの人がいます。それらの中には、息子を失ってかわいそうな人、夫を失ってかわいそうな人、あるいは、食べる物がなくてかわいそうな人、着るものがなくてかわいそうな人など、千態万象のかわいそうな人がいるのです。その人たちと、誰よりも近い心からの友とならなければなりません。これが世界のために生きるということです。(三四―二八)
長い間耐えて、長い間闘いながら、全体のためになすことのできる自分の姿を模索するための努力をするようになったとすれば、天が自然に立ててくださいます。人間が、自分がこのように立ったとどんなに自慢しても、駄目です。
「自分が立てた」と言ったとしても、倒れてしまうというのです。しかし、人間が立ててくれなくても、天が立ててくれれば必ずなされるというのです。
ですから、どんな指導者でも、指導者それ自体が自分を立てる、そのような立場に立つなというのです。自分自体が、自分をその立場に立てなくとも、その環境が立ててくれる場をつくらなければなりません。そうなったとき、そこに立ってこそ倒れないというのです。すべてのものが、そのようになっています。自分の主張をもってはいけません。自分を主張しては、絶対に神様の息子、娘になることができないのです。(一五五―二四二)
先生が監獄から出てくるとき、それまで着ていたそのぼろきれをなぜ持ってきたのでしょうか? それは、売ってみても一文にもなりません。飴売りにあげても、飴の半分もくれないでしょう。それでは、三年近い歳月を送りながら、絹のパジチョゴリは全部他の人にあげてしまい、なぜその囚人服だけ着て生活しなければならなかったのかというのです。触ればぼろぼろにほぐれてしまうぼろきれが、何のために必要だったのかということです。それは、それが十年、一世紀、あるいは数十世紀が過ぎたのちには、億兆の金を出しても買うことのできない宝物になるものであったからです。
今、エルサレムに、イエス様が使っていた箸一本があったなら、仮に英国を引き換えに出すといっても、買えないでしょうし、アメリカを出すといっても買えないでしょう。このような言葉を今日、血気盛んな若者たちが聞いたとすれば笑うかもしれませんが、千金、万金よりももっと貴いので、困難な環境を克服してまで、それを持って出てきたのです。それは、何も知らない人には、チマチョゴリ一着の価値より低いものであるし、自分の財布の中にあるお金一文の価値より劣ったものです。
千辛万苦の末、残しておいた大切な宝物を統一教会は、すべて失ってしまいました。一つしかない大切なその宝物を、失ってしまいました。それは、億兆の金を出しても買うことのできないものです。それでは、それは自分自身のために残すのでしょうか? 違います。神様が残してほしいと願い、後孫たちが残してほしいと願うものだから残すのです。それは、そのような心をもった神様のために、後孫たちのために残すのです。
これが公職にある人がもつべき生活観であり、価値観であるということを、皆さんは知らなければなりません。私が拷問を受けて、血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のために涙を流さないでください。これは、恥ずかしい血となるでしょうし、嘆息にぬれた、怨恨の涙になるので、ここに天が同情することを願いません」と言ったのです。ですから、監獄に行くようになっても、祈祷をしないのです。心情世界においては、そのようにしなければならないのです。(二六―二〇)
②信念をもって進まなければならない
信念はどこから出てくるのかといえば、理念から出てきます。その理念は、個人だけでなく、世界を中心として包括的に関係を結ぶことのできる、すなわち、段階的であり、体系的な内容を備えた思想でなければなりません。そのような思想的な理念から、信念が発生されるのです。ですから、理念をもったとか、思想をもったという人は、信念がなければなりません。その誰ももつことのできない信念がなくてはならないのです。(四〇―二二九)
新しい統一理念、統一思想をもっている私たちにおいても、やはり同じです。皆さんは、統一教会の一員として、統一思想を中心とした新しい宇宙観、新しい人生観と新しい生活観をもって、「これが最高である。これでなければ駄目だ」という、確固とした強力な信念に満ちていなければなりません。これが問題です。
皆さんは、まず理論的な知識をもたなければならないし、その次には、成せるという信念をもたなければなりません。自分の思いが及ばず、自分の信念が及ばなければ、それは自分のものにできず、他人に奪われやすいのです。しかし、私が実践をして固めた基盤は、根を固く張って成された基盤は、それ以上の力を加えて、それ以上の信念を加える前には、絶対奪うことができません。(一九―三九)
皆さんは、多方面にそのような自分をもたなければならないのです。まず信念が先立たなければなりません。皆さんが多くのことをしてみて、「私がすることは間違いない」という信念をもたなければなりません。様々な事件を注入し、それを消化させることができる自体の能力をもった人であれば、どこでも適応して発展させることができるのです。
訓練は損害のようですが、それは今後に自分の所有を決定する、一つの富の起源になるということを知らなければならないというのです。そうではないですか? (そうです)。
先生は、皆さんを、一食主義で約四年間訓練すればよいという思いがあるのです。「御飯一食でも生きれる。四年でなくて十年でも生きる」という信念をもって生活をするようになれば、御飯一食でも死なないというのです。(六五―三〇七)
どのような仕事をするにしても、信念が問題となります。したがって、任地に出ていって苦労をするとしても、信念をもって、信念の中で生活し、行わなければなりません。私たちは、映画を見るとき、はらはらする場面を好みます。そのように、私たちが仕事をなすときにも、そのようなはらはらする峠を、うまく越えて勝利することを、天と地とすべての万物は願っています。
投網で魚を捕まえるとき、重りが少しでも前に行けば、魚を一匹でも多く捕まえることができます。私たちは、このように、重りのような立場であるので、サタン圏内にいる人を、一人でも多く天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。(一二―一九)
皆さんが、み旨に対して、先生以上の忠誠を尽くそうという信念をもつようになれば、すべてのことが順調に解決されていくというのです。それが何のことか分かりますか? もし、先生が十メートルの地下に入ったのに、皆さんは五メートルしか入れなかったときには、サタンが打つのです。分かりますか? 平面にならないというのです。
先生が十メートル地下に入って築いた基盤を、皆さんが相続したいならば、いったん十一メートルまで入り、一メートル上がって、十メートルの所にとどまるのならかまわないというのです。及ばずにとどまるときには、これは水平ではなく、平面ではなく、角度(斜線)が生ずるというのです。はっきりと知らなければなりません。何のことか分かりますか?
先生が築いておいたその基盤の上に、水平をなすためには、先生の思想と伝統、そして実践力、これを正しく教育されなければなりません。実践力がなければならないというのです。(一一四―五三)
③この道を行くためには愚鈍でなければならない
この道を行くためには、愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、見方によっては愚かな人たちです。少し愚鈍に見えます。熊のような性格があるというのです。自分の腕を切っても「ああ、ここが切り足りない、もっと切ってくれ」(笑い)という、このような愚かな点がなければなりません。熊やいのししは、銃に撃たれて、引っかかり、つっかえる部分があれば、その部分を口で切って逃げるというのです。そのような愚鈍な何かがなければならないのです。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。分かりますか? 少しは愚かであるべきだというのです。
ステパノのような人も、この世的に見れば馬鹿ではありませんか? 年が三十にも満たない若い者が、何のために石つぶてを受けながら神様の前に「私たちの罪を許してくださいませ」と言ったのですか? イエス様も同じように、どれほど哀れですか? 静かにしていればいいのに、何をするために、歩き回りながら、五つのパンと二匹の魚で、五千名を食べさせ、騒いで、のちにそのように死んでいくのかというのです。静かにしていれば、どれほど良かったでしょう?
ですから、秀でた忠臣はいないのです。秀でた忠臣は「機会主義」の忠臣です。盲目的な忠臣は、無知で、愚かで、熊のいとこのような人です。美男の忠臣は多くありません。美人烈女は多くありません。烈女門(注:烈女を表彰して立てた門)の主人公を見れば、大体中間以下の顔をした人です。器量の良い人たちは、匂いを漂わせているのです。
ですから、統一教会の人たちは、すべて醜い顔の人々です。(笑い) ゆえに、私のように思いのままにできあがった存在は、ごみ箱に消えたとしてもいい、そういう心をもって、神様が谷間を埋める、埋め立て工事をされるとき、「一番最初のスコップにすくわれてほうり込まれる、その土にならしめてください」と言えなければなりません。そうなれば、どこに埋められますか? 一番底に埋められるのです。そうすれば、埋め立てるのに使われた土の中で、王様だというのです。逆さまに見れば、王だというのです。そうでしょう? (笑い)(二六―一四三)
皆さんは、ただ一度しかない七、八十年の生涯だということを知らなければなりません。私たちの生涯において、苦労の路程がどんなに長いといっても、永遠に比べれば、一呼吸する時間にもならない、ほんの一瞬であるのです。そうでしょう? ですけれども、永遠は、どれほど長いでしょうか? 「えーい(永)」と言って「えーん(遠)」という時まで、永遠にかかるというのです。そうでしょう? (笑い) それほど長いというのです。
この世界圏内では、私が呼吸する回数も、みな計算できます。一時間に何回息をつき、一日に何回息をつき、一年に何回息をつき、十年に何回息をつき、一生の間に何回息をつくかというのを、計算して出すことができる期間だというのです。この短い期間に、「はあはあ」あえいで、嘆きながら生きるなというのです。すべてが瞬間です。鞭で打たれるとき、「打て、一度打ってみよ」このような心をもたなければなりません。鞭を受けるとき、歯を食いしばってその峠を越すのと同じように、この世にいる間、み旨のために歯を食いしばって進めというのです。長いといえば長いでしょうが、それは一時です。
自ら無慈悲に鞭を受けて、困難な場を踏んで、越えなければなりません。耐えていくことのできる自分になるために、そのようなことを多くしなさいというのです。そのようにして神様と因縁を結ばなければなりません。考えてみなさい。困難な時に因縁を深く結んでおけば、うれしい時には、「因縁を結ぶな」と言っても結ばれるのです。普通の人たちは、うれしい時に因縁を結ぼうとわめくのです。そのような因縁は、瞬間的な因縁として終わってしまうのです。
互いに、生死を決して、お前が死ぬか、私が死ぬかという境遇でも、互いに私が死のうと進み出ることのできる立
場、すなわち生命を取り替えることのできる立場に立てなければなりません。死の道を共にし、困難を共に経た人々は、うれしい時、因縁を結ぶという考えすら必要ないのです。困難な時に結んだ因縁と、うれしい時に結んだ因縁は、その味が違うというのです。(二六―一四二)
④最後まで忍耐しなければならない
神様がどれほど耐えてこられたかということを、皆さんは知らなければなりません。皆さんは、少しだけ大変でも不平を言い、口をこぶしのようにとんがらせて……。そのような時、神様はどれほど忍耐したでしょうか? そのように私たちも忍耐しなければなりません。千年、万年を忍耐していかなければなりません。闘うなということではありません。どちらも良くなるときには、闘うのです。どちらか一方が滅びるときは、闘ってはいけないというのです。闘っても、自分の側につくり変えて、教育させるために闘わなければならず、怨讐になるために闘ってはいけないというのです。分かりますか? (はい)。
神様がどれほど忍耐してこられましたか? この目で見るのが嫌なものを、どれほど見ながら忍耐してこられたことでしょうか? 聞くのが嫌なことを、言うのが嫌なことを……。これから、神様の愛を完成するために、世界の人たちがみんな悪口を言っても、忍耐するという決心をしなければなりません。神様が見て、「忍耐するのを私が学ぼう」と言われる、そのような決心をするのです。
それでは、私たちは、どうして忍耐しなければならないのでしょうか? 神様の愛を引き継いで、神様の愛を私のものとするためです。神様が、神様と同じような人を探しているのを知ったので、そのように忍耐することを学ばなければならないのです。分かりますか? (はい)。神様の忍耐を、私たちが学ばなければならないというのです。歴史始まって以来の、忍耐の王にならなければなりません。神様が、歴史始まって以来の、忍耐の王であられるので、私も忍耐の王にならなければなりません。
見なさい、神様がどれほど耐えられたか。自分の息子、娘を殺し、この世界の王を殺し、神様の理想を壊してしまう怨讐は、怨讐の中の怨讐です。そのような怨讐に対し、忍耐してきた神様です。皆さん方も、それを願いますか? (はい)。それで、忍耐することを願いますか、愛を願いますか? (愛です)。(笑い) 愛だけ願っていては、駄目なのです。忍耐することを願わなくては、偉大な愛はあり得ません。もう、分かったでしょう? (はい)。(一〇四―三三)
私は忍耐するのです。「この耳よ、忘れよ! この目よ、忘れよ! この腹よ、忘れよ! 心が痛くても耐えよ!」。誰のためにですか? 神様のためであり、人類のためにです。私が悲しくても、悲しい私自身が、神様から慰労を受けるのではなく、神様を慰労しなければならないことを私は知りました。これをしなければ、祈祷することができないというのです。祈祷が出てきません。そのように歩んできた道が、統一教会が歩んできた道であり、統一教会の先生が歩んできた道であることを知らなければなりません。なぜそうしなければなりませんか? ほかの道はないのです。分かってみると、それが最短距離だからです。(九四―二三九)
さあ、そのような点から見るとき、宗教が神様を中心として善を、最高度の善を標準とすると同時に、世界的な、広い版図の基準を中心として主張してきたので、歴史時代に残ってきたことを、私たちは知っているというのです。どんな環境でも、突き進んでいく力があったというのです。
それは、信仰によって神様を信じるという、その力をもっていることが、宗教の偉大性だというのです。それで、「宗教は反対されればされるほど発展する」という、このような言葉が残されたことを私たちは知っているのです。それは、反対されて圧力を加えられれば現在の位置から外れてしまい、そのままストップすればそれまでですが、外れてもまた、出てくるというのです。
これは、宗教だけでなく、一般の私たちの生活でも、同じだというのです。丈夫で強い人が、また忍耐力が強い人が、残るというのです。ですから、十回倒れても十回立ち上がることができます。そうでなければならないのです。そうでしょう? そうではないですか? (はい)。
皆さん、考えてみてください。キリスト教が、どれほど強かったでしょうか。四百年の間、ローマ迫害時代に、あの地下に入っていって苦労をしながらも、それを突き破って出ていこうと闘争したというのです。続けてそのようなことを先生が考えれば、今日統一教会が、この世で生きていけるか、残ることができるかという問題を考えざるを得ません。
自分を歓迎する所で残ることは、それほど問題ではないのです。自分に反対し、怨讐視するその場で、どのように残るかということが問題にならざるを得ません。どんなに圧力を加えたとしても、押されれば押されるほど横に広がり、押されれば押されるほど中に入り、そうでなければ、押されれば押されるほど自分が縮小されたり、このようなことができなければならないということを、昔考えたのです。
そのような観点で見れば、先生が今まで三十年間迫害を受けてきましたが、うまく突き抜けてきたというのです。一度打つと言って萎縮して、あ、痛い……。それは作戦上の萎縮でしょう。また作戦上、突き抜けて入っていくでしょう。時や環境さえ整えば、それ以上に上がっていこうという、そのような内的な心が、いつもなくてはならないというのです。
さあ、ですから皆さん、木の種、果実の種を一度考えてみなさいというのです。ここ寒帯地方では、熱帯地方で育った松の種が育たずに、死んでしまうというのです。しかし、熱帯地方に植えたのを寒帯地方に植えて、このように移し換えながら育てれば、どこでも育つというのです。ですから、どんな木でも、どんな種でも、どの環境に対しても、自分が備えているそのような環境でだけ育つのでは駄目なのです。環境を移したとしても、どこでも育とうと思えば、そのすべての環境の要件を、みな吸収するか、そうでなければ、これを制圧するか、そのような力がなくてはならないという結論は、妥当な結論です。(七六―三一五)
統一教会は、やつれてやせて、腰の曲がるような年になったとしても、「私は誰よりももっと大きなことのために仕事をする。世界のための仕事をする」と言わなければなりません。死ぬとしても、そのように死ななければなりません。そのように死ぬ団体がどこにありますか?
今、私たち統一教会が、全世界のために動いています。神様のみ旨を成す時に、忍耐すれば、自然に神様のみ旨が成されるのです。そうでしょう? 私が言わなくても、世間で「忍耐すれば福を受ける」と言うでしょう? 団結すれば生きて、ばらばらになれば? (死ぬ)。知ってはいるのですね。それを知ってはいるのに、そのようにできないので、滅びるのです。そのようにできさえすれば、滅びはしないのです。
忍耐するにおいて、百点の標準はどこにあるのでしょうか? その基準は、首を差し出すことです。首を差し出して死んだなら、お父さん、お母さんは、ウォンウォン泣きながら、「もう少し生きていたらいいのに、どうして?」と、弟妹たちは、「ああ、兄さん、姉さん、なぜ今死ぬの?」と言って、すべての家族が騒ぐのです。ですから、そのような立場よりも、単身孤独の立場にいなければなりません。単身孤独でも、自分が出ていって、遊んでから死ぬのではなく、怨讐が殴り殺そうとする立場、殴り殺そうとする者たちが十人よりももっと多く、国が動き、世界が動いて殴り殺そうとする立場、そのような立場で神様のためになすならば、神様は、その立場を祝福してくださるのです。(四四―二四)
世間にいる指導者から、「皆さんならば、間違いない」このような言葉を聞くようになる時が来ます。ですから私たちは、指導者として育てられるその立場で、国を中心として、世界を中心として、耐えていかなければなりません。忍耐していかなければいけません。そのような決意が必要です。ですから、そのような兄弟と会い、別れる時には、涙なくしては行くことができません。ある人は、見送りするために峠まで上がって、見えなくなる時まで手を振ります。心情的なものは、そこから始まるのです。それを見たときには、二回目に行った時には、互いに抱き合って、涙で始まります。このような心情を中心とした涙の場所は、聖なる聖地の基準になるに違いありません。そこを、それくらいの感覚なく踏む者は、去りなさい! (一五―一四二)
第一次に、十という力と財力をもって仕事を始め、失敗したならば、二次には百の力をもって始めなければなりません。もし、この時にも失敗すれば、倍の力をもって、第三次、第四次、続けて試していきなさい。十回する間には、必ず一度は成功する時があるのです。
世間の大部分の人たちは、一次、二次、三次の試みに失敗すれば、後退してしまいますが、私たち統一教会の青年たちは、何度失敗があったとしても、もう一度出発しようという決心をしなければなりません。
いのしし狩りをしてみると、おもしろいのです。最初の人たちが尾根に向かって出発するときは、みんな争って先に立とうと、すべての力を尽くそうとしますが、いくつか峠を越えていけば疲れて、「遅れないで行きさえすればいいだろう」と言います。しかし、さらに息が切れて大変になってくると、「ちょっと休んでいけばどうか?」と言って、もう少し行けば、「もうこの辺で行くのをやめれば……」という表情をするようになります。いのししは正に、この時に逃げてしまうのです。
海に行って魚を捕まえるときも、初めには、海のすべての魚を、みな捕まえるような勢いですが、全精神と力を尽くして、何度か網を投げていけば、最初の気概はなくなって、退屈してしまうのです。
最初から大きなことを願う人は、大きな人物になり得ません。良いことが、いくらか現れて、他の人々が喜ぶ時に、私だけがもつことのできることを探して仕事をするようになれば、最後には大きな喜びを得るようになるのです。
三、四年の間に、この道が終わるのではありません。七年でなければ、七十年が延長されたとしても、「たゆまずに行く」という気迫が必要です。その期間が長ければ長いほど、その範囲を、さらに広げて進まなければならないのです。(一四―七一)
⑤天の威信を守って進む
先生が、山岳地帯であるとか、あるいは、平野であるとか、三千里半島(注:韓半島)を歩き回りながら考えたことはこれです。行っては来る、その足取りを、その日において、それで止めてしまいたくないというのです。連続的なものとして……。どんな行動をしたとしても、行動するその分野においては誰よりも……。汗を流しても、一滴をさらに流したいし、努力するにも一歩さらに努力したいというのです。もし、そこに力が足りないのなら、心ででも、さらにしたい心をもって今まで闘ってきたのです。連続的な闘いをしてきたというのです。それが不足ならば、これで補充して、私の前に悪の世界の悪人たちが批判することのできる、そのような条件を残したくないのです。
ですから、皆さんに必要なことは、どのような立場に立っても、天の威信を守って進むことです。天の威信、統一信徒の威信、原理を基盤として動いてきた、私たち聖徒たちの威信、神様の心情を中心として教育を受けて、サタン世界と対決して、勝利の旗に倣って進んできた私たちの威信、この威信は、この世のどのような精兵たちが備えている威信でもありません。現在において、先進国として誇っている米国の、どのような軍隊の威信も問題ではありません。絶対的な威信、この威信のために……。
この威信の中には、歴史的な反応が生きているし、内在された反応が生きています。この威信を基盤としてのみ、この世界史的な、新しい道が永遠に向かって直線コースとして、開拓されていくということを、皆さんは、いつも心に忘れてはいけません。それでいて、これは継続的なものです。ですから、私が行けないときには、必ず後継者をここに代替えしておかなければなりません。このような精神と、このような思想をもって、皆さんが進んでいかなければならないということを、現在当面している皆さんに、お願いしておくのです。(一五二―六六)
⑥必ず結果を動機に連結させなければならない
み旨は、ある個体目的を指向していくものではなく、全体目的を指向していくものです。木を見れば、そこには必ず根があり、幹があり、枝があり、葉があります。段階的に見れば、葉がある前に枝があったのであり、枝がある前に幹があったのであり、幹がある前に、根があったのです。ところで、根も必要なく、幹も必要なく、枝も必要ない葉があり得ますか? そうなれば、それ自体も存在し得ないのです。ですから、一つの木として完成しようとすれば、各々が、その責任を果たさなければなりません。
先生は、今まで一生を経てきながら、ある栄光を得るようになったとき、それを先生自身を中心として考えたことはありません。それが天から始まったということを知っているからです。
動機が天であるので、結果を天に連結させなければなりません。言い換えれば、自分の一日の生活で、責任完遂という目的を中心として見るときに、必ず結果を動機に連結させなければならないのです。それでは、どのように動機と結果を一致させるのですか? これが問題です。社会環境を見れば、これがなっていないのです。一八〇度違うので、蕩減のための条件を立てて、ある期間、その環境を克服していかなければならないというのです。
今日、数多くの人たちが道(注:宗教の道)の道において、精誠をささげています。彼らは、すべて神の霊的な摂理の中で、自分なりに何かを受けています。彼らは、この国で自分が一番だと考えています。実際、霊的にそのような啓示を受けています。しかし、それは結果的なものであるので、根本となる原因を追求しなければなりません。その原因を追求するには、自分を中心として追求してはいけません。なぜいけないのでしょうか? その啓示は、神様と心情一致して、人類の真の父母と心情一致したものが母体となって、現れた結果であるからです。そのような原因を知らずに、結果だけをとらえる人は、根のない木の枝のような立場なので、結局、悲惨になるというのです。
私たちは、責任完遂をする前に、まず何をしなければならないかといえば、三者の一致点を探さなければなりません。三者が完全に一致されなければ、責任を完遂したといっても、完遂したその責任の結果は、天と何の関係もないものとなります。皆さんは、いつでもそれを知るべきです。
イエス様は、ゲッセマネの園で、あるいはゴルゴタの山頂で、死の道を行きながら、神様が自分を愛されているということを信じました。神様が自分をこの地に送られたのは、一人の男性として送られたのではなく、神様の息子として送られたので、その誰ももつことのできない、神様の心情をもった自分でなければならないという、絶対的な心情をもっておられたのです。
それでは、そのような心情で復帰の道を行かれたイエス様の、最後の目的は何だったのでしょうか? それは、人類の父母となることでした。イエス様が、このような厳粛なる課題をもって希望されながら、そこに心を一致させてきたので、今日、キリスト教が世界的な宗教になったのです。そうでなかったならば、キリスト教は世界的に発展しなかっただけでなく、神様がキリスト教を世界的に発展させなかったでしょう。原理的な復帰路程に、イエス様が犠牲になったので、神様は、新しい歴史時代を経ることのできる、摂理の手を伸ばすことができたということを、皆さんは知らなければなりません。
動機と結果が一致しなければ、責任を遂行したということはできません。ですから、すべてのものが一つとならなければなりません。何を中心として一つとならなければならないのでしょうか? 神様の心情と、父母の心情と一つにならなければなりません。私がいることによって父母がいるのではありません。父母がいるので、神様がおられるのではありません。神様がおられることによって父母がいるのであり、父母がいることによって、私がいるのです。ですから、今日、子女の立場にいる統一教会の食口たちは、絶対的に、神様の心情と父母の心情をもたなければならないのです。(二四―一三七)
今日、私たちは、今までの自分の観念と意識全体を超越して、一つの基準の前に収拾されなければなりません。皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。各々が今までの自分を振り返ってみれば、自分勝手な考えをしてきたということを知ることができます。ある人は不平を言い、ある人は本部に対して、ありとあらゆることを言うのですが、これは許すことができません。(二四―一三五)
第二章 牧会者の役割
第二章 牧会者の役割
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第一節 牧会者の祈祷一 牧会者の祈祷
1 祈祷しなければならない理由
人間が堕落しなかったなら、救い主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救い主が必要で、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の結果だということを知らなければなりません。(一九七四・三・九)
祈祷をなぜしなければならないのですか? 縦的な心情圏に対して、自分が横的に九十角度の位置に立たなければなりません。これを誤ってはいけません。そこに立って、縦的な刺激を受けることにより、そしてその衝撃が大きければ大きいほど、その基準によって自分の球形が展開するのです。こうなれば、こんな球形になるのです。一〇〇パーセント授け受けする円形が展開するのです。
ですから精誠をささげなければならないのです。これが行ったり来たりしてはいけません。そういう立場でびしっと祈祷するのです。「私がお父様にどのように侍りましたか? 私が父母に侍る場合、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか?」と言うのです。それは直ちに分かるのです。自分の涙が、どこまで流れ広がるのかということです。これが公式なのです。堕落した人間が天の父母に侍るのに涙がないなら悔い改めなければなりません。清算しないとその環境が再創造されません。失ってしまったから。何のことか分かりますか? (はい)。
国を思うとき涙があふれ、世界を思うとき痛哭が起こりますか? 問題はそこにあるのです。天がそうしているのに、主体がそうしているのに、横的基準がその同位圏に立たないといけないでしょう。同参圏に立たないといけないでしょう。相続圏に立たないといけないでしょう。一体にならないと不可能なのです。(一七一―一九)
自信をもって責任者になるのではありません。分かりますか? 自信はないのです。先生も自分に自信があると思ったことはないのです。自信よりもまず神様が好きで、神様が探ねていくその人を好きになるべきことを知ったので、ぱっと仰ぎ見て、その心情をどうやって抱いて出ていくか、それが問題だったのです。その心情さえ通じるようになればうまくいかないことはないのです。好きな人を良くしてあげられるし、悲しんでいる人を慰労できる心がなければならないことを知らなければなりません。
おなかがすいた時の御飯ほど、神様が好きでしたか? そのぐらい好きでなければならないのです。おなかがすく時も、御飯にすがって神様を求められるし、おなかがすく時、御飯を手に握り締めて愛する食口を呼ぶことができるし、その人がどうなったかと心配できる、こうでなければならないのです。そうなってみなさい。御飯を食べない、そうしてみなさいというのです。もしもそうなって御飯を食べないようになると、その村中は廃虚になるのです。崩れ落ちるのです。
ですから、神様が愛する人はどこへ行っても御飯が食べられないことはないのです。分かりますか? 先生はまだ御飯のことを考えたことがないのです。「自分もお金をもうけて生きないと」、そうしたことがないのです。そうかといって御飯がないのですか? どこへ行っても御飯は待っているのです。そうでしょう? イギリスへ行っても、どこへ行っても……。
皆さんがそういう責任者として、本質的なこの原理的軌道をどうやって行くべきか、ということを知らなければならないのです。ですから祈祷をしなければなりません。神様と私との関係、神様は私をどのぐらい好きなのでしょうか? また、食口のために精誠をささげなければなりません。私が食口と一緒にどのぐらい関係を結ぶのでしょうか? これが丸くなるように……。そのために祈祷しなければならないのです。
一日に御飯を食べる時間がどれぐらいになりますか? 一時間半はかかりますか? 一時間半、一時間半はかかるでしょう? (はい)。平均、一日に一時間半は御飯を食べて暮らしていますからね。霊的なそれは、御飯を食べる時間よりももっとたくさん投入しなければならないということです。もっとたくさん投入しなければならないというのです。それは先生が今まで経験してきた長年の信仰生活から分かったことです。(七〇―一七一)
今日、私たちが行くべき道はどちらにせよ切り開くべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能なことを感じるのです。ですから信仰者は祈祷しなければならないことを知るべきなのです。(一九七五・五・五)
皆さんが一日生活するのに、最も重要で必要なこととは何でしょうか? 祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を選り分けなければならないのです。(一九―一四六)
祈祷というのは目的の完成のためにも必要なのです。(九―一九七)
2 祈祷の内容と順序
祈祷をする時は、まずこの国とこの民族のためにし、次は統一教会のために、その次には代を継ぐ後孫たちのためにしなければなりません。(一九六八・一一・一四)
皆さんは、一番初めに国のために祈祷しなければなりません。その次には世界のために祈祷し、その次には神様の解放のために祈祷しなければなりません。神様が安楽な所にいらっしゃると思いますか? 自分がなすべきことが何かも知らず、世の中の運勢がどのように回るかも知らないで「おお、主よ、私を天国に送ってください」と言っています。(一四―六五)
今日、皆さんは自分たちの息子、娘のために祈祷する前に、まず天にいる、今まで苦労した先祖たちのために祈祷しなければなりません。自分がいい暮らしをすることを願う前に、この地上に人類がより良く生きることを願う心をもたなければなりません。自分が踊りを踊る前に、まず嘆息圏内にいる万民を見て、気遣うことができなければならないというのです。また、うれしくても喜びの表情をつくれず、楽しくても楽しいという行為を表せなかったイエス様の事情を身代わりできる心を、皆さんはもたなければなりません。(四―一二五)
自分の利益のために宗教を信じる人は、福を受ければ神様を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し暮らせば落ちていってしまうのです。皆さんは、神様が願うのは何かを見つけてさしあげよう、という観点から祈祷しなければならないのです。そして、世界に福を下ろしてくださいと祈祷しなければならないのです。(一九八三・五・一)
信仰者は、より大きなもののために、公的な祈祷をしなければなりません。(二八―二七一)
かわいそうな民族にすがって泣く者は民族の福を受け、かわいそうな教団にすがって泣く者は教団の福を受け、かわいそうな世界にすがって泣く者は世界の福を受けるのです。(一九五八・四・六)
皆さん、霊的な体験がある人は、祈祷する時に自分のための祈祷は最後にするようになります。神霊の世界に入って祈祷するようになれば、誰のために祈祷するかといえば、まず神様のために祈祷します。そうなるべきではありませんか? 主人に会う瞬間、主人の福を祈らなければなりません。そうしてからは、イエス様のために祈祷することを知ってこそ歴史的心情が分かります。その次には、天地創造ののち、今までキリスト教界の素晴らしいみ旨を身代わりして闘ってきた数多くの人たちに代わって、祈祷してあげなければなりません。堕落以後、アダム、エバから今まで数多くの預言者たちが歩んだ道を一歩一歩歩みつつ、「彼らに積もった恨みを解怨する祭物に私をしてください」と言って、これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈祷し、その次に自分のために祈祷するのです。天法がそうなっています。
今日、皆さんが正常な信仰路程を行く場合、世界にすがって泣き、天地にすがって泣き、民族にすがって泣き、教会にすがって泣き、自分自身にすがって泣き、最後には私に責任を与えてくださいと、このように祈祷しなければなりません。(一九五九・一〇・一八)
3 祈祷に対する応答
祈祷は必ず成就します。祈祷することによって力を受けます。祈祷することによって、今後この問題がどのように展開するかという展望をすべて教えられるのです。「こういうことはこうして、ああいうことはこうするのだ」と教えられるのです。それを知ってこそ、皆さんが大きなことをなせるのです。祈祷によってのみ、その道を開拓できるのです。分かるでしょう? (はい)。祈祷が御飯を食べることより重要だということを知らなければなりません。
先生も、複雑でそういうことよりも……。ですから自然が好きで、一人でいる時間を一番の趣味にしています。静かな夜が先生は本当に好きです。でも先生はそういう話をしないでしょう。先生にそういうことがないでしょうか? 皆さんに見えないからでしょう。そういう生活の、豊富な底辺基盤を練り固められるのも祈祷以外に道がないことを、皆さんは知らなければなりません。
その世界、その場所で愛を感じ、その場所で愛を体恤できるのであって、普通の場所では難しいのです。そういう土台の上で、自分自身が力を補強できる場所に立ってこそ皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこうやって先生が導いてあげて行くようになると、先生がいなければどうするのですか? そういう裏面の生活を備えるためには祈祷が必要だということを、皆さんは知らなければなりません。
ですから誰が見ようと見まいと、自分がなすべきことは自分がしなければなりません。私たちが神様との約束をよく守らなければならないのです。夜も昼も、全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になるのです。そうしてこそ、何年かごとに自分が願う祈祷が変わり、題目が変わりつつ発展するのです。ですから、今の時がどんな時かを知らなければなりません。そういう裏面の生活を、皆さんが祈祷生活を通して備えるべきことを知らなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。
皆さんの中で祈祷する人、手を挙げてみなさい。そう、どうやって祈祷しましたか? その国とその義のために祈祷しなければなりません。(一〇四―一一一)
私の体をささげてでも、神様の前に勝利の一点を加えようという立場で祈祷をささげる時には、神様はそれに責任をもって成してくださるのです。それを成してくださるのに、神様は易しい道を歩いてこられるのではありません。神様は、皆さんが祈祷しているその場所までいらっしゃるには、多くの段階を経なければなりません。皆さんが神様と同じ悲惨な立場に立つようになれば、初めて神様は直接活動できるのですが、それ以外には、神様は直接活動できないのです。すなわち、自分自身が犠牲になる立場や、傷つく立場に立っているとしても、自分の真実の心が神様が願われる立場に立つようになれば、神様が自分を認めてくださるようになり、また同情なさるようになるのです。こういう心情でいらっしゃる方が神様だという事実を知らなければなりません。(一八―二六九)
4 お父様の祈祷の境地
先生は説教する前に説教のために祈祷する時間よりも、食口のために祈祷する時間を多くもちます。「お父様! 彼らを導き、引き上げなければなりませんが、どうすればいいですか? これですか、あれですか?」と言って精誠を集めたのち、心の命令のままに説教するのです。(九―八一)
先生は精誠をささげることにおいて、誰にも負けません。心情的な面においても、与えれば全部与えたのであって、絶対に受けません。今後責任者たちは、自分が負っている責任に対し、心情的条件だけでも立てなければなりません。そうしなければ、統一教会は絶対発展できません。(一六―三〇九)
先生がしばし祈祷する時は、統一教会全体の人々は先生にすっかりほれ込んで、市場へ飛んでいったと思っても、すぐやって来ます。そのようなものです。市場へ行くという人が全部教会へ来て、男性も女性もみな精神が飛んでいってしまったのです。私がそうしたのではありません。愛がそうしたのです。見れば無性にいいのです。なければ足袋一足を売ってでもあげたいのです。あげてももっとあげ、もっとあげ、もっとあげたいのです。何がそうしたのですか? 愛がそうしたのです。あげてあげてあげてしまえば、あげるものがまた出てくるのです。分かりますか? 四方にあげてみると、のちには自分が座れる場所が生じるというのです。高い場所が生じるのです。(一二一―二三一)
皆さんは思慕する心情、欽慕の心情を備えた食口たちにどのぐらい会いましたか? 先生はおびただしい数のそういう人に会いました。地の果てから探ねてきて、先生に敬拝するではないですか。それはなぜですか? 先生が地の果てまで愛の心情的網を投げたので、既に電気を通してみたので方向を知っているのです。あなたたちは本当に気の小さい度量の狭い男性たちです。先生が褒めてくれると思って来たでしょう? 褒めてもらおうとして来たのですか? 怒られに来たのですか? (怒られようとやって来ました)。とがめるのではありません。説明だけ聞くために来ました。事実そうではないですか?
先生がこの道を築くために、座って綿のズボンとチョゴリが全部ぬれ、水が流れるほどに祈祷しました。涙を流したのです。一日に十七時間、二十時間まで祈祷しました。そうやって暮らしました。そうやって見つけた道です。それをあなたたちがそんなふうに、無価値なもののように相続できますか? 同和的心情圏が一つの基準に結ばれなければならないのです。天と地がそんなふうに、別の拍子で浮気しますか?
ですから統一教会の伝統を知らずに生きたというのです。統一教会を知らないでいるのです。統一教会の先生を知らないでいるのです。無価値なこの者たち……。
私は無価値な人ではありません。先生という人間は歴史に一度しかないのです。また会えますか? また会えると思いますか? また会えますか? (会えません)。歴史始まって以来初めて生まれ出たのです。皆さんがこの時代において先生に会ったという事実は、宇宙を与えても換えられない貴い事実です。貴い宝物をむやみに取り扱ったのではないか、というのです。その人の提唱することは何で、その人の行く道がどこか、というのです。今いる環境や世界に対して何かを感じ、飛んでいく鳥も私のために何かを暗示していることを感じなければなりません。心情圏がそうでなければなりません。すべてに同参的な価値を認め、あなたと私が和談できなければなりません。級は違いますが、上だから高いのではなく、下だから低いのではありません。同和できる価値の内容で天が公認できなければなりません。その内容は、心情の因縁を経なければ公認できないことです。(一七一―三二)
皆さんは祈祷する時、涙を流さなければなりません。先生が一番初めにこの道を出発した時が、一九四四年、一九四五年です。その時は上道洞教会で教会員たちを指導しました。その時、教会の祈祷する場所の床が乾きませんでした。何のことか分かりますか? 床が……。涙を流さなければなりません。こうなると、その教会は夜も昼もいつも天が共にあるのです。
皆さんは今、み旨のために行くにおいて、一日に何度も自分でも知らずに止めどもない物悲しい心情に浸り、天に反映する心情がいつも結ばれていなければなりません。先生は今までそういうものをもってきました。皆さんは知らないけれども。
天が共にあるかないか、考えてみればすぐに分かるのです。そういう何かがあります。誰かが話す時、志ある言葉を語れば心がすっと引かれていきます。それが分かって当然です。(五六―六一)
先生は神様の前に綿のズボン、チョゴリが全部ぬれるほど祈祷したことが何回あったか分からず、刀を持って腹を刺し、誓ったことが何回あるか分からず、死の峠を越えつつ心を固く固めたことが何千万回あったか分かりません。(一九―一九)
皆さんは今、地上天国の主人たちですか? 精神を引き締めて祈祷しなければなりません。先生は昔祈祷する時、床が乾いていたことがありません。三年の間床が乾かなくて、今もそうですが、擦れた皮膚が固まってしまいました。天は、世間のやることと共になく、深刻な場所で動くのです。(一九七四・二・九)
皆さん、先生は一九五七年、その時初めて私たちが百二十カ所を選定して伝道しに行ったのですが、その前までは、祈祷室に入り夜も眠らなかったのです。その時の人々は知っているでしょう。夜中の二時が普通で、三時、四時まで眠りませんでした。平均二時間眠りました。いつも精誠をささげたのです。そうでなくては基盤を整えられないのです。世界的基盤を整え、国家に一つの礎石を置こうとするならば、精誠をささげて、多くの人が私の手足となれなければなりません。(五六―五〇)
5 食口のための牧会者の祈祷
牧会者は、三日に一度ずつでも食口たちのために祈祷してあげなければなりません。先生は興南監獄で三年に近い歳月を過ごしましたが、その中でも何名かの食口たちのための祈祷は、御飯を食べる時から寝る時まで毎回してあげなかったことがありません。たとえ落ちてしまった食口でも、彼のために続けて祈祷してあげました。すると霊的に先生を訪ねてきて、落ちてしまったことを物悲しげに涙を流し報告するのです。肉身が弱くてどうしようもなく、先生と離れなければならないとあいさつして離れていくその悲惨な情景は、同情せざるを得ないものです。そうして離れていっても、その人のために続けて祈祷してあげなければなりません。
なぜですか? その人が責任を果たせずに行ったので、その継承者が出る時まで祈祷してあげなければならないのです。そういう精誠の土台さえ残っていれば、いくら食口が落ちていったとしても、神様が必ず志ある人を送ってくださるのです。
それゆえに、食口が落ちていったといって絶対に失望してはいけません。実に不思議なことは、食口が落ちていくとその人に性格もよく似た、話すこともよく似た、歩く様までもよく似た人が入ってくるのです。どういう面から見ても不思議なほど、落ちていったその人とあまりに似た人でありながらも、すべての面でずっと優れた人が入ってくるのです。そういうことを見る時、精誠をささげたことは失われないということが分かります。これは間違いない事実です。
私たちはどんな人に会っても、会っただけで終わってはいけません。まして天を中心にして会った人ならば、絶対その因縁を忘れてはいけません。その人が教会に来ていたが来なくなった、といって切ってしまったり呪ったりしてはいけないのです。その人が落ちてしまったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
私たち統一教会が韓国のためにささげた精誠の基準が、天が公認でき、世界と関係を結べる立場になっているか、ということが問題です。そうなっていれば心配することはありません。そういう基準さえ立っていれば、人がいなくても世界的に収穫を収められるので、絶対損をしないのです。
ですから責任者の精誠とは恐ろしいものです。先生は過去に三千万の民族を前にして、額を地につけ、血と涙の祈祷をたくさんしました。今後、先生と皆さんの精誠が神様の前に認められる日には、三千万の民族は間違いなく私たちのところへ入ってくるでしょう。そうなれば韓国の運勢は、一つの主体者を中心に回るようになるのです。(四二―一六三)
精誠をささげる時には、何人かの人を立ててささげるよりも、一人一人を立ててささげるほうがいいのです。幾人かの人を立てて精誠をささげるのと、一人一人を立てて精誠をささげるのとでははっきり違います。東西南北が違うというのです。ですから主体がいれば一つの対象を決定し、その対象を中心にして線を引かなければなりません。そうしてこそ四方が描かれるのです。その四方が描かれる時までは、対象と絶対的関係をもたなければなりません。そうしてこそ円い円が描かれるのです。
では信徒たちの中で、果たしてそうできる人がいるのでしょうか? これが問題です。原理どおりに考えなければなりません。ですから、一度に多くの人を伝道しようとしないで、一人から考えなさいというのです。第一対象がいてこそ第二対象が生まれるのです。(四二―一六五)
祈祷団の基本的形態は、婦人たち四名ずつ、三つの班十二名を一つの組とし、ここに男性も相対的に同じ数の祈祷の組を組織し、二十四名が熱心に祈祷すれば大きな問題が起きるのです。(一九七〇・四・二三)
その一人の命のために、父母の心情をもって涙を流し、祈祷してみてください。そうすれば間違いなく伝道されます。そうして一カ月に一名ずつ伝道すれば、私たちが一万名なら一年が過ぎれば何名になりますか? 十二万になります。二年なら百二十万になり、三年なら千二百万になります。こうして毎年十倍ずつ食口が増えるようになるのです。そうなれば韓国復帰は問題ありません。これを思いつつ、一カ月に一名を目標にして総進軍しなければなりません。(二二―三四二)
三人を立てて精誠をささげれば一人は入ってくるようになっています。今の時がそうです。そう思って皆さんは一年十二カ月の計画を立ててみなさい。ある月は第一候補が誰、第二候補が誰、第三候補が誰、こうして組むのですが、ここにはお母さん、お父さんも入っているし、お姉さん、妹もみな入っています。妹だったら「じゃあお前、行こう」。そうできます。何か事情を聞いてあげることがありますか? そっと誘って駄目なら、ぶってでも連れてこいというのです。(二二―三四五)
重要な問題は祈祷せよというのです。祈祷をするのです。「私が神様を解放するというのだから、神様は私に頼まないといけないでしょう? 人類が私に頼まないといけないでしょう?」。そう考えなければなりません。そういう考えが必要です。それがどういうことか分かりますか? (はい)。ですから私たちが今までもっていた慣習を全部整理して……。(一二八―一七四)
6 中心に向かう祈祷
地域長は本部のために新たに精誠をささげて祈祷しなければなりません。六〇年代より七〇年代はもっと良くならないといけないでしょうか、悪くならないといけないでしょうか? もっと良くならなければなりません。(二九―七八)
今後先生の計画に、皆さんが祈祷してくださるよう願います。(一九七四・二・九)
皆さんは先生のためにどれほど祈祷し、またどれほど会いたく思いましたか? 心から会いたく思い、心から祈祷し、心から慕ったなら、それはこの体を見ることだけが問題ではありません。(二三―五二)
神様の前に精誠をささげる指導者にならなければなりません。そういう指導者がいれば、その国は滅びません。(二四―二八)
二 統一教会の祈祷
二 統一教会の祈祷
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1 真の御父母様の名前で祈祷統一教会ではイエス様の名前で祈祷しません。統一教会に初めて入ってきた人たちは、「真の父母とは何だ? 何で真の父母の名前で祈祷するのか」と考えるのです。皆さん、真の父母の意味が何か分かりますか? 真の父母とは、エデンの園で堕落せず、神様の栄光の中でいつまでも誇れる私たちの祖先のことです。
ところが、立てられた人類の祖先が堕落したので新しい祖先がいなければならないし、神様もまた、新しい祖先を中心に摂理するので、新しい祖先の名前で祈祷するのです。道理にかなうのです。イエス様お一人では通じないので、イエス様と聖霊とに通じなければなりません。すなわちイエス様は父なる神で、聖霊は母なる神なので、堕落した人間たちは誰もが父母の因縁を通さずには天国に行けません。
イエス様は父なる神なので、母なる神がいなくては完全な救い主にはなれないのです。こうなった事実を知らず、イエス様の名前で祈祷し、福を願ってもいいのですか? みな知らずにいます。皆さん方はこのようにだまされている、世界十億を超えるキリスト教徒たちを再教育しなければなりません。(二〇―二六九)
イエス様の最高の願いとは何でしょうか? 国をもつ前にまず何をもたなければなりませんか? 子供をもつ前に何をもたなければなりませんか? 妻をまず迎えなければなりません。しかしイエス様はそうできなかったので、伝道できなかったのです。息子、娘をつくれなかったのです。父母の資格で来たなら必ず父と母にならなければならないのです。それで統一教会では祈祷する時、「真の父母の名前で祈祷します」と言います。既成教会とは違います。新婦のいない、独身のイエス様の名前で祈祷するのではないのです。
ですから統一教会では本当に素晴らしい祈祷をするでしょう? 真の父母の名前で祈祷するのです。真の大王、后の名前で祈祷するのです。先生といえば先生夫婦がいいですか、一人がいいですか? どう、どちらがいいですか? 二人がいいですか? 一人がいいですか? (二人がいいです)。ですから男性がいれば女性がいなければならないし、女性がいれば男性がいなければなりません。男性が生まれる時、女性がいるかいないか心配して生まれましたか? 考えてみなさい。生まれる時、大変なことになったと心配しましたか? 既にそれはうまくいくようになっているのです。あなたたちは夢を見たこともないし、それが分かるようになっていますか? それは私が解いたのです。驚くべきことなのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(四一―二三〇)
皆さんが祈祷する時、真の父母の名前で祈祷しますが、真の父母とは何ですか? その言葉を、先生とお母様だけと思わないでください。より高い次元で世界を抱き、民族感情や国家感情を超え、万民を真実から一様に愛せる母と父という境地の真の父母の基準を考えよというのです。ですから先生も真の父母の名前で祈祷するのです。(三三―一四三)
皆さん、思いどおりに天国へ行けばいいでしょう? 皆さん、思いどおりに天国へ行くことができればいいでしょう? 出たり入ったりできたらいいでしょう? 皆さんは祈祷をなぜしますか? 祈祷する時、なぜ真の父母の名前でするのですか? 皆さんは祈祷する資格もありません。しかし、そうやって祈祷するでしょう? それは勝利したからです。すべての罪悪世界、サタン世界で。(一五〇―五四)
統一教会では、イエス様の名前で祈祷しません。そのようなことはしないのです。父母を求めていくのです。ですから父母も、真の父母と言うのです。全部つくり直さなければならないのです。つくり直さなければならないことを全部知らないでいるから、礎を正せというのです。これをぴしっと曲げておいて、そこへ入って暮らそうと……。台風がこちらから吹けば生きられるが、あちらから吹けばめちゃくちゃになるのです。分かりますか? イエス様を信ずる方々、ここに座った頭の白いおじさん、分かりますか? そうでなければなりません。(四八―二二八)
今、時は「イエス様の名前で祈祷します」という時ではありません。そういう時は過ぎ去りました。今の時は名前救援時代ではありません。実体救援時代です。今、キリスト教徒たちはみな、イエス様の名前で祈祷します。しかし先生はそのように祈祷しません。イエス様が必要なのであって、イエス様の名前が必要なのではありません。父という言葉は千個も一万個もあります。しかし実体は一つだけなのです。そうでしょう? ですから天国には、イエス様の実体に乗らなければ行くことはできないのです。名前に乗って行くのですか? (一三―六三)
2 一段階先を行く祈祷
統一教会では何を教えていますか? 父母の道理を教えています。キリスト教の教えとは本質的に違います。キリスト教で教えることは息子の道理ですが、統一教会では何を教えるのですか? (父母の道理です)。これが違うのです。息子と父母と、どちらが高いですか? 父母がもっと高いのです。ですから統一教会ではイエス様の名前で祈祷せず、真の父母の名前で祈祷するのです。一段階先を行くのです。
父と子と聖霊の三位一体でいらっしゃるなら、父と子と聖霊の名前で祈祷すべきであって、なぜイエス様の名前で祈祷するのですか? なぜお一人の名前のみで祈祷するのか、というのです。「父母」と言えば全部入るようになっているのに、どうせなら父母の名前で祈祷すればいいのに、なぜ寂しくもお一人の名前だけで祈祷するのかというのです。皆さん、男女のうちで男性だけがいいといって餅をあげ、「この餅は実にうまい」と言えば、女性は気分がいいでしょうか? 「聖霊も三位一体だ」と言いながら、祈祷する時はなぜ聖霊は抜いて「イエス様の名前で祈祷します」と言うのですか? 家でもお父さんは良くて、お母さんはいてもいなくてもいい存在ですか? お父さんの誕生日は盛大に祝ってあげながら、お母さんの誕生日は記憶してもいないのですか? 父母という因縁が天地の調和だということを、今日信じない人々も知っています。
全部相対的です。何でも合わさってこそ調和が始まるのです。目も耳も唇も、すべて、互いに合わさるところから調和がなされるのです。そのように母と父の二人が合わさってこそ、世界のすべてのことを抱けるのです。一人でいくらやってみても駄目です。
息を吸ってばかりいては生きられません。吸うことも必要ですが、吐くことも必要なのです。皆さん、酸素を吸って生きてみると、息を吸うことだけが必要ですか? 三度続けて吸うことだけしてごらんなさい。そうなると、むしろ吐くことが必要でしょう。息を吐いて炭酸ガスを体の外に吐き出してこそ、酸素がたくさん入ってくるようになっています。男性だけ出てきては駄目です。最近の世界は男性を主とした世界です。ですから根本的に女性解放運動をしなければなりません。原理的に見る時、三年以上男性が女性に従順にしなければならないのです。そうして、一つの個体が復帰するには正道を経ていかなければなりません。堕落によってアダムとエバが二人で落ちたので、上がる時も二人で上がらなければなりません。上がることは再創造と同じことです。創造する時、アダムを最初に造り、エバを造りました。それゆえに再創造する時もアダムを造っておいて、エバを造るのです。
今までの歴史は復帰歴史でアダムを造る歴史でした。ですから世界に女性の聖人がいないのです。皆さん、女性の聖人を見ましたか? 女性の聖人がいるという言葉を聞きましたか? 聖人の母という言葉はあります。孟子の母の話は聞きましたが、そうかといってその方が聖人ではありません。
結局今までは再創造の歴史でした。堕落した人間を救うにおいて、二人を一遍に救えないのです。まずもう一度造る過程、すなわち再創造の過程を経ていかなければならないのです。では、来られる主はいったいどんな方なのでしょうか? 創造目的を完成した男性として天宙の相続権を占めるために、この地上に来られる方です。簡単なことです。アダムがエデンの園で堕落しなかった時、すなわちエデンの園に造ったそのアダムが結婚する前の立場を代表した人格者として来られる方が主です。ところで、堕落しない、結婚しないエデンの園のアダムの立場に代わって来られるその主は、結婚式をしなければなりません。ですから来て一番初めに何をするかといえば、女性、すなわち母を探さなければならないのです。(二一―一九四)
3 神様を主とした祈祷
ソンターク博士の質問:文牧師の祈祷生活についてお聞きします。統一教会の祈祷生活は独特なものと考えられ、多くの信徒たちは祈祷する方法を教会の中でのみ学べると言います。
祈祷は最も威力のあるものだと信じます。それは不可能を可能にできるからです。統一教会では祈祷を強調しますが、他の特別な方法で祈祷しないまでも、その内容が違います。「自分自身のために祈祷するな」。これが私の教えです。自分の使命のために、そして他の人のために、また自分の祈祷が慰労の言葉として神様に伝わるようにせよと教えています。(九一―一一七)
先生が監獄へ入って鞭を受け、血を吐き倒れる時も、神様の前で私自身のことを心配する祈祷はしませんでした。「お父様、私は昔の預言者たちやイエス様とは違います」と言って、心の中で誓いつつ耐えてきました。「神様、私を救ってください」というつまらない、男らしくない惰弱な祈祷はしませんでした。
神様が期待と望みをかけているのに、とらわれの身になったと泣き面をして、生かしてほしいと祈祷していていいのですか? そうやるのは男らしくないことです。(一六―二四三)
三 早朝の祈祷
三 早朝の祈祷
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獄中でも先生は足を伸ばして座っていられませんでした。また、先生はサタン世界に体を見せたことがありませんでした。刑務所内でもぬれ手ぬぐいを隠しておいて、早朝祈祷をする前に体をふきました。(二一―七二)神様はまた、夜明けに起きて明け方の祈祷をせよと言います。寝ていたのに祈祷しようとすれば、正直先生もつらいです。(笑い) いつも夜明け前、四時ごろに起きて祈祷するというのはたやすいことではありません。霊界に対する体面があるので祈祷しないわけにはいかないのです。寝ぼけ眼をパチパチさせて……。こうなんです。こんなふうにつらいことです。人がみな寝ている夜中に祈祷するのは死ぬほどつらいです。しかしそうしないと駄目なのです。つらくても、そうしてこそ安らかなのです。祈祷をしなければ、皆さんにこういう話をするのも気づまりなのです。(三一―二五四)
自分が任された地域のために、三年間さえ早朝祈祷を熱心にすれば、必ず大きく復興します。(二三―二五〇)
夜明け前に起きてその人の名前を貼っておき、すがりついて祈祷せよというのです。そうできなければなりません。「この人がみ旨の中で必要です」と続けて祈祷せよというのです。私たちは霊的闘いと実体的闘いの、両面作戦ができるということです。世間の人々は霊的闘いができません。実体的闘いもうまくできないのです。何のことか分かりますか? 彼らが私たちの前に負債を負えば、彼らが後退するのであって、私たちは後退できないのです。私たちは両面作戦をするのです。こういう考えをして……。分かりますか、今は? 分かるでしょう? (はい)。
涙を流さなければなりません。心情的涙を流さなければなりません。皆さんの位置を眺めた時、神様はどうでしょうか? 「この町はあなたが愛せる町であるにもかかわらず、サタンが今この町を支配しているのです。神よ、この町をあなたの誇りとして残すべき責任が私にあるので、私に力を与えてください。私が口を開けば、洪水のような生命の水があふれ出るようにし、私が動けば風を吹かせてください。人に対して涙を流すことのできる、そのような教えを下さい。私が行動すれば、台風のように押されていく恩恵を与えてください」。こういう祈祷をしなければならないのです。(九七―一三七)
私たちは、早朝に起きたなら、「人類を身代わりした存在である私の一日の生活が、父の前に感謝の実体となるようにしてください」と祈祷しながら、花が咲いている春の園のように、自由な園で父が私を立て、「摂理をなし得る希望の結実体とならん」と言い、昼になって仕事場へ行けば、希望の結実体が育ちゆく夏の季節のように、「自分がもう一歩発展し、神様が共にいらっしゃることのできる価値をもって現れることができる存在にならん」、と言わなければなりません。また、夕方になれば、すべての存在を集約させて一つの決心を父の前にささげられる、秋の季節のような時なので、「祭物となれる場所に立たん」と言い、冬の季節に当たる夜ならば、生命力をもって神様と内在的な父子の起源を結び、「すべての価値を受け入れられる自分自身にならん」、と言わなければなりません。そのように一年三百六十五日を勝利の日としながら、感謝する生活をする人がいるならば、その人は父と関係を結んで生きる生活が、かいある生活だということを感じることができるのです。こういう生活をする人は、そうした経験をすることが間違いないので、一生を感謝する生活として送ることができます。こういう人が死の場に臨んだとしても、神様の前に感謝する心は残るのです。
一日をそのように生きなければならないし、一年をそのように生きなければならないし、私たちの一生の間もそのように生きなければなりません。私たちの一生にも少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代があります。これは一日の朝、昼、夕、夜、一年の春夏秋冬と同じことです。ですから一生をそのように生きていった人であってこそ、神様が人間を創造なさったその創造本然の目的に合格した一つの勝利的実体となるのです。(二九―三四〇)
四 徹夜祈祷
四 徹夜祈祷
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1 夜は神秘性が強い夜、深い夜は神秘性が強いというのです。ですから復興会をする時も、昼に復興会をするより夜に復興会をするほうがもっと恵み深いのです。なぜそうかといえば、昼は私たちのすべての感情が分散されるからです。すなわち、視聴覚等、私たちが五官で感じられるすべての感覚が分散されやすいのです。しかし夜はそうでなく、むしろ集中します。すべてのものが私を包囲して私を目立たせ、そういう圏内に私が自動的に立つので、夜は神様と共に恩恵の役事をしやすいのです。神様も役事をよくしてあげられるのです。ですから、夜、食口たちを連れて野原で話をすれば、その話は神秘性を帯びるようになります。また、部落部落を往来しながら食口たちを家まで連れていってあげる途中、話をすれば、その食口はそれを一生の間忘れられなくなるのです。その楽しさは何かで形容することができないのです。そういう価値性を感じられる生活をする人は発展します。
皆さんも十二時を回り、一番鶏が鳴く声を聞く時まで、み言を伝えてみなさいというのです。どのぐらい神秘的でしょうか。静かでひっそりとした夜に、村の犬がほえる声を聞きながら、み言を伝えてみなさいというのです。あたかもまばゆい陽光を求め、新しい人生の道を打開していくように、灯台の光を求め、新しく航海する船長のような気分を感じるようになるのです。周囲がすべて神秘で満ち満ちた世界を一人行くような勇敢な姿、男らしい姿、荘厳な姿を感じるでしょう。こういう心情的連帯感をもつには、夜の時間を中心にして指導せよというのです。ですから夜や明け方にこういう活動を展開する必要があります。
ところが、その対象が夫や妻のある人である場合には、必ず問題が起こります。それをよく理解させ、夜の時間を貴重なものとし、夜でも自分の環境を振り切って出てくることができなければなりません。こうした心情的な原動力を備えることが必要です。そうして、その人々がどんな環境でも皆さんが指示するとおりに従えるようにしなければなりません。これは、まずみ言によってそうしなければならないし、その次には行動でそのようにつくらなければならないし、心情でそのようにつくらなければなりません。そうすれば、その人は落ちません。その次に伝道させてみよというのです。他の人を伝道できる程度まで育てておかなければなりません。こうなれば、皆さんは伝道した人を一人も失わないでしょう。(二九―一九六)
2 徹夜祈祷の意義
皆さんは徹夜祈祷をするでしょう? 精神を天に全部奉り、世間の事情をすべて忘れて……。その境地が何かといえば、眠りの境地に入るということです。そういう境地以上の場所に入るというのです。この肉身のかすが全部沈滞すれば、清い水が浮かび上がるのと同じで、眠りは私たちが精神修養して精神を奉り、悪い意識を全部下ろすということです。眠りの境地、そういう境地へ入れば、皆さんが疲れてうとうとするでしょう? そういう時はすべて聞こえるのです。すべて見えるのです。聞くには聞くが確実には聞かず、見るには見るが確実には見ません。そうなれば何が起こるか? 夢のような現象が起こります。その時何を教えてくれるのですか? 分かりますか? それが全部理論に合わないといけないのです。何のことか分かりますか? (はい)。
ですから徹夜祈祷をして、すべての肉を断絶し精神を統一して、しきりにささげることによって、未来に自分の行く道が見え、その次にそれが習慣化すれば、全体を操縦できる場所に入るのです。そうなれば祈祷さえすれば目を開けても見えるし、すべて聞くことができる境地にまで入ります。二つを見、二つを聞くのです。そういうところに上がろうとすれば、相当な修練、修養が必要なのです。(九一―二七五)
私たち人間が堕落することによって、サタンの血統を受け継いだというのです。サタンの血を受け継いだというのです。ですから動くようになる時はこの血が、悪なる血が動いているのです。皆さんはそれが分かりますか? ガラス管のような所へ入れてみれば、濁った水と同じだということが分かるのです。けれども眠るならば、このすべての肉身が休むので、沈むというのです。重いものは沈み、清い水が浮くのと同じです。本来の清いその心は、天と関係を結べるので、ここに象徴的に、形象的にこれから行われるものを夢の中で天が教えてくれるのです。(九一―二七三)
神様だけを主として、自分が新しいものを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そういう心情を感じながら活動をすれば、そこには必ず繁殖が起こるのです。そうすれば発展するのです。生きている木には新しい芽が出てくるのです。きのうときょうは違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。それに反し、根のない木は死んだ木です。きのうときょうが変化するのです。
皆さんがこういう感情を失う日には、生死を懸けて祈祷せよというのです。徹夜祈祷をしてでも精誠を積んでいかなければなりません。神様は皆さんがそういう生活をしようとすれば、わざとその時間を奪っていこうとするかもしれません。そうなればいくら努力しても望みを見つけようにも見つけられないでしょう。努力すればするほど、もっと真っ暗な窮地に入る時もあるというのです。そうなる時には、くっついてくるサタンまでも自分の側に屈伏させて神様に侍らなければいけないという心をもって、もっと強く闘えなければならないのです。(三〇―一三三)
3 教会ごと徹夜祈祷をしなければならない
昼も働かなければなりませんが、宗教の仕事は夜しなければなりません。夜が効果的なのです。夜教えてこそ、効果的だというのです。それから、明け方に教えてあげても効果的です。そうやって、一度来た人がそれこそ来ずにおられず、家から逃げてくるくらいにしなければなりません。皆さん自身がそうしなければなりません。動機がないのに結果がありますか? 皆さん、今まで駄目だったなら、今よりもっと熱心にやって、もっとうまくやりなさい。他の方法を研究してでもやりなさい。(九七―一九六)
至聖所、聖所がなくならなければなりません。今後霊力が強くなり、霊が明るくなります。そこに汚点があってはいけません。公的な立場を離れて生活をしてはいけません。教会を守るにおいては、祝福を受けた者同士が三位基台を編成して守らなければならず、寝てしまってはいけません。サタンが主管する夜まで主管するために、徹夜して守らなければなりません。教会をあけてはいけません。四方にかき混ぜても安心できる時までそうしなければなりません。ですから暗号訓練をしなければなりません。全国にいる食口たちは、三日から七日以内に互いに連絡できなければなりません。暗号はサタンに知られてはいけません。これでサタンを審判しなければなりません。食口が七十名、百二十名になる所では、夜があってはいけません。居眠りしてもいけません。絶対に夜があるようにしてはいけません。
今後集会は夜多くもつのです。闇の世界を打ち破っていかなければならないからです。そういうことをするためには、切々たる心情をもたなければなりません。公的な仕事に責任をもっていくことが、どれほど貴いことでしょうか! (一一―二四七、一九六一・一一・一)
神様を身代わりして働けるでしょうか? 自分が全体を身代わりして責任を負っているという思想をもたなければなりません。全体を代表しているという思想をもたなければならないのです。全体の前に支障がある時には、それを自分の責任と思い、身の置き所をなくし、夜を明かしてでも祈祷し、昼夜を分かたず精誠を尽くさなければならないのです。こういう所にいる人は、体は地にあっても神様のことを代行する所にいるので、神様はその人に協助するのです。
ですからその場所では発展せざるを得ないのです。そこには喜びと栄光と希望がとどまり、強い力がとどまるのです。神様が共にいらっしゃるのです。神様が共にいらっしゃるので、生命力が宿るのです。そこに愛の心が継続するのです。
そういう人になるための第一の条件は何ですか? 「私は全体のためにいる人間です。ですから夜なら夜、昼なら昼、時に関係なく二十四時間彼らのためにいます」という思想をもたなければならないのです。こういう人は、絶対サタン世界で滅びません。(四四―一三)
毎日のように慕わしく思えない人は神様に侍れません。皆さんはこれを知らなければなりません。誰を慕わしく思っても、いつもしみじみとした慕わしさにあふれていなければなりません。ところが夜十二時になりさえすれば、「さあ、寝よう」と言う人は、神様に心配をかける人です。天国は夜と昼がありません。心情の因縁を抱き、出てくる時は夜が問題ではないのです。(一七―二九三)
今や三分の二は越えてきました。ですからもう三分の一しか残っていないというのに、心配することがありますか? そういうことは心配もしません。そういう問題では祈祷もしません。今まで経済問題では絶対祈祷しませんでした。私はお金を下さいなどという祈祷はできません。祈祷は原則的祈祷をすべきで、むやみにすれば蕩減を受けます。災いを受けます。私のような人間は、絶対に欲望をもって祈祷しません。
さあ、そういうことで、お金がなかったり、物がなかったりする時には徹夜祈祷をするように願います。祈祷する場合においては、自分を慨嘆する祈祷ばかりしてはいけません。大韓民国を中心に、北韓の地に住んでいる民のために祈祷し、ソ連を中心に共産圏内で今呻吟する労働者たちのために祈祷しなければなりません。あのシベリアの原野で死んでいくかわいそうな人々のために祈祷せよというのです。彼らのために北韓を解放し、そこまで行って解放できる道を整えさせてほしいと祈祷してこそ、天が聞いてくださるのです。(一六六―一九三)
土曜の夜には教会で徹夜をしなければなりません。(一七―三四七)
皆さん、徹夜祈祷をしますか? 徹夜祈祷しなければなりません。講義する人は必ず、夜一食断食してから講義せよというのです。精誠をささげよというのです。そうしなければすべて流れてしまいます。しがみついて訴えよというのです。切々と訴えよというのです。父母が愛する子供に訴える以上に、師が愛する弟子に訴える以上に、妻が愛する夫に訴える以上に訴えなければなりません。そうでなければ天が共にありません。(一六六―一八一)
4 お父様の徹夜生活
責任者は、三十日のうちで十日間は家にも帰らずに、外に出て寝なければならないと私は思うのです。夜を明かしながら話をしてあげるのです。「そうせよ」と言えば、皆さんは全部逃げるのです。どうですか? 逃げないでしょうか? (はい)。
先生がそうだったのです。一九五七年度に韓国で食口をつくる時には眠りもしなかったのです。一対一の作戦をしたのです。一対一の作戦です。残るのは一対一の作戦なのです。一人を前にして講義する時、百人、千人を前にして講義するのと同じ思いでしたのです。その一人に数千、数万人がぶら下がっていると思ったのです。私がどんな命令をしても聞くことができる、そういう人にするためには、私がそれぐらい精誠をささげて、そうできる動機をつくってあげなければなりません。
さあ、私を通して皆さんがそうなり、皆さんを通してアメリカ人がそうなればアメリカは生きるのです。そうなる時、三段階の因縁が結ばれるのです。私と皆さんが一つとなり、皆さんと地方にいる食口が一つになるのです。こうならなければなりません。それはなぜそうなのですか? なぜ三段階になっているのですか? 神様とアダムが一つになり、アダムとアダムの息子が一つになったのと同じことなのです。それが原理なのです。三段階が完成できなければ、四位基台完成圏が現れません。これです。分かりますか、何のことか? そう、皆さんが皆さんのような人をつくっておくことができなければならない、ということです。皆さんのような人を個人的に……。問題がそれなのです。(九六―二八五)
今、先生が行く道においても、私がどうにもできない力に引かれていっています。皆さんも統一教会に来てからは、ある大きな力が皆さんを追い立てていることを感じるのです。苦労し、悪口を言われてこそ、かえって力が出るのです。先生もある時は足が腫れ、動けなくても「この足め、お前は神様のために行かないと駄目だ」と言いながら、この道を行っています。
今、み言を語り始めて長い時間が流れましたが、時間の観念なしに話したところ、時間がたつのも忘れて聞いています。皆さんが時間がたつのを忘れているのは、神様の愛に酔っているからです。ですから統一教会は、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが普通でした。(九七―二〇九)
朴普煕もいつも祈祷をあまりしないのです。先生を代わりにして、しがみついて出なさいというのです。「先生はこういう場所でこうするだろう」という心情的場所へ入っていける人がいません。朴普煕が今までよくやったのはそれです。先生に報告するとなると、できるだけ細かく報告しようとします。それはなぜですか? 先生が報告を聞いて心から喜ぶので、先生を喜ばせるためにです。
いくら疲れても、夜十二時を過ぎても、先生の目が鉄砲玉のようになって、喜んで報告を受けられるようにしようと材料を収集してきます。それが貴いことです。そうするには、出ていって前よりもっと良い材料、もっと努力した材料、もっと成果を上げた材料をもってきて先生に見せないといけないのです。ですから精誠をささげなければなりません。出ていってむやみにそのまま講演しないのです。原稿を書いて出ていきます。そうなれば、そういう人たちはもっと確実に発展するのです。(一六六―一八二)
ですから精誠をささげなければなりません。精誠をささげる時には、むやみにささげないで、かわいそうな人を立ててささげなければなりません。先生はある人を前にして精誠をささげる時、その人が御飯も食べられず着る服もないと思われると、寒い時も服を脱ぎ、その人のために祈祷する時がたくさんありました。そういう基準があるので、今日このぐらいにまで基盤を整えられたのです。
人知れず涙もたくさん流し、かわいそうな人々を見れば、彼らを助けてあげるために世のすべてのものをみなあげたくなる時もありました。そうかといってそれが罪になりますか? あげたい心、助けてあげたい心をもって欲望をもつようになる時には、神様も褒められるのです。自分だけ食べて生きようというのではなく、全部が良くなるために、現在は苦痛でも、未来は良い暮らしができるように欲を出すのは良いことです。
医者が手術をしようとメスを取り上げたところ、夜十二時になったといって居眠りをするでしょうか? そういう医者と同じで、生命に責任をもっている人たちはそれだけ深刻でなければなりません。こういう観点から皆さんを見れば、全部流れていってしまう人たちのようです。(四二―一六九)
5 イエス様と徹夜祈祷
イエス様も夜を明かして祈祷をしたのです。過去に天の仕事をした人々も、祈祷せずには大きな仕事ができなかったのです。そういう祈祷する姿勢をもつことによって、神様のみ旨がいつ成されるかも知らず、自分が祈祷すれば成されるかどうか分からずとも、待つ心にならないといけないのです。(一〇四―一一一)
イエス様のような方も、徹夜祈祷をたくさんしたのです。断食祈祷をし、愛する人を全部捨てて一人孤独な場所で……。それをいうのです。先生もお母様と一緒に住んでいますが、今でもそういう生活をしているというのです。そうでないとふさいだ気分になるのです、いつでも。(九四―一五七)
今、天のみ旨を中心にした一人の旗手となり、人間の力をすべて尽くして叫ぶ時、その叫びが地上だけでなく天に及び得る時になりました。イエス様の時代より良くなったのです。イエス様は、ゲッセマネの園で夜を明かしつつ祈祷しましたが、その三度の祈りにも反応がなかったのです。民族はもちろん、ユダヤ教会も反応がなかったのですが、今私たちの時はそれとは違います。自分が死を覚悟して出ていけば、反応を起こせる群れが国家を越え、世界にいくらでもいます。私たちはこういう時に臨んでいるのです。
ですから一夜を明かす場合も、食口のために明かさなければなりません。自分のために夜を明かす人はペテロになるのです。民族のために、世界のために夜を明かしたのがイエス様の立場ではなかったのでしょうか? 死が行く手を閉ざしてくる、そういう運命の道でもイエス様が心配したことは、自分の死ではなく弟子たちを心配し、民族を心配したので天の同情が臨んだのです。ですから復活したのではないでしょうか? 皆さんはそれを知らなければなりません。正にそういう時が今です。
今こそ私たち統一教会の教団が、イエス様がゲッセマネの園で夜を明かして祈祷した時と同じように祈祷する時が来ました。夜を明かして祈祷するにおいて、自分のために祈祷する時ではありません。私たち民族のために祈祷し、世界人類のために祈祷すべき時です。そのことのために夜を明かし、そのことのために共に泣く群れは滅びないのです。死の道も共に行くことを決意する人は滅びないのです。その瀬戸際の道が、復活の約束をできる最後の判決を下すのです。自分を滅ぼすのではなく、滅ぼすようでいて、復活を促すことのできる生命の動機を付与してくれるのです。そういう時代が私たちの前に近づいています。(六〇―三〇)
第二節 聖地聖別と聖地祈祷
第二節 聖地聖別と聖地祈祷
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一 聖地聖別の理由1 聖地聖別の理由
統一教会では、合同結婚式をしてきたし、また聖地を選んで祈祷できる地を決めてきました。追われ追われて祈祷しに行く所がなかった私たちが、今は神様の前で訴えることのできる聖地を決定したのです。それは歴史的で、世界的な勝利の立て札を立てたことだという事実を知らなければなりません。
こういう基準を拡大するために、昨年先生が世界を巡回しながら四十カ国に、百二十カ所の聖地を決定したのです。多くの経費を使いつつ、いくつもの国に聖地を決定したのは、そうしなければならない神様の摂理があるからです。こういうことは歴史にないことです。
ところでなぜこのようなことをするのでしょうか? 天地の運勢に拍子を合わせ、神様の摂理のプログラムに合わせるためです。四十カ国、百二十カ所の聖地は、神様の選民圏を守ってあげられる地です。この地を、肉身をもった人々が守れなくとも霊界の霊人たちが守ってくれるのです。神様が共にいることのできる立て札を立て、闘うことのできる基盤をつくって、民族復帰運動の闘いを勝利をもって導くことのできる起点を立てるためのものです。天地の運勢が最後の運命を決定すべき時代圏の内に入ってきているということを、私たちはしっかりと見ています。(一六―二六二)
2 聖地聖別の経由
隊員たちは、三位基台と各自が接触できる機会を頻繁にもちましょう。彼らが会う所は聖別し、万物復帰の基準を立てます。その付近を往来する食口たちが立ち寄って祈祷していきます。こうして集まり、聖別地域に関する関心を呼び起こします。
この聖地を遍歴する慣習を育てましょう。自分の価値を万物の価値の刺激によって感じます。イスラエルが倒れたのは、祝福を受けた地に対する愛着を失ったからです。隊員がいない所も聖別しておいて、この聖別した所を死守するための伝道をしなければなりません。四方八隻以上……。陰暦九月十日以内に地方聖地を決定、聖別しなければなりません。
アブラハムが自分の死体を、聖別した地に埋めてくれることを願ったように……。過去には聖塩を外部にまくことはできませんでした。(一九六二・九・一〇 劉孝元氏筆記帳)
二 聖地聖別
二 聖地聖別
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1 聖地聖別 実例1 一九六五年十二月二十二日 劉孝元氏 筆記帳人を探したのちは地を探さなければなりません。韓国で堕落前の基準を立てたので聖地を選ぶことができました。世界四十カ国に百二十カ所の聖地を選びました。
一二〇家庭は百二十国家を象徴するので、一二〇家庭の祝福とともに百二十カ所の聖地を選ばなければなりません。
聖地が選ばれたということは、堕落前、人間を創造するための地を造ったことと同じ立場です。ここに聖徒が立つことによって、堕落前の人間と地が成立したのと同じなので天使世界、霊界が協助せざるを得ません。
ですから百二十カ所の聖地をもったことは、百二十カ所の領土をもったことになります。アメリカの聖地を選ぶ時、アメリカの祖先たちが協助するようになっています。
一九六四年十二月三十一日と一九六五年一月一日から始まって、一九六五年十二月三十一日と一九六六年一月四日まで、年数としては三年の間聖地を選びます。
六数はサタンが侵犯できるので蕩減復帰しなければなりません。韓国問題がこのように解決するのもここからです。乙巳保護条約以後、六十年の内にそれが解決されました。
イエス様が地上に来られ、父母に捨てられたので、先生も父母に伝道できないのです。
2 聖地聖別 実例2 一九六六年一月一、二日 劉孝元氏 筆記帳
朝四時三十分に起床し、礼服を着て敬拝し、五時三十分にきのうのように六七四二号、二〇六三号、二台で南山聖地に到着し、岩にお座りになった先生を中心にして座って祈祷し、歌を歌いました。
七時十分に聖地を選びました。多くの食口たちが集まりました。ここにだけは修練生たちも参席させました。(一九六六・一・一)
午前十一時に本部を中央聖地に決定しました。ソウルでの聖地選択時の位置は地方と同じで、第1図に等しい。しかし南山聖地だけは、嫡子のように子女たちの位置を変えられました。
それから本部では、修練生たちと食口たちがぐるっと囲んで座った前で、前と同じように机を置いて第2図のように選定されました。先生は机の上に第1図のような模様でまず要約して描かれ、次に外国から持ってきた土をまかれました(これは劉孝元が完全に保管した)。そして教会内に立たれた方々は立ったまま、先生は聖進様をお呼びになって聖塩と土を持ち、教会の外に出られて聖別なさったのち、入ってこられました。
式を行う前と終わったあとに先生が祈祷されました。祈祷の内容は、聖地を選んでくださったことを感謝され、この聖地に訪ねてきて訴える子女たちの声を直接聞き、答えてくださいというものでした。
そして、これらの聖地と世界の聖地を連結させてくださいと祈祷されました。聖地ごとにまいた土と、また聖地に埋めた石は、手ずから四十カ国に選定された聖地に少しずつ持っていって合わせたものです。(一九六六・一・二)
三 聖地選定
三 聖地選定
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1 聖地の格位体は聖地の
心は聖天の 代身だ。(一九六一・陰一〇・一)
心情は神様の
2 聖地選定の意義
今日統一教会が成さんとすることは何でしょうか? それは正にイエス様がこの地に来られて成そうとされたことです。それではイエス様がこの地に来られて成さんとしたことは何でしょうか? イエス様はイスラエル民族を中心にしてユダヤ教をアベル的基準に立てて、カイン的基準であるイスラエル民族を復帰しようとしました。今日統一教会はユダヤ教の立場であり、韓国民族はイスラエル民族の立場で選ばれたのです。
イエス様がこの地に来て探し求めようとした個人完成、家庭完成、氏族完成、民族完成の基準、すなわち神様が求めようとなさった家庭と、神様が求めようとなさった氏族と、神様が求める民族的な基準を、今日私たちが広げてきたのです。それで一二四双を韓国各地に配置しながら聖地を選定してあげたのです。その聖地を中心として、一体となった因縁を備えていき、使命を果たせと頼んだのです。
こうすれば、個人的使命を果たしたことが基準になり、世界史的な全体の責任を中心として世界と連結できる勝利の時代がやって来るようになるのです。それで先生はソウル地域に東・西・南・北の四大聖地と中央聖地、そして本部等の七カ所の聖地を選定したのです。こうして世界と連結される勝利の時代が来ると、先生は一九六四年十二月三十一日と一九六五年一月一日を期して、七カ所の聖地に土と石を持っていき、外国に持っていく準備をしたのです。
この土と石とは何でしょうか? アダムが堕落することによって、神様はアダムだけを失ったのではなく、世界を全部サタンに奪われました。しかし、今は神様が訪ねてこられる勝利的な基盤が準備されたので、地を求めることができる時代圏に入ってきました。ですから、聖地にある土と石は、神様が臨在することができる基盤となるのです。それで聖地を宣布したということを、皆さんは知らなければなりません。
それでは神様と人間と聖地が一致すればどのような因縁が始まるのでしょうか? 堕落する前のアダム、エバに復帰されたという基準を立てられるのです。聖地を選択するのは、エデンの園で失った人と地と万物を復帰できる地を整え、人を求め、神様に対することができる礎石を決定することです。(一六―七四)
3 霊界が動員される聖地
また、聖地を決定すればどのようなことが起こるのでしょうか? アダム、エバが堕落する前には霊界がありましたか、ありませんでしたか? その時の霊界がすなわち天使世界です。天使世界はアダム、エバが早く完成し、神様の愛を受けられる生活圏の中に入ることを待ち望んでいたのです。天使世界はアダムとエバを協助し、アダムとエバが神様の子女となり、神様を中心とした家庭をつくり、神様の愛を受けられる平和の基盤を成すことを待ち望みました。ですから聖地は、神様に祝福を受けた家庭のように聖別された所なので、そこに霊界が協助できるのです。(一六―七五)
こうして聖地を選んだ基盤の上に、神様が愛する息子、娘を送れば、神様に侍ることができる基盤が整えられるようになります。そうなれば霊界から協助しないといけないのです。
世界の国々を巡回しながら聖地を選んでおいて、統一信徒たちを早く配置しなければならないと思いました。ここに配置される人々を、復帰されたアダム、エバの基準に立てて、今まで霊界が接することができなかった基準を蕩減させるのです。そうなれば地上で横的闘いを展開させられるようになるのです。
天使が堕落させたので、天使たちがこの地に来てサタンを追放しなければなりません。これが蕩減復帰の原則です。霊界を動員して地上からサタンを追放しなければなりません。(一六―七六)
4 聖地選定の過程
誰であっても全部が天国へ行ける道が開かれました。信じさえすれば誰でも天国へ行く道が開かれました。罪人であれ善人であれ……。それで全国的に統一教会を信ぜよと宣布するのです。全国民に全部知らせるのです。そうしてこれを世界に連結させるために、先生が一九六五年に人を探しました。人を探したので韓国を中心にして世界、地に連結しなければならないのです。ですから地を探さなければなりません。カナンの地を探さなければなりません。探して連結しなければなりません。分かりますか? それで四十カ国を中心にして三倍となる百二十カ所の聖地を選んだのです。
ここで何をするのですか? ここで韓国の地を連結させるというのです。四十カ国に。どういうことか、分かりますか? ここで石と土を持ってきて埋めるのです。その次に人……。それは人の体と心を象徴します。体は土であり、骨は石です。このように象徴するのです。イエス様は骨を象徴し、私たち人間は肉を象徴するのと同じことです。それは天と地も象徴するというのです。分かるでしょう? その次に何かといえば、これを人と人とを合わせて連結させるということです。分かりますか、何のことか? その時四人が行くのです。四位基台なら四位基台を編成し、これを全部越えていくのです。それで百二十カ所の聖地に、韓国の土と、韓国の石と、韓国人を象徴的に埋める、連結されるというのです。これは未来のカナンの地です。未来のカナンの地。その霊的基準をつくっておくのです。
さあ、そうしてその地を中心に、そこへ行って祈祷する統一教会が起これば、霊界とその地を中心とした国民が全部協助するのです。再臨するのです。それが四方へ盛んに拡大していくのです。しきりに連結されます。分かりますか?
それを選んでおいて何をするかというと、ここに四三〇家庭を代表した全世界、ヨーロッパと日本とアメリカを中心にした三カ国に四三〇双を相対的につくったのです。祝福家庭を相対的につくったのです。この聖地を選んだ基盤の上に、四十三家庭を世界で祝福したのです。分かりますか? そうして韓国の四三〇家庭と連結させるのです。同じことなのです。相対をつくることです。分かりますか、何のことか? (九八―一八九)
さあ、この期間、一九六五年に何をしたかといえば、国家聖地、世界的聖地を選定したのです。四十カ国を中心にして百二十カ所の聖地を選定したのです。それは既に韓国が神様のみ旨の中に立つことができる足場となったので、その地を全部接ぎ木したのです。それで百二十カ所の聖地を選定したのです。四十カ国に。分かりますか? その聖地が最もたくさん選ばれた所がアメリカなのです。それは何かといえば、アメリカを中心として最後の決定を下すからです。分かりますか? なぜそうかといえば、アメリカという国はアベルたちが集まった所です。旧教から反対を受け、弟の位置にいる新教が全部旧教に追われて合わさった統一国家がアメリカなのです。(九九―一七八)
ですから四十日の間にアメリカ全域を回ったのです。四十日間に。その期間に何をしたのですか? 聖地を選んだのです。そう、ホーリー・グラウンド(Holy Ground)とは何ですか? 神様の愛を所有できる特権的条件を立てたのです。
この国に世界のどの国よりも多くの聖地をつくったのは、主にこの国で勝敗の決定をするということを既に予告したということです。ここの一つの州に、ある一つの国以上の価値を付与したのです。ですから宇宙のセンターだと見たのです。世界のセンターだと見たということです。(一二四―二八)
先生が世界四十カ国を巡回しながら百二十聖地を選定したのです。先生が遊ぶために歩き回ったのではないというのです。韓国にある八つの道の聖地を中心にしても、韓国を世界と連結していかなければなりません。世界各国の聖地が韓国の石と土を中心にして一つの核心的な祝福の基点になってこそ、それを中心にして世界が回ることができるのです。こうしておいた基盤の上に、一九六八年正月、元旦に、「神の日」を宣布するようになったのです。分かるでしょう? 「神の日」を宣布したという事実を、世界的に歴史的な勝利を収めた土台の上で神様を、褒めたたえるのです。(二六―三一六)
イエス様が生きておられた当時には、聖地がありませんでした。しかし統一教会では「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」があり、聖地を選定してその聖地で祈祷できるということが、イエス様より幸いだということを知らなければなりません。そういうことを考えてみましたか? イエス様はゲッセマネの園で木の枝と草の株にすがって夜を明かし、神様の前で祈祷するのに、「私の父よ! もしできることならばこの杯を……」と言って三回も祈祷したその懇切たる心情と、人知れず涙を流し胸に浸みわたってくる哀切とした思いで胸を焦がした、その心情を誰が分かっただろうかというのです。(一七―一四三)
5 聖地選定の結果
今後民族的な運勢とともに、世界的な運勢が歩調を合わせて出ていく時が来るのです。ですから先生が韓国の首都、ソウルで選んだ聖地を世界的に接ぎ木するのです。国内だけでなく、世界的に接ぎ木するのです。韓国の聖地を世界的に接ぎ木するのは何のためでしょうか? 世界を韓国の地とするためにです。蕩減復帰の原則によって、サタン世界へ行って聖地を決定すれば、そこが韓国の地となるのです。なぜ韓国の地となるのでしょうか? 天的に見る時、聖地さえ選べばそこは韓国の地になるようになっているからです。(一六―七六)
今まで四十カ国で聖地を選定しました。これによってこれらの国に既に韓国の領土が生まれたのです。こう見た時、韓国は金持ちの地ですか? 韓国は世界で最高の国になりました。四十カ国に領土がある国がどこにありますか? それを管理する人が統一教会の文先生です。これは笑うような話ではありません。聖地を祝福することによって、国家主権が天の側に移ってくるのです。(一六―七七)
先生は、私たちの教会がある所へ行くたびに、今後アベル的な存在の基盤を復帰しないといけない、という祈祷をします。先生は、このための摂理的な計画によって聖地を選定してきました。聖地を選定してきたのは、経済的復帰のための基盤を準備することでもあります。ですから各所ごとにアベル的な財政支援をしないといけないのです。それで先生は各国へ行くたびに、先生の名前で貯金をしてあげました。アメリカへ行けばアメリカのお金で、日本へ行けば日本のお金で、ドイツへ行けばドイツのお金で預金通帳を作ってあげました。
先生の名前で預金できるということは、父母に対することができる心情的因縁に同参できる特権を付与されたのと同じことです。(一六―七九)
先生は世界四十カ国に百二十カ所の聖地を選びました。聖地を選んだその四十カ国を代表し、国家的基準に責任を負うことのできる人を宣教師として送らなければならないが、誰を送るかというのが問題です。行きたい人は手を挙げてみなさい。皆さんはそういうこともすべて決心していなければなりません。宣教師として行き、伝道をよくせよというのではありません。こじきをしても、その国、その民族のために涙を流し、血の汗を流したという、その材料だけ残せということです。言葉ができなければおしになれというのです。言葉を話して何をしますか? 言葉ができなくて伝道ができませんか? おしになってもいいということです。(一七―六七)
聖地なら聖地を中心に見る時、自分が立った地は四十カ国を中心にした百二十カ所の聖地を代表するものであり、その壇上に立てば、その壇上は世界を代表した壇上なので、世界を代表して立ったことになるのです。さらに、そこに伏して祈祷する時は、祭物的な祭司長が万民の罪を贖罪するために祈祷することになります。(二九―二八四)
6 聖地選定時の余談
先生がシリアへ行って聖地を選ぶ時に、七時間以上かかりました。それで世界の聖地の内で、一番印象に残る所がシリアです。先生がそこへ行った時に、東ヨーロッパ一帯を中心にした世界博覧会、すなわち国際博覧会が開かれていました。そこにソ連の衛星国家が全部自分の国の産物を持ってきて、展示していました。そこで、私はソ連展示館へ入りました。その時の印象が忘れられません。
昼は聖地を決定できず、夜決定したので時間を多く消耗しました。もし昼に、立って祈祷するキリスト教徒がいると、人々は石で打ち殺そうとするのです。それで一緒に座っていたセルビア人の助けを借りて聖地を選んだのです。こうして聖地を決定したのがきのうのことのようです。それはまた、イスラム教圏内の文明が霊的にはどの段階にいるのか知りたくて、先生がそうしたのです。(一八―二三二)
第一次七年路程の期間に、韓国の土と石を持って四十カ国に百二十カ所の聖地を定めなければなりませんでした。それで眠る時にも、この土と石を枕にして寝ました。もしこれらを失えば、三段階に延長されるからです。その国をこの民族よりももっと愛する立場に立たなければなりません。韓国でひっくり返るほど、韓国は世界にもっと見事に登場するようになります。
今回、世界巡回を終えて帰ってくる時、無事に帰ってきたことを感謝しました。ところが迎えにくるべき食口たちが見当たりませんでした。その時の心情は、先生のほかには誰も分からないでしょう。(二一―二八五)
四 聖地祈祷
四 聖地祈祷
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1 聖地祈祷をせよ統一教会の全食口が聖地祈祷をしなければなりません。(二二―一五三)
今後、皆さんは統一を中心にして祈祷しなければなりません。分かりますね? (はい)。また、聖地を中心に祈祷をするのですが、先生が帰ってくる時まで、男性も女性も関係なく、時間があるたびに聖地で祈祷せよというのです。早朝に行けないならば、昼や夕方にでも行って祈祷せよというのです。
先生が草創期にこの聖地で涙を流し、祈祷したことを考えてください。今まで、聖地を選んで「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を選定する時まで、どれほど苦労の道を歩いてきたか、考えてください。それを中心にして、「神の日」である一九六八年正月、元旦が来るまで、どれほど苦労したか、皆さんは知らなければなりません。神様もかわいそうだったし、先生もかわいそうだったし、統一教会信徒たちもかわいそうでした。
今、統一の起源を全世界に発展すべき責任が皆さんにあるので、たとえ硬い石の上に座って祈祷するとしても、二人が涙を流し、山、川が頭を下げるような祈祷をしなければなりません。
したがって、私が今回巡回する時、皆さんが昼食を食べられないようにしなければならないでしょうが、そうしたくありません。その代わり聖地祈祷を熱心にせよということです。分かりますか? (はい)。「統一の歌」を一生懸命に歌い、その心が民族の感情と、あるいは人類と神様の復帰摂理に統一的な感情をもたせるようにし、万民が見習うことができるように、聖地を中心に精誠を込めて祈祷せよということです。(二二―一五八)
聖地祈祷を通じ、先祖に協助するよう要求しなければなりません。(一三―一六一)
聖地巡礼は、そこへ行って祈祷することだけが重要ではありません。行って来る時間が、すべて精誠をささげる時間なのです。(一八―一八七)
そう、統一教会の信徒たちは、今聖地へ行って涙を流し大変でしょう? 聖地へ行って涙を流せない人は食口ではありません。聖地を訪ねて精誠をささげなければなりません。イスラエル民族はエルサレムの聖殿を失いましたが、それが聖殿になるのではなく、この地球が聖殿にならなければなりません。この地球という星が聖殿にならなければなりません。この地が聖殿になれない時は、この地にすがって皆さんが涙を流さなければなりません。聖殿の実体基盤に代わる聖地に対し、涙を流すことができる因縁を整えてこそ、皆さんがこの地の主人となれるのです。
それが全部私たちの……。こうしてつくっておいたので、献貢式が始まるのです。涙とともに闘って、そこに聖別されたその地域のすべての価値が、いくら一つの所でも、そこに表れた聖地の価値が、サタン世界のすべての地域の価値よりも高く、天に記憶されるような因縁で積まれないなら、この献貢式をすることはできません。民族的で、世界的な献貢式をすることはできないことを知らなければなりません。皆さんが涙を流し、血の汗を流し、そこへ行って悲しみを訴え、怨讐に対して天の勝利の日を訴えた、その基準を天が記憶するという時は、その地がサタン世界から高く持ち上げられるのです。霊界から見ればそういうことです。
ですから雑霊が通ずる人々が、私たちの聖地に来て祈祷するのです。そういううわさを知っていますか? 雑霊が通ずる人々が、私たちが聖地に選択したそこへ来て祈祷するというのです。「そこが天地が接する地だ」と、「天地が接する焦点だ」と言って、そこへ来て祈祷するようなことが起こるのです。もう既にそれを知っているということです。そのくらい高く持ち上げられているということです。高く持ち上げられたこの基準を中心にして、神様の心情を中心にして操り、全部ひったくるようになる時に、この江山がサタンの讒訴できない聖なる勝利の祭物としてささげられることができるのです。こういう時を用意しておいてこそ、献貢式が始まるということです。(一五二―二八〇)
2 聖地と私たち
神様は、私たちを通じて善の理想世界、すなわち心情の園を歌うことができるようになりました。さて、皆さんは神様が願われる聖なる地の主人として、心情の世界を望むことができるでしょうか?
聖地を条件として三千里(注:韓半島)を愛さなければなりません。この地で生きたいと思い、この地で汗を流したいと思わなければなりません。この地に血の出るような歴史の伝統があることを知り、父を記憶しなければなりません。
聖地と聖物を守ることができなければなりません。これらを守るのに総力を傾けなければなりません。皆さんは、祝福を受けた家庭を貴いものと感じられないようです。祝福家庭は皆さんが守らなければなりません。気高く生き、死ぬことができる気高い地を求めなければなりません。聖地、聖民を早く復帰しなければなりません。(三―一四)
聖地を愛し、万物を愛し、祝福を受けた家庭を愛しなさい。(一三―一二七)
皆さんが地方の聖地を眺めてみた時……。皆さんが帰って聖地へ行く人もいるでしょう。聖地を守ることのできる皆さんにならなければなりません。天の祝福、天の約束のもとで、天命を奉って、歴史になかった新しい聖地を準備しておいたのに、その聖地を守れる人がいないというのです。患難と迫害が激しいといって、数多くの同士たちが覚悟を決め、誓ったけれど、その誓いをすべて忘れた私たちの前に……。
十名が決意したのに九名が落ちれば、九名の精誠を加え、十名の決意に代わって聖地を守ってあげられる、こういう人を天はつくろうとするのです。天はそういう人をこの民族の前に立てて、万民を愛したかったのです。これが今まで師が整えてきた歴史的な因縁だったし、また皆さんを残して行く時、そういう因縁によって今後新しい運勢がこの韓民族を通して近づいてくる時にあるので、これを皆さんが足の下に敷き、素早く越えられる責任と使命を果たし、天と地の前に恥ずかしくない姿で越えていける、そういう人になることを先生は願っていることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。肝に銘じてくれるよう願います。(一五五―一〇五)
私たちは聖地を既に選定したので、世界的運勢を取り込めるようにしなければなりません。(一六一―七七)
この朝、聖地を守りながら父の前に祈祷するあなたの子女たちを記憶してくださり、世界に散らばり、ここに向かって祈祷し、父のみ旨が成されることを願い、苦労する数多くのあなたの子女たちの上にも、栄光のみ手で、長く長く共にいてくださいませ。(四五―二〇六)
第三節 聖日礼拝
第三節 聖日礼拝
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一 安息日を守る目的今まで既成教会では、聖日というものを聖なるものとして守ってきました。この日は、誰を区別することなく、私たち統一教会もやはり、今後も聖なるものとして守るべき安息日として残るのです。
安息日を聖なるものとして守るその目的とはどこにあるかといえば、結局、神様が願う国を探し、人類を救うことに目的を置かなければならないのです。今までキリスト教が安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることによって、自分が昇華され、自分を考える、すなわち救いの目的を加重させることに力を注ぐためでした。私たちにおいて、この安息日を守るというその目的は、私自身の救いの道を促進させることももちろんあるでしょうが、もっと進んで全体を救い、今後、神様の摂理の国と、世界を救うための目的を加重させるのです。これが、より次元の高い神様の願いであることを私たちは知っています。(六九―二四〇)
二 聖日礼拝のための牧会者の準備
二 聖日礼拝のための牧会者の準備
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1 祭祀は祭司長が管理しなければならないこのごろ、地域長たちを見ると、いい加減な地域長が多いです。銃を売って歩いていて、礼拝をささげる日になったのに、礼拝は食口たち同士で行い、自分はその日も知らない教域長たちが多いです。祭祀は誰が管理するのですか? 祭司長が管理するのです。そうでしょう? 祭祀は客が管理してはならないのです。ですから、皆さんが地方でも公的な会合の場を重要視しなければ発展できません。分かりますか、地域長たち? 区域礼拝も同じことです。
聖日礼拝の時には必ず沐浴斎戒し、神様の前に敬拝をささげ、また聖地に訪ねていって祈祷しなければなりません。たとえ訪ねる人がいなくても、神様がその部落を照覧し、そこに共に役事できる心情的土台を整えておかなければなりません。神様の前で一人祈祷し、涙を流すその場所は絶対寂しくありません。神様が共にいらっしゃるので、絶対に寂しくないというのです。三年以上皆さんが精誠をささげたのに、その村で訪ねる者がいなければその村は滅びるのです。(一七―二九三)
2 三日前から礼拝準備をしてこそ
皆さんは、聖日礼拝時間のために三日前から思いを巡らしつつ準備しなければなりません。そうやって万民の幸福を祈ってあげ、私を通じて万民が蘇生できる復活の権限と生命の因縁を連結させようと、身もだえして教会の門へ入らなければならないし、神様の前にのどが詰まる心をもって礼拝に参席しなければなりません。それでも不足なのに皆さんは、むしろ商売する連中よりもっと厚かましいというのです。(二〇―二八四)
3 赤ん坊を産む母の精誠よりもっと精誠をささげてこそ
皆さんは一年十二カ月歩き回って、そのまま大体のところで壇上に立って、「皆さん、賛美しましょう」。そうして「お父様、どうしたこうした」と言って祈祷し……。(笑い)考えてみなさい。どれほどあきれたことですか? どれほどあきれたことか、というのです。そうやって天国が成され、そうやって生命が復活すると考える人は狂っているのです。お母さんたちが赤ん坊を産むのを見なさい。肉身で赤ん坊一人産むのにも五臓が張り裂けるほど痛く、顔にそれこそ千態万象の相を描いて――(表情をつくられる)こうではないですか? それ以上狂わないといけないのです。必ず汗を流し、涙を流してこなければならないのです。(七五―一七七)
4 礼拝時間を厳守してこそ
皆さんにとって今はとても良い時です。しかし先生は気分が悪くて、皆さんに干渉しないようにしようと思います。私は大学生だけを眺めて行く人ではありません。神様を眺めて行く人です。大学生たちを糾合しようというのではありません。与えてあげようという思いで与えるのに、よく受け取る人がいないので気分が悪いというのです。どこへ行っても、礼拝時間の前には帰らなければならないのです。礼拝時間もきちんと守れない人は、指導者として零点です。
今までは礼拝時間に、誰か一人でも来ないと待ちました。しかし今からは礼拝時間を絶対厳守しなければなりません。山のてっぺんで銃を構えていても、礼拝時間を誰よりも慕わしく思わなければなりません。そうしなければなりません。神様の家となれる息子としての精誠を込めた心があれば、いくら千里の道、険しい山頂へ行っても、帰ってくる時は瞬間的に戻るようになります。自分の場所を誰かにゆだねる、そういう人になってはいけません。「十二時に祈祷をせよ」と言えば、十二時に時間を合わせて祈祷しなければなりません。問題は、皆さん自身にあります。(二五―一二四)
三 礼拝時間
三 礼拝時間
P243
1 礼拝時間は祭祀をささげる時間礼拝をささげる時間は祭祀をささげる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖罪しなければなりません。ですから礼拝時間は、自由がない時間です。(二一―一六三)
礼拝をささげる時間は、怨讐と一撃戦をするよりもっと深刻な場です。考えてごらんなさい。神様を訪ねていき、侍る場所に礼服を着ないで参席できますか? 外見上の礼服ではありません。心情の礼服です。こうして集まった皆さんの姿がかわいそうだといっても、その心からみ言と共に、賛美と共に、感激した心情が流れあふれるなら、天は皆さんを通じて役事なさるのです。堕落した人間がエデンの園から追放される時、涙を流し追い出されましたが、皆さんは悲しみの涙を流す代わりに喜びの涙を流し、笑顔で神様と出会わなければなりません。悲しみの涙も流してみることのできない者が、喜びの涙から流してはいけません。(九―二九六)
この礼拝時間というのは闘いをする時です。単独で決戦する時です。それなのに眠るのですか? そういう者がいれば揺り起こしなさい。「サタンよ出ていけ」と言ってイエス様がペテロに語られたように、脇に一発かましてやりなさい。それが愛なのです。先生は、礼拝の時に居眠りする者がいればそのままにはしないのです。過去・現在・未来は私を呼びます。そう考えますか? 過去・現在・未来は私を必要とします。(一五―一二一)
2 礼拝時間は公的な時間とせよ
時間観念が強い人は、礼拝時間のような時間を公的時間として立てておきます。そうすると、そういう公的な人が尊重視するその時間を守れない人は、その公的時間を守る人に対し恥ずかしくなるのです。その時間を守った人が三千名、あるいは三万名ならそれだけ、数が多いほどそれだけもっと恥ずかしく感じるようになるのです。皆さん、そういう感じを受けてみましたか? 天を求めていく基準は違うのです。(二五―二六八)
どこへ行き、何をするにしても礼拝時間を記憶しなければなりません。聖日、公的集会に出席する手本にならなければなりません。礼拝に出席する夫婦は仲睦まじく一緒に出なさい。子供たちがうらやましく、ついてきたいと思うように……。十時前に教会へ来て、聖日を準備しなさい。(「会報」一―三)
祝福家庭は聖日、必ず伝道をしなければなりません。聖日礼拝は朝、十時以前に教会へ来て準備しなければなりません。どこで何をしても、礼拝時間を記憶していなければなりません。(二一―八八)
聖日のような時は、必ず明け方五時に起き、その教会で礼拝を受け、その責任者は説教し、そうして出よというのです。公式的礼拝時間を守れ、ということです。分かりますか? そうすれば間違いなく発展します。(九七―二一四)
さあ、私たちが時間を定め、「八時に来い」。こうして八時に来ることを約束したのに八時十分に来た、という時、「八時十分なのになぜ?」そう言いますか。それでは駄目なのです。八時一秒過ぎに来ればそれはいいのですか、駄目なのですか? (駄目です)。それがどのぐらい……。十分ぐらい過ぎても来るのに、一秒ぐらい許してあげないと……。(笑い)そういうのは駄目です。この世界で通じないのです。八時が最も秩序あるようになっているので、駄目だというのです。
さあ、八時なのに六時に来た人、七時に来た人、七時五十九分五十九秒に来た人にどのような差があるのか、ということです。秩序で見る時、これは同じなのです。この人が本当に時間を節約したのであり、本当に時間をよく守る人なのです。(黒板に書いて語られる。笑い)ここは二時間前に来たので、二時間のパートタイムをやればいくらですか?五ドルずつやっても十ドル稼げるのです。(笑い)その主張を誰もできなかったのです。主張をしなかったのです。
さあ、ここにいるこの人、「私は時間を守るのに一番だ」、そういう時は二人ともいいというのです。これは不平を言えないのです。悪いと言えないのです。ですから、こういう秩序と順序という法が重要だということを知らなければなりません。分かりますか、何のことか? こういう観点から、歴史と今日の人間世界のすべてのことが進展しているという事実を、皆さんは知らなければならないのです。(一一七―一八七)
3 礼拝時間に遅れるな
考えてごらんなさい。そういう信念と覚悟のもとでここに出てきたのに、時間も満足に守れない皆さんを前にして話ができますか? そのまま逆さに打ちつけたらいいのです。皆さんの中に父母たる人もいるし、子供である人もいますが、皆さんが神様の前に出ていくにおいて、時間というのは何よりも重要なものです。時というのは何よりも重要だというのです。時を合わせられなければ滅びるのです。時を見つけられなければ滅びるのです。神様は実によく聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、皆さんは時間も守れず、どんじりで讃美歌を歌っています。天はそんな賛美を願いません。
皆さんの責任が重要だということを知らなければなりません。皆さんを眺め、み旨に従ってくる数多くの人がいるとすると、彼らが皆さんのような人になってもいいのですか? 見物人のような人々になってもいいのか、ということです。天地の前に責任を果たそうと誓って出た人として、皆さんのような人を前にして何を話せますか? どうやって福を与えよと祈祷できるでしょうか? 「神様、彼らに天に隠し置いた栄光を許してくださいませ。天の生命圏を許してくださいませ」と言えるかというのです。
師を師とつくるためには、皆さんが責任を果たさなければなりません。父の前で祈祷しても、潔く「お父様、あなたが蒔いておかれた息子、娘がまいりました。あなたが会いたいと願われた息子、娘がまいりました」と言える環境をつくっておいて祈祷しなければならないのです。
本来は、時間が過ぎれば門を閉めてしまわなければなりません。皆さんのような人々を集めて話したくありません。こういう皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとするので、二時間、三時間話をするのです。そうしてこそ、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準につながれることができるのです。(一一―一三二)
皆さん、もう礼拝時間が過ぎたのに何人集まりましたか? 皆さんがそういう観念をもっているなら、先生も聖日に皆さんを指導したくありません。むしろ地方教会へ行くほうがいいのです。そのほうが気が楽です。地方の食口たちとは心情が合います。先生が時々地方を巡回すれば、その一時間を迎えるために、その時間に参席するために、数百里の道を歩いてくる人がいるということを知らなければなりません。そういう人に比べると、皆さんは天の前で呪われて当たり前です。来たくはあっても運賃がないので三日、四日ずつ、食べることもできず、昼夜の別なく十里、二十里の道を歩いてくる人がいるということを知らなければなりません。
今回、修練生たちが本部へ来て共通して感じたこととは何かといえば、本部教会の食口たちが全部人間ができていないということです。皆さん、今後先生が地方教会へ行き、皆さんの言葉を伝えられる基準になってくれることを願うとすれば、皆さん自身が地方教会の食口たちよりもっとよくやらなければなりません。先生が地方教会へ行って、皆さんの言葉を伝えられる立場に立つためには、皆さんがもっとよくやらなければなりません。こうしていて、何がみ旨のために生きる人々ですか?
心情統一、行動統一、理念統一、生活統一を叫んでいる皆さんが、こんなに遅れてきて恥ずかしくありませんか? どうやって顔を上げられますか? そうしてどんな恩恵を受けるというのですか? そういう人は絶対恩恵を受けられません。まして終わりの日には、「集まることに力を尽くせ」と言いました。集まるのに力を尽くせと。ところで皆さん、力を尽くしましたか? ですからそういう人が今後いれば、聖日礼拝は三十分以内に終えようと思います。祈祷を一回して、聖書を一度読んで、説教も骨子だけ話し、また、先生がここにいたとしても、もう聖日礼拝の指導はやるまいと思います。どうなることか、ちょっと見てみようというのです。ここに立った人は、皆さんがそのように対する人ではありません。
私たちが天の前に出ていくにおいて、約束というものはどこへ行っても絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人がどんな恩恵を受けるのですか? そういう人は行ってもやめてしまうのです。今後先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌ならやめなさい。誰が滅びるか、見ようというのです。誰が滅びるでしょうか?
天は切々と慕い、切々と苦労する人に対してくださいます。誰でも訪ねていって対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後時間を破ったなら、前に立たせて一人ずつ恥をかかせてあげるのです。分かりましたか? (一一―一三三)
きょうの朝も、礼拝が始まる時には何人も来なかったのに、時間が少したってからたくさん来ました。どうせ来るのなら早く来ればいいのに、どうして遅れて来るのかというのです。それは少し勤勉ならできることです。遅れそうなら、その時間だけ早く寝ればいいではないですか。それさえ考えられませんか? 早く来ただけの時間は、神様のためにささげた時間なので、千金、万金を与えても買えない価値があるのです。その時間だけは神様にささげる時間なので、その時間に遅れて来るというのは神様から盗むことになるのです。ですから定時に出なければならないのです。そうすることで、それだけ寝られなかったことで蕩減することもでき、神様の前に面目を立てられもします。そうなれば、きのうより良い心をもって天の前に近づけますが、遅れて来れば祈祷する時も目をぱちぱちさせながら、先生はどんなお話をなさるか、といって座っているのです。こうして座っている姿を見ると、惨めなことこの上なく見えます。(三六―一二五)
精誠をささげるべき人たちが礼拝時間に遅れて来てもいいですか? そういう人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人の中の罪人だという心をもたなければなりません。そして、これから時間をしっかり守ると誓い、人よりもっと多くの精誠をささげなければなりません。時間も守れないで、「おお、天よ」と言えますか? 精誠は人に知られるべくささげるものではありません。教会へ来て精誠をささげようと思うなら、自動車に乗って来るのではなく、歩いて来なければなりません。ここへ来て祈祷するのではなく、祈祷をしてからここへ来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠はこうしてささげるものです。世間の人々が願う環境と、彼らが追求する欲望とは反比例する所で、精誠は積まれることを知らなければなりません。(四二―二三五)
4 すべての制度は責任が優先だ
今、先生の時代において法を立てることは責任分担法の延長であり、拡大であることを知り、その法に絶対順応しなければなりません。分かりますか? 分かりますか、責任分担? 教会の規約のようなものも全部責任分担です。ですから礼拝時間はきちんと守らなければなりません。孝進がこれを知らないと駄目です。礼拝が始まる前に来ないといけないし、礼拝をささげる時は絶対動いては駄目です。お前が勝手に立てば全大衆の前に影響が及ぶのです。それがみんな責任分担所管なのです。代表者になるならもう……。
お父さんがそうしたのです。お父さんは昔学校のような所に遅れれば、その日は昼も食べない、そういうことをしたのです。きちんと五分前に行くのです。あらかじめ行っておいても、時間を浪費することはないではありませんか。ですからとても科学的なのです。
私が学校に通う時は、二里の道を歩いて通ったのです。国民学校に通う時。二里がどのぐらいか知っていますか? いくらですか? (八キロメートル)。八キロメートルを毎日のように歩いて通ったのです。ですから中間辺りに住む子供たちは、私がきちんとその時間に通るので、その時出てくれば絶対遅刻しません。すべて科学的なのです。ですからずーっと峠ごとに子供たちが待っているのです。(笑い) 私は本当に早歩きなのです。八キロメートルを一時間以内に、四十五分で行くのです。タッタッタッタッタッと行くのです。そうなると後ろからついてくるのが大変でしょう。(笑い)そういうことで有名なのです。
私にはそういう逸話がたくさんあります。そういうことを話す必要もないですが、そういうことをしたのです。お父さん、お母さんが学校に行きなさいと準備することもなく、全部私が準備したのです。学校の校長先生の所へ行って口述試験を受けるのも、私が全部交渉したのです。分かりますか? 全部開拓です。全部開拓しました。全部創造したのです。
ですから皆さんもそう思って、すべての制度が責任分担所管下に所属することを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。統一教会の法を守らなければならないのです。あなたたち、朝の敬拝時間にみな起きるのですか? (はい)。家で敬拝しない人、手を挙げてみなさい。全部それは責任分担です。それを一つもできなくなると、この次に皆さんの一生の問題が左右されるのです。
責任分担、分かりますか? (はい)。靴を履く時、「きょう責任分担を完成しなければ」。こうでなければなりません。毎日責任分担です。一年責任分担、永遠責任分担もありますが、一時間の責任分担もあるのです。友達同士の約束もそうだし、全部そう考えるのです。先生がもし約束を守らなかったなら、それ以上恥ずかしく感ずることはありません。交通が渋滞してどうのこうのと言って、時間を守れないようなのはまっぴらです。(一三三―一五五)
四 礼拝の時の心の姿勢
四 礼拝の時の心の姿勢
P251
私たちがもっているある理論や、私たちが知っている知識・主義・主張・観念があれば、お父様、この時間それをすべて忘れ、ただ、父を慕うことのできる童心になりますように。(四―四九)神様から、全体が父のものとして因縁を結ぶことができる時間となりますように。(六―一九九)
私たちが、押し寄せてくるサタンのどんな権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しするという約束をする時間となりますように。(六―二六三)
私たちの心に橋を架けられ、心情と心情を結んで父の事情を通過させることができ、父の心情を体恤できる時間となりますように。(七―二八六)
この時間、私の心がお父様に向かって無限にかけることができますように。(六―一〇二)
五 早朝礼拝と夜の礼拝
五 早朝礼拝と夜の礼拝
P252
あなたたちも明け方の礼拝に参席しますか? 私が朝、三時に集めておいて、一年でも何年でも伝統を立て、眠らせないようにします。昔はこの本部が眠らないので恐ろしい所だと思ったでしょう? 人は怠惰になってはいけないのです。楽になったら駄目なのです。楽な世界では発展がないのです。ですからどの国家であれ、新しい復興が起こり、それに陶酔するようになると滅びるのです。ですから本部が、ある標題を中心に動くようになると、その標題を中心にして全国、全世界に影響を及ぼすようになるのです。(五一―二八〇)皆さん、家にいる人は、朝早くこうして集まれ、と言えば、「ああ、こんな夜明け前から起きて何をするのですか? 統一教会は昼に礼拝をすればいいのに、夜明け前にするのですか?」そう言うでしょうね。「人が眠る時ぐっすり寝て、食べるものはみんな食べ、安楽にやって来て座って礼拝をささげればいいのに、なぜ夜明け前から礼拝をささげるのか?」。人と違っていなければならない、ということです。違わないといけないのです。既成教会とは違わなければならないのです。仏教信者とは違わなければならないのです。どんな宗教集団であれ、その信仰者たちと同じではいけません。違わなければなりません。それで皆さんは違いますか? 夜明け前に起きてこうして来るのがいいですか? (はい)。(八四―一九四)
夜の礼拝に力を注ぎなさい。(一〇―二四九)
夜の礼拝には、伝道をしてから来なさい。そうでないと教会の威信が立ちません。礼拝時間には、引導者より先に来ていなければなりません。(一〇―二五〇)
第四節 説 教
第四節 説 教
P254
一 お父様の説教先生は説教のために準備をしたことがありません。生きた体験として、事実を話す時はみな感動せずにはおれません。
過ぎし日、み旨のために苦労したことに対し、私がなぜそうしたかと考えるのは、主体性を喪失したからです。民族のために苦労したなら、民族が残っている限り、その苦労の基準も生きて残ります。(一六―三四五)
先生は、説教する前に、説教のために祈祷する時間より、食口のために祈祷する時間を多くもちます。「お父様! 彼らを導き引き上げなければなりませんが、どうしますか? これですか、あれですか?」と言って精誠を集めてから、心の命ずるままに説教します。
心情を離れては生命がありません。心情の谷間の道は、苦痛で惨めな道です。師を要求しますが、知識の師を求めないで、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、掘り下げれば掘り下げるほど涙であり、「自分」はなくなります。(九―八一)
先生は壇上に立つ時は特別に祈祷をするのです。ある時は、壇上に立つ時まで説教題目もない時があります。準備もせず、聖書を読んでから、祈祷の中で題目を決める時が多いのです。それは何を見て? 人を見てです。人をまずさっと見れば、「ああ、あれはこんなタイプだな」と……。自分と比較するのです。「ああ、私がああいう時は、あんな事情だった」と心が……。自分を置いて説教をするようですからね。自分の経路を通し、天がその時同情した恵みを中心にして……。その人が感動を受けていれば、聴衆は全部受けるのです。ですから聴衆と私とは、食口と私とは同体だ、というのです。ですから食口が必要だというのです。
それから、いくらできの悪い人が話をしても、学ぶことがあるというのです。自分だけの特性をもった真理をもっているというのです。ですからその言葉を流れ去る言葉と考えないで、真剣に聞くようになれば、そこに自分が説教材料として使えるものが豊富にあるというのです。ですから祈祷しなければなりません。
私が韓国で説教する時は、この背中が汗でびっしょりになりました。ワイシャツや下着は完全にぬれて、頭からは汗の露がしたたり落ちたのです。このごろここでは通訳を使うから、あまり汗をかきません。通訳を使うからそうなのです。韓国ではそうではなかったのです。何のことか分かりますか? (はい)。ですから心から聞いてあげ、心から話してあげなさい、ということです。皆さん、そうですか? 一人のおばあさんの言葉を、十二時間から二十時間まで聞いてあげなさいというのです。夜を明かしつつ聞いてあげよというのです。全部聞いてあげたから、今度は私の話を聞きなさいというのです。(九六―三二三)
先生は昔から眠りながら説教したのです。眠りながら話をするのです。日曜学校に通う時にも、眠りながら説教するのです。大雄弁で……。ですから一人でするその説教の声に私が目を覚ますのです。その時既に、多くの人々を天を代表して指導することを知ったのです。私が教会を通り過ぎると、昼飯を食べる時も無性に中へ入って食べたいのです。一番前の壇上に上って食べたいのです。そうなのです。もう梯子を置いて上ることを知っている、というのです。心が既に全部知っているというのです。(一二〇―三二五)
全部復帰するのです。労働者から出発するのです。労働者から復帰して上っていくのです。最高の栄光の場所でそれを失ったので仕方ないのです。一番下へ入って、もう一度捜して上ってこなければなりません。服を着る時、こうして正装することはできませんでした。正装をすることができませんでした。労働者が正装をしますか? 説教する時、洋服を着て説教したのが、多分一九七〇年を過ぎてからだったでしょう。その時は洋服も着ませんでした。労働服を着て説教したのです。皆さんアメリカの食口たちは、そういうことを初めて知るかもしれません。先生が食卓に座って御飯を食べ始めたのではありません。お握りから……。復帰です。蕩減復帰です。スプーンだとかフォークだとか、そういうものは必要ないのです。そういうものは全部蕩減復帰しなければなりません。(一六一―七六)
ソンターク博士の質問:文牧師は、大衆にする話と、信者たちに私的に教えることが違うといって非難を受けています。すなわち、私席では弟子たちに少し違って強い教理を教えていると、多くの人々が推測しています。こういう点はどこに根拠を置いているのですか?
私は決して大衆の前で話すことを恐れません。神様のみ言には妥協がありません。歴史上のあらゆる預言者たちは、大胆に啓示の内容を明らかにしましたが、私もそうします。事実、ヤンキー大会やワシントン大会だけではなく、信徒たちに行う大衆説教で(あなたのように誰でも聞きに来られる)私はよく虚心坦懐に話をします。時には強硬な語調で説教します。なぜなら、説教が記憶されることを願うからです。
私は外交官のように円満に話をしません。また、私は国民たちの歓心を買おうという政治家のように話をすることもありません。歴史が私にどのように語るのかという点が、私には最も重要です。
私は現在の人気を追い回しません。私には、今日のアメリカ国民たちから人気を得られるか、得られないかが重要ではありません。神様が私に指示したとおりに話すだけです。
しかし時には、人々の必要によって、また聞く人の水準に合わせて話しもしますが、そこに秘密があるのではありません。イエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語られました。時に私は、あることを信徒たちや、さらに指導者たちにまでも話せないことがあります。それは何か秘密があるからではなく、ただ彼らが理解できないからです。各自が「統一原理」を理解する程度には差があります。使徒パウロも、改宗者たちは霊的に準備ができていないので、「あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている」(ヘブル五・一二)と語ったことがあります。誰でも聞く人の水準に合うように話すほかありません。
統一教会の運動は、秘密にやる理由は全くありません。過去の記録がそういう点を見事に証拠づけています。私が過去何年間何をし、統一教会が韓国、アメリカ、日本で何をしましたか? それが正に証拠です。我々がしてきたことは、国家や人類、すなわち他の人のために我々自身を犠牲にするものでした。我々の最初の使命は、真理を伝播し、神様に対する人間の心情を回復させることです。我々がある政府を転覆させるとか、銀行からかすめ取ろうとしたという話を聞いたことがありますか? (九一―一二九)
二 説教の準備と神霊
二 説教の準備と神霊
P258
1 説教準備は本でできるものではない神様のために働く人は本当にかわいそうです。孤独な人です。人間と相談して生命の福音を受けようと本を見れば、それは参考になり、人工的な葉にはなりますが、原則的な葉にはなれません。本を見ることも、その人が感じた思想的な感触、新しい感触を中心にして反応的な感じを得るのに何の助けにもなりません。むしろ妨げとなる時が多いのです。ですから霊的指導者は孤独な人なのです。それを皆さんは知らないでしょう? そうでなければならないのです。そうあるべきです。先生も一人でやるから……。
先生がここにいる時に、清平も遠しとせずに毎日通うのもそうだからです。寒い時、あるいは日の光が降り注ぐ時、あるいは風が吹く時、全部違うのです。新しい味、心の中に感じられる新しい恩恵の雰囲気、神様を通じて来る新しいその感触が必要なので……。御飯を食べられないなら食べられないだけのこと、そういうものが必要です。そういうものが必要だというのです。人々に対しつつ、受けたその感じに勝っていかなければ……。人に対することをつまらないことのようにやってはいけません。義務的な過程からは復活の役事が起こりません。おもしろみがなければなりません。夜の更けるのも知らずに夜を明かし、天国がここ以外にないという所にのみ、天国へ行ける価値が発見されます。そうではありませんか? 木も完全に密着してこそ接ぎ木されるのではないか、というのです。そうでしょう? (七五―一七七)
霊的指導者はそういう体恤的何かがなくては仕事ができないのです。本を見て説教の準備をし、本を見て天が……。その本の中に神様がいますか? そうではないのです。神様は神霊の中にいらっしゃるので、神霊を通じなければ駄目だということを、皆さんは知らなければなりません。
体恤的信仰は最も貴いものです。ですから統一教会へ入ってきた食口ならば、大概体恤するようになります。必ず体恤するというのです。どんなことが起こるかというと、皆さんの現実の生活圏内にすべて起こるのです。本当にみ旨のために、あるだけの精誠をささげれば、天が共にいてくださるのです。(七六―一五一)
皆さんが神様と直接密接な関係にあるのなら、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そういう訓練も必要です。私が有名な人に会うようになると、一日に十回話すこともあります。その時は、場所によって全部内容が違う話をしないといけないのです。ところがそれを全部準備して話しますか? そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をするのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全にささげられる場所なのです。(六〇―三四八)
「説教は聖日のみするものだ」と言っておいて、いざ聖日になると「聖書はどこを見ようか」「讃美歌出てこい、聖歌出てこい」。(笑い)それではいけません。そうするなというのです。人々に対する情報を中心にして、生きた材料を中心にして、聖書からそれと同じような歴史を引き抜いて、その人のことと聖書の内容を対照しながらおもしろく説教するのです。そうすると聞く人が自分のことを話すので、すっかりほれ込んでしまうのです。喜ぶのです。こうやっていくものです。分かりますか? 本を見てやろうと考えるのはやめなさい。人から本も出てくるのです。人自体が本の原本だということを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。(四六―二六五)
2 霊的な実力を具備しなければならない
皆さんも同じです。教会で一番難しいことを私がやる、というのです。いつでもそういう肝っ玉をもち、いつも周囲をきょろきょろせず、横に曲がるなというのです。そうできる皆さんになれば、皆さんは発展するのです。分かりますか、何のことか? (はい)。
皆さん、一番難しいのが霊的責任者の立場なのです。ですから祈祷しなければならないし、食口たちと夜を明かしつつ相談しなければならないし……。真理を討論しながら夜を明かすことがずっと継続する、そのような所は発展するのです。分かりますか? (はい)。村中の反対を受けるとしても……。
今も先生は、どこへ行っても、昔の私、一九六〇年代と同じ気分に返ると、そういう風が吹くのです。私がさっと行ってやると、その環境が一度に見事に変わるのです。そういう何かがあるのです。皆さんもそういう基準をもつために祈祷をせよ、というのです。霊的実力があってこそうまくいくのです。ですから祈祷をたくさんしなければならないのです。分かりますか? (はい)。
その時間を多くもてなくても、自分の心情のアンテナはいつもそこに集中していないといけないのです。二十四時間いつでもそこに向かって、どんな仕事をしても、その基準をもって生活するようになれば、祈祷時間をたくさんもたなくてもいいというのです。見ることもそれを中心にして見、感じることもそれを中心にして感じようとし、話すこともそれを中心にして話そうとし……。そうすれば説教の準備をしなくても説教の題目はいくらでもあるし、説教内容はいくらでもあるのです。あなたたちはそうではないでしょう? ぷつっと切っておいて、「あ、メモがどこへ行った?」と、いつもメモを捜して回るのです。あ、それはどこへ行ったかと……。
電気の線と同じなのです。そのメモをなくして「神様はどこへ行ったのか。ちょっと探してみよう」と言い、説教となると「ああ、神様」、そうやっていては駄目なのです。いつでも私には電気の線の端がなければなりません。ちょっと触るとピリピリ! プラス、マイナスを合わせると、ここに強烈なスパークが起きるように……。
先生はもう、ある家へすっと入ると、この家が精誠をささげた家かどうかということが、直ちに分かるのです。話をしなくても全部分かるのです。静かにしていると細胞がピリピリとし、電気が通ずるのが分かるのです。分かりますか? すうっと入ると、精誠をささげた所だ、ということが直ちに分かるのです。教会へ行ってみれば分かるのです。
そういう何かがあるので、神様のみ旨だ何だと従ってきて、今まで死にもせず、滅びもしないで残ってきたのです。それがなくて残ると思いますか? あなたたちみたいだと全部滅んだはずです。先生は話はしません。お母様にもある話は全くしないのです。ある時は失敗し、「きょうは何かあるはずだが」と言うと、「あなた、どうして分かるの」、「そうね、黙って見てなさい」、「やあ」、じっと見ている先生は何も知らないようで知っているのです。時々そういうのがばれる時があるのです。めったに話さないのです。それを全部理にかなったように話さないと邪悪な人になるのです。分かりますか? 「巫女、男の巫女みたいな人だ」といううわさが立つのが良いですか? 統一教会の文先生がそうであってもいいのですか? 駄目なのです。むしろそれよりは知らないようにしていて真理として……。その人はどうしてなのか知らないのです。話はするが、なぜそうなのか知らないのです。しかし先生は知っているのです。なぜそうなのか知っているのです。ですから教えを受けなければなりません。
ですから、そういうことは祈祷しないといけないというのです。そういうことは先生に従わないと駄目なのです。先生は他の人が受けた話は、本当によく聞いてあげます。「そうだったのか?」と、何も知らないようにです。ですから「人の話をよく聞いてくれる先生だ」と思うのです。そうでなければなりません。神様がその一人の人を開拓するために、そういう現象まで起こすのは本当に難しいのです。霊界からその人まで橋を架けようとするとき、その橋がどれほど爆発したか考えてごらんなさい。切られ、切られ、歴史時代、何代をも経てそういう橋を架けてくるまでに、どれほど苦労したことかというのです。私は専門家なので、それを知っています。その人に対する神様のみ旨があることを知っているので、夜を明かしながら聞いてあげるのです。そうしなければ駄目なのではありませんか? 全部知ってあげないと。違いますか?
皆さんもそういう何かがなくてはなりません。そうするには祈祷しなければなりません。分かりますか? (はい)。皆さんが伝道に出かけて、おぼろな道をそっと回って帰ってくる時、とめどもない涙を流すのです。帰ってくる時もそうでなければいけないというのです。「私が不足だったのか、きょう……」。神様が愛する息子、娘を求めて出かけたのに何の収穫もなく帰ってくる時は、私の精誠が不足していたことを感じなければならないのです。私を代身として立て、神様が求めんとした息子、娘を求められなかったことがどれほど恥ずかしいことでしょうか。
田んぼのあぜ道に立って大声で痛哭することもでき、木にすがってひっくり返って、自分の位置と立場も忘れて祈祷することもできないといけないというのです。皆さんはそういう時間を多くもたなければなりません。指導者ならば、せめて最低三日に一度はそういう感じをもたなければならないというのです。分かりますか? (七〇―一七四)
夜寝る時は、あすどこへ行くのかについて、「お父様! 私が行く道をお父様にゆだねますので、起きるとすぐ私の考える方向を定めてくださいませ」と祈祷します。そして、朝さっと起きると、「どこそこへ行かないといけない」という感じが入ってくるのです。案の定、行ってみると待っている人がいるのです。分かりますか?こうすることによって、皆さんの霊的心情を開発することができます。
そうなれば自分の考えがしきりに当たるのです。「きょうはこういうことがありそうだ」という思いがしきりに的中します。考えもしない中で、動機が私ではないところから考えが浮かぶ時は、必ずどうなるか見てみなければなりません。それを見ると、啓示的なものだったということを知ることができます。そうなるのです。そういう面を皆さんが発展させて、これから進んでくださるよう願います。(六〇―三四七)
3 心霊的生活が必要
一番初めに入ってきてうれしかったその心、一番初めに入ってきた時決心したその心、それがいつももっと強まり、もっと輝かなければなりません。さあ、このみ言をもったなら、「世界を間違いなく一つにする!」という自信をもてというのです。そういう心をもてというのです。私の話を全部貫き通し、そうなる環境をもてると考えていく人が……。さあ、そういう環境にいれば、ここに来る人はみな頭を上げられなくなるのです。いくら驕慢な人が来てもです。何か分からない霊的圧力に押されるのです。驕慢な心をもって、「この教会に何があるのか?」こうして来ると、不思議に体が動かなくなり、謙遜な心があれば、ここが自分の住む家のように感じられるというのです。
そうするには祈祷しなければならないのです。一人静かな所へ行って月を見上げて感謝し、すべての自然と呼吸できる神霊的生活が、祈祷生活が必要だというのです。先生もそうなのです。私が海へ出かけるのも、ベリータウンによく出かけるのも、その心情を体恤するためにそうするのです。それが御飯を食べることよりもっと貴いのです。一人で寝て、起きて座り、夜を明かすことがあり……。
さあ、ですからみ旨を思い、天を思い、痛哭できる心、愛する恋人を慕うのと同じ心、恋人と永遠に離別する時の、その物悲しい心がいつも残っていなければならないのです。そういうことを感じる人は、世間の愛する人もみな捨てて、そうして行くことができるのです。皆さんが今、先生の話を聞く場合は、その言葉だけを聞いているので、心情には響かないのではないかというのです。なぜそうなのですか? 体験がないのです。先生は既に、ある神霊を受けた牧師が壇上で説教すると、「ああ、あれは天が与える言葉だ」ということがすぐに分かるのです。皆さんは分からないのです。(九四―一五五)
自分自身が生活の最低まで潜り込んで、現実のすべてのことを観察してみなければなりません。そういう位置に立って、新しいものを携えて出なければならないというのです。こういう心をある一時抱いてみましたか? 私たちが一日二十四時間、現実的生活の中でどのくらいみ旨を中心にして働いてきたのか、自分自身がみ旨に対しながら、どれほどその価値を感じつつ推進してきたのかを考えてみなければなりません。そういう時間が果たして何時間くらいになるのですか? そうできる時が必要だというのです。
また、自分の耳、目、口、鼻等、すべての感覚器官を通じて感じられる感覚、すなわち直観を通じて確認することによって信じられるという、そういう時間をもってみなければなりません。そういう時間をどのくらいもっているのかが重要です。個人の生活を中心にする人々はあまり感じられませんが、恵み深い生活をする人々は、いつも見る万物が昔とは違って感じられるというのです。いつも新しいというのです。朝見ても新しく、夕方見ても新しいというのです。神様の恵みが忍びやかに波打ってくる時は、神秘さを立体的に感じるというのです。そのように感知する人がいるなら、その人は幸福な人なのです。そういう人は、釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったのと同じく、無限な価値を感じながら自分の高貴性を賛美できる場所に立つようになるのです。(三〇―一三四)
4 歴史的生きた材料を多くもたなければならない
先生は今までに印象に残ったことがあります。強盗と一緒に手錠をはめ、興南監獄へ移送されていく時、山の谷間へ近づき、沢道に沿って歩いたその時が本当に新たに感じられたのです。うねうねと山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。印象的です。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。
「これから毎日行くべき私の道はどこだろうか? 刑を終えて出てからどうすべきなのか?」をとても知りたいのです。「監獄生活をどうやっていくか? 困難だが私は行く」というのです。その時が、新しい自我を覚醒することができる良い機会になったのです。先生に残ったものはそういうことしかありません。
一時は咸興で穴を掘る仕事をしました。腹があまりにもすいた中で仕事をするので、つるはしを握り締めた手が上がらないで、精神までも息絶え絶えになっていました。「昼飯の時間だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしく思われたか分かりません。その時の御飯! その御飯を食べるためにつるはしを地に差して立ち上がるその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が、数えられないぐらい多いというのです。どんな苦労もそういうことに比べられないのです。
こういう悲惨なことの数々が、私を滅ぼすものではなく、歴史に長く輝くものとすることを知らなければなりません。ですから、神様が大切にはぐくんだ宝物を集めることのできるその日まで行かなければならないのです。そういう受難の事実を、世界の万民の前にすべて話せば、ほかの内容で一時間説教するより、この内容で十分だけ話せば痛哭が起きるというのです。そのような良い説教の内容が、どこにあるかというのです。
ですから皆さんに、心配しないで三十歳までは苦労せよというのです。イエス様も三十三歳まで苦労して、死の道を行きました。先生が話す統一教会の祝福というものは、皆さんが借りてもった福です。そのことをしっかりと知らなければなりません。こういうすべての内容の結論が何かといえば、新しいものを悟ろうというのです。新しいものを悟るところでのみ、新しい日が共にあるのです。新しいものが現れなければ発展があり得ないというのです。ここにお母様が一緒に座っていますが、お母様が大変真剣にみ言を聞いたところ、先生がいろいろな内容で話をするようで、結局は何について話すのか分かるというのです。結論は自分をおいて話す話だというのです。ですから教育をたくさんしなければならないのです。自分自身をたくさん教育しなければなりません。(三〇―一五二)
三 説教の実際
三 説教の実際
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1 題目の選定大衆集会の時の説教は、自分が組み合わせて、出ていってするものではなく、天が許すそのもとで、自分がその意味を受けてするものです。それが説教です。そういう心の姿勢……。何のことか分かりますか? ですから説教壇に出る時に、堂々とした気勢で出ていく人はみんな天の指導者ではありません。刑場に出ていく気分のような、祭物のような気分で出なければなりません。皆さん、公判廷において判事が刑を下す時、その瞬間は最たる緊張の瞬間でしょう? そういう体験をしてみたことのない人には分かりません。壇上に立つのはそれ以上の場所です。壇上に立つというのは恐ろしいことです。昔は契約の箱の前が恐ろしかったでしょう? 正にそういう場所です。
そういう体験をしてみたことのない人は、家へ入って生活しても、寝ても覚めてもそのように暮らしています。ですから教役者は、自分がいる場所でそういう雰囲気にどうやって適応するか、生活にどうやって適応するか、ということが問題です。(五六―三三)
皆さんが説教をする時も、題目を決めて出ていくのではないというのです。本来は祈祷して、祈祷の中で題目を決めなければならないのです。準備した題目では、絶対感動させられません。皆さんがいつも準備しては……。人を泣かせるには、自分が説教を準備して、祈祷する中で涙を流さなければなりません。こういう人、ああいう人、千態万象の人を思いつつ、今日の韓国の実情をずっと考えて、きょう尋ねてくる人はこういう人だろう……。それを思って涙を流し、壇上に立ってこそ聴衆に涙を流させる恵みを与えられるのです。手紙でも、自分が涙を流して書いた手紙であってこそ、相手方を泣かせることができるのと同じように、自分の主体的な動機がそうでなく、相手方がそうなるというのはうそです。そうではないですか?
ですから皆さんが壇上に立つ時は、その壇上が審判場だということを知らなければなりません。前よりもっとうまくやることを願ったが、できない時は悔い改めなければならないのです。恵みを与えられず説教を一時間してきたなら、三時間悔い改めなければならないのです。皆さん、それを知らなければなりません。説教をうまくできず、恵みを与えられない、そういう時は三倍以上悔い改めなければなりません。一つの生命のために、生命の水を与えなければならず、育ててあげなければならないところを、ここで水を与えるのではなく、水を奪い、地をひっくり返してきたならば、その責任を負わなければなりません。彼らが帰ったのちにも、きょうのみ言を中心にして恵みを施さなければならないのです。(一九六九・五・一二)
2 説教時にもつべき心の姿勢
皆さんが、聖日に説教する時は深刻なのです。私が皆さんのようなら夜眠れないのです。どうして眠れますか? それは人の生命を生かすために注射を打つことです。強精剤の注射を打つのと同じことなのです。食口たちに、一週間の薬を与え、強精剤注射を打たなければならないのです。生命を扱う医師が生命の瀬戸際にある人に注射する時、深刻なのと同じように、皆さんもそういう立場で指導しなければならないのです。ですから壇上に出る時は刑場に出るのと同じなのです。
先生自身もそうです。私は多くの人々を指導してみたし、アメリカで今大衆にうわさが流れていますが、見知らぬ人に対しても同じです。初めに出発する時と、最後に到着する時が同じです。もっとやればもっとそうでしょう……。もっとつらいというのです。講義をすればするほど、同じものをすればそれこそ、口からすらすら出てきてそのまま講義してしまうのです。それではいけないのです。何度もすればもっと難しいというのです。ですから聴衆たちが感動を受けるのです。いつも新しいものだからです。
それで、朝御飯を食べる時は新しい御飯を食べるでしょう? 古い御飯がいいですか、新しい御飯がいいですか? (新しい御飯です)。新しい御飯がいいでしょう? (はい)。新しい味が出なければならないのです。同じように新しいものを与えなければならないのです。皆さんが原理講義する時も、新しいものを講義しなければなりません。霊的な面で新しい何か、保養剤というか、そういうものを供給し、そこに加味させて講義しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて、酸っぱい味でも出し、そうでなければ塩辛い味でも出し、そうでなければ苦い味でも出して……。(七五―一七六)
皆さんが聖日に説教をするにおいても、女性がお産するとき苦痛を感ずるのと同じ境地で説教しなければなりません。精神を全部そこに集中しなければならないのです。説教の壇上に立つ時は、産婦が産室へ入るような感じがしなくてはなりません。先生もそういう体験をしたので、そういう境地へ入ろうと努力するのです。その境地へ行けば、準備は必要ありません。説教内容が問題ではなく、話すことが問題ではないのです。そういう心情になっているかが問題です。
皆さん、前にソ連の人たちが綱渡りするのを見たでしょう。正にそういう気分なのです。綱渡りする人が感じる気分のことです。壇上に立つ時も、そういう境地です。何のことか分かりますか?
先生自身もそのように感じるのに……。皆さんが説教するのは容易でしょう? 皆さんが涙を流して準備すれば、聴衆を泣かせるのです。ですから壇上で祈祷すれば胸が詰まります。むせびます。そういう心情で壇上に立てというのです。話をしても抑えられなければ痛哭しなければなりません。恥をかくのもかまわず痛哭できる心情がわき上がってくるのです。熱いかゆを食べさせてあげようとすれば、熱いかゆを作ってあげてこそ熱さを感じるのです。同じことなのです。説教の準備だとかそういうことをする時は、自分がうまくできなくては駄目なのです。何のことか分かりますか? 説教を準備するためには、食べるものも全部選り分けて食べなければならないし、夫婦生活も選別してしなければなりません。そういうことがあることを知らなければならないのです。
皆さんが説教する時間が、ある人を天国へ入らせるか、地獄へ入らせるか、という境界線になるのです。「今まで統一教会のことを知りたかったのだが、一度行ってみよう」と言ってワシントン教会へ来たのに、「この説教は何だ?」そうなれば、その一人の首を完全に切ってしまうことなのです。公判廷に立った判事が宣告する、その時間よりもっと深刻な場所が説教する場所なのです。数千名、数百名の人がそういう運命に立つという事実を知らなければなりません。
まして、皆さんが統一教会に入ってきた人を受け持っていたが、その一人を落とした、自分に割り当てられた一人を落とした、それを考えてみましたか?
責任者たちがその責任をいい加減にして、下にいる人たちが自分を「嫌だ」と言うようにしてはいけません。そういう人がないように努力しなければなりません。責任者はつらいのです。自分の正体を人々の前に現すその場所は、実に恐ろしく、震えるような場所だということを知らなければなりません。
皆さんが説教しながらそれを感じなければなりません。準備できなかった説教をして恩恵を与えられない時は、また、すべての力を尽くしても駄目な時は、帰ってきて、それこそ大声で痛哭する時間がなくてはならないのです。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知らなければなりません。そうあってこそ発展するのです。(九六―一六八)
3 説教時注意すべきこと
精誠というのは一度にささげるものではありません。説教する時にも、大衆を前にして説教するのだと考えずに、一人の前で説教するのだと考えよというのです。一人が恵みを受けて涙を流せば、それが全体に広がっていくのです。今まで地区長や地域長たちが教会を発展させられなかった理由は、根もない、空中に浮いている説教をしたからです。吸収される土台がないのだから伝道がうまくいくはずがないのです。地区長自身も自分の足場は自分が整えなければならないのです。先生がある指示をした時、地区長たちが命を懸けて動く手本を見せてこそ、一般食口たちも動くのです。(四二―一五九)
皆さんがいつも注意すべきことは、先生が今どの方向を通っていくのか、ということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する時に一番効果を上げられる方法です。恵みを施すことのできる動機になるのです。先生がこの時間に、何のためにどんなことをしているのかを知ろうとし、相対的に心情的基準を先生と一致させるために、自分の心を引き上げて先生の心をどうやって身代わりできるかが問題なのです。全国の皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪ねてくるのです。(六〇―三四九)
4 説教はいつも新しい刺激を与えなければならない
一般教役者たちの生活も同じです。自分の地域や地区で講義をすれば、食口たちが「おお! 地域長が原理講義をするのか。その言葉の次にはこの言葉が出るだろう」と、全部知っているのです。ですから三年前も今も、全く同じ講義をしては駄目なのです。
過去にはそういう方法で講義をしましたが、今は枝をつけ、新しい解説と内容を添加して講義することを知らなければならないのです。その内容面では、心霊的発展をするのに必要な体験談を話してあげなければなりません。その時の雰囲気に合わせて、必要な講義をしなければならないのです。皆さんが三年間牧会をしたなら、刺激を与えられる話を一回でもしてやってこそ、食口たちにプラスになるのです。そういう実感を感じられない食口は、聖日礼拝にあまり参席しません。こういう観点から、皆さんが今まで講義をあまりにいい加減にした、ということが分かります。ですから今からでも新しいものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷をしてでも補充しなければなりません。それでも駄目なら、命を懸けてでも談判しなければならないのです。
皆さんは、道行く時にも新しいものを探す気持ちをもって行かなければならないのです。また、教会へ行くとしても、そのまま行くなというのです。教会へ行く時も、いつも新しい立場と環境に接するという心で行ってこそ、新しいものが生まれるのです。教会へ行くのにも、直線コースでのみ行くのでなく、曲がることもしなければならないのです。南の方へ行くべきだが、北の方へ行ってみよというのです。なぜなら、新しい道を探すためです。
また、そういう実感が出なければ、家の中の暮らし方を全部変えてみよというのです。数カ月になってもそのままにしておくな、というのです。反対にひっくり返してみよというのです。そうすれば考えが変わります。こうすることが絶対に必要です。(三〇―一二六)
皆さんが説教する時、食口たちがその題目は以前に聞いたことがあると分かれば、彼らは気分が悪くなるのです。原理講義する時も、以前のようにやれば気分が悪いのです。それは、人が春夏秋冬、四季につれて変化を感じるのと同じだからです。朝だといって、いつも気分がいいのではないというのです。何の心配もないのに、妙に憂うつな日があるのです。朝、日の光も明るく爽快な天気なのに、自分は憂うつな時があるのです。そういう時は、どうすればそれを解決できるでしょうか? これを変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつな場所を訪ねて入っていけというのです。
このように反対に行って新しい刺激を受けるとか、あるいはそれを克服できる直接的な新しい刺激を起こし、補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立て、一日一日の生活を調節していかなければ、今後多くの人々の心霊を指導することはできないのです。
教役者は、説教に関するものを補充し、特に教会員たちに必要で助けになるものを、いつでも供給してあげなければなりません。(五六―一二)
5 説教は恵みの感動がなければならない
皆さんは、本を見ながら講義をするので余裕がないのです。ばっと捕まえ入れ、口さえ開けば出てこなければならないのです。感動を、影響を与えるためには、自分の感動に推進力がなければならないのです。ぎゅっと押してあげなければならないのです。そうしながら、講義も、時によっては寒い部屋でも汗を流しながら……。それが必要だというのです。時には机をたたき、全体が……。ある感動を受けて、涙が出そうな時は、素早く切って、涙がすっと流れるようにしなければならないのです。料理しなければならないのです。そういう時は、説教者が涙さえ流せば、一度に全員が流すようになるのです。説教する人が、何人かの人々と共に涙を流し、説教をするようになれば、全体がぱっと変わるのです。全部涙の海になるのです。そうなれば皆さんはその人々に対し、「どれほど苦痛を受け、どれほど困難を感ずれば、私の言葉を聞いてああなるのか」と思わなければなりません。そういうものを見れば、本当に同情せざるを得ないのです。そうして、同じ心情になって、ここで一つの生命が復活するという喜びを感じながら涙を流す時、自分がまず涙を流せばずっと全部……。それが必要なのです。そうやって涙を流せば、いくら強盗の輩でも反対できないのです。それが必要なのです。
火鉢なら、火鉢が熱ければこそ回りまで熱くなるでしょう? また、夏ならば、ここが冷たければ回りが冷たいでしょう。結局は責任者が問題です。責任者はいつも講義しに出かける時は、「お父様、講義しに出かけます」と独り言でも……。これが習慣化しなければなりません。きょう私が話して、一つの生命でも傷つき落ちる人の出ないことを、来なかったほうが良かったということにならないように……。そして自分が講義したことがうまくいったなら有り難く思い、全部、神様に報告するのと同じ生活をしなければなりません。そして、皆さんが講義する時は、自分がすべて知っていることでも、必ず原理の本をつかんで、祈祷する思いで一ページ一ページ読んでいけというのです。
皆さん、説教などで大衆の前に出る時は、深刻な場所に立つことなのです。本を読めば、神様がそこに感動するある語句を下さるか、必ずそのようなことがあるというのです。ですから皆さんはそのように訓練しなければならないのです。また、皆さんが良心の呵責を受けたとか、あるいは心に不快なことがあっても、その時間だけはさっと洗い流さなければなりません。家で妻が体を悪くし、子供がどうでとか、良くない手紙が来たとしても、壇上に立つ時だけは完全に洗い流さなければならないのです。(六七―二八)
説教はまず自分が感動を受けなければなりません。自分の祈祷が自分を感動させなければならないのです。説教は同情を受ける立場でしなければなりません。私を通して、新しい生命の因縁を結ぶべき人々のかわいそうさを神様に訴え、同情を受ける立場に立たなければなりません。(一一―二七八)
その場所は厳粛な場所だというのです。祭物の前に立った祭客たちは、頭が下がってこそ正しいのが天法です。分かりますか? (はい)。その祭壇には、神様が臨在なさってこそ干渉なさるのです。心情的にきょう、この祭壇の前に、情熱と力と努力をすべてささげるというようになる時や、自分の一生にない、誠心誠意をすべて尽くして口を開くようになる時は、神様が助けてくださるのです。何のことか分かりますか? 祭物は深刻な場所でささげられるのです。
ですから、生涯になかった深刻な心をもって、「神様の前にささげられたこの体を、あなたの願われるとおりに使用してくださいませ」と言って、祭物になった心情をもって出れば、神様はいつも共にいてくださるのです。そうなれば、その場所に必要な祭祀をささげることによって、恵みを受けられる、贖罪を受けられる、その人にぴったりする言葉を話せるようになるのです。何の話か分かりますか? もう既に分かるのです。口を開けば分かるのです。
そういう生活をするようになると、神様と私との関係は、説明の必要がない境地に入るようになるのです。そうなってこそ、皆さんの行く所が発展できるのです。分かりますか、何のことか。(はい)。皆さんが精誠をささげて祈祷して話した言葉、自分が感動した心をもってしたその説教に、感銘を受けた人がどのくらいになるか、ということが問題です。そういう人がいなければ駄目なのです。恵みを受けた人が三人にでもなればいい、と思うのですが、神様が共にあれば、その十倍以上、何百倍、それ以上になるのです。聖書には百倍、六十倍、三十倍になる、と出てくるでしょう? そのように増加していくのです。それが数はそうだとしても、科学的なのです。データに記録して、間違いない比重で必ず神様が役事していかれるというのです。何のことか分かりますか? (はい)。ですから精誠を尽くしなさい。ある人と因縁ができ、み言を伝えるにあたって、神様がどのくらい協助してくださるかが問題です。深刻な場所でみ言を伝えるようになれば、そのみ言は神様を身代わりするみ言になるのです。分かりますか? (はい)。(六〇―三四八)
恵みを受けたなら、帰ってきて必ず天の前に賛美しなければならないのです。生活がそのように習慣にならなければなりません。初めにこうしてきたのに、いつ題目を定めてやってしまうようになったかというのです。話す中で、世界のすべてが説教にならなければならないのです。自分が苦労したことがあれば、自分がいつこうやった、ということを説教するのです。ですから教役者は、苦労をたくさんしなければなりません。人生修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者からこじき、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏の内にいる者まで、一時経験するのも必要だというのです。そういう状況を中心にして、そういう時に公的立場である自分が一時悲しかった事実、そういうことについて体験した話には実感がわくのです。
事実を話してこそ、聴衆も感化を受けるのです。他人から聞いた話では、絶対感銘を与えられません。事実を話さなければならないのです。原理講義する時にも、よく他人の言葉を使うでしょう? 原理がこういうものだと、全部他人の言葉を使うのです。しかし、原理が自分の原理にならなければなりません。そうするには、復帰原理を講義する時も、アダムの家庭の話をする時は自分がアダムにならなければならないし、エバになった心情を中心に講義しなければなりません。ノアじいさんからアブラハム、イサク等、全部自分がその立場になって、涙を流さなければなりません。復帰原理を中心にして、天がこれを編むためにどれほど苦労し、この復帰路程を求めるために先生がどれほど苦労したでしょうか。考えてみなさいというのです。涙が流れるようになっているのです。涙なしには絶対生命が集まりません。
涙と汗がなければ絶対に駄目です。それは鉄則です。説教する時は必ず汗を流さなければなりません。首の後ろに汗が流れなければなりません。いくら精誠をささげたといっても、今からは説教を一生懸命やりなさいというのです。今までは地域長で説教もせずに、やくざな者だったでしょう? これからそういう人がいれば、全部人事処置するのです。分かりますか? (はい)。(一九六九・五・一二)
6 説教時間
問題は、今たくさんの人が集まってきたなら、誰が料理しなければならないのかということです。自分が料理しなければならないというのです。さあ、料理するのに原稿を書いて十五分間話をしますか、原稿なしに話をしますか? 原稿なしで話をしたほうがうまくやれるのです。原稿を持ってやろうとすると、支障が実に多いのです。環境を見て、三十分でやってしまうようなら三十分で片づけてもです。御飯が全部できた上に薬食を作ろうとするなら、そこには蜜の水も注いであげ、砂糖水も注いであげなければならないので、そういうことをしようとすれば、時間が過ぎても口を開けて「おいしい、おいしい」と言うようになって、時間をもっと延長しなければならないのです。
公式的な時間だけきちっとして、一隅でめらめらと火がついたのにやめては駄目なのです。完全に揮発油を降り注いで火をつけておいて、「ふう」と言って風まで吹くようにしておいてやめなければならないところなのに……。そうするには一時間でもよく、二時間でもよく、十時間でもいいのに……。十時間までしても行かないで、離れられないようにできる能力があれば、そうしてまでもやりなさいというのです。こうして文先生の一生の間、五十年の恨みを解けるなら……。一時間で解くよりも、十時間の間、一時間に解くことのできる十倍を解く業をすれば、どちらを願います? (十倍)。それは誰でも願うでしょう。(七八―二三三)
7 説教の難しさ
人間にとってやることが一番つらいのは何かといえば、こうして人々の前に出て話をすることです。ここに約三百名に近い人々が集まっていますが、この三百名余りの人々の前に出て話をすれば、すべての人が注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、あるいは金氏なら金氏、朴氏なら朴氏等、自分たちなりに全部が聞いて、批判や判断をするのです。ですから多くの人々の前に出て話す人は、本当につらいのです。
また、若い人々を中心にして話をすれば、年取った人々には失礼になります。若い人々は刺激的で爆発的な行動を必要とするので、彼らには刺激的な話をしなければならないし、年取った人々は落ち着いた内容を必要とするので、静かな話をしてあげなければならないので、拍子が合わないのです。
歌を歌っても、年取った人々が好きな歌、若い人々が好きな歌、また、学んだ人々が好きな歌、学んでない人々が好きな歌、全部違うというのです。
また、婦人たちを中心に話をしても、婦人たちの中で、どんな層を中心にして話をするのかが問題になるのです。若い人々に話をするとき、「そうでしたか、ああでしたか」とばかり言っては駄目なので、「やあ、そう! そう!」と言うときもあります。そう言うようになれば、聴衆に対して失礼になるというのです。そうかといって年取った方々に、「私が若い人々に話したことなので、少し引っかかることがあっても御理解くださらないと」と、言うこともできません。
機関車が走るとき、小さなものが前にあればぐっと押し進むのと同じように、ここに立って話をするときも、何かを解決すべき重要な内容があれば、み言をそのように話すしかないのです。もう、これを見て、あれを見て、やってもすべて駄目だというのです。皆さんはそれを知らなければなりません。また、婦女子たちは、私が男性たちについて話をするときも、絶対に眠ってはいけません。(三九―一五〇)
説教する時に恵みを受ける人と恵みを受けられない人がいますが、その間隔をどうやって狭めるのかが問題です。その間隔を狭めるためには、恵みを受けた人を動員し、そうできなかった人の土台を整えてあげるようにしなければなりません。すなわち、恵みを受けた人が、そうできなかった人のために精誠をささげなければなりません。(二三―二四九)
四 お父様のみ言を中心として説教せよ
四 お父様のみ言を中心として説教せよ
P281
皆さんは、輝く朝の太陽自体にはなれなくても、「太陽の光に従っていく方向性は間違いない」と言える、自主的な権限をもたなければなりません。そうしておいて自分の昼のことをしないと、昼になれば疲れるというのです。皆さんは、私が夜なのか昼なのか、知っているのですか?さあ、ですから過去を知らなければなりません。統一教会の過去を知らなければなりません。過去を知るには夜も昼も、先生の説教集を読みなさいというのです。
あなたたちは言葉で説教するのですか? あなたたち、説教するどんな言葉があるのですか? 聞いてみる価値のものが何かあるのですか? あなたたちの言葉は何ですか? 今までの自分の感情が合わさったその言葉を誰が聞きますか? 私はそれが嫌です。原理を通してしなければなりません。二百巻を超えるその本(マルスム選集)に、数多い題目があるのにその題目を消化して、涙と共に、内容と私は一つになったという立場を宣布しなければなりません。「カイン、アベル基準を中心にして、ここに師が来て、父母様が来て君臨なさり、これを主導し、この集会を感動させてくださいませ」、こう言わなければなりません。み言の中心はどこにありますか? 皆さんがみ言の中心ですか?
歴史を経てきたみ言を中心にして、立てておいたそのみ言を中心にして、皆さんがそこに相対役にならなければなりません。心と体が一つとなる場所で、先生の思想と皆さんの心が一つになるその場所で、カイン、アベルが一つになって集うようになる時、そこには天の国の父母が来て、霊界が垂直に連結し、自主的な基盤が生じるという原理的公式を知らなければならないというのです。分かりますか? 何のことか分かりますか? (はい)。(一九八八・一〇・三)
原理の勉強をしていますか? 先生のみ言集(説教集)を読まなければなりません。先生の説教集でもって説教しなければなりません。自分の話をしてはいけません。それを知らなければ復帰摂理は分かりません。六〇年代まではイエス様中心の摂理でした。(一九八八・一〇・二一)
統一世界に向かう私たちにおいては、統一語で先生の説教集朗読を完遂しなければなりません。それは何のことかと言えば……。先生の説教集はどこにあるのですか? これが先生の説教集で、七十四巻です。七十四巻まで出たのです。続けて出ています。皆さんがこれを原語で読まないでどうするのですか? 原語です、オリジナルです。英語でもなく、ドイツ語でもないのです。
ですから今は、皆さんが説教については心配する必要はありません。これは先生が一生の間説教したものです。皆さんが霊界へ行って問答するようになる時、「私は見ることもできず、読めもしなかった」、そう言うのですか? 初めから英語では翻訳させないつもりです。ここに漢字を取り入れたなら本当にいいでしょう。これを読まずに行けば大変なことです。指導者たちがこれを読まなければ大変なことになるのです。
後代に、各自の家に先生が入っているでしょうか、み言集が入っているでしょうか? 考えてごらんなさい。どっちですか? 先生のみ言が入っているのです。
今や神主義である頭翼思想を早く体系化させなければなりません。大学街とか知性人の世界で話す時は、いつも「レバレンド・ムーンの思想」というよりも「ゴッディズム」、「ヘッドウィング」と言わなければなりません。早く手を加えて調整しなければなりません。カープは大学街で毎日のように、「ゴッディズム」と「頭翼思想」を叫べというのです。それでも教授がそれを知らないなら、威信が立たなくなります。学生たちが一遍に質問しますからね。知らないでいると大変なことになります。分かりますか? (一七三―七六)
第五節 十一条生活
第五節 十一条生活
P284
一 お父様の物質観1 お父様の物質観
皆さんが統一教徒として知らなければならないことは、今まで自分が持っていた物品、あるいは、自分の所有の財産は、自分がしばらく管理する過程にあったということです。すなわち、皆さんは管理人なのです。各自がよく管理して、神様の前に奉献しなければならないこの万物は、真なる父母の懐を経て、神様の懐に帰らなければなりません。言い換えれば、神様のものであると同時に、真の父母のものであるという過程を経ずしては、自分のものにはならないという事実をはっきりと知らなければなりません。(二三―三三四)
今日、堕落した人間は、そのような世界に転換して入っていくので、「所有」ということが大きな問題となります。神様のみ旨から見れば、個人的所有よりも、国家的所有を主とするのが、み旨の前に近いのだということを知らなければなりません。このことを、悪なるサタンがまず知って、個人的所有権から共同的な所有権に、神様を抜き取ってしまったのが共産主義です。そうして、私の体と心と物質が共同所有なのですが、目的のないものではなく、神様を中心として、主体と対象という目的関係において、完全に一致することのできる所有権を連結させていくのです。このようになれば、神様を私が所有するのです。物質の代わりに神様を所有するようになれば、物質のすべてのものはもちろん、人間の体と心の完全な主体を所有するようになるのです。(一九七五・一・六)
人間が責任を完遂し、神様が協助する時には、再創造の原則によって、天使より良くならなければなりません。天使を支配すべき主人がアダムであり、また、万物を主管すべき主人がアダムであり、自分の体を支配すべき主人が心であることを知らなければなりません。皆さんは、まず自分の体が万物を主管できるようにしようと思えば、自分が自分の体を支配しなければなりません。分かりますか? 体を支配できる立場に立つようになれば、万物がついてくるようになるのです。なぜですか? 完成したアダムの前には、万物が支配を受けなければならないのが天理原則であるからです。堕落したアダムとなることによって、万物と離脱してしまいました。人と万物と、良心と心と、すべてのものが分かれてしまったので、完成したアダムとなる日には、万物であるお金は、自然に生ずるのです。(一九七六・二・二二)
物質を所有して、何をするのですか? アダムを創造するのを協助しようというのです。アダムの創造とは、来られる再臨主のために、全部、再投入しなければならないということです。ですから、血と汗を流して創造した実力基盤の上に立って、自分の所得を消費させるべきであり、そうでなければ罪です。これが、原理原則のとおりにつくられているのです。(一九七六・二・一)
今まで、人間が復帰されるのに、万物がどれほど多くの貢献をなしたか分かりません。また、万物と人間が一つとならなければ、お父様の前に行くことはできません。(二三―三六二)
宗教を中心として見る時、神様が成されようとするみ旨と、このお方が成されようとする世界とは、どのようなものでしょうか? その問題を追求してみればみるほど、その世界は、物質を主とした世界ではないということを知ることができます。なぜでしょうか? 本来、物質的世界は、神様から始まったので、神様は、その世界を必要としないのだというのです。創造主である神様は、この地球を中心とした圏内で成された物質など必要としないのです。神様は、地球の何億千万倍になる大宇宙という膨大な物質を、既に保有しておられるからです。ですから、私たちが地球に生活しながら貴重に思って重要視する宝物、すなわち、金銀、財宝のようなものは、神様の前に少しの問題にもならないのです。この地球自体は、問題にならないというのです。(二八―一八四)
2 万物(お金)の願い
霊的に見れば、すべてのお金は不平を言っているというのです。「私は、アメリカのお金になる前には、誰それのお金になるのは嫌だ7」、「では、お前、アメリカのお金になって何をするの?」と言えば、「世界のお金になる」、そう言うのです。アメリカのお金になる前に、ミスター誰それのお金などになりたくないというのです。「それで何をするのか? それで何をするの?」と言えば、「ああ、神様のお金になるために……」と言うのです。それで、レバレンド・ムーンは何と言うのでしょうか? 「それでは、お前の家から、アメリカと、世界と、神様と、橋を架けてあげればどうか?」と言えば、「ハハハ、それは歓迎します」、このように言うというのです。
お金に、「お前たちの主人たちが、少しずつだけ、ただの十一条でも、うれしい気持ちで、祝福してあげる気持ちで、これを出す日には、お前たちお金が、全部家庭を越えて国と連結され、世界へと橋を架けることができる」と言うのです。そのすべての人のお金をもって祭事をささげるのです。お金をささげて祭れば、お金が解放されるのです。お金が「今まで、お金を全部神様の前に連結させて祭事をした人はいない」、そう言うのです。それで、レバレンド・ムーンが「おお、それでは私たちファンダレイジング・メンバーが、そのような祭事にささげるお金をそろえるために募金に行くので、彼らを待ちなさい」と言えば、「はい、待っています」と言うのです。
お金を集めに行くのに、誰が悪口を言っても絶対に逃げてはいけないのです。不平を言ってもいけないのです。それが、祭物を準備する人々の態度です。そうして、みんな血を流さなければなりません。お金が血を流さなければならないというのです。それを誰が流れるようにしてあげるのですか? 私が、流れるようにしてあげるのです。私たちが、流れるようにしてあげるのです。
それでは、このお金をどこから集めるのかというのです。その、こじきからも集め、大統領夫人、僕、罪人、器量のいい人、ごみ箱を片づける人、盗賊たち……。それで何かといえば、全世界の悪いお金の中から、復活したお金として持ってくるというのです。そのお金を、私のものにすることはできないというのです。祭事をささげてから祭司長のお金になるのであって、祭事をささげる人は、一文でも手をつけてはいけないというのです。ささげて、そののちにこそ、所有が決定されるのです。お金とは何かといえば、世界のために神様のために祭物として使うものです。
お金は、万物を身代わりするものなので、そのようにすることによって、すべての万物が嘆息することなく、天のみ国に行ける道が開かれるのです。それで、しだいに天の側に分かれていくというのです。そうなれば、どのようなことが起こるのでしょうか? このお金を間違って使う家庭はすぐに滅びてしまい、そのような国もすぐに腐敗して、滅びの道に行くというのです。お金を間違って使えば、家庭が破壊され、あらゆることが起こってくるというのです。ですから、お金のために闘ってはいけないというのです。先生が、お金を持っているのに皆さんを助けないからといって、「ああ7 先生はなぜ私たちを助けてくれないのか? 私たちをなぜ助けてくれない? 私たちにファンダレイジングをさせておいて、自分の思いどおりにだけして……」、そのように言ってはいけないというのです。祭物をささげたあとに、祭物を探していく道理はないのです。探していく道理はあり得ないのです。それらは、もっと高いことのために、その責任者がもっと高いことのために使えば、それでいいのです。それを低いことのために使いはしません。皆さんのために使わなくてもよいというのです。(一二五―一八八)
3 所有の決定
私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだという、これが統一思想の主流です。(一九七二・六・四)
堕落することによって神様の宝座の下までサタンが侵犯し、堕落によって、私たち人間の血統、すなわち血筋にまでサタンが侵犯し、堕落によって万物まで、サタンの所有になってしまいました。神様が造られたもの全体が神様のものになることができず、人間のものにもなることができず、怨讐のものとなってしまったのです。ですから、これ以上の悲しみが、どこにあるでしょうか? (一四―二七〇)
今日、すべての被造万物は、サタン圏内にいる、サタンの子女たちを通して主管を受けてきたので、サタンのものだという立場に置かれています。これをすべて、神様のものとして復帰させなければなりません。復帰路程の原則的な基準から見るとき、万物はまず人類始祖のものにならなければなりません。もちろん、神様のものとなるのは言うまでもありませんが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見るとき、人間始祖のものにならなければなりません。すなわち、堕落していない善の父母のものにならなければならないのです。(二三―三三二)
堕落は、自分のものをつくろうとし、それを自分が所有しようとするところに由来しています。神様とメシヤが来られるにもかかわらず、このようにしたなら、必ずサタン側になるのです。サタンの素性を引き継ぐその立場に帰ってしまうのです。それで、従順の道理を通さなければならないというのに、可能性がほとんどないというのです。堕落した世界の染みついた因縁が残るようになるものなのです。
皆さんは、皆さんの所有物を、神様のために使おうというとき、どのようにしますか? 私は夢にも、今まで私が稼いで得たものを、私のものだとは考えません。(三〇―一〇)
私たちは、サタンのものになる前に神様のものにならなければなりません。それでは、皆さん! 統一教会は誰のものですか? これは先生のものですか? これは先生のものではなく、神様のものであるので、これを私のものだという人は盗賊です。神様のものになったあとに、アダムのものとなるのが復帰であるので、そのような歴史を反復するのです。ですから、皆さんは、すべてのものを神様にささげなければなりません。昔、イエス様にパリサイ人たちが税に納めるお金を持ってきて、「これは誰のものか」と言った時、「税金を納めなければならないが、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ二二・二一)という言葉があります。
さあ7 皆さんが持っているものは、誰のものですか? サタンの所有物であるので、神様のものになるためには、物と人とが一つになって、人の愛を受けるものとなってこそ、神様が主管するのです。何のことか分かりますか? 本来、堕落しない世界で完成したアダムが、神様の愛を身代わりする主人となって愛するものとなってこそ、神様のものとなるのです。
皆さんが知らなければならないのは、神様が愛することのできる祭物に対する、蕩減条件を立てなければならないということです。ですから、神様のものとするためには、この上なく愛さなければならないのです。このように見る時、イスラエルは全世界を代表するサタンとしてつくられたのです。選民がいるように、皆さんには選物がなければなりませんが、そのようなことは初めて聞いたでしょう? その選物は、すなわち祭物として、すべての万物を代表するものです。
皆さんの家庭であれば、家庭のすべてのものを代表して、私の家のものは神様のものであると考えなければなりません。この上なく愛してこそ、堕落しなかったアダムの主管圏内にある物と人間が一つとなり、主人についていって死ぬとしても、その主人の前に死のうというのが原則です。それでこそ、神様のものとなるのであって、「ああ、主人が私の首を切ろうとする」と言って、足で蹴るようなことがあれば、それは祭物となることはできないのです。(一九七五・一・一)
私の体、私の心、私の理念、私の心情、このすべてのものが、私のものから始まったものは一つもありません。私自身を深く掘り下げて究明してみれば、先祖が連結されて出てくるようになり、この因縁に引かれて巻き込まれるような立場にいる私自身だということを考えるようになるとき、自分をおろそかに考えてはいけないのです。
私自身は、私のもののようでありながら、私のものではありません。この民族の前には民族のために送られた選物であり、家庭の前には、家庭のために送られた選物であり、夫婦においては、相対のために送られた選物であり、天地、全世界においては、各々それらのために送られた一つの選物だということを、皆さんは知らなければなりません。(八―一二)
個人のものよりも教会のものが重要であり、教会のものよりも国家のものが重要であり、国家のものよりも世界のものがもっと重要です。これからのすべてのものは、最後に世界のものとならなければなりません。でありながら同時に世界的な神様のものであり、世界的な真の父母のものであり、世界的な真の子女のものにならなければなりません。すべてのものを、そのような物質として復帰させるべき責任が、私たちにあります。これを、皆さんは、「万物の日」を迎えるたびごとに、徹底的に感じなければなりません。(二三―三三六)
将来、統一教会が、どれほど裕福になるか分かりますか? 前に語った公式を見れば、自分が持っているものは、私のものとなる前に神様のものにならなければなりません。そのようにして帰っていく時は、自分一人神様にすがって帰っていくのではなく、僕の僕から、養子としてささげなければならないし、養子は息子を通して、息子は父母を通して、父母は神様の前に返すのです。アダムとエバが、父母のものを失ってしまうようにしたので、それを探して返さなければならないのです。
ですから将来、このような原則は真理に間違いないものであり、これが歴史的実証として発展し、適応される日には、世界のすべての万物が、真の父母の手を通して神様に帰るのです。アダムとエバが、父母のものを失うようにしてしまったので、それを探して返すのが、蕩減復帰の原則です。ですから、この地に主が現れれば、全体を統一することができるというのが、理論的結論です。(一九七五・一・一)
最初は物質祝福時代を経て、人間祝福時代が到来し、その次に神様を中心とする心情祝福時代が来るようになっています。(一二―五九)
二 祭物と聖物
二 祭物と聖物
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1 祭物祭物は、人より先に出てきたのでカインであり、人間はアベルです。このように見るとき、カイン・アベルの原則を中心として、祭物と人は、一つにならなければなりません。そうでなければ神様は受け取ることができません。それでは、祭物が神様と一つになるためには、人間はどのようにしなければならないのかといえば、サタン圏が主管する以上に主管してあげなければなりませんが、愛を中心として主管しなければならないのです。
サタンよりも少ない愛をもっては、天の前に持っていくことができないので、自分の一切の所有の、どんなものよりも愛する精誠を尽くさなければならない、ということを記憶してくださるようにと願います。サタン世界の物質は、息子、娘、夫、父母すべてが入るので、神様の前には、そのすべてのものを超越してこそささげることができるのです。そうでなければ祭物の意義がありません。
堕落とは、神様の反対であるサタン側の愛の圏内に陥ってしまったことなので、神様の前に出るためには、さらにもっとサタン側のものを愛して、一つとなることのできる道を模索していかなければならないのです。(一九七五・一・一)
祭物をささげる時も、次のように考えなければなりません。「私は、羊を精誠の限り祭物としてささげる代わりに、絶対に従順になります。私は、牛を精誠の限り祭物としてささげる代わりに、私自身を絶対、犠牲としてささげます。そして、鳩を精誠の限りささげる代わりに、私は絶対愛します」。このような所信をもたなければなりません。ですから皆さんは、神様に約束した、それ以上の実践で見せてあげなければなりません。「すべての人は神様に出ていくことができなければならないので、このような祭物を私の代身者としてささげますので受け取ってください」という意識が祭事です。このような動物を祭物としてささげますが、ダイヤモンド、金のような鉱物の宝石をささげる場合もあります。すべての人々が、変わることのない心情の世界を追求してきたので、このような祭物をささげるのです。このような内容を、人々は知りませんでした。
また、祭物をみ旨にかなうようにささげれば神様のものとなりますが、そうでなければ、サタンのものになるので、祭物は、神様とサタンの所有権を決定すると見ます。サタン世界に属するものをそのまま置けば、すべてサタンのものになってしまうので、神様もそのような条件を通してサタンを分立させて、完全所有権をもたれるのです。
人間がささげた祭物を通して、神様は天のものとサタンのものを分別して、万物と人間をサタンから救援されるのです。万物を通して人を探していくというのは、人の心情を探し求めていくということに通ずるのです。(一九七八・三・二六)
2 祭物とは、所有を決定させる条件物
救援摂理歴史は復帰歴史であり、復帰歴史は再創造歴史なのです。ですから、この摂理過程に現れた道を私たちが調べてみれば、旧約時代は万物祭物時代でした。これを知らなければなりません。旧約時代には、万物が祭物となったというのです。誰のためにですか? 息子、娘のためにです。人々が生き返ることのできる道のために、万物が犠牲となったのです。この世の人々は、これを知らないでしょう? 人を生かすために、万物が犠牲とならなければなりません。なぜでしょうか? 人を創造する時に、万物が投入されて、万物の犠牲的投入によってつくられたので、再創造するにあたっても、万物が人のために犠牲にならなければならないというのです。それでこそ、原理に符合するのです。
ですから、今まで歴史始まって以来、祭物としてきたものは全部万物だったというのです。貴重なもの、牛、羊、鳩、その次に鉱石物、宝物、その次には、すべての植物、動物がそこに犠牲となって、その代価を中心として、人々が行くことのできる道を磨いておいたというのです。
ですから、祭物を中心として何の闘いでしょうか? 体はサタンがもっていき、心は神様がもっていったので、ここで人が解放されるためには、この祭物を私の代わりに犠牲にさせ、私の代わりに犠牲になるのだという愛の心をもって、サタン世界で愛する心以上の、天を愛する心をもって祭物に接しなければならないのです。
ですから、祭物は、雄、雌、陰陽が合同したものは駄目です。対になっていてはいけないのです。純なるものでなければなりません。なぜでしょうか? アダム・エバが二人とも生息子、生娘の時に堕落したからです。祭物は必ず純なるものでなければならないのです。純なるものの中でも、すべての動物の系列において最高のものでなければなりません。
ですから、祭物としてささげるものは、人々が精誠を尽くさなければなりません。その一家が精誠を尽くさなければなりません。一つの家族が福を受けるために、一家が、赤ん坊までもみんなが精誠を尽くさなければならないのです。一家全員が、愛の心情を結合させて、その祭物に対して……。
祭物というものは、所有を決定させる条件物だというのです。統一教会の原理は本当に偉大だというのです。先生が、そのようなことをすべて分かっているので、このような定義を下したのでしょう。所有物決定のための条件物です。善なる所に所有されるのか、悪なる所に所有されるのかという問題は、何を中心としてなされたのでしょうか? サタンと神様が、すべて愛の心情をもって取り引きしているということを、誰も知らなかったのです。愛の道を開発して、愛の道を開拓するみ旨を立てて、愛の人を探し出してくる、このような立場、高い愛の基準を天の前に返す前においては、サタン世界の愛の基準の万物が、天の所有物として登場することはできないのです。天の所有物として登場せずしては、神様が、人間と共に一つとなった万物を、所有することのできる道がないというのです。ですから、祭物は犠牲となって、人を代わりに所有するのです。(一六六―六九)
3 人類の復帰に至大な貢献をした万物
最近、既成教会では、献金をよくするといって、何か長老をさせたり、執事をさせたりするそうですが、私たち統一教会は、それではいけないというのです。私が、いつか一度、ずっと教会を回りながら、どんな者たちが長老となっているのか、くまなく目を通してみたいと思います。献金をよくするといって長老をさせるのですか? 献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに、世界の代わりに私の生命を交換する立場でしなければなりません。それは祭司長の位置より高い位置であり、神様と対等になり得る愛の位置に立って、同参することのできる権威をもっているのです。それだけでなく、神様が所有する所有権を、私が相続することのできる価値的内容をもっているのに、そこに何で、この世の名誉が台頭しますか?
ですから、万物を犠牲として、愛の心情を中心として、その祭物を愛するものを犠牲にさせ、自分の息子、娘が愛するものまで犠牲にさせて、私自身がサタンから解放され、私の愛する息子、娘たちがサタンの巣窟から解放され得る条件物を、より次元の高い愛をもってささげなければならないのです。そうして、神様がそれを受け取ったと決定される時は、天の前に帰るのです。このような役事をして、旧約時代が出てきたのです。旧約時代には、祭物を個人的祭物、環境的祭物、民族的祭物、国家的祭物をささげる、このような儀式を備えていました。このような道理をなした宗教が、神様を中心として始まったユダヤ教だったというのです。ユダヤ教を中心として……。
それでは祭物とは何でしょうか? 人々が、真なる人々が行くことのできる道を開けてあげるためのものです。万物は、そのために犠牲となってきたというのです。このような観点から、「万物の日」を迎えた今日、万物がこの人類復帰運動に、そして再創造歴史時代に、どれほど偉大な貢献をしたか、どれほど偉大なことをなしたかということを知らなければならないというのです。時が来たならば、神様の代わりに愛の心をもって、これにしっかりとすがって、「お前、どれほど苦労したのか」と、泣いてあげることのできる心が流れてこなければいけません。
紙切れ一枚でも、これはすべて、歴史過程に私たちの祖先たちが、血と汗を流して祭物を引き継いできた一部分であるのです。ですから、それを抱いて愛してあげることができなければなりません。道端に落ちた紙切れも、何気なく通り過ぎることはできないという、主人になった資格をもって、心情的主人になった行動をするようになる時には、歴史的に犠牲になった祭物たちが、あなた一人を見て、「私たちの怨恨を解くことができる、神様の愛に接近することができるように橋になってくれるので有り難い」と言うでしょう。そうなることのできる万物圏を周辺において、侍って生きることのできる皆さんにならなければならないというのです。そうなってこそ、祭物を犠牲にさせた私たちの祖先、数多くの宗教の犠牲の代価を、有効に引き継ぐことのできる後代の相続者としての資格を備えることができるということを、はっきりと知らなければなりません。(一六六―七一)
4 聖物の重要性
これからは、どんなことをしなければならないのでしょうか? お父様の前にささげるものは聖物だということができます。皆さんは、これからそれを準備しなければなりません。自分が直接侍るのです。それを、今は実践する時が来たというのです。甲という人がいて、春分ならば春分において、礼物を準備したとしましょう。例えば、三千ウォンの価値のあるものを準備したとするならば、それを父母の前にささげるときには、自分一人でささげてはいけないというのです。
なぜそうしなければならないのでしょうか? 聖物をもって、今まで何が闘ってきたのでしょうか? カインとアベルが闘争してきました。聖物をおいて、サタンと天が闘ってきたのです。ですから、天の嘆きとは何でしょうか? 聖物をおいて闘争してはいけないのです。兄弟ならば兄弟が、お互いに団結しなければなりません。そうではないですか? 今まで一つの聖物を置くようになる時には、必ず闘争的な条件を立てて……、カインとアベルが、サタンと天の側に分かれて、対決して闘ってきたのです。
それが、今まで神様を悲しませる条件になったので、今日私たちが、その聖物をもって父母の前にささげるにあたっては、すべての万民が団結して、その聖物の前で心を合わせることのできる運勢を備えて進めなければなりません。全体をそのようにするためには、最少単位のカインとアベルが統合をみなければならないというのです。そうではないですか?
ですから、そのようなものをささげるようになる時には、三千ウォンならば三千ウォンの価値のものを父母様の前にささげるとしても、自分一人ではささげることができないのです。必ずカインならばカイン、アベルならばアベルとして、同伴者を探して、その同伴者と協力してささげなければならないのです。
ですから、韓国の風習に、目上の人に何かをささげるような時には、それを両手でささげるのですが、これは、天地の道理に符合するものです。それは、自然的な良心からにじみ出てくる、天が与えた法度であり、それが、私たち韓国の、美風良俗として残ってきたのだというのです。(一五〇―三〇二)
皆さんが、一つの季節を迎えるごとに、聖物を天の前にささげるためには、四数を身代わりする三日間を潔斎して、祈祷しなければならないのです。「お父様! 生命の代わりに、これをお父様の前にささげます。極めて小さなものですが、私の精誠を尽くして準備した聖なる物としてお父様の前にささげようと思いますので……」と言わなければならないのです。それで皆さんは、天地の恨として残された聖物を、侵犯を受けた歴史的なすべての条件を乗り越えるためには、私の個体の前に必ず相対的な条件を立てなければならないのです。そうして、アベルとカインが闘争してきたことを乗り越え得る立場で一つとなることができる姿を備えてこそ、サタンの未練を断ち得る聖物になるのです。もしそうでなく、自分一人しかいなければ、サタンが未練をもつというのです。
それでは、これからどのようになるのでしょうか? ささげる時には、もしここに甲という人が、ある金額を、アメリカにいる人に送るとしましょう。甲という人から、乙という人が、同伴することのできる一人の対象者として選択されたならば、彼にその金額を直接送るか、そうでなければ協助的なすべての内容を、書信で連絡して知らせてあげなければなりません。それで、心で、体で、行動で協助してあげ得る相対的な位置に立てば、それが甲の前において、無限なる栄光となるのです。
これからは天にこの聖物をささげる時に、カイン的な立場に立った人において、そこに私がアベル的な相対的な立場に出るとか、あるいは、アベル的な立場に立った人の前に復帰され得るカイン的な立場に立つとか、二つのうちの一つの場合に、ある食口が聖物をささげる時に、私が呼び出しを受けることは、無限なる栄光だということです。それは、天が知らせてくれるということです。これから、このような聖物をささげるところに参席する者は、それ自体が無限なる栄光だというのです。自分勝手に来てはいけないのです。(一五〇―三〇五)
三 十一条
三 十一条
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1 献金に対する本来の基準創造された当時には、すべての万物は、アダムの所有として決定されたのですが、堕落した以後には、アダムの所有決定権はないので……。しかし、有り難いことには、蕩減というものがあるのです。蕩減するためには、蕩減条件が必要なので、アダムの蕩減条件のための所有物が必要だというのです。その条件を立てるために、統一教会は、もてる精誠を尽くすのです。迫害を受け、悪口を言われ、鞭を打たれ、鼻血が飛び散り、骨が折れ、生死の境に入ったとしても、そこで精誠を尽くして、血と涙を流す。そのようにして所有権を獲得していかなければなりません。
何、十一条? こじきがおならを屁るようなことを言うなというのです。十一条が何ですか? 本来なら一〇〇パーセントささげるとしても、あなたの血の代価をプラスしなさいというのです。あなたの心と体の、すべての津液(注:生物体内からしみ出る液)を吹き込みなさいというのです。そうして、所有権を受けなければなりません。その所有権を受けてこそ、神様が再び、サタン世界の所有物になる前の、愛の理想の位置に行くことができるのです。物質的内容に心情的内容、人間的心情の内容が介在しない限り、神様と天使が協助して人間を創造できる基盤をつくることはできないと見るのです。分かりますか? ですから、私たち統一教会は、それを全部清算せよというのです。(一一三―四〇)
それでは、どのように経済問題を解決してきたのでしょうか? 信徒たちによって、信徒たちが自分の生活費をいくらか削りささげる、このようなことをして解決してきたというのです。
けれども、自分が使うところから、いくらか献金して、それによって教会を支えるというのは、大変良いことのようですが、大変悪いと私は考えるのです。神様の前にささげるものは、何よりも、自分の生活よりも、自分の全体よりも、先にささげなければならないのに、その何パーセントをささげるというその観念によって、自分の生活が主であり、神様が次の段階に立つようになることが常習化しやすくなるというのです。神様が二番目となるようになり、最後になってしまうというのです。分かりますか? そう思いますか、そうでないように思いますか? (そう思います)。
ところで、神様が宇宙を創造されて、絶対全能であられるそのような方が、自分に信徒たちがはした金を出すのを見て、こじきに投げてやるようなお金をもって、喜ばれながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言って、立たせることができますか? サタンの前に威信が立つのかというのです。立たないのです。献金台を回しながら、お金を出せということをしているでしょう。それは、看板をつけたこじきです。それは何ですか。それは、神様が好まれないのです。(九六―一〇一)
2 十一条の意義
私たち食口の生活的基準線で生きることができず、それ以下でお父様に侍る時には、天に対して無限に恥ずかしいことと思わなければならないのです。分かりますか? 統一の心情を共にし、天のみ旨を共になしていく食口の立場で、全体ならば全体の生活において、一月にいくらであるという基準、すなわち、たとえていえば、平均生活金額がいくらという金額が出たならば、その金額を中心として豊かに暮らしているような人は、下がらなければなりません。豊かに暮らしている人は、下がらなければならないし、貧しい生活をしている人は、あらゆる努力を尽くして、切り抜けて越えていかなければなりません。そうして、生活基準線をだんだんに高めて、世界の最高文明国家を制覇する時まで、私たちは総団結していかなければならないのです。
そして皆さんが、今家庭に行けば、その家庭にお父さんの部屋がなければならないし、田畑に行けば、お父さんの田畑がなければなりません。自分の家庭を中心としたお父さんの田畑があって、これからは、必ずお父さんの田畑で収穫した種を取り入れて、お父さんのものとして自分の田畑に種を蒔かなければなりません。
イスラエル民族の中で、レビ族が十一条をもらって生活していたのと同じように、これから皆さんも、そのようなことをしなければなりません。統一の食口、侍る者として私たちが行くにあたって、生活の十一条を出すことは、絶対的です。それを自分のものだといって侵犯してはいけないというのです。なぜそうかといえば、九は三×三=九、これをサタンが今まで支配したというのです。今日、サタンが支配するこの地上において、この九数を天の前に預けて連結させることによって、神様が主管することができるのです。そうして、十数の位置を探しておくことができるので、私が神様を信じて、九数を引っ張って入っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離し、切ることができるのです。それで、十一条という言葉が出てきたのです。何となく出てきたと思うのですか? そうではありません。(一五〇―二九九)
キリスト教の十一条を見てみると、そこには、本当に恐ろしい内容があることが分かります。十一条を出さなければならないという聖書の句節もあります。十のうちの一つを神様にささげよというのです。「しかし、神様が見えるのか? 十一条が何か?」と言う人がいるでしょうが、十一条は何かといえば、一つのみを行って、十まで行こうというのです。もし皆さんが、皆さんの父母の誕生日の宴席や還暦の宴席、あるいは王様の誕生日を迎えてお祝いをするために、牛もつぶし、豚もつぶし、あるものないものみんな作ってささげるといった時、その方たちが、それをみんな食べますか? 食べません。みな受け取りはしますが、全部食べることはできず、極めて少ししか食べることができないのです。しかしこのように少ししか食べられなくても、全部食べられたという条件が立てられるのです。
これと同じように、十一条は、私が所有している物質の中で、十分の一を神様にささげることによって、全体をささげるという意味をもっているのです。お父様に全体をささげはしませんが、その中から、一つを精誠を込めてささげるということは、そのような意味で価値があるのです。そのように、一つをささげることによって、残った九つも聖なるものとして扱いを受けるようになるのです。このように十一条をささげて生活している人は、絶対滅びる道理はないのです。日がたてばたつほど、その倉庫が増えるようになっているというのです。(三一―二三九)
3 十一条は復帰のための蕩減条件
今まで、神様が再創造されようとしても、皆さん自身が、神様が所有し得る物質的条件をもたずにいるので、できないというのです。神様が所有することのできる、物質的条件とは何でしょうか? アダム・エバを創造される時に、天地万物を代表して、すべての津液を抜き出して造りました。神様のものとして造られたのです。ところで、堕落することによって、全部サタンのものになったというのです。ですから、これをどのようにして取り戻してこなければならないのでしょうか? 蕩減条件によって取り戻してこなければなりません。あらゆる精誠を尽くして私の体を造ることのできる、再創造することのできる条件を立てて、サタン世界に行って取り戻してこなければなりません。
それを歴史的に引き継いでいくために、十一条という条件を今まで連結させたのだというのです。これを基盤として、自分の血の代価を支払わなければなりません。イエス様は、血の代価を支払ったでしょう? 蕩減基準とともに。血の汗と涙をささげて、神様の心情と一致することのできる起源を通さずにはいけないというのです。
心情において、サタンとは何ですか? サタンは、まず第一に自分を考えます。自分を中心とするのです。その次には、自分の所有観念を備えているのです。その次には、自分の愛を中心としたというのです。この三大要素をサタンはもっています。(一一五―六八)
蕩減をするためには、物質を条件とします。私たちが十一条を天の前にささげる理由も、ここにあります。九数は、堕落世界の数であり、十数は、これを脱する数であり、天の世界の数です。
万物の種を、堕落人間が先に取りました。それゆえに、これを聖別しなければなりません。イスラエル民族のカナン復帰においても、三年の聖別期間がありました。(一〇―二一七)
皆さん、試験が好きですか? (いいえ)。それでも試験は必要でしょう? (はい)。試験がなければどのようになりますか? 試験を受けない人は役に立ちません。難しい試験を通過するほど値打ちがあるのです。もう、きょうの話はほとんど終わりです。もうやめても分かるでしょう? 迫害が必要です。堕落した世界では、迫害なくしては、帰ることができないということを、皆さんは知らなければならないというのです。
それで、物質に対して迫害を受けた、それが何かといえば、十一条です。十一条をしなければ、九つが全部讒訴するのです。物質の迫害……。何のことか分かりますか? 十一条の中で、十分の一にあたるものが祭物となるのです。一番貴重なものが、祭物となるのです。何のことか分かりますか? 祭物は、すべて雄であり雌ですが、若いものです。すべて、初めての愛を通過しなかったものです。昔は、処女を祭物として捕まえて殺したりしたでしょう? 初めての愛、初めての愛で対することのできる、初めての愛を天にささげることのできる、最初の愛を天と連結することのできるものを……。その次に私たちは、物質の祭物を中心として、ここに屈伏しなくてはなりません。カイン・アベルの法度に従わなければならないのです。
物質祭物時代は、旧約時代であり、その次は何ですか? 人間祭物時代は、新約時代です。そうでしょう? 血を流すことです。昔、旧約時代の祭物も血を流し、新約時代の人間も血を流しました。その次に今は、心情の血を流すのです。これが今の時代です。そうでしょう? ですから、統一教会の皆さんが、心情の苦痛を受けるでしょう? 私たちは、悪いこともしていないのに、なぜ苦痛を受けるのでしょうか? (一〇七―二〇二)
4 十一条をささげる姿勢
皆さんが、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰をするためには、祭物的な条件が必要なのですが、祭物をささげるために、どれほど精誠を尽くしましたか? 精誠を込めた思いがありますか? でたらめな者たちばかり集まっているというのです。思いのままにすれば、どれほどいいでしょうか? 思いどおりにして、神様が受け取ることができるかというのです。とんでもないことだというのです。
ですから、条件物は私の生命の身代わりです。私の代わりに死ぬのです。ですから、その条件物とは、完全に一つにならなければならないし、完全に愛さなければなりません。愛の対象として対しながら、それが死を受ける時、共に痛みを感じて、心で泣きながら、祭事をささげなければならないのです。アブラハムが息子を捕まえて祭事をささげたのと同じように、心情的に切ろうとしても切ることのできない因縁をもった立場で、断ち切らなければなりません。このような立場で祭物をささげなければならないのです。ですから自分において、一番貴重なものを祭物としてささげなければならないのです。分かりますか、何のことか。物質をささげるようになる時には、皆さんが使って残ったかすをささげれば罰を受けるのです。そのようなことなら、むしろささげないほうがましなのです。
皆さんが十一条をささげるとき、精誠を込めてしてみなさいというのです。絶対、飢えて死んだりしないというのです。その後孫が、物質に対する窮乏を味わったりしないというのが原則なのです。十一条をささげるためには精誠を込めよ、そのようになっているのです。それが信仰の本質です。適当にやればいいだろう……。それは通じないというのです。祭物は、私の生命の代わりにささげるものです。ですから、一番貴重なものをささげなければなりません。服をささげるときは、自分に何百種類の服があったとしても、その中で一番貴重なものをささげなければなりません。(六三―三三八)
5 十一条は一番精誠を込めた、純なるものでなければならない
祭物をささげるときには、純なるものをささげますか、使って残ったものをささげますか? (純なるものです)。なぜそうでなければなりませんか? 韓国でもそうではありませんか。城隍堂(注:村の守護神を祀ってある社)のような所で祭事をささげる時、牛を捕まえるならば、雌牛を捕まえてささげますか、牡牛を捕まえてささげますか? (……)。このようなことは、みんな知らないんですね。古代ギリシャや、シリアのような所の歴史を見れば、祭事をささげるときには動物を捕まえてささげましたが、のちには人間も捕まえてささげました。我が国の沈清伝にも出てくるでしょう? 人間を祭事にささげる時、女性をささげましたか、男性をささげましたか? (女性です)。それはなぜでしょうか? これを見れば、統一教会の堕落論と同じです。なぜ、若い純なるものをささげるのですか? 純なるものをささげなければなりません。サタン世界の純なるものを捕まえてこなければならないからです。天の世界の純なるものを誰が奪っていきましたか? サタンが奪っていったでしょう? そうでしょう? (はい)。ですから、神様の前に精誠をささげるとしても、純なるものをもって精誠を込めなければなりません。そうしてこそ、神様との関係を結ぶのであって、使い残したものをもって精誠をささげてはいけません。
ですから、十一条というものは、一番精誠を込めた純なるものでなければなりません。それが祭物です。このような話をしようとすれば限りがありません。とにかく、祭物をささげるときには、純なるものをささげなければならないということを、しっかり知っていなければなりません。息子を祭物としてささげるとすれば、どんな息子を祭物としてささげなければなりませんか? 憎らしい息子? 希望のない息子? そのような息子は祭物にならないのです。一番良い息子でなければなりません。なぜそうなのですか? 祭物は「私」の身代わりであるからです。(四八―八五)
皆さんの生活習慣は、このようにしていかなければなりません。一番最初のものは、神様の前にささげなければならないのです。純なるものは、神様の前にささげなければならないというのです。純なるものがない時には、神様が共にいてくださらないのです。新しいものがない時には、神様が共にいてくださらないというのです。皆さんは、それを知らなければなりません。祭物も、他の人の残したものをもってしてはいけません。それは、汚れに犯されてしまうことです。恩恵を受けた人ならば、一遍で分かってしまうのです。それで、不浄な所には、行かせないようにするのです。(三〇―一三三)
皆さんが献金をするようになる時には……。子供たちが聖日の朝に教会に行く時、「お母さん、お父さん、私の献金、献金!」と言うようになれば、何か、いくらかを与えながら、「さあ、献金だ。日曜学校に献金しなさい」と言います。神様はこじきですか? 物ごいをする人ですか? 教会の牧師は物ごいをする人ですか? そのような牧師、そのような教会はいけません。終わりの日になれば、みんな……。自分の財産の核を出さなければなりません。自分の金庫の一番深い所に置いておいて、銅貨を出そうとするならば、銅銭の金庫を早くから準備しなければなりません。刈り入れをする秋になって、すべての倉に穀物を取り入れる時、献金するお金を、十一条を、別に積んでおかなければなりません。そうして、一年間、自分が出さなければ、息子、娘の一家が合わせて、精誠を込めて、愛の心と兼ね合わせて、祭物としてささげなければなりません。(一六六―七一)
皆さんが教会に献金するとき、どこかで何かを買って食べて、残ったお金を献金しようと考えてはいけません。そのようなお金は、汚れてしまったものです。また、市場に行って、何か買って残ったお金で献金をするようになっても、神様は、そこに共にあられないのです。(四八―八六)
6 十一条の生活
これから皆さんは、もっているすべてのもの、時間までも十一条しなければならないのです。過去のように、何か物質だけではありません。もし、家族が十人いれば、家族の身代わりとなる一人を出さなければなりません。そういう基準で進まなければなりません。これから、私たち統一教会食口たちは、十一条ができなければいけません。十一条ができない人は統一教会の食口ではありません。これは、義務的です。天的な義務だということです。もし、そのような生活圏内を脱け出すようになる時には、いけないというのです。
今日、復帰路程にある私たちは、二つの国に対する立場です。そうではありませんか? 今、天の国もなければならないし……。サタン世界の国を脱け出す過程においては、二つの国の立場にいるので、私たちはこの二つの世界を脱け出すことができないので、韓国の民として生まれたならば、この国の前に税金をささげます。そうでしょう? この国に税金をささげ、その次には、天に十一条を出します。十一条というものは、自分の国のためにささげるものではありません。それは、祭司長、レビ族のために、祭司長の職分をする人々のために、天の数として出すのです。
今日、このような復帰途上を越えていく過程にある私たちにおいては、十一条ではなくて、十の三条までささげる覚悟をしなければならないのです。一つは国にささげ、一つはこの世の人々に施さなければなりません。復帰過程では、そうしないわけにはいかないというのです。また一つは、天の国にささげなければなりません。十一条の一条というのは、天の責任を引き受けた人として、絶対侵犯してはならないのです。その基準まで覚悟しなければならないというのです。そうしながら孝行と誠を尽くさなければならないのです。
皆さんが、うどんの一杯を食べるとしても、一人で食べてはいけません。天のお父様に侍っている者として、一人で食べるのが申し訳ないならば、もし、十分にできないとしても、一銭を、一枚でもいいのです。「共にいてくださるお父様の前で、私一人で食べるしかないので、心苦しいのです」と言って、お父様が共に参与してくださる条件を立てて、必ず父母を先にもてなす立場に立てておいて、皆さんは生きていかなければならないというのです。服を買うにも、一人では買えません。そのようなことをしなければならないというのです。(一五〇―三〇一)
教会の十一条生活も、食口が十家庭いれば、引導者の一人の方を食べさせ生活させなければなりません。そうできなければ、天民権をもつことができないのです。
十人が生活すれば、天の人一人を扶養しなければなりません。
十一条は、すべての面にあります。学校も、十教室の中に、一つの教室はかわいそうな子女たちのための無料奉仕の教室として使わなければなりません。
聖日は十一条の日なので、私の日ではないのです。ですから、天の命令のまま服従する日です。天のものを私のものとして使おうとするのは罪です。
私の息子の中の一人を天の前にささげなければならないし、そうできなければ、他の人の息子でも、勉強させて天の前にささげなければなりません。
7 献金を受ける方法
今日、既成教会で献金することを何といいますか? 何か袋を持って通うでしょう? 皆さんはこじきの輩ですか? 私たち統一教会も、献金をそのように受けるのですか? 何、何か調理台を持って受けるのですか? (笑い)(回します)。出ていく時、全部、あの門の前に集めておくのです。全部精誠を込めて、恩恵を受けて行く代価として、感謝献金をさせるというのです。そのようにしなさいというのです。分かりましたか? 出さない人々は帰って……。そんなくだらないお金をもって、それは神様が願わないというのです。精誠を込めたお金、お母さん、お父さんのポケットにあったお金そのままではできません。全部、自分の体に三日以上持って聖別して献金しなければなりません。昼食一食の代価も払えないお金をどこに献金するのですか? 自分の生命、財産を全部ぶちまけなければならないはずのものであるにもかかわらず……。(一六六―三一九)
四 聖塩と分別生活
四 聖塩と分別生活
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聖塩は、「こうじかび」と同じです。物を買う時に聖別し、外の生活をして家に入ってくる時も門の所で聖別するのが原則です。(九―七八)聖別したものはサタン世界に分け与えてはいけません。やむを得ない時は左手で与えなさい。(九―七八)
聖別は「聖父、聖子、聖霊と真の父母と私の名により聖別いたします」と言いながら、十字(北南東西の順)にまきます。(九―七八)
聖別した不動産などを処分しなければならないときは、班、組、地区の段階を通して許可を受け、処分するのが原則です。(九―七八)
我々食口たちが聖別して入る地で、すべての地を次第に占領していかなければなりません。(九―七八)
ノア以後四百年が過ぎて、アブラハムの時代になって三大祭物をささげる時に牛と羊は裂きましたが、鳩は裂きませんでした。裂くということは聖別するということです。裂いて聖別しなければならない鳩であるにもかかわらず裂かなかったので、聖別しなかったので、アブラハムの祭物は失敗に帰してしまったのです。このように裂くことができず、聖別できないことによって、不潔という名詞が皆さんについているということを知らなければなりません。(八―三二〇)
本来祭物は、壇の上に置いて裂いてささげるのです。祭壇は一つの聖別された地を象徴するとすれば、そこに裂いて置いた物は、分別された物を象徴するのです。
それで、ここで血を流すということ、裂いて血を流すことは蕩減条件、言い換えれば聖別する、サタンの血を抜く、サタンの主管的条件を完全に清算するという意味があります。
このように見るとき、旧約時代には物質を通して、物質を聖別してささげたのです。ですから動物だとか、その次に別の品物全部を聖別しなければなりません。心においても聖別しなければならないし、外的にも聖別しなければなりません。内外に聖別しなければならないのです。(九三―一〇)
皆さんはどこかに行って座る時も、聖塩をまいて座りますか? どうしますか? 心の中で「フー、フー、フー」と三回吹く条件を立てて座れというのです。サタン世界に美男子がいれば「ああ、美男子と一度住んでみよう」そのような思いをもたず、美男子が手を一度握ったとしても「フー」と吹いてしまわなければなりません。聖塩をまかなければならないというのです。心の中で「フーフーフー」と三回吹けというのです。聖塩を三回まけということでしょう。(笑い)(一七〇―二三三)
これから私たち食口は、すべてのものを聖別しなければなりません。聖別するにあたって聖塩をまいて聖別するのは別に問題はないのですが、御飯を食べたり、そばを食べたり、水を飲んだりする時に、いつ聖塩をもってそのようにしますか? ですからこれからは、どうするのですか? イエス様が復活したのちにフーッと吹きながら「聖霊を受けよ」と言ったのと同じことです。アダムを造っておいて鼻に生気を吹き入れて実体の新しい生命を誕生させたのと同じように、皆さんも生命の実体を身代わりすることのできる息子、娘がいれば、そのようにしなければなりません。これからは水を飲んだり御飯を食べたりする時には、吹いて食べなければならないというのです。
韓国の風習が変わっているというのです。そうではないですか? 水などを飲むにも吹いて飲みます。また吹いて座ります。大概そうでしょう? それは天がこの民族に、実践することのできる自然的な良心を動かして、私たちに一つの風習として残すようにしたのです。これはみな、偶然にこうなったのではないのです。ですから、心でいつもそのような聖別礼をしなければなりません。
私たちは三時代、蘇生、長成、完成、六千年の長い時代を、三時代を経ながら汚れたものを聖別するためには、三回吹いて食べなければならないというのです。どこへ行っても、皆さんが小便をするとしても、そのようなことを今や、みなしなければならないというのです。どこに行ってもみんなしなければならないというのです。
これから、私たち食口の家が聖塩をまいて聖別した家であるという場合は、表示をしておかなければなりません。表示をしなければならないのです。聖別した地だというならば、皆さんにそのような地があるならば、表示をしなければなりません。私たち統一信徒がその聖別した地を通り過ぎることがあるとすれば、表示がついたその地を通るときには、必ず自分の体を払って通り過ぎなければならないというのです。
そうして、私たちが歩いている地上のすべての地が聖別された所でなければなりません。そのような所で私たちは生活できなければなりません。そうすることのできる環境をつくらなければなりません。事実は、地でも何でも全部燃やさなければならないのです。原則は全部燃やさなければならないのです。ですから火で審判するということに意義があるのです。
イスラエル民族は、昔、汚れたものは聖物としてささげる前に、火を焚いておいて、火を通していくようにしました。旧約時代を見れば、そうではないですか? しかし、そうすることができないので、聖塩をもって聖別の条件を立てて、天的な条件を立てて、これを補っていく役事をなしているのです。今皆さんは、それをしているでしょう? (はい)。
皆さんがあることをするときはそうです。四時四節、春夏秋冬いつでもそうです。もし、あるものを神様の前に、あるいは真の父母の前にささげようとするとき、自分がカインの立場に立つとか、ある誰かがアベルの立場に立つとか、二つのうちの一つは、信仰の同志を求めなければなりません。求めるときには、世界的な父母の前にささげるのですから、天と地全体を通してこの相対を求めなければならないのです。(一五〇―三〇三)
民族を生かすときには、どこで生かすのですか? 高楼巨閣の高い権威の上で生かすのですか? 死ぬ立場は落ちる立場なので、落ちる立場では死ぬ人を生かすことはできないのです。統一教会は下がっていく運動をするのです。「下がっていこう! 食べる立場を避けていこう。着る立場を避けていこう。私が好む立場はサタンが好む立場ではないか。ここに染まらないためには、隔離された立場に行こう」というのが統一教会が行く道です。
皆さん、私たちは食べたり着たりすることを中心に、聖別するために聖塩を使っています。私たちの国がどこにあり、この地で収穫したものを聖塩で聖別しないで食べることのできる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに足を下ろして聖別せずに生きることができる地はどこにあるのですか? 皆さんが聖別儀式をする時、聖塩を使うたびに「こいつ、サタン」と言って、歯ぎしりをしなければなりません。
三千里半島が神様の前に抱かれることのできる日、三千万民衆、この国この民族が将来来られる主の名前を身代わりし、世界万国を身代わりして立つことのできる民族になって、神様の前に一時にささげることのできる民族になるならば、この民族は、世界の祖国になることができるというのです。(四八―二五三)
五 牧会者の公的生活
五 牧会者の公的生活
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1 牧会者の公的な生活先生が皆さんに話をする時、タイプや姿が見目よく見えるかもしれませんが、そのために何週間、あるいは何カ月の間を身動きもできずに、拘束を受けて生きる生活をしています。これは私的な生活ですか、公的な生活ですか? 公的な生活だというのです。思いのまま生きればどれほど良いかというのです。もし先生が思いのまま生きたとすれば、皆さんよりもっと素晴らしく生きることができるでしょう。私は何をしても誰にも負けません。素質がいくらでもあります。
事実、この宗教指導者の立場がどれほど大変な立場か、皆さんは分かりません。すべての村の人々の目を気にしなければならないし、この上なく醜い罪人の目も気にしなければなりません。もちろん、優れた人の目も気にしなければなりません。人の目の瓶の中に入って生きるということです。ですから「ああしても、こうしても、どうしても大変なことになる」という大院君時代の言葉がありますが、これはそれよりも大変なのです。夜昼がありません。夜だからといって神様が見られないですか? 夜昼ああこうして、これは大変な仕事だというのです。このような大変な仕事をして生きているのです。生きていけば方法が出てくるのです。
そのような観点で皆さんが生きたとすれば、神様は誰を通して出ていかれるのでしょうか? そのような人を通していかれるのです。より公的な世界に向かっていく民族に、神様が行ったり来たりされるのです。何のことですか? 神様はより公的な道を行く民族がいれば、その民族の所に包みを包んでいかれるのです。また、それよりもっと公的な民族がいれば、その方に方向を備えていかれるのです。神様がこうして行ったり来たりされるのです。(三一―二五四)
世の中をじっと見れば、公職に立っている人はかわいそうな人だというのです。あらゆる精誠を尽くしても、もし、み旨の前に失敗をして私によって千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか? 借金をした人が、お金がないのに借りを返さなければならない時が来て、というそのような心境だというのです。そのような生活を今までしてきているのです。(四六―五五)
先生が生きている時は先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くのではありませんか? ですから、原理に公認され得ないことをしたならば大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づけることのできる原理的内容があるかが問題です。これをもし誤ったなら、今まで成されたものをすべて失ってしまうのです。ですから責任者は難しいというのです。
責任者はどんなに疲れても先には寝ないのです。みんなを寝かせておいて、寝なければなりません。祈祷する時も一番あとまでしなければならないし、信仰生活をするにおいても、食べれず、着れず、生活できないながらも、精誠をささげなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば「滅びよ」と言っても滅びることができないのです。(三三―一六九)
先生は雪岳山に行って遅く帰っても、朝早く起きなければなりません。責任者はそのようなものです。命令を受けない罪人の心情を抱いて生きる人が責任者です。御飯を食べておなかがいっぱいであったなら悔い改めなければなりません。十分に寝てしまったならば、寝床で起きるや否や悔い改めなければならないのです。(六二―一三三)
皆さんが箸を持って御飯を食べる時も、この食べることが公的か私的かを考えなければなりません。大韓民国三千万の民族のために御飯を食べ、世界の人類のために御飯を食べなければなりません。大韓民国のための世界をつくろうとすれば大韓民国は滅びます。アメリカのための世界をつくろうとすればアメリカは滅びます。世界のためのアメリカとなってこそ栄えるのです。ニクソン大統領の時代になってアジアのためのアメリカとなった時は希望がありましたが、アジアから後退する時には、滅びるのです。その行く道がどこであるかを考えてみなさいというのです。何であっても、全部惨敗をして滅びるのです。私がこのようなことを早くから話しました。アメリカが援助政策を減少させれば、その大統領の時から後退するようになるのです。ケネディ大統領がそうでした。それでそこから悲運の歴史が始まったし、彼はまた、寿命を全うせずに死んだのです。
それならば、死んでも滅びない人々はどんな人々でしょうか? 死んでも世界に貢献することのできる群れとはどんな群れですか? 公的な人々です。公的な生活をした人々です。そうでしょう? 孔子、釈迦、イエス様は何のために生きたのですか? 彼らは国家主義者たちではないということを知らなければなりません。世界のために、未来の世界のために生きて死んだ人々です。理想的な世界のために自分の生命を失っても、現実の矛盾したすべてのことに積極的にぶつかり、その世界を尊重視して生きてきたので、聖賢の班列に同参することができたのです。(三六―七四)
朝初めて足を踏み出す時も、公的な一歩であるのか、私的な一歩であるのか反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて枕の上に横になる時、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。あるいは一年を中心として、公的な生活をしたのか、私的な生活をしたのか、一生を中心として公的であったか私的であったか反省しなければなりません。(三九―七六)
他の人のために、公的なことのために、疲れも知らず走って、いつ寝るかも知らず、ぐったりするように寝て朝起きれば、どれほど身軽いか分かりません。そのようなことを見れば「ああ、天の道はこのように行くのが原則だなあ」という思いになります。そうですが「ああきのうは三時間しか眠れなかったので、きょうは五時間、六時間は寝なければならないのに」と思いながら寝て、起きるようになれば腰が痛いし、全身が重いのです。ですからそのような考えをするなというのです。
寝る時間を計算して「きょうは寝れなかったので、あすはもっとたくさん寝なくては」と思うなというのです。皆さんはそうでしょう? 「聖日の朝は断食をするから土曜日の夜には御飯をたくさん食べよう」と言うのです。(笑い) そのようにする断食は意味がありません。むしろ断食をしないほうがましだというのです。断食をするからといって前の日に御飯をたくさん食べれば、おなかがもっとすくというのです。そのように食べてみなさいというのです。胃を大きくして、突然すくようになるから、おなかがもっとすいて仕方がないのではないですか? (笑い)(四四―一六一)
2 万物に対する公的な管理法
被造世界のすべての万物は、ある特定の個人に固着している所有物ではないということを皆さんは知らなければなりません。自分の地だといって、それが良いと自慢し過ぎれば滅びるのです。なぜそうかといえば、それは公的なものであるからです。私はただそれを管理しているのです。天理の法に従って私が公的な管理人として管理するようになれば、永遠に管理することができますが、管理法に従わなければ滅びるのです。しかしそのような公的な管理法、万物に対する公的な管理法を、この地上の誰も知らないでいるのです。(三一―二四七)
皆さんは、万物を公的に管理することのできる人とならなければなりません。皆さんが御飯を食べる時、御飯に対して「ありがとう」というあいさつもなくやたらに食べたと、この世の御飯たちがみんな動員してデモをする日には、どうするのかというのです。御飯が人間の口という口には、みんな入らないことに決め、同盟罷業をしたならどうなりますか? そのようなことを考えてみましたか? 植物なので、そのようなことはあり得ないので幸いですが、もしそうなり得たなら皆さんはどうしますか? 人間がそのような状況にいれば同盟罷業しますか、しませんか? 万物も同じだというのです。
ですから、御飯を食べるときには、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前はどんな人の口に入ることを願うのか、お前はどんな顔をした人の口に入って骨となり肉となりエネルギーとなって、善なる世界のために何を残したいのか?」、このような思いをもって御飯を食べなければならないというのです。御飯がどろぼうの腹の中に入ることを願いますか? 御飯が腹に入るのは同じですが、ただ一つぶの御飯つぶでも、善なる人に入ることを願うのです。より公的なことを願うというのです。
空気も同じです。もし空気が総団結して五分間だけ世界的に罷業を起こせば、世界人類は一時に空気に服従するでしょう。もし神様が世界を強制的に屈伏させようとすれば、空気を使って屈伏させることができるのです。空気を抜き出してこの世を真空状態にして、一分、二分、三分、五分だけそうしておけば「死んでも降伏しますので」と言うのです。皆さんには空気が恐ろしいのです。公的なものは恐ろしいのです。公的なものは個人を殺すことができます。最近都市の空気を汚染させないようにしようといいますが、当然そうでなければならないのです。きれいにしなければ審判されます。また、水もきれいにしなければなりません。このように万物は、全部公的なものです。
太陽は生命の根源であり、無限なる価値をもっています。私たちはそのような太陽の光を、無料で受けることができます。太陽の光を買おうと、お金を準備して持って歩いている人を見たことがありますか? また、太陽の光をもらったと一文でも払った人を見ましたか? この太陽の光を売るとすれば買いますか、買いませんか? 体を張ってでも買うでしょう。水とか空気とか光とかいうすべての自然物は、皆さん個人のものではありません。このような万物を自分のものだと考える人はどろぼうです。(三一―二四八)
それでは信仰者として万物に対する時、どのように対するべきでしょうか? あくまでも公的に対さなければなりません。公的に対するのに、その物が十の価値があるとすれば、十だけの価値として見るのではなく、それをどのように千の価値として見るか、どのようにより価値のあるものとして見るかということが問題です。この物の価値が微々たるものだとしても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万の比重に上げることができるのです。私が愛するこの物の中で、神様が関係しているというとき、この物の価値は無限なる比重をもって出てくるのです。
そのような心で物に対するようになれば、その万物が本当に喜びます。皆さんの生活圏内でとか、皆さんの心の世界で感じる中で、そのような感応が訪ねてくるようになるというのです。そのような心をもって仕事をすれば、その結果は必ず自分一人を見つめていたよりも、もっと立体的な価値の内容を感ずるようになります。(四〇―二八二)
皆さんは公的な管理を尊重視しなければならないのです。物であれば物を尊重視しなければなりません。先生が幼い時、ノートを使う時には線の入った部分から使うのではなく、一番上から使いました。ある時は一枚に二回ずつ使ったりもしました。そうすればノート一冊をより多く使うことができるのです。物を大切に使わなければならないのです。
先生は先生自身に対しては本当にけちです。今まで洋服一つ気軽に注文して着てみたことはありません。横からしきりにそのようにせよと言われてから初めて着ました。一人で気軽に店に入って服を注文して着る趣味はありません。横でしきりに注文して着なさいと言うから注文して着ると、横で賞賛もしてくれるし、すてきだと鑑賞してくれて初めて良いと思うのです。一人で注文して着て、すてきかと聞くのは、自分で自慢することです。そのようなくだらないことを先生はしません。先生の生理がすべてそうなっているのです。
神様はどんな人を好むのでしょうか? 公的な立場で公的な管理を生活哲学にしていく人を好みます。万物に対しても、やはり同じです。これが天地の道理であり、天法だというのです。
この世の人は大学に通ったといって、自分を中心として高慢に「こうで、ああで」と言いますが、先生はきまりが悪くてそのようなことはできません。ぎこちなくてできないのです。統一教会の先生だと言って皆さんがあいさつしに来ますが、そのように傲慢ぶった人が来れば、その場からさっさと逃げていきたくなります。今もそうです。ある時にはあいさつする人の心が直感的に感じられる時があります。そのような時はあいさつを受けても気分悪く受けるのです。「あいさつするのに気分が悪いなんて」と寂しく考えるかもしれませんが、そんな人があいさつすれば気分が悪いのです。
けれども先生は、精誠を込める人にはどうすることもできません。ですから今まで統一教会を治めてきながら、二人の人がいれば、その二人のうちどちらの人が優れているかという問題を解決しなければならない時には、顔の良さを見るのではなく、心がどこに向いているかということを見ました。すなわち、私的であるか、公的であるかということを見たのです。(三一―二六〇)
皆さんは万物に対する公的管理法を知らなければなりません。また人に対する公的管理法も知らなければなりません。その父母より公的管理法を先に知るようになる時には、その息子を奪ってくることができるのです。分かりますか? 統一教会の文先生が今、そのようなことをしています。他人の息子、娘を連れてきて先生の思いのまま結婚させました。三十六家庭を祝福してあげる時、彼らの父母が来て「この世にそんな法がどこにあるか、私たちの息子、娘の招待状を誰が出したのか」と騒ぎました。ですから「先生が出した」と堂々と言いました。彼らの父母より、先生がもっと公的な立場に立ったからでした。
私はその時「あなた方は今は分からないでしょう。しかし少しだけ過ごしてみなさい。そうすればあなた方が得た婿や嫁より、良いか良くないかを知ることができるでしょう」と考えました。それほどたたないうちに、統一教会の文先生は、他のことはみな間違っているが、自分の婿や嫁は良い人を与えてくれたと認めました。それは弁明する道理がないのですからね。(三一―二五六)
先生は皆さんに、統一教会の文先生のために生きよとは絶対教えません。先生と皆さんが合わさって国と共に、世界と共に生きようと教えるのです。誤った教えは滅びるようにさせるものなので、全部荷物をまとめて出ていってしまうというのです。もしその教えが誤っていなかったなら、荷物をまとめて出ていったとしても帰ってこざるを得ないのです。実際に出ていった人々が、今戻ってきているではないですか?
今まで先生がこのような道を半世紀以上歩んできながら、追われ追われてきましたが、ある時、私を迫害したその人々に「お前たちが迫害したことの千倍万倍に賠償すれば解放されることができる」と言うようになれば、強制で命令しなくても、我も君もと、そのようなことをしようとする時が来るのです。苦労によって公的な価値をより現すようになったならば、その環境も価値があるようになります。そのようになれば、環境は中心の前に自然に吸収されるのです。(三一―二五三)
万物を公的に管理することができる時代が来なければなりません。その時代が来れば、地に肥料を与えなくとも万物がよく育つかもしれません。万物も毎日のように笑い声を聞きたいでしょうし、泣き声を聞くのを嫌うのです。皆さんの中で泣き声を聞きたい人は手を挙げてみなさい。先生は嫌いですが、皆さんは分かりません。泣き声を聞くのが嫌なようですね。私に似ていますね。では笑い声を聞くのが好きな人は手を挙げてみなさい。全部挙げますね。では神様はどうでしょうか? 神様もやはり笑うことを好まれます。みんなが笑って生きるようになっています。
神様が善であるならば、善はどこにあるのですか? 笑って生きるところにあるのです。すべてのことを笑いで消化させることができる、永遠な権限をもった主体としておられる方が神様です。神様はどんなに悪いことも善なるものとして消化して、その悪いことを良いことだと言うことができるのです。「そのようになれば天地の理法が変わってしまう」と言うかもしれませんが、そうではありません。人々は今、「この世の道理は、すべてがよく生きるようになってはいない」と言います。しかしそうではありません。先生はそのように主張します。(三一―二五九)
皆さんがこのような原則を中心として公的な道を歩んでいくようになれば、絶対滅びません。絶対滅びないのです。ですから、皆さんは物を公的に管理し、人に公的に対し、天に公的に侍りなさいというのです。これをよくする人々が集まって夫婦を成したなら、その家庭を中心として新しい民族と新しい世界が形成されるのです。したがって、より公的な生活をする皆さんとならなければならないのです。(三一―二六一)
3 牧会者の公金管理
公金は種です。蒔けば実を結ばなければなりません。結ばれなければすべて奪われてしまいます。
お金を扱うにおいては、人格が先立たなければならないし、言行心事が一致しなければなりません。
自分の私的な物質を公的な物質よりもっと重要視する人は、天道に違背する人です。私的な自分の人格を公的な人格よりもっと重要視する立場は、み旨に違背する立場です。(五一―二九一)
信仰はどこへ行っても平準化しなければなりません。統一教会はどの教会に行っても指導方針などすべてのことがまばらになってはなりません。教会長が献金を受けて、全部一人で使ったりしてはいけません。教域長であれば、教域長の管理のもとで処理をして、すっきりと平準化するようにするためには、献金をしなければなりません。上部に献金する伝統がなければならないというのです。今していますか? (はい、しています。十一条すべてします)。(一七一―九)
私たち食口たちは必ずこれを知らなければなりません。精誠をささげた献金や礼物に対する時、その価値を知らずに対すれば、その精誠をささげた礼物から審判を受けるという事実をはっきり知らなければなりません。
王様も自分の身持ちを誤ったならば、すなわち精誠を込めた人にむやみに対したなら、滅びるようになるのです。また、その王様に従った同僚たちも、その人に反対すれば天の逆賊として追われるようになるのです。ですから先生は、そのように精誠を込めた人に軽率に対さないのです。(一八―一四三)
皆さんが先生に献金をしたりしますが、先生はそのお金を受けません。先生は受け取らない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたのですか? それを私が知って、それに対して恥ずかしくない主体的な立場に立たなくては受け取れないというのです。心の姿勢がそうであるので与えたのちも、また与えたい心が神様に宿っているのです。分かりますか? ところで、人が来れば手のひらばかり見つめるのですね。何を持ってきたかと。そのような教役者はいけないというのです。皆さんはそれを知るべきです。(五一―二七六)
私は数億のお金を持っていますが、そのお金を私のサイフに入れようと考えたことはありません。私はある時はそのようにお金のことを口癖のように言いますが、それは私のために使おうとするのではないというのです。私たちや祖先たちが精誠を集めて残した土台の上に、後代に残すもののために……。先生が生きている間にしたことは、歴史的遺物になるのではありませんか。ですからお金があれば何を残すでしょうか? 後代のためのものを残してあげなければならないのです。君たちを苦労させることは、後代のためにさせるのです。皆さんはこれから何か残していかなければなりません。けれども皆さんができないので、私が代表的にするというのです。私のサイフにはお金はありませんが、一日に何百万、何千万ウォンも使っています。そのようなことをしているのです。それは何のためですか? 皆さんのためにするのです。未来のためにするのです。(五一―二八八)
第六節 牧会者と教会生活
第六節 牧会者と教会生活
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一 教会と教会生活1 教会とは何をする所か
皆さんは社会に忠誠を尽くさなければならないし、教会に忠誠を尽くさなければならないし、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それならば教会は何をする所なのですか? 人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので教会が必要なのです。家庭と社会がすべてではありません。大学を出て何かの博士学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。それで教会が必要だというのです。
先生を中心にして、新しい父母の因縁を求め、新しい子供になって、家庭から新しく収拾していきながら、新しい世界に向かっていかなければならないのです。その足場になるのは何ですか? 教会です。教会を足場にせずには行けないのです。新しい家庭も教会を通して出てくるのであり、新しい社会も教会を通して出てくるのです。分かりますか?
では、どこに忠誠を尽くさなければならないのですか? 家庭に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体で、家庭と社会は対象です。知恵ある人はどこに立つのですか? 対象の位置に立つのではなく、主体の位置に立つのです。主体の位置は一つしかありません。分かりますか? 対象は東西南北、四方において、三六〇度回転しないといけませんが、主体は中心、ただ一カ所しかないのです。それは絶対的なある圏内の場所です。二つではありません。中心が二つになり得ますか? これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が多いのです。
「正しい人」と言うときに、何をもって正しいというのですか? 天心と人心が一つの基点に根をおくようになるとき、正しいというのです。そのような位置に立たなければならないのです。ですから教会を通じて人心が中心を決定する場所で、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。ここには、皆さんのすべての誠心誠意を尽くさなければなりません。家庭よりも、学校よりも、自分の出世のためよりも、精誠をもっとささげなければなりません。それで、「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる、あなたの神様を愛せよ」と言ったのです。愛するにしても、精誠を尽くし、思いを尽くし、心を尽くす場所で神様を愛せよ、ということです。
それでは、神様を愛するという場合、聖日礼拝には愛し、聖日の夕方には愛さないでもいいのですか? 違います。明け方よりも、夕方にもっと愛さないといけないのです。明け方には誰でもみなあいさつしますが、夕方にはあいさつする人が少ないのです。(二五―一二六)
大学街の運動は、後代に責任を負うのであり、勝共活動は現代に責任を負うのです。そして宗教は永遠に責任を負うのです。ですから私たちはすべての方面でただ進撃だけをしなければなりません。そして教会内では家庭的な伝統と宗教的な伝統と経済的な伝統を立て、確固とした基盤を整えなければなりません。(二一―三五〇)
聖殿は堕落しなかった時のアダムの体と同じなので、その上にイエス様が来られたのです。(二〇―三四一)
教会生活指導 (慶北、旗手19号)
①復帰摂理的な観点から、統一教会の意味を自覚させることが中心課題だ。
②教会は過去、現在、未来の因縁の本拠地だ。だから蕩減条件を成立させる媒介体であり、み言と人格と心情を総合する所となる。
③教会を通じてのみ、天国は連結される。すなわち、天国は家庭を通じて、家庭は教会を通さなくてはいけない。それゆえ教会は家庭が勝利する基盤であり、家法を結実させる所であり、人格を認定される所であり、天国生活の訓練場である。
④教会は天地を連結する至聖所である。教会は世界へ行く門戸であり、すべての人々が相扶相助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となる。
⑤教会は霊的生活の源泉として、毎日毎日の生活の力を補給する。
ある男性が、心がそぐわない妻とつまらない暮らしをしていても、楽しく暮らせる家に行けば彼らは本当に幸福だと思います。そうかといって二度結婚せよという話ではありません。(笑い) 幸福になるには、教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激は平常時、その場所から来るのではありません。備えられた所から刺激が来るのです。天だけでは天となれません。地があってこそ天が回るのです。そうではありませんか? ですからすべてのことが全部相対性を備えているのです。(二一―一九一)
「私は誰がいるから教会へ行く。私は私の愛する息子、娘のゆえに教会へ行く。あるいは愛する夫ゆえに、妻ゆえに教会へ行く」という者たちはみな越えられません。誰のゆえに行くのかといえば、神様ゆえに行くのです。神様を私のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として求めるために教会へ行くのです。(八―一六二)
キリスト教徒たちは、「全知全能であられ、慈悲深く、愛深き神様であられるので、千回、万回罪を犯しても許してくださる」と言います。そうしながら彼らは、教会で祈祷して出てきても、外では恐ろしく争い合うのです。
教会とは、こういうふうに罪を犯したのちに後悔する後悔堂ではありません。そうでしょう? そんなに多くの罪をお許しになる神様でいらっしゃるなら、なぜエデンの園でサタンが一度犯した罪はお許しにならなかったのか、というのです。そういうことを知っていますか? またサタンが許される道があったなら悔い改めたでしょうか、悔い改めないでしょうか? 悔い改めたはずです。千回、万回涙を流し、悔い改めたはずです。
しかし、天理の公法を破綻させた罪は許されないのです。その罪が許されるなら、宇宙の愛の法度は根本的に破綻し、愛のために創造されたこの世界は混乱に陥るのです。サタンが神様自体まで侵害したのに、それを許せますか? そうはできないので、漸次修正して、復帰の歴史を経て、堕落しなかったという基準を立てなければならないのです。そうしてこの基準によってサタンを追放し、第二の理想的人物を探し求めてこなければならないのです。神様がこのことをなさるにあたって、六千年がかかったのです。(一九―一六一)
2 教会のためにせよ、という理由
皆さんに、「教会のためにせよ」と言うのは何のためですか? より大きくするためです。家庭で隊長にならん、とすればいいのですか? 教会のためにすることは、自分がもっと大きくなるためです。国のためにすることも、自分がもっと大きくなるためであり、世界のためにすることも自分がもっと大きくなるためであり、天地のためにすることも、自分がもっと大きくなるためです。どれぐらい大きくなるためですか? 最高に大きくなるためです。ここで大きいというのは、嵩をいうのではなく、内外に最高の円満さと円熟さを備えることをいいます。皆さんはそういう場所で、統一教会を中心にして世界水準の舞台で万民と共に生きよう、という人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造なさった神様の息子、娘になれるのです。こういう観点から行くべき自分の道が残っていることを、皆さんすべてが知らなければなりません。
この道の出発点は統一教会が捕まえておきました。今は出発したので目的点へ行って留まる皆さん自身にならなければなりません。ですから、「国のために伝道せよ、あるいは世界宣教師になれ、次には天地のために共産党なら共産党と闘え」と言うのです。
こういう観点から、皆さんが皆さん自身の価値をよく知って、今日神様が願われる場所で生きていかれることを願います。(二四―三〇〇)
3 教会が存在する目的
教会の存在する目的とは何ですか? 教会は国を救うためにあるのです。しかしキリスト教はこれを知らないでいます。キリスト教では、「教会がある目的は、天国へ行くためだ」と言います。それも誰を中心にしてあるのか、といえば、自分個人を中心にしてあるのです。結局、アメリカのような個人主義の国をつくってしまったのです。
こういう世界を開拓しようというのが、統一教会です。統一教会員たちが伝道するのは、統一教会を良くするためにするのではありません。国を良くするためです。国の中に留まっている宗教ではいけません。イスラエルの国を救うことができる主導的な役割を失ったので、ユダヤ教が滅びたのです。国のためにしようというのが、統一教会の方針です。(三四―三三〇)
ユダヤ教を中心にして見るときに、教会が行くべき目的は神様の国を探し立てなければならないのです。教会を求め立てることが目的ではなく、神様本来の創造理想は、国を中心にして世界を一つの世界となすための創造理想なので、教会が行くべき目的地はその国を求めなければならないのです。(八六―一二―一四)
エデンの園は保護圏なのです。第一に生存圏、死なずに生きている所であり、第二には保護圏であり、第三には愛を受けられる圏なのです。(五一―一九三)
その国を建国するために、開拓の勇士にならなければならない先鋒将軍とは誰ですか? 統一教会の責任者たちです。
では、その国を成し得る基盤とはどこなのですか? 教会のほかにはありません。教会のほかにはないではありませんか? 教会でなくしてどこにありますか? 皆さんの所有に何がありますか? 皆さんの所有というのは教会のほかないのです。そうでしょう? (はい)。皆さんの所有は国に吸収されるのです。一つの民族の基盤になれるのは……。一つの国を成すには主権がなければならないし、国土がなければならないし、国民がなければなりません。それでは天の国を中心にして見るとき、国土になり得る基盤とは何ですか? それは教会の財産のほかないのです。そうでしょう?
その次に天の国の民とは誰ですか? 教会員です。また、主権者は誰ですか? 皆さんです。皆さんが里長代身者であり、面長代身者であり、郡守代身者であり、道知事代身者です。皆さん、主体になりましたか? サタン世界に爆弾を載せてくるなら、一番初めに駆けていかなければならないのです。分かりますか? そういう心がありますか? そしてお金が一銭でもあれば、教会を広げるのに使うのです。その国の版図を広げ、国民を結集させるのに使うのです。教会責任者は主権者を身代わりするのです。里長を身代わりし、お母さん、お父さんを身代わりするのです。こういう伝統的思想を残さなければなりません。(四九―一六四)
それでは、私たちが今後すべきことは何でしょうか? 今後教会の時代は過ぎ去ります。人類が願うのは教会ではありません。教会は、堕落圏内から復帰の運命の道を行くときに必要なもので、新しい時を迎えるようになれば教会時代は過ぎ去ります。
ですから統一教会は教会活動をするのではありません。先生も教会活動をするのではありません。教会の名前をもって社会に適応し、社会を改革し、社会廓清運動をするのです。それがその国と民族、または世界に住んでいる人類ができない開拓者の使命をすることです。この道が皆さんが行くべき道です。(二八―二二二)
4 社会生活より教会生活がもっと重要だ
公的な教会は、自分の家よりもっと貴いのです。生活のすべての面の整備をすべきことを知るべきなのに、そうできないでは駄目なのです。受けても、返してあげられなければ滅びるのです。(一六―二七一)
皆さんが自分の息子、娘に影響を及ぼすことができる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そうするには、教会生活や公的生活を徹底してしなければならないし、私的生活において模範とならなければなりません。これは子女をして、今後み旨の道を行けるように教育するのに、絶対必要なのです。分かりますか?(三一―二七七)
皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心として生活した全体を比べてみるとき、どちらが内的かといえば、教会生活が内的です。
それでは皆さんがどのくらい内的生活の価値の基準を立ててきたのでしょうか? ある者は「み旨を中心にしていく」と言いながら、「私がこうすることがみ旨になるのだ」として、自分勝手に考えます。そういう所に神様がいらっしゃることができますか?(二二―三八)
現時点で皆さんはどんな立場にいるのですか? 皆さんを統一教会の個々人として見るときに、「ああ、私はついていく人間だ」と言ったとき、そういう人は立派な主人に召し抱えられません。一番良い種を求めるそういう主人においては、絶対召し抱えられないのです。そういう主人の前に立とうとするなら、ついていく人になってはいけません。すべてに優秀でなければなりません。すべての面を全部備えないといけません。内外に備えないといけないのです。
ある人を見ると、教会生活はよくできるのに、社会生活ができない人がいます。また、社会生活はよくできるのに教会生活はできない人もいます。こういう点から見るときに、社会生活はよくできるが教会生活はできない人は、前に話した実を備えることのできる要因とその内容がありません。教会生活はよくできるが、社会生活はできない人と、社会生活はよくできるが教会生活はできない人の内、どちらの人がもっといいかというとき、社会生活をよくできる人より教会生活をよくできる人のほうがましです。結実の要因を備えた人は、あすの希望をもって動いていけますが、結実の要因を備えられない人は、結実と関係を結ぶことができません。(三六―二〇)
内的な教会生活において、神様から公認を受けられる立場に立てない人は、外的な社会生活においても神様を身代わりした生活はできません。こうして内的な教会生活において、神様から公認を受けることが問題です。
ところが今、我々統一教会員たちの教会に対する観念を考えてみるとき、教会に集まり集会する、その時間がどれほど貴いかを忘れています。皆さんが教会の公的集会に対する観念が稀薄なので、み旨がどういう方向へ行くということに対しても稀薄になるのです。自分が内的に立つことのできるその場所がどこだということを確実に知らないので、外的基準も確実ではないのです。(二二―三六)
まず教会生活を徹底しなければなりません。そのためには公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席しないといけない時間に、模範にならなければなりません。(三一―二六九)
今、家庭と教会と社会の三角圏を中心にして見るとき、皆さんは家庭を中心とした考えが強いですか、教会を中心とした考えが強いですか? そうでなければ社会を中心にして自分が出世するための考えが強いですか? 皆さんはどれがより強いか、考えてごらんなさい。
神様がどういう人を協助し、同情してくださるのでしょうか? 教会を考えるのは、神様の代身となる人を愛することです。そして人を救ってあげることです。(四二―一六九)
5 教会生活において留意する点
皆さんが私たちの教会の門をたたくようになる時には、習慣的な信仰生活をしていた過去の儀式的な仮面を脱がなければなりません。そういう観念的な認識による神観を捨てなければならないのです。(二六―二三)
公式的な路程を行くのは、教会のためではなく、自分自身のためなのです。今まで先生が皆さんに命令したことは、皆さんに協助するためであって、教会のためではありません。このように自分自身のためのものなので、教会のためにする、という考えをもつなというのです。人間の行く道は国であり、世界なので、その道は誰もが行かなければなりません。(三四―二六九)
教会へ入ってきて全部就職し、ありとあらゆることをやって、自分の利益のために教会を利用してしまって……。教会は利用されないのです。私たち統一教会を今まで利用しておいて、落ちてしまったすべての連中を今に見ていなさいというのです。全部こじきになるのです。見ていなさいというのです。どうなるのか。天は利用されません。
世界の運勢は利用されることはありません。個人の運勢は家庭の運勢に従わなければならないし、家庭の運勢は社会の運勢に、社会の運勢は国家の運勢に、国家の運勢は世界の運勢に従わなければならないし、世界の運勢は天運に、天運は神様に従わなければならないのです。(一六三―三四)
二 教会組織
二 教会組織
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1 組織の必要性これからは公開的な命令ではなく、系統的な命令をしなければなりません。ですから系統を失ってはいけません。組織を離れては生命が存在できません。前後(食口)左右(三位基台)上下(父母)の関係を失えば、存在価値がなくなります。(一一―二四九)
組織を必要とするのは位置を決定するためです。自分の位置を知らなければなりません。皆さんは知っていますか? 位置を決定するのは因縁を結び、関係を結ぶためなのです。私を中心として結ばなければなりません。連結させる権勢力をもった者がその主体になります。指導を受ける者はその相対になります。ですからそういう関係を結んで立っている位置を決定すれば、すなわち四方八方と因縁を結び、自分の位置を決定すれば、前後・左右・上下どういう方位から見ても厳然と立てるようになります。
位置を決定して、その四方八方立体圏内において、あらゆる因縁の立場、自分と関係したすべてのものを一つにします。そういう原動力をもった人にならなければなりません。ですから組織を必要とするなら、位置を決定しなければなりません。主体圏をつくろうとするなら、その人を中心として一つの相対存在を正しく立てたのち、その圏をつくらなければ、それは一つの存在として永遠に存続することができないのです。崩れてしまうのです。位置が自然淘汰されてしまうのです。
組織力と団結力、それらが一つになれば、初めて行動することができるのです。中心がこういうことをするときに、「私には関係ない。お前は西の方へ行け。私は東の方へ行く」と言うようになれば、それは遠からず滅亡する状態となってしまいます。ですから組織と団結と行動、これはすべての発展要素なのです。
ですから、すべてのものがその目的に向かって、そういう位置を決定した基準で相対基準を立て、全体が一体化できる、そういうものを早くつくらなければなりません。統一された行動がとられなければなりません。そうなればそれはどこででも繁栄します。それは原則なのです。(一五―一九二)
位置を移動し、そうして関係を失ったのが堕落の根源です。神様のみ言のとおりに行動しなければ堕落の始まりです。ですからはっきりすることは、位置を知り、組織圏の内に入って関係を結ばなければならないということです。そうするためには、自分が必ず相対位置に立たなければなりません。自分が天的作用をすることのできる団結力をそこから現さなければなりません。これを皆さんの頭の中からいつも忘れないように、考えなければなりません。
第一に何であろうが組織です。組織は何のためにあるのですか? 位置を決定するためにあるのです。第二は何ですか? 団結です。その位置を決定した基準を中心にして、自分は主体に対して対象の位置を決定しなければなりません。そうなれば一つになります。一つになるためには一つの目的をもって、一つの世界に向かわないといけません。目的に向かっていくのには、統一された行動がなければなりません。この原則を離れてはすべてが駄目になります。そうすれば、上が誰か確実に分かります。皆さんの上下関係、これを失えばすべて駄目になります。(一五―一九三)
既成教会では長老制度、執事制度、区域制度があります。そして伝道婦人たちがいて、互いに関係を結び巡回しながら伝道活動をしています。いつでも、一人の牧師の計画のもとで、盛り立ててくれる人々がいるというのです。
ところが私たちの教会にはそういうことがありません。人々が来れば、それこそ原理講義とかしてあげますが、そうしていては駄目なのです。細部組織までつくって、中央からその細部要員たちまですべて管理できるようにしなければなりません。新しい食口たちが教会に入ってきても、教会内容を知らなければ活動できません。それゆえにその人々を納得させるためには、個人的に直接対する時間を多くもたなければなりません。責任者たちがそういうことができないので、身代わりできる人が必要なのです。(四二―一五七)
組織には目的があり、系統があり、人的な連結があります。(一九六六・五・二三)
皆さんが教会のために働くときに先生が願うのは、今まで主軸としてきた、垂直に下りてくる伝統的思想を、横的に拡大させ、すべての部署に連結させ発展させることです。これを少しずつもっと拡大させるのです。そのためにはその中心がなければなりませんが、その中心を立てていけるのが教会組織です。(三四―一二)
2 理想的な組織の形態
統一教会が地上天国を建設しようというこの時において、私たちは何をすべきなのでしょうか? 今後私たちは面、郡に支所を組織し、その地方の人々をして私たちの教会を通過するようにしないといけません。そういうことを、教会自体内で実施しようというのです。
教会自体に、このような組織がすべてなければなりません。司法部のようなものがあり、行政府のようなものがなければいけません。こういう形態で展開されないといけません。私たちの教会の組織がこうでないといけないのです。
では、立法部に該当するものとは何ですか? これは家庭単位です。家庭が社会の核心として主導的な役割をしなければなりません。主体と対象がこの責任を果たさないといけません。私たちは今までそういうとてつもない使命を展開してきました。天の国は、こういう組織が山奥から都市に至るまですべて一体化されてこそ、初めて成されるようになります。
どうすればこのようになるのですか? こういう責任を家庭が担わなければなりません。天国はどこから成されるのですか? 家庭から成されます。家庭でなくては駄目なのです。
それでは堕落しない世界の伝統的なその思想を誰が継承しなければならないのですか? アダムの宗族たちです。アダムの宗族の家庭が継承しなければならないのです。これからそういう組織を世界的に展開していかなければなりません。そうすることによって、環境的な天国が成されるのです。
地上天国を成すためには、原理的なすべての法度を社会環境に適応させられる制度をつくらなければなりません。結局人の構造に似ていくというのです。今日の情報機関は、人間の聴覚器官と同じものです。大韓民国が栄えるためにはどうならなければならないのですか? 外部から侵犯して入ってくるすべての適性的要素を即刻報告を受けて処断できる、強力な体系を備えてこそ、国家が栄えることができるのです。結局、今後発展した社会は何に似ていくのですか? 私に似ていくのです。心と体と物質の間には三大原則があるので、どの一つも引き離すことができません。この三つが合わさって、蘇生・長成・完成を成し、一つの形態を完結させなければならないのです。
我々人間には唯一の天の父母がいます。その神様は二性性相になっているので我々人間も二性性相です。万物もプラス、マイナス型の二性性相になっています。神様と人間と万物を合わせ、連結させれば七数になります。これは段階で見れば三段階で、広げれば四位基台です。この三数と四数が調和を成し、統一されれば七数になるのです。七数は創造目的完成数です。
皆さんは全部このようになっています。全部三つが一つになっているのです。目も一つに連結されており、鼻もずっと入ってみると一つになっており、耳もやはりそうです。すべて一つになっています。
また、顔を見れば、これ(目)は神様を象徴し、これ(鼻)は人を象徴し、これ(口)は万物を象徴します。顔で一番高い部分は鼻でしょう? これ(歯)は三十二個で万物を象徴します。(四×八=三十二)このように顔に天地要素を全部集めておきました。すべてこのように三個の器官が連結しています。これを蘇生、長成、完成三段階原則に則って見ると、人間がどれぐらい素晴らしいか分かりません。こういう創造原則を中心にして天の国を成すために、今後地上天国を開拓しなければなりません。
今日、人間世界において一番問題となるのは何かといえば、肺のような器官がないというのです。生命の源泉となる酸素を吸収できる肺のような器官がないので、世界人類を幸福にできる新しい政策を立てるための理想的な材料を吸収できないというのです。ですから今日、この地が疲弊するようになったのです。理想的な主義、思想がない中で、今までの歴史はその理想を迎える過程にあるのです。統一教会はこういう過程を越えて、新しい理念を提示しています。(二七―一八七)
太陽のようなものがお父さんなので、お母さんはお父さんを中心に回り、地球のようなものがお母さんなので、月のような息子、娘はお母さんを中心に回らなければなりません。このように今後は宇宙形態を中心にした家庭組織にならなければならないし、すべての社会組織にならなければなりません。また、そういう世界にならなければなりません。そして教会もそのようにならなければならないのです。教会責任者にお父さんのように対さなければなりません。教会にはお父さんのような人がいなくてはならないし、お母さんの使命をする人がいなければなりません。そうやってお母さんの役割をして、四方に食口を育てる仕事をし、一つとなる家庭形態をつくらなければならないのです。国も同じことです。また、世界も同じことです。結局はこの世界の組織が、一人の人間と、一つの家庭形態を備えなければならないのです。すなわち、世界というのは組織が大きいだけで、一人の人間と同じになり、一つの家庭のようにならなければならないのです。(七二―一八九)
教区長を中心にして、教区長の下には何がありますか? 部長がいますか? (教域長)。教域長がいて、教会長まで一つの体制です。ですから教会長に指示できます。教域長たちは知らないといけないようになっています。責任者が来たのに知らないのは、家の暮らしがでたらめだからです。違いますか? 私が今釜山へ行けば、釜山の責任者たちはどうにかして知らなければなりません。先生が指示したことを即刻自分の体制を通して教会長に報告するならし、しないならしないで、私は仕事をするのです。ですからそれが理想なる組織なのです。おかしな組織のことをいうのではありません(注:韓国語で理想という語と、異常である、とは同じ文字で、同じ発音である)。理想組織です。それを幹部会議の時に全部通告してあげなさい。それを今韓国に来て教えてあげるのです。アメリカは既にそういう体制になっています。どこへ行っても州責任者には話をしてあげず、すぐその下の責任者に指示するのです。何々せよとです。
教区長が知らなくても、先生の指示だと下から報告すれば、即刻是正して一元化させなければなりません。(一七四―九八)
3 草創期の組織
私たちの当面目標は原理武装、人格訓練、心情訓練です。今から私たちの生活と行動は地区の三位基台を中心にしなければなりません。地区の三位基台が中心であり、その他の別の事業機関は全部このための補助機関です。
審判にはみ言審判、人格審判、心情審判の三つがあります。今、私たちはみ言で原理武装段階を越え、人格訓練段階に入る時です。
人格者となるためには組織的訓練が必要です。それを通過しなければなりません。すなわち、全体的理念や制度を通じることができるかが問題です。そういう関門を通過しなければなりません。
三位基台単位の属会(注:区域を分けて集まる祈祷会)は、各自の住む家を順繰りするのがよいです。横的な関係は属会を通して固めるようにしなさい。新しく来た人々は組長、班長たちが導き地区に配置、編入させるようにしなさい。
少ししたら教会優勝旗も作ろうと思います。天が喜ばれることは、一線で戦い実績を上げることです。今後は班単位で属会をするようにしなさい。もう少し発展すれば三位基台を中心にして、これが十二人に拡大すればまた分けなければなりません。連絡は自分を中心にして、上に三段階、下に三段階、七数形態をとらなければなりません。
今後はある事件に対して判決をするにも、その環境的な限界圏の中で解決するようになります。例を挙げると、三位基台圏なら班、組、地区までの圏内で解決し、本部でも地区、組、班まで管轄するようになるのです。
できるだけ三位基台は死んでも共に死に、生きるにも共に生きるようにし、上部の世話にならないようにしないといけません。上部に害を加えれば、天の悲しみであり、サタンに害を加えれば天の栄光になります。
本部の人々は第一線で働く食口たちと心情的に一致しなければなりません。今後は先生の言葉を聞くように地区長や組長、班長の話も絶対的に聞かなければなりません。
今後は本部で巡回伝道師を派遣し、面倒を見るようにするでしょう。
すべての民族や国家においても一線将兵と後方の国民たちが、心情を合わせて力を注げば必ず繁栄します。組までは命令を待機する把守者(注:見張る人)がいないといけません。(九―八)
4 三段階組織
先生が今までした仕事はそうですが、教会長がいるにもかかわらず教区長や道責任者に指示します。これを教会長は知らなければなりません。
先生は三段階体制です。分かりますか? 三段階体制、これが天の国の組織型です。この組織が何の組織ですか? (行動組織)。行動組織です。管理組織ではありません。管理組織だったらそのまま後ろに従ってきつつやればいいですが、行動組織は戦闘的でなければなりません。
これが何かといえば、公的なみ旨を立てることです。生存圏を保護するための組織体制なのです。すべてのことがそうではないですか? 木の葉一枚も、そこに何かの虫が侵食すれば、即刻その枝と葉自体が保護するようになっています。そういう組織です。分かりますか、何のことか。
それは木が育つのと同じことです。芽を中心にして枝と葉、三段階過程を中心にした組織システム、これが行動組織です。(一七三―一九六)
今、基地の決定をどこでするのですか? 面を中心にして里・班・統ですが、蘇生・長成・完成三段階です。これを皆さんは知らなければなりません。統一教会組織体は三段階体制です。これを前後にして拡大させていくのが、創造原理を中心にした組織編成観だというのです。(一七四―九六)
先ほどした話は何かといえば、三段階組織に関するものです。皆さんはこれを知らなければなりません。三段階論法がどこから出たのですか? その本質を解けばですね……。ここで、金榮輝、分かるか? こういう言葉、初めて聞くだろう? (はい)。三段階組織論法がここから出るのです。統一教会は先生の上に神様がいます。先生の思いどおりにはできません。三段階で見ると、私が中央にいます。思いどおりにやれば大変なことになります。中央に愛のすべての核が集結します。球形の中心ポイントですが、これが移動すれば天地が浮気するということです。ですから思いどおりにできません。上下をいつでも合わせなければなりません。横的に合わせ、上下垂直線にぴしっと立たなければなりません。
中央はどうですか。上からは押し加えるし、下からは引っ張ります。これがどれほどつらい場所ですか? 私はそのように考えます。ですから手本にならなければなりません。上からは称賛を受けなければならないし、下からはお手本となるようにしなければなりません。こういう意味で、私が統一教会の先生の資格があるか分かりません。どうですか? 李教授? (十分過ぎるほどです)。嫌々そうではないですか、うん? (御謙遜です)。それがつらいことです。天からは称賛を受けなければならないし、下に手本を示さなければならないし……。ですから二十四時間休む暇がありません。東にいる人は休むことができます。中央に来るまでは休めるというのです。南にいる人も休めます、中央に来るまでは。ところが中央にいるから休む暇がありません。
ですからこういう責任を負った人、自分の家庭に責任を負った人、また国に責任を負った国の責任者たち、ましてや世界に責任を負った責任者たちはより中央であるだけ……。
神様を中心にして私がおり、その次に私の中に全世界統一教会の教会員たちがいます。これが一つのシステムです。ですから私が思いどおりに教会長をこうだ、ああだ、人事処置できないのです。上から全部指示を受けてしないといけません。世間とは違います。分かりますか?
地上で私を中心にして見ると、ここに教会長がいて、その次に私たちの教会組織でいえば局長級がいます。会社でいえば会社の社長と部長です。この三段階が一つのシステムです。ですから統一教会の組織が異なるのは、ここに教会長がいても私はここから教会長に命令せず、局長に命令できます。また、局長たちはいつも報告しなければなりません。その局で誤ったことと、み旨にそぐわないことは、即刻報告しなければなりません。報告しなければ問題が起こります。
なぜそうなのでしょうか? 一つの幹が育てばそこから枝が出ます。この幹は天に合わせていかなければなりません。これが三段階です。また、根を中心に見ると、根はいらない根を抜くのですが、根の端を中心にしてさらに伸びていきます。根を中心にして大きくなるのです。それが蘇生です。このように三段階ですが、それが一つのシステムです。このように違います。
ですから統一教会の組織は、さっきも話しましたが、管理組織ではなく発展組織、行動組織です。ですから否定できません。教会長が、「先生に報告するな!」こういうことはあり得ません。違う? そうではないですか、お前たち! 郭錠煥は違うのですか? (違います)。朴普煕はそうでしょう? (違います)。盗人ども!
先生に報告しなければならないのです。中央を中心として四方に保護しなければなりません。保護するためには幹に合わせなければなりません。「こっちへ行ったら駄目だ。こう行かないといけない。こう行っては駄目、こう行かないと」と押し出さなければなりません。誰が押してやるのかといえば、頂上からしません。皆さんが下からしないといけません。これが調整方法です。即刻報告しなければなりません。(一七三―二一六)
5 三位基台組織編成を生命視せよ
三位基台とは何でしょうか? その地域は祭壇であり、この三人は三大祭物なのです。アブラハムの三大祭物があったし、ノアにおいても三層の箱舟があったでしょう? 全部三大祭物です。このように祭壇を積んでおいて、三人が祭物をささげ、その地域の民のために忠誠と誠心を尽くし、自分の息子、娘に対して福を祈る心情をもって、その地域を抱けることを知る人々にならなければならないのです。こうして、そういう地域を受け持って三年間だけ動けば……。
こういう理念が立っており、こういう理念の中に組織があり、こういう組織の中に生活がなければなりません。組織であると同時に生活、生活であると同時に理念です。理念は遠いものでしたし、組織は私たちに相対的でしたが、生活水準においてこれが一度に、神様の心中の望み、心中の目標、心中の生活基点が一つになって、その生活の中心を身代わりし、全体価値に比べられる自分になる時、神様は私たちを通じて六千年の間探していた息子、娘として見つけることになるのです。
こういう事実を今まで誰も知らなかったので、そういう場所に出ていけるのは最も貴いことです。これができなければなりません。いくら先生を知り、いくら先生に従っても、これをしなければならないのです。心情を通して、事情を通して、天の祭壇を父の前に必ず立てることを知る人になってこそ、天国の心情を身代わりした、事情を身代わりした生活をもった息子、娘になるのです。(一五〇―二七)
三人の役事がなければいけません。その基盤と一体にならなければ、三時代の目的は成されません。エバ国家の条件的な平面的基盤をつくらないと、復帰されません。だからそのような貴い方々が三人の役事なのです。ですから皆さんの地区を中心にして祈祷しなさい。何人かの韓国の僑胞を含めて、四方八方に十二名を立てて、祈祷しなさい。イエス様はそれが立たなかったので死んだのです。(三五―一七七)
神様に侍っていく人間として、精誠をささげることは生命線と同じことです。水源地に水道パイプを連結するのと同じことなので、いつも精誠をささげなければならないのです。
まして教会に責任を負っている教会長の立場においては、悪くても男性の食口三人と女性の食口三人と、一つにならないといけません。教会長を合わせて七人がいつも一つの心にならないと、教会は発展しないというのです。三人と一つになるのに、自分の心にかなう人とだけ一つになってはいけません。自分と心の合う人、自分と一番心の合わない人、中間の人を中心にして、いつも一つになって教役者なら教役者のために精誠をささげるようにつくり上げなければなりません。
教役者がどこかに巡回するとき、教役者一人で行く立場になっては駄目なのです。教役者が巡回に行くために、背後で祈祷する人がいなければならないというのです。祈祷してあげる人が必ずいなければならないのです。まして先生が巡回する間に、皆さんが「きょうは先生がどこへ行き、どこへ行く」ということを知って、行くことについて祈祷し、精誠をささげる動きがあったことによって……。そういうことをするところには、必ず神様が共にいてくださるのです。
それと同じことで、責任者には必ず基地がなければなりません。基地を中心に機動活動をしなければならないのですが、その基地はいつも機動活動する所より強くなければ発展しません。木を見ると、幹から枝が伸びていきます。幹は枝より大きいのです。同じように、教会長がいる基地は、必ず機動活動する現地よりいつも強力な力の母体にならなければなりません。そういう土台をもたないと発展できないのです。
ですから教会長は、どうすればいつも男性三人と女性三人が教会のために一心同体になって、一つになって動けるようにできるか、そのことが教会の発展に重大な礎になることを知って、こういう活動体制を強化していかなければならないというのです。
そこで一人が三人を中心にして三位基台をつくっておけば、自動的に二十四名になるのです。三人を中心にして三位基台を成すようになれば、自然と十二名になり、男性三人の三位基台と女性三人の三位基台を合わせるようになると、自然に二十四名になるのです。このように一つの主体を中心にして、離そうにも離せない立場で結んでいかなければならないのです。
そうなるためには、教会長自身がその人たちのためにどれだけ精誠を尽くしたかということが、その人たちが教会長のためにどれだけ精誠をささげるか、ということを決定するのです。教会長が何の精誠もささげず、因縁も結ばなければ、いくらやっても駄目なのです。
ですから教会長は、必ず教会員のために精誠を尽くさなければならないし、彼らを教えてあげなければなりません。夜も昼も、「こうしてこうしてやらないといけない」と教えてあげ、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くした基盤が成されるには、必ず道がなければなりません。その道を開くのに、自分たちだけでは無理です。ですからその次に教会員たちのために道を整えてあげなければならないのです。三人がいれば、その三人で終わるのではなく、そこに三位基台を編成せよというのです。三位基台組織を中心にして、組織編成の拡大方法を皆さんはいつも考えなければなりません。
教会長自身を中心にして、女性三人をつくり、男性三人をつくって七人になるのです。こういう立場で三位基台を結んでいき、さらに結んでいけば、自然と発展するようになっています。ですから三位基台組織編成を生命視していかなければなりません。(五六―九)
今回帰ったなら三位基台を編成しなさい。堕落人間は一人では駄目なのです。皆さん一人では駄目なのです。四位基台を編成しなければならないのです。教会長を中心にして、全部四位基台を編成しなければなりません。そのように四人が一つにならないと、東西南北を一つにつくれません。
今、世界的に文化圏がいくつ残ったかといえば、四つ残ったのです。共産文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏、統一文化圏、このように四つです。イエス様を中心にして二人の強盗がいたでしょう。右側の強盗と左側の強盗です。左側が左翼ではありませんか? バラバ圏が回教圏なのです。そう、ソ連と回教圏が一つになって決裂するのは、バラバとサタンが一つになって決裂する型です。ですから世界的情勢から見るとき、イエス様が植えたとおりに収めるといったように、そういう現象が起こるのです。(六〇―二四二)
6 組織強化のための体系をつくらなければならない
今、アメリカで、日本だとか韓国から入ってきた人たちがたくさん離教したのは何ゆえかといえば、私たちの教会は体制がなっていないからです。ですから今回、先生がアメリカへ行って一気に急いだことが体系化運動です。今、組織化、組織強化のための体系をつくらないといけないと言ったのです。
ですからこれからは、誰でも統一教会の責任者になれるわけではありません。責任者になるには、世界が共通して公認する試験過程を経ないといけないのです。分かりますか? (はい)。ですからもし韓国の「郡責任者」と言うようになると、アメリカにも郡があるので、その責任者に匹敵する資格を世界共通にあげるのです。そうなるとどこへ行っても「あなた、何の責任者ですか?」と言うとき、「郡責任者です」と言えば、すぐ何級ということが分かるようになっているのです。もう一度言えば、「国民学校教師」と言えば、どこへ行っても通じるのと同じことなのです。このように制度化しなければならないのです。(七五―九一)
今後、私たちの教会がすべきことは何かといえば、いろいろな訓練機関と教育機関をたくさんつくらなければならないのです。段階的な復帰路程を経ないといけません。七年なら七年段階を経ていかないといけません。ところが今までそういう立場になれず、漠然と甲や乙を誰でも活動させて、ごちゃまぜにしておいたので問題があるのです。ですから組織的な段階を経ていかないといけないのが、皆さんの運命の道であることを知らなければなりません。(二四―一六三)
三 私たちの体制と系統
三 私たちの体制と系統
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1 教会本部と私たち低い峰の立場にいる人が高い峰の事情を知るには、高い峰を絶対的に信じなければなりません。ここで批判しては現在の場所から抜け出せないのです。発展できないのです。それ以上越えていこうとするなら、無限なる闘争をしなければなりません。もう一度言うなら、環境が整えられていて、道がすべて整えられていて、その整えられた道を行けばいいのにもかかわらずその道を行かず、自分一人で承知して行くといえば、無限な闘争をしなければならず、それでもそれはほとんど不可能です。(二七―一〇三)
本部というもの、中央というものについて見るときに、型で見れば本当の中心は点に近いのです。中心は一つしかないのです。(一九六九・二・二)
皆さんが本部なら本部で何かを指示したというときには、守らなければなりません。これは霊界と関係しているのです。皆さんはよく知らないでしょうが、必ず霊界と関係しているのです。本部で指示することを、霊界に行っている皆さんの先祖たちは知っています。後孫たちが、すべての先祖たちの恨みを解いてあげなければならない主体的な立場に立ったというと、皆さんには二つの世界の使命を請け負っていく責任があるというのです。(四三―五二)
本部が指示したことに従うと、不便なこともあり得ます。ここは順応する心よりも反発心をもつこともあり得ます。反発心が生じ、それに従っていくと消耗戦が起こります。順応する心が強くなる時は発展が起こるのですが、闘争の要件が起こる時は消耗戦が起こるのです。(四九―九二)
統一教会員の中には、先生の言葉なら目を閉じて履行するが、教会長の言葉だと「私は知らない」という鬼神のような人がいます。教会長を誰が立てましたか? 先生が立てたので、従うのが原則ではありませんか? それが原則です。(四九―二一六)
千人以上を率いる人は、霊界の感情を受けて立てられた人です。(一八―二二二)
ここに金教会長も来ましたが、今一番大きな責任を負っているのです。(六六―二一四)
教会長を中心にして、互いに団結し、互いに連結しなければなりません。団結するには譲歩して一つになって、ぜひ残された民族的なこの路程において……。韓国は皆さんが責任を負って、どうか出発された先生のことを考えて、何があっても安心し、韓国においての良い知らせをたくさん聞かせてくれるようお願いします。分かりますか? 良い知らせが大きければ大きいほど、そこに比例する苦痛と試練と涙がなくてはならないという、そのことだけは忘れないでください。分かりますか? (はい)。(一五五―一三六)
皆さんがいくら難しくとも、その系統を通じて組織を生かせなければなりません。個人の意見を生かす考えをしてはいけません。組織的な活動をする組織社会は、そうならなければならないのです。「(教会生活は、)私が長くいるので、私の思いどおりにしなければなりません」、こういうことは駄目なのです。(八九―二九八)
私たちの体制は信仰運動を核心的にできることを強化させるのと同時に、ここに相対的な外的基盤も連結させなければならないのです。(一九六九・五・一二)
地獄から物質をすべて収めてきて、天を通して物質の愛が輪廻できる軌道をつくらなければならないのです。物質を世界から収めて、サタン世界から収めたものが、天国を通じてサタン世界に帰れるように、帰れる回路をつくっておかなければならないのです。皆さんがお金をもうけて本部へ送れば、本部は天の象徴ですが、その次にそこでは、このお金で何をするのですか? サタン世界のためにもっと使うというのです。もっと大きな世界のために使うのです。そうすればそれが大きくなっていくのです。一番初めに皆さんがお金をもうけて皆さんの教会のために使ったとすると、その次に教会で本部を助け、本部は国を助け、国は世界を助け、世界は天を助け、こうして上っていくのです。全部上っていくのです。(一一一―一七九)
2 教区長(地区長)の道
全国に散らばっている地区長たちがここに集まりました。地区長は道に責任を負った、道の長です。彼らは祭司長として、父の内的悲しみを身代わりして、父と共に心配し、父を慰労してあげられる息子の使命と、忠臣の使命をすべき者ですので、各自そういう責任が残っていることを切実に感じられるようにしてください。(三〇―二七二)
私たちの協会長を中心にして、新しく任命された教区長たちは何の心配もしないで一つになり、これから新しい世界を建設しなければなりません。新しい世界的思潮の前に符合できる準備が深刻だということを知って、団結し、これをどうするかということが当面課題であることを知り、皆さんがよく動いてくれるようお願いしないではいられません。
根である本部と一つになりなさい。本部と一つになれないなら、地区長だと自称してはいけません。使命と責任がここで決定されます。(二四―九五)
きのう、先生が地区長たちに何を布告しましたか? 統一教会の地域長や地区長の中で、このみ旨の道が困難で行けないという人がいれば、家に帰るなり、自由に行動することを命じました。行けないと不平を言い、行けないと嘆息して、他の人まで行けないようにブレーキをかける人は、むしろいないほうがよいと見るのが、み旨の道を行くことです。(四四―七二)
皆さんが地区長という名前で壇上に上るとき、足がふらふらしませんか? そういうことを感じなかったですか? 自分がこの食口たちの生命に責任を負うのだと、考えてごらんなさい。先生は重大な話をしようと壇上に上るとき、そのように考えて上りました。足が床についたかつかなかったか分からないほど深刻だったのです。ですから天が共にいてくださるのです。自分自身をもって壇上に上るのではありません。(四三―三五〇)
地区長たちが、春の気分のごとき心情的な心をどうやってもつか、ということが問題です。地が春を迎えられる準備ができたので春を迎えられるように、地区長たちはそういう土台に心情と伝統を立てなければならないのです。(一八―三三九)
皆さんは道の責任者ですが、今まで道のために精誠をささげてみましたか? 必ず精誠をささげなければなりません。伝道は精誠に比例するもので、知識や実力に比例するものではありません。皆さんは六〇年代にこういう体験をしてみなかったですか? 大学を出て、かなり知っているという人より、精誠をささげつつ伝道をした人のほうがもっと優れていませんでしたか? 神様がどれくらい同情してくださるかが問題なのです。
今、地区長たちが一片丹心でなすべきこととは何ですか? 御飯を食べることですか? 違います。この罪悪世界から一人の生命をどうやって天の息子、娘として復活させ、天国へ移してあげるかという、責任的使命感をもたなければならないのです。日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味)、そういう使命感をもって出ていってみてください。できないことがありますか。(四二―一六四)
食口たちが、「我々の地区長は神様、あるいは先生のために狂った」と言える伝統を立てなければなりません。
先生が外的な仕事に関心をもつなら、皆さんは内的な先生に対して関心をもたなければなりません。(二四―一八二)
今、地区長たちは何もなくてやっと暮らしていることとか、先生がみすぼらしく暮らしていることを見て落胆するなというのです。神様が共にいらっしゃるというのです。私が流す涙は民族の涙を身代わりしたものであり、私の孤独は民族を身代わりしたものです。私が孤独を感じたので「父よ、私の代わりにこの民族を許してくださいませ」と民族に身代わりして涙を流し、祈祷することができるのです。これが祭司長の責任です。私がそういう場所にいるという時は、その民の未来に起こる悲運を感じ、それを私が代わって背負い、民族のための贖罪の祭りをささげなければなりません。そうすることによって、民族が悲運の場所を避けられるのです。皆さんは民族を代表してそういう位置に立たなければならないのです。これが公職にある人の責任です。(三三―一八一)
私が一番気になることはこれです。教区長と全体が一つにならなければなりません。不吉なことがあってはいけないのです。家の中がすべて平安であるには、全部和合しなければならないのです。昔の格言にある言葉のように、「家和万事成」なのです。(一二七―五〇)
各道のすべての食口たちは教区長を中心にして団結し、この目的を成すために総進軍しなければなりません。いくら難しい命令をしても、順応することができなければなりません。命令の前に不平を言ってはなりません。完全に一つにならなければなりません。教区長を中心にして、教区長の心と一つになって、心と体が闘う悪魔の世界が残っているので、これを清算し、心と体が一つになれる基盤を完全に、確固として立てなければなりません。そうして、先生が命令したその命令によって自分の道をきり開くことにおいて、すべての力と努力を注ぎ、不平を言わない忠孝の心を傾けなければならないということを決意しなければなりません。(一四四―二七九)
3 教域長(地域長)の道
皆さんが一つの郡に責任を負うなら、それこそ川岸へ行って寝転びたいし、あの池に体をひたし皮膚を水につけてみたいし、山に行っても高い木に登ってみたいし、登っていると今度は何度も滑りたい、登れなくともそうしたい心をもたなければなりません。そういう心をもった人が主体者です。それが主人です。そういう人は間違いなく主人になるのです。そういう人はその郡で絶対に滅びません。いくら「滅べ」と言っても、呪っても、いくら追い払っても滅びないのです。
先生が今まで生き残ったのは、こういう原則を知っていたからです。監獄へ入っても、共産党、その怨讐の前に行っても、誰よりも慕わしく思い、「私がここへ来て、怨讐に何かを与えるために、条件を立てるために入ってきた。だから恨むことはない」と考え、私がそれだけ与えられなかったけれど、御飯でもあげれば「ありがとう」と言うのです。そうするので、その御飯が肉になるのです。その水が血となるのです。(八一―三〇五)
統一教会の教区長なら教区長、教域長なら教域長というその人の力量、名望というのは一つの道、一つの郡を代表します。それを知らなければなりません。統一教会を代表するのではありません。統一教会は国のためにあるのです。私と教会と郡が、蘇生、長成、完成です。これは一体化します。「私の家」と言えば、れんがの家、その家が私の家ではなく、そのスレートの家が私の家ではありません。郡なら郡全体の家を身代わりした私の家でなければいけません。
「私の教会」と言えば、その郡民を教育させるための団体を代表した教会! そういう立場に立った私! その「私」は家庭での家主(家長)となれるし、教会で教会の主人となれると同時に、郡において最高の司令官にならなければなりません。これが神様が私たち統一教会員に任せた任務です。分かりますか? ですから責任者は忙しく働かなければならないし、その郡には行ってみない所がない、というようでなくてはなりません。(八一―二九六)
地域長は、今日の天のみ旨の前において、直接的に指導する最前線、第一線にいる指導者であることを肝に銘じ、皆さんが失望すれば、皆さんが追われれば、皆さんがそこで後退すれば、その地方、あるいはその地域全体の生命が皆さんと同じ運命に遭遇することを知って、この道で後退してはならないという信念をもたなければなりません。
私の能力が不足する時は、天の前に訴えるのです。「私は力がなく、不足ですから、天は弱き私を立て、歴史を創造してきた今までの摂理歴史があったことを知っております。こういう摂理を父は主張なさり、こういう摂理の後ろ盾を父は立ててこられたことを、歴史的な事実として私たちは知っており、今日こういう惨めな復帰の舞台を前にして、私が責任を負って、天の前に一つの願いを成就するために責任を負っておりますので、ここに力が不足ですから、力を下さいませ」と言って訴えれば、皆さんを中心にして天は協助してくださるのです。そういう時になったのです。
さらには、皆さんが考えるべきことは、「私」という位置が今言ったのと同じく全体に連関性を帯びていて、この全体を左右できる中心の立場が地域長だというのです。地域長がそういう立場に立っていることはもちろんですが、その地域長を主とした区域長、区域長を主とした一人の教会責任者、あるいは私たち統一教会全体の食口たちが地域長のような立場を身代わりし、もし地域長がこういう責任を請け負っては、「その地域長の責任を私が相続しよう」という後継者を必ず選択しておかなければならないのです。
また、私たち食口は地域長を中心にして闘い、地域長が倒れれば、「私が地域長を代表し、天の前にこれを責任もって収拾できる人にならん」と人知れず準備できる、こういう因縁を自ら備えなければなりません。そうしてこそ指導する地域長と指導を受ける教会員たちが、互いに一つの目標に向かい、一つのみ旨を身代わりした決意の基盤をそこから立てられるのです。そういうわけで、地域長は自分を主として動ける、自分の継承者となれる地域員がどのくらいになるかということが、その地域長がみ旨に対し勝利の結果をもってくるか、もってこれないかという与件を決定する中心内容になることを知って、今回帰ったなら、自分の地域内において、どんな困難があっても自分と一つになれる人を早く設定しておかなければならないというのです。
大きな闘いをするようになれば、大きな闘いを前にして、そこに備えた計画はもちろん必要でしょうが、計画よりもその計画を実践できる人が必要なのです。ですから地域長がその地域を運営するにあたって、まず自分を主として何人かのこういう自分の代身者を立て、生死を共にし、生命を共にできる立場で決意し、一つの目標に向かって互いに誓い合い、出発したのちには、後退する恥ずかしい様を見せまいと、互いに努力しないといけません。責任を負った人は引っ張っていくのに努力し、責任を負わない人、指導を受ける人は、世話にならないために、互いに努力し、私は万天下の前に立つことを願ってやまない、そういう条件を立てていく地域につくっていかなければなりません。そういう地域ならば、日がたてばたつほど、自動的な発展をするだろうと見るのです。
今日、私たちがそういう責任を負わなければならないのです。ですから地域長は早く区域長を通し、あるいは個人を通して今後面を中心にして、あるいは郡を中心にして、あるいは統、班を中心にして一番末端まで伸びていける力の源泉を連結させていかなければならないのです。天がいくらこれを命令しても、地区長がこれを奉り、強力に推進できる足場がなくなる時は、天はここから実践場を失う立場に立つようになるのです。そういうわけで、この実践場に立っている先発隊が誰かといえば、地域長を主とした地域長個人の前に動く同僚たちだというのです。ですから、皆さんが誤ればその地域に重大な影響をもたらすということを知って、天の前に自ら責任を負う皆さんとなってくださるよう願います。
今の時から見て、この時は地区長が責任を負う時ではなく、地域長が最前線に立って、荒々しく飛んでくる怨讐の矢を防ぎ止め、そこに留まっている怨讐の複雑な環境を除去し、整備する責任をなす時だというのです。ですからこの地域長たちがどうやって天のみ旨のために闘っていくのかということが、今私が師として本当に心配する問題であることを皆さんが肝に銘じてくださるよう願います。
この集会を通じ、この町を一度揺り動かしてみようというのです。この町を揺り動かす主動的な精鋭部隊が地域長であるので、この地域長がここで体験したその事情、ここで感じたその衝撃を、ここで感じた悔しさを再び生かし、ここで自分が怨讐に返せず、ここで自分が勝利の決定を立てられないことが恨みだという、こういう理念を皆さんが抱かなければならないのです。(一五三―二七一)
今後、地域に帰れば、地域管内の数多くの人々、特にかわいそうな立場にいる人々を皆さんがアドバイスしなければならないのです。その圏内において経済的に苦痛を受けている人々までも、皆さんが指導する責任があるのです。そういうわけで、皆さんは食べられなくても希望に満ちており、あるいはぼろを着ても望みに満ちていなければなりません。こういう難しい環境において、自分の義務と責任をすべて果たすという、新しい理念を抱いて暮らす皆さんとなることによって、皆さんの地域圏内に残っている数多くのかわいそうな氏族の前に、力の象徴として現れることができる、こういう基準になるということです。
飢えた民がいるような時、皆さんは彼らから「あの人たちは飢えながらも我々のために働き、飢えた場所でかわいそうな人のために犠牲となりながらも、新しい目標に向かって新しい開拓精神をもち、我々を求めてくれる」と言われるように自らに備えた内容を見せてあげなければなりません。彼らが難しい状況に陥る前に、そういう基盤を整えておいてこそ、難しい時に、あるいは難しい環境にぶつかるような時に、彼らを指導できるのです。そういう人々が地域長なのです。(一五三―二七〇)
また、地域長は、自分の責任を果たすことはもちろんですが、皆さんが喜べば、その地域に存在しているすべての万物までも喜ぶし、皆さんが喜べばその地域に住んでいる人も喜ぶのです。また、皆さんが喜べば皆さんを指導する地区長、教会長、先生、さらには神様が喜ぶのです。自分が喜べる場に出るというのは、天地が喜ぶと同時に人類が喜べる一つの基盤になるのです。地区長、地域長、あるいは区域長、この三首圏内で主導的な役割をすべき立場に立った人が誰かといえば、地域長だということを皆さんは知らなければなりません。地域長がよくやることによって、今後私たちの教会は発展できるというのです。
現在の地区長は中間の立場にいます。最前線的な活動に責任を負う人が誰かといえば、地域長です。この地域長に火がつかないといけないというのです。地域長が互いに人に負けず、互いに全体地域長の前で「私がこの時代において、地域長として責任をすべて果たすことによって、南韓各地に散らばっている地域長たちの前に、力を補給してあげ、愛の条件を彼らの前に相続させてあげられるものは何か」ということを研究し、探し出し、それを立てるために努力し、それを天の前に結実の基盤として整えるために、すべての忠誠を尽くし、今年においては今までの活動よりも確固とした、堅固な活動基盤を整えなければならないと思うのです。皆さんがそういう覚悟のもとにここに来て、帰っていくことを願います。(一五三―二六九)
今日、私たち個体というのは、地域を中心として区域が連結されており、地区長、あるいはその上に協会長を中心として先生を主とし、天まで全体が連結されているのです。上には天があり、下には地なのです。今後自分を中心として、四方にはすべての人類が連結されているということを考えるときに、皆さん地域長なら地域長たちがどれぐらい重大な存在か、ということを切実に感じなければならないのです。
皆さん自身が責任を果たせなくなるとき、その責任を果たせないとどうなるのでしょうか? 皆さんが責任を果たせないその事実は、この時代的な責任を果たせないことで終わるのではありません。その地方なら地方、地域圏内にいる数多くの生命、その時において恵沢を受け、準備された霊魂が、皆さんと関係を結ばせるために、天は皆さんを代表者として立てたにもかかわらず、皆さんが因縁を結べる活動と実力を備えられないことによって、因縁を結べず霊界に行った時は、霊界に行った霊魂が皆さんに対して讒訴するというのです。そういうことを考えるときに、今日私たち地域長の責任がどれほど重大かということを、もっと感じないといけないのです。(一五三―二六八)
地域長は、地区長、協会長、先生を通じて天と地に連結されています。今後経済恐慌が韓国に吹いてくるのですが、これに対するすべての責任は食口たちにあります。ですからこの民族が苦境にぶつかる前に、私たちが彼らを導ける礎を据えないといけません。(一二―一五二)
地域長なら地域長自身が郡一つずつに責任を負わなければなりません。これを動かすためには、四方の責任があるのです。まず経済的な問題を中心にして見る時、私一人で暮らすのが問題ではありません。全体を生かすことができ、全体の環境に備えられる経済的な余裕がなければなりません。「これは駄目だ」と自暴自棄になれば滅びます。自分が血を流さんと決意して、闘っていかないといけません。絶対に自暴自棄になってはいけません。
誰でも、神様のために、自分の教会のために一〇〇パーセント以上の生命をもっていける基準さえなされているなら、その人は神様の前に行けるのです。そういう心をもった次には、押し進めて占領しないといけません。駄目でも押し進めなければならないのです。一人でも、部落ならその部落民全部を率いて推し進めなければならないのです。(二〇―一五七)
各地域の食口が二百名以上にはならなければなりません。ですから努力しなければなりません。地域長としての皆さんは一人の個人ではありません。その郡の生命と財産までも責任を負わなければなりません。地域の食口たちは地域長に似ます。地域長が前進すれば全体が前進し、地域長が後退すれば全体も後退します。(一二―一五二)
皆さんの責任は重要です。地域長なら地域長が一つの郡の責任を負わなければなりません。郡の生命は全部自分の手の中にかかっていると感じなければなりません。皆さんはそれを感じますか? また、これを感じ、神様の前に報告できる自分ですか? 神様に会える自分ですか? 神様と相談できる自分ですか? ということを知らないといけません。ですから聖日礼拝時間や公式的な集会で、食口たちとこれに対する相談をし、未来を設計しなければなりません。自分一人を中心として、天命が下ることを皆さんは期待してみたことがありますか?
命令を上部から受ける場所で総出動させる時、何の命令が何であり、こうだという心がありますか? 命令に対してどうこういう人は滅びるのです。命令を下せば絶対的に従順屈伏して突破させようという心、きょうもあすも誓い、実戦に臨み闘わんという、そういう心をもたなければなりません。若い青年たちは闘いが必要です。戦場へ出てきたなら、変化します。弾丸がびゅんびゅん飛んでくる場所で頑張って座り、上部の命令が下ることのみを願うことができなければなりません。(二〇―一六一)
皆さんが郡責任者なら、その郡が動く時まで自分の能力をそこに投入するのです。一日、二日投入し、三日投入し、四日投入し、それが終わるまで永遠に……。永遠にでもその使命を果たしていかなければならないのです。一日二十四時間、一時間も抜かないで二十四時間全体を投入しなければなりません。御飯を食べる時や眠る時、便所へ行って座っている時までも自分の心をいつも投入しなければなりません。任された天職をどうやって責任完遂するかということに心が自分を支配し、それに対して体と心が一つになるように三年間続ければ、自分に体質的な変化が起こって神様が導く人になる、ということを発見するのです。発見するのではなく、発見したというのです。これが原理観です。(八一―三〇〇)
村のために、任された郡のために責任を果たせない人は道のために責任を果たせないし、道のために責任を果たせなければ、国のために責任を果たせないのです。国のために責任を果たせなければ、世界のために責任を果たせないのです。世界のために責任を果たせない人は、神様のために責任を果たせないのです。それが原理の道なのです。分かりますか? (はい)。(八一―三二九)
4 教会長(区域長)の道
皆さんは、学識から見てもすべての面を備えています。実力もあります。世間的な実力もあるというのです。どこの誰にも負けない実力もあり、心情もあって、ですからすべての面において……。地域長たちは先生の身代わりとして地区長をいただいて、一心団結しなければなりません。また、地区長を中心にした区域長たちも一心団結し、区域長を中心にした伝道師たちも一心団結し、伝道師を中心にした食口たちも一心団結しなければなりません。彼らはみな先生を身代わりした人々です。それだけに、誤ったことがあればそれを覆してあげ、育てなければならないのです。(一五四―一〇八)
今後、本部で管轄できる最下の基準はどこにあるのですか? 区域までです。分かりますか? 七段階基準を中心にして管轄しなければなりません。区域まで本部で管轄しないといけません。教会長を中心にして見るときは、地区と地域と区域まで、その次に協会長を中心にして先生と神様まで七段階です。上るのです。教会長を中心にして見てみると、ここは父母がいて、七段階形態を経ていかなければなりません。これは原理的な段階なので……。ですから今回、この区域まで上ってこいという歴史的な基準において、教会が管轄できる一つの主管圏を立てられる基準が区域までできているからです。ですからすべて集合させたのです。(一五七―三四)
あなたたちが今まで統一教会の、それでも指導者としてこうなったのも、先生に従ってきたので、天の運勢が皆さんと橋を架けてくれたので、地方へ帰ればみなそのように食口たちが皆さんに従おうとするのであって、そうでなければ到底及びもつかないのです。
ですから上下関係をいつでも調節しなければなりません。第一に上下関係を調節しなければならないのです。「私」は縦的基準、横的基準二つの世界をコントロールする立場にあるというのです。ですから上には本部の代表者であり、その次に横的には父母の代身者だというのです。分かりますか? 父母の代身者だというのです。父母の代身者は、子供たちが帰らず、子供なりに行くようになると、千里の道も構わずに走っていかなければならないのです。彼らを苦労させず、私が苦労しなければならないという、こういう模範を見せてあげ、伝統を立ててあげてこそ、その子供たちが正しい子供たちになるのです。伝統は立ててあげず、「自分の思いどおりにせよ」と言えばいいのですか? まず見せてあげなければならないのです。「伝道はこうしてするものだ」と、見せてあげなければならないのです。(七〇―一五六)
地域長と区域長の関係のように、縦的な関係では繁殖ができません。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心にして、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こります。これが創造の原則です。
私たちは伝道をなぜするのですか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係からは成されません。横的立場に立って一つとなり、互いに授け受けしてこそ成されるのです。ですから皆さんは教会長を中心にして、教会員たちと横的な立場で一つとならなければなりません。そうしてこそすべての面で発展するのです。地域長を中心にして、教会長たちが一つになれというのは、そうしてすべてのものを発展させようということであり、地区長を中心にして地域長たちが一つになれというのも、もっと発展させようというのです。発展、すなわち繁殖させようというのです。皆さんが忠誠を誓う時は、そこから数十倍の繁殖が起こるのです。
時は大きくなったり、小さくなったりするということはありません。人の心が大きくなった、小さくなった、ということなので、各地方に離れて活動する個人だといっても、本部から来た通知を中心にして横的な基準に立たなければなりません。体内で感じられるすべての感覚が神経を通じて細胞まで一時に及ぼされるのと同じように、すべての食口たちも本部の通知に対して同時に同感できる場所にいなければなりません。そうしてこそ正常な生命をもつことができます。ですから皆さんが本部を慕うのは当然な道理です。
しかし、神経系を通して伝達される縦的な基準でのみ関係を結んでいけば、一時的に感じられるかもしれませんが、継続して感じることはできません。私たちの体の骨の組織について見るとき、それは秩序正しく縦横に連結されています。
近いうちに本部に行く皆さんが、心に抱いていくものとは何ですか? それは「記憶しよう、もう一度記憶しよう」ということです。皆さんが習慣的な感情をどのくらい超越するかにしたがって、皆さんの人格が決定されるということを確実に知らなければなりません。
ですから本部教会に対するときに、地区に対し、地域に対し、各個人に対するときに、今まで皆さんが取った立場をもう一度革新しなければなりません。新しい立場で認識される以前には、発展はできません。新しい創造力が発生され得ないというのです。創造原理がそうなっています。(一七―二七八)
5 食口の道
私たち統一教会が行く道は天国を所有するための道です。天国を所有しないといけません。天国を所有する秘訣はどこにあるのですか? 自分が良い暮らしをしようというところにあるのではありません。他人のために、世界のために犠牲となるところにあります。もう一度言うと、この道Cを望み、また従っていかないといけません。分かりますか? さらに従っていかなければなりません。今まで私たちが堕落圏内Aから脱出するための組み打ちをしたのですが、ここBでついて行けないとわめく人は焼いてしまうのです。最頂上に向かって真なる道を行くのに自分が主体とならないなら従っていかないといけません。従っていくのに誰に従わなければならないのですか? 神様と関係している人に従っていかなければならないのです。
従っていくのにどのぐらい従っていかなければならないのですか? 世界の果てまで従っていかなければなりません。どうやって行かなければならないのですか? うれしくて、喜びつつ行くのではなく、涙と血と汗を流しつつ犠牲となり、克服しつつ従っていかなければなりません。こういう人生路程になっているのです。それが難しければ難しいほど、範囲が広ければ広いほど、個人から家庭、世界が一度に総動員される時になれば、世界の終わりの日になったことを知るのです。(四六―四六)
今日、統一教会を中心にして皆さんの第一の問題とは何ですか? 入教して、教会員になれば、その教会の責任者の心の中にいる皆さんにならなければなりません。教会でいえば、ここ本部教会の責任者がいれば、その責任者の心の中に記憶される皆さんにならなければならないのです。本部に対してどうのこうのと批判するのは偽者です。私が見て、偽者です。「誰がどうのこうの」と言ってその人を評する前に、その人のために三倍祈祷せよ、というのです。そうもせずに、ああだこうだ言う人は偽者です。そういう人は裂教人(注:教会を破壊する人)です。裂教人、裂教人です。
いくら少年少女でも、その人を中心にして天のみ旨が来るので……。のどが渇くとき、泉の水を飲むのに主流の水を飲めないなら、横に流れ落ちる水でも飲むという考えをしろというのです。その人を自分の息子のごとく思い、自分の娘のごとく思い、また一国家の幼い王のごとく思い、その人のために育ててあげ、垣になって大きくしてあげようという人がその主人になるのです。そういう人を願うのです。それなのに「ああだこうだ」言うのは全部偽者です。
ですから教会に所属したなら、その教会の責任者に気に入られなければなりません。おじいさんならおじいさんと呼べる心、おばあさんならおばあさんと呼べる心、若者なら若者の中で誰々、と呼べる心をもたないといけません。忙しい仕事があれば、一度にすべての事情を越えて、自分のすべての事情を一〇〇パーセント吐き出して、相談できる人にならなければなりません。その心の中を占領できる人にならなければなりません。その心の中を占領できる人にならなければならないのです。そうなれば、地方にいる人なら、本部なら本部にいる協会長の心の中に記憶されなければならないのです。段階がそのようになっていきます。その次には先生の心の中に記憶されなければならないのであり、その次には神様の心の中に記憶されなければなりません。これが行く道です。この道を外れてどうこう言う人は全部偽者だというのです。それこそ統一教会の不純分子であり、サタンの矢を受け尻尾を振る人だということを皆さんは知らなければならないのです。主流の路程は一定しているということを知らなければならないのです。分かりますか? (はい)。(七七―一七一)
それなら、統一教会で成功したという人は何をもって成功したと言うのですか? 字を上手に書くことですか? 原理講義をうまくやることですか? (違います)。それなら何です? (永遠に残らなければなりません)。永遠に残るにはどうしなければなりませんか? 神様の愛を中心として、永遠に先生の心を占領しなければなりません。そういうことではありませんか? (はい)。家に行っていても、先生に向かう心でいっぱいになっていなければなりません。先生を完全に占領できる食口になれば、その人は世界を占領できます。それを占領する道はどうなっていますか? 統一教会の先生を占領しようとするならどうしなければなりませんか? 受けるごとくに与えなければならないのです。世間でもそうではありませんか?
皆さん、伝道する時間がなければどうしますか? (従順屈伏します)。従順屈伏するのがいいにはいいのですが、それだけではいけません。それではどうしないといけないのですか? 先生が教えてあげましょうか? (はい)。皆さんが地方へ行けば、地方の地域長と完全に一つにならなければなりません。その地方の人々の中で、君子の心をもった者が皆さん以外になければ、そこから距離が開くのです。その次には地区長なら地区長の心を完全に占領しなければなりません。そうしておいて、教会長なら教会長の心を完全に占領しなければなりません。そのように占領できる人を待ち焦がれています。分かりますか? (はい)。そのためにはどうしなければならないのですか? 先生が指示したとおり、ずっと末端に入って食口の責任を身代わりして負える人にならなければなりません。そういう人が永遠に残るようになるのです。分かりますか?
大きくてよく繁った、できの良い木があるのですが、葉が全部乾いて根も死んだという時、どうなるのでしょうか? それはできがいいことはいいのですが、望みがありません。矮小な木だとしても、その木よりもっと生き生きとしているなら、これがもっとできが良いことになります。これは褒めても褒めても不足ありません。その木の枝は根から幹にいく津液を一〇〇パーセント受けたというのです。ですから無限に育つことができます。枝の中には元となる枝、外側の枝がありますが、外の枝が元枝よりよくおい繁るようになるのです。
私たちの教会でも、地区長、地域長などのいろいろな枝がありますが、生き生きした枝にもっと目立った枝が生まれるのです。地区長が生きていれば地域長もそうなるのです。何のことか分かりますか? (はい)。大きくなっていくのです。地区長なら地区長、地域長なら地域長、教会長なら教会長の心を完全に占領するためには、その長所、短所をよく知って侍っていかなければなりません。そうなれば、彼らは黙ってそういう人を愛し、慰労してあげるようになっています。何のことか分かりますか? (はい)。もう一度言うと、地区長や地域長、教会長の権限以上の権限を奪って獲得できるものとは何でしょうか? 犠牲と奉仕です。仕事をするすべての面において、百倍、千倍を与えつつ、損することを喜ぶことのできる人は、必ず彼らを占領できます。ですから彼らと自分が愛し、愛を受けられるなら、その人はすべての人を愛することができます。
そうして面なら面、郡なら郡を中心にして上ってくるのです。自分の郡で第一だという認定を受けるようになります。体育大会もそうではないですか? 同じことです。このように経由して上ってくるようになっています。そしてその郡だけがその人を祝福する時、その人はその郡を代表するようになります。そのように漸次上っていって教会の代表者になるのです。そうでしょう? 教会長の心から地域長の心、地区長の心と一体を成しつつ上っていくようになれば、その次にはどこに上っていくのですか? 協会長です。そうして協会長がその人にすっかりほれ込んで、心を完全に占領されるようになる時、自分の代わりにその人を協会長に立てるのです。何のことか分かりますか? そういう人が最高の場所を占領するというのです。
それでは、宗教を中心とした全世界の万民を眺めた時、神様の心をすっかり占領する男性は誰ですか? 今まで宗教人たちが失敗したすべてのものを収拾してくる人です。アダムからアベル、ノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、イエス様を経て、今まで神様の心情を分からず失敗したすべてのことを全部探し出して現れる人々です。教会なら教会の代表、世界的教派ならその教派の代表を歴史的に見てみるとき、神様の心をどこの誰も占領できなかった原因を全部収拾して出てくる最後の男性がいなければなりません。統一教会の先生がそういうことをしてきています。
ですから世界のどんな人が迫害し、反対しても滅びてはいけません。それゆえにまず信念がなければなりません。自信がなければならないのです。「彼らはこうして働いたのでこうで、私はこうやってやったからこうだ」という信念をもっていてこそ、神様の愛を中心にして、愛において偉大な成功者になれるのです。
そういう面で先生に従っていくだけのことがあります。そうではありませんか? (従っていくだけのことがあります)。そうだとすれば、皆さんは先生の言葉をよく聞かなければなりませんか、聞かなくてもいいですか? (よく聞かなければなりません)。先生の言葉をよく聞かなければなりません。木の葉は幹でなく根の津液を受けて育ちます。津液は枝から来るのではなく、どこから来るのですか? 根から来るのです。根が遠くにあるので、幹を通り、枝を通るようになります。ですから皆さんは協会長を通し、地区長を通し、地域長を通し、区域長を通し、教会長を通して良い実にならなければなりません。
ではどこから大きくなるのですか? 頂上から大きくなります。頂上から大きくなってこそ全体が大きくなるのです。死んでいる枝は切ってしまうというのです。分かりますか? (はい)。ですから、根からは絶対的に水分が必要です。人間に天と地が必要なのと同じことです。「生育し、繁殖し、地に満ちて万物を治めよ」(創世記一・二八)と言いましたが、主管するにおいて誰が主管するのですか? 神様が主管するのではなく、神様の愛を完全に受けられ、神様を占領し、神様の前で成功した人々が宇宙を主管するのです。そうならなければならないのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。(二六―一七二)
まず皆さんが善の条件を立てなければなりません。そうなれば皆さんは統一教会の愛を受けることができます。そして先生の愛も受けられるのです。分かりますか? 地区長は先生を身代わりしたお使いです。ですから、皆さんが地区長の愛を受けるということは、先生が愛してあげるという約束のもとで愛を受けるのです。その約束は、皆さんが先生の愛を受けるという約束になるのです。(三七―六二)
食口たちは先生の心を通して神様の前に出ていきます。地区にいる食口は地区長の心、また協会長の心、最後は先生の心を通して神様の前に出ていくのです。先生は皆さんすべてを天国に連れて行きたいのですが、神様の前に立てる条件が必要です。それは神様が公私の区別を確実になさるからです。(一八―一三五)
6 お父様が指示したとおりにせよ
私たち韓国の責任者たちは、先生が指示したとおりにしないと、今後霊界に行って引っかかるのです。今出ていって、指示したとおり働かないといけない、ということを知らないといけません。あなたたちの思いどおり、あなたたちの考えのとおりには霊界が協助しないのです。何のことか分かりますか?
命ずるとおりやらないと、私が皆さんに責任を負えないのです。命じるとおりやって成せなければ私が責任を負うのです。(み言のとおりやります)。やりたくなければ行けというのです。やらなくてもいいということです。本来先生が指示したごとく全部しないといけないのではないですか? とぼけるなというのです。先生がやれというとおりやれというのです。
見なさい。今は、紅海を渡る時です。その時と同じことです。皆さんもそうです。自分の思いどおりにやれば滅びる、ということです。今はヨルダン川を渡り、紅海を渡る時です。紅海を渡る時には全部自分の思いどおりにやったなら滅びるのです。ヨルダン川を渡る時に、十二支派が全部川岸に三日ずつ立っていながらも不平は言わなかったのです。そうやったのでカナンの地に入ることができたのです。時を知らなければなりません。
天が役事してくれるのです。全部できなければ、あとで牧師一人でもそういう伝統を受けさせて、全体に残せば天が役事するということです。アメリカの牧師全部が天の前に立つことができるのか、というのです。方向をきちんと決定しないといけません。先生が指示したとおりに祈祷するのです。先生の指示どおりに、「天よ、指示したその目的のために協助してくださいませ」と言わないといけません。そこで自分の思いを介入させたなら全部滅亡するというのです。何のことか分かりますか? (はい)。遊びではありません。私が話したとおりすべてに話してあげなさい。今、時がそういう時なのです。
皆さん自身も知らずに、霊界が全部協助して、牧師の耳に入るようになるのです。分かりますか? 霊界で選んだ人を探すのです。霊界で導くのです。統一教会は出発をそうやってしました。あの姜賢実伝道師の証を聞きませんでしたか? このように先生が言ったとおりにやってこそ、全部霊界が案内するのです。「行け」という時、「行かない」と延ばしたのですが、出発するようになって、ある停車場へ到着してみると、切符を買って待っている人が現れたというのです。分かりますか? 行かなければどうなるでしょうか? 責任者が讒訴されます。ですから従順でなければなりません。神様を身代わりして話すみ言なので、尊重しなければならないのです。(一三五―二〇二)
アメリカの責任者たちは、先生と会議したあとに、皆さんだけの会議をするなというのです。日本では、録音機を持ってきて、先生が指示したことを録音し、全国にばらまくのです。ですから神様が役事してくださるのです。それを書いていって、そのまま話さなければなりません。そうすれば霊界で協助してくれるのです。皆さんもそうなのです。皆さんも録音機を持ってきてそうせよというのです。自分たちの好きなように翻訳して、ああだこうだするなというのです。そうやったから、アメリカ統一教会の有様が今こんな具合になったのです。火がつかないのです。発展しないのです。霊界が協助しないのです。分かりますか、何のことか。これをしっかり聞かなければならないのです。誰かここに参席して地方へ帰り、先生の言葉と違って教えれば、その人とは友達にもなるなというのです。
イスラエル民族がモーセの言葉を尊重せず、十二支派七十長老たちが全部自分勝手にやったので十戒を下すようになったのです。この十戒がイスラエルを滅ぼすようにしたのです。それを知らなければなりません。そのために滅びたのです。そのためにイスラエルは滅びたというのです。その法を立てたので、直接指導できないのです。直接指導から離れたというのです。何のことか分かりますか? 十戒を立てたので、直接それを行えない人は神様が対することができなくなったというのです。ですからイスラエル民族は大きな被害を被ったということを知らなければなりません。神様が十戒の後ろに立つようになったというのです。十戒が垣根になったということです。垣根になったというのです。
それを知らなければなりません。法は荒野で作るのではありません。カナンの地へ入って、神様が法を作らないといけないのです。
今は、毎週先生がどんなみ言を語るか、耳を傾け、聴覚を合わせ、そこに呼吸を合わせ、そこに心を合わせ、そこに行動を合わせる心をもつ全世界統一教会員にならなければならないのです。そうしないといけないのに他のことをしているので先生が何を話したのか……。どこかへ行って別のことをして、何年かあとになって聞いてから、「いつ先生がこういうみ言を語ったのか? 責任者たちが誤ったな」という副作用が起こるのです。
では、この場所で天国の憲法が生まれるとすると、誰を通じて生まれそうですか? 皆さんを通してですか? 朴普煕を通して現れそうですか? 神様が誰を通してですか? 先生を通して現れるのではありませんか? 統一教会の教会員たちは、今全員天国を創建していくにあたって、先生が指示することを、その国ができた時の憲法以上に尊重することができなければなりません。それがどういうことか分かりますか? 先生の言葉を聞かないと、サタンを防ぎ止める道がありません。別の行動をすれば滅びます。滅ぶのです。見ていなさい。
この場所で十名が一緒に聞いたのに、その連中が外を回ってする行動が全部違うのです。なぜそうできるのかというのです。聞いた人が十名なら、十名が話す言葉が全部同じでなければならず、やる行動が同じでなければなりません。ところがある人はこう、ある人はこうで全部違います。何のことか分かりますか? はっきりと知らなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。そうしていては発展しません。入ってきても全員逃げていってしまいます。長く続きません。みんな逃げてしまいます。それは何かといえば、種を蒔くのに毒麦を蒔いたのと同じことです。毒麦は種と光が同じで模様も同じなのです。そうするのは、毒麦を植えるのと同じだということを知らなければなりません。
毒麦とは何ですか? 毒麦の種の光と模様が同じだというのですか。この連中! あなたたちが種を植えることができるのですか? この連中は! いわゆる三十六家庭程度なら、そのぐらいは知っているのではないですか? あなたたちが種を植えられるのかというのです。先生の言葉を受けて、種を植えてこそ植わるのであって、そのまま植わると思いますか? 神様がそこに協助すると思いますか? この連中は! ですから入っても全員出ていくのです。サタンが追っていくのです。これをしっかり知らなければなりません。分かりますか、アメリカ、ヨーロッパのリーダーたち? (はい)。しっかり肝に銘じておきなさい。(はい)。種は神様から先生を通じて出てくるのです。皆さんではありません。アメリカの教会長ではありません。ここにいる何かの州責任者ではありません。それぐらいのことは、言わなくても全部知っていることではありませんか?
先生が皆さんのようにやっていたなら、神様のみ旨を見つけたでしょうか? 原理版図に従ってくるから、神様が協助してくださるのです。これが先生の考えですか? 先生の好きなように、思いのままにやっているのだと思いますか? そうするのなら苦労しません。蕩減復帰の道を行くのではありませんか。そうしようとしたなら、四十年間無駄に過ごしたのですか? 四十年間無駄に過ごせば滅びるのです。滅びる。そうやってきたなら滅びたというのです。滅びたのです。今回監獄へ入って終わりになるというのです。終わりになるのです。分かりますか? そこからは芽が出てこないのです。
見なさい。一国の政令を受けた公使、あるいは大使、特権大使が異国の地へ行き、話をする時に、自分の国の王が伝えた言葉と違っていれば、国が売られるか国が滅びるのです。同じことなのです。そうなれば国を売り払う逆賊になるのです。国を売ってしまうことです。違いますか? 国を売り飛ばす逆賊になるのです、逆賊、逆賊。先生の言うことが正しいですか、誤っていますか? 先生に抗議するのなら抗議しなさい。
大統領が演説したことを全部複写して、そのままそっくり伝達するのはいいのですが、大統領の演説を自分の好きなように作って、ああだこうだと言うことができますか? 一国がかかっているのに、天国の仕事を勝手に変えることができますか? それは天国を拒絶することです。そうすると神様が離れてしまうのです。神様が役事をしないのです。いくら精誠を尽くしてみてもです。その前にみ旨を押し頂かないといけません。(一三五―二〇三)
ですから先生が指示した言葉、それ以外望み見るものはないのです。「あなた、こうしろ」と言えば、それを願うほかないし、自分に力になることができ、自分がその環境で開拓できる中心標本がそれ以外ないというのです。その標準の前に、自分がどのぐらい日々その相対的基準となるのですか? そのみ旨と自分がどうやって一つになるのですか? この努力をするかどうかの道において、初めて自信をもつようになるのです。それだけやってみよ、というのです。自信のある神様が共にいることを知るでしょう。
ですから先生も神様のみ旨、自信を得るために神様のみ旨……。神様のみ旨はこういうふうに進むのです。正に公式になっているのです。このことのためにきょうも行き、あすも行くのです。この原則的なことは、自分の生命が尽きる恨みがあっても、いくら弁明できる条件があっても、その原則を破らないし、秩序をひっくり返しません。どこまでも前は前、上は上です。自分が前に行けないし、自分が上に立とうにも立てません。これをやったなら妄動です。十年の努力が無になるのです。自分が前だと思い、後ろに立った者が前になることはないものと思っていたのに、その全部が逆になるのです。
ですからみ旨を前に立て、み旨に従っていく……。そうでしょう? み旨を立て、先生のみ言を立て、一年の標準を立てたなら、それを標準としていくのです。皆さん、蕩減復帰路程はどうなるのですか? 公式的標準をかけておいて、それをもって夜も昼も精誠をささげなければならないのです。そうでなければ分からないのです。行く道を知らないのです。皆さん、自信がないでしょう? では自信を育てる所とはどこですか? 皆さん自身ですか? 何ですか? 皆さん、今時がこのように進展していると、皆さんに神様が全部教えてくれるのですか? 分かりますか? 知らないでしょう。(はい)。知らないから、皆さんの自信の基準となり得る、その一つの標準は先生が指示したこと以外はないのです。「毎月一人ずつ伝道せよ」と言ったなら、精誠を込めてそうするのです。精誠を込めて祈祷し、すべての涙を流して……。天命による責任を果たせない親不孝な姿で神様の前に立てない、この恥ずかしさをどうやって免れていくのか、と徹夜して祈祷してみよというのです。すべて解決されるのです。「ああ! こうして行く道だなあ」と、その道を知るようになるのです。
これらを今まで何の自信もなく、それこそ何をもって歩き回ったのかというのです。先生が話しても、「先生はそうやって話されたが、我々は別に……」あなたたちが別にやって、復帰歴史に、神様の役事に、何か協助できますか? 蕩減復帰が皆さんの定規をもってうまくいきますか? あなたたちの思いどおりには絶対にいきません。ですから仕方なく自分が基準でなく、聖書なら聖書が基準となり、原理のみ言なら原理のみ言が基準になるのです。そうでしょう?
それが漸次発展するのに、先生がいるから命令をしてあげるが、先生がいなければ皆さんがどれほど難しい道を行くべきか知らないのです。それで先生がいて指示することを全部おそれをもって迎え……。そういう連中の行く道に発展があるのです。一つの仕事をしたなら、必ず上下関係に固く決意しなければなりません。神様の前に報告し、自分の直系の家族(食口)の前に固く決意しなければならないのです。こういうことはこうしなければいけないし、こうやって……。自分がいなくても後継者をつくらなければならないのです。
これが三段階原則に従って相互関係を結ばなければなりません。上下・前後・左右関係をいつも備えてこそ、存在圏がそのままそっくり存続するということを皆さんは知らなければならないのです。それが原理の教えではありませんか? そうでしょう?(はい)。 今までのあなたたちの生き方は何ですか? あなたたちの好き勝手に生きたでしょう? 本部で話しても、本部で今まで何か経済活動をしても、自分の好きなように全部切り取って使い、ありとあらゆることをしたではありませんか? 一代で悔い改めないといけないのです。(七〇―一五七)
7 同役者間の関係
サタン側と天の側が敵対していることを考える時、サタン側はあまりにも大きいので、それに対抗するためには、自分一人では駄目です。絶対に自分一人では駄目なのです。必ず同志がいなければなりません。ですから同志が必要なのです。ですから同志に対する絶対的な信頼心が、自分の父母よりももっと切実であり、自分の兄弟よりももっと切実であり、自分の友達よりももっと切実であり、自分の師匠よりももっと切実でなければなりません。そういう中で、互いに夜を明かしつつ話し、生死の境を分かち合って越えていける境地で決心すれば、ここからはどんな所にも比較できない最高の団結力をもつようになります。(二〇―一五一)
天の前に同情される人にならなければなりません。地球の発展がうまくいかない理由は、隣接している地域の地域長と、天地と、先生から同情されるような立場に立ち得ていないからです。(一二―一五三)
法度的な秩序を中心にした世界の前進的発展原則に従って発展しようとするなら、第二次的な発展は第一次的な土台が主体性をもってこそ可能だというのです。主体性を備え、二次的な対象の前でこれを吸収でき、料理できる土台となる思考方式、考えがなければなりません。自分を中心としているそこに、もう世界を中心にした考えがとどまれるでしょうか? そうでしょう? 世界を中心にして考えることができてこそ、国を考えることのできる考えがとどまり、教会を考えられる考えがとどまるのです。
皆さんは今、統一教会教域長という、こういう名前をもって、百二十七郡の責任者という、いわゆる地方においての平面基地に、これを一つの点として見るならば百二十七個の点として、全部これが一つの中心を中心としてずっと点になっているというのです。これを全部連結させていかなければなりません。中心と連結させて、その次に横的に連結させて、さらに四方に連結させるのに不足のない皆さんにならなければなりません。
四方を全部連結させようとするなら、「全部が私の教会だ!」、また「この国は私の国だ!」こうでなければならないのです。「教会を中心にして連結させるばかりではなく、機関を中心にして連結させ、世界を中心にして連結させるとしても、全部を連結させよう! これは私の教会であり、私の国であり、私の世界だ!」こうならなければならないのです。そうしてこそ連結されるのではありませんか? そうしてこそ、一つの主体を中心にしてすべての教会をいつでも積極的に通ずるにしても、何の矛盾、相衝(注:相いれないこと)がないのです。
もう一度言えば、皆さんの目の中にある細胞の背後には全部血が通じるのです。そうでしょう? ですから目玉の後ろに行った血が「やあ、私は足の裏には行かない」そう言いますか? 頭へ行った血が「やあ、心臓さん、私は頭に行ってきたので頭にまた送ってください! 足には行きたくありません」そうですか、そうではありませんか? (そうではありません)。では、頭に行った血が、臭いがする足に行くといって不平を言いますか? 不平を言いませんか? (言いません)。なぜ? 自分のものだからです。「私」という生命体がその血よりも貴いからです。
こういう組織形態を成していくのが、今日の摂理を行く私たちの責任分担です。私たちの責任という言葉がここにあるのです。分かりますか? 私たちの責任。それが皆さんの責任なのです。私を中心にして、東西南北にあるすべての教会が通じることができなければならないのです。また、私を中心にして大韓民国の教会だけではなく、西洋の統一教会と通じなければならないのです。夜も昼も、いつも全世界の統一教会、全国の統一教会が全部自分を経由していくとしても、「おお! 歓迎だ」このように歓迎すると同時に、押してくれるし、そこに同化もできるし、さらに刺激を与えることもできるという時、それはその人の細胞のごとくなるのです。
そういう横的立場に立てなければならないのです。一つの点の形態ですが、皆さんが百二十七個のその教域なら教域の一点ですが、その教域に、百二十七の教会のすべての教会員が経由していっても矛盾や相衝がない、それだけではなく、「この基点として、大韓民国だけでなく世界の統一教会の信徒たちが来てもここを全部経ていく」と言えるようになっていますか? そうであってこそ、今現在のどこかの郡のための我が教会だと言っても、通ずるのです。郡全体の教会が全部そこを通っても、矛盾、相衝が起こらないのです。そういう立場でその次に、「ああ、大韓民国我が教会!」と言えるのです。「大韓民国を代表した我が教会!」その次は、「世界を代表した我が教会!」どうですか、そうなっていますか? そうなっていなければ、今後そういう人にならなければなりません。
神様の主管圏というのは教会組織だけを主管するのではないのです。その教会組織を通して国家を越え、世界まで支配するのです。支配するのに強制でしては駄目なのです。順理(注:道理に従うこと)的な面で、これを統轄できる組織的な責任部署が設定されないといけないということを考える時に、それはどこから始まるのかといえば、主体を中心にして皆さんが相対的立場で全体、主体に属する全四方にある個体形態を同化させられるし、吸収消化させられるところから始まるのです。そういう自分になっていくことが実に問題だということを知らなければなりません。それが問題でしょう? こういう問題を考える時に問題が大きいのです。(七八―一四七)
私がきのう話を聞いてみると、ヨーロッパの責任者たちが一つになれないと言います。この連中、そのことを聞いて、今年中に全部人事異動しなければならないと思ったのです。責任者たちが一つになれないでどうやって原理を話すのですか? 一つになっても難しいのに……。そういう人たちは全部人事異動しなければなりません。ここのこの人(ピーター)とこの人(ポール)が一つになれないことが、ヨーロッパ全域に影響を及ぼすのです。そう、一つになったのですか、ならなかったのですか? (五四―二一一)
私たちは、自分の力だけではなく、全体を動員して神様の前に利得をもたらすことのできる心を回復しないといけません。それは、同志を愛する心と神様を愛する心、この二つの道しかありません。同志を愛さなければなりません。愛する同志がいなければ、神様を愛せよというのです。神様を愛することによって、結局は同志を愛することができます。ですから、同志を愛するために神様を愛せよというのです。
皆さんには、統一教会教会員として同志もいるというのです。ところで皆さんは同志をどれぐらい愛したのですか? 同志を愛してこそ、この戦争で実践的な実績を上げるのです。したがって、ここに到達して共同的な利益をもたらすことのできる彼らをどれくらい動員させ、加担させて、神様の前にプラス的な結果をもってくるように動いたのか、という考えをいつもしなければなりません。ですから全部が共同運命体なのです。いつ引っ張られていくか分からない、こういう戦争の時点にいるということを皆さんは知らなければなりません。(二〇―一五五)
神様は皆さんが神様御自身を愛することより、皆さん同士愛することをもっと喜ぶというのです。父母様を愛することよりも、皆さん同士父母様以上愛することをもっと喜ぶというのです。(一五五―五六)
今から皆さんが完遂すべきことは責任分担です。今日、全国に散らばっているすべての地域・地区長たちは、あるいはそこに忠誠を尽くす皆さんは、地方に帰ってその分野において、自分一人個別的な活動はできません。今は連結した環境でこの動きを通じ、全体の反応をどうやって起こすことができるのかということを、皆さんは考えなければなりません。天がそうであるようにすべてそうあらねばなりません。(一五五―一二一)
皆さんは、我々教会機関が精神的な面を指導するのはもちろんですが、生活的な面だとか教育的な面にプラスとなる与件をどうやって提示するかという問題を、いつも考えなければなりません。ですから、「教会がなければ駄目だ」となれば自然に……。教会も彼らがつくるものです。こういう立体的な活動を皆さんが考えなければなりません。
こういう活動を一人でできなければ、郡の下に教会が三つあればこの三つの教会長が合わさって、私は何を専門的に研究し、あなたは何を専門的に研究し、私たちが巡回しながら互いに協助しようとしなければなりません。一人でやるよりも三人が協力して指導するようになれば、それだけ良い面を打開できるのです。また、三人が協力すればいくらでも範囲を広げ、拡大できるのです。
ですから教会長が五人なら五人、十人なら十人を各分野で研究させて、食口の前に影響を及ぼせる、プラスとなり得る集会をしなければなりません。こういう問題を皆さんが今後適用させなくては、対社会活動において孤立しないかということを、考えざるを得ないのです。(五六―一五)
8 行政体制
先生は皆さんに体系を立ててあげているのです。体系というのはどうやって動くものですか? 先生は支部、あるいは本部の責任者および指導者たちに耳を傾けるようになるのです。先生は直接一般食口たちに耳を傾けるのではなく、彼らに耳を傾けるほかないのです。甚だしくは、その指導者、あるいは支部責任者が何か失敗をする場合でも、その人が指導者、あるいは責任者として立てられた以上は、本部や先生は特定の問題に関し、その人が言うことに耳を傾けざるを得ません。これが体系であり秩序です。(五二―二一九)
本来は地区長会議なら、州責任者会議をするようになれば、現在十一の州責任者とその次に巡回師、そのほかに先生が来いという人以外は一切……。全部教会本部指揮下にあって、事業分野指揮下にあるので別の組織になっていて、会議も別にしないといけないのです。先生が主に話すのは、州責任者たちが活動するのを標準にしたものなのです。ですから事業分野だけでなく、各分野はその方向が違うのです。ですから特定のケースとして、今ここに国際機動隊も参席しなければならないのです。カープとどこですか? 国際勝共連合も同じように……。その課以外は日を別に定め、特別に別個に集まらなければならないのです。ですからそれを定める時までは、きょうここに参席せよと話した人たちは、次から参席せよというのです。
本来は二つに分けて会議をしないといけないのです。なぜそうかといえば、教会なら教会活動するのに指示事項を知らない人、責任をなせない人たちが来て、全部うわさを流せば支障が多いからです。ですから誰でもむやみに幹部会議に参席できると考えては駄目なのです。できるなら責任者一人だけ会議に参席せよというのです。(バージニアには二人います)。二人いれば、本来責任者が参席し、他の人々はその責任者を通して聞けというのです。二人、三人、全部来れますか? ですからそうせよと言うのです。そうしてこそ統率されます。二人がやれば命令をしても……。(八九―二九七)
皆さんは直接神様と通ずる道がないので、先生が橋を架けてあげています。ですから先生が今何をしていて、どんな使命を指示しているかを知って、いつもそれを中心に相対的立場で授け受けし自分自身を拡大する時、神様は共にいらっしゃるのです。ですから公文を重要視せよというのです。分かりますか? (はい)。ですから公文を重要視し、本部で送る発刊物を重要視せよという話もするのです。(六〇―二四九)
四 牧会者がもつべき慕わしさ
四 牧会者がもつべき慕わしさ
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1 人を慕わしく思ってこそ真のものがある時は必ず……。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが現れます。それがうそなら神様が天地創造できないし、何もできませんでした。この宇宙に男性、女性が混ざっていますが、比例的に見れば同じだというのです。ほとんど同じなのです。何人かの差しかないというのです。すべてそうなったのです。
皆さんが教会聖殿があいているのを見ながら、その村の多くの生命が統一の恩賜に包まれなければならないし、復活圏において地上の解放国として天下に号令して生きるべき民なのです。にもかかわらず、みすぼらしい所で絶望の中で生きるのを見ながら、その絶望をかき分けて、希望の中に生きるようにしなければならないという任務に燃えて、夜も昼も走り回って足が曲がり、腰が曲がり、のそのそはいながら「これ以上することがない」、と言える時まであえぎ苦しんでみましたか?
そのようにして人が生じなければ先生も偽者です。先生についていく必要もありません。そうやって一度やってみましたか、やってみませんでしたか? 皆さん、食口が来て帰れば、帰ったその人を考え、夜を明かして祈祷し、油皿の灯をともしておいて、あす話してあげることを準備しながら、朝まで、日が昇る時までその人が来るのをどれほど待ってみましたか? そうやって待ってみなさい。その人が来るのです。来ます。間違いなく来るのです。それは実現可能です。それでは、「やあ、精誠がこういうものだなあ! これが極に至れば神様を動かせるなあ!」ということを実感するのです。「誰かが来なければならない」と、精神統一し、三時間だけ祈祷すればその人がそこでそわそわし、自分も知らずに心が動くようになるのです。「教会に行ってみよう」と、こうして心が命ずるのです。そういうことが可能なのです。(七五―一七九)
皆さんが真心から人を慕わなければ、その人も絶対自分を慕いません。ですから教役者はいつも早く起きて門を開けて、四時を越えるまで人を待ち、一番鶏が鳴く声を聞かなければなりません。鶏が先に鳴けば、「私より鶏が先に起きて鳴くのだな、この鶏が」と言って嘆いてもみなければならないのです。皆さんがそのようにしなければ食口たちが明け方に起きもしないし、皆さんを先生として、または自分の指導者として慕いもしないし、祈祷もしないというのです。動機がないのに結果が現れる法がどこにあるのでしょうか?
功を積んだ塔は崩れないというのです。問題はここにあります。先生が人をどれほど慕わしく思ったでしょうか? 望みの家庭をどれほど慕い、それは説明しても皆さんは理解できないのです。皆さんはどれぐらい慕いましたか? 神様の息子、娘をどれぐらい慕いましたか? 望みの民族をどれほど慕いましたか? 望みの国家、望みの世界をどれほど慕いましたか? 皆さんはそれを知りません。そのためにはお金が問題ではありません。こじきの業をしても、人を慕えばそれが栄光だというのです。世間の栄華を忘れ、天の道を整えようというのは栄光です。それはすてきなことです。(三〇―一四九)
教会員(食口)を慕うのを、初恋の心でしなさい。(一九八一・一一・一九)
皆さんの責任が重要だということを知らなければなりません。ところが、時代的責任だけでなく、歴史的責任を背負ったという事実を、皆さんは感じられずに生きているというのです。「私の祖先が私にかかっているし、この時代の自分の一族が私にかかっているし、今後後孫が私にかかっている」ということを感じなければなりません。ですから自由な心をもてないのが、この霊的指導者の責務です。
四面楚歌のような、そういう立場で一つだけ、一つの道だけもって生きるしかないのがこの霊的指導者の責務です。一つの道とは何ですか? 心情の道、孝行の道……。孝の道理を教える道以外には、行く道がないのだというのです。御飯を食べても寝ても、その心情に徹しなければならないのです。そうしてみなさい。そうすれば発展するのです。皆さんが先生に会いたくて泣いてみましたか? 鼻水や涙を流しながら泣いてみましたか? 先生は食口たちが慕わしくて泣いた時がどれほどあったことでしょうか。鼻水、涙がごちゃまぜになって……。神様が今まで真実の息子、娘を探すために、そうして涙をいくらでも流したのです。皆さんも涙を流してみましたか?
人がさっと現れるともう、「ああ、あいつはどのくらいやるか?」と言ってお金を……。そういう考えをするのではありません。それはパリサイ人が見る目なのです。絶対その人は発展できないというのです。絶対できないというのです。お金よりも人を愛さないといけないというのです。それは既に見方を誤ったというのです。人を愛するようになればお金はついてくるのです。ところが逆さまに考えやすいのです。(七〇―一五〇)
昔は新しい食口が一名でも入ってくるようになると、お互いに慕わしく思い、その人を訪問し、一時間でももっと話をしようとしました。そういう心情と、今日、食口たちが少し多くなって互いにあいさつもしたりしなかったりする心情と比較してみるとき、昔のその心情の土台がどこへ行ったのかというのです。それをできないでいます。皆さんはグループ活動をできる囲いの中にいなければなりません。それにもかかわらず、そうできない皆さんの心情を眺めたときに、残念でなりません。これはすべてサタンが思いのままに主管するのでそうなのです。(一九―四九)
2 人を接待することを好んでこそ
人をどれぐらい好きになるのか? いろいろな模様を中心にして、人を研究するのです。皆さん、そうなのです。そうして約百名のためにずっと精誠をささげる人がいれば、その人々の性稟をすべて知るのです。声がどうで……。全部知るのです。人をちらっと見ると、人は似ているのです。見ると、「こうなっているだろう」と全部自然と解答が出るのです。そのように研究をしなければならないのです。何のことか分かりますか? (はい)。
人は豚ではありません。村の小犬が来てもワンワン、猫が来てもニャオニャオ、こうしながら、そーっとなでて好きになってこそ、ぐうぐうと眠るのです。ところが人間なのに無愛想に「来たか? カインのあんたが来たか?」。(笑い) そうして「こっち、中に入りなさい」と言えば、どうなることでしょうか。(七五―一七八)
皆さんも皆さんを考えてくれる人を訪ねていくでしょう? そうでしょう? 考えてくれる人を訪ねていくのです。神様も同じです。アメリカを神様が願ったなら、その神様を占領できるのは、どこの誰よりも神様を思い、神様のために奉献しようというその人を中心にして神様は訪ねていくのです。そうなのです。(一二八―一七二)
家に来たお客を冷遇するのは人間の道理においてはマイナスです。そういう人は、どこへ行っても自分の威信を立てられないのです。家に来たお客に対する時には、必ずその人の基準を知って、その基準を中心にしてそこに自分の精誠を尽くしてその人に対するようになれば、その人が精誠を尽くしたことをもって、神様は自分が立てるべき条件としてつくってくださるというのです。
例を挙げると、ある人に対して自分が持っている貴い物をあげるとか、自分はたとえ難しい立場に立ったとしても、自分もできないことをしてあげるとかして、自分がすべき責任を一〇〇パーセント以上したという時は、反対に提示できるのです。(四〇―八四)
自分の門前に来て出ていく人は、村の犬がほえれば止めてあげないといけないのが、世間に一家を率いている、村の模範となるその大きな家の使命ではないですか。ですから自分を訪ねてきた人がいれば、何か一つでも助けてあげようとし、昼食でも食べさせて送ろうとするし、何か一つでもあげて送ろうという心をもってこそ、大きな家になれるのです。先生が統一教会に入って、御飯をくれといえば絶対に御飯を食べさせてあげ、食堂で十五年くらいの間、誰でも来て御飯を食べていけ、こうしたのです。こじきが来ても、「御飯を食べていけ」と言ったのです。先祖からの教訓がそれなのです。「八道江山(韓半島)の人に御飯を食べさせてあげれば、八道江山の祝福が集まってくるのだ」。それが私たち曽祖父の時からの遺言なのですが……。ですから私たちは八道江山の人々に御飯を本当にたくさん食べさせたのです。満州へ移民に行く人々が全部家に来て……。居間一つにいつも七、八名は入ってきて、ざわざわしているのです。慶尚道の人、全羅道の人……。
それを見る時、全羅道と慶尚道に統一教会が栄えるだろう、と見るのが先生の見方なのです。なぜですか? 私の家の御飯をたくさん食べた人たちだから……。(笑い) 私はそう思うのです。その八道江山の福を受けるには、事実そうなのです。ですからその後孫は滅びないというのです。先生もそういう伝統のもとで生まれたのではないのでしょうか。(七〇―一六六)
人に軽率に対するなというのです。ですから一九七〇年まで教会本部では、「誰でも通り過ぎる時、腹のすいた人は御飯を食べていけ」と言ったのです。腹のすいた人に御飯をあげるのは人間の道理です。もらってきた御飯でも分けて食べるのが人間の道理です。米びつに米を置いていながらも、通りすがりの腹のすいた人が来て御飯をもらって食べたとして、その人を打つような家は長く続きません。
御飯だけたくさん食べさせてはいけません。御飯を食べさせると同時に、公的な心をたくさん使わなければならないのです。それが福を受ける業です。何のことか分かりますか? 御飯をたくさん食べさせるのと同時に、公的な心をたくさん使った人、そういう人は誰も嫌いません。そうでしょう? (五六―三七)
教会に新しく入ってきた人を一番初めに迎えてあげる人が福を受けるのです。その人が自ら信仰生活のできる時まで待ってあげながら、完全に定着できるようにしてあげれば、その人と共に栄光の場所へ参与するようになるのです。こういう関係を十人以上結んだ人が、もしも死地に入るようになった時には、その人と関係した人々を通して解放される特権をもつようになるのです。福はここから受けられるのです。
ですから来るお客さんたちをよく接待しなさいというのです。統一教会に反対する人が教会で御飯を食べていっても、笑いながら送り出せというのです。絶対食べる物でけち臭く対するなというのです。また、統一教会員でないのに来て御飯を食べるからといって、「何で御飯を食べるのか」と言うなというのです。先生がこういうことを言うのは、今まで八道江山(韓半島)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員でないどこの誰もが、ここで御飯を食べていかなかったのか、と考えるからです。今はその限界点に到達したというのです。
皆さんも教会を訪ねて入ってくる人々を、皆さんの兄弟として受け入れなければなりません。遠い他国へ行って帰ってくる兄弟のごとく迎えてあげなさいというのです。そういう人は福を受けるのです。教会長もこうできなければ教会長としての資格がないのです。霊界へ行って引っかかるようになるのです。各部長たちもそうできなければ霊界へ行って引っかかるようになるのです。
本部でそういうことについて統一教会の理論を適用するのは、そういうことで神様に言葉で言えない恨めしい事実があるからです。ですから皆さんが一九七一年度にはそういう行動をしてはいけないというのです。統一教会を訪ねてくるお客があれば、互いに迎えるために競争をして、アベルの立場に立ってカイン復帰の生活圏を四方に備えられるよう努力しなければならないのです。そうしてこそ、天国の中心的な祝福を受けられるのです。これが原理の教えであることを皆さんが確実に知って、今からでも教会を訪ねてくる人々を絶対無視して送るなというのです。
また、教会の責任者は、訪ねてくる人たちをそのまま送り返さないで、梨一切れでも、水一杯でも接待して送るのが主人の責任だということを確実に知らなければなりません。分かりますか? 地区長たち、分かりますか? (はい)。訪ねてくるお客さんたちに驕慢に対しては駄目なのです。
私たちが今後彼らの所に出掛けた時に、彼らが私たちに対して祝福を受けさせてほしいと言うようでないといけないのです。怨讐の子たちがそうやるようになれば、サタンも讒訴できないのです。もし讒訴をしようとすると、自分の息子、娘を打ち殺してから讒訴しなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。もう一度言うと、サタンの子供たちまでも来て、福を祈ってくれる人をサタンが讒訴して殺そうとすれば、その人の福を祈ってあげたサタン自身の息子、娘から殺さないといけないのです。これが何のことか分かりますか? (はい)。ですからサタンはその人を打てないのです。
ですから、お客さんの接待をたくさんして、外部の人々にたくさん世話をしてあげた人がいる場所は、サタンが越えてこられないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(三七―三二九)
3 夜が明けるまで話をしてあげてこそ
先生が一九五七年度に第一次伝道に送り出す時、七年の間皆さんと夜を明かし、歌を歌いもし、村でありとあらゆる悪口を言われ、ありとあらゆることを全部やりました。先生が食口を育てるために千辛万苦したことを、皆さんもせよというのです。夜来るお客があれば膝をついて天の福を祈ってあげ、昼来たお客に対しては中の部屋へ招待して、誰よりも、自分の親戚よりもっと懐かしいお客さんとして対してあげ、「私たちの家はこういう家だ」という家風を立てよというのです。そういう家風を立てておけば、その人たちは誰のためにしようとしますか? 他の人々を接待する伝統をもった人々が、教役者の御飯を飢えさせるでしょうか? 教役者を飢えさせて福を受けようという連中の口には砂粒が入らなければなりません。
きのうも話しましたが、一九五七年、その時に先生が七年の間精誠をささげた、それがいつも懐かしいのです。皆さんもそのとおりにせよというのです。皆さんはそれが懐かしくなくてはなりません。その場所が懐かしくなければなりません。その場所を今つくろうというのです。それが正に生きることであり、それが正に火がつくことであり、それがまっすぐに行く道なのです。皆さんはたった一人に対してでも夜を明かして話さなければなりません。(六〇―三〇八)
私は今もそうなのです。どこかへ行って十二時になっても、三人が座っていると……。彼らは子供たちなのに、愛する子供たちが父母に孝行しようと来たのに、父母が必要なその子供たちが、父母が好きで父母に会いたくて来たのに、それをけとばしてくる父母は父母ではありません。
ですからいつでも座れば二時になり、三時になっても立ち上がりません。彼らが身を引いて、自分一人残ったなら上に上がったものです。今までそうやってきました。ですから、「えい、先生は鋳鉄の先生だ」と言うが、先生が何か鋳鉄の固まりのようですか? そこに一つの生命、一つの孝行の道理、一つの天の道理が残るということを知るときに、何よりも、どんなものよりも心情的因縁を篤くしてあげ、父母が正しく主管してあげ、慰労してあげる責任があるのにそれをできずに行けば、それより大きなことがない限り、それをすべてできなければ父母の責任を果たせなかったと見るのです。
ですから二時、四時……。昔はみんなそうやって育てたのです。分かりますか? 夜を徹しながら眠らないで……。
ですから彼らがそういう恩徳を返さなければならないし、彼らもそうしなければならないし、皆さんもすべてそうしなければならないのです。「時間になった。急いで行け!」。先生はそうではありません。絶対そうではありません。訪ねてくれば、門を開けて外に出て迎え……。その人が服がなければ自分が着たものをあげ、もっぱら自分は寒くて体が縮こまって震えました。これが愛です。愛! どこかへ行く時、食口たちがスカートもはけずに出てくると、私は絶対に見られないのです。子供たちがそうだとすると父母もそうでないといけません。父母の前に現れた子供がそういう服を着てくる時は、どうしようもなくて着てきた、その心を私は知っているのです。(七五―一七四)
きのうの夕方も、巡回師たちに会って十二時半まで、ずっと報告を受けました。おそらく彼らは一言一言自分の話をしようと、みんなそうするでしょう。そうすると、私がいくら疲れても彼らの話を聞いてあげる責任があるのです。一カ月間、血の汗を流しながら、あるいは涙の道を選んで歩んできた荒々しい歴史を愛することを知らなければなりません。これが統一教会の文先生の姿勢です。
夜を徹してでも聞いてあげることを知らなければならないのです。人の話をよく聞いてあげないといけないのです。聞きたくとも、聞きたくなくても聞かないといけないのです。そうしてこそその人たちには、力が生まれ、生き甲斐を感じるから……。それを疲れるとは言えません。疲れます。疲れたとしても休めない道、寂しいとしても行かずには済まない道、息が詰まるとしても責任を負わないでは済まない道、これが神様の事情ではないのでしょうか。このすべてのことを、するすると脱ぎ捨てて自由人になったならどれほどいいか、というのです。自由人になったら……。(六二―一三八)
皆さんも同じです。教会で食口たちを育てるにあたって、夜を徹しながら話をすれば、食口たちは離れるのが嫌になるのです。私が原理講義をする時、教会長が便所へ行ってくるのに五分もかかりません。五分だけ待ってほしいと話をしておいては、飛んでいって飛んでくるのです。終わりまで全部しないで拭き取ってくるのです。そうなるのです。(笑い)私が深刻になれば、相対もそのように深刻になるのです。道理がそうなのです。完全な主体がいれば完全な相対が生まれるのです。
その場所を離れられなくて当然です。そうなりさえすれば座ってすべて通じるのです。そういう役事をしたのです。皆さんがそれをしないといけません。夜を徹しながら話をしても、おもしろくしないといけません。夜十二時が過ぎ、夜明け前二時、三時になったところで、「帰ってくれればいいな。少し眠らないといけないのに……」こういう心があればみんな逃げていくのです。三時、四時になっても、「帰らなければいい。時計が止まったらいい」という心がなければなりません。そういう場所で因縁を結んでいくと、霊は知っています。霊は申し訳なくて、御飯を食べるや否やお尻が立ち上がろうとするのです。先生がそういうことをしました。(五六―五一)
接待されるのがよいことではないという事実を、皆さんは知らなければなりません。ですから十二時間でも話をし、夜遅くまで話をし、自分たちが申し訳なくて「どうかやめましょう」と言う時まで……。疲れますが、夜を徹する覚悟をして話をするのです。そういうことを経たのちには、必ず残るものがあります。それは間違いなく事実です。
それと同じように、皆さんが地方に行って、二十四時間すべての精誠を尽くして食口たちとやってみろというのです。彼らが落ちるか……。ですから特別な道理がないのです。それ以外の道がないということを知らなければなりません。サタン世界の心情よりももっと高い心情の因縁を結んで、自分と共に生死を決するためにはその難しい道の中で、互いが克服し、互いが勝ち抜くことができる場所に立たなくては、すべてが駄目なのです。
皆さんも教会でそうしなければなりません。うわさぐらいは立つでしょう。しかし夜十二時を過ぎても教会員たちが全部集まって座り、教会長を中心にして夜遅くまで話ができる運動をしなければなりません。こういう運動が新生運動です。分かりますか? 新しく生まれる運動なのです。朝起きる時間に起きて、夜寝る時間に寝るのではありません。新生運動というのは別の運動です。寝る時間に寝ないで、食べる時間に食べないでするのが新生運動です。そういう運動を起こさなければなりません。
皆さんがそういうことを知って、いつどこへ行っても自分は自分自身の基盤を整えて、どんな問題でも誰にも世話をかけずに自力でこういうことができるという、最小限の自分の領域と、最大限の自分の領域を知っておかなければなりません。(五六―五五)
まず自分自身がみ旨に酔ってこそ、それが相手方にも伝達されるのです。(二三―二四九)
食口たちに対するにあたっては、夜遅くとも恩恵を高めるための貴重な契機を逃さないで、時間の観念を離れて最善を尽くしなさい。そうでなく、時間に気を遣って、ひときわ恩恵が高潮したところでみ言をやめると、次の日には、初めからもう一度始めなければなりません。(二三―二四九)
核心要員は夜を徹してでも精誠をささげて育てなさい。そのように三日間だけ精誠をささげれば、その人は一生の間忘れられない恩恵の因縁を結びます。
時間が遅くなり、伝道対象者が帰るようになっても、伝道する人がかえって惜しみ、残念がれば、霊界で協助してくれます。(二三―二四九)
4 人を無視しないで尊重視してこそ
統一教会、この先生を訪ねてくる人は本当に多かったです。修道していて来た人だとか……。それで先生は、できるだけ私たちが飢えても、その人たちによくしてあげようとしました。彼らが一〇〇パーセントの基準の道を修めたなら、その一〇〇パーセントの基準以下をしてあげたなら私たちが詰まってしまうのです。審判されるのです。そういう時は、倍以上、二倍、五倍、十倍以上してあげるのです。そうやってしてあげたといっても、滅びはしません。何のことか分かりますか? そうすると天は感服するのです。「あれは天より優れているな!」。そう思うのです。
世間でも主人が誰かの家にお使いを送ったところ、その家で厚遇してあげる時、子供なら子供、あるいは小使いなら小使い、お使いに行った人が帰ってきて話をするのです。「誰それの家へ行ったところ、こうしてこうしてやってくれた」と言う時、厚遇してあげて送ったことが、主人が考えた何十倍になる時は、「ああ、その方は福を受ける方だな」と思うのです。福を受ける人が福を取るというのです。分かりますか? そうなるのです。ですから皆さんを訪ねてくる人に冷遇するなというのです。願いが行き詰まります。皆さんの未来の運命の道が短くなるのです。
ところが見てみると、部落で何でもないおばあさんが訪ねてきて、「ここに教会長いるかね?」と言う時、眺めながら「いませんよ、いません」と言ったなら罰を受けるのです。「教会長はどこかへ行きました。どうしてですかおばあさん? 年取ったおばあさんは必要ありません」。こうしてみなさい。神様が見る時に「こいつ、お前はどこから出てきたのか?」。こうして引っかかるのです。年取ったおばあさん、おじいさんを否定するのは、お母さん、お父さんを否定することになります。ですから年取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんをよく養ってこそ孝行する子供です。そうでしょう?
貧しいからと冷遇する人は長続きしません。その村で貧しい人を冷遇してみよというのです。私は皆さんを冷遇しません。同情するのです。世間で一番貧しい輩が統一教会の輩です。この一番貧しい統一教会の輩を私が同情するから、福を受けられる因縁ももっと長くなると見ています。分かりますか? 「この群れが滅べばいい。やあ、早く片づけてしまえばいい」と思うのではなく、もっと苦労するのを願うのです。もっと苦労するのを願うというのは、もっと同情してあげようということです。もっと同情してあげることによって、皆さんも福を受け、私も福を受けるのです。
ですから人を無視するな、というのです。分かりますか? 「みみずも踏めばうごめく」と言ったでしょう? それは必ずそういうものです。死ぬ時に恨みを抱き、恨むその恨みを受ける人は長く続かないのです。ですから共産党は長く続かないのです。絶対長く続きません。
こういうことを皆さんが知って、心の世界において負債を負う者になってはいけません。指導者は実に恐ろしい場所に立っていることを知らなければなりません。そういうことを皆さんが知って、過去を清算できなければ悔い改めなければなりません。(五六―三九)
若い人々は横的に伸びていく欲望の荷をぶら下げていますが、六十歳以上になった老人たちは一年一年白髪が多くなればなるほど、ただ一つの所、今や行く所のために準備することしかありません。これが彼らの身の上です。ですから彼らはみ旨を成すために誰よりもみ旨を愛し、そのみ旨を成したその前に、誰よりも甲斐ある自分を立てるために、夜昼の区別なく一つの目的に向かって前進する場所に立ちますが、若い人々はそうできないのです。むしろ若い人々には空想と妄想しかありません。こういう立場から見るとき、若い世代の人々より、年取った老人層にいる人々が神様に期待を残せるし、神様が期待をかけられるということを、若い人々は知らなければなりません。
若い人々は年取った人々を無視してはいけません。ここに鄭石温老婆が来ましたが、顔を見ればしわくちゃで見たくありません。それに歯まで抜けて金歯をきちっとはめてあるのですが、その口さえ見ればやたらと気分が悪いです。その顔を見ると、しわくちゃになっており、どの部分を取っても張りのある所がなく、体つきもほっそりしていて、ふっと吹けば飛んでいくように不安ですが、皆さんはこういうおばあさんを恐れないといけません。このおばあさんの一言の言葉は、個人が考えて言うのではなく、霊界を通してみ旨的な話をするのです。これは自分の先祖から関係しており、あるいはキリスト教歴史の重要な殉教烈士たちの生命の因縁を支える、重要な一つの旗手になるという事実を知らなければなりません。(四三―七四)
皆さんが地方に帰れば、人を尊重視しながら立体的な活動を展開しなくてはなりません。皆さんの手が擦れ、足が擦れるほどその部落のために働けというのです。そうしておいて、あとで自分の息子、娘を連れて……。それを考えませんか? 息子、娘が今はかわいそうな場所にいますが、年が二十になり、三十になれば、自分が働いた部落へ連れていって、「私が二十年前にここへ来て、こうしてこうして働いたんだ。あれは私が手ずからしたし、あの道も私が整えた」という生きた教育ができるのです。息子、娘にそういう精神を吹き込む考えをしませんか?(五六―五三)
愛を中心にして見る時、神様が高いと思ったところ、神様だけが高いのではなく誰が高いのですか? 神様の高さだけを考えたので、人間の根源は知らなかったというのです。これが事故だというのです。神様が高いように、人間も高まらないといけないにもかかわらず、神様だけが高いものと思って、人間たちは低いものと思ったというのです。
では、人間が高まることができる秘訣はどこにあるのですか? この秘訣を探し出して、高まることのできる道が統一教会にあるなら、統一教会に来るなと、鉄の門を何十個、何百個ずつつけても、特攻隊を編成してでも入ってこようとするのです。「来るな」と言っても、梯子をかけて来るのです。上ってくるためにありとあらゆる手段をすべてつかうのです。そういう可能性があるでしょうか、ないでしょうか? (あります)。なければ偽物です。(四一―二七四)
5 すべての人を愛せなければならない
じっと見てみると、いい家には犬がふんをしても、その家の庭の隅へ行ってします。ところが主人が、「やあ、この犬ども、この村の犬どもはなぜ全部この家の庭の中に来てふんをするのか?」。こう言って不平を言う人は福を追い出すのです。「どうぞ来てしなさい、早く来い」。そうしないといけないのです。(笑い)そうなのです。もう山水もそうだし、自然もそうだし、すべての動物たちもそうなのです。動物も好きなものがあるのではないですか。人のために造られたなら、天に近い人、天性、本性に近い素性をもった人の前に引かれていきたいし、その人と共に和動したいし、これは原理の中にある創造理想の原則です。だからそうしなければならないのです。(六〇―一五八)
皆さん、私たち統一教会において教役者が責任を果たしたか、果たせないか、ということを知るには、その教会の庭を中心にして、その村の人何人が往来するかということを見れば、一遍に分かるのです。先生がどこへ行こうと、先生が行く所はいつも宴会です。どこへ行っても宴会なのです。寂しい村へ行っても、三日さえたてばもう、その村のおじいさんが来て座り、「どこから来たのか?」、そう言うのです。知りたくて、知りたい病が出るのです。それが、なぜそうかというのです。なぜそうなのですか? それはそうならざるを得ないのです。すべての昆虫が、暗い夜中に光のある明るい所に向かって集まる道理と同じように、万物の霊長という人間がそれを知らぬはずはありません。知らぬわけがないというのです。電波のごときものが必ずあるというのです。そういうものがあるので、心の電波が主体と対象を中心にして一つになる刺激を感ずるというのです。その刺激が自分を滅ぼすのではなく、自分の希望を充足させてくれるし、成功を期待させてくれる道案内となる方向なので、自然と引かれていくようになっているのです。
ですから教会が発展できる道は、まずその村の子供たちが好きになるようにすることです。「嫌いだ」と言えば駄目なのです。鼻水をちゅるちゅる流す子供たちを中心にして、「やあ、我々の先生!」と言われるように子供たちと友達にならなければならないのです。その次におばあさん、おじいさん。子供たちの友達、おばあさん、おじいさんの友達にさえなったあかつきには、その村の人々がそっくり自分の友達になるのです。道理がそうです。
人が一番好きなものは何かといえば、赤ん坊で、一番嫌いなものは何かといえば、ほとんど死にかかっているおばあさん、おじいさんです。極と極なのです。そうではないですか? 天の運動とは何かというと、極と極を包摂するための運動ではないか、というのです。それが原理的なのです。そうでしょう? ですから子供たちと一つになろうとするし、おばあさん、おじいさんが杖をついてきて、遊んでは御飯を食べていき、こうしておけばそこは栄える所となるのです。皆さんがおばあさん、おじいさんの友達になり、おばあさん、おじいさんが皆さんに狂って夜も眠らず、自分の良い庭、縁側、広い家を残しておいて、教会の板の間に来て寝ようというようになれば、その団体、その人がいる所は賑やかに栄えるのが原則だというのです。分かりますか? (はい)。
そうするには、それがそのままでなるものではありません。灯を明るくともしておかなければなりません。灯を明るくです。子供たちはいたずらが第一です。そうでしょう? 子供たちは、いたずらが第一なのに、いたずらを捨ててそこに来て、何かを望むことができるようにするには、いたずらよりももっとおもしろいものがなければならないというのです。また、老人たち、年取った人々はそれこそ食べる研究しかしないのです。「やあ、おいしく食べたらいいな」。こうなのです。その食べることを忘れ、そこへ来るには、それ以上のものが何かなければならないというのです。
この世間にそれ以上のものが何かあるのでしょうか? 世間にはないのです。年取った人々がこの世間で八年風塵をすべて経ながら、やってみたことのないものが何かありますか? 全部やってみたのです。その人々に興味津々たるものが何かあるでしょうか? それは他のものをもってしては駄目です。神様のみ旨のほかありません。子供たちもそうなのです。子供たちは天真爛漫で感受性が敏感です。特に善なることに対する感受性が最も敏感なのです。しきりに好むのです。こうなってこそ、その教会も発展するのです。(六〇―一六〇)
また、顔が良くて若い人でこそ伝道する、とんでもありません。教会というのは家庭の延長です。家庭の延長だということを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさん、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないし……。統一教会が全部若い人ならこれは病弊です。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えなのです。上の人に侍ることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんは神様の代身であり、お母さん、お父さんは父母です。自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こうなれば、段階で見ると三段階なのです。そうでしょう? 線を四つ引いてこそ三段階が出るでしょう? (はい)。ですから七数基準なので、これを私たちの人生として経ずしては、これをまとめなくては三段階が出てこないというのです。これをまとめなければ全部好き勝手に絡まるので……。三段階が出るにはこれをまとめないといけません。
ですから、おばあさん、おじいさんを愛する心も、天の法度に一致しなければならないし、お母さん、お父さんを愛する心も、天の法度に一致しなければならないし、また自分たち夫婦同士愛するにも、天の法度に一致しなければならないし、子供を愛するのも天の法度に一致しなければならないし、きちっと基準が合わなければならないのです。これは、全部おばあさん、おじいさんが父母を愛することも、父母が息子、娘を愛することも、一致しなければならない、というのです。おじいさんは曽祖父時代には息子の位置ですから、結局はそれです。息子の位置であれ、夫婦の位置であれ、父母の位置であれ、おじいさん、おばあさんの位置であれ、どの時代も等しくぴったり合わなければならないのです。それがまとまらなければなりません。何を通してまとまらなければならないのですか? 神様の心情を通してまとまらなければなりません。こういう家庭は千年、万年発展するというのです。そういう家庭は栄えて当然です。この若い連中だけ集まって座っていて、何ができるかというのです。
ですからこれを横的にしなければなりません。なぜ横的にしなければならないのですか? 横的にして、これを普遍化させないと……。全体を代表したものが縦的基準なので、横的に、全体に普遍化させてこそ……。中心は一つなのです。中心点は一つなので、普遍化され得る心情基準を私たちが四方に連結させて一元化させるようになれば、ここに縦的なこの心情の役事が初めて一つの中心に決定されるのです。縦的中心が二つありますか? 二つはないでしょう? (黒板に書かれて)これが傾いて三角形を成せば、ここが中心ですか? ここが中心でしょう。ですから四方を備えなければならないのです。
ですから人間は自分の父母を愛するように隣村の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣村のおじいさんを愛さなければならないし、自分の息子、娘を愛するように、隣村の息子、娘たちを愛さなければなりません! こうなるのです。そうして上下関係が始まり、左右が始まり、前後関係がそこで醸成されるのです。こうなるのです。分かりますか? それが始まってこそ、この縦的な心情の基準が場所を定めて天道が生まれるのです。そしてそれを実践しようというのです。皆さん、私たち統一教会はそれを実践するので、理想的家庭建設となるのです。
教会という所は、その縦的な基盤を横的に四方化させられるようにしていく所です。その数が多いほどいいのです。なぜ多いというのですか? 家庭時代から氏族圏へと越え、氏族圏から民族圏へと越えるものだからです。ですから伝道をたくさんするほど天的な基盤が自分を通じて始まったので、神様の前に人格的価値の基準が前進するのです。
それでは皆さんは何なのですか? 皆さんはこの縦的中心で何をすべきなのですか? これを、横的に再現しようというのです。そうしなければなりません。ですからおばあさんを愛さなければならないのです。今や先生も遠からずおじいさんになるでしょう? (はい)。 おじいさんになるのですよ。あなたちも今、年老いたらおばあさん、おじいさんになるのです。同じなのです。息子、娘として生まれ、その次に結婚して、お母さん、お父さんになり、おばあさん、おじいさんになっていくのです。それが一生なのです。
ですからおばあさん、おじいさん、その次にお母さん、お父さん、その次には夫婦同士、その次には息子、娘なのです。これが人生が行く公式的路程なので、これを愛さなくては天道に外れます! こうなるのです。分かりますか? (はい)。
これを根本的にまとめておかないと、この世界を収拾する道がないのです。西洋のような所へ行けば、実に西洋のおばあさん、おじいさんはかわいそうです。彼らは東洋の風習をどれぐらい慕わしく思うか分かりません。「ああ! 東洋思想はおばあさん、おじいさんをその家の神様のように長として侍り、七十、八十の老人に息子が行って全部相談して……。ほう! どれほどいいか」。そう思っています。
ですからおばあさん、おじいさんを愛することを知らぬ人は……。一番年取ったおじいさんは誰ですか? 神様ではありませんか? また、一番若い方が誰ですか? その方も神様です。おじいさんよりも年取った方が神様だし、赤ん坊よりもっと若い方が神様なので、その神様を愛するには、人間全体を愛さなくては神様を愛せません。こうなるのです。何のことか分かりますか? ですから神様が年齢が多いとすると一番多い方であり、未来に対する青春なら誰よりも青春なのです。そうでしょう? その方を私が愛そうというのだから、その中にいるどんな人も私が愛さなければならず、歴史時代に霊界へ行っているその方々もその圏内で今希望を探して生きんとしているので、その方々までも愛してこそ、神様に従って愛せる道を求めていくというのが理論的ではないのか、というのです。(七〇―一五一)
皆さんが知るべきことは、人を愛さなければならないということです。人を愛さなければなりません。なぜ人を愛さなければならないのですか? 神様よりも先生よりも、食口をもっと愛さなければなりません。先生が願うのがそれなのです。皆さんは先生を見れば喜びますが、食口をもっと好きになりなさいというのです。先生よりも。なぜですか? 父母の願いは……。兄さんの立場にいればその弟たちを父母よりももっと愛することを、父母はもっと喜ぶのです。それが何のことか分かりますか? (はい)。それを願うというのです。
そういう立場で神様がこの地上の人類を愛してこられるので、そのように神様の代わりに多くの人を愛するために涙を流し、与えつつも不足を感じながら愛せる、こういう心を……。神様がそういう心を抱いてこられるので、歴史的な父なる神様を父母として侍って生きる私たちにおいて、皆さんは愛してからも恨みがあってはいけません。こうして最後まで与えんとしたにもかかわらず受けない時は、その次には神様の罰があるのです。そこで因縁が分かれるのです。(七〇―一六〇)
6 神様が立てた因縁の中で愛せ
私たちの因縁というのは、歴史上のすべての人々が願ったものです。そういう因縁が私たち食口という言葉の中にあるのです。
このように私たちが中心的な因縁をもって現れたので、愛することにおいて直接的な立場にあっても、その誰よりも近い立場で愛の因縁をもって愛さなければならないのです。また、間接的な立場にあっても世間のその誰よりも高い場所で愛さなければならない、というのです。
では、今日の堕落した世界でしている直接的関係の愛と、神様を中心とした間接的な関係の愛のうち、どちらが高くなければならないのかというときに、世間を中心にした直接的な愛よりも、今日間接的な愛でなされた私たちの基準が低くてはいけないのです。もしも低いというときは、高めなければならないのです。ですからこういう因縁が始まるようになると、その誰もがこの場所を慕わざるを得ないし、この因縁と関係を尊重せずにはいられないのです。
では、ここで私たちは何をすべきであり、何を学ぶべきなのでしょうか? 人類を愛せる方法を学ばなければならないのです。今日私たちは、世間的に見れば天と因縁もなく、関係も結ばないかのように見えるかもしれませんが、神様を中心にして因縁と関係が結ばれた私たちとしては、神様が人類を愛したいと思われるその愛を実現させなければなりません。
そのためには皆さん自身が食口という名前のもとで、互いに愛することが、民族を愛する以上にならなければならず、しいては世界を愛する以上にならなければなりません。もう一度言うと、愛を中心として世界的な愛の土台と環境を成す立場で愛さなければならないのです。こういう点から見るとき、皆さんが一人の食口の生命をどれほど尊重するかが問題です。
堕落した世界の食口の間にも、困難なことがある時には自分のすべてのものをささげて協助するが、私たちにそれ以上の因縁、それ以上の関係が発見されないなら、今後堕落した世間に吸収される私たちの集まりとなってしまうのです。神様がそれほど望む愛の因縁を、広げられる足場となれないことを知らなければなりません。
こういう点から見るとき、私たち教会の責任を負った人々は、明確な観が立っていなければなりません。そうでないと、全体に及ぼす影響が大きいことを知らなければなりません。そして、企業体や教会に責任を負った人々も、いつも公的な心、すなわち愛の心をもって神様が立てたその因縁の中で愛せなければなりません。公的な法度に従って、自分のためにするごとく、食口のためにしなければなりません。また、責任者の立場で自分が自分を認定する以上に、自分の所に所属するすべての人を愛さなければなりません。その基準が今日、サタン世界のどんな因縁よりも高くなければなりません。そうならなくては、私たちが願う天国は成され得ないのです。(二五―二八六)
第七節 成約時代と侍る生活
第七節 成約時代と侍る生活
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一 成約時代とは1 成約時代とは何か
神様は六千年の歴史の中で、三段階にわたり救いの摂理をしてこられたのです。僕の時代の旧約時代と、養子の時代の新約時代を経て、成約時代を迎えたのです。成約時代には、子女が現れて、父母の位置を準備し、父母に侍らなければなりません。今まで神様は、このような復帰摂理をしてこられました。(一六―一七八)
成約時代とは何でしょうか? 地上において家庭を中心とし、父母の愛を中心として理想世界に行く、サタンの讒訴し得ない新しい世界に前進する過程が、成約時代です。成約時代は、原理的に見て、責任分担を完成した父母圏をいうのです。約束とは何かというと、責任分担です。責任分担の約束が未完成なのが、堕落なのです。旧約というのは、昔の約束です。新約は新しい約束で、今、成約は、約束を成すという時なのです。成すということは、世界の万民が責任分担を完遂することです。責任分担を完了するのです。(一三一―九八)
完成時代、成約時代とは何でしょうか。父母の愛を中心としてアベルと一つとなって、アベルと兄弟が一つとなって、カインを屈伏させることです。カインが屈伏しなかったのは、父母がいなかったからです。それで、そのような惨事が起こったのです。アベルを憎んだのも、父母がいないから憎んだのであり、父母を中心としてアベルと一つになるようになれば、カインが順応するというのです。(一三一―七五)
歴史を見れば、旧約時代は、神様の人を探すための時代であり、新約時代は、成約時代の父母を迎えるための犠牲の時代であり、今成約時代は、真の父母を中心として、神様に侍るため、神様を解放するための犠牲の時代なのです。ですから、今日統一教会は、白十字架を見せるのです。父母様が十字架を負っていくのです。人間が長成期完成級で堕落したため、三段階の一段階を残した完成級というこの圏内で、先生は二十年間蕩減の道を、再び上っていかなければならないのです。(一三六―三〇七)
私は、旧約時代のすべての祭物の復活体と共におり、新約時代のイエス様の体の復活体と共におり、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体になったといって行く時に、天地はすべて私にぞろぞろついて回り、みな注目するのです。「あー私を気に入ってくれて気持ちがいい、私は幸福だ。悪口を言うなら言え、しゃべるならしゃべれ、どこにでも行く」、というのです。難しい道も行き、迫害の道も行く、私の幸福のために行くというのです。ですから、勝利者になればどんなにいいでしょうか。(一〇七―二一六)
2 成約時代は愛の時代
今日、私たちは、神様を希望の主人公として眺めており、信仰の主人公として眺めています。また愛の主人公として眺めています。この希望と信仰と愛の主人公としておられる神様は、人間をして歴史過程で希望を身代わりした旧約時代、信仰を身代わりした新約時代を経るようにされたのですから、これからは愛を身代わりした成約時代を経なければならないのです。
それでは、そのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変な一つの中心要素として残れるものとは何でしょうか。それは、神様の愛なのです。それは、全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなるのです。(一―九〇)
旧約時代は民を探す時であり、新約時代は子女を探す時であり、成約時代は父母を探す時です。それで新約時代から家庭を探す時代だったので、イエス様は愛を紹介されたのであり、愛の道理を立てておかれたのです。(五―一二一)
神様が最後に願われるのは何でしょうか。まずは、神様の愛を中心として、個体と個体同士が合わさった一つの家庭を探すことです。さらに、神様が愛することのできるその家庭を中心として、展開される氏族を探し、民族と世界を探そうというのです。これが、神様の全体的み旨なのです。
そのため、今日私たちは、私たち自身の希望の時、あるいは、信仰の時が過ぎる前に、希望と信仰をすべて探し立てなければならないのです。私たちの一つの個体が、六千年の間、神様が摂理された全体を結実した姿、すなわち、完全なアダム・エバの一つの姿を装えなければならないのです。それで神様の愛を中心とした新しい家庭を形成しなければならないという事実を、皆さんも知らなければなりません。
イエス様も、神の国を約束され、この地に来られましたが、そのみ旨を、すべては成せずに行かれました。過去に来て行った多くの預言者、先烈たちも天を証しましたが、そのみ旨をすべては成就できずに行きました。したがって、そのすべての歴史的希望と信仰で探してきた天国、すなわち、勝利の園を探さなければならない今日の私たちなのです。それでは今日、皆さんは何をしなければならないのでしょうか。神様が喜ぶ個体を探して、神様が喜ぶ家庭を探さなければなりません。ところで、その家庭を探そうとすれば、真の父母を探さなければならず、真の夫婦、真の兄弟を探さなければなりません。
これを探すための、神様の復帰摂理歴史なのです。そのため、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。これからは愛を象徴する時代が来ますが、その時代を「成約時代」と言うことができます。それで、そのような因縁が天上から地上世界にまで広がっているのです。(五―一一〇)
成約時代は、愛の時代です。そのため、結婚できるのです。今まで宗教に対し、愛の時代を許さなかったので……。高次的な宗教は結婚を許さなかったということを知らなければなりません。(九六―一一七)
3 侍ることにより救われる時代
堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは考えだけではなく、事実です。今日の環境的な事実が、霊的に見ればそのようになっているというのです。なぜ信じなければならないのでしょうか? アダムが堕落したのは信じることができなかったからです。信じることができず、行うことができなかったので、天に侍ることができなかったのです。これが三大条件です。行義の時代・旧約時代、信義の時代・新約時代、侍義の時代・成約時代というのはアダム自身、行けなかった道です。アダム自身が堕落することによって、サタンの支配圏の中に入ったために、アダムが本来いなければならないその位置を、歴史的に探していかなければならないことは、不可避的なことなのです。ですから、蕩減条件を私たちが再現させて、勝利的条件を立てなければ、本来のアダムの位置に戻ることはできません。
行いの義や、信仰の義や、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義がなければ、善悪を分別することができないのです。悪なる世界と善なる世界が分かれないのです。そのライチャスネス・スタンダード・ポイント(righteousness standard point:善の中心点)とは何かというのです。それが何かといえば、神様なのです。神様が信じるように、神様が行うように、神様が侍るように、いつも神様が中心にならなければならないのです。
それは、なぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは、神様のように義なる人には、讒訴することができないというのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する、侍る環境に処していれば、サタンが干渉することはできません。いつも、サタン圏内にいたとしても、それと同じような環境ができれば、その環境に神様と共にいることのできる義なる基準ができれば、サタンはそこから後退するのです。
だからといって、行いの旧約時代が過ぎ、信仰の新約時代が過ぎて、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代にも信仰が必要であり、新約時代にも行いが必要であり、侍る生活もすべて必要であるというのです。成約時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、みな必要です。それは、蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じことなのです。それは、離そうとしても離すことのできないものです。
今、特別に侍義というのは、生活化、天国時代をいうゆえなのです。それで侍義を持ち出してきたのです。復帰歴史とは何かといえば、神様の創造理想を再現することなのです。(一六一―二一八)
主がこの地に来られた目的は何でしょうか。地上に天国を成すためです。天国はどのようなところでしょうか。侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行くところなので、侍るための準備と、侍る生活を、万宇宙に永遠に誇ることのできる世界が天国なのです。(八―三〇七)
今日、私たちは、「侍ることによって救いを得る」と言っています。そうであるならば皆さんは、実際に父母に侍らなければなりません。どんな悲しみと苦痛がついて回るとしても、神様が記憶なさることのできる条件をつくらなければなりません。小さい条件であっても、神様がお喜びになることのできる条件をつくらなければなりません。(一三―三一〇)
4 成約時代とは聖徒たちの祭物時代だ
この恨みのこもった六千年の歴史過程は、どうやって続いてきたのでしょうか。
神様とサタンと人間を中心として、どういう条件を立ててきたのかということですが、これが正に祭物の峠なのです。六千年の摂理を回顧してみるとき、旧約時代は万物を通して祭物の峠を越え、新約時代には、イエス・キリストの実体を通して祭物の峠を越えてきました。
それでは来るべき成約時代は、何を基準として祭物の峠を越えるのでしょうか。聖徒たち、つまり皆さん自体を通して越えていくようになるのです。
このように、全体的な摂理歴史が祭物を中心として成就するのを見ると、旧約時代は万物を通して祭物の峠を越えなければならなかったし、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければならなかったことを知ることができます。ところで、成約時代である今は、新郎新婦の名を身代わりすることのできる皆さん自身を条件として、祭物の峠を越えなければなりません。皆さんが祭物の峠を越える以前には、この地上に真なる平和と自由と理想の世界は成されないのです。(二―一一一)
旧約時代は万物を条件として祭物の峠を越えましたし、新約時代はイエス様を信ずることによって祭物の峠を越えましたが、成約時代は、個人が祭物の峠を越えなければならないので、皆さん自身が六千年祭物歴史を身代わりすることができなければならないのです。すなわち、皆さんが父の前に立つことを願うならば、皆さん自身が所有している物質と、愛する息子、娘と、妻とあなた方自身までも合わせて、一つの祭物としてささげなければなりません。このような道を経てこそ、皆さんは歴史的祭物の峠を越えることができ、そうしたあとでこそ初めて神様との関係を結ぶことができるということを、確実に知らなければなりません。(二―一一八)
二 侍る生活
二 侍る生活
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1 侍る生活開始の日時この日から、侍る生活をしなさい。(一九六〇・陰一〇・一 第一回子女の日)
2 侍る生活の目的
侍る生活をしようとすれば、まず最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的はどこにあるのでしょうか。結局、自分が良くなるためなのです。良くなるためにはどうすればいいでしょうか。神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けなければ、どんなに外的に自分が良くなるように努力したところで、神様の愛がとどまる人間になれずに、良くなることはできないのです。
今日まで統一教会は迫害の中で、本当に難しい道を歩んできましたが、今まで滅びずに発展してきたということは、神様のみ旨の中にあり、そのため神様の愛を受けることのできる立場にあったからです。神様の愛を受ける団体や人は、神様が保護されるというのです。そうでしょう? 皆さん、そうではないですか。愛する子供のことは、父母はいつも、たとえ子供が親のことを考えなくても考えているものです。この世でもそうではないですか。夫婦なら夫婦同士だけでも、愛する妻や夫に対しては、その当事者が知らなくても考えてあげ、幸福を祈ってあげ、あるいは助けてあげる道をみな行ってあげようとするのです。このことは、夫婦たちの愛により因縁をもっていることを私たちが知るようになるのです。
国に対してもそうだというのです。国に対して愛する心があるとき、国を愛するその心に感動を受け、その国民がその愛を通して恵みを受けるようになるのです。ですからその国においては、すべての国民が愛国者になることを願わなければなりません。愛国者が多くなれば、その国は栄えるのです。それはなぜかというと、神様の愛によって一国のすべての存在物が、神様の愛の中で、保護を受けて生まれるからです。
ですから神様の前に、さらに愛を受ける存在の前には、我知らず引かれていくというのです。人も引かれていき、お金も引かれていき、すべての万有の存在が引かれていくのです。もちろん、この実体世界もそうですが、霊的世界も引かれていくというのです。そのため、少しずつ少しずつ、神様の愛を多く受ければ受けるほど大きくなることによって、それは自動的に一つの中心的な個人になることができるのであり、団体になることができるのです。また国民を通して愛を受けることのできるそのような基盤を築いたなら、世界を動かすことのできる一つの国家になるというのです。
これが原則ですから、皆さんは侍る生活をしなければならないというのです。ですから、侍る生活をなぜしなければならないかという問題を見るとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですから、神様にまず侍らなければなりません。神様に侍らなければならないというのです。(七八―三〇)
3 侍る生活は精誠を尽くして真の父母と一つになること
神様の愛を受けようとすれば、どうしなければならないのでしょうか。神様が、私たち人間に完全な愛をもってきてくださったほど、私たちが完全な何かを投入しなければならないのです。「至誠ならば感天」という我が韓国の格言もありますが、真にそれは天理に通じたものです。「精誠をすべてささげる」という、その精誠をささげるそこには、内外を尽くすということです。また、言行心事とすべての実践、内外のすべての、私たちの良心生活圏までも、すべて合わせてささげるということです。それが精誠だというのです。「精」は精神をいうのです。「誠」は、み言の言偏に成すと書くのです。ですから内外すべてを成して、ささげるという意味なのです。そうなればこそ感天なのです。天が感動するのです。天が感動することによってどうなるのでしょうか。その人を考え、考えるだけでなく、いつもとどまるようになれば、そこには愛がやって来るのです。すべての考えがそこにとどまるようになる時、愛がここに連結されるようになるのです。皆さん、そうでしょう? 考えが行く所に人の心は行くものなのです。
ですから精誠をささげる立場に立てば、神様の愛を受けられるのです。このようになるのです。神様が私たち人間を愛してくださるように、皆さんが神様のために精誠を尽くしてすべてのものをささげるならば、神様の愛を初めて感じることによって、神様を愛することができるのです。
本来堕落したので、皆さん自身は神様を愛することはできないのです。ですから、神様のために精誠をささげることによって神様の愛が私に訪れてくるのであり、その愛を通して神様を知り、神様を愛することができるようになるのです。愛の根本は神様なのです。(七八―三一)
私たちがこの愛の歴史を詰めて考えてみれば、愛は神様から出発しましたが、それが出発してどこに移っていったかという問題を前にしてみるとき、昔、アダム・エバの時代を考えてみるならば、アダムに移っていったのです。アダムを通して愛の歴史は連結されてきたのです。神の愛は父親を通して連結されてきたということなのです。その次にその愛は、父親を通し、母親を通して移るようになります。こうして母と父の愛が合わさって実を結ぶようになります。二人が一つになることにより、本来の神様の対象的な深い愛を、そこにもつことができるというのです。
二人が、夫婦がお互いに愛を授け受けすることのできるその場において、初めて第二の愛の主人公になることができるというのが原理観です。第一の愛の主人公は神様ですが、第二の愛の主人公は、必ずアダム・エバが一つになることにより父母になるところから始まるのです。ですから父母とは何かといえば、愛の第二の主人公だというのです。
そのように愛の歴史は神様から父母を通して子息に及んでくるのです。これが本来の愛の由来となった伝統的歴史というものなのです。(七八―三二)
私たちは侍ることを待ち焦がれています。誰に侍ることを願うのですか。来られる主に侍り、さらにその主が侍る父に侍って生きることを願うのです。それが私たち人類の願いなのです。救いというものも、この基準を通さなければなりません。(八―二九三)
今日、我々統一教会は神様の愛を受けるために信仰していますが、どういうふうに信じなければならないかというのです。どのように信じなければならないのでしょうか? それは神様の愛を中心として、第二次的にこの愛の主人と同じ立場で、霊肉完成的基盤の上に立ったのが真の父母ならば、真の父母を中心として至誠を尽くす道しかないという結論に至るのです。この生活が何かといえば、統一教会でいう侍る生活だというのです。(七八―三四)
神様の愛はどこから来るのでしょうか。それが来る方法はほかでもありません。父母様のために至誠をささげ、神様のために至誠をささげることなのです。神様のために至誠をささげ、父母様のために至誠をささげたならば、漠然としていますが、平面的に運勢が動くので、すべての面で、さっと直感的に悟ることが多いというのです。(七八―四三)
侍る生活とはどういう生活でしょうか。至誠を尽くす生活です。昔は、霊的に神様に対して精誠をささげましたが、今日は実体的な父母の前に孝を尽くすのです。その至誠を尽くす道が、国に対して忠誠を尽くす始まりであり、これがこの万民に対して万国を代表した聖賢たちがしたことなのです。
ですから、今日この地上に平面的立場で父母に侍って、一つの孝を尽くしたというその事実は、国の忠臣の道理を受け継ぐことができ、世界の聖人の道理を受け継ぐことのできる価値あることなのです。ですから神様の前に、あるいは真の父母の前に孝子の名をもち、孝子の公認を受けるということは、このように偉大で驚くべきことなのです。その位置に立つようになればイエス様もうらやましがることでしょうし、今までの歴史上のどのような道主もうらやましがるということを、皆さんは知らなければなりません。分かりましたか、何の話か。(はい)。(七八―三五)
侍る生活は遠い所にあるのではないのです。神様の愛の役事は、父と母を通して、これが一つになれば、第二の愛の主体として現れるのです。この主体を通して一つとなっていたならば、堕落はなかったことでしょうが、これが壊れたのです。それで、これを再現させるための真の父母の愛を中心として、対象的横的基盤を拡大させることが統一教会の復帰歴史です。このような生活舞台を整えてこそ、皆さんが地上で天国実現が可能であることを知らなければなりません。
天国は、何でもありません。神様に侍り、父母様に侍りながら、愛を受けて生きることであり、それ以上のことがあるでしょうか。違いますか。神様に侍り、父母様に侍り、その次には何でしょうか。互いに愛し合えればいいでしょう……。それが天国なのです。ほかでもないのです。
皆さんがこれを中心として、夫と妻に適用し、同僚との間にも、この愛を適用しなければなりません。私が父母様に会いたいのと同じように、父母は自分の兄弟を自分よりもっと愛してあげることを願います。それだけ知っていればいいのです。事実そうだというのです。自分の父母に対し孝行したいといいながら、兄弟同士争うようになれば、その孝行は成立しないのです。ですから、父母の心は、自分が尽くされるよりも兄弟同士もっと「ためにしてあげる」ことを願うというのです。父母を顧みなかったとしても、「母さん、ちょっと待って、僕、弟を愛してくるから」と言えば、「この子、これから役立つ子だ」と言うのです。そうでしょう?
それと同じく、兄弟を父母以上に愛そうという人は、天国の境界線の中に永遠に住むことができる人です。兄弟を父母と同じように愛せない人は、ここから外れるのです。これは簡単です。その道理の根本を悟らせてみれば簡単です。それが分からなくて今までできなかったのです。それを皆さん知って、私たち食口同士一つになれるのかなれないのかが問題なのです。父母の前に孝行できない、そんな立場に立ったなら、父母のために精誠を尽くせない分、父母の代わりに食口のために与えなさいというのです。そうすれば、父母に孝行した以上のこととして、天は受けてくださるのです。そんな人は必ず祝福されるというのです。(七八―四一)
4 侍ることの心の持ち方
皆さん、侍義時代とは何でしょうか。(侍る生活をする時代です)。
皆さん、今は示威(デモ)の時代ですか、侍義の時代ですか? ところで最近、デモをする人たちが多いです。だからといって、侍義なのか示威なのか、訳もなくぼんやりしないでください。
皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活において正確な中心を置かなければなりません。神様に侍る所には、法度があります。その法度に外れる時には、神様はとても怒られる方です。子を愛する父母が、子の言葉一つによって胸に釘を打たれたり抜けたりするのと同じく、神様も人間を愛しておられるので、怒りの多い方なのです。ですからちょっと間違えば、神様の怒りを買うことになります。ですから、先生も先生なりに神様を喜ばせようとしているのです。服を着るときにも、うまく着ないといけません。先生も服をうまく着ている人を見ると気分が良いのです。ですから先生も、そうでなくてはいけないと考えてスーツを着てきたのです。そうでなければジャンパーを着てきたことでしょう。(一七―二八七)
私たちが神様に侍るための初めの一歩は、耐えることです。誰のために耐え忍ぶのですか? 全体のために耐え忍ばなければなりません。全体目的のために中心的思想をもって、それが成るまで耐え忍ぶのです。そこに不平不満は同居することができません。そのようにするところから、神の国と天の基盤が広がっていくのです。(四四―一八)
不平を言ってはいけないのです。不満をもってはいけません。自分を考えてはいけません。自己所有、自分を愛する観念を立てては駄目です。神様を考えながら、耐えて消化させて、自分が不平を言う前に「私が不平を言えば、父母様はどんなに心痛いだろうか! その方の事情を私が知り、その方の伝統を引き継ぐことのできる瞬間が私の前にやって来たなら、それを引き継ぎ、その方に従いながら、その方を慰めてさしあげよう」という心をもつのです。そうすれば、涙のにじむその場に天が共にあられるのです。間違いないのです。自分のために泣くのではありません。その方がどれほど悲惨であったのかを考えながら涙をにじませるその場に、天が共にあるのです。自分を中心とした涙には神様は共にいてくださいません。神様のために泣き、父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活だということを皆さんは知らなければなりません。分かりましたか? それを皆さんの後孫に……。(一一四―二八一)
皆さんがお父様に侍る時が来たならどうしますか? どのように孝行しますか? そしてどのような姿でお父様に侍るのかを考えなければなりません。お父様とどの川辺で会うことができるでしょう! どんな所で会えるでしょう!
皆さんが遠い山里に入って生活するようになれば、統一教会の食口たちが訪ねてきてくれればと切に願うようになり、また、食口の中の誰かがどこか悪いのではないかと心配するようになります。そして自分と一番近い食口を迎えたらいいのに、また先生を迎えられれば、地区長を迎えられれば、地域長を迎えられればいいのに、という慕う心がなければなりません。
毎日のように慕わない人は、神様に侍ることはできません。皆さんはそれを知らなければなりません。誰を慕うにしても、いつも慕う心が染みていなければなりません。ところで、夜十二時にさえなれば「おい、寝よう」という人は、神様に心配をかける人です。天国には夜昼はありません。心情の因縁を抱いてくるとき夜が問題ではないということです。人から反対され、迫害を受けている言葉を聞けば、その人よりもっと憤慨し、心を痛め、褒められている人を見れば、その人を地域長や地区長に報告して、誇ることができなければなりません。全部報告して、誇りたい心を、皆さんがもたなければなりません。
ですから、慕う心がない人は侍る生活のできない人です。慕う心、すなわち本部を慕い、地区を慕い、地域を慕い、教会を慕い、食口を慕い、兄弟を慕わなければなりません。そのような心をもって生活する人は、絶対に寂しくないというのです。
それで、その人によって必ず繁殖が起こるのです。そのような基準のもとで教会を建てれば、それは正常な教会です。それではあなたたちの教会はどうですか。全部冷え冷えしているというのです。このような慕わしい心が基盤になっていなければ、皆さんが写真でも見ながら、独り言で慰労できなければなりません。言葉なく編まれた事情は、もっと素晴らしいものです。そうすれば、お父様が、その間に流された涙が、一つの感情で溶けていくのです。皆さん、そのようにやってみましたか?
その流れる涙の中で、天に通ずることのできる感情が生まれるのです。涙を流しながら父を呼ぶとき、その声はどこに行くのでしょうか? 食口たちの難しい姿を見るとき、そのことは人ごとではありません。(一七―二九三)
人間において、神様を愛することが最初の戒めですが、愛するときには死ぬほど愛さねばなりませんか、一時的に愛さねばなりませんか? (死ぬほど愛さなければなりません)。では皆さんは神様を死ぬほど愛しますか、死ぬほど愛しませんか? (愛します)。よし、死ぬほど愛するという人は手を挙げてください。雷に当たって死んだとしても愛さなければなりません。神様を死ぬほど愛さねばならないというのです。それでは死ぬほど愛さねばならないとすれば、死ぬ前まではできないことがないというのです。
皆さん、白頭山の頂上に登ってそこにある磐石を耕し畑を切り開いたのち、じゃがいもを植えて、そのじゃがいもで神様を奉養することができますか? しますか、しませんか? (します)。それをしなければなりません。その時は、牛がいなくて愛する妻を牛のようにして畑を切り開いたなら、雷を受けるでしょうか、受けないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を切り開こうとする時、神様が「おお、やめろ」と言われたならしますか? 汝の心を尽くして、汝の意を尽くして、汝の精誠を尽くせと語られましたが、そのようにしますか? (します)。(三七―二五)
5 侍る生活の態度
皆さんは侍義の生活をしなければなりません。朝、寝床から起きて最初の言葉を天の前にささげ、家を出る時も、第一歩を右足から踏み出して天の前にささげなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になることができます。このような観点で皆さんは、原則的基準から生活態度を取っていかなければなりません。(一七―二九六)
皆さんが考える神様に対する侍る生活は、どうしなければなりませんか? 侍る生活をどうしなければならないかというのです。神様を私と一体と考え、真の父母を一体と考え、生活すべてを……。ここに私が住んだなら「このすべてのものが神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは、真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば、私のものだ」このような観念をもたなければなりません。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国も世界も真の父母のものだから、私は真の父母の息子なので、すべてのものは私のものだという結論が出てくるのです。
ムーニーは違わなければなりません。先生が便所に行けば、ぐるぐる巻かれたそれ(トイレットペーパー)も三回、四回以上ちぎりません。君たちはただむちゃくちゃちぎるだけだというのにです。できるだけ三十センチ以上はちぎりません。切るときには、それ以上は駄目なのです。アメリカ人の中では誰よりも少なく切って使うと思います。(笑い) 神様の前に、「こらこいつ、恥ずかしくないのか?」そんな叱責を受けないようにするのです。それがどれほど世界に利益になり、どれほど革命が起こるか分かりません。
もし仕事をして賃金をもらうとしても、他人よりも仕事をもっとして同じ賃金を受けなければなりません。少しして同じ賃金をもらおうとは考えないのです。違うのです。既に違うのですね。反対にさっと展開するのです。霊界に行って大きなものを受けようと思えば、地上では反対に小さなものにも神経を使わなければなりません。これが(黒板に書かれながら話される)延長線です。普通の人々はこの延長線の外に出るのですが、私たちはこれだけ受けようということです。霊界では地上で少し受けた人であるほど、たくさん犠牲になった人であるほど多くを受けるのです。反対になっているのです。分かりましたか? (はい)。この世の人ならばいい服をずらっと掛けておけば、みんなが駆け出していっていいものを持っていきますが、統一教会の輩たちは、みな持っていったのち、最後に……。考えが違います。
ですから天も良く思いますが、この世の人たちも良心をもっている人は良く思うのです。この教育は特別に黒人に必要です。白人に対して負けないように、白人以上にもっと努力して……。そうしたなら、誰が嫌いますか? どこの道を行ったとしても、人のものが落ちていたなら誰が見ようが見まいが当然取って、持ち主を捜してあげなければなりません。既に天を認識した人は違うというのです。
私たちは神様に侍り、父母様に侍っていくのです。話してもそうであり、行動してもそうであり、寝ても覚めても、そのような生活をしなければなりません。このようなコンセプト(concept:概念)だけをもてば、二十四時間サタンが侵犯できるところは一つもありません。アメリカが私に反対しましたが、それはサタンが反対したことであり、アメリカ自体が反対したのではありません。どんなにサタンが妨害しても、私が教えることが正しいということになった時は、アメリカの国民は私について来るようになっていると考えるのです。そのようなコンセプトをもっていますか?
ここに服があれば、自分の服だと思ってはいけません。これは神様の服であり、父母様の服であり、私たちの兄弟の服を代表で着るのだと考えなさい。自慢することはできません。食べるものもそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟がくれた御飯だというのです。御飯をよく食べて、「ああ、気分がいい」という私ではいけません。先生はそう考えます。よく食べたなら済まなくて、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間飢えている人もあるだろうにどれほど苦労したろうか、私が代表して食べたので代表的に仕事をすることのできる責任をもっとしなければならない」と考えるのです。先生がそのように考えるので、苦労した人が不平を言わず従ってくるのです。十年二十年、一生を先生に従ってきても嫌にならないのは、先生がそんな生活をするからです。このような人がすることは失敗するようですが、必ず成功するのです。見なさい。先生は多くの迫害を受けながらも四十年間、歴史にないことをたくさんしてきたのです。
さあどれを取りますか? サタンが好きなものを取りますか、神様が好きなものを取りますか? (神様が好きなものです)。どちら側で生きますか? サタンの側で生きますか、神様の側で生きますか? (神様の側)。生活自体をそのようにしなければなりません。仕事をしに職場に行っても、父母様と共にあるのだと考えなさい。神様と共にしているのだと考えなさい。
そしてまた、これからすべての人々を教えてあげる伝統を立てて、模範になるよう仕事をするのだと、そのように考えなければなりません。そのような人はサタンが侵入できますか、できませんか? (できません)。それがなくなれば、一遍にサタンの干渉圏の中に入ってしまいます。
それで侍義生活と天国生活をするのに、天国があれば救援完成がなされるのです。皆さんに突然「お前は何を考えているのか」と聞けば「神様! 真の父母様! 真の子女! 真の国家!」と我知らず答えられるようでなければなりません。そのために手足を動かし、そのために体を動かし、そのために食べて生きるのだというのです。(一六一―二三一)
皆さんは神様に侍る者として、皆さんが喜んでいる時、どれほど神様を喜ばせましたか? 皆さんが空腹の時、御飯を食べながら感じる有り難さ以上に神様に侍らなければならないのです。
皆さんは、いいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や困難な時も、いつも神様に侍らなければなりません。ですから神様の心に記憶されることのできる内容を残しておかなければなりません。(一七―二九一)
心情の世界では物をもって通じるものではありません。心で通じるものなのです。いつも感謝する心で、目上の人が悲しい時、共に悲しむことができ、うれしい時、共に喜ぶことのできる因縁をもって通じるのです。そのように生きる人間に、神様が共におられるのです。それで彼が悲しむ時、神様も悲しみ、彼が喜ぶ時、神様も喜ばれるのです。ですから皆さんがこのような段階を経ずに地区長に対し、地域長に対してはいけないのです。
侍ることにおいては段階があるのです。そのため統一教会の教会員になったとしたなら、誰でも七年路程を経なければなりません。すなわち七年路程は侍る生活に対する準備の過程として、堕落した人間たちに絶対的な過程として残っているのです。
にもかかわらず、七年路程に関して多くの人は知らずにいます。すべて忘れてしまいました。皆さんはどうですか? 「七年路程が何だ? どうってことないさ」このように考えてはいけません。そのために、家庭でいうならば、二人が生きているとするならば、四人が生きるような生活をしなければなりません。すなわち、父母に侍らなければならないのです。しかし、父母だけに侍ってはいけません。さらに、その息子にまで侍らなければならないのです。分かりますか? ですから、皆さん自身が四位基台を復帰するために父母だけに侍っては駄目なのです。必ずその息子にまで侍らなければなりません。このようにして皆さんのすべての精誠を彼の前に連結させなければなりません。そうなれば、外的な面では二人が生きますが、内的な面ではあたかも四人、五人の生活基台になるのです。
父母に侍るには三年間侍らねばなりません。なぜ三年でしょうか? 三数過程を一遍に復帰するためなのです。そのため皆さんが家庭を中心として生活するようになる時は、先生はいつという予告なしに皆さんが住む家を訪問したとしても、先生が寝る部屋がなければなりません。部屋がなければ席だけでもなければなりません。その場所は精誠をささげる場でなければなりません。ですからその席を中心として一部屋でもいつも精誠をささげる場所をつくっておかなければならないのです。そのようにして父母に侍ることのできるその日が来たなら、服を着るにも準備した服を着、履物を履くにも準備した履物を履き、きれいにして侍る準備をしなければなりません。ほうきを持って庭をはくとしても、もう一度はかなければなりません。そして父母を千回万回、回想しなければなりません。皆さん、そのようにしてみましたか? 生きている教会になるためには、みなそうでなければなりません。教会にはお父様が来られて祈祷することのできる場所がなければならないのです。普段から心情のろうそくをつけておいて精誠をささげなければなりません。(一七―二九一)
6 天国とは心情で侍った者が行く所
天国という所は、心情で通じなければ行けないということを皆さんは知っていることでしょう。天国は全体を主管することができる本然の国であり、本性の国だというのです。その国はある事情をもっては所有することができません。深く浸み込んだ心情の因縁を整えてこそ所有できる国です。ですからキリスト教は究極的に、事情を通ずる教会ではなく、心情を通ずる教会です。事情を越えて心情を歌うことのできる基盤を築くところに、地に対して摂理される天の目的があるのです。
堕落とは何でしょうか? 神様の事情を語れないのではなく心情を語れないのが堕落なのです。堕落した人間を探しこられた神様は、失われた息子、娘に対する心情をもっていますが、その心情を分かつことのできる人がいないので、その人たちを探し立てる役事をされます。それが摂理歴史であり、その人たちを探し立てるために送られた者が、救世主だということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
私たちは、天国を願う前に神様の心情を願わなければならず、また神様の心情を願う前に、私自身はどのように生きていかなければならないかを考えなければなりません。皆さん自身は、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を垂れて慕うのが人間の本性です。私たち人間は堕落したとはいえ、高く貴い天の心情に対して侍りたいというのが、私たち造られた人間の本然の心情です。それゆえに、心情が通じることのできる侍る生活をできなかった者は、天国と何らの因縁もないということをはっきりと知らなければなりません。
ところで、侍るためには侍ることのできる準備が必要です。その準備過程を経たあとは、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経たのちに行く所が天国なのです。心情から侍った人が行く所が天国なのです。侍ることのできる準備と侍る生活を褒めたたえ、高く現す世界が天国です。これを皆さんははっきり知らなければなりません。私たちはこのような目的の世界に向かっていく過程を経なければならない運命におかれているのです。
堕落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったでしょうか? ないのです。堕落しなかった私たちの先祖アダム・エバは創造理念を通して育ったのですが、心情の因縁を立てておいて神様に侍ってみた時間がなかったのです。
神様の恨みとは何でしょうか? 心情を中心として神様に侍らなければならない人間が、侍ることのできない位置に落ちたことであり、心情を中心として侍られなければならない神様が侍られなかったということです。信じる者がいないことが恨みなのでなく、神様を知っている者がいないのが恨みなのではありません。心情を通して神様に侍り、心情を通して神様に対することのできる人がいないということが天と地の恨みだということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。(八―二九〇)
天国とはどのような所なのでしょうか? 準備したことを誇る所であり、侍る生活をしたことを誇る所です。それでは天国はどのような人が行く所なのでしょうか。主を信じ福を受けるために、福を前に立てていく者が行く所なのでしょうか? 違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して喜んで行くことのできる者が行く所です。そこに復活があるのです。
侍るための準備をしたあとには、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は侍るためです。侍る生活をするためです。侍る生活はどういうふうにするのですか。皆さん、環境を探って調べてみてください。生活の内幕が表れていませんか。どのように生活するかということが、今私たちが侍る生活をする中で考えなければならない重大な問題です。
主に対する時は、このように対さなければならないという準備をしなければなりません。主に侍る準備の生活をしなければなりません。侍る時、はるか天上に行って侍るのではなく、この地上で侍る者とならねばなりません。皆さん、主に侍ってみましたか? 主の顔はどうであり、主の体はどうであり、主の鼻はどうであり、主の笑われた目はどうであり、主の声はどうであり、み言を語られる主の口はどうであり、主の手とすべての態度はどうであるか知っていますか?(八―三〇四)
皆さん! 私たちは心から泣かなければなりません。心情から泣かなければなりません。後ろを見ても涙であり、前を見ても涙であり、左右を眺めても涙であり、上下を眺めても涙です。罪なる自分のために苦労される神様を考え、自分が体の中にいるのか体が自分の中にあるのか分からないほど、自分の存在意識を忘れた立場で食べるのも忘れ、着るのも忘れ、威信と地位を忘れ去り、畏れ、平伏し、痛哭する時間がなくてはならないのです。これが新婦の路程に入っての第一の段階だということを皆さんは知らねばなりません。そのような心に徹し、そのような心情に交わり信仰の衝撃を受けられないものは、来られる主と何の関係もないということです。(八―三〇三)
私たちは知らなければなりません。何を知らねばならないのですか? 神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って何をしなければならないのですか? 神様の心情を知らなければならないのです。神様の心情を知ってからは何をしなければならないのですか? その次には神様を私の父としなければなりません。私の父、私たちの父。
私たちが、このように学び、聞き、侍る生活をするのは何のためなのでしょうか? 六千年間人類が苦しみあえいできた目的は何ですか。それは聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためなのです。民族や国家は言うまでもなく、個々人に父母の心情をもって対し、傷つき、蹂躙され、排斥され、引き裂かれてこられたその神様が私の父だということを知るためなのです。
天は待ち焦がれていらっしゃいます。この世の高価な金銀宝石や真珠を願われるのではなく、心情、心情、心情に凝りすべてのものを抱き愛して、天と共に生活する人を要求しておられるということを皆さんは知らなければなりません。
そんな心情に凝って準備する自身になったならば、皆さんの目と耳と口と体はどうしなければならないのですか? 心情を通して見、心情を通して聞き、心情を通して話し、心情を通して行動しなくてはならないのです。心情を通した因縁をもって生きなければならないというのです。心情を通ずることのできる目をもち、主と共に見ながら侍ることのできるそのひと時、心情を通して聞くことのできる耳をもって主と共に楽しむことのできるそのひと時、心情を通して話し、心情を通して行動しながら生きることのできるそのひと時を慕い、天は六千年間探しこられたというのです。
皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と因縁をもっていますか? この目は見ても心情に因縁づけられて万物を見ないといけないし、この耳は聞いても心情の因縁となって叫ぶ声を聞くことができなければならないし、この口は心情の通じることのできる言葉を話さねばならないのです。この体は心情が通じることのできる生活をしなければならない基盤ですが、まだ侍る生活の場として越えていく前の準備段階にいる私たちです。ですから皆さんが整えた心情的準備はどの程度であるかということを考えないわけにはいきません。
天は願っておられます。神様は心情の通じる万物が神様の差し伸べるみ手になでさすられるように願っておられるのです。心情の通じる子女によってすべての息子、娘が抱かれるようになることを願われるのです。心情が通じることのできる新婦たちによって、神様の主権が成ることを待ち焦がれておられます。心情が通じることのできる息子、娘の前に、この世界が主管されることを待ち焦がれておられるというのです。このことを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、ものすごいのです。
このような神様の願いが私一身だけでなく天宙まで連結されていると考える時に、私は主のものなのであり、父のものであるということを否定できません。それゆえに私の心も父のものであり、私の心情も父のものであり、私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が考え意識する全体が、心情を通じることのできる父のものであるという観が決定されねばなりません。そうならない限り、心情を通して動く天を所有することができないということをはっきり知らなければなりません。(八―二九四)
7 侍る生活の事例
先生がどこかへ行くというとき、皆さんは千里の道も遠いとは思わないでよく歩いて回ったでしょう? 三カ月前に家でよもぎ餅を作り、その餅が汚れるからと開けもしないで本部まで担いできて、先生に差し上げるのだと開いてみると、餅がすえて真っ青なカビが生えていたことがあったでしょう? そんなふうに真っ青なカビが生え、うじがわいてもいいというのです。その餅は食べられなくても億兆の金に該当するのです。そうすればするほど情が通じるということです。
また、影島に住むあるおじいさんがいました。そこからジャガルチ市場に行こうとすれば、舟に乗らなければなりません。それでそのおじいさんは、ジャガルチ市場に行くために舟に乗っていって、大きな船を見れば、「ああ、あの船に先生に乗っていただいて世界を遊覧すればどれほどいいだろうか」と思いながら、これからそうなるであろうと考えるというのです。そして新鮮な魚を見れば、その魚の尾にすがって泣きもしたというのです。そのような心が必要だというのです。
そんな環境でもそうできるということは、真の愛をもっているからです。気質的にそのようなおじいさんは、愚鈍に見える傾向があります。事理に合わない鉤のような性格をもっているというのです。
愛というものは愚鈍で愚かなものです。何の状況も分からないのです。そうではありませんか? 本当に愛したなら、横で誰が見ようと見まいと関係ないというのです。誰かが見るのを意識する愛は、限界圏の中の愛だというのです。誰が見ようと見まいと、意識しないでできるそのような境地の愛が、どれほど愚直で愚かであるかというのです。
ある時は遠い山里で掘ったトラジ(注:ききょうの根)を先生の前に持ってきて、涙を流すのです。そんなことが、霊界に行ってそのおじいさんを解放することのできる良き資料となるのです。(三三―一一三)
許孝彬集団で侍る時どれほど精誠をささげたのでしょうか? 皆さんは夢にも想像できないことをしたのです。天に侍る法度を果たすためには、どの程度精誠をささげたのでしょうか? 天の王子として、この歴史の父母として来られるその方、六千年の恨みを抱いて来られるその方、堕落した私たち後世のため、歴史的にこびりついたその方の恨みを、精誠をささげた基台で解いてさしあげねばなりません。一代で解かなければならないこのような使命を神様が教えてくださりながら、侍ること全部を教えてくださいました。ですからその集団、信じる人の家にはいついかなる時でも主が訪ねて来られれば、朝食、昼食、夕食と食事を接待してさしあげる準備をして待つということをしたのです。そこでささげた精誠は到底口では話しきれません。
また敬拝をどれだけしたのでしょうか? 三千回は普通で、七千回までしたというのです。七千回、分かりますか? 敬拝を三千回しようとすれば五時間ないし六時間かかります。七千回をしようとすれば十時間以上かかるというのです。ところで、朝から、あるいは早朝から始めて食事もせずに七千回敬拝をしながら侍る訓練をした集団が、その行くべき道をつかめず、みな崩れていったのです。
天の準備された伝統的な役事でしたが、みな流れていきました。しかし、それは天の深い内容なのですから、これから天法を中心として、私たちの後代からそのような精誠と共に神様に侍らなければなりません。このような歴史的な事実が埋葬されていたということを、皆さんは知らなければなりません。
先生自身がそのような精誠をささげて復帰の道を行ったので、皆さんが復帰の道を行くにあたっては、それより十倍、百倍の代価を払わなければならないのです。このような観点から見るとき、皆さんの血肉、細胞と骨がいつも侍る感情を忘れてはなりません。いつも神様に侍っていかなければならないのです。これが、統一教会の信徒たちがしなければならない生活であるということを皆さんは知らねばなりません。(二三―三〇一)
8 お父様の写真を持って歩きなさい
この写真は誰の写真ですか? (笑い) うん? (ファザー)。誰がファザーですか? (笑い) 悪名高い人でしょう? これは何ですか? (IDカード)。何のIDカードですか? (勝共連合のIDカード)。これを韓国で作って七百万勝共要員たちがみな持つのですか? なぜこれを作れというのかというと、この写真を持っていれば、霊界にいる祖先たちがたくさん協助できると見るのです。今の時は神様が主管できる時代に越えていくというのです。神様が主管することのできる新しい時代に越えていく時です。分かりますか? (はい)。
この写真がそのような効果をもってくるため今回も……。それではこのような写真はどうでしょうか? 霊界がこれを好むでしょうか、これを好むでしょうか? (大きい方です)。見たでしょう。霊界はこれを好むであろうに、日本人やアメリカ人はこれを好むというのです。このように違うのです。この二つの中でこれにするという人と、これにするという人と、そのくらい距離が遠いというのです。イスラエル民族がエジプトを出る時、戸口のわき柱に血を塗って禍を免れたのと同じく、写真を持っていればそんなことができるかもしれないのです。霊界では先生の写真をどれだけポケットに入れておいたとしても分かるのです。こんなに小さなものを持っていたのでは、戸口のわき柱に血を塗らなかったり、塗っていたがやめたのと同じです。どんなものにすればいいですか? (大きいのです)。(笑い)
日本人たちはそのカードを見るごとに、まごつくのです。「いったい文鮮明という人はどんな人なのか?」と言うのです。しかし日本の食口は経験したことでしょう。先生の微笑は、モナリザの微笑ほどにも神秘的なところがあるという経験をしたはずです。(笑い) ある時はこうであり、またある時はこうであり、数十万もの姿に見えるとしても、この神秘的な姿が霊界が皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を、大部分がしていると思います。どうですか? そうですか? (はい)。霊界の霊人たちはみな先生をよく知っていますが、この写真を見れば霊界が良く思うでしょうか、悪く思うでしょうか? (良く思います)。これについてきます。皆さんの先祖はこれを媒介体として連結されることができます。そのような良い材料だと知っているというのです。
これを持って歩く時は事故が起きず、どんな故障も起きないのですが、この写真を持たずに歩く時は、そんなことが即刻起きるのです。そのようなことによって、写真がどれほど貴重であるかを皆さんが悟るようになることが頻繁に起きるのです。これを愛して寝床の横において寝れば、夢が悪くないというのです。そんなことが起き得るというのです。それを信じられますか? (はい)。ドクター・ジョセフは「神様は神秘的な方法で役事される方だ」と言いましたが。(笑い) そう、先生は神秘的な人です。そうなのです。誰も私を理解することができません。どんなに研究をしてみても分からないのです。それで、レバレンド・ムーンが何ですって? (神秘的な人です)。神秘的な人! それで神様は先生について歩くのです。それが、まさしく神秘的だという言葉になるのです。
私たちは、先生が霊界との仲介人だということを習いました。一人で住んでいる女性たちが自分の夫に会いたい時に先生の顔を見れば、その会いたかった思いがなくなることもあり得るのです。(笑い) 生きている男性に対しても、そうだというのです。生きている男性も、会いたい時先生の写真を見れば、そういう思いがわかないというのです。だからといって夫と遠くなるのではなく、もっと近くなるのです。男性も同じです。
さあ、ですから、これを持つようにするのがいいですか、持たないようにするのがいいですか? (持つようにするのがいいです)。それは、思ったとおりにしなさい。ですから私が世の中にないIDカードを作るようにしたのです。世の中にないでしょう? アメリカ大統領、アメリカ国民が、アメリカ大統領の写真のあるIDカードを持っていますか? 歴史始まって以来、こんなIDカードは初めて聞き、初めて見ることでしょう。イエス様がこれを見たでしょうか? (いいえ)。これは歴史上初めてだというのです。(一三二―一九〇)
今やレバレンド・ムーンの名声は、国境を乗り越えました。至る所の為政者たちの中には、自分の書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けておいて仰いでいる人が多いということを私は知っています。尹博士も私の写真を掛けましたか? 毎日何をしていますか? あいさつしていますか? 毎日キスしますか? 熱情的でなければなりません。キスしなければなりませんね? だからといって失礼になるのではありません。「私の父や母にはキスできなかったのですが、神様の愛を身代わりして私がレバレント・ムーンの写真にキスをすることによって私の父、母、霊界に行った人たちに同参権、同位権をもてるようにするために、私が行く道についていける因縁を残すために、こうした」とすれば、神様が「ノー」とは言わないというのです。「うんよし、お前の言葉は正しい」と言うのです。どうですか、尹博士? そうしてごらんなさい? (はい、そうします)。そうしてみなさい。(一七一―二三九)
きょうからは、皆さんは先生の写真を持って歩くといいのです。そうすれば、どのような苦難に対しても、皆さんが無事に耐え抜くことができるように保護してくれるのです。旧約時代のモーセがイスラエルの民をエジプトのパロ王から脱出させ、カナンに導くため奇跡を起こした時、長子が患難に遭い、病気になり、死にましたが、羊の血を戸口のわき柱に塗った家は、その患難がすべて避けて行ったのです。霊界では、私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してあげもするのです。(一三〇―二九〇)
三 早朝敬拝
三 早朝敬拝
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聖日敬拝の時間は厳粛で貴重です。安息日は、神様の前に栄光を帰す日なのです。(二一―一七八)早朝敬拝の時間だけでも、天と直線上に立ちましょう。その時間は、本当に深刻な時間です。その時間に、一秒だけ遅れても悔い改めなさい。その時間には、聖物としてあめ一粒ずつでも準備しておいて、子供たちにわけてあげなさい。ちょうど聖餐式にするように……。(二七―八六)
日曜日に敬拝をささげる行事は、全家庭が一つの道へ行くためのものです。(一九―二六七)
早朝敬拝、精誠、礼拝時間を厳守できないで、自分の息子、娘が良くなることを願っても駄目なのです。いつも先生を中心として四位基台をなさなければならないのです。そして、ここから後孫を立てようと思えば、父母がちゃんとしなければなりません。(二一―八六)
毎日のように地区ならば地区長、地域なら地域長を中心として、本部に向かって敬拝式をしなければなりません。(三一―二七五)
先生は、朝の敬拝時間に少しだけ遅れても、その日、一日中顔を上げて歩けません。先生はそんな生活をしています。時計を見てたった一分でも遅れれば、気分を損ないます。その一日中、その一週間ずっと心が落ち着きません。そうして、次の週は早く起きて十倍百倍精誠をささげて、前の週の失敗を蕩減するのです。このように条件を立てるならば、心が平安です。私はこのように生きています。(三一―二五四)
見なさい。皆さん、朝五時に起きて敬拝をしたでしょう。(はい)。それはやりいいですか嫌いですか? 率直に答えなさい。するのが好きですか? (はい)。みんなうそです。(本当です)。仕方なくしているのです。(いいえ)。私も五時に起きるのは嫌なのに? (笑い) 私も嫌いです。率直な告白です。私も嫌いです。皆さんはそうではありませんか? (はい)。(笑い) レバレンド・ムーンも皆さんも同じです。同じなのです。(笑い)
ところで、なぜレバレンド・ムーンも嫌いなこともそのまましなければならないのでしょうか? 神様のためにそうなのです。その神様がいなければどれほどいいかというのですね。(笑い)(九一―三八)
四 私の誓いの解説
四 私の誓いの解説
P453
私たち、誓いを一度してみましょう。きょうお話しする題は何かといえば「私の誓い」です。誓いだというのです。これを説明すれば時間がかかるのでやめにして、誓いをすることができるか一度見てみましょう。今まで神様の前に誓いをした人はいなかったというのです。僕としても誓いはできずに、息子としても誓いはできませんでした。
誓いをしようとすれば、心情を通じなければなりません。神様の前に誓いをした人たちは、心情が通じると同時に、その心情が通じる人は……。
この誓いは何かといえば、真の息子、娘になるという意味の誓いです。では、みな立ちなさい。立って一度覚えてみましょう。皆さん各自が誓うのです。皆さん先ほど、み旨の前において主体になるとみな約束したので、そのような意味でもう一度誓いをするのです。
私の誓い
一、天宙の中心存在として、父の御旨(創造目的)と任せれた責任(個性完成)を全うし、喜びと栄光を帰し奉る善き子女となり、創造理想世界において永遠に父に仕え奉る真の孝子女となることを私はお誓いいたします。
二、父は六千年間供え物として十字架路程を忍ばれ、死したる私を真の子女として活かすべく、み言と人格と心情を与え一体化せしめて、天宙の相続権を与えたまわんとなさる聖なる御旨を私は受け、完全に相続することをお誓いいたします。
三、怨讐によって失われた子女と天宙を復帰せんがため、父は父母の心情を抱かれ僕の体を受肉し給い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流され、私の身代わりに歴史路程における怨讐サタン粉砕の武器を与えたまい、それらを完全に審判するまで父の性相を受け、真の子女私は敵陣に向かって勇進することをお誓いいたします。
四、父は平和と幸福と自由と理想の源泉であらせられ、父を奉る個人と家庭と社会と国家と世界と天宙は、本性の人間を通じてのみ心情一体の理想世界を完結することができ、私は真の人間となり、心情の世界において父の代身者となることによって、被造世界に平和と幸福と自由と理想をもたらし、父に喜びと満足を帰し奉る真の子女となることを私はお誓いいたします。
五、我々は神を中心とした一つの主権を誇り、一つの民を誇り、一つの国土を誇り、一つの言語と文化を誇り、一つの父母を中心とした子女となったことを誇り、一つの伝統を受け継いだ血族であることを誇り、一つの心情世界を成す役軍であることを誇り、これを実現せしめることを私はお誓いいたします。
このような義務と使命を成就せしめるため、責任をもって生命を賭けて闘うことを私は
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。
一九六二年 子女の日(旧一〇月一日)
(以上先生が先に言われ食口たちがついて言った)
座りなさい。皆さんがこんな誓いをして、そんな人間になるまで、すべての情熱を尽くして戦わねばなりません。分かりましたか? (はい)。(一五一―一七九)
皆さん、漢字を見れば意味が深いのです。誓い(盟誓)の盟という字を見れば、これは(明)日と月であり、これは(皿)さらという意味なのです。誓には続けるという意味もあり、切るという意味もあります。続けて言葉を聞くようになれば、切って宣言するという、そんな意味になります。中国式表記だといいますが、そこには説が多いのです。それを韓国人が作ったという話も歴史に残っているのです。
昔、韓国の東夷族が北京沿岸を中心とした文化民族として、中国の孔子のような人たちも韓国人をとても慕っていたのです。昔、中国において殷の時代を見れば、秦の始皇帝のような人たちも、本来韓国人だったということが歴史に出てくるのです。そんな歴史上の資料があるのです。それで先生が、今計画しているのは、中国の学者、日本の学者、韓国の学者たちを集めて、これを解明するための協会の編成です。それがこれからの課題なのです。
誓いという意味のことですが、第一に神の前に約束するという意味であり、第二には未来をおいて約束するということです。さあ、それでは、私たちには誓いの文があります。その誓いの文の最初の誓いは何かといえば、神様が宇宙を創造しましたが、創造した世界を失ったため、宇宙を失ったことをいい、二番目は息子、娘を失ったことをいい、三番目には何かといえば、神様の権限をいい、四番目には理想をいい、五番目に条目的な内容が出てくるのです。言い換えれば、三番目は何かといえば、神様の苦労、蕩減復帰路程のために苦労してきた内容です。四番目は何かといえば、私たち個人が平和の世界を建設するため家庭、氏族、民族、国家として探していかねばならない、そんな内容です。五番目には……。
きょうは主に五番目について話そうと思います。これは何でしょうか? 総論ですね。このように見たとき、私たちは、今、どのような位置に生きているのでしょうか? 一番目には、善悪の間に生きているのです。二番目には何かといえば、善神と悪神、神とサタンの間に生きているのです。三番目は何でしょう? 天地の間に生きているというのです。皆さん自身は善悪の分離点にあり、その次には、サタンと神様の中間にあり、その次には天と地の中間にあるというのです。
ですからこちらは天であり、こちらはサタンなのです。ここは天国であり、ここは地獄なのです。さあそれでは、こちらはサタンを中心として主管されています。そしてこちらは神を中心として主管されています。天と地といえば、ここには善神、悪神みな入っています。霊界を中心として、神様がいればその最高の位置を中心として善なる霊たちがグループになっていると、このように見るのです。神様がここにいれば、これを中心として四方に連結していくのです。同じなのです。サタンを中心としても同じなのです。ですからここにも境界線があるのです。ここが混合されている世界に、私たちが生きているのです。(黒板に書かれながら語られる)
さあ、それでは地獄はどこなのですか? もちろん霊界にも地獄があるのです。そんな地域的な境界もあるでしょうが、地獄はいったいどこなのでしょうか? 天国はどこなのでしょうか? また、天国なのか地獄なのか分かりませんが、その天国と地獄はどこから生まれてきたのかというのです。人がいなければ天国もなく、地獄もないのです。間違いないでしょう。人がいるので天国が始まったし、地獄が始まったのです。何のことかといえば、人のためにできたというのです。
皆さんが私たちの誓いをする時に「私たちは一つの主権を誇り」と言うでしょう? (はい)。それは言葉だけではありません。事実そうなのです。それが駄目なときは私の手で、私の力で勝ち取らねばなりません。それを知らねばなりません。今からはそんな時が来るので、このような話をするのです。そう、皆さんはどこの国の人ですか? (天国の人です)。天国の人! 言うはやすいのです。しかし行動は難しいのです。それが難しいですか、易しいですか? (難しいです)。皆さんの心に問うてみなさい。難しい道を行くことを願わなければなりません。
私たちは天の国の独立軍です。天国の独立軍です。それを知らねばなりません。宇宙歴史始まって以来の、天の国の独立軍として出動する権威を喪失しては駄目だというのです。ワシントンはどういう人ですか。ワシントンはイギリスの背信者です。国を立てられなかったなら首根っこがキーッとつられることになったでしょう、イギリスに行って。そうでしょう? (はい)。それは否定できないことです。サタン世界では、レバレンド・ムーンに対して「異端者」と言うのです。ビートレイヤー(betrayer:異端者)というのです。「お前は私の人たちを集めている」と言うのです。ワシントンがイギリスの人々を集めたように、サタン世界からそうだというのです。皆さんのお父さんやお母さんも全部私を異端者として怨讐と思っているでしょう? そうでしょう? また、皆さんの父母は「レバレンド・ムーンはギャングだ」と言っているのです。(いいえ)。今でもそうなのです。事実なのです。同じなのです。イギリスに属する国民と、父母家庭を中心としてアメリカをつくるということと同じです。全く同じです。天の側から見てみれば、米国は来たる主がされることを身代わりするため、神様が保護してこのように独立国家となり、世界的な国になったという事実を知らなければなりません。米国の国民に、全部天の国が独立することのできる伝統を教えるために、それを認定したというのです。米国の伝統を大切にする米国青年を通して、神の国の主権を探すための独立軍を探すため、そうだというのです。それは悪いですか?
ですから、神様の主権を探すため独立軍が出動して、闘争する戦争の一線の舞台に立ったのがレバレンド・ムーンであり、ムーニーたちです。そのムーニーに反対すれば、歴史的な独立とすべてのことに反対する逆賊になるだろうというのです。分かりますか? (はい)。皆さんは独立軍であるということを知らなければなりません。私がたとえ銃や剣は与えなかったとしても、レバレンド・ムーンのみ言が剣であり、愛の原子爆弾だと考えなさい。愛の原子反応が広がり、どんどん大きくなっていくのです。そうでしょう? 原子爆弾は小さいですが、どんどん広がるのです。そうでしょう? 真の愛もどんどん広がるのです。全部きれいにしてしまうのです。
皆さん、「私の誓い」の五番の誇るその第一を中心として考えてみましたか? 言葉だけではないのです。事実なのです、事実、事実。分かりますか? はっきり分かりましたか? (はい)。皆さんは独立軍です、独立軍。歴史に数多い戦争と数多くの兵士がいたのですが、私たちと共に誇れる兵士はいないということを知らねばなりません。ここに勝利の印が押される日には、戦争はなくなります。世界が一つになるのです。(拍手)
「お前はこの天国建設のための義勇軍として生まれた人だな! お前、細胞よ、ありがとう! 手の指よ、よく育て! 天が必要とする武器になれ!」と言わねばなりません。その時に使うためのものなのです。それを知らねばなりません。それで私が私の目を保護し、私の耳を保護し、私の体を保護するのです。サタン世界から保護するための努力を私がするのです。
私が息子、娘として生まれても入籍することのできる天の国がないため、保留しなければなりません。私は天の国の夫になることを願い、天の国に入籍したその民として妻をもち、その家庭で子を生みたいと思わなければなりません。それを知らなければなりません。それで寝ても覚めても一日、一時間、一秒を忙しく戦い、勝利しなければならないという、このような前提をもっているということを知らねばなりません。いつもそのように生きなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。
皆さんは天国の軍人、天国の民になっていません。予備軍です。天の国の民ではなく予備の民です。天の国、天国に入る前の楽園と同じです。正に今日私たちは、地上天国建立のため楽園にいる兵士と同じだというのです。楽園の兵士、分かりますか? 楽園の兵士。皆さんは米国の軍人になることを願いますか? (いいえ)。違うのです、願わないというのです。「私たちに命令だけしてください。私たちは進軍します。進軍、進軍、天国に向かって!」とならなければなりません。分かりますか? (はい)。
その次の誇りは何ですか? (民です)。民。生活の貧しい人を助けてあげなければなりません。日本を中心として米国を助け、米国を通して飢え死にしようとしているアジアの人、かわいそうなインドのような所を助けなければならないと考えるのです。みな一つの国の人です。この世界の人たちは一つの国の人々なのです。アメリカ人がアメリカ国民を愛するのよりも、天国人が天国を中心として愛するほうがもっと強いというのです。
その次、三番目は何ですか? (国土)。一つの国土、私たちは境界線を認定しません。神様は境界線を認定しないのです。それはサタンがつくったのです。米国が境界線を中心として、移民局が強力に騒いでいますが。万一、移民局で「お前たち米国に入るなら統一教会の七十日修練、百二十日修練を受けねばならない」というようになれば、その人たちが米国に来て損害になることをするでしょうか、利益になることをするでしょうか? どうするでしょうか? (利益になることをします)。そうですか? (はい)。皆さんそれを信じますか、知っていますか? (知っています)。それを確実に知らねばなりません。どうなりますか?
そうなれば、共産党が問題になりますか? そうなれば、世界の国家をすべて団結させて一つの国から一千名ずつだけ引っ張り出してその人たちを集めて教会をつくったときには、世界の国家が、米国は良くやったと拍手するというのにです。「アメリカ人の言うことを聞きなさい!」と言って、「聞きます」と言えば一遍に世界が回るというのです。それを考えてみなさい。何年もかからないのです。ところで共産党が問題ですか? (いいえ)。
さあ、それでは米国が国境を撤廃すれば安心ですか、騒々しいですか? (安心です)。ですから「すべての自由世界は境界線撤廃!」と米国が主張すればどうですか? 自由世界が「そのとおり!」そうでしょうか、「ノー、ノー、ノー!」とそう言うでしょうか? (ウェルカム:歓迎します)。ウェルカム。それではどのような結果になるでしょうか? (神様のもとに一つの世界になります)。神様のもとに一つの世界になります。それは難しいことではありません。そんな時が近づいたのです。分かりますか? (はい)。本当に? (はい)。
皆さんが移民局長になり、外務長官になれば、そうできるというのです。(笑い、拍手) ムーニーが外務長官になり、法務長官になればですね、その時もファンダレイジングしますか? ファンダレイジングが必要ですか? (いいえ)。国の税金で仕事をするのです、国民が。その税金が何かといえば、ファンダレイジングしたものです。できるなら税金を出さないでおこうと尻込みをするでしょう。私たちムーニーは税金を出そうとします。なぜそうですか? サタンが嫌いだからです。これはどれほど素晴らしいでしょうか。どれほど素晴らしいかというのです。今、米国が言うことを聞かなくなったので、南米がムーニーを中心として南米連合戦線をしいているという事実を知らねばなりません。
ムーニーたちですが、ヤコブがハランに行き、二十一年ぶりに帰ってきてエサウを屈伏させたように、南米を通して北米を屈伏させねばならないというのです。どうですか? (いいです)。それが早ければ米国でなくてもいいのです。ムーニーを全部南米へ連れて行けばいいのです。それはどうですか? ここ米国にムーニーが一人もいなければ、次はまた「ムーニー歓迎!」、そうなるのです。「我が米国にムーニーがとてもとても必要です」、そうなるのです。その時は興味がないのです。その時は国の移民局で「ムーニーは全部無事通過だ」、そうなるのです。(拍手、歓呼)
世の中が何といっても、レバレンド・ムーンはその目的のためどこにでも行くのです。どこにでも行き行動するのです。どうですか? 気分がいいですか、悪いですか? (いいです)。このように見る時にムーニーが誇らしいですか、恥ずかしいですか? (誇らしいです)。
先生はですから南米や、アフリカなど、世界のためにお金を使うのです。韓国のムーニーたちは「先生! なぜ韓国を助けてくださらないで米国のために使うのですか?」と、またアメリカのムーニーたちは「なぜ先生は米国に使わずに他の国々のために使うのですか?」こう思うというのです。そんな伝統を立てておいて世界が早く……。このようにしている私を見て米国国民全部が私のような思想をもてば、世界を早く救えるのです。分かりますか。それは間違いないでしょう?
先生は南米に行っても、私たちの国だと思うのです、私たちの国として、誰よりも南米を愛していると思います。皆さんもそうですか? (はい)。先生が南米へ行けば皆さんはどこへ行かなければならないですか? 皆さんはアフリカへ行かなければなりません。(笑い) 先生についていきますか、もっと悪いアフリカへ行きますか? 先生はこれからアフリカへ行くと思いますが、先生より先にアフリカに行って準備する人になりますか、先生について回る人になりますか? (先生より先にアフリカに行きます)。皆さんは「全員アフリカに行け」と言えば、「アイゴー、それは私の願う所ではないので、私たちは嫌です!」そう思いますか? (いいえ)。
皆さんは先生がいない状態で北米で米国を復帰するのは簡単ですか? アフリカに行ってアフリカを復帰するのとではどちらが簡単ですか? (アフリカです)。私たちがアフリカにワーッと行って資源を抱き込み、南米へ行って資源を抱けば、白人たちは「助けてくれ、協力してくれ!」と言うでしょう。そうではないですか? そうですか、そうではないですか? (そうだと思います)。ソ連はどうですか、ソ連は? 同じだというのです。ですからレバレンド・ムーンは賢明な人ですか、愚かな人ですか? (賢明な人です)。ありがとうございます。(笑い、拍手)
皆さんはこんなに楽しい内容なら毎日誓っていたいと考えてみましたか? 考えてみなさい。皆さんが聖日の朝ごとに来て「私の誓い」をするとき、「アイゴー、しなければいいのに」と思いますか、「アイゴー、なぜいつもしないんだろう?」と思いますか? どちらですか? (二番目です)。今、この言葉を聞いて内容を知ったのですから毎日しなければなりませんか、毎時間しなければなりませんか? (毎時間しなければなりません)。毎時間ごとにですか。そうすることができますか? (はい)。皆さんが願うなら、それを決定しましょう。(笑い) そう考えるときに「アイゴー、アイゴーしんどい!」と思いながら一週間に一回ずつただ五時に起きて「私の誓い」をするだけの者たちでいいのですか、いけないのですか? それを考えれば、驚くべきことです。
神様がムーニーを信じ、ムーニーを好かなければならないのではありません。ムーニーたちがこの内容を好めば、神様がムーニーを好きになるようになっているのです。違いますか? 今の皆さんを見て好かれますか? 人を見て好まれるのではありません。皆さんの顔を見て好まれるのではありません。
大変な時、「お父さん! 歴史的な怨恨のあるその主権のため、民のため、国のため私は前進します!」と祈りなさい。それ以上の祈祷はないのです、それ以上の祈祷は。神様に尋ねてみなさい。
さあ、このような内容をもって私が生きるという時、神様は私より近くにいるでしょうか、遠くにいるでしょうか? 考えてみてください。(近くにいらっしゃいます)。事実です。神様は私と共におられます。ですから強く雄々しくあれというのです。理解できますか、何のことか? (はい)。皆さんは今まで、考えがどれほど気の小さい者のようでしたか、どれほどくだらないものでしたか。分かりますか? (はい)。
世界を知り、世界を抱き、世界四十億人類を民として、この地球上を私の国土、私の取り分とすることがどれほど……。そうすれば天の国になるのであり、米国の民としては行けないのです。それを知らなければなりません。皆さんの勝手に生きて、死ねばどこに行くでしょうか? ムーニーになってこのような内容を知らずに死んで、天国の端で行くこともできずストップしていたなら、どれほど悲惨でしょうか、考えてみてください。
その次は何ですか? (言語と文化)。言語と文化を誇ります。米国の人たちは「世界が全部英語を習い英語を使うことを願うのに、その英語を使う私たちが他の国の言葉を習うなんて?」と思うのです。(笑い) 英語がマザータング(mother tongue:母国語)ですか? (いいえ)。それでは母国語は何ですか? (韓国語です)。母国語は真の父母が使う言葉なのです。
子供たちが話すのを見て、親が米国人であるか英国人であるか分かるのであり、言葉が同じならば他の国の人だとどうやって分かるのですか? 皆さんの母国語はどの国の言葉ですか? (韓国です)。母国語とは真の父母が使う言葉なのです。正しいですか? (はい)。真の父母が使う言葉はアメリカの言葉ですか? (いいえ)。(笑い)
さあ、その次五番目は何ですか? (「一つの父母を中心とした子女になることを誇り」です)。一つの父母を中心とした子女になることを誇ります。世界の人々が子女を誇るのです。分かりますか、何のことか? 世界はどこに行っても兄弟なのです。ソ連人も怨讐ではなく兄弟です。レバレンド・ムーンを米国人が反対しても兄弟です。分かりますか? 米国が何ですって? (兄弟です)。世界は一つの伝統です。何の伝統? 一つの父母様を中心とした家庭の伝統です。神様のみ旨が何かといえば、創造目的の完成であり、創造目的の完成は四位基台の完成であり、四位基台の完成は家庭であるというのです。
神様はアダムにおいては父であり、アダムの息子、娘においてはおじいさんです。三代です。それが本来四位基台なのです。ところでここを引き裂いてしまったというのです。引き裂いてしまったのでこれからは合わせねばならないのです。反対なのです。これを合わせれば同じになるのです。そうすればこれが運動することができるのです。運動をするのです。さあ、ですから一つです、一つ。これが一つの生存体です、生存体をもったのです。これを愛さねばなりません。愛さなければ世界を救うことはできません。(黒板に書かれながら語られる)
「私」といえば既に妻と父と子女が含まれるのです。女性から見れば父、夫、息子なのです。これが一つの体なのです、一つなのです。そして男性においては母、妻、娘、このように見るのです。この三つがなぜこのように一つにならねばならないのでしょうか? 天地を合わせることなのです。では中心は誰でしょうか? 男性と女性です。上を見れば神様であり、下を見れば子女です。ですから一つの体なのです、一つの体。
ですから愛する時は、夫を愛さずに父母を愛し、子女を愛しなさいというのです。それが天地の道理です。女性が結婚して離婚するようになればどこに行くかといえば、父、母、父母の家に行きますが、子供を連れて行こうとするでしょう。互いに子供を連れて行こうとするでしょう。それはなぜそうなのでしょう? それが天地の道理だからです。それが皆さんの心から動く天地の道理なのです。分かりますか、何のことか? (はい)。皆さんの観念といえば、伝統といえば、父母と子息のための愛と、夫に対する愛をいうのです。
ですから、このような家庭を中心とすることがテキストブック(textbook)だということです。テキストブックになって、このような感じの愛を世界化するのです。(黒板に書かれたものを指しながら語られる)そのような教育をする場所が家庭だというのです。その愛することが皆さんの家庭のためではなく、世界のための愛の訓練なのです。違うというのです。私たちムーニーは違うというのです。
さあ、それでは天国はどういう所でしょうか? 年取った人、おじいさんのような年老いた人に、本当のおじいさんのように対することができ、夫のような人を夫に対するような心で愛することができねばなりません。そうだからといって関係を結ぶのではありません。そのような心をもつのです。息子、娘のようなら、息子、娘のように考えなければなりません。他の考えをしたらいけないのです。そうすればそれはどこでも行ってくるというのです。どこでも行ってくるというのです。どこにも通用します。分かりますか何のことか? (はい)。これは同じでしょう? 同じなのです。どこに行っても。白人も全部同じです。このような人は自動的に天国に行くというのです。このような人が行く所が天国なのです。(黒板に書かれながら語られる)
このような思想があるので、人種差別、種族差別がすべてなくなり、国境がすべてなくなるのです。分かりますか? その伝統を受け継がなければなりません。ところでサタン世界ですから、この主流の秩序を立てられないようにするので、私たちはこれを蕩減するため、十字架の道を行かねばならないのです。犠牲になり奉仕しながらこれを拡大していくのです。
その次、七番目は何ですか? (「心情世界を成す役軍であることを誇り」です)。心情世界を成す役軍であることを誇ります。心情として天国理想を実現させねばなりません。その次は何ですか? これに対して反対するすべてのものと戦い勝つことを誓うのです。そうでしょう? 銃剣で戦うのではないのです。それは分かるでしょう? 生命をささげても、死ぬことがあってもこれをしなければなりません。(黒板に書かれながら語られる)
これは何かといえばサタンが一番嫌うことなのです。神様は何かといえば、これは神様が一番好むことなのです。神様はこれを一番好むのです。これがこのような世界で天地を中心として戦いが展開されているのです。さあ、善悪がここにかかっており、神様とサタンが全部これを中心として戦っているのです(黒板に書かれたものを指しながら語られる)
皆さんのための業が家庭的基台をもつことなのですか? 違うのです。世界的なのです。家庭を乗り越えなければなりません。また、行かなければなりません。また、行かなければならない、また、行かなければならないというのです。どれだけこれが空いたとしてもこれが残っているならば、これは自動的に埋められるのです。ですから、これを完全に除去しなければなりません、完全に。(黒板に書かれながら語られる)
さあ、統一教会のムーニーはこのために召命を受け、ここに集まったのです。統一教会は、このみ旨を成し遂げるために集まったのです。そのために心情をもって伝統を受け継ぎ、父母様を通してこそ天国が可能なのです。ですから間違いなく誓ったとおりになるように実践しなければなりません。(マルスム選集一二二巻「私たちの誓い」より)
第三章 有能な講師への道
第三章 有能な講師への道
P471
第一節 手本となる講師の事例一 手本を見せてくださったお父様
先生は大衆の前に出る時も、まず天がその前に現れなければ絶対出ないのです。数多い群衆の前に出て話そうとすれば、話す内容がどうしてないことがあるでしょうか? 統一教会を宣伝するためにも出ることができるでしょう。しかし、天がまずその場に出てこそ、私が出るのです。(三三―一四)
人は、主管しようとするのであり、干渉されることを嫌うのです。自分勝手にしようとするのです。間違って行動するならば、全部滅びてしまいます。
皆さんがどうやって生活しているのか知りませんが、この壇上に出る時はいつも先生自身が一人の弁護士だと考えます。私一代だけではなく歴史に残り得る一人の弁護人になって、どういう人が愛国者になるのか、あるいは逆賊になるのかを決定するのです。言葉一つにより、逆賊と愛国者の分かれ道ができるということを考える時、間違って批判したならば私が人類の前に怨讐になるのです。うまく弁護する時は、新しい復帰の天国を探し立てる師になり、そのような立場の愛国者になり、歴史の道が輝くことができるのです。あるいは法哲学ならば法哲学の思想的基準を中心として見るとき、今この場は、責任を完遂することのできる一つの起源をつくる場ではないのでしょうか? このようなことを感じる時が多いのです。
私がこの場に出てくる時、自信をもって出てくるのではありません。自信ありげに出てくる人たちは既に失敗に接近している人です。「この身に神様が共にあってくださいますように。ある有名な個人が共にあるのではなく、天が共にあってくださいますように。人間が主管するのではなく、あなたが主管してくださいますように」という心をもって出てくるのです。人間が主管することを願ったのが堕落の動機になったため、天が主管できる絶対的な版図になるまで引っ張っていくことが、統一教会を指導する責任者がしなければならない仕事なのです。これを先生が明らかにしたのです。
壇上に出るときは、いつもそのような心で出ていきます。あるいは皆さんに、ある指示をするときもそうです。先生はできるなら独断的立場で指示はしたくありません。皆さんに先生が、何かああだこうだという話はしません。主管は神様がしなければなりません。(四六―九〇)
原理講義をするとき、口がはれなければなりません。先生もそうなのです。先生は正月一日の夜も話をしたでしょう? また、きのうも話したでしょう? 集まりのような所に行けば、みな顔を上げているので話さないわけにはいきません。皆さんが見るとき、「先生だから、なに大丈夫だろう」と思うでしょうが、支障があるのです。舌がばりばりに乾くのを感じます。つばが乾いてです。つばだけがかれると思いますか? 唇が突っ張るのです。それをみな感じなければなりません。他人のためにそうするのは聖なることです。聖なることだということを知らなければなりません。
皆さん、柿を知っているでしょう。熟していない柿を食べれば舌がこんなふうに……。話せばそのようなことが起こります。血は通らなければならないし、感覚はないし、舌が正にそんなふうになります。口が裂けるのです。こうしながら話すのです。柿を食べてみましたか? ある時にはけいれんが起こるのです。舌がけいれんを起こすのです。ある時は舌をかんで血を出さなければなりません。そんなことが分かりますか? そういうふうにやるのです。分かりますか、何のことか。そうしてこそこの舌が、神様の前に行っても語るのです。
こうやって立って十二時間以上話すというのです。九時間、十時間身じろぎもせず……。ここから飛行機に乗ってイースト・ガーデンまで二回行ったり来たりしても余りある時間を立って話しているのです。私に仕事をさせれば、このように努力するのです。
頭が割れるほど話しても、そんなことは誰も知らないのです。ある時は頭が痛くて割れてしまいそうです。そうしながらも話すのです。そうしながらもみなするのです。何のことか分かりますか? (はい)。その十分の一でもしなければならないのではありませんか。良心があれば十分の一でもしなければならないのではありませんか。それは私のためにするのではなく、皆さんの国のためにするのです。皆さんの子供と皆さんの後孫のために、皆さんの氏族と皆さんの親戚のためにしなさいというのです。
ですから歯を磨けばいつも血が出ます。そういうことをするのです。いつも疲れているのです。ですから、神様がレバレンド・ムーンを大切にしないわけにはいかないのです。私はこのように見ます。大切にしなければなりませんね? 私たちのお母様も、子供をたくさん生んで、とても疲れて、きょうはどこかへちょっと行っていますが。お母様自身も私を、鉄のような人だと思っています。ある時には寝る時間になれば座ってテレビをちょっと見て、そこで眠る時も多いのです。それほど疲れた人、それくらい疲れきった人なのです。ところでお母様も事情を訴える人がいないので私に「ああ! 私の体がこうなのであんまをちょっとしてください」と言えば、私があんまもしてあげるのです。(九六―一六五)
先生は外国を巡りながら、あらゆる精誠を尽くします。日本に行って七、八時間話をしますが、そのころになると足がひどくしびれてきます。足がしびれてくるのです。立っているので足がしびれるのです。皆さんは分からないと思います。「立っているのにしびれるとは何だろう」と思うでしょう? 血が通わなければ足がしびれるのでしょう?
立っていれば血が全部足に集まるのでしびれるのです。しかし足がしびれるのが問題ではないのです。私は、集った聴衆を天国と地獄の三十八度線を越えさせなければならない責任が、私の足にあると考えたのです。その線を越えたのに再び越えてくることには、先生は責任を負いません。来たことにより、良くならなければなりません。どんなことと同じかといえば、ターザンが綱渡りをして越えていくのと同じです。さっと渡って向こう側の木の枝に立たねばならないのに、越えられなければどうなるのですか? ここにも到達できなければ、向こうにも到達できずに落ちてしまうのですが、どこに落ちるのかといえば、この穴に落ちるのです。すとん、そういうようにです。そんなことを感じるのです。(六〇―三〇九)
説教する人がどこかへ行ってみ言を語って、終えようとするころに、「み言をもっと語ってくれ」と言うのに「アイゴー、あしたにしましょう?」と言ってはいけないのです。先生の一生でも、そうしたことはありません。二十四時間話しても、夜が明けてもその人が「やめてください」と言えばやめるのです。今も三十六家庭の婦人を連れていれば、十二時になれば、みな自分たちが眠くて、「先生が行けばいいのに」と思うのです。今もそうなのです。(一〇七―二五五)
私が講義を長い間すれば、ある人は小便を催してどれほど忙しいことやら、ずっと動いているのです。十二時間、あるいは二十時間講義を聞いて、貴いみ言を語るので先生はそこにいなければならないので、それでその人は講義を抜けようとして「あ、先生、ちょっとだけ待ってください」と便所へ走って行ってくるのです。そんなことまで起こるのです。
私は今まで反対を受ける道で残ってきました。また神様がそのように導いてくださったのです。分かりますか? 統一教会はこの世とは違うのです。この世の人が首を切って殺しても、この道を裏切ることはできません。体験的信仰! 体恤的信仰! 分かりますか? 体験的信仰者です、体恤的信仰者が……。讃美歌にも出てきます。「イエス、イエスを信じることは受ける恵みが多い……」。受けた恵みが多くなければなりません。受けた恵みが多いですか? 受ける恵みが多いですか、多くないですか? 祈ってみなさい。イエス様のために祈ってみなさい。(六八―一一二)
京畿道と江原道では九時間四十分も話しました。蒸しもちを作るときに、だんだん蒸し上がるにつれ、かぐわしいにおいがするように、話も同じです。(二六―七三)
先生は昔、講義をすれば一人を前に置いてもしました。ひそひそと話しては、立ってぐるぐる回りながら話すのです。それは風(注:大げさ)なのです。一晩で回って霊通してしまうのです。我知らず立ってぐるぐる回りながら話すのです。そうしてみなさい。一晩で霊通すれば、罪の包みでもサタンでも何でも逃げるようになっているのであって、どうしてそこにくっついているようになっていますか? この世に雷が落ちる所なのに、サタンがそこに入るでしょうか? (一六七―三三一)
天は始めと終わりが一つでなければならないといわれました。ニューヨーク、カーネギー・ホールの壇上に出たその時の心情を、どうやって忘れられようかというのです。それ以上の心情をどうやって体恤するのかということは、闘いの中の闘いだというのです。何のことか分かりますか? (はい)。講演したのは五十州で百回以上、百六十回余りでしたが、やればやるほどだんだん難しくなるのです。なぜですか? 心情が習慣化するためです。どんどん習慣化するというのです。「ああ、それみな知っている!」このように無責任に、天だけを信じて出ていっては駄目だというのです。(七一―一四二)
先生はあす(一九七五・六・七・救国世界大会)講演があるので、精神集中もしなければならないので……。元来、きょう皆さんが来なければ、ここには現れなかったでしょうに、皆さんが来たので一度会って話をしてあげれば歴史的な意味がある集会だということを知って、皆さんの心の姿勢ができそうなので、私が話したのです。今すぐ清平に行くとかどこかへ行って、あすのための心の準備をしなければならない立場にあるのです。ではそう知って、じゃあ……。(七八―二四五)
私がリンカーン・センターで講義する時もですね……。この国に来て私が悪口を言われながら、ただ考えもなくそのように生きていたようですか? 騒いだり闘ったりしながら原理講義をするのです。先生は時間さえあればずっと一人で祈祷し、いつもそうしました。神様は死んではいないので、今日このようなことをしたのです。皆さんもみな同じです。しなさい。(一〇七―二五五)
これから講演のようなことは、先生がしたことを皆さんがみな継承してする準備をしなければなりません。これをするのに男性ももちろん必要ですが、これからは女性講師をたくさんつくらなければならないのです。皆さんが修練を受けるときは講義式の修練ももちろん必要ですが、これからは復興会式の修練もいつも念頭に置かなければなりません。(七〇―二九三)
二 一日十八時間講義した劉孝元協会長
二 一日十八時間講義した劉孝元協会長
P477
全部で何人ですか? 八十四名? (はい、八十四名ですが、今ソウルに五人出て七十九名です)。ソウルでも今講義しますか? (はい)。統一教会で講義する人が、ここにいる者たちしかいないということは非常に悲惨な事実です。このように勉強しても講義できなければ大変なことになります。講義だけうまければ出世をすると、先生が耳に穴が開くほど話したのに、講義する人がこれだけしかいないということは問題です。(教域長たちも上手です)。教域長たちもうまいの、どう? (はい、上手です)。教域長たちは何人ですか? (約二百名になります)。統一教会の歴史がどれくらいになりますか? 昔、劉協会長は三年八カ月を講壇で一日十八時間ずつ、一日も休まずに講義をしました。そのような歴史があります。その人は不具の身でそうしたのですが、それを考えれば私は無慈悲な人間です。今のように食口が多いわけではありません。新しい人が一人来れば一人を座らせておき、新しい人が来なければ、そのまま食口たちをおいて毎日続けてしました。それを知っていますか? (はい)。聞いて知っていますか、見て知っていますか? (見て知っています)。見た人も多いでしょう。見た人、手を挙げてみなさい。知ってはいるのですね。
その時は麦御飯も十分に食べられませんでした。近所のこじきたちが御飯をもらいに歩いてみれば、統一教会に行けば一番よくくれるのですが、麦御飯だというのです。こじきたちが「麦御飯を与える」と出ていって、ごみ箱に投げ捨てていくのです。そのころは麦御飯も食べられなかった時ですね。
その人は塩辛が好きでした。えびの塩辛だったか……。いや、子魚の塩辛だったでしょう? 全羅道の人はえいの塩辛をよく食べますか? それ、えいですかね? (カオリです)。カオリといいますか? カオリもえいですね? (はい)。その腐った臭い、そのきつい臭いがするものをよく食べました。劉協会長もその塩辛が好きでした。私は横に行って……、私はその臭いも嫌いでした。(笑い) おかずがないと、それをうまいとくちゃくちゃしゃぶって食べていたのがきのうのようですが……。「劉協会長が今生きていればどれほどよいことか」と考える時があります。そうしながらも一日十八時間以上講義をしました。原理講義をしました。(一七二―四六)
私の話を聞きなさい。私の家や先生がいる所では、いつも雰囲気が消えてしまっては駄目なのです。いつでも……。それを知らなければなりません。ですから先生がいるときは、誰かがここに来て徹夜祈祷をするのです。雰囲気が消えては駄目だというのです。じっと見ればそんな考えをする人が一人もいないのです、私以外。私は雰囲気ができるにしたがい、十二時が過ぎて寝るまで引っ張って圧縮させようとそうするのですが、皆さんはそんな考えをしないのです。お母様もそんな考えをしません。ですから……。
霊界と地の雰囲気が春の園のようにならなければなりません。いつも春の園にならなければなりません。春が来ればすべてのものが蘇生するのと同じように、そうなればここの雰囲気、ここのすべての環境が聖化されるのです。復活した歴史を聞いて、そんな雰囲気をいつも持ち合わせてください。そうすれば見えない電波が全宇宙に広がっていくというのです。そのように考えるのです。
ですから私が劉協会長――劉孝元協会長がいるではないですか?――に青坡洞にいた時いつも十八時間講義を続けさせたのです。人がいなくてもさせたのです。人がいようがいまいが……。それを見れば、その人に対して先生は本当に厳しい先生だったでしょうね? きつくても、それに講義を聞く人がいなくて休もうとしても、叱ったのです。
放送局で放送するとき一人だけ相手にしますか? 放送局で仕事をする人は一人だけですが、それを聞く人は天下にぎっしり詰まっているというのです。同じだというのです。私たちは放送を続けなければなりません。それでそうさせたのです(一四〇―一七一)
二十四時間講義しなければなりません。十八時間講義しなさいというのです。劉協会長は死にましたが、講義時間になっても寝たままで……。それがどれほどきついでしょうか。それでも、「こいつ、天のみ旨のラッパ吹きなのに、十八時間吹けと言ったならば、吹かなければならないのです。今、霊界では吹く準備をしているのにお前がこれでいいのか、直ちにしなさい!」とこう言ったのです。そのように三年八カ月やったのです。それが記録です。皆さんもそのようにしなければなりません。皆さんの両手両足は完全なのです……。
ですから食口が三人、四人いれば自分の責任者が二十四時間、十八時間朝から講義するのに、人を連れてこないわけにいきますか? 伝道しないわけにいきますか? 一人を連れてきてそれほど努力して講義するのに、一人来て行ってしまうかと思って、その人が行かないようにどれほど精誠をささげたかというのです。ですから人がいなくても講義してみなさいというのです。講義してみなければなりません。ところがこの者たちは人を連れてきて、初めて講義し始めるというのです。(一〇七―二四五)
劉協会長に講義させる時、私が寝ていたと思いますか? 屋根裏部屋に座ってみな聞いていました。誰が来たという報告をみな受けていました。夕方講義をしに降りてきて、話をして一分もたたないうちに寝てしまう姿を見て、先生は祈祷しました。そんな涙の交わりがあったのです。涙の祈祷をしてあげるのです。そのような内容があったということを知らなければなりません。そのように統一教会の歴史はとても悲惨でした。さあ、何人のために私がそうしなければならず、何のためにその人がそうしなければならなかったのでしょうか。私が何のためにまたそうしたのであり、その人は何のためにそうだったのでしょうか? 神様のためです。それでも霊界が役事しなければ霊界がないのと同じです。神様がいないのと同じです。何のことか分かりますか? (一〇七―二四九)
皆さんも同じです。誰かがひっきりなしに訪ねてくれば面倒くさく思いますが、その人を誰が送ったのか知っているのかというのです。神様が送ったのか他の誰かが送ったのか、知っているのかというのです。その人以上に実践した実績をもつことができずしては、その人に対して面倒くさく疲れるということはできないのです。ですから劉協会長も三年八カ月の間講義しながら苦労をたくさんしました。私自身もそうです。私が指導するにも文なにがしの主観をもって、文なにがしの欲望どおりにしようとはしません。皆さんはそのようなことを知らなければなりません。(三三―一〇一)
三 講義時間の三倍祈祷した安昌成講師
三 講義時間の三倍祈祷した安昌成講師
P481
皆さんはみ言を伝える時、涙を流さなければなりません。安昌成講師が話したはずです。二時間講義しようとすれば、その講義時間の三倍祈祷しなさいと言いました。講義をするそこには、再創造の力が投入されなければなりません。再創造の力だけではなく、愛の力も投入されなければなりません。なぜですか? 創造の出発は愛の対象者のためである以上、愛を成就させるのです。それで自分のすべての知識と天稟的要素はもちろんですが、心情の要素まで愛を中心として投入しなければなりません。それが創造の正常的な原則でした。
神様自身もそのようにしました。すべてのものを備えているその方も必要なものが愛なのです。愛は永遠不変なのです。永遠に同居し得る配偶者を立てようとするのに、自らがぶらぶらしていたのでは駄目なのです。自分の生命を投入しなければならないのです。
自分の心と思いを尽くし精神を尽くし、主なるあなたの神様を愛しなさいと語られた、そのような心をもってしなければなりません。神様も同じです。自分の愛の相対を得るため心を尽くし思いを尽くし、精神を尽くすのです。神様が対象的愛である皆さんのために、すべてのものを投入したというのです。分かりますか? (はい)。
神様もそのようにしたというのです。そのようにしたので、そのようにしろと指示することができるのではありませんか? それ以上にしたので、そう教えることができるのです。できなかったなら二人とも偽物になるのです。真実な立場で、主体性を備えた立場で自分が中心的立場に立ったため、そしてそのような実績基盤の上に立ったためにそのような指示をしても、周辺のすべての存在物たちが反抗せずに順応することができるのです。それが天地の法度です。一つの生命を再創造することが……。復帰歴史は再創造の歴史でしょう? (はい)。言葉は簡単です。再創造を誰がするのですか? 自分たちができますか? 神様の位置でするのです。(一七二―一九四)
四 お父様のみ言を適用させる郭錠煥本部長
四 お父様のみ言を適用させる郭錠煥本部長
P482
お前たち、きょうから誰かを代わりに講義させてみなさい! 誰かを代わりに講義させたなら責任者にはさせません。そんなことをするなら次の月には全部、責任者の座を空けておけというのです。本来は自分が自信がつくまで講義しなければなりません。そうでなければ落伍者になるのです。統一教会で落伍者になるのです。ここに、あのミスター・郭を連れてきたのもですね……。ミスター・郭は二十二年間講義しました。そうしてみたところ、ミスター・郭という人は講義のうまい人だ、とアジア地域にうわさになりました。彼は先生が話すたびに記録するのです。そしてそれを参考にして使ってしまうのです。聞けば、それを講義する時どんな面に適用させるかと準備するのです。それで幹を作り、枝を作り、葉を作って、これから自分の講義に潤いがあり、自分の講義が深く、自分の講義が繊細であるように準備してきたのです。そのように基盤をつくってきたのです。それでカープから世界平和教授アカデミー、教授協会に責任をもつまで、出ていって講義しました。そのように立てても統一教会の面目が失われないため、私が立てて仕事をさせたのです。教授協会までつくって責任者として立てたのです。(九六―一四二)
五 覚えて講義をする英国青年リート・ウントバートン
五 覚えて講義をする英国青年リート・ウントバートン
P483
今回ワシントンに行って、責任者が講義する人に対して褒める言葉を、私が直接聞きました。その人の名は何ですか? (リート・ウントバートンです)。英国青年ですが、年が二十四歳ぐらいになるのです。教会に入ってからそれほどたっていませんでした。ところが、ワシントン教会の責任者である金永雲さんが言うには、この青年は年は幼いですが講義は一番うまいというのでした。それで私がその青年を呼んで「お前は若いのに原理講義がうまいということだが、お前が今まで勉強したことで得意なものは何か?」と聞きました。そうすると彼の答えは何かといえば、自分は何がうまいとは思いませんが、できるならば原理にあるよい単語はみな覚えたということでした。もっぱら頭にテープを差し込んでおくように、「創造原理」と口を開けば、序論はどのようになり、どのようにするかと、するする出てくるように一人で練習をしたというのです。
既に「創造原理」と言えば、何をしなければならないかという考えをしなくても、ただ口だけ開ければ言葉が出るというのです。ですから自分が講義しようとするその骨子を考えるのに没頭するよりも、口だけ開けば言葉が出てくるようになるので、聴衆に対する感情等や自分の感じたものを加えて、聴衆の前に訴えることができるというのです。(五四―一七五)
第二節 聴衆をとらえる法
第二節 聴衆をとらえる法
P485
一 聴衆に対する法1 講義の最初の時間が重要
ある招請を受けて講義をするとき、一番大きな問題は最初どういう言葉を話すかということです。最初の一言が重要なのです。ですから皆さん、最初にどういう話をするかについて考えなければなりません。(二〇―五〇)
それでたった五分、十分内にどのようにしても聴衆の前に自分の印象を残すことのできるものを準備しなければなりません。この五分から七分、十分内に聴衆が自分の前に傾かなければこの闘いは難しいというのです。
ですから最初どのようにするのかが問題ですが、全体が関心のある言葉から始めて、もしそれが不可能な時は全然関係なく、ありふれていないあまり知られていない話から始めよというのです。そうして、その言葉に対して何のことかと引っ張られていくようにする、こんな作戦を立て自分の作戦圏内に入れなければ駄目なのです。(六五―二九六)
2 即席で講義しても感動を与えることのできる訓練をしなければ
先生は今回、米国のニューヨークのリンカーン・センターから始めて、ワシントンを経てここまで来ながら、原稿を使っては話さなかったのです。原稿はみな、しまってしまいました。どこかに出ていって即席で話しても、聴衆をつかみ酔わせることのできる訓練をしなければならないのです。それで、私が話すことは問題がないという信念をもっているのです。そこにどのような感情を立体的に一体化させるか、ということが一番重要な問題です。これは、先生が長い間み言を語りながら経験した結果です。その感情に、大衆の前に影響を与えることのできる感情に私がどうやって浸るかという、主体が感じるそれ自体が問題であって、その時は、語る内容自体が問題ではありません。そのような場に入れるようになれば、既に言葉は普通の時のようになるのです。作文もその場でするのです。千万群衆を全部溶かすことのできる雄弁家は、原稿を書いては絶対になることができません。聴衆とその時の感情に従ってすべての内容が、あるいは、話の方向が異なり得るのでその環境をうまく収拾しながら、ここに拍子を合わせて力を加えることができなければならないのであって、原稿を書いてはできないのです。(五四―一八〇)
3 臨機応変式対処能力も必要
ある時はずっと話していって骨子が詰まってしまうこともあります。今回、あのワシントンやニューヨークのリンカーン・センターのような所では、サタンの役事が多かったのです。ワシントンから話すのですが、詰まってしまったのです。目の前が真っ暗になるのです。そんな時は表情を変えて、その表情で誘導するのです。深刻な立場で引っ張っていかなければならないのです。このようにしながら。聴衆は深刻なので引っ張られてきますが、私はその瞬間考えるのです。このようにして時間的余裕をつかんで、遮りながらサタンと闘わなければならない時もあるというのです。そのようになれば、話さなくてもついてきます。「あの人、言葉が詰まったな」とは考えないのです。
深刻でなければなりません。ここから既に三十秒、二十秒あるいは十秒以内の時間に言葉を作り出すことができるというのです。もし、考えが出てこないようになるならば、自分の幼い時の話もするのです。「私はこうやって、こうやって生きて、こんな時もありました」と言いながら、幼い時の話を短く入れるのです。母親の話とか自分がよく知っていること、自分の過去の話を例え話として一言さっと入れておくのです。知らないので、それは故意にそうしたとして語るのです。それは訓練ができていない人ならば「アイゴー! いい加減にしたな」として恥をかくのです。ですから皆さんは、そのようなことを全部訓練をしないといけないのです。(五四―一八〇)
4 講義の主になる相対を探せ
皆さんは話す時、どの人がどのように聞いているかということを探し出すようにします。原理講義をするとき(表情を示されながら)このように座りながら聞く人がいたなら、その人を溶かすのです。その人をどのように感動させるのですか? まず、一級、二級、三級に分けて、そこから自分に一番反対し、一番気分悪く考えられる人を一級としてつかみ、その人を打ち捕らえるのです。その人を標準として戦わなければなりません。戦いなのです。
そのようにほんの十分程度話したのちに、彼の表情がさらに硬くなったか、少し変わったかを見るのです。ここでその人が分かるようにするのではなく、その人を見る時、見るような見ないようなふうにしなければなりません。そうして最初は深刻でしたが、印象が良くなれば、ユーモアのある話もするのです。緊張していることをジェスチャーで示して、笑わせなければならないのです。(五四―一七六)
5 聴衆の心理を把握してそれに合わせて講義する
一度笑いさえすれば引っかかっていくのです。そしてさーっと見ながら、このように歩くのです。歩くのにもそのまま歩かずに、とても注目されるように歩くのです。その人がどのように見るかと思いながら、歩く態度と表情をおかしくしてこのように歩くのです。そうしてその人が妥協心がある人なのか、でなければ無口で度量の狭い人なのか、それをキャッチしなければなりません。その人が心理的にどのようなタイプの人なのかキャッチして、その人に合う言葉を研究しておかねばならないのです。「ああ、あの人は私の友人の中でどのタイプの人のようだ。あの人は私が知っている百人の中で、どのタイプの人だなあ」ということを比較研究しなければなりません。そして三、四タイプの人を選んでテストしてみるのです。温和な人なのか高慢な人なのか、強烈な人なのか? その次には何と言いましょうか、ぐずぐずする人なのか?
ですから劇的な場面をもって、涙を流さねばならない場では涙を流す立場に立たなければならず、許してあげる立場では許してあげる表情と感情をもって、その人を動かすことをするのです。ですから見えない戦いをするのです。戦いをするのです。
その次には、その人に詩的な感情があれば詩を詠んでいくのです。演説していく途中に考え出して、ほんの一分の間、自分が詩情に浸る、そんな題目をすっと詠んでみるのです。文学的な感情があれば、親しくささやく感情で話してみることです。
一人をぱっとつかんで十五分間だけテストして、その人に対する骨子をつかみ、刺して、その人が感動して顔が真っ赤になりだせば、聴衆はみな溶けていくのです。(五四―一七六)
6 聴衆と親しくなってから講義を始めれば効果的
私が話を一つしましょう。私が先日ワシントンにある朴普煕の家に行ったのですが、クウェーカー教徒約七十人がバス二台で訪ねてきました。その人たちはミスター・ムーンといえばどんな人だといううわさを聞いたため、「ミスター・ムーンはこんな人だ」という考えをもって、みな緊張して目がこんなにつり上がっていたのです。
そんな時は作戦をこのように駆使するのです。「私は東洋人ですが西洋の歌がとても好きです」と言って、一度さっと話すのです。お客様を接待するのに和気あいあいとして、とてもうれしい中で歌を歌い、歓迎すればよいのです。私はそのように考えます。そうしながら、「ここに来られた人の中には歌のうまい人が多いと思いますが、きょうを記念として誰か一曲歌いませんか」と言うのです。そうなれば、お互いに歌おうとするので、全部呼応するようになります。このくらいになれば、ふさがっていた壁がみな崩れていくのです。その次には「私が歌を一曲歌いますから、聴きますか」と言うのです。そうすれば歌を歌えと拍手するようになっているのです。拍手すれば、すてきに歌をさっと歌うのです。完全にそのようにしてしまうのです。そうすれば、このように出た目がみな正常に戻るのです。そこから話を始めるのです。みな親しくなっておいて、よくしておいて話を始めなければならないのであって、そのまま話しては駄目なのです。(五四―一七八)
7 聴衆に自然な印象を植えつけなさい
先生はここに来ても自然です。あんたたち……。いろいろな人が集まっても自然だというのです。そのために多くの訓練と練習をしたことを皆さんは知らなければなりません。どうでしたか? 私がイギリスのロンドンで話をするとき、ぎこちなさを感じていましたか? まずは自然でなければなりません。自然な印象を与えなければなりません。
「あの人は特別なタイプの人なのだな。あの人はこんな人なのだな」という印象を大衆の前に与えれば、聴衆をみな失ってしまいます。ですから自然な人にならなければなりません。ある時は笑うこともでき、ある時は怒ることもし、ある時は妥協し和合することもできるそんな人、多方面に熟練している素質をもっているという印象を与えなければなりません。
ですから、あの人は私よりこんな点が優れているといえるものが二つだけ出てくれば、既に仰ぎ見て口を開くようになります。どのようにしても口を開けるようにしてスプーンで御飯をあげれば、それを食べないわけにはいかないようにしなければなりません。初めのスプーンを持つようになれば、既にここから拍子を合わせ口を開くように、どうやってするのかということが一番問題です。(五四―一七八)
8 全体を和合させる融通性のある人になりなさい
これからは、話せなくなったら何もできないというのです。話せなくなれば、どこに行っても仲間に入れないのです。その次には歌も歌えなければなりません。その次には聴衆が千名、万名いたとしても、そこで私が一度さっと気分を出せば、全部が和合して気分を出すことのできる、その何かを考えよというのです。全体が自分の気分に引っ張られるようにする練習をしなければならないというのです。
ですから融通性のある人になりなさいというのです。大衆が必要とする人になれば、大衆は必ず引っ張られてくるというのです。そういうことを知って、練習が必要だということを皆さんは知らなければなりません。
皆さんは映画の主演俳優、それ以上にならなければなりません。ですから皆さん、練習しなければなりません。ある女性たちはこのように歩く人がいます。(笑い)自分がどのように歩いているのかも知らなければなりません。それで皆さんが市内に出て誰が一番きれいに歩くのかを見て、「あ、あの人が歩く姿が一番すてきだ」と思ったなら、そのように歩く練習をするのです。ある人はこのように、またある人はこのように……。(笑い)その中で、全体の前でよく見えるものはよいのです。それをとって訓練をしなければなりません。ですから練習をしなければ駄目だということを皆さんは知らなければなりません。(五四―一七九)
9 度胸(信念)をもちなさい
皆さんが大衆の前に立つ時は度胸をもたなければなりません、「聴衆が私をどう見ているのか。自分がうまくやれるかやれないか評価するだろうな」と考えればだんだん落ち込んでいきます。そういう時、どのように考えるのかといえば、私の言葉を一番よく聞くように、世界から有名な人々を集めておいたと考えなさいというのです。私の言葉を聞かなければやたら、突き、殴ることもできると考えるのです。その次に、自分の息子、娘だと考えるのです。そうすれば相当に近く感じ、責任感を感じるようになるのです。(五四―一七六)
二 講師が取るべき態度
二 講師が取るべき態度
P492
1 本人の体格によって取る態度を変える指導者と責任者というものは、それほど簡単なものではないということを、まず皆さんは考えなければなりません。百人なら百人、あるいは千人なら千人、環境が大きければ大きいほど多くの人がいても、その個人個人が全部各自それなりに講師なら講師、すなわち壇上に立った人を評価するようになっているのです。評価するにおいて自分より下手ならみな線を引いてしまうのです。しかし自分より何かしらいいという時は、聴衆は関心をもつようになるのです。ですから、この態度、態度が問題になるのです。
自分自身が背が高いのか、低いのかによって、取る態度も変えなければならないのです。また、太っているのかほっそりしているのかという問題によって、左右されるのです。もし太った人が高慢にこうやっていてはいけないのです。それに合うようにどのようにするかという問題を研究しなければなりません。太った人、大きい人なら大きい人ほど、その立場から態度を変えて取らなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。それから自分が西洋人か東洋人かということも考えなければなりません。黒髪か金髪かという問題を中心として、聴衆に基準を取って、どのような態度を取るべきかということをまず考えて、壇に上がらなければなりません。(六五―二九五)
聴衆は、皆さんの体格や顔を見れば分かるのです。「あの人は女性のような人だ」このように見られたとき、女性のように「ええ……」、これでは駄目なのです。そういう時は口を大きく開けるのです。アー(口を大きく開けられる)口を大きく開けて話さなければなりません。目もこうしてはいけないのです。目もできるだけ大きく開けて、大衆を凝視すればよいのです。話すときは迫力をもって話さなければなりません。そうすれば「おお! 女性のような人だと思ったのに……。いやー!」、こうなるのです。
ここの西洋人たちはのっぽの人が多いですが、あそこのあの小さな人は誰なのかと思うのです。小さな人が出てきてこんなふうにすれば「これは何だ?」(行動される)こうやって見るのです。そんな時は対策を練らなければなりません。出てきて雀の子のようにヨヨヨヨヨ……。雀の子の鳴き声みたいです、雀の子。(笑い) 大きくしなければなりません。力強く! (手をたたかれる)さあ、それが必要ですか、必要でないですか? (必要です)。
それからできるならば壇上に立つ時は、眼鏡をかけないでいられれば、かけないほうがよいのです。(なぜですか?)。大衆の前に出れば、汗を流すようになっています。そこでその眼鏡をとってこんなふうにすればいいですか? (行動される)みな気分を損ってしまいます。そのときはこうやって拭いて、一度してからこうやって拭いてやらなければなりません(行動される)。こうやってしては駄目なのです。その環境で話した拍子と聴衆の呼吸を聞いてこのようにもして、(笑い) 同じでなければなりません。性格、態度……。その次に、いつも自分が聴衆を、全体観衆を左右する責任者だということを感じなければなりません。ですから眼鏡をして出ては支障が多いというのです。皆さんがこのように置いて、このようにするとすれば(行動される)眼鏡が外れてしまう程度にやらなければなりません。ですから大衆の前に出る時は、眼鏡をかけるということは支障が多いのです。先生はそれを知っています。(六五―二九八)
2 大衆集会における経験をたくさんもつ
先生は昔、壇上に立てば服がみなぬれたものでした。三時間、四時間、五時間、六時間までしました。十二時間までもしたのです。そのくらいどうやって引っ張っていくのかというのです。そうなれば小便を催しても、トイレに行く時間が惜しくて行けないのです。「アイゴー」(行動される)こうしては、「ふう」と言うのです。(笑い) それは笑い事ではありません。それがどれほどすてきなのかということを、皆さんは考えなければならないのです。
ですから、どのくらい聴衆を導いていくのかという問題は、話す人にかかっているのです。皆さん、パントマイムもあるではないですか? パントマイム、ある時は深刻な場面に来て、表情をもってそれをキャッチするようにすることが必要なのです。そうすれば聴衆が深刻になって、自分に完全に捕まえられる境地もあるというのです。ですから指導者の態度がどれほど比重が大きいかということを、皆さんはまず知らなければなりません。名医とはどういう人なのかといえば、多くの患者を診た人なのです。ですから皆さんが大衆集会で大衆を指導するのに対して、経験をたくさんもたなければなりません。ですから態度がどれほど貴重かということが、今、分かったでしょう。(六五―二九九)
3 個人の特技は関心を引くことのできる武器
それから人は、見た目が良くなければなりません。このように立つ時にはまず、その人を見て気分が良くなければなりません。皆さんが聴衆がもっていない特技をもっているならば、いつもそれを武器として使い、門を開かせなければなりません。自分が歌がうまければ、詩のようなものを詠んでいきながら曲調を合わせてどうでどうでどうでどうで―(リズムを生かして)とすれば歌になるのです。そうすれば聴衆たちは「ああ、あの人は詩的素質もありながら音楽の素質もあるのだな。やあ! 歌もうまい」と思うのです。各々そのような特技があるのです。その特技のようなもので関心を買うことのできる面も、皆さんは考えなければならないのです。(笑い) (六五―三〇〇)
4 態度では服が問題だ
その次には、服が問題になります。この態度では、服も問題になるのです。その人がどのような素質をもっているのかというとき、服をちらっと見て似合うのか、似合わないのかということを見るというのです。今、先生が似合うように着てきたというのではないのです。さあ、首の細い人がこのくらい(行動される)のネクタイを結んだとしましょう。それではいけないのです。ですから、それを見て全部、似合うように結ばなければならないのです。
普通、皆さんがこれを結ぶとき(行動なさりながら)大概これがこうしてはいけないというのです。こうするならば、「あれは、何だ? (笑い) 話は上手にすることができるかもしれないけれども、何、自分の体に対しては分からないのだなあ」と直ちに評価するのです。できるならばこれをこのようにするには(行動なさる)大概これをするようになるならば、これが見えますからこれをきちんとより分けて、この程度であるならばよいというのです。また、あまりこうし過ぎて、このようになるならばよいのです。(行動なさる。笑い)これにチョッキを着るときは大丈夫なのです。したがって必ず聴衆の前にこれを出さなければならないので、いつもこのことを考えなければならないのです。
皆さん、見なさい。先生の、ここにピンがあるのですが、一日中、この模様なのです。このように(行動なさる)なっているのです。(笑い) それは、いけないのです。これをさっと抱いて突いておくならば……。ですからこの態度には、服が問題だということを分からなければならないのです。服を着るとき、これがこの程度くらい出てくるのが良いのです。ですから、そのすべてのものが似合わなければならないのです。
頭も同じなのです。頭髪を整えるにも、皆さん、顔がこのように細い人なのに頭髪を長くするのはいけないのです。自分の姿を見て全部、調和がなされなければならないのです。ですから、態度と服がどれだけ重要なのかということを知らなければなりません。また、色に対する一致が上手になされるようにし、そのようなことに関心をもたなければならないのです。
先生は、この色に相当、鋭敏なのです。デパートにネクタイが数千本あるとしても、行って直ちに選び出すのです。このネクタイは、今、先生の服に合いませんけれども、譽進が贈ってくれたので今、結んでいるのです。(笑い)(六五―三〇〇)
5 聴衆によって態度を異にする
聴衆が労働者か、学者か、学生かによって最初に現す態度を変えなければなりません。学生の時は強い発言から始めるのがよいのです。しかし学者たちの時には、最初はそろそろと言って、あるところまで上ってからは強く主張するのがよいのです。それから、芸術的な人が集ったのか、あるいはいろいろな運動をする人たちが集ったのかという問題までも知って、自分の態度をどのようにしなければならないのかということを、わきまえて出ていかなければなりません。ですからこの態度がどれほど重要なのかを、皆さんは知らなければなりません。(六五―二九六)
6 ジェスチャーも練習する
皆さんがジェスチャーをするのもそうです。「全世界的にしながら……」、ジェスチャーはこれでは駄目なのです。そんな時には、このようにしては駄目だというのです。何かを指摘する時も、目を既に開けて出なければなりません。手がこのように出ては駄目だというのです。そのすべての表情やジェスチャーも、練習が必要です、練習が。皆さん、踊りのようなものもそうです。悲しい場面になれば悲しい表情をし、喜ばしい場面になればうれしい表情をしなければならないのです。それで感情を誘発させて自分の目的の内に入れてしまえばいいのです。
これは一つの戦争なのです。(五四―一七七)
三 聴衆を感動させるには
三 聴衆を感動させるには
P498
1 聴衆の関心度がどれくらいなのかを知る皆さん、拳道に気合術があるでしょう? ある所を殴れば、まずふらふらになり、それを破ることができてこそ、そこに相対してこの手を振り回せば、破れたのと同じなのです。皆さんが話していく過程において、聴衆を打たなければならない状況では、自分がまず感動しなければなりません。自分がまず感動しながら、自分がまず涙を流し感激した場所で、力強く打ちながら、聴衆を縛りつけるのです。そういう時は一人でしてはいけないのです。その時は刀で突き刺すのと同じように、一人でせずに、霊界が協助し、宇宙が自分と共に激動しながら味方してくれるという心をもってしなければなりません。またこのように動くようになれば、一人で動くのではなく必ず相対的に、霊的に全部聴衆が動き回るのです。聴衆の関心を知るためには、出し抜けにこのようにするのです。
聴衆が自分の視線をどのくらい受け止めているのかということを、みなキャッチしなければなりません。それを見て、聴衆の関心度がどの程度かということを知らなければなりません。時には机もたたくのです。その時はどれくらい集中するのかテストしなければなりません。駄目な時は、皆さんが心もち短い歌でも歌って、聴衆がどれくらい関心をもつかということを測定しなければならないのです。
聴衆が私と呼吸を共にするようになる時、「さあ! 我が祖国のために前進しなければなりません」と言えば、聴衆は「ウワー!」(笑い)となるのです。そんな環境をつくらなければなりません。これは一つの戦争と同じなのです。
ところで教室で何人か連れてする一つの講義、これだけをしては駄目なのです。聴衆を指導するためには、自分が話すことは全部組み立てていかなければならないし、ある時は何の力か分からなくても、それを自分が話すのだと考えるのではなくて、そのまま話せば出てくるようにして、聴衆に歩調を合わせる立場に立たなければなりません。そうでなければ、大衆を指導するのは難しいということを皆さんは知らなければなりません。
時には、詩的な感情を入れて「きょうは晴れ渡った日です。今はこれこれこうだ」と話し、春をたたえながら一つの詩を詠み、こんな感情を高める話もしなければなりません。そうして俳優になることも知らなければなりません。
それらのことをみな研究しなければなりません。そして相対的なその立場とどのように呼吸を合わせて、初めの目標を達成するのかと考えて、聴衆に自分の目的としていたその基準を中心として、注ぎ込むのです。そこに一番強い人がいたとしたなら、その人をその場で感動させることができなければなりません。「あの人を私が感動させなければならない」という標準を決めて、引き続き話さなければなりません。彼がどんな人かは知りませんが、その人と決めたなら、話す時はその人に視線を集中して、狂ったように正面から打つのです。視線を打ちとらえなさい。その人と何度か目がぶつかるようになればそれでいいのです。聴衆を私の服のように感じ、動く空気のような気分を感じるようになれば、聴衆を完全にとらえたといえます。ですから態度がどれほど重要かということを、皆さんは知らなければなりません。大衆指導はそのように、易しいことではありません。(六五―二九七)
2 話はおもしろく実感があるようにする
人は感情的動物であることをいつも忘れてはなりません。そして聴衆たちに「あの人は私たちのためにあんなに苦労している」という印象を与えなければなりません。自分たちに何かを与えるためにもどかしがること、何かを与えるためにいで立ったという、そのような印象を与えなければなりません。ですから、語るときおもしろくしなければならないし、もっと力強くしなければならないし、もっと一生懸命やらなければなりません。
それでは人は感情的な動物なので、大概感情を誘発する基準というものは制限されています。それをわきまえれば簡単なことなのです。一番難しかった時、難しかった私、難しい環境を話せば、そこに聴衆は関心をもつようになります。その次は悲しかった時、苦痛を受けた時、公的な苦痛、そのような問題を中心として話すようになれば関心をもつようになるというのです。
けれどもそのような内容を話しても、他人のことのように話してはいけないのです。自分が実際に体験したとおりに、とてもおもしろく、実感がわくように話さなければなりません。自分がおもしろく話せば相手方も関心をもち、すなわち聴衆の前に「あの人は事実そのように感じたのだな」という感じを与えなければなりません。(六五―二九六)
3 うそをついてはいけない
大衆を感動させようとすれば、うそをついてはいけません。事実を話さなければなりません。うそは絶対人には通じないのです。自分の話、事実を話さなければなりません。事実の話は自分が体験した以上……。事実は無視できません。証言をするのです。(一四四―二九七)
4 多くの経験を積まねばならない
先生が皆さんの年齢の時には、サッと帽子をかぶって――その時は帽子をかぶって歩きました――腰に本をくくりつけては公園のような所で大衆講義をよくやりました。私の話をちょっと聞きなさいというのです。それが訓練です。これから多くの人を指導することのできる訓練なのです。たくさんやってみないといけません。多く質問してみて、多く答えてみてそうでなければなりません。それがみな経験なのです。
大衆を指導できる能力というのは、一遍にできるものではありません。たくさんやってみなければならないのです。商売もたくさんやってみなければなりません。それで私がやったことのないものはありません。金鉱に行って坑道も掘ってみたし、その次には坑木のようなものもつかみました。炭を焼くことができないでしょうか、人間がすることは何でもやります。先生一人でどうやってそのようにみなできますか? ですから寝る時間がなかったのです。分かりますか?
遊ぶのもよく遊びました。山ならば何里内外に精通しているのです。「何の鳥が巣を掛けたなあ」と全部一度見たあとに視察するのです。どこの山に鳥の巣がいくつあるかということを、よく知っているのです。
また水があれば水をみな出してしまうのです。そこにどんな魚が棲んでいるのか見ようとしてです。そうしなければ通り過ぎていけない性格なのです。行って服を脱いで入り、ひたすら水浴びしながらも、全部探して魚を何匹か素手で捕まえ焼いて食べて……。昼食を家で食べなくても、カニを捕まえて焼いて食べて、そんなことをしたものです。おなかがすいているのだから、焼いて食べなければどうしようもないでしょう?
あの上着を使って魚を捕まえてみました。手より上着がいいですからね。砂をざっと入れて襲い打つのです。この上着がそのまま水に入りますか? ですから砂をいっぱい入れて、ぱっとまくのです。そうすれば砂にあたって魚が死ぬのです。(笑い) でなければ魚がふちに追いやられます。端のほうに追いやっておいて襲い打つのです。魚の群れがいれば、やさしく端のほうに追って砂をバッ……。二、三匹死ねばそれを焼いて食べたりしました。そんなことをしたので、今は海で釣りもし……。研究をするのです。すべて研究するのです。
どこかに行っておなかがすいて、とうもろこし畑があれば「主人はいますか?」と呼ぶのです。「主人はいますかー、いませんかー」と言えば人々が通り過ぎ、聞きます。主人がいなくてもそうするのです。(笑い) 三、四回声をあげて捜していなければ、そのまま取って焼いて食べるのです。それは条件になるというのです。主人が現れて誰だといえば、ここの主人をあれほど捜したのにどこに行っていて今ごろ現れたのかと、呼んだ声を聞かなかったのかと、山が聞き、山が響いたのに聞かなかったのかと、みんなに聞いてみろというのです。事実呼んだのですから。一人でも聞いていたなら、私の証人になるというのです。そうしておいて、腹いっぱい焼いて食べていくのです。
豆畑は豆だらけではないですか? 豆があれば支えてわら束を持ってきて「主人はいますか?」とびんびん響くようにひとしきり呼ぶのです。それでも現れなければどうしようもありません。火をつけて焼いて食べるのです。そういうことも、また私が先生です。よく焼いてから上着を脱いで、そのままふっと吹けば豆粒だけ出てくるのです。その次は風呂敷に包んで歩きながら食べるのです。それが食糧になるのです。そうやって生きるのです。それは盗みではないのです。堂々としているのです。
まくわうりの畑などに行って、主人のおじいさんとそれとなく話したのち、観相を見てあげます。「このじいさん、若い時、こんなに悪いことをたくさんしたな。このじいさん、このじじい、顔つきを見、手を見ると悪いことをたくさんした」と言えば、どうして分かるのかと聞きます。それで「私がそんなことも分からずここまで上ってきて、こんな話をするだろうか。どうですか、違いますか?」と言えば、そうだと言うのです。「これは、けちな顔しているね。私がまくわうり一つくれと言えば間違いなくくれないだろう」と言いながら、行き始めるのです。そうすれば「ヒヒ」(表情をつくられる)と笑うのです。そうしたら「私がいいまくわうりを一つ取って食べますが、どうですか?」と言うのです。そうすれば食べろと言います。(笑い) そうするのです。そうやってまくわうりももらって食べたのです。お金がないので、そうやって食べて生きなければ、どうやって生きますか?
街角に行けば、ぜんざいを売るおばさんと会って、三十分だけ話せば、「ぜんざいを食べろ」と言うのです。嫌だと言ってもしきりに食べろというのです。(笑い) それはそんなものです。ぜんざい売りのおばさんの所に三日だけ、一週間だけ行けば、ぜんざいを売ったお金を私に預けるようになります。何……そう考えるのです。またそうするのです。(一三三―一六五)
5 刺激を受けることのできる相対的品物も必要
皆さんが壇上に出るときは、誰かが私のために祈ってくれていて私のために協助してくれている、という考えをいつももたなければなりません。一人ではないということを考えなければなりません。自分の愛する人であるとか、自分の息子、娘が私のために、今この時間に成功を祈っていると思わなければなりません。
そのため、そんな感情がいつも忘れられない標識が必要だというのです。私のために精誠をささげる、また私が愛する人に対して、心情的問題において私がいつでも刺激を感じることのできる標識をして、それを見ながら「ああ、この時間に、愛するこの者たちが私のために成功を願っている」という心を中心として、心情的刺激を受けることができなければなりません。ですから私が心情的刺激を受けることのできる、そんな相対的品物が必ず必要です。それで皆さんが聴衆をちらっと見た時、その中で自分の兄さんみたいだとか姉さんみたいだとか、友達みたいだとか、親戚みたいな人を必ず探し出さなければなりません。その心が行く人を中心として見る時、昔自分が愛した人だとか、愛した兄弟だとか、あるいは友人、彼らに対して感じたその感情を中心として、彼らに対して話した心情をもって話すようになれば、そしてその人が感動を受け始めるならば聴衆が回るというのです。そのため、聴衆の中で自分が好きな人を、一遍に何人か探し出さなければなりません。
そうなる時、その人が良い所は自分と関係しており、彼は私が知っている人に似ているので、その人が友達なら友達に対する心情を全部み言の中に込めていけば、その感情を私が再び感じることにより、それが事実となり、体験した話になるのです。
そのため表情や、すべてのことがどんなに良くても、これが感情に指導を受けて、感情を追求できる資料にならなければ何にもなりません。ですからこのような心情問題においては、体験が多く必要なのです。体験! 言葉だけをもってしては駄目です。体験が必要だということが切迫した問題になるのです。(六五―三〇一)
6 指導者は経験が豊かでなければならない
皆さん、小説のような話は一度聞き、二度聞けば、おもしろくなくなります。しかし小説のような内容を、実際に行った人がその話をすれば、十回聞いてもおもしろいのです。
それでは、小説を読んで話す人と、小説の内容と同じ経験をした人がいれば、小説を読んで話す人は、ただ平凡に話して、様子も変わらず、自分は何の変化もなく適当に終わるのです。しかしこの内容を経験した人は、千態万象です。つらかった時はつらい表情もし、良かった時は良い表情もし、戦う時には戦う表情をしないわけにはいかないのです。そのため自然に感情が入るというのです。
言葉にも、大衆に「行こう」と言うとき、言葉で、または手で「行こう」、こうではないのです。立って「行こう!」こうなのです。そうするようになるのです。このように経験したのと、経験しないのとでは、大きな差ができるということを、皆さんは理解できると思います。
そのため先生が考えるには、自分が世界的指導者になり、将来大衆を動かすことのできる責任者になろう、一度やってみようというときは、三十歳になるまでに全部経験しなければならないと見ます。これが先生が体験して出た結論です。そうしようとすれば一生忘れられない材料を、体験を通してたくさん得なければなりません。
労働現場に行って仕事をせよという話をする時は、自分が昔ある時に深刻な立場で土運びをしなければならず、重い荷を運ばなければならない、そんな場所で仕事をした心情を感じながら、そのような話をするようになれば、聴衆は深刻になっていくのです。専門家は、自分が経験した基盤の上にすべてのことを解こうとし、教える人です。さあそれが必要ですか、不必要ですか? (必要です)。ですからそんな表情に和することのできる私自身に、どのようにしてなるのかということが先決問題、すなわち一番に解決しなければならない重要な問題だというのです。(六五―三〇二)
7 感情に訴えねばならない
皆さんは、音楽とか芸術とかが、短い時間に聴衆を魅惑するということを知っていると思います。それはどうしてなのでしょうか? 最高に深刻な表情と涙を流すすべての惨状の情景にいるとき、そこに全体の感情が一致されれば一遍に回るのです。涙を流したという事実は、完全に降伏したということです。それは完全に降伏だというのです。涙を流してからああだこうだと批評する人は、人間ではないというのです。褒めるようになっているのです。大衆の中で私を永遠に忘れずについてくる人をつくるためには、その人が一生涯流したことのない涙を流させることです。
ですからいつも感情に訴えなければならないということを、皆さん、知らなければなりません。困難な時、悲しい時、苦痛な時など、こんな場を中心として動かそうとすれば、自分がそんな経験がなければ難しいというのです。
皆さんがこのみ旨のために苦労し、涙を流した場面、迫害を受け、大衆に追いやられて一人いた場面、あるいは逃げなければならない悲惨な場面、それだけではなく、捕らえられて残酷に殴られ、生死の境地であえぎ、苦しんだ場面、そんな場面が自分がみ旨のために行く道を開拓する時において、大金をもってしても買えない貴い財宝といえるのです。
それで皆さんを世界的指導者としてつくるためには、そのような多方面の訓練をしなければならないというのが先生の考えなのです。皆さんは、このみ旨が間違いなく世界を支配し、制覇するということを今や知るはずです。そう考えますか? そこから皆さんは、世界的指導者にならなければならないというのです。そのような意味ではボクシングもしなければならないのです。運動も必要ですし、訓練もみな必要だというのです。(六五―三〇三)
四 バークレー校で生まれた逸話
四 バークレー校で生まれた逸話
P507
私が話せば、誰にでも感動を与えます。そして外交も上手なのです。誰でもすべて会うのです。その次には、私が経済力を中心としてこんなことをするのです。「さあ、私以上にやった人がいるのなら評してみなさい」と言うのです。「え、誰か評することができる人がいますか? 誰でも、え……」。昔、私を批判した人はだんだん困難になるのです。「ああだこうだ」と言っていた人たちは、今は「隠れる穴はどこだ。隠れる穴は」と言うのです。さあ、これができなかったならば、米国が今日、短い期間内に本来の人員の十倍に近い人が立ち上がることができますか? とんでもないのです。何をもって見ても先生を否定できません。目をもって、耳をもって聞いてみた人が、否定できますか?
またカリフォルニア大学バークレー校のような所は、世界的に有名な所なのです。その殿堂が誇るものは何かといえば、大学教授たちが来て講演して、成功した者は一人もいないということが結論です。どんなに有名な人が来ても、全部追い出してしまうので有名な所です。その本山がバークレー校なのです。
そこは、その上にこの統一教会の文先生が異端だとうわさになったので、六つの大学の神学校大学院生たちがみんなで総会をして「今度レバレンド・ムーンが来たなら生け捕りにして、声も出せないようにして追い出そう」と計画しました。そこには、このレバレンド・ムーンが共産党の怨讐であるので、左翼分子まで加担したことを私は知りました。こうして総団結して「この講演を破綻させよう」、こう計画したのです。そうして約二千八百人の学生で超満員になりました。ですから見物に行こうと、うわさになったのではないですか?「おい、どうなるかちょっと見よう」。私はこういうことをみんな知った上で、さっそうと壇上に立ったのです。
出ていって挨拶をすると、あちこちから「ヒヒヒヒ、ハハハ」と騒々しいのです。拍手をしたり何かがやがや……。そういう所に出ていって、そういう時には講演してはいけないのです。ショーをしなければなりません。ワンマンショーをするのです。(笑い) そこでこうすれば、ウハハハ……。(笑い) 強く聴衆を引きつけなければなりません。このようにしなければなりません。もの足りなくて「もっとしましょう」とするので、みな笑うのです。またやって、またやって、またやればまた笑うのです。そうすればまたやって……。ですから横にいる人をつねってするのです。
こうして五分か七分のうちにシーンと静かになれば、講演をするのです。学生たちに対してするので、「私は学生の時はこうであった」と、結局「見習いなさい」このように声をあげて……。壇上に上がる時はこのような気持ちで説教をするのです。「若者はこうでなければならない」と言うのです。(真似をされる、笑い)
「このように、ものすごい一つの目的のために団結して米国を生かし、それによって世界が行く道があるならば、この米国は希望に満ちあふれるだろう!」と言ったのです。(拍手) 時間になったので通訳が来て「時間になりましたから終わってください。感謝、感謝です」こうなのです。彼らは先生が教会について話すと思っていたのに、そんなことを話すとは夢にも考えていなかったでしょうね? 先生は既に全部計画していたのです。
見なさい。私が今回日本に行った時、早稲田大学の講壇で若い人たちが問題を起こすのを短時間で収拾する、こんな責任者の役をしたのです。そんな時は、即興で臨機応変に歌を作って歌わなければなりません。普通でない歌を歌わなければなりません。そんな訓練をしてきました。誰か反対すれば、「そうですか」と言っておいて、即興で環境の友をつくって、その人だけを孤立させるのです。こんなことをみなできなければなりません。ですからこんなことを、壇上に立ってたくさんやってみなければなりません。雰囲気が良くなければなりません。そうしておけば楽しいでしょう?
そうですから講演が終わったあとには、レバレンド・ムーンを褒めるのです。「いやー、あの州立大学の講壇で成功した人だ」と、こんなふうにです。(七一―二〇五)
第三節 名講師になる道
第三節 名講師になる道
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一 まず原理の実力をつけなさい1 毎日原理のみ言を読まなければならない
皆さんがどれだけ原理のみ言を愛したのか尋ねてみたいです。これは、先生の一生で骨を溶かしながら探したものです。百回千回覚え、また覚えてもその内容に報いる道がないのに、原理の本を棚に上げておいて小説なんか読んでいるのですか? 隣近所に何のおせっかいをしますか? 遊び歩きますか? 私はそんな道を歩んできませんでした。私が今しているすべてのことを天的に見たとき良心の呵責がなく、またそうすることのできる場に来たので、そうしているのです。ところで、できそこないたちが自分のしたいことをみなやって、それでいいのですか? とんでもありません! もう一度修練して、もう一度教育を受けなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。(六八―一八一)
原理を習ったと言いながら、原理を全部奥にしまい込んで、自分がしたいままに、自分は自分なりに、原理は原理なりに……。一つになっていないのです。そうでしょう? それで伝道してうまくいくでしょうか? 駄目なのです。駄目です。神様が共におられないので、そんなのは偽物です。原理どおりにしなければなりません。皆さん、原理の本を見れば、そこには神様の六千年の心情があるのです。先生の一生の血を流した闘争の歴史が、そこにあります。皆さんの知らない内容がいくらでもあるのです。そんな原理の本を一ページ一ページ見るたびに、夜を徹して祈祷しながら、ここに神様の心情を探すことのできるはしごがあるのではないかと思いながら覚えましたか? 線を引きながら、この一言の背後にどんな歴史があるのか考えてみましたか? この者たちめ。みんな原理の本を棚に上げておいて……。毎日のように原理の本を読みますか? どれ、毎日のように原理の本を読む人は手を挙げてみなさい。この者たち、全部よた者どもめ。それで何、神様が協助してくださらないと? ですから新しい制度をつくらないわけにはいかないのです。今からみな体質を改善しなければなりません。神様の仕事をする聖職者の業が、どれほど神聖なものであるかを知らないでいるのではないかというのです。(六八―一〇一)
皆さんが原理のみ言を読んだ時、夜眠れず涙を流してみましたか? 劉協会長の素晴らしいところは、原理を全部ノートしながら、一ページごと涙を数百回も流したということです。自分は知識人として大学に通った頭の良い人間として、真理を探究して疲れて落ちていたのに、どうしてかこんな深い世界を知るようになったので、涙を一滴二滴ではなく滝のようにふり注いだのです。それに接するようになる時、その真理の前に恍惚を感じ、涙なしに記録できなかったというのです。一ページを記録するのに一週間かかったということを私は聞きました。ですから涙をどれほど流したか分かりません。本然の心情と通じることができる真理のみ言は、愛を爆発させても再爆発させる力をもち、その作用は歴史を通して成就されたのです。(一四一―七〇)
皆さん、原理の本は恐ろしい本です。原理の本を劉協会長が書いたといって軽視する人が多いです。もしこの本を私が書いたとしたらどうなりますか? みな引っかかってしまいます。再び言うまでもなく、一遍に引っかかってしまうというのです。霊界に行ってみなさいというのです。もし間違って書かれてあったとしても、軽視したなら引っかかるのです。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。分かりますか、何のことか。
経典は絶対視しなければならないのです。明らかに違っているようなのに、なぜそのように書いたのかと言う人がいます。それは全体を前において見るとき、そのように書くようになっているからです。そのように書かなければならない他の事情があったのであり、飛躍しなければならない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければなりません。そのように理解できなくて、自分が分からないことは間違っていると思っているのです。しかし原理は千年たっても変わらないものです。(三三―一〇一)
原理は生命のみ言が入っている倉庫です。原理を聞けば、大きな倉庫にゴムホースをつけて生命の水を供給されるのと同じです。この生命の水の味を一度知れば、その味に夢中になって口を離そうとしても離せなくなるのです。口を離そうとすれば口が落ちてしまって、行くなら行くでしょうが、離せなくなるというのです。これはちょうど蜂が蜜を吸うとき、ピンセットのようなもので尻をつかんで引っ張れば、尻がとれてしまいますが、蜜から口を離そうとしないのと同じです。このように原理には蜜よりももっと甘い何かがあります(九〇―一九九)
教会長は原理のみ言を、どんなにできなくても十ページ以上読まなければならないのです。皆さん、御飯を食べるでしょう? 一日に三度御飯を食べるでしょう? (はい)。三度御飯を食べるならば、それに合わせて霊的呼吸も共にしなければなりません。皆さん、原理のみ言を全部知っていますか? その原理のみ言をみな知っていますか? その原理のみ言を中心として、実践の復帰路程を現在身もだえしながら行く先生がいるのです。その先生の骨髄に流れる深い心情の谷を少しでも分かりたかったならば、そこに自分の根を深く深く下ろさなければなりません。
太い枝になろうとすれば深い根から来る液と関係を結び、それを吸収できる力がなければなりません。外側がうまく育った枝は見掛け倒しです。それは干からびた枝になり、あとから死んで落ちていくようになります。分かりますか? 深刻だというのです。ですから毎日のように祈祷し、精誠をささげなければなりません。(四六―一七一)
み言と伝道、皆さん、統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです。み言で武装するのと同時に伝道しなければならないのです。み言で武装するのと同時に、伝道の必要性をいつも強調しなければならないのです。心情の体恤というものは自分一人では駄目です。伝道しなければなりません、伝道。どうやって? 何で伝道をするのですか? 『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。どのページには何があり、全部……。(九六―三一八)
皆さんが原理を学ぶ時に、創造原理から堕落論、復帰原理を学ぶ時にそれは他人事ではありません。私の骨肉にしみ通る立場で学ばなければならないのです。すなわち、アダムの家庭を学ぶ時は私がアダムになり、ノアの家庭を学ぶ時にはノアになり、アブラハムの家庭を学ぶ時にはアブラハムにならなければなりません。彼らが実体的な復活体として失敗したために、皆さんも犠牲を繰り返す痛みを感じ、神様の悲しみを感じながら、講義を聞くことができなければなりません。アダムをはじめとしてみなそんな立場なのです。ですから私によって神様もアベルの神様になれるようにしなければなりませんし、アベルのアダムになれるようにしなければならないのです。(六六―二五)
神様を探し出すために、歴史的にした仕事を見ても探し出すことができます。動く神様を探し出すためには原理の勉強をしなければならないのです。そんな原理の勉強を皆さんができるようにするために、先生がこの地に来たのです。皆さん、夢の中で先生をたまに見る人は手を挙げてみなさい。そう、下ろしなさい。一〇〇パーセント見るようになっています。一〇〇パーセント見なければならず、困難な時はみなコーチしてあげるようになっています。(六〇―一六九)
2 講義ができなければ読んであげるのもよい
統班撃破において教育方法は全体を集めておいて、講義の実力がなければ原理の本をもって教育せよというのです。原理講義ができなければ堕落論を全部読めというのです。何か質問がありますか? 集めておいて原理の中で一題目を中心として三度に分けてしたならば、三分の一をいちいちチェックしながら、自分が本の中で強調することをちゃんと決めておいて、演説式に読んでいけばいいのです。講義が特別なものですか?
そのように一度やり、二度やり、三度だけやれば、既にそこで選ぶものが分かるようになります。簡単に要点を選ぶことができるようになります。十回もやるようになれば、その次には創造原理を中心として、十時間でするのを五時間で講義できるようになり、五時間でやるのを三時間で講義できるようになるのです。だんだんうまくなるのです。二十分、三十分でするようになれば、一時間以内に骨子を全部圧縮させることができるのです。そのようにするのです。
見なさい。教育学部を出て中高等学校の先生になる時、彼らの心境がどんなであるか分かりますか? 先生になるのを誰が願いますか? 彼らも災いを背負って山のような心配を抱いていくのです。スタートする時、壇上にどうやって自分が着陸するのかというのです。基地のない飛行機が空中に浮かんで着陸するような、そんな心なのです。ですから自分にあるすべてのものを総動員して、着陸のための準備をして、着陸を見事にしなければならないのです。そうやって着陸するのです。
そうやって、公認されたその立場に立つようになれば、自分の実力を発揮できるのです。全部要領よく選んでどのようにうまく使うのかという問題が残ります。その次からは、経験的な土台を中心として骨子を選んで教えよというのです。講義をたくさんせよというのです。講義ができないならば、たくさん読んであげよというのです。そうしながら論説をしていくのです。何の心配がありますか、本があるのに。本はみなあるでしょう? (一六六―一九六)
3 まず原理でもって講義の枠を立てなければならない
皆さんは全部統一教会に入ってから十年を越えた人たちですが、どこに連れていって立てても、原理の前編を講義しても後編を講義しても、さっと開いて詰まってはいけません。それ自体が一つの公式にならなければなりません。それで、これをすべての現象世界に公式として活用することのできる人間になれば、どれほど膨大な知識圏をもつことができるでしょうか? 皆さんは原理がおもしろくて夜を徹して本を読み、それに酔って内面的な面でも発展をもたらさなければならず、生活面でも発展をもたらさなければならないのです。それにもかかわらず、今までこのような基盤を喪失してしまったことは、皆さんには莫大な損害なのです。私はそのように見ています。
それで皆さんが活動しなければならない、面や郡を中心として、計画を立てて活動しろというのです。そして講義をするとき、自分が得意な講義はするなというのです。できない題目をとって精誠をささげて、一遍読むところを十遍読みなさいというのです。そうしてから講義をするのに、一遍に郡内で一番の部落で講義するのではなく、郡内で一番水準の低い所に行って、幾人かの人を相手にしてやってみるのです。それから一流級の部落でせよというのです。一回二回とやってみる中で不足なところを補強することもできるし、今まで自信がなかったところも自信をもつようになるというのです。自信がなければ発展がありません。このような観点から、皆さんが原理のみ言を宣布するにおいて、対象区域に対して計画を立て活動して、皆さんも発展しなければなりません。(二九―一九〇)
皆さんが講義をするためには、必ず原理を勉強していかなければなりません。二時間講義するならば二時間以上勉強しなければなりません。祈祷は二倍以上しなければなりません。そうでなければ聴衆を感動させることができません。
ここには講義することにも目的がありますが、自分が発展しなければなりません。講義の回数が増えるにしたがって、私自ら強固にした基盤をつくり、天的な心情の因縁をさらに強固にしなければなりません。その土台を中心として、全体に影響を与えることができなければなりません。そうすることのできる源泉と原動力が増進されることでやりがいを感じ、活動の価値を感じるようになるのです。ですから、このような活動を継続すればするほど、相対的に対する範囲もだんだん広がり、自分自身の実力も向上されることを感じるようになるのです。(二九―一八八)
4 原理の本を全部覚える計画を立てよ
統一教会のムーニーたちは原理をはっきり知らなければなりません。米国人の中には、原理をはっきり知っている人は一人もいません。原理がよく分かっていません。私が見る観点では、みんな分かっていません。しかし、分かっているみたいにしています。どうなっているのかというと、自分式に原理講義をし、自分式に考えるのです。そうではありません。違うのです。米国教会長が講義するのを見ても分かります。私が聞けば答えられないことが多いのです。(笑い) ですから皆さんは言うまでもありません。
皆さん、原理の勉強はみなしたでしょう? 何ページに何があるのかみな知っていますか? 全部で五百五十六ページですが、何ページに何があり何があるのか、またその文字の意味をみな知っていますか? それは私の体と同じです。私の体のどこにそばかすがあり、ほくろがどこにあるのか、それを知らなくてもいいのですか? (一六七―三二八)
皆さんが講義をしようとするならば、原理の骨子を、どのようにしてもつかみ出さなければなりません。原理講義ができないという言葉は、先生の前では適用されないのです。皆さんが多くの講義を聞くようになる時、「ああ、あの人はあんな講義をするのだな」と言いながら、そんな方面の表情だとかすべてのことを見るのです。堕落論ならば堕落論、創造原理ならば創造原理のある題目に入って講義する時、感銘を与えなければならないところでは、感銘を与える言葉を語らなければなりません。「いい」という言葉を言うときには「アイゴー、素晴らしい」と言いながら、ここに顔を和合しなければならないのに、そのまま「アイゴー、いい」と言えば……。そのすべてのことが内外にかみ合わなければなりません。
その原則を知って、どれくらい多くの講義をするのかによって、その人の力量とその人の実力が増えていくのです。ですからそう知って、皆さんが原理の本を全部覚える計画を立てよというのです。まず全部覚えよというのです。一日に一枚ずつ覚えるのです。そうすれば一年以内に全部覚えることができるのです。ところで皆さんはそうしませんでした。問題にしなかったというのです(五四―一八二)
皆さんが原理講義を勉強するにおいて、一題目一題目ずつ練習する訓練をするのが一番早いと考えています。そうではなく、創造原理から堕落論、復帰原理まで一遍にしなければならないという考えをもてば、講義をするのが本当に大変です。もし皆さんが講義するにおいて、創造原理ならば創造原理一題目をもって全部同じ講義をすれば、それに対して明らかに開かれてくるのです。
私の経験を通して見れば、そんなふうに訓練すれば、一年半あれば原理講義を完全にやることができると考えます。ですから最初からずーっと全部しようという考えは、初めからもたないでください。講義は誰もができることなのです。講義ができないという考えは初めから……。若い者がそんな考えをすれば、脳髄から引き抜いてしまわなければなりません。
『原理講論』の原本を見れば五百五十六ページからなっています。もし皆さんが一日一枚ずつ覚えていっても、これが二百七十八枚ですから、一年以内にみな詰めることができるのです。(五四―一七四)
私が皆さんに話したでしょう? 『原理講論』の一ページから五五六ページまでするするみな覚えようとすれば、頭のいい人は六カ月以内に全部覚えられますが、それだけ覚えれば世界のどこに行っても食いはぐれることなく、婦人と子供を勉強させる道が明るく開けると、そんな話をしたことが思い出されますか、出されませんか? せよということはせず、みな浮ついて病気になり……。それを誰が認めてくれますか、風が吹けば飛んでいくようになっています。そういう時が来たのです。(一二六―六五)
私があなたたちに講義をしきりにせよと言いませんでしたか? 原理の本を全部覚えてでもやりなさい。若い者たちが何ができないというのですか。今もそうです。講義ができなければこれから絶対出世できません。(一七〇―三一六)
二 講義をたくさん聞き、たくさんせよ
二 講義をたくさん聞き、たくさんせよ
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1 有名な講師の講義をたくさん聞かなければならない皆さんが世界的に有名な講師になろうとするならば、世界に散らばっている統一教会の責任者たちのみ言を全部聞いてみなくてはならないのです。それゆえに、勉強をするとしても、きのうと違うというのです。きのうと違うのです。あすの準備、さらに深い準備、さらに深い準備を……。映画を見るにしても、全く同じものを十回見る人と一回見る人とでは質が違うというのです。見て、また見たいという思いの人であってこそ、その映画の監督者以上の批判をすることができるのです。そうではありませんか? (そうです)。皆さんが原理を中心として慣れるようになるのに、どれくらい勉強しますか? 繰り返しをどれだけするのかというのです。そこに対して瞑想をし、実践をしてみて、また批判をして、こんなことをどれくらいしたかというのです。(六六―一〇六)
名講師になろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか? 全国の有名な講師たちが講義したものを録音したカセット・テープを集め、それを聞いて評価し、誰はどのようにし、どのようにするということから、良いものだけ抜き出して記録したノートを作っておかなければなりません。そのようにしようとすれば、録音したテープがいつも積まれていなくてはなりません。真の機知ある内容、数十名、あるいは数百名が機知あるように講義したものを抜き出して、自分が講義する時に、骨子にそれを付けて講義するのです。そうすれば、名講師になるのです。分かりますか? (はい)。皆さんもするのです。分かりますか? (はい)。それは何、国際会議で決議したのです。分かりますか? 世界会議で決議したのです。「このようにすることにする。ここ、韓国の責任者が来なかったので、私が行って代わりにこれを通過させる」と、このように約束してきたのです。さあ、分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。さあ、今この時間に通過させるのです。聞いたでしょう? (はい)。毎日のように八時間講義しなければならないのです。新しい人を連れてきて、一人であろうと連れてきてするのです。いないならば、食口でも教育して、配置しなさい。東西南北に配置しなさい。(六八―九四)
皆さんもそのようにしなさい。十年越えたならば、早く試験にパスしなさい。一括的に全部原理試験を受けるのです。分かるでしょう? (はい)。それでは、機動隊長は必ず一カ月に一人は責任をもって修練会に送ること!また、その次には道責任者たち、教会責任者たちも必ず実力者一人を送ることができるように、試験を受けること! 教会長たち、分かりますか? 教会長も教育を受けて帰ってから、必ず三回試験を受けるのです。分かりますか? 皆さんが試験官になるのです。そのようにして三人が採点して七十点になるならば、その次にどのようにするのですか? その人を機動隊に送りなさい。機動隊に送り出して、機動隊で七十点になるなら、機動隊をやめるというのではなくて、全部修練所に入れるのです。ですから、蘇生段階が何ですか? 教会で七十点取ることです。長成は機動隊で七十点取らなくてはならず、完成は修練所で七十点取らなくてはなりません。このようにしていってこそ、将来正常に統一教会の教会長の名義などを受けるようになるのであって、そうでなければ何もないのです。分かりますか、何のことか。ですから、まず講義をたくさん聞けというのです。皆さんも講義をたくさん聞かなければならないし、講義をたくさんしなくてはならないのです。(六八―九四)
東洋人の思考方式と西洋人の思考方式は、ちょっと違うのです。東洋人たちは何か一つのことに集中しようとするのですが、西洋人たちは、全部広がっていこうとします。そんな観点から、西洋人たちを教育して、ただ一つの仕事を十日、百日、三百六十日しても良いということができる人をつくっておくならば、間違いなく立派な人になるのです。ところがアメリカ人たちは変化のある生活を好むのです。そうではありませんか。一つのことを何度もさせるようになるともっぱらあきがきます。そんな点から、あすというものは、過去ときょうを通して連結されています。倦まず弛まない道を通して、直線を通して連結されるので、変わるものではなく受け継ぐものです。倦まず弛まずしたことが記憶されるので、皆さんが倦まず弛まずするようにする面を学ばなければならないのです。
あなた方が、射撃の名手になるにあたって、「ああ、一つの穴に十発撃ったのでいいです」。それで良いのですか? 一つの穴を一千回でも一万回でも撃たなければならないのです。続けてやるほど有利です。ですから、どんなに訓練をたくさんしたかという問題がその人の実績を……。そしてその実績が勝利を開拓する条件になるのです。これは間違いない事実なのです。
ですから、たくさん聞きなさい、たくさん聞きなさいというのです。千回でも万回でも講義をたくさん聞きなさいというのです。次にはたくさん講義しなさい、たくさん実践しなさいというのです。たくさん実践してこそ、それに比例して結果がくるのです。それは違いますか? (正しいです)。ですからたくさん聞きなさい。
さて、ミスター・キムが講義するのを聞いてみたならば、それだけですべて終わったのではありません。ここではミスター・キムの講義しか聞くことができないので、その次には韓国ならば韓国へ行って、通訳官を置いてでも聞いてみなさいというのです。「あー、この人はこのようで、あの人はこのようだな」と思うならば、十人あるいは数十人の講義を聞いてみて、その人たちの長所を見るのです。一つの条件を中心として数十名が材料をもっているので、数十名のその素晴らしい材料をもって、より良い講義ができるようになるのです。(六六―一〇九)
2 講義をたくさんすればするほど名講師になる
一つの例を挙げてみましょう。私は誰でも、ある物事に対して関心がなかった人でも、その道の専門的な人になることができると思います。専門家は他のものではないのです。どれほどたくさん講義するのか、どれほど根気よく克服して、たくさんするかにかかっています。ここには素質があり、頭脳もあるでしょうが、素質や頭によることよりも何倍もすればできるのです。何倍もすれば、できるというのです。
先生が学生だった時代に同窓生の中に、こんな人がいたのです。彼は学校で勉強を教わる時、何であっても朝から夕方までかけて全部暗記します。その人は一番初めには学級で成績が下のほうだったのです。ところが卒業する時は、クラスでトップの成績を取るようになったというのです。根気よく、他人よりももっとしたのです。いかに天才といっても一度読んで記憶する人と、頭が悪くて一日中読んで記憶する人と、どちらの人が長い間覚えているかといえば、一日中読んで記憶する人が長い間覚えているというのです。のちには、誰が一番たくさん知っているかといえば、ひたすら一から全部暗記した人だというのです。のちに卒業近くになると、一から全部暗記した人にみんなが聞いてみるようになるというのです。その人が全体を代表することのできる立場になるようになるというのです。これを見る時に、皆さんが講師になれないと思ってはならないのです。なることができます。ただ何倍の努力をするかにかかっているのです。何倍の努力をするのかというのです。どれほど努力するのかというのです。きのうここにいるディビットから「年を取った人たちは、頭がよく回らないのでどうだ……」ということを私は聞きました。私はそんなことを聞くと、「修練所の責任者としてそんな考えをしたら駄目なんだが」と思いました。腹がすいている時、御飯を食べたい心以上に講義してみたのかというのです。それ以上してみたのかというのです。(七二―三二九)
ピアノを弾くことも、五本の指の中で、この指とこの指の弾く力は違いますが、それをどうやって同じように弾くかということが基本になるのです。そのようにしようとするならば、たくさん練習をしなければならないのです。これはもっと強くなければならず、これは弱くなければならないということをあらかじめ考えておいて、それが全部科学的に、自動的に動かなければならないのです。自分が練習をして、訓練した基準がどういうものなのかを正確に知らずしては、名ピアニストになることはできないのです。
皆さんは言葉を話しますが、その言葉を話すにあたって、どんな基準ももっていないのです。「私は何を標準としてこのように話す。この言葉はここから出発した言葉だ」という観点をもっているのですか? ただ、聞いて話しているのです。そういう人たちは表面的な人間にしかなれないのです。(六七―二一四)
原理講義をどれほどたくさん繰り返ししたかということが、心情的な面やあらゆる面の人格を育てるにあたっての動機になるのです。(六六―三一〇)
「私は一生に何回講義をするのか」これを考えてみましたか。御飯を食べる時、御飯をかめばかむほど甘い味が出るのです。舌鼓を打ちながらこのようにしておいしいか、おいしくないか分かりますか。一度さっとしては、分からないのです。ですから、同じことを何百回でも繰り返ししようという心をもたなくてはなりません。(六六―三〇八)
講義も同じです。それで、私が本部で語る言葉は、「二時間講義をしようとするならば三倍の努力をしなさい」と言うのです。六時間は準備しなければならないのです。そのように教育してきたのです。十年、二十年間講義をしても、毎日準備しなさいというのです。そうすれば十年間同じ講義をするとしても、聞く場合、違うというのです。感じが違ってくるのです。
東洋の食べ物を見ると……。洋式は簡単ですが、韓国の食べ物は、同じ手際で作ったのでも味が違うというのです。千万種類の味があるのです。同じです。正に、同じだというのです。何であっても、何度も何度もしてみると専門家になるのです。専門家は、して、して、またした人なのです。味をただ一度で、最高に早く感じる人たちが専門家なのです。(九六―一七〇)
ここで、ミスター・キムが出てきて講義をしたとしても、講義する時、彼を見れば祈祷をして出てきて講義をするのか、恩恵をたずさえて出てきてするのか、比較できなければならないのです。仕方なくするのか、本当に私たちのためにするのかということを、すべて知ることができるのです。先生がしなさいと言ってするのと、自ら進んでおもしろくてするのとは違うのです。
「私がもし、聴衆を前にして講義をするならば、全体の心が引きつけられるように一度してみよう。どこで感情を与え、どのように感動を与え越えていくのかだが、あのように越えていくんだな」というふうにです。一人の人が講義をしても、五十名が見る観点が全部違わなければなりません。感じることが違わなければなりません。そんな立場から、皆さんは勉強をしているのですか? そのようにできていないようです。先生は、皆さんがそのようにできないと思うのです。祈祷する時も見てみると、イエス様の十字架像を壁に掛けておいて、その下に座って祈祷をするのですが、祈祷内容がきのうもそんなようで、きょうも同じの人は、宗教生活をしている人ではないのです。同じことを毎日のように見ても、それが毎日違うというとき、その人は神秘的な信仰世界に入っているのです。そうしてこそ、偉大な信仰世界に入っていき、新しい世界を発見できるのであって、それを見るとそのようであり、見てもそのようであり、そのようであり……。それはそれで、終わってしまうのです。
毎日、同じことを続けてするとしても、味がある、ない、どちらですか? そうするうちに、それが良くておいしいということを続けてやっていくうちに、それを食べて大きくなるのです。(六六―一〇九)
三 講師が備えるべき姿勢
三 講師が備えるべき姿勢
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1 原理を活用する講義法と講義する者の姿勢皆さんは今度帰ったならば、時間を最大限度に活用して、計画を立てて、部落なら部落、面なら面の重要な所から活動することをお願いします。十個の面に行ったとしても同じ話をしてはなりません。原理講義を創造原理、二性性相から始めたならば、次には逆に二性性相が結果になるように講義しなければなりません。
授受作用を中心としても、二性性相を引っ張り出して講義することができます。また、三対象目的を中心としても、主体と対象を中心として二性性相を講義することができます。このように多角的な面で講義できなくてはなりません。創造原理ならば創造原理の一タイトルをもってしても、全体を活用することができなければなりません。このような訓練が必要です。そのようにすることによって、講義を聞く人には新しいことを与えることができ、自分自身にはそれだけ多角的な面から原理講義を応用することができる活用力が得られるのです。
そのようにすることによって、自分の前後、左右、上下関係が高く、深く、広くなる時に、満足感を感じるようになります。原理講義を一度より二度、二度より十度、十度より百度すれば、講義する回数に比例して痛快さを感じるようになります。また、原理のどんな部分をもってしても、どんな誰とでも対決することができる実力を備えるようになることを知るようになれば、誰でも喜ばざるを得ないのです。このような活動の結果を通して自分の実力が増進する喜びを感ずることができないので、活動したい意欲を失ってしまうのです。それゆえに、郡ならば郡と、ある対象地を選んで、計画を立てて実践するにあたって、自分の実力を増進させ、養うという立場から努力するならば、皆さんは無限に発展するのです。(二九―一八九)
復帰歴史は再創造歴史であり、再創造するためのものが原理なのですが、原理だけをもって創造ができるのでしょうか? できますか、できませんか? (できません)。原理だけをもってできますか、できませんか? (できません)。できないのです。再創造しようとするならば、どのようにしなければならないのでしょうか? 神様のみ言を通して、相手方へ及ぼすことのできる動機や過程の因縁を結ばずしては、実体的な再創造は不可能です。何の話か分かるでしょう? 神様が天地創造をする時、原理を中心として神様が心情の主体になって、原理と一つになり、対象を造っておいた、ということではないでしょうか? そうでしょう? ですから、私自身が余裕がなくてはなりません。講義する時、原理全体の骨子を考えることにすべての神経を傾け、頭を使ってするのはいけません。自分の心に神様をお迎えして、神様が臨在し、自分と一つになることのできる心的余裕の底辺がなくてはなりません。
それがなくなれば、神様がどうやって活動するのでしょうか? そうしないで講義の骨子が頭にしっかりととらえられるでしょうか? そうしてはいけないのです。ですから、講義をするときは、必ずそのことを自動的にすべて知っているという立場から心の余裕をもって、「神様が何を願っていらっしゃるか? こんなみ言を中心として考えてみるとき、神様がどんなに御苦労されたか?」ということを感じて、心情が誘発され得るように相対の立場に立って、心で神様と授け受けすることができる相対的な基準をつくらなければなりません。分かりますか?
それだけでなく、神様と一つになると同時に、相対が神様のみ言と、主体的な神様の能力と、私と一つになり、再創造されることを感じなければなりません。必ず、新しく改造されなければなりません。改造を原理がしますか? 神様が改造してくれるのです。そうでしょう? 皆さんが神様の前に心情的相対になるならば、神様の力がそこに共にあり、対象を動かすことができるのです。原理がそうです。主体と対象が授け受けするならば、繁殖が起こるでしょう?
そうすれば必ず、ばったりと倒れるようになっているのです。これが原理を活用する講義法なのですが、そんな講義法を活用した人は手を挙げてみなさい。いませんね、いません! そこに発展があれば偽物です。統一教会の原理が偽物です。何を言っているか、分かりますか? (はい)。
再創造歴史ですから、神様が主体になり、私が協助的な足場になり、授け受けする力があってこそ、繁殖的な第三対象が復帰されるのではないのですか。再創造がそれです。それが原理観なのです。そしてそれが原理講義をする人として、備えなければならない姿勢です。ですから、原理を完全に知らずしては、そのように相対的な影響を及ぼすことができる自分の心的基盤を断定することはできません。それをはっきりと知らなくてはならないのです。分かりますか? (はい)。それゆえに、祈祷をしなければなりません。祈祷をしなければならないのです。「父よ、きょうはこんな題目で講義をします」と言うのです。祈祷の中で講義をしながら、神様がこのような心情をもったということを感じなければなりません。
神様と相談しながら講義をするのです。「あなたがこのみ言を中心として、あなたが必要とする相対としてきょう復活させる人は誰ですか? あなたが願い、あなたが待ち焦がれる人がいるならば、私がもっている力を尽くしてその人を逃しはしません」。このように祈祷しなければなりません。分かりますか? (はい)。これはただ、「私がするやり方のとおりに、いつでも講義をするでしょう?」と思うのですが、それは伝えることはできますが、人の生命を復活させることはできません。絶対生命を蘇生させることはできません。分かりますか? (はい)。
それゆえに、先生もそうです。講義をする時必ず神様を中心として、影響を及ぼすことのできる立場からするのです。必ず神様を通して……。そういった環境的な心情の根の基準が……。それが原理観でしょう? このように見ても正しいし、あのように見ても正しい、それが創造原理なのです。再創造歴史として復帰をするのではないのですか。神様を除いて再創造ができますか? (録音がしばし切れる)
今、先生が話したように、神様を動機として講義するようになれば、難しいことはないのです。講義をする時間ほどおもしろいものはありません。死んでいた生命が一瞬に復活するのです。分かりますか? 間違いなく復活します。ですから講義以上におもしろいものはありません。環境が擁護し、神様が歓迎する中で、神様が保護する席で生命が育つのです。ところが、あなた方は大概みないろいろ……。神様の前に悔い改めなければなりません。「私の力が足りないのは、準備が足りないからです。準備が足りないのは、努力が足りないことだと哀惜します」と言わなければなりません。涙を流しながら、「父よ、この罪人がいで立ちました」と言い、さっと出かけていき、最初の言葉で口を開くようになれば、神様は共に働かれるのです。
さあ、それでは皆さん、今までどんな意識的なことをしましたか? 原理に立脚した立場で講義しましたか? どんなことをしたのか、考えてみなさい。原理に立脚したことをしましたか、立脚しないことをしましたか? 原理に立脚したことは神様が共になされるのです。皆さんもそうなのです。公判廷に出ていく気分なのです。何の話か分かりますか。先生もそうなのです。今でもそうなのです。その時間というのは……。もちろんみんな分かっていますね。どんな話をすることもみな知っていて、どこへ出かけていっても、何時間でも話すことができるでしょう? しかしながらこの時間、神様が一番必要としている言葉を話すようにしてくださいと、祈祷するのです。そのようにして講義するならば、初めて来てみ言を聞いた人は、どうすればあのように私が願っていた言葉を話してくれるのだろうかと思うのです。み意がある人には、夢の中でみな見せてくれるのです。そうすれば、どうして夢と全く同じ話をするのかということが起こります。そんなことばかりを体験するならば、一度に完全に生命をささげ、この道を行くことを決定するのです。そんなことが起こるのです。分かりますか?
今、霊界を動員できなければ、皆さんから発展を期待することはできません。明き盲になって、がりがりにやせこけて、砂漠のようなのに、伝道するならば、できるのですか? 原理が創造することができますか? 創造しますか、皆さん、原理に従わなければなりません。先ほども話しましたが、神様が皆さんに従っていくことはできないのです。神様があなた方に従っていけるとするならば、復帰は既に終わっているのです。分かりますか。神様が救済摂理をするにあたっては、神様に従っていける道を教えてあげて、皆さんが神様に従っていくようになっているのであって、神様が皆さんに従っていかないようになっています、そうでしょう?
イエス様が皆さんに従っていかないようになっているのです。皆さんがイエス様に従っていかなければなりません。先生が皆さんに従っていかないようになっているのです。皆さんが先生に従っていかなければなりません。先生は皆さんの前で相談もしないのです。相談をしないようになっているのです。「私たちが討論して民主主義式に挙手制度で、みんなやりましょう」としてはいけないのです。そのようにして、それが天国に通じるのですか? とんでもありません。それならば民主主義式に神様を除かなければなりませんか? そのようにするようになってはいないのです。
原理に従わなければならず、神様に従わなければならず、先生に従わなければなりません。そうでなければ、みんな異端者です。講義する者の姿勢について、分かりましたか? (はい)。皆さんのひざにたこが(めり込むほど)できなくてはならないのです。先生が教会を始める時、そうだったのです。今もここを見れば、たこがあるのです。祈祷をしないでできると思いますか? ひざすべてに、たこがめり込むほどできたのです。このみ旨を責任もって出て立つようになる時は、事実忙しくて祈祷する時間がないのです。今も時間をとって祈祷しますけれども、昔のような祈祷はしません。最初は時間がないので……。イエス様も夜を徹して祈祷したでしょう? そうでしょう? 霊界を動員しなければ駄目なのです。皆さんがそんな心情に徹していれば、神様が役事するのです。一言言うなら、言ったとおりになるのです。このような驚くべき基盤が一皮だけむけば開くのに、それを知らずに皆さんが今まで……。それを知ったならば、太陽の光が来れないようにしますか? これをはっきりと知らなければなりません。分かりますか? (はい)。講師、講義する者の姿勢が分かりましたか? (はい)。(六八―九七)
2 神様が共になされるという信念をもちなさい
皆さんは、壇上に出るようになる時、一人でいると考えてはいけないのです。鉄の柱のようなものが私に刺さったと考えなければなりません。天からこのように刺されたものがあったというのです。誰か、四方から押しても押し尽くすことができない信念をもたなければなりません。そうではありませんか。戦いは、力が強ければ勝つのです。それと同じです。霊的なので、霊的な力の母体がなくしては、勝つことはできないのです。(六六―二一六)
皆さんも、そのように知って壇上に立つ時は、「私が壇上に立つのは、神様と一緒だ」という生活哲学がなくてはなりません。神様と共に、神様が一緒に生きたいという場所で、聖人を代表する、王様を代表する、国民を代表するという立場に立って、宣言する教育をしなければなりません。
私を模範としなさい。何をですか? 知識ではありません。国と共に、聖人の道理と天理と共に、一緒に生きたいという情緒的基盤の上で……。そこでは、いろいろな方向性が必要なのです。経済、哲学、科学のような専門分野が必要です。安息の場の基盤にならないのなら……。砂漠のような所では水があるはずがなく、水がない所では草木が育つことができません。(一四八―二七七)
皆さんが初めて壇上に立つ時、その壇上に立つまでには気を揉むような気持ちを感じたことでしょう? またある時は、じっと耐え忍ぶこともすることでしょう? それゆえ、その立場が公的な立場である時は、その背後にいらっしゃる神様はどんなに心を揉んでいらっしゃることかを考えなければなりません。神様はどんなに心を揉んでいらっしゃるかを考え、自分の不足さを感じるようになればなるほど、神様のもどかしがっていらっしゃる心情に触れるようにしなければなりません。そのようにして、悲惨でかわいそうな立場にいらっしゃる神様を感じるようになるときに、その立場にいる聴衆をとらえることができます。その立場がどれだけ大きいとしても、神様に同情し、神様を中心として、悲しんだり感激したりする心を爆発させる内容を説教するならば、聴衆の心をとらえることができるのです。(四二―七八)
3 相対の関心を呼び起こしなさい
講義する時は、参加している人たちがキリスト教徒であるならば、その人たちが聖書に対してどんな疑いをもっているかを、すべて知らなければならないのです。伝統主義のキリスト教徒たちについては、「私はイエス様が神様だということをいくら信じようとしても、信じられなかった」と言いながらです……。「そして聖書にイエス様が十字架で亡くなられようとした時、『ああ、父よ、できるならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』と言ったのですが、イエス様が神様ならば、どうしてそんなことがあり得るだろうか。そしてイエス様が三日間死んだのですが、神様ならばどうしてこんなことをするのだろうか。そのような問題を考えても、信じられなくて悩み、悩んできました。ところで、ここ、この統一教会のみ言を聞いて、すべてのことをはっきり知るようになった」と言って、とても痛快な話をするのです。
そのようにして、関心を、好奇心を呼び起こさせるのです。それゆえに、とても理解が難しいならば、見捨てようとするまでしたと言うことができるのです。そのように話してみると、何のことだか分からなくて、こんなことを言っているのかと、ただ目をこのように開けて見るのです。
入っていけばいくほど、すべてのことがみんな自分たちの現在の心理状態と全く同じ立場を経てきたので、彼らが疑っていることを既に、みな解いてあげながら、証を兼ねてこのように講義をしていかなければなりません。原理を講義する時、結局はどんなことかと言ってみれば、「これこれによってこのようになり、このような観点から見る時、堕落はこんな愛の問題でなければ駄目である」。このように帰納的な方法を通して、演繹的な結果を出すことが必要なのです。牧師たちが悩むこととは何かというのです。もし牧師が来たなら、牧師の立場から話をするのです。信者たちを伝道しようとするならば、これこれの難問題があるので、これを壊してあげなければならなく……。そんな話をずーっとしていくのです。もちろん、自分たちの悩みにぴったり合っています。
ですから、その人たちの心理、今現在感じている気分を「禿鷲のひなたち」のように感じるのではなく、その人の立場がどんなであるかを感じなさい。私もずっとそんな体験をしたと話すのです。そのようにしても駄目なので、新しい何かを探してみてここに来たのですが、まず最初には私も驚いたと、そう言うのです。そんなことがあり得るのか、と言いながら……。(六七―二七)
四 講師が留意すべき点
四 講師が留意すべき点
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天が個性真理体を必要としていることを切実に知っています。「あー自分自身が完成を見ないならば、天は動いてくれない!」。自分自身が完成することができる位置に入っていくことができないならば、心情をもって内外が一つにならずしては、天が動かないということは天理の原則です。私たちの原理の教えは、間違いない事実です。私たちの統一教会の教会長たちは原理講義をすることを、ただ習慣的にぶーぶーぶーぶー、(鳴らすように)話してしまうのです。生命が一緒に働かない所においては、動くようにはなりません。寝ても覚めてもその講演時間になります。「寝ても覚めても? 二十四時間、全中心をそこに結びつけなければなりません。御飯を食べても、寝ても、起きても、水を飲んでも、どこへ行っても、皆さんがどこへ行ってどんな自然を見ても、考えはその自然にあるのではなく、全部その講演時間に集中しなければなりません。甚だしくは寝る時間までも、寝ても覚めても、夢の中でもそのことが展開するのです。あるいは、祈祷の中、回想の中でもそうなのです。そのようになれば、あすの聴衆がみな現れてきます。このようになれば、その中で、ある人は「あー、どのようにしたらこのようにもぴったり合うのか」と、その聴衆は完全に参っていくのです。分かりますか、何のことか。(はい)。完全に参っても、自分のために、自分の権威と自らの実力に自信をもって人の前に立つような時は、失敗なのです。
このようなことを見る時、講義をして出てきたら悔い改めなければなりません。「父よ、生きた祭物というものが、こんなことを指して言うことだということを知りました」というのです。そのように寝ても覚めてもするところには、天が共に働くのです。寝ても覚めても、二十四時間天のためという精誠、こんな心情が宿る所には、天が共に働きますが、そうでない所には天は虫(注:かつお節虫)のように共に働くのが難しいということを、皆さんが信仰生活をしてみれば分かるのです。(七一―一四二)
統一教会の講師たちも原理のみ言を伝える時、聴衆が良いと拍手を打って歓迎するならば、「ああ、私が講義を上手にして良く思っているんだな」と考える者たちはみんな、盗賊の心根をもっているのです。それを良く思っていると考える前に、「天の恩徳によって私がこのようになった。この良いことを神様が喜んで受けてくださいますように」。このように祈らなければならないのです。それが孝子の心なのです。分かりますか? (はい)。「私は三年間教会のために働いたのですが、先生は私を分からないでいる」。(笑い)そんな人は誰のために働いたのですか? そんな者は忘れてあげるのが、根本の原理(元亨利貞)です。当然のことです。それならば、誰のために働くことが良いのですか? 自分のために働いてはいけません。自分のために働くことは自分が既にみな受けていたのですね。天のために働いてこそ、同情を受けるのです。道理はそのようになっているのです。(五七―一二八)
皆さんが講義する時に、初めは上手ですが、あとになると自分を誇って出てきます。神様を誇りとして出てこなければなりません。私自身も同じだというのです。私が優れていると誇るのではありません。私がこれくらいの影響力を及ぼすことができる基盤を用意したと誇るのではなく、大きくなれば大きくなるほど、高い所から眺めておられる神様がいらっしゃるということを考えなければなりません。小さければ小さいほど、高い所を眺めて、遠い所を眺めなければなりませんが、大きくなれば大きくなるほど、自分の身のほどを知らなければならないのです。(四三―八八)
皆さんが壇上に立って、大衆を教育するようになる時、自分は言葉が上手であり、だから人々が感動を受けると誇ってはいけません。十回正しく、百回良くすることができるとしても、百回以上でもその仕事をやろうという心をもたなければなりません。先生はそんな一念をもっているのです。(四九―一六〇)
皆さんが今育っている過程にあって、誰かが皆さんのする講義を批判しても、そこで絶対恐れてはならないのです。「誰が批判するのか? そのように批判するのは何だ」。そのようにしてはならないのです。それを一〇〇パーセント受け入れなさい。そうする人は発展するのです。「私がそれぐらいしたならば上手にしたはずだ」という人は、それ以上発展できないのです。それが限界点なのです。関係を結べなくなってしまうのです。(六六―一一〇)
皆さんがみ言を伝えてから、物足りなさを感じる時があるはずです。それはみ言を通して私に得るようになったことがないのです。ただ、そのまま前にした方式のとおりに講義をするのですが、何を感じ、何を得るのでしょうか? しかしみ言を伝えてから自分が心温まるようになり、自分が発展するということを感じ、自分に利益が増えることを感じなければなりません。そうしてこそ、継続的な活動をすることができるのです。ですから、「三年後には私がこんな水準になるはずだ。五年後には間違いなくこんな水準にまで行くことができる」という確信が生じなければならないのです。(二九―一八八)
第四節 講義と牧会者の使命
第四節 講義と牧会者の使命
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一 講義という牧会者の重要な仕事1 責任者は口がはれ上がるくらい講義しなければならない
皆さん、舌を一度出してみなさい。舌、これは一日に何時間働きますか? 御飯を食べる時に働くでしょう? それは、誰のためにそのように働きますか? 誰のために? 御飯を食べる時は誰のために働きますか? 私のためにするのです。ですから、舌はいつ他のために働くのでしょうか。いつ働くのですか? 自分のために働く時間よりは他のための時間が多くてこそ、初めてその人が善なる人になるのです。ですから、教授でも何でも、先生でも何でも、働く人たちはみんな自分のために御飯を食べる時間よりも、他のためにたくさん舌が苦労している人たちです。その人が有名な人です。立派な人なのです。
その次に、皆さんは誰のために涙を流してみましたか? 自分のためにはよく泣くでしょう。自分のためにはそうでしょう? それでは、他のためにはいつ涙を流してみましたか? 涙も二種類があるのです。自分のために泣く人は地獄に行きます。他のためにたくさん泣く人は天国に行くのです。
それゆえに、この舌をちょっとこき使いますか、こき使いませんか? (こき使います)。うちの神学校を出たお嬢さん、話すのが嫌でしょう? 人と話すのが嫌でしょう? しかし字を書くことは好きでしょう? 読んで、考えてしまいます。それが怨讐です。ですから、自分が好きなことの反対をしなければならないのです。発展しない人たちは、自分が好きなことの反対をすれば必ず発展するのです。分かりますか、何のことか? 自分が好きなことの反対のことだけをすれば発展するのです。自分が好きなとおりにして駄目な人は、自分が嫌いなことをすれば絶対的に発展するのです。そうするほかはありません。さあ、講義することが好きですか? 講義することが嫌いですか? ですから、伝道が駄目なのです。講義することが好きならば、伝道されるのです。(九六―一七二)
講義をする方法を知っている人、手を挙げてみなさい。下ろしなさい。講義のやり方を知らない人は手を挙げてみなさい。みんな、やり方を知っていますね? するのです。聴く人がいないのなら、公園へ行って十六時間してみるのです。人がいないなら「神様! きょうは家でせず、公園へ行って十六時間やります」と言ってでも、そのようにやるのです。六カ月間毎日のようにしてみるのです。皆さんは知っている友人を捕まえて講義すれば、三カ月もたたずに講義するのが面倒くさくなるはずです。その先生の言葉が正しいようですか、どうですか? (はい、正しいです)。どれ、皆さん方は、何時間講義をしてみましたか? 先生が先年正月一日の日でしたが、延々十六時間話をしたのです。そのように話をすることが、もう楽で話をすると思いますか? 二十四時間、目を開けた時間から目を閉じる時まで話をするのです。そのように生きてきたのです。(一〇七―二五〇)
さあ、この唇が裂けるように、血が出るように話をしましょう。今年中にするのですか、しませんか? (します!)。十日から四十日以内でもしましょう! それができないならば四十日間でもしてみようと決定します。あまりにも歩いて足がはれるように……。車は何の車ですか? 小さな村では歩き回って初めて、できます。足がはれて、このように歩くようになるまで一度してみましょう。(九六―一七八)
話をたくさんしなければなりません。一日中、言葉をしゃべるならば、舌はこのようにはれます。そのようになっても話していたら、舌をしょっちゅうかんでしまいます。こんなことも感じてみなければならないのです。また、口の中がはれたら、唇をしょっちゅうかみます。そのようにして、御飯を食べようとするならば、がさがさしてのどへ落ちていかないのです。
それが、自分の財産です。そういうことを神様は覚えています。分かりますか、何のことなのか? (はい)。(六〇―三四五)
このたび、「来なさい」と言ったのは、皆さんを一定のコースに追い込まなければならないからです。もし講義をして倒れたなら、私が看護してあげますから。そうして死んだら、私が葬ってあげますから。それなら霊界へ行って、話すことがあるのです。先生のみ言のとおりに、のどが裂けるように講義をして倒れたとすれば、その業がどんなに深刻でしょうか? 死なないならば生きることをしなければなりません。そんな業をしたので、神様が先生を押してくれたし、今まで滅び得るレバレンド・ムーンが、世界的に問題の人物になりました。そのように残っているのです。(一〇七―二四九)
なぜ口を通して、話すようになるのかという問題を見るとき、天と地が調和した口を通して、すべてのことが連結されているからなのです。すべてのものが通じているというのです。舌は宇宙の中に隠されているのです。舌というものは、神様を象徴しているとも言えます。(八六―一六五)
2 御飯を食べるように毎日講義しなさい
あなたたち、講義するのが嫌いでしょう? 講義するのを嫌いな連中ではありませんか? 講義するのが嫌いですか、好きですか? (好きです)。何が好きですか? どれくらい好きですか? 御飯より好きですか? 御飯を食べるより好きですか? (そんな時もあります)。それならば悪い時もあるということですか? (笑い) 好きならば、どれくらい好きですか? 御飯よりもっと好きでなければならないのですか? 御飯より嫌いでなければならないのですか? (もっと好きでなければなりません)。一日に三食飢えても、み言は三回以上話さなければならないのです。一人が来ても講義しなくてはなりません。それも嫌ですか? そのようにしなければ、どろぼうなのです。そんな者は肥料桶にでもなりなさい。ごみ箱にでもなりなさい。
それでは、一日に三回以上講義をしてみましたか? 三人にすがって。皆さん御飯を食べる時を見れば、「あーおいしい、あーおいしい、あーおいしい」と言うでしょう。腹がすいている者たちが御飯を食べるのを見ると、すっかりごった返しているでしょう? ところでこのようにおなかがすいている時、御飯を食べようと入ってきたのですが、御飯がなければどんなに困ったことになりますか? 皆さん、家族がいなくて困るでしょう? どんな凶年になったのですか? それゆえにおなかがすいているのですか、すいていないのですか、霊的に? おなかがいっぱいですか、すいていますか? (すいています)。それならば、肉的には御飯がおいしいと言いながら、み言を通した霊的な御飯は食べないのですか? ただ、家族たちに対し、人に対する時、御飯を食べる時よりもおもしろ味が出なければならないのです。朝起きれば、きょうはどこへ行ってみ言を伝えようかと思い、お母さんが乳飲み子を捜すのと同じように心配しなければなりません。この家へ行くか、あの家へ行くかと思い、「神様、きょう伝道しに行こうとしているのですが、どこへ行かなければならないのか分かりません」と祈祷をするのです。本当に分からないのなら、占いをするのです。手のひらに唾を置いて、バシッと強くたたき、一番大きな唾の露が落ちる所へ行けばいいのです。(笑い) それが正しいのです。そのように占うのが正しいのです。そんなことがしょっちゅう起こったのです。あー、私の考えは神様の考えに近いなあ……。私は占い師ではないけれども、私のすることが神様に近いということを発見するようになります。神様が教えてくれます。
道端で、どの家へ行かなければならないのか分からない時は、ただボールペンを蹴って「ボールペンが左側に行くようになれば、この家だな。右側へ行くようになれば、あの家だな」と決めるのです。(笑い) そのようにして「ポン」と一度蹴ってみるのです。真ん中を蹴るのですが、ボールペンが右側に行くようになれば、右側へ行くのです。(笑い) それが正しいのです。そのように、生活的にみ旨を環境に適用させるようにしなければなりません。このようになって初めて、実感が出るのです。分かりますか? (六〇―三四五)
講義することができるならば夜昼、講義するのです。御飯を食べるように、講義をしなさい。人がいなければ探しにいって道端でもして、本当にいなければ、食口たちにすがって、泣いてもして、それでもいなければ、自分のお母さん、隣近所、友人を呼んでもしなさい。遊んでいてはいけないのです。分かりましたか。(はい)。(九六―一四一)
すべての我々の団体長たちは、講義ができなければ駄目です。あの、ニューズ・ワールド社の社長も講義しなければならないのです。ポールも講義するために、事業をしている人たちを組織して人を呼びなさい。それゆえに統一教会傘下のすべての団体は一つの軍隊です。軍隊には砲兵もいるし、騎馬兵もいるし、歩兵もいて、海兵もいるのと同じです。教育方法はみな同じです。方向が違うだけで同じ教育をしなければならないのです。その人員たちを歩兵からみな管理しますか? 自分の所属から管理するのです。そうしてこそ地上天国が起こるのです。(九六―一五九)
皆さんは責任者でしょう? 責任者として毎日のように講義している人、手を挙げなさい。毎日のように講義している人。皆さん、全世界的に決まったこととは何かといえば、我々の責任者としては、毎日八時間は講義しなければならないということです。一般の人たちが、八時間労働しているならば、統一食口は八時間以上働かなければなりません。公式的に全部時間表を作ってあげています。皆さんからも時間表を作ってもらうはずです。自分の教会で一緒に住む人が一人でもいるならば、朝一緒に起きるのです。統一教会は六時に起きるようになっているのです。そうでしょう? (はい)。十二時に寝て、六時間寝るのが統一教会の規定時間ですから、六時に起きて、洗面して何かするのに六時半まで、三十分あれば十分です。六時半から八時半まで二時間は講義! 既存の食口たちを育てなさい。講義するのです。その次に、食口たちが一人、二人生じるならば、連れて伝道をしに(外へ)出ていくのです。八時半から三十分間御飯を食べて、その次に伝道をしに出かけていくのです。一緒に連れて出かけていき、街頭で伝道するのです。
人と会って精誠を込めて伝道をするのです。そうして人と会えば、連れて入ってきて講義をするのです。その時間は十二時から二時半までです。分かりますか? 何のことか? その次に四時半から六時半まで講義して、八時から十時までまた講義するのです。八時がとても遅いならば、それは調整するのです。三十分を繰り上げて七時半から九時半まで、一日に四回は講義しなければなりません。一人もいなければ、自分の妻でも連れてしなさい。しなければ駄目なのです。教会には二人以上いるので講義しなさい。
精誠を尽くしながら、毎日のように一人でも連れてきて講義しなさい。そういう時、百人、千人あるいはその部落、その群れ、その道の責任を負ったならば、責任を負ったその人口に比例する数を中心として、その人たちの全体に相対するように考えて、代表的な一人のために講義するようになれば、その人たちの霊界の祖先たちが協助してくれて、聞くことができるという心をもって講義しなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。みんなその時間をつくるのです。教会長たちは一日に四回は講義しなさい。そして基盤だけを築くようになる日には、その次からは六時間はいつでも講義をしなさい。そのようにして、二時間はこれから育てる人たちに時間を割いてあげて、特定の時間をあげて講義をさせなさい。分かりますか、何のことか。書きましたか、書きませんでしたか? (書きました)。(六八―八三)
3 壇上の席というのは多くの生命に責任を負う席
どんな指導者になったとしても壇上に立ち、数万の大衆の前にみ言を伝えるその時間は深刻な時間です。指導者が壇上に立ちみ言を伝える時は、どのようにして多くの人へ生命の因縁を加えて、天と連結させてあげるかということを考えなければなりません。それが指導者の責任です。(四二―七六)
我々の統一教会のみ言はこれを一言で聞くなら、イエスかノーか二つに一つを決定するみ言なのです。それゆえに人間が死ぬか、生きるかという問題が、皆さん責任者の言葉によって左右に分かれるのです。こんなことを考える時に、死ぬか生きるかという問題を左右してしまうこのような立場に立つ責任者というものが、どんなに恐ろしい席でしょうか。有名な医者であるほど責任が大きいのです。
有名な医者であるほど、そんなものなのです。有名な医者が執刀したのですが、約三日間毎日のように連続的に人が死んでしまうようになれば、その医者には個々の骨だけ残っているのです。それと同じように、生命を指導する私たちにとっては、医者の中で最高の医者にならなくてはなりません。
皆さんは、そのような責任者がどれほど重要であるかを知らなくてはならないのです。学校の先生はただ単に本をそのまま教え、それが理解できるようにして、試験にパスするようにすれば、それでよいのです。それは生きるかどうかという問題とは関係がないのです。分かりますか? 分かって試験だけ通過すればよいという実際が問題になるのではありませんか? そこでは、「知」、知ることで終わるのですが、今日霊的な指導者の教えは、知だけで終わるのではありません。知ることに実績が添えられなければならないのです。これが問題なのです。違うのです。
それゆえに、責任者が手本にならなかったなら、駄目だというのです。責任者が手本になって初めてなるのです。そのような責任者の立場がどれほど恐ろしい立場であるかということを、皆さんは知らなければならないのです。(七〇―一四五)
皆さんが公的な壇上に立つようになる時、その心は刑場に出ていく心情と同じものです。それは公判廷で判事の峻厳な判決を請うている、そんな瞬間に立つ男性と同じような心情です。すなわち、祭物ということです。数多くの生命をこの時に、私が責任を負っているのです。一言上手にやれば生かすこともできるのです。一言失敗するならば殺すこともできるのです。医師が注射を間違って打てば、その生命を犠牲にさせることと同じです。最も恐ろしい席だというのです。その席には天が共に働かれるというのです。(五八―三〇二)
私が壇上に出ていく時にはそれは正に、死刑囚が刑場に出ていく気分です。死刑囚が死の前日を恐れて眺めながら、その刑場に出ていく気分なのです。数百名の生命を責任もって……。「この席にあなたのみ意があって、何千年前から天の摂理のみ旨のために準備してきた後孫がこの夕方来たならば、その後孫を逃さないで、間違いなく私によって因縁をもつように助けてくださいますように」。こう祈るのです。もし私が、天が送った人を殴って送るようになるならば、その人があの地獄に行ってサタンになり讒訴するということを、皆さんは知らなければなりません。
ですから、汗を流さなければならず、涙じみた心情をもち、叫んでこそ、そのように叫んでいってのみ、心は安らかなのです。それはしてみたことのない人には分からないのです。「あー、先生! アメリカ社会では言葉を穏やかに、穏やかにしゃべってもよいのです。静かに静かに話しても大丈夫です」それは理解できない意見です。のどが裂け、この席に来たすべての人々が気絶し、倒れる境を行き来しなければ、神が共になされないということを知っているので、そのようにするのです。皆さんはそんなことを体験してみましたか? おなかがすいたらすいたと、「あー御飯!」。非常に疲れたら疲れたと、「あー、疲れた! ああどこかでせしめて食べよう」。そんな連中たちが行く道が発展するとしたなら、それはうそです。私はそのように知っています。
皆さんは、射撃場へ出かけた射手が銃を撃つのと同じなのです。その全部が、三点が一致しなければなりません。精神が統一されなければならないのです。少しだけ動いても間違ってくるのです。そんな境地を連結させることのできる心情の因縁が必要だということを、切実に感じなくてはなりません。
それでは今日、我々の統一教会の教会長の中で、祈祷のためにひざをたくさん屈して穴が開いたズボンをはいたことのある人はいますか? 畳が全部すり減るぐらい、そのようにしてみるのです。その教会が空っぽですか。寝ても覚めても夢の中でもぶつぶつと言い、行きながらも、ぶつぶつ、どんな席でもすべてがそこに集中している生活をして、初めて天が動いてくれるのです。それは先生が今までの生涯の体験を通して言う言葉です。(七一―一四三)
皆さんは、今までの精神生活を根本的に変えて、新しい感動の要因を一日の生活圏の中でつくっていかなければなりません。このように実質的な体験を通した生活の基盤を広げて行くところにおいてのみ、新しい発展をもってくることができるのです。行かなければならない所が、まだ遠くにあるにもかかわらず、今と同じ方式で続けていくのでは駄目なのです。皆さんが一時間話を聞いたならば、三時間話をしなさいというのです。のどがかれるようにしなさい。皆さんが責任を引き受けた者としてみ言を伝えなければならないのに、のどがかれてみ言を伝えることができないのならば、どうやってしなければなりませんか? 目ぶり、手ぶりなど@の真似をしても、感動を与えることができなければならないのです。そういう覚悟をして進まなければなりません。
正常に、一日に御飯を三回食べてから余裕のある時間に、生命を育てようと考えてはいけないというのです。誤ったことは切り捨てなければなりません。一つの生命を育てるということは、絶対に簡単なことではありません。精誠を尽くさなければ、駄目だというのです。残りものを使っては駄目だというのです。食べ残しのかすみたいなものをもってしては駄目なのです。そういうものは、果敢に切り捨てなさいというのです。神様はそういう場所に共にいらっしゃるのです。(三〇―一三二)
皆様は彼らにしがみついて、涙を流して祈祷してあげなければなりません。私があなたよりも、もっとしなければなりません……。そうすれば、良いのではないですか?「私が寝て、私が休む日でも、弟のようなお前を平安にしてあげるためには、私が、お前の仕事を代わりにできるとするなら、すべてしてあげなければならない」と言うのです。これが、伝統的な道だというのです。時には夜を明かしながら、話をするのです。夜を明かしながら……。
また、原理のみ言を伝える時、神様に談判祈祷をして引っ張っていこうとすれば、磁石のように引っ張られてくるというのです。このような運動をしなければならないのです。皆さんが祈祷する時、涙が乾いていては絶対的にいけないということです。絶対に駄目だというのです。そのようなことが起これば、絶対に荒野にはならないのです。絶対に砂漠にはならないというのです。(九四―一四六)
個人指導をしなければなりません。お母さんが一遍に双子を生みますか? 一人一人生むでしょう。そうして汗を流して精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。「あの人はある程度までになった。だからこの人に一時間、二時間、また十二時になり、一時になっても二時間だけ話をすれば、峠を越える」という時には、ためらわずに三時、四時になっても話をしてあげなければならないというのです。一人の生命を貴く思わなければならないのです。それが何のことか分かりますか? (はい)。精誠を尽くさなければなりません。
決闘する人が、先に刃物を出さなければならないように、銃で誰が先に撃つかというのと同じだというのです。深刻だというのです。注射一本で生きるか死ぬか、という医者と同じ立場に立ったというのです。生命をそのように貴く扱うことができなければなりません。皆さんはそれを考えてみましたか?「ああ、原理のみ言」ただ考えもせずしているのです。それは何ですか、それは。責任を取らずにすれば、刃物を持って切ってしまうのと同じことだというのです。多くの人々を殺すということです。(九六―三二四)
これからは講義の実力なく、新しく来た人たちの前で講義が不足だというときには、辞退したほうが良いというのです。第二の生命たちを殺してはいけないというのです。(一四五―一〇四)
皆さんは、原理講義をするのに汗を流さず、涙を流さずしては、あの世に行って引っかかるというのです。先生が原理を発見した時に、ただ座ってできたと思いますか? とんでもない話です。血闘戦に激闘を重ねた上で探し出したものです。
二 講師の基本的な立場
二 講師の基本的な立場
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1 講義はどのようにすべきかこれからは、講義をしようとすればどのようにしなければならないでしょうか? 講義をする時は必ず、原理のみ言自体を話すと考えてはいけないというのです。先生の歴史を語り、神様の歴史を語るのだと考えなければなりません。その歴史は結局何ですか? 私がその歴史を相続して、その歴史と一致するために語るというのです。十回すれば十回したことにより、さらに深まるから、深まった分だけ自分が心情的に近くなるために語るというのです。分かりますか、どういうことか? 他の人を救うというよりも、自分自身が歴史に近づくために語るということです。私のことなのです。
そうすることにより、十回すれば十回しただけ近くなり、十回すれば十回しただけ深まるというのです。そのことのために祈祷すれば祈祷しただけ、それは深まり、幅が広がるのです。高まるというのです。高まるので結局どうなるかというと、心情の基準において自分が発展し、心情一体を中心とした発展の度数を強化することのできるチャンスが生じるのです。そういう時がみ言を伝える時間であり、食口たちを率いて教える時間なのです。
ですから、冒頭から語る時、既にさっと手を握ったとしても、それは私自身の手ではないのです。それは何ですか? それは私の手ではないというのです。当然、私のではありません。自分ではないというのです。そうしながらも、全体が形容することができない内的な何かが、皆さんの心から体に感じてこなければなりません。そして口を開けば自分の言葉に自分が酔うのです。そうして祈祷したとするなら、その祈祷がとても神秘的なのです。自分がさっと祈祷すれば、その祈祷に自分がすべて酔うのです。そのような境地を皆さんは通過しなければなりません。それはなぜそうならなければならないのでしょうか? 原理がそうではないですか? 主体と対象が授け受ければ力が出るのです。心情を中心として、主体と対象が授け受けすれば、心情的な心地と共に力が出るというのです。力が出たら何をするのですか? 心情的創造復帰が成されるのです。(一五七―二五四)
2 心情一体をなす公人の立場に立たなければならない
巡回に行く時も、それは自分自身が行くのではありません。自分が行くのではないのです。全部先生の代わりに行かなければならないのです。それから見るものも……。このような川を渡るならば、「ああ、神様はどう考えるか? 先生ならどう考えるか」と思うなら、その時間はどれほど恩恵の時間となることでしょうか?
さらに、夕暮れの道を歩いたり、月夜を歩いたり、このような時は……。その心情が貴重なものなのです。祈祷をするのにも、昔のイエス様がカンラン山(注:オリブ山)の裏道をさまよいながら祈祷した、その事情をもってするのです。全部、すべてそのような歴史を反映させて、その時代、その当時のその人の立場を身代わりして、「天がそのような心をもっていくとするならば、その歩みに対してどのようにいくのか」ということを考えるとするなら、どれほど恩恵があることでしょうか? ですから、一人でこのように歩み、一人でこのように瞑想し、一人でこのように祈祷し、一人でみ言を読む、その時間はどれほど深い恩恵の時間でしょうか? 今、地域長たちはそういう生活ができずにいるというのです。公人の立場に立っていないというのです。公人の立場に立つことができないというのです。そうではないですか?
思いが大きければ大きいほど、過去を思い起こし、現在の感情と合わせて……。太陽を見たなら、昔、この太陽をイエス様も見たし、聖人賢哲も見たはずだけれど、一体どのように見たのでしょうか? 水ならば水も同じであるし、空気もまた同じなのです。歴史的時代の人物ではあるけれども、豊富な詩的境地の感情を引き起こすことができ、現実的内容をこの時代に再現させて、私と共に直接的に心情的な面で、感情が通じることができる生活環境を整えることができなければなりません。
そういうことにおいて、自分たちが興味を感じなければなりません。そのような境地に入って天の前に訴え、天の事情を痛哭しなければならないのです。このようになれば、自然に連結されるというのです。分かるでしょう? (はい)。この心情の一致、問題はそれです。それをもう一度再現させようというのです。
私がどうしてこのような話をするかというと、皆さんはこれから、あしたからの原理講義をもう一度考えなければなりません。そのような観点から、今とは違って、金誰々だとすれば、金誰々の立場に立つなということなのです。これからは原理講義をしても、原理講義のみ言だけを伝えるのではないのです。神様を伝え、神様の実体を伝え、神様の実体理想、先生が今まで蕩減復帰してきた歴史的な事実を伝えなければならないのです。それは私が直接相続することのできる問題だけに、深刻だというのです。
ですから皆さんが祈祷するときは、他の祈祷は必要ないというのです。復帰原理を祈祷しなければなりません。アダムとエバならば、アダムとエバの立場で祈祷しなければなりません。ノアであれば、ノア自身になって祈祷しなければならないのです。ノアの家庭においては、自分がノアになるというのです。アブラハムの家庭においては、自分がアブラハムになるというのです。モーセ時代には、モーセになるというのです。このようにして蕩減復帰するのです。縦的な心情の歴史を再現させなければ、蕩減復帰にならないというのです。皆さん方はいつでも、そのような観点から祈祷しなければなりません。(一五七―二六二)
原理講義をする時も、皆さん自身がそこに登場するカイン、モーセ、イエスになって、み言を語らなければなりません。このようにして、皆さんは三千万民族に父の心情を植えてあげなければなりません。ただ、自分が不足な者であったとしても、言葉と行動と理念と生活と心情は、お父様のものだということができなければなりません。(一一―二六八)
3 講義の目的はどこにあるのか
講義をするのを見るというと、原理を覚えようとして講義をしているけれども、その原理講義は何にもならないというのです。実際には、先生に対して研究しなければならないのです。それを知らなければなりません。
私たちが復帰原理だ! 歴史過程に現れる復帰を習うんだ! 復帰原理を習って、復帰自体を知ることが問題ではありません。復帰原理を動かして摂理してこられた神様が、どんな方であるかということを知ることが目的だということなのです。そうして神様がどんな悲しみを抱いて、こうして私のために苦労されたのかという事実をはっきりと知って、私のためにこのように苦労されたという事実がとてつもないことだということを感じるようになる時、私と比較するとこのように苦労されたその差が大きいということ自体が私にとって、力の母体になっているということなのです。
天を大きく感じ、貴重に感じることに比べて、私はそうでないということを感じるところに、天に対する感謝の心情や、天の前に忠誠を尽くすという決意が爆発して出てくるというのです。これがなくては駄目だというのです。
皆さんは今、そうだというのですか。原理自体に対して、原理の本を見る時に、この本の中に隠されている先生の生活、先生の闘争の歴史を知らないというのです。原理の過程の歴史を知らないというのです。今までの歴史がそうです。今までの歴史はイエス様の時代まで、復帰原理を中心としてイエス様に対する学説が出たけれども、先生に対しては出ていないのです。これは出ていないというのです。ですから、これから皆さんが知らなければならないことは、そういう問題に対して深刻に探さなければならないということです。(一五七―二四一)
地区長であれば地区長が、教会長であれば教会長が、神様と先生を証するのに模範を示さなければなりません。講義をすれば講義をする時ごとに全部、最初からそのような感情を準備して話すというのです。そうしようとすれば、必ず先生のことを講義するというのです。先生のことを講義して、神様のことを講義するのだというのです。講義をそのようにしなければなりません。
どんな講義をするのですか? 歴史を講義すれば、神様を講義するのであり、先生を講義するというのです。そうすれば、自分自身をさらけ出すというのです。そういうふうにして、自分自身をさらけ出せばよいというのです。
講義をしようとすれば講義をどうしようというのですか? 講義は歴史的な事実なのであり、過ぎ去っていく言葉として話してはいけません。神様自身を講義しなければなりません。また、それを蕩減するために、地上においていまだに責任を担っている先生自身を講義するのです。私はそこにおいて彼(先生)と一体となり、天宙のすべての事情を、残念な事情を、自分自身がみ言を通してさらけ出すのです。身代わりとして保障してあげるというのです。ですから必ず結論に入って、必ず天の心情と一致しなければなりません。始めも、結論も一体化しなければなりません。(一五七―二五七)
私自身もそうです。私が今、日本とかアメリカに行く時、あるいは地方を巡回する時は、私が行くという考えはしません。私が行くというふうには考えないというのです。昔、草創期にみ旨に対した、その心情をどのように感じるかということです。これは重要なことです。草創期の心情をどのように感じるのでしょうか? お父様に侍り、大きな戦場に出ていくと考えた時、今は彼らが私を歓迎する人ではなく、反対する者たちだと考える時、どんな心情をもって行かなければならないのでしょうか? どんなに心がはらはらすることでしょうか? そうではありませんか?
地区を巡回するようになれば、地区長から食口たちまで全部、先生が来るというと、もういい気になるでしょう。初めてのように対するというのです。怨讐と同じような立場に立った人たちに対した、その心情をもって出ていくので注意深いというのです。ですから、はらはらした心をもって行くのです。しかし、初めていで立つときは、問題が違うというのです。私がヨーロッパに行く時も、私がドイツに行った時も、通訳を二人置いて話をするのです。短く簡単に話すというと忘れてしまいやすいのです。ですが、そういうときは心配しないというのです。忘れるなんて、どうして忘れますか? 天が今、この時において、この人たちに話したい言葉は何なのでしょうか? それは強烈に立っていれば、忘れようとしても忘れることができません。次の言葉をどうやって話すかということをしっかりつかんでいるので、忘れることはできないというのです。心配はないというのです。
いつでも私たちが前に立つ時は、お父様を前面に置いて、お父様の答えによる行動と結果をとっていくというと間違いがないというのです。同じことだというのです。それと同じように皆さんもそれを学ばなければなりません。必ず一日一日報告して、時間、時間の生活において報告するのです。それが侍義生活、侍る生活だというのです。分かりますか? (黒板に書かれながら語られる)侍義というのは何ですか? 侍るというのは何ですか?
私がそのような観点から今、地区長とか地域長たちをじっと見るというとですね。私が今、ソウルからじっと全国を考えれば、そのような観点からすると、離脱していると思います。分かりますか? (はい)。ですから、本然の皆さんの位置を回復しなければならないというのです。
皆さんは、講義をする時は必ず、神様の前に、神様が愛するみ旨なので、先生がこのみ旨のために来られた基準があり、私たちはそのみ旨のためにしなければならない子女の立場にあるので、神様にすがって祈祷しなさいということなのです。結論を下す時や祈祷をする時は必ず、皆さん一人で祈祷してはいけないというのです。何のためにこの行いをするのですか? 何を目的としてですか? 天の人格を身代わりして、蘇生させてあげ、その人格を本来のごとく再創造するというのです。そうしようとすれば、皆さんが心情の基準がなくてどうしますか、何にもならないということなのです。
ですから講義の終わりには、皆さんは何を講義するのですか? 必ず現在の先生の立場を一言話さなければなりません。それを皆さんは知らなければなりません。先生の過去と現在の立場がどうであるかということをいつも一言言って、結論を下さなければならないというのです。ですから、天の前に心情的な出発もそこから、結論もそこからという……天と皆さんが一つになる立場で動かなければなりません。そのように精誠を尽くしてみなさいというのです。結果がどうなるのか、分かりますか? (はい)。
皆さんの立場は直接的な立場ではありません。間接的な立場です。それゆえに間接的な立場が直接的な立場をいつも忘却してはいけないというのです。分かるでしょう? (はい)。その立場を取らずには、心情問題の一致点をもたらすことはできません。(一五七―二六〇)
三 講義と伝道
三 講義と伝道
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1 み言には創造の能力がある我々「統一教会の原理の内容」といえば、身震いするほど話してみなさいというのです。身震いするほど、一度やってみようというと、それはどんなにおもしろく、どんなに興味深いか分かりません。み言は創造の能力をもっているという事実を、確実に分からなければなりません。私がどこに行こうとも、天が共にいることを知っているので、その心情が直接大衆に影響を与えることができるのです。何の話か分かりますか? (はい)。
そうしてこそ、この国が動くでしょう? 先生が一人で全部、歩くことができるかというのです。いろいろな人を通して、橋を架けるのです。ですから、皆さんは共同的運命圏内に、共同的責任圏内に立っているのです。皆さんは、み旨が早く成されればいいですか、それともゆっくり成されるのがいいですか? (早くです)。そうだとしたら、どうしたら早く成されますか? 八時間寝て仕事をするよりも、十五時間仕事をするとしたら、それだけ早くなり、二十四時間働くとしたらもっと早くなるというのです。一時間話をする人が、二時間話すようになれば、それだけ効果があるというのです。(一〇七―二五二)
皆さんの救援の手が差し伸べられるところに、祝福があるということを知らなければなりません。皆さんの言葉が鳴り響くところに復活の役事が起こり、再創造の役事が行われるということを知らなければならないというのです。そうすることができる愛の爆発口が、所々に必要だということを皆さんは知らなければなりません。その代役者が統一教会しかないというのです。(一六六―八三)
皆さんも原理のみ言を知ってみると、口を開いてみたくなるのです。家のことは話したくないけれども、原理のみ言を語らないと、御飯がおいしくないのです。御飯を食べたくないというのです。それを知っていますか? ですから、アメリカの女性たちに原理だけを教えると、地獄に行くしかなかった唇が天国に行くことができるというのです。
だからと言って男性の唇は天国に行くのですか? それは地獄に行くというのです。家の風習を知りながらも実践しないから地獄に行くのです。なぜ口をつぐんでいますか? それでは、原理講義をすることが好きな者は手を挙げてみなさい。正直に。正直言って、私は全部知っています。すべて知っていますが、聞いてみるのです。本当に原理講義がしたくてする人と、仕方なくする人、嫌いだけれどする人、種類がたくさんあります。本当にしたくてする人はどれだけいますか? それでは何人ですか? 手を挙げてみなさい。さあ! 皆さんが本当に原理のみ言を話したくて話すようになれば、相対がますます増えるようになります。原理のみ言をよく話すようになると、原理的観点から創造力のために食口がよく増えるようになっているのに、なぜ、しがない者のように、万年行かなければならない人なのですか?
不平を言うことができますか? 先生が間違っていると言えますか? 仕方なく話すならば絶対に創造がなされません。夜でも昼でも探していって話をしたいし、会いたくて探していって話さなければなりません。しょっちゅうそうすれば、創造がなされるのです。原理講義をするのをじっと聞いてみると、初めは言葉が少しずつ少しずつ出ていますが、約十五分ぐらい過ぎると、「わあ、わあ!」とこうなるのです。おもしろくなって、自分が酔っ払ってです。そういうふうにしましたか? 少しずつ、声を大きくして「わあ! わあ」としてみましたか? そういう講義をしてみたかというのです。(一六七―三三〇)
2 食口の増加は原理講義の回数に比例する
今まで原理講義をしてみた人は手を挙げなさい! 講義をしなさいというのです。講義をしてみなくてはいけないというのです。原理講義をどれだけしたかによって、食口が比例的に増加するのです。
韓国では私が劉協会長を立てて三年八カ月の間、一日平均十八時間、続けて講義をさせたのです。ですから人が来なければ、壁を見ながらでもしなさいというのです。一人でも来たなら汗を流しながらしなさいというのです。分かりますか、何のことか。(はい)。ただほうっておいてはいけないのです。きょうはこれが、特別指示です。(九五―二四四)
それでは皆さんの中で、毎日のように講義をする人は手を挙げなさい。毎日のように講義を続けている人、手を挙げてみなさい。この者たち! 何人になるの? 手を挙げてみなさい。立ってみなさい。これはどうなっているのですか? この者たち! 先生がそのようにしなさいと言いましたか? 先生が講義をするなと言ったのかというのです。口が裂け、舌が裂けるほど講義をしなさいというのです。毎日のように……。これで伝道ができますか。お前たち、国を滅ぼすために責任者になったのですか? この者たち! 統一教会を滅ぼそうとして責任者になったのですか? こんなふうで伝道できますか? 伝道できると思いますか?
巡回師たち、どこに行きましたか? 巡回師たち! 立ってみなさい。この者たち! このようにするために巡回師にしたのですか? 先生が命令したにもかかわらず……。毎日のように、一週間に一人伝道して、毎日のように講義しなさいと言ったなら、口を広げて講義をしなければならないでしょう。それが巡回師の使命です。何しに行くのですか? 御飯を食べに行くのですか、遊びに行くのですか?
先生は一カ月に一人ずつ伝道しなければいけないと、何年も前から話をしているのです。それは統一教会のメンバーが命懸けで行かなければならない道であると教えてあげているのにもかかわらず……。お前たちは出歩きながらそれをコーチし、指導して講義しなければならないのです。ビデオテープを分けてあげ、本を分けてあげなさいということだけではないのです。全部、監視しなければならないというのです。何をしに出かけるのですか? 何をしに出かけるというのですか? 腹に御飯を詰め込めなくても、そういう思想をもっていなければならないというのです。
昔、ニューヨークに神山がいた時は、何でもなかったというのです。講義を聞く人がどれだけ多いかということに比例して、食口が増えるというのです。講義をしないから、食口が増えるどころではないでしょう。この者たち!(九六―一三二)
それでは、皆さんに講義をしなさいと言ってきましたが、今まで続けて講義をしてきましたか? 何日間しましたか? 一度、反省してみよというのです。ですから私が既にミセス・ダーストに「私がこうすれば間違いなく霊界が協助し、人が寄ってくる。努力しなさい」こう言ったのです。ミセス・ダーストは今、サンフランシスコ教会に、いる場所もなくて、悲惨な所にいるというので、このようにしなさいと。「必ずあなたはアメリカで一番多くの人が行く伝道師になるでしょう。ですからアメリカのために涙を流さなければならない。涙のあとが乾いてしまわないように、涙を流して祈祷をしなさい」と言うのです。そうすれば間違いなく、保護するというのです。霊界が協助するのです。それはどういうことか分かりますか?
そのような雰囲気をどうやってつくるかというのです。今回、サンフランシスコで活動していた者たちをここに連れてきたのは、サンフランシスコと同じ雰囲気をどうやって二十四時間、本部に適応させるかということを考えたからです。可能です。そうなると思いますか? これは説明だけではありません。先生がしてみた経験です。私が、今まで周りを歩き回りながら毎日のように声をあげて、指示して講義してお尻をけとばしながら命令したのに、していないというのですか? 私が韓国に三、四人連れて、こうやって活動するようにしたのです。劉協会長が一日中講義をしているのに、足を踏んばって講義しているのに四人が出かけていって、命懸けで走らないでいられますか? 出かけていって活動してきて連れてくるというのです。一人も連れてこられなければ、明け方から出かけていって、ただ涙だけを流して事情を訴えて連れてくるのです。電話をして友達を連れてきて、親戚の八親等の人を連れてくるのです。時間さえあれば、みんなを連れてくるのです。そのようになりますか? なりませんか? (なると思います)。正直に言ってそのようになりますか? なりませんか? (なります)。間違いなくそうなるというのです。絶対的です。絶対的。
私が韓国の責任者たちにこのようにしなさいと言ってもそうしなかったのに、最近になってそれ以外にないといって、そうしようと騒々しいのです。日本の責任者たちも自分の勝手にしていたのに、最近になって、それ以外にないというのです。アメリカの連中も好き勝手にしていましたが、それ以外にないということを悟る時が来るというのです。だからといって、礼拝の時間に参加しないでするのは、あり得ないのです。
州の責任者たち、目だけをパチパチさせながら、顔つきが若い連中が、天井だけを見ながら年を取って死んでいくのですか? 原理を知ってから何年になったのですか? 統一教会に来てから何年になったのですか? アメリカはその間滅び去って、自由世界は共産世界の餌食になってしまったのではないですか。
さて先生のみ言が何のことだか分かりましたか? 十八時間、十八時間ではなく十五時間は講義をしなさい。そういうことです。続けてやりなさい。一カ月でなく三年八カ月の間、病める者に講義をさせるようにしたのです。皆さんは、そういうふうにするだけで三カ月と八日にもならずに、食口たちが増えていくようになります。三年八カ月ではなく、三カ月と八日ぐらいだけでも、食口たちが増えていくというのです。たくさんついてくるというのです。食口が増えていくというのです。(一〇七―二四六)
結局、食口増加率は原理講義の数に比例するのです。他のことではありません。今まで世界的に全部科学的なデータを取ってみて、そうだというのです。盲目的に伝道するなというのです。統一教会は、方法がすべて組み立てられているのです。二日修練会、三日修練会、七日修練会、二十一日修練会、四十日修練会、その次に百二十日修練会があるというのです。四十日修練会まではしなければなりません。食口にしようとすれば、そのようにしなければならないというのです。(一七二―四七)
皆さんは地方に行って啓蒙する時、[rk]の字を黒板に書きながら講義をしたとしても、前に座っている少数の人々に対して講義をすると思わず、すべての天宙に対して講義をしなければなりません。汗を流しても天宙復帰の心情で「復活の汗」を流さなければなりません。そうすれば、歴史的な因縁をもっている後孫として、善霊を感動させ、善霊の良心と因縁をもち、実を結ぶようになります。(一一―二七二)
3 生命の問題は生命で解決しなければならない
今は統一教会の責任者たちを見れば、すべて青白い者たちが、大学を出たって? この世を見てみると、もっている知識をすべてもっているのでしょうか? もつことができないということを知っているというのです。そうであるにもかかわらず、なぜそういう責任者として立てたのでしょうか? ここに問題があるというのです。ある人たちは何か、大学を出て責任者になればいいのに……。とんでもありません。そうしたからといって完全な責任者を見ることはできないというのです。大学を出たからといって、大学を出ていない人よりも良くできないことがいくらでもあるというのです。大学が問題ではないというのです。大学が問題ではないのです。問題はどこにあるのですか? 生命は生命として解決することが、問題解決の要件です。このようになるというのです。生命を知識として解決することはできないということを、皆さんは知らなければなりません。
ペテロのような人間は無知識な者だったけれども、彼が出ていって講演をした時には、三千名、五千名を悔い改めさせたというのです。それは何かというと、生命の主人である神様の相対的権限をもって、代わりに使用した時は、彼を通して復活の役事が行われるというのです。それを知らなければなりません。生命は生命でだけ復活するのです。知識とはどういうものですか? 知識は補充し、選別するような時は必要だけれども、生命の直接的な問題においては必要ないというのです。
皆さんは原理を知っていますが、知識的な原理として知っていてはいけないというのです。今日において統一教会の責任者たちを見てみると、生命的原理を知っている者たちではありません。知識的な原理として知っている人は多いけれども、生命的な原理として理解し、知っているだけでなく、そのように生きている人はいないというのです。知ってみると、この霊的な生命として生きなければならないというのです。今は生きているのですか? 生きていないというのです。問題はここにあるのです。
そのような原則的な基盤に、皆さんが同一の場に立つことができないというのが病弊です。知識がないからといって病弊なのではないのです。知らないからといって病弊ではないというのです。これは何のことか分かりますか? (はい)。大学を出たからといって全部済んだのではないのです。博士でも駄目だというのです。
ですから我々統一教会は「心情」を言って出てきたのです。心情です! 心情の基調はどこにあるのですか? 言葉の中にあるのではありません。生きるところにあるのです。分かりますか? そうではありませんか? 情緒的な問題というのは話の中にあるのですか? 言葉よりも、生きなければなりません。その次は生きる結果が良くなければなりません。そうでしょう? そういうふうになるのです。生きなければなりません。皆さんは原理的生活をしているのですか? 問題はそれです。(七〇―一四五)
講義をする前に、皆さんが祈祷して出る時は、必ず涙を流して出ていかなければなりません。訪ねてきた人がここに寄ったのに、恩恵を受けさせなければ地獄に行くのです。天国には行けません。涙を流しながら本当に話せば、間違っているものがあっても、許してもらえるのであって、そのような心情がなくしては引っかかります。地獄に行く人間が讒訴するというのです。
レバレンド・ムーンはアメリカに来て、この原理のみ言を教え、神様のみ言を話すのですが、レバレンド・ムーンが間違うようであれば、霊界の先祖たちがどんなに阻止するでしょうか? そのようになれば、統一教会も全部落ちていってしまうのです。それで皆さんはそのようにせずに、伝道がよくできると思いますか? 息子や娘が良くなると思いますか。皆さんはこれから全部蕩減を受けなければなりません。見てみなさいというのです。真をもって結実をもてなければ、それは審判の条件になるということを知らなければなりません。何のことか分かりますか?
霊的指導者は深刻だというのです。彼にはサタンが出たり入ったりし、神様が出たり入ったりするのです。ですから今までの講師は先生が認定しません。博士であろうと何であろうと認定しないというのです。再教育しなければなりません。分かりますか? (はい)。(一六七―三三三)
講義をする時、皆さんは内と外が全部、汗でぬれるほど講義をしてみなさいというのです。その次は、涙を流しなさいというのです。自分がこの講壇で倒れるのだ、生きた祭物となる、このような覚悟をしなければなりません。このようにしたなら全体が回っていくのです。そうではありませんか、主動的に動機的原因を成していくというのです。私がどんなにこうして何かやっても駄目なのです。これはどこかのラジオ放送とは違うのです。それは言葉の伝達、知識の伝達にはなりますが、生命の伝達にはなりません。復活の伝達にはならないのです。(六六―二一六)
四 講義に対する牧会者の姿勢
四 講義に対する牧会者の姿勢
P568
1 講義をする「味」を感じなければならない皆さんは今反共講義をしているのですが、反共講義と原理講義の中で何がおもしろいですか? 私が尋ねてみたいのです。何がおもしろいですか? (原理講義がいいです)。原理講義をしたいというのですか? 皆さんは本当にそうですか? 反共講義がおもしろくありませんか? (外的には反共講義のほうがおもしろいのです)。(笑われる)私もしてみましたが、人を復活させる講義が一番いいというのです。死ぬ人間を生き返らせることが一番良いというのです。それは良くありませんか?
ここに教会長を演壇に立たせて復興会を……。その時はどれくらいしたのですか? 何日ぐらいですか? (約二十日ぐらいになります)。二十日だと、二十日の間、その時は続けてするのです。御飯を食べるのが惜しく、小便をするのが惜しくしてこそ、その人たちも救われるのです。分かりますか、何のことか。私はそうです。動機がなく結果があるという法はありません。分かりますか? 御飯を食べるのが惜しく、寝ることが惜しく、トイレに行く時間が惜しく、寝る時間がもったいないと思わなければなりません。
そうして、天の心情を吹き入れなければ、その環境では眠ることができないのです。寝ることを忘れるのです。動機があって結果が生まれるでしょう? その動機が完全なプラスであれば、結果は完全なマイナスになるのです。そうではありませんか? 寝ることが何ですか。寝ることがいったい何だというのですか、食べることが何だというのですか、食べることが……。
そうなれば、その雰囲気が充電されるのです。何日間かしてから、その場から出るというと、自動車が走っているのがおかしく見えるのです。スーッと空中で走っているかのように。橋を渡ってみると、私が太平洋にいるような、霊界に行って霊魂になったかのような気分になるというのです。そういうふうになるというのです。これは、そのような神秘境に入るようになるというのです。
そのような動機をつくろうとすれば、そのような動機、麹にならなければなりません。主体性をもたなければならないというのです。心情は麹のようですが、溶けてしまわない人はいますか。そのような人たち、小麦粉に麹を入れると、一日が過ぎれば全部、麹になるでしょう。それと同じことです。皆さんが良い材料をもって、活用できなかったというのです。原理を学ぶのだといっても、原理どおりに生きることはできなかったというのです。原理原則の生活態度に対して忘れてしまっていることが多かったというのです。どうですか? そういうことを感じますか? 地区長たち、どうですか? (一五七―二五八)
聞く時には一生懸命聞いて、話す時も血と汗を流して、涙を流して話すのです。それを話すと恐ろしいというのです。そのように皆さんは仕向けていかなければなりません。皆さんは最近、原理講義をする時、本当に儀礼的にしているというのです。会社に出勤するように時間を守って「何時に来て講義をしよう」。それは駄目だというのです。ですから、私が韓国で指令を出したのですが、原理講義をする時は、汗を流してしなさいと言いました。韓国では、古い三十六家庭たちは講義をすべてそのようにしているというのです。教育をそのように受けたというのです。(九六―三二三)
皆さんが原理講義をする時、前に報告を聞いた何種類かの内容を筆記したものだけをぶつぶつ覚えて、聖書の句節がどうで、何はどうだというふうにしてはいけないというのです。皆さんは必ず、どんな骨子を話す前にも全体的な内容を知って、そこに心酔して新しい味を感じなければなりません。
皆さんが聴衆を感動させるためには、自分がまず原理の本にしっかりすがって、涙を流さなければなりません。その原理の本にしっかりとすがって夜を明かして読みながら、時間が過ぎていくことを残念に思い、ページごとに神秘的なものを体恤する人にならなければなりません。それを感じたあとには、原理に酔って説教をしなさい。聴衆に感動の役事がどのように起きることか、そうすれば必ず、新しい感動の役事が起こることでしょう。ですから、死んだもの、すなわち、命がないものは退化し、生きているものだけが必ず発展するというのです。発展すれば、新しいものが生まれるというのです。原則はそうなっています。(三〇―一三〇)
講義をする時は、講義の時間に自分は何を残すのですか? また、話をする時には、その言葉を通して何を残すのですか? 手が行く時は、私の手が行って、何を残すのですか? 私が行動する時には何を残すのですか? 全部、これを固く決意しなければなりません。ですから苦しい道を行きながらも、へとへとになるような道を行きながらも何を残すのか、何を残すのかを探さなければならないというのです。苦しくつらい道をいくたびも歩きながら、何を残すかを考えなければなりません。興味津々とならなければなりません。くたびれることができないというのです。難しければ難しいほど、そのような考えにならなければなりません。それが必要だというのです。(九六―三三一)
講義をせずにはいられないというのです。その言葉はどれほど素晴らしいでしょうか。ですから味を知っている人は、原理のみ言を語るなといっても、どこに行っても話さなければ死んでしまいます。信仰の基準が低くてふらふらしている人を探していき、夜通し話をしてでも、そういう味をもう一度感じなければ生きる味わいがないというのです。
先生がこれからは有名になって、忙しくて原理のみ言を……。昔、食口たちを育てたことが一番良かったです。今は退屈です。ただ、夜遅くまで座って、十二時になって食口たちが行きたくても、話をすることに酔って続けているのです。けれども、私はこくりともしません。ところで、この者たちは「夜の十二時が過ぎたので、先生は二階に上がって、休まれてください」。そうしているうちに一時になり、先生が立ち上がらないので、先に立ち上がるというのですか。それはどれほど考えられないことでしょうか? そういう者を連れて何ができるかというのです。一時、二時、三時になっても味が出てきて、おもしろいのですが、この者、こっくりこっくりとしているというのです。それはどれほど差がありますか? そこで笑うのを見ると、そうだというのです。そういうことは、統一教会の教会員でなければ分かりません。講義をしながら酔って、講義しながら涙を流し、講義しながら感謝し、講義しながら考えるのです。あの者たちは地獄に行く命であり、逆さまに落ちていくのですが、注射を一本、サッと打てば、ぱっと上がってくるのです。それはどれほど素晴らしいことでしょう。それはどれほどエキサイティングなことでしょうか?
皆さんは講義をせず、講義するその味を知らなければ死んでしまうということができますか? そういうことが分かりますか?
天が共にされるので、そこには大きな電流が通じるというのです。何億ボルトが通じるのと同じような力が共にあり、この世を揺するとすれば、行ったり来たり揺することができる、そのような気分がするというのです。どんなに痛快かというのです。そのような時は目を閉じようとしても閉じないのです。寝ていても、ぱっと目が開くのです。そういうことがあるというのです。そういう人をつくってあげるというのに嫌ですか、いいですか? (いいです)。欲が深いですね。(笑い) そうするためには、御飯を一週間断食して、一食食べて、また、一週間断食をして、一食食べなければならないとしたら、そういうふうにしなければなりませんか、そうしなくてもいいですか? (そうしなければなりません)。(一六七―三二九)
いつも話すことは、我々統一教会のために話をするのではなく、アメリカのために、韓国を救わなければならない、このような愛国的な思想を訴えているのです。その思想で雰囲気をつくっているのです。アメリカは現在、青年たちは腐敗し、ますます滅んでいくので、これを私たちの手で救おうというこのような愛国的な思想をもって、全部話をして、そのような思想を教えてあげるのです。そのような講義をする時、さらに強調するのです。講義をしてはただ帰すのではなく、必ず証をさせるのです。「自分はヒッピーでどうしたこうした、このように麻薬を打っていた精神病者だったのだが、こうして講義を聞いてみると……」。このように証をさせるのです。講義を聞く時間が長くなって便所に行く時でも、その時間が惜しくて走りながら「この時間は講義の時間だけれども、講義を少しでもしなければいいのに」。このようになるようにつくらなければなりません。ダダダと走っていき、ダダダと駆けてきて、「私が便所に行っている間にどんな話をしたのか」と、このぐらいまで聞きたくなるほど、雰囲気をつくらなければなりません。こぶしを握り締めながら講義を聞いている人が、「ああ、自分の友達を連れてこなければならない。自分の父や母、妹や弟を連れてこなければならない」。このように考えるようにしなければならないというのです。そのようなことを考えると一遍に火がつくというのです。「自分はこのように素晴らしいみ言を聞けなかったのだ」と言うのです。
講義が終われば、一遍に「生活的な環境の雰囲気がいいな。これこそ正に一つになっているな、ああ、出ていきたくない」そういうふうになり、十二時が過ぎて、四時になってもこの世を知らずに座って、「ああ、四時になったのだなあ」という、そういう雰囲気になるのです。ある時はそういう雰囲気になって全体が夕御飯を食べられなくて、二時、三時まで聞くことになります。夕御飯を食べるのを忘れてしまうのです。何のことか分かりますか? そういう雰囲気になるというのです。
それで、家に行くのもすべて忘れてしまい、それこそ神仙境になって、世の中のことを何でもかんでも忘れてしまうのです。そのような雰囲気の中で目を開けて、霊界とみな通じるのです。その時、居眠りをするなら、天使が来て頭の後ろをぶつのです。そういうことが起こるのです。そういう位置で、神様はいないとそういうふうに考える余地がありますか? 祈祷しようとするなら、泣いて涙を流すことを恥ずかしいと思っていた人も、我知らず恥ずかしいという思いもしないで、ワンワン言って泣かざるを得ません。(一〇七―二四三)
2 気違いのように講義を続ければ、霊界と接触するようになる
一つだけ話をすると、深刻な心情の位置で話をし、汗を流して戻ってきて飲む水の味は、世の中の普通の人々は知ることができないのです。その味はどうだったのですか? コーラだとか蜜の味なんかとは比較にもならないのです。味が違うのです。毎度毎度違うのです。何のことか分かりますか?
それを発見しなければなりません。そういうことを感じないなら、霊感を感じることはできません。霊界に対するすべての物事を感応することができないのです。そういうことを感じるようになれば耳が鋭敏になって、既にそこで話せば何の話をしているのか聞こえるのです。分析できるのです。目をつぶっていても、何が通り過ぎるのか、良い人なのか悪い人なのか選り分けるわけです。霊感が来るのです。それを知らずには、霊界の悪神なのか善神なのかを見分けることができないのです。それを知らなければなりません。見て分かるものではなく、心が分かるのです。心の目は見て知る目よりも、高次的な位置にあるのです。分かりますか、何のことか。
私がこの話をなぜするのでしょうか? 皆さんはまだ行く道が遠いからです。それを知らなければなりません。自信をもってはいけません。それで聖書では「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ五・三)とイエス様はおっしゃいました。同じ道理です。すべて通じるのです。分かりますか?
ところで皆さん、講義をしていないではないですか。講義をしないではその世界を探し求める道理がないのです。講義する時間に皆さんは霊界と接触できるのです。そうなると夢うつつのうちに皆さんが講義するわけです。創造原理から堕落論を一気に講義するようになると、夢うつつのうちに講義したそれが、現実的にただそのまま起こるのです。
ですから、誰かに講義をしたのですが、初めて会った見も知らぬ人に何かの講義をしたのですが、その人が現れるというのです。その人がその日に来るのです。その時それを繰り返すならば、間違いなく回っていくのです。そうして感動さえ受ければ、どれほど追い払ってもそういう人は出て行かないのです。その境地に入らなければなりません。
それで、霊界で行う業が現実にどのように合うのかということを、皆さんは知らなければなりません。見て感じなければなりません。皆さんがその位置まで行こうとするならば遠いですか、近いですか? 遠くないのです。目の前に、皆さんの目の前にあるのです。ですから気違いのごとく、気違いのごとく講義を続けろというのです。(九六―一七〇)
3 多くの人が必要なのではなく、責任者一人が問題
皆さんだけでも先生と同じ姿勢をもって、そういう決心さえするその日には、アメリカはあまりにも小さいです。とても小さいのです。私はこう考えるのですが、皆さんは、八時間を全うできないならば、十八時間の間ビデオテープをかけて人を連れてきて、見聞きできるようにしなさいというのです。その運動をするのです。三回聞いて、四回聞けば教育されるのです。二日修練会、四十日修練会のテープを作れと言いました。今年中にすべて終えなさいと指示したのです。その準備をしなければなりません。
今やたたいて追いやるのです。それしかありません。統一教会の信徒は誰であろうとすべて、二日修練会から七日修練会、二十一日修練会、四十日修練会のテープを、ファンダレイジングをしてでも買えというのです。全部買えというのです。そして皆さんから八時間の講義をするのです。二日に一回ずつすべて講義するのに、一回り回りなさいというのです。何日ぶりかで講義するのですか? いつ講義するのですか? そして、寝る時間には食口を立てて、夜に教会で声を出して祈るようにするのです。講義の代わりに祈る人を立てて寝るのです。そういう伝統をもたなければなりません。そういうことをしなければならないというのです。こうしてでもアメリカを救い自由世界を救わなければなりません。
さあ、そうすればうまくいくと思いますか? (はい)。では、一度やってみなさい。なるかならないか、どれほど大変か、やってみなさい。とてもきついです。祈祷しなくては成し得ないのです。カープだろうと何だろうとみな同じです。その思想をもたなければなりません。このように訓練されれば皆さんは絶対……。先生はアフリカに行こうがどこに行こうが、御飯に飢えたり寂しくはないのです。四十日以内に数十名を集めるのです。
今に分かります。アメリカは私の前に屈伏するのです。世界は私の前に屈伏するのです。世界が動揺するのがひどければひどいだけ、私の時が近づいてくるということを知っているから……。唇が割れて、血が出て……。話をたくさんすれば、あとで舌が痛いのです。御飯を食べようとすると舌がうまく動かないのです。のみ込めないのです。御飯がしきりに外に出ようとするのです。話をたくさんしたから。その口が神様は大好きです。何のことか分かりますか?
皆さんが約束したとおりに、本当に実行する日には寂しくありません。絶対に心配するなというのです。年数がどうで、どうしてこうして、代表して伝道に行くのはすべて同じです。多くの人は必要ありません。責任者一人が問題です。世界に人間は多いけれど、レバレンド・ムーン一人の責任問題です。皆さんは州責任者です。灯台です。灯台は二十四時間灯を照らしてあげなければならないのです。灯台が消えることができるかというのです。簡単です。問題は簡単なのです。これをどのようにしてであろうと、東部のニューヨークでしなければならないでしょうし、その次にはワシントンでしなければならないでしょうし、フィラデルフィアでしなければならないのです。その次にはボストンでして、ボルティモアでして……。このように東部でするようになれば、その次には幾可級数的に広がっていくのです。(一〇七―二五〇)
第四章 教会発展と伝道
第四章 教会発展と伝道
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第一節 教会の成長と発展一 発展に対する根本理論
1 発展しようとするならば作用しなければならない
発展しようとするならば、どのようにしなければならないのでしょうか。作用しなければなりません。作用するには、目的がなければ、作用できないようになっているというのです。プラスがあれば、必ずマイナスがなければなりません。ですから創造原理から見るとき、皆さんは、どのような観点で見なければならないのでしょうか? 一番問題になることは、目的観です。宇宙には目的がなければならないというのです。この目的を成すためには、相対的要件がなければなりません。(黒板に書かれたものを指しながら語られる)相対的要件があれば、それを連結させる力がなければならないのです。力を通じなければ、存在が出てこれないというのです。そのようになっています。
それゆえ、存在するようになれば力が必要となり、力が必要となれば何が必要でしょうか? 相対的要件が必要です。このようになるのです。相対的要件が必要なので、神様はどのようになっているのでしょうか。神様はいらっしゃるけれど、独りでいることができないというのです。主体と対象、二性性相が出てくるというのです。
発展は、独りではできません。それゆえ、今後新しい理想世界を展開するのも、人間だけではできません。対象的存在だけでは、できないというのです。(二七―二二三)
主体と対象が完全に授け受けるならば、繁殖が起こります。ここでの主体は、皆さんではありません。神様であられます。(六〇―三四九)
2 発展の形成
発展は、どこで形成されるのでしょうか。相対的要件の環境が整えられ、お互いがよりプラスされ得る、マイナスもプラスも、プラスされ得る、二体が、より良い次元に到達し得るところにだけ、発展が可能なのです。これが今日統一教会で提唱する論理です。
存在の起源問題を見るときに、存在があるためには、運動をしなければなりません。運動をしようとすれば力がなければなりません。力はどこから出てくるのでしょうか。一人では力が出てくる法がありません。主体と対象の関係がなければなりません。存在しようとすれば作用が必要なのであり、作用しようとすれば必ず主体と対象がなければなりません。主体と対象がなくては作用できません。
国家ならば国家間において、親交するということにおいても、お互い、より良くあり得る共同的な目的の追求においてのみ可能なのです。共産世界と民主世界が激烈な闘争をしてきて、近世になって、和解のムードが出てきています。ここにおいて二つの世界が、より良くあり得る目的観を設定して出発したとすれば、間違いなく二つの世界は統一されるのです。ところがそのような観がありません。
ここで必要なのは何でしょうか。よりプラスとなる内容を確保し、マイナスとなり得る、まだ及ばない、未完成な分野を充当させても余力を備えるようにして、自分についてくることのできる新しい目的形態を提示すれば、世界は一つとなるのです。一つとなります。すべての存在物は、より良いものを追求するようになっています。なぜより良いものを追求して、作用することができるようになっているのでしょうか。最高の絶対者がいれば、最高の絶対者である主体の前に、相対的な全体性を与えようとするため、そのような創造観で造らざるを得ません。(五九―七八)
すべてのものは、一つから多くのものに分かれて、結局一つの大きなものに統合されます。このように発展するのです。一つからいろいろに分かれてから、一つに統合されるのです。ここからまた分かれて、より大きなものとなるのです。より大きな一つの世界の中に、すべて入るというのです。(二六―一八九)
現存するものより、大きなものが出てくるためには、主体と対象が作用しなければなりません。そうでなくして、現存するものより大きなものが出てくることができません。それで、人間やすべての万物は、より大きく、より価値のあるものに向かって、すべて相対的関係をもとうとするのです。このように宇宙は、連続的段階の因縁をもつようになっているというのです。(一三二―六七)
主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらすようになるのです。この第三の結果というのは、主体の目的だけでなく、対象の目的、すなわち、二重目的をもった結果として現れるのです。ところで結果として現れたものが、主体と対象の因縁を結ぶ以前よりも価値があるものとなってこそ、より刺激を感ずることができ、より大きい喜びを感ずることができるということを私たちは知らなければなりません。(四〇―二七六)
3 発展の原則
大きくなろうとすれば、自分自身を投入しなければなりません。「大きくなろうとすれば、自分自身を投入しなければならない」ということは、真理です。これがすべての現象世界における、発展原則だということを知らなければなりません。皆さんは拡張し、発展することを願うでしょう? (はい)。そうしようとするならば、投入しなければなりません。純粋な投入は、純粋な発展と、純粋な拡大を可能とするのです。軽率に投入すれば、軽率になされた結果が出てくるのであり、深刻かつ純粋に投入すれば、深刻かつ純粋な結果が出てくるのです。これは、合っていますか、間違っていますか。(合っています)。本当にそうですか? (はい)。
このようなことを統一教会では、簡単に表現して、「真なる犠牲となれ」という言葉で置き替えるのであり、これは真に犠牲になる道においてのみ可能であると見るのです。商売をしようとすれば、お金を放棄しなければなりません。
心から愛着をもちながら、もうけたお金を放棄しなければなりません。投資するのも同じことです。分かりましたか? (はい)。「真なる犠牲となれ」という言葉は投資しろということと同じです。真なる投資、真なる投資をしろということなのです。(一二九―六〇)
発展するためには、そこに比例する何かを代わりに、補わなければならないのです。それを補わなければ、発展が不可能です。
私たちの「生」を、維持するための呼吸や、すべてのものがそうだというのです。おなかがすけば、なぜ御飯を食べますか。私が、生を維持するためには、供給してあげなければなりません。供給するだけでも駄目です。消耗されるように、新陳代謝させなければなりません。必ず回らなければなりません。(一六五―六七)
発展の原則は何か、これが一つにならなければなりません。ついていかなければならないのです。ここで、このように従っていけば、亡びないというのです(黒板に書かれたものを示しながら語られる)。この時は新しい出発の時であることを知らなければなりません。それで神様はどのようにするのでしょうか。個人のために生きる人と、他人と家庭のために生きる人の中で、どちらがここに残らなければならないかといえば、こちら(他人と家庭のために生きる人)が残らなければなりません。ですから神様は、ここ(他人と家庭のために生きる人)を祝福して、より良く生きていけるようにするのです。ですからこの(個人のための)人たちは、見習って、自然についていくというのです。分かりましたか。(九六―八一)
完全なプラスは、完全なマイナスを生むようになるのです。それゆえに、完全に心情が一致すれば、完全な心情の対象者が現れ、新郎・新婦の慕う心情をつなげて、縦的にそのような関係を結べなければ、横的に同志、あるいは家族、あるいは同胞の関係を結び、繁殖していくのです。(一七―二九五)
4 発展の要素
神様の愛なくして、発展もなされず、神様の愛のないところには、存在自体も壊れてしまいます。(二七―三四二)
愛の核心は、必ず本性に共鳴されるようになっているので、本心が感動する日には、対象は必ずそこに一体化しようとします。このようになって、対象が主体の前に実体として再び造られようとする時、初めて発展があるのです。そこから、神様を中心とした発展が可能となるのです。(二九―三二一)
私たちの生命の発源は、親と子の因縁です。神様は父であり、自分は息子といえる立場です。これしかありません。父なくして私は栄えることができないのです。(二六―二二一)
5 発展の形態
発展するとき、直線で発展するのですか。違います。皆さんはそれを知らなければなりません。銃の弾が飛ぶときも、直線では進みません。斜めに回りながら行くのです。それはなぜですか? 必ず授け受けする作用をするということです。呼吸作用のように。何のことか分かりますか?(はい)。(一四一―四四)
発展は、らせん形を描き、回転作用をしながら進むのです。(二八―二四七)
二 発展の実際
二 発展の実際
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1 社会の発展男性なら、男性一人、真なる姿となったあと、男性一人で終わるのではなく、必ず真なる家庭として発展させなければなりません。真の家庭は、家庭でのみ終わるのではなく、必ず真なる社会に発展させなければならず、真なる社会は真なる民族、真なる民族は真なる国家、真なる国家は真なる世界に発展させていかなければならないのです。(二六―一一一)
ある団体があり、その団体が発展するためには、その団体を動かす中心がなければならないのであり、その団体が行かなければならない目的がなければならないというのです。その目的を成そうとする団体の範囲が大きければ大きいほど、必ずそこには部署があるのが普通であり、その部署にもその団体の中心となる存在と共に、相対的な部署の責任者がいて、その責任者とつながった要員が構成されます。それが上下に一つとなり、内外に一つとなる時、その団体はそこにおいて発展し、そこにおいて計画するすべてのことはそのまま、進展を見ることができるということが、社会や日常生活において分かるのです。
企業を発展させようとすれば、経営と施設と技術の三大要素が一つとならなければなりません。すべてこのように三大原則で成っています。今日世界の経営者たちは、三大哲学を言いますが、私たちは、四位基台哲学をもって現れました。広大だというのです。きのうまでは平面的なものでしたが、私たちの哲学は立体的なものです。それゆえに今後残るものは、私たちの原理しかないというのです。皆さんは、そういった内容が分かりますか、分かりませんか? (分かります)。分かりますか? (はい)。(二六―一九三)
2 国家の発展
国家を見ても、そこには、必ず国策を立てる主権者を中心に、そのみ旨を奉る行政要員と行政組織が全国に広がっており、そこに環境を連結させ、全体に通じることのできる内外の組織形態をもっているのです。それが、いくら細胞のように、はるか末端の段階まで組織形態をもっている複雑な国家だといっても、そのすべてが主権者の本意と食い違いなく、一体となり、和合することができ、相応できる、環境的条件をもった国家なら、その国家の環境がいくら広いといっても、必ずその環境は発展するのです。(四一―一〇二)
主権者はいつでも、与える立場に立たなければ、滅びるのです。私が高い所に上ったなら、低い所に与えることができなければならないのです。そうしてこそ、すべてのことが発展します。(一四一―四四)
一つの国家なら国家も、やはり、与党、野党と分かれています。これは必ず、互いにぶつかるようになっています。しかし、そのようにぶつかる中でも、互いが、よく授け受けするならば、発展するのです。らせん形を描き、回転作用をしながら、発展していくのです。そして互いに助け合う作用をせず、ぶつかる破綻作用を平面的にしているというのです。これについての統一案も、提示しなければならないというのです。(二八―二四七)
豊かに暮らしている個人なら個人、国なら国が、過去から今まで、豊かに暮らしてきたのかというと、そうではないというのです。大きな国なら大きな国が、豊かになるまでは、そこに比例して、悲惨な内容を中心として、生死の境で決断を下さなければならない内容があるのです。そのような歴史的な数多くの事件を帯びて現れた、という事実を知らなければなりません。そして、その事件が処理されたのも、個人が優れていて処理されたのではなく、国民と国家が一致して、全体の運命をかけて努力したため処理されたのです。国家の非常事態を解決し、越えていくにあたっても、上下、あるいは左右、全体が団結し、難局を越えていく過程を経て、その基盤の上に発展という連続的な結果をもってくることによって、その国は今日先進国を創建するようになったという事実を私たちは否定することはできません。(二七―二七二)
3 歴史の発展
原理原則的な基準に立ってみるときに、今日この世界は単純な世界ではありません。この世界は、復帰しなければならない世界であるというのです。元来は、天の父母の因縁から結ばれ、始まった文化世界が成されなければならないのです。ところが、今まですべてのものが、サタンを中心にして成されてきました。
アダム・エバを中心に、初めて出発して、世界的に発展しなければならないのが創造本然の歴史でしたが、それが成されなかったので、蕩減復帰の路程で戦わなければならないのです。(一六―一九九)
今まで、堕落した人類の歴史は、個人より家庭、家庭より民族、さらに国家、世界、天宙に至るまで、より大きな世界に発展することのできる未来の基準を中心にして発展してきましたが、それだけでも駄目だというのです。アダム・エバが堕落した、その当時から今まで六千年になりましたが、もし人類が、六千年後に、世界に希望を置く世界観でなく、六千年前のその日を振り返りながら、懐かしがることのできるそのような世界観をもっていたなら、この世界は既に統一されているのです。しかし、人類が、未来に希望をもって探していく立場に立ったので、今まで歴史は、遅延されてきたのです。(二五―一一五)
真昼に暮らす群れは、夜に暮らす群れを思ってあざけるが、歴史は、あざけられて追い出された彼らによって、発展してきたということを、皆さんは知らなければなりません。追い出された群れは、世間を革命してきたし、発展させてきたというのです。(二七―三一二)
暗い夜の道を過ぎ、十二時を過ぎてこそ光明なる朝を迎えられるのです。それゆえ、彼らを追い出した群れは、彼らの道を壊したのではありません。むしろ、夜の道を行くにあたって、せきたててあげ、追い出してあげる功績を残したからこそ、彼らの行く道は遮られなかったというのです。それゆえに、今までの歴史は、追い出された群れによって、新しく発展を繰り返してきたというのです。(二七―三一二)
理念を追求し、解決できる最後の基点は何なのですか? それは神様のみ言です。すなわち、人類が探してきた真理と、神様が立てようとされた真理が一致し、その一致した真理が神様と一つになれる基準を決定するために、歴史は今まで発展してきたという事実を、私たちは知らなければなりません。この真理の基準に対備して、外的世界も発展してきました。換言するならば、物質的世界も発展してきたというのです。これは科学が分担してきています。(二〇―三〇一)
歴史は、母体が望む対象になるために発展していくのであって、その原因になる母体を否定する真理から発展するのではありません。そうでなければ、一つの世界になりません。(二六―四一)
4 宗教の発展
神様は、今まで摂理をしてこられながら、怨讐を打って推進されたことがありません。怨讐を打って摂理することよりも、自らの愛する存在、一番近い存在を犠牲にして、摂理を推進されてきたのです。神様はこのように摂理を発展させてきたというのです。その発展は、天国に向かって発展するのです。(三二―二二三)
世間は、神様がとどまることのできる環境とその基盤ではありません。ゆえに新しい観を立てて、新しい基盤をつくらなければなりませんでした。これを、生きて成せなければ、死んででも成さなければならないというのです。それゆえに、キリスト教は殉教の血を流しながら発展してきました。誰でも喜ぶ位置でもって生きようとするのに、何のゆえに死のうとしますか。(二〇―三一三)
宗教はいつ発展するのですか。苦痛を受け、受難を受ける時、発展するのです。なぜでしょう? その位置で、神様のみ旨が成される可能性があるからです。可能性があるときに神様が役事されるので、どのような宗教でも必ず、迫害を受ける時、発展するのが普通です。もし、迫害がなくなる時は、統一教会なら統一教会はどのように発展するのでしょうか? 自ら進んで受難の道を行かなければならないのです。全世界が、統一教会の理想どおりに成る時まで、統一教会は、社会とは反対の道を行かなければならないのです。なぜでしょうか? 悪なる世界と善なる世界は違う道だからです。
もし統一教会を世界で歓迎したとしても、「統一教会の教会員たち、さあ、今世界で歓迎するから、今までの私たちの願いを果たす時が来ましたから、私たちも社会でしていることをすべて行い、そうやっていきましょう」。これでは駄目です。反対をしなければしないほど、統一教会は自ら進んで、悪い世界に影響を与え、その環境を消化しようとするため、その反対の受難の道を行かなければならないと考えなければなりません。ある人々が考えるには、「ああ、この迫害の道は、いつ終わるのだろうか。いつ統一教会の理想を成せるのだろうか」と、こう思います。そのように考えるのは、統一教会の出発当初から、天が望む本然の姿勢と比較してみるとき、間違った姿なのです。(一〇八―二九六)
宗教は、迫害を受ける時、発展するのが普通です。なぜそうなのでしょうか? サタンがそこには無力となり後退します。なぜですか? 怨讐を愛するから、サタン、悪魔を愛したという条件が立った立場であり、サタン、悪魔の息子、娘、第一の下手人を愛した立場となるからです。それゆえに、許してあげ福を願った立場は、神様が愛した位置と通じるのです。分かりますか?
それで宗教社会に迫害の門が開かれるようになるのですが、この事実を歴史始まって以来、数多くの宗教の指導者がいたし、数多くの宗教人がいたけれども、分からなかったのです。今日統一教会が現れることによって、統一教会の先生一人が現れることによって、このようなことが明らかにされました。(一二七―一一五)
三 お父様と統一教会の発展
三 お父様と統一教会の発展
P593
1 お父様が発展される理由先生は一生の間、迫害を受けてきましたし、戦い、法廷闘争をしてきましたけれど、なぜ疲れてしまわないのでしょうか。疲れてしまいましたか? (ノー)。なぜノーですか。なぜですか? (笑い) 愛の力のゆえです。愛するゆえ、反対するアメリカでも、この愛の本心をもった人は、私のところにくっついてくるというのです。磁石です。それゆえに、レバレンド・ムーンは、味わいがあるというのです。アメリカの若者は、一度味わうならば、ころりです。なぜですか? 自分たちには、そのような味がないからです。私には真の愛があるからです。皆さん、お母さんから鞭を受けても、泣きながらついていくでしょう。そのようなことが起こるのです。なぜですか? それは愛ゆえです。はっきり知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。
レバレンド・ムーンは、そのような調和の力をもっているというのです。それで滅びないというのです。この考えだけしても、一人でも寂しくないのです。寂しいのはなぜ寂しいのですか? 行く所に繁殖があり、発展があります。ここに行動だけすれば、喜ぶのです。どこに行くようになっても、友人ができて、全部ついてくるというのです。さっと、引っ張り上げられるというのです。引っ張り上げられるのです。
皆さんはそうではないですか。愛はより大きくなっていくのです。私が心から、十くらいの愛を受けたなら、それを返す時、九くらいの愛で返そうという人がいますか。十一や十二くらいで返そうと考えるのです。それが愛の原則です。小さくなろうとは絶対にしないのです。そうですか、違いますか? (そのとおりです)。(一三一―一二三)
芝のようなものを足で踏んでみると、再び元に戻るでしょう? それと同じようにそれらが走れば、私自身も走るようになるというのです。そうでしょう? それゆえ、天のために生きる道にはマイナスがありません。神様が共にあれば、発展するゆえにマイナスがないというのです。(三〇―一五四)
先生は、アメリカの統一教会が発展するのは、先生にかかっていると考えます。私が皆さんの世話になる責任者となっては、統一教会は絶対発展しません。私が皆さんの世話をする責任者となる時、統一教会は発展するというのが先生の観です。今までこのような立場でやってきました。
また霊界が、神様が、天使世界がやるせなく思う限り、私がやるせなく思わなければならないというのが先生の考えです。世界についてそのように考えるのです。世界についての考えをし、統一教会についての考えはしないというのです。世界のために生き、神様のみ旨の世界のために生きるのです。ですから、そのように悪口を言われながら、世界を思ったレバレンド・ムーンが、み旨を成せずに死ぬ日には、統一教会は、なくなるとは考えないのです。死ぬ日には、神様の恨みを解いてさしあげなければなりません。そして、より発展させなければならないというのです。何のことか分かりますか? (はい)。私の精誠と私の祈祷により、み旨を成してさしあげなければならない神様がいらっしゃるゆえ、そのみ旨を成す時までは、統一教会が滅びないという観をもっているのです。
私が寝て、目が覚めてすぐ便所に行っても、そのように考えるのです。寝ても覚めても、二十四時間そのような考えをするのです。どこに行っても、誰に会っても。何のことだか、分かりますか。それゆえ、皆さんに借りをつくる男ではないというのです。借りをつくる男ではありません。どれほど駄目な人間なら、責任者が借りをつくって生きるというのですか。(九三―九五)
2 統一教会が継続して発展する原因
皆さんは、今、昼なのか夜なのか分からないでいますが、背後では、発展するために、ずっと闘争しているというのです。ここには、莫大な物質的な支援を投入しなければなりません。今日統一教会員たちは、「先生についていく」と言いますが、先生が後援しなければならない立場です。(二八―二二七)
皆さんはこのようなことを知って、行かなければならない道を行くべきです。先生はこのような問題を中心に、四十年間苦労しながら歩んできたし、一生をこの問題を前にして、今も戦っているのです。熾烈な闘争をしているのです。皆さんは寝ているかもしれませんが、統一教会は発展しているのです。皆さん、鉱山で穴を開ける削岩機という機械があるでしょう? それと全く同じです。皆さんは寝ていますが、その仕事をしています。穴を開けて、そこにダイナマイトを入れるのです。そこに芯をつけておいて、私がそこに火だけつければ爆発するようになっているのです。(三四―二九〇)
皆さんは、寝て楽に休んでいても、統一教会の文先生は、夜も休まず、寝ずに続けて仕事をしています。このように休まない限り、統一教会は発展しているのです。皆さんが荷物をまとめて、統一教会の文先生をたたき殺そうと、煽動してデモをしたとしても、先生が苦労したことがあるので、世界は先生に反対せず、歓迎するようになっています。分かりますか。先生は滅びません。大韓民国がいくら反対し、既成教会が数十年の間ありとあらゆる反対を続けたとしても、決して滅びません。
葉は一つも見えませんが、根は常に深く伸びていくのです。そうして春になれば、一気に葉が出てくるのです。大きい木は、伸びるだけ伸びれば枯れるのです。そうでしょう? しかし、統一教会は根が深いので、誰も引き抜くことができません。それは先生自身も引き抜くことができないのです。また、神様も引き抜けないのです。カイン側の人たちが、引き抜こうと私たちを引っ張っていますが、彼らが引き抜くことはできないのです。無限に広がっている根の中を行って見てみると、アダム・エバを越え、神様の心情圏まで広がっていて、神様までも倒れてしまうようになっています。それゆえに、根が一番深いところは統一教会です。(二四―三四五)
皆さんが優れていて、このみ旨がこれほど発展したのではありません。それは先生が……。統一教会がこれほど残り、これほどになったのは、粘り強い先生がいるから……。先生がいなかったなら、統一教会がどこに残っているでしょうか?(七七―七七)
今は、統一教会が再び苦労する時が来ました。過去には、縦的な基準としてみ旨を成すために、心情的な基盤を中心として苦労しましたが、今は横的に刈り取らなければなりません。そうしようとすれば、皆さん各自が、責任をもって再び行かなければならないのです。
父母の心情を帯び僕の体をもって、人類のために、地のために、天のために、忠誠できる基準だけ変わらない立場に立つようになるのなら、統一教会は続けて発展するのです。もし発展しないならば、統一教会に神様が共におられないということになります。何のことか分かりますか。
皆さんを中心として、精誠を尽くさなければ、駄目になる環境が広がるのです。そうでなければ、統一教会は偽物です。そうならなければ、神様のみ旨は成されないのです。(二三―二一四)
私が話をしたのに、命令したのに、やらないから仕方なく……。皆さんの先祖も讒訴できず、皆さんも讒訴できません。それで、今からは一生懸命なす人に与えるのです。皆さん、ここで完全に奪われるようになるということを知らなければなりません。ですから、新しく入ってきた人が一生懸命なす日には奪われます。皆さんは落ちたとしても、皆さんのゆえにみ旨は成されませんが、新しく入ってきた人を通して復帰していくのです。
この世の中も、全く同じです。神様のみ旨も同じです。それで今、一生懸命信じる人たちを中心として、より努力する人を通じて、神のみ旨を進め、世界に発展させていくのです。同じく役事をしているのです。
キャベツの種が育てば、すっと葉が出るのです。この統一教会も、すっと葉が出るのです。仕方ないのです。それは、自然の道理なのです。ですから、皆さんが仕事をしなくても、統一教会は発展すると私は考えます。私がいる限り発展するというのです。それが何のことだか分かりますか。(九一―三一四)
3 内的な摂理の基点と一致してこそ発展する
先生は、今までこのみ旨を立ててきながら、どこに一番重点を置いたのでしょうか。神様が臨在されるところ、すなわち、神様が臨在できる基点はどこでしょうか。ここを中心にどのように一致するのか、どのように同化されるのか、ここに神様が公認できる一体性の基盤をどのように立て、内的に適用させるのか、このようなことに一番重点を置いて、今まで戦ってきました。
サタン世界では、外的にこれをふさぐため妨害し、天は外的に防げるこのサタン世界を征服するために戦いを展開しているのです。
このため、今日世界的に広がっているこの世界のすべての実情は、どこまでも外的なものです。神様は、この世界の中でどこにいらっしゃるのでしょうか。韓国にいらっしゃるのなら、韓国のどこにいらっしゃるのでしょうか。神様は必ず教団に入られるのです。では、先生が生活している青坡洞本部教会と神様の臨在地との関係が、どのようにならなければならないのでしょうか。もしこれが違うというとき、統一教会は発展するどころか、ここから中断されてしまうのです。
これが横にそれては、今後世界的な同化の基点が成されないというのです。また世界を消化させることのできる基点になることができません。内的中心を、しっかりした場に立てることができないというのです。ならば、どのようにしなければならないのでしょうか。どのような難しい環境でも、責任者は、そのような中心を決定するその基点を、その位置を喪失せず、守っていかなければならないという信念にいつも徹していなければなりません。そのような観念をもって進むとき、私的生活と社会生活を全部解決していくことができます。
皆さんが社会生活をするのは、内的生活を表現することにすぎません。そのような生活の中で、私はみ旨が望む目的に向かって動くようになるかということが問題です。心を中心として体が動くことと同じように、内的な摂理の基点、すなわち摂理の臨在地を中心に外的な世界が動かなければなりません。ところが、そのようになっていないがゆえに問題になるのです。(二二―三九)
神様は、内的な全盛時代を出発させられる基盤をつくらなければ、絶対に外的全盛時代を与えません。与えれば滅びるのです。それを知らなければなりません。外的な全盛時代を打つのは、内的全盛時代を与えるためです。それゆえ、どの時代でも、内的な全盛時代の指導者たちは環境的に迫害を受け、追い立てられるのです。釈迦もそうであったし、孔子もそうでした。マホメットもそうであったし、イエス様もそうでした。これは、皆さんが歴史を調べれば分かるのです。
では、なぜそうなるのでしょうか。外的な迫害に比例して、内的に固い根をもつようになるからです。神様が御覧になるとき、肉体の基準より心の基準が高いように、外的な基準よりも内的な基準が高いゆえに、体的な外的な基準を打って、内的な基準に吸収し、進もうというのです。歴史上のすべての民族は、このような過程を経てきたのです。(一八―七五)
4 ある時には、統一教会が発展できない理由
統一教会が背負う使命は、統一教会だけの限定された使命ではありません。ここに集まっている人たちだとか、世界に広がっている統一教会の人たちの責任は、統一教会だけの責任ではありません。国と世界と霊界まで連結できる責任です。
今まで、統一教会がなぜこのように発展できなかったのかというと、蕩減の道を行くためです。霊界から見る発展は、「このようにせよ」とは言いませんでした。蕩減させるところにおいて、多くの人を通じて蕩減基準を立てることよりも、少数の群れを立てて蕩減の役事をしてきたため、そのように発展することを望みません。細
私たちの教会が、飛躍的に発展できなかったのは若い人たちのゆえです。大学に通う青年たちのゆえなのです。今、私たちの教会が開拓する過程では、「大学にいくのが問題だ」とは言うことができません。犠牲となり祭物となるこの道は、勉強することをすべてして行く道ではありません。食口たちは、このようなことを知って学校もみなやめて、全部外に出てみ旨のために戦ってきました。(一五―二五二)
女性たちが責任を果たせませんでした。統一教会がなぜ今まで発展できなかったのかというと、結婚させてあげたからです。間違っていますか、間違っていませんか? もし結婚をさせず、そのまま、数千名をごみためのようにこき使っていたなら、どんなに発展しただろうかというのです。結局は、結婚させてあげたゆえに発展できませんでした。結婚は何のためにしたのですか。女性を探すために結婚したのです。イエス様も、女性を探すために来たというのです。統一教会の男性を女性と結婚させてあげたために、みな力が抜けてしまって、教会を発展させられませんでした。
その原因は誰ですか? 女性なのです。この女性たちをたたかなければならないのです。(笑い) 女性をたたいておけば、前線に出しておけば、男性たちも仕方なくついてきて、「ああみ旨についていこう」と思うのです。女性が火を出しますから、火を出さなければ男性が冷たくなってしまうのです。それで、仕方なくこのような非常作戦を成さざるを得ないのです。これが三年女子出戦時代なのです。(五六―三一五)
5 統一教会が発展しようとすれば
今、私が心配するのは、全国にある私たちの教会がなぜ発展できないのかということです。私たちは、発展できる内容を十分にもっています。時代的な条件と、環境も完全に備えられています。ところが発展できないのはなぜでしょうか。この時代と立場、現在の置かれている環境、部落なら部落にプラスとなっていないからです。利益を与えていないからなのです。もし物質的な面で利益を与えられないとしても、精神的な面ででも、誰でも利益を受けているという事実を切実に感じるようにすれば、「教会に来るな」と言っても、来るようになっているのです。(五六―一六)
堕落した人間は、涙を流さなければなりません。皆さんは、ソウル市にすがってどれほど泣きましたか、夜を明かしながら。どれほど三千里江山(注:韓半島)のため、どれほど人類のためを思いましたか。祈祷をすることにより、本来の縦的なものに接して愛を感じることによって、私がいる場から同参権を中心に同位圏に立つようになるのです。価値の内容から見るとき、こちらが東側なら私は西側に、同じ基準に立つようになるのです。分かりますか。ゆえに祈祷が必要なのです。祈祷していますか? 今、祈祷の必要性が分かりましたか? (はい)。
これを帰って話さなければなりません。(はい)。ソウルにいるすべての食口にとって、皆さんは責任者として偽者だったのです。肥だめをつくって生きなかったですか。自分はできがいいと思うなというのです。そうすれば発展しません。統一教会が発展しようとすれば、原理原則がありますが、その原理原則の道を行かなければなりません。(一七一―二〇)
統一教会を中心に見るとき、統一教会が発展しようとすれば、いいこと悪いことすべて消化させなければならないのです。私は、いいことは消化しても、悪いことは消化できないというようになれば、それを誰が責任を負いますか。いつか皆さんの後孫に行くのです。(六六―一一二)
6 統一教会が発展するほど、サタン世界は滅んでいく
神様に、解放が必要ですか。神様は既に解放されているのです。そうではありませんか? 神様に解放が必要なのは、人間を解放しようとするから必要なのです。神様自身は解放されているのです。人が解放されていないので人を解放しようとするから、神様が解放条件に引っかかっているだけであって、神様自身が解放されない方ではないというのです。それで人間にかかっているというのです。
そういった人間を造ろうといった集まりは、世界の中で統一教会以外にはありません。これを知らなければなりません。先生一人を中心として、サタン世界と、天の世界が問題となっています。統一教会を中心として、これが問題となっています。いつでも、神様とサタン世界の中央に立って私たちが、天の側にプラスさせることができる立場に立てば、人間によって神様が解放されるのであり、統一教会が発展するほど、サタン世界は滅んでいくのです。では、私たちの目的は何ですか。人が望む目的は、神様が解放され、神側が勝利することであり、サタン側が滅びることです。それが歴史的願いであり、人類の願いでした。また、神様の摂理的目的でした。これを皆さんは知らなければなりません。(一六一―二四四)
私たちは変わらないので、サタン世界はしきりに崩れ、私たちは反対にしきりに発展するようになります。それによって、彼らが吸収され、新しい世界になっていくというのです。私たちは行けば行くほど、希望にあふれ、自信ができ、歴史がよく見えるようになりますが、彼らは、行けば行くほど、より世間が分からず、だんだん行き詰まるようになります。だんだん遠くなるというのです。(七一―一八)
四 教会の発展と牧会者の責任
四 教会の発展と牧会者の責任
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1 間違った過去を清算せよ私たち、統一教会の現在の立場を見れば、今まで責任者たちがしてきたその活動方法をもってしては、今後、革新的な発展を期待できないのです。昔の思考方式と、昔の生活態度、あるいは昔の伝道方法や、信仰姿勢をそのままもっていてはいけないというのです。なぜそうなのですか。今までそのような方法で歩んできましたが、今日期待できる結果をもたらすことができなかったからです。良い結果をもたらしたなら分かりませんが、そうでない立場にいることを、私たち自身が公認した立場で見る時、過去と同じような信仰姿勢、生活態度、伝道方法から外れ、新しく、変わった姿にならなければいけないというのです。それゆえに私たちが、新しい信仰姿勢、新しい生活態度、新しい行動を示さなければ、新しい発展をもたらすのは難しいと見ます。(三〇―一二〇)
先日までは、私たちはそれなりに生きてきましたが、それなりに生きていくことによって、歴史的な勝利は私たちの前にもたらすことはできないということを、皆さんは知らなければなりません。
習慣的な弊害を一掃してしまった革新的な信念の前に、新しい自我を自覚された基盤を確立させて、主体的な強い姿を現し、天と共にぶつかるようになる時、ここから新しい創造の歴史は現れるようになるのです。どの時代でもこのようになる時、新しい創造の歴史が現れたということを、皆さんは知らなければなりません。
それゆえに皆さんは、弊害的な習性を打破してしまい、新しい意味の主体的な内的因縁を確立して、主体的な開拓者として、環境を打開するにあたって創造者となり、犠牲者とならなければいけないというのです。そうしなければならない時ではないか、ということを感じるのです。(五六―三四三)
発展は、私たちに一番必要なものです。しかし、その発展を追求する前に、自分の中の純粋性を、どのように達成するのかということが、より問題です。ゆえに、皆さんには祈祷する時間が必要なのであり、精誠を尽くす時間が必要なのです。祈祷はただしてはいけません。過去を清算し、ささげなければなりません。過去の意識が残っているなら、その意識が、私をどこに引っ張っていくのかという考えをしなければいけません。過去の意識に私が陶酔し、どれほど強い立場に立っているのかという問題において、過去が純粋だったのかと、批判しなければならないというのです。純粋な立場に立っていれば善だったかということを批判しなければならず、現在そのような立場に立っているのかということを批判しなければなりません。また、私が望む願いが純粋なのかということを批判しなければならないのです。
では純粋な善の立場とは何なのでしょうか。自分のためにある立場にあっては、純粋な善は存続されません。善は自分を強化させるところには、存続されないのです。なぜ存続しないのでしょうか。善というものは神様に侍るための一つのパターンであるからです。善の中で、神様に侍るということは、善の主人として神様に侍ることなのです。善の主人は堕落した人間でなく、神様なのです。(三六―一〇六)
2 教会は牧会者にかかっている
皆さんも、地方に行って伝道する時、まずその村の人たちと、内的な面で一体を成さなければなりません。内的な一致とは、心情統一をいうのです。その次には、生活統一、理念統一の基準を連結させていかなければなりません。
皆さんは、現実的な舞台で、神様を中心に、心と体が一つとならなければならないということを知らなければなりません。すなわち、神様と心が一致したそこに、体が屈伏しなければならないというのです。そうしてこそ蘇生、長成、完成の三点を連結させられるというのです。個人的にそのように行くだけでなく、この民族をそのように引っ張っていかなければなりません。
皆さんは、この時代について、神様のみ旨があることを知って、この村について責任をもったならば、そこで終わると考えずに、一段階高めて、その面に責任をもつと考えなければなりません。その次に、その面に責任をもったなら郡を引っ張って越えていかなければならず、郡に責任をもったなら道を率いて越えていかなければならず、道に責任をもったなら国家を率いて越えていかなければなりません。一段階前において、進まなければなりません。戦いの舞台は個人的な戦いの舞台ではあるが、心と信念は国家を中心として越えていかなければなりません。そのような立場に立ってこそ、霊的にでも天の今後の道を準備する場に、とどまることができるというのです。天が準備した基台の上に、相対的な条件でも立てられるというのです。
それゆえに、皆さんが発展するかしないかということは、皆さん自体にかかっています。皆さんが個人的な戦いをする時には家庭を考えなければならず、家庭的な戦いをする時には氏族を、氏族的な戦いをするときには民族を、このように国家、世界的な戦いを展開していかなければなりません。このように、戦いを前に置いていく人、一段階前に出た戦いの舞台を考えて、準備する人は絶対疲れることはできないというのです。私たちは、そのような精神をもたなければなりません。(一三―三〇二)
統一教会が、今まで発展できなかった原因も、全く同じです。教会がなぜ、発展できないのですか。各教会に責任をもった者が、激動するその環境で、主動的な役割を成せなかったからです。環境を消化して未来に向かうことのできるイメージを、植えつけてあげられなかったというのです。「彼らを探していくことによって、韓国に理想が訪れるであろうし、神様の摂理の中に勝利の基盤が教会に来る」というビジョンを確実に、植えつけてあげられなかったというのです。それは人格不足です。(一九八六・五・六)
地方に出ている皆さんが、開拓者の使命を成さなければならない立場で、不平を言ったなら限りがないのです。不満を感じようとするなら限りがありません。み旨について半信半疑なら限りがないのです。反抗しようとすれば限りがありません。限りがないので悪いのです。それゆえ、不平不満を言わず、半信半疑でなく、反抗せず、絶対に信じて、絶対に順応しなければならないのです。そのようにするのが、神様の代わりに事を成せる場を守ることになるのです。
そのように進む道には必ず復興があり、必ず繁殖が起こるというのが原理的な見解です。それならば、神様のみ旨を多く代行し、神様の仕事を多くの分野で身代わりできる立場はどのような立場でしょうか。その立場は、とても難しい立場です。難しい立場から極めて大きいことのためになっている立場が、神様のみ旨を多く成せる立場ではないだろうか、このように見るのです。(四四―一三)
教会が発展する原因はどこにあるのでしょうか。また、神様がこの地上に摂理の役事をしてこられる中において、踏み台を築いて現れる、原則的な基準はどこにあるのでしょうか。もし、それが教会長にあるとするなら、教会長はどのようにしなければならないのでしょうか。祭物的過程を経ずしては行けないのです。自分と一つになった相手があって、彼らが代わりに苦労し、犠牲となるならば、彼らを通じて祭物をささげることができます。(四七―二九四)
3 原理講義についての計画と、実践が重要だ
今まで私たち統一教会が発展できない、その原因はどこにあったのでしょうか。第一の原因は、地域なら、地域本部が拡張されないところにありました。なぜなら、地域本部が、都市や村の中央に場所を借りていても、契約期間が過ぎれば引っ越さなければならなかったからです。ところで経済的実情をおいて見るとき、年が変わるにつれて、お金の価値はだんだん落ちていきます。それゆえ、三十万ウォンで得た所が、一年後には五十万ウォンでなければ、そのような所を得られなかったというのです。このように年ごとに一度ずつ家賃が上がるので、経済的な負担が加重され、そうしているうちに地域本部を移さなければならなくなったのです。ところが、移る場所がより良ければ幸いでしたが、市内から外れた所に行ってしまうというのです。市内にいる時に食口たちを確保しても、町外れに引っ越せば、従っていた多くの食口が離れてしまう結果をもたらすようになるのです。これが、教会が発展できない第一の原因でした。(二九―一八五、一九七〇・二・二八)
二番目は何ですか。皆さんの実力不足です。もう一度言えば、指導者として計画性ある生活体制をもてなかったというのです。自分が置かれている郡に十個の面があれば、その十個の面を中心として自分なりの計画がなくてはなりません。また面なら面の所属された部落を中心に計画がなければなりません。それで、郡なら郡に影響を与えることのできる面、あるいは、面なら面に影響を与えることのできる部落を中心にして、数を増やすための、すなわち伝道をするための計画を立てなければならないというのです。それゆえにその計画を成すために努力をしなければならないのです。
では、その計画を実践する方法とは何なのでしょうか? 一番目は原理講義です。私たちのみ言を宣布しなければなりません。ところで、今まで皆さんが講義するのを見れば、部落部落に行って部分部分、少しずつ講義していますが、大多数の人が講義する範囲が限定されています。すなわち、皆さんが原理講義するのを見れば、前編の創造原理を少し講義し、終末論と再臨論を少し講義するようにしています。そのようにしてはいけません。自分が計画した方法を遂行するために、どこどこに行ったなら、どんな講義をするのかという計画を立てて、『原理講論』の前半後半、全部を講義することができるようにしなければなりません。このような計画を立てて実践しなければならないというのです。これが、皆さんに全般的に成されていないことです。
一年なら十二カ月、そのうち一カ月なら三十日、その三十日の中に十カ所なら十カ所、十カ所が駄目なら七カ所でもいいです。とにかく自分が計画した所に行って、原理講義をしなければなりません。講義をするのに、内容を互いに変えていきながら講義をするのです。そのようになれば、一年、十二カ月、一カ所で同じ講義をしなくてもいいし、他の所で他の講義ができるというのです。このようにお互いに数を変えて講義をすれば、『原理講論』全体を講義することができます。このように、『原理講論』の前編、後編を十二編なら十二編に分けて計画を立て、その計画に合わせてずっと講義をしなければなりません。そのようになれば、皆さんの原理の実力は相当につくのです。
ところが皆さんは、習慣的方法と態度で講義をしています。自分の得意な分野だけ自信をもって講義して、それ以外の分野と連結して講義できなかったので、おしなべて発展できなかったというのです。
それなら、このような欠如した分野を補うため、郡なら郡、特定地域を中心に、計画を立てて講義しなければなりません。原理を宣布するにあたっても、作戦計画を立ててやらなければなりません。原理の一節で、全体を応用することのできる講義方法を模索しなければなりません。そのためには、『原理講論』の前編、後編について、よく通じていなければなりません。そうしようとするならば、講義をたくさんしてみるしかないのです。
いつも、同じことだけ言っていては駄目です。講義する時、対する相手が、その地域が違えば、そこについての題目を決め、話す内容も別にしなければなりません。そのためには、そこに関連したすべての本を購入して、研究しなければなりません。ゆえにそこについての深さと、広さと、高さをどのように補強するのかという問題を中心に、計画を立てていくなら自動的に発展します。このように計画的な方法で講義できないことによって、大多数の人たちが、発展できず停止状態にいます。このように数年ないし十数年過ごしてこなかっただろうかというのです。
皆さんが今回帰ったら、過去に活動した方法や認識観念を、完全に新しくしなければなりません。地域長たちは、その郡の地図を見て、郡内に自分が行かなければならない所が、何部落になるのかということを把握しなければなりません。大体二百部落、多ければ三百部落くらいになるのです。その次に計画を立てて、部落部落にみ言を伝えなければなりません。そうすればその部落には、神様が既に準備しておいた先祖の功労で成された基盤の上に、私たちのみ旨の前に連結される人が必ずいるというのです。ゆえに、このような人は神様の前に立てるための責任をもち、皆さんがそこに奉仕している間、必ず三回以上は行ってみなければなりません。このような計画を立てて、どのような困難があっても時間を取って、巡回講義をしなければなりません。
そのようにして、一次巡回講義をすると、次の二次巡回講義は、一次巡回講義の時より多くの時間は必要ではありません。二次講義からは具体的な内容が必要です。組織を編成するのです。すなわち講義を聞いて、反応を示す人がいれば、帰って、その人たちに手紙を出すのです。手紙を通じて関係を結んだのち、私が前にうかがった時は世話になりましたが、今回はいついつうかがいますから村の人を集めてくださいと頼むのです。そのようにして、再び講義をする時には、前に講義した内容は講義せず、他の内容をもって講義するのです。(二九―一八六)
4 蒔く責任者より育てる責任者となれ
私たちの教会が、発展できないもう一つの原因はどこにあるのでしょうか? それは伝道した人に、最後まで関心をもってあげられないことです。伝道した人たちについて、時が過ぎるにつれて、少しずつより関心をもたなければならないのにもかかわらず、伝道する時は関心をもつけれども、伝道をしてからは、無関心になってしまうというのです。これは伝道した人を殺す立場です。殺す立場だというのです。少なくとも三年までは、どんな時でもいとわず関心をもってあげなければならないというのです。
なぜそうなのでしょうか。その人の心霊程度が徐々に発展するというのです。初めて原理を聞いた時と、一年後の立場が違うというのです。一年が過ぎていけば、原理の内外についての立体的な内容を理解するようになります。それを理解すればするほど原理について知りたい気持ちが、より性急になってきます。ゆえに自分を指導できる人と接近したくなるのです。このように食口になったことを考えれば、ここに時間をもっと投入して、細かい計画を立てて、内面的に渇望する、その心を解決してあげなければなりません。ところが、そのような努力はせず、食口になったから、「もう、あなた一人で勉強しなさい」と言ってはいけないのです。食口の因縁を結んだ人には、少なくとも三年間は関心をもてというのです。一年たった食口と二年たった食口が、み旨に従って正常的な道を行こうとする時、一年たった人よりも二年たった人が、より細部的に深く入っていくというのです。細部的に熱烈にすべての分野に加担したがります。そのような彼らを見守って育ててあげなければなりません。
この本部教会も、それを成せませんでした。今まで多くの人が来ては去りました。初めは彼らに教会員になれと、原理をさっと紹介しておいて、その次に来れば無関心だというのです。伝道されたその人は、原理が素晴らしくて、み言を聞いた余力によって、大体六カ月から一年くらい教会によく通います。ところが、自分を指導してくれる人、責任者がいないというのです。これを、原理講義をする人が加わって教えてあげなければなりません。一年くらい過ぎれば、原理を理解する範囲が広がるというのです。体恤する範囲がだんだん広く、深くなるというのです。それで、原理についての内容をより知りたいのだけれど、これを教えてあげられる主体者をもてないので、これについての気がかりが詰まって、ここにおいて、教会員たちの自分についての無責任性を感じるようになるのです。これが一つ、二つ、三つと増えていけば、自分自身を再批判するようになるのです。そうして、多くの人を落としてしまう結果をもたらすようになるのです。
地方でも、これと同じような現象が起きてはいないだろうかというのです。伝道する時は一生懸命したけれども、いったん伝道され、教会と因縁が結ばれれば、無関心になってしまうというのです。しかし、彼らを少なくとも三年間は連れて歩きながら、教えてあげなければならないというのです。それで、彼らが疑いをもつことや、環境的に難しい立場に立つようになれば、これを原理的に解説してあげ、原理的に理解させ、公式的な発展がこのようになっているということを理解させてあげなければなりません。そうすれば彼らは、この原理が深い意味をもっており、偉大で、とてつもなく素晴らしいということを感じるようになるのです。それにもかかわらず、関心を与えないために、そのような刺激的な体験ができる環境をすべて失ってしまうというのです。それで、最初に原理を聞いて受けた感銘が、長く続かないというのです。これは、朝御飯を食べたけれど、昼食の時間になればおなかがすくのと全く同じ道理です。感動を受けたことが長く続かないというのです。それゆえに、継続的な指導をしなければなりません。自分が責任をもてないのなら、今までその人を育てた心情基準以上に連結されているという、自分の代身者を立てて、彼につなげてあげなければなりません。
この実際の例を挙げてみれば、今回婦人たちが、地方に伝道に出掛けていって、報告する内容がこれでした。ある婦人の報告を聞いてみると、前にある村で、高校出身の青年男女三十余名が、死ぬか生きるかして、み旨についてくるようになったというのです。この人たちに火がついて伝道しようとするのですが、四十日くらいたつと、帰ってきてしまったというのです。そののちにも、手紙を一カ月に一回ずつでも出して尋ねながら活動したなら、一人も失わなかったのです。ところが約十年くらい、ほっておいてから行ってみると、みな落ちてしまっていたというのです。また、そこに後任者たちが行ったり来たりしたのですが、開拓者に連絡して、誰々はどういった立場で、誰々はどのように指導しなければならないのかを調べず、すなわち心情的なすべての事情を知るために開拓した人に問うこともせず、地域長という人が、自分勝手に今までしてきた習慣的な観念で「これはこうし、それはそうしろ」と言うというのです。このようにどこから来たのか分からない鬼が来て、主人のような顔をしているので、昔自分を育ててくれた人とは違うというのです。
責任者として新しく人事されていった人が、そこに食口が約三十人くらいいれば、公的な権限をもって、自分のために体制確立をすると、自分の観念的な示達方法で、「こうしろ、ああしろ」と言うのです。そうすれば、食口たちをみな失ってしまうようになります。前回の開拓者から、これを受け継いだ責任を成せませんでした。今まで、地域長たちがそうだったというのです。心情的であり内在的なすべてのことを計画し、継承した立場において自発的な立場で、自分たちに指示してくれと、要求することのできる立場に立てておくこともせず、また彼らが、望みもせず、理解もせずにいるのに「こうしろ、ああしろ」と言っては駄目なのです。新任責任者は、そこに行って少なくとも三カ月以上は、食口たちから批判を受けるのです。食口たちが自分を見ているのに、自分が信じるままに推し進めて、食口たちに「こうしろ、ああしろ」と言ってはいけないのです。自分が育て、指導した人にも、三年以内にそのように言えば副作用が起こるのに、今まで関係を結ばなかった新しい人が、その地域に配置されたといって、どんな人物かも分からないうちに「こうしろ、ああしろ」と言うなら、問題が起きるというのです。少なくとも三カ月は精誠を尽くさなければなりません。
ですから、継承方法においてこのような失敗があったし、また伝道した人は、新任責任者に、自分が伝道した人を紹介しなかったというのです。責任者がこのようにしていくことによって、その人たちが寂しがったというのです。ところで、新しい責任者がその寂しさを補強してあげ、慰めてあげ、彼らの難しい事情を全部言わせて、ひもといてあげ、あすの希望を中心に新しく動くことのできる立場に立てておくことができずに、また寂しい立場に追いやってしまうので、これも寂しく、それも寂しいゆえ、落ちてしまうしかないのです。教会に三回だけ来ないようになれば事故が起こるのです。一週間だけ来ず、二週間来ず、三週間まで来ないようになると、よそよそしくなってしまうというのです。責任者を前にすれば、既に「ああ、あの責任者がなぜ教会に来ないのかと問うだろう」と考えるのです。問われれば、自分自身が寂しくて来なかったのだけれど、心中の言葉は言えず、うそを一言言うようになります。このようなことが反復するようになれば、教会からだんだん遠くなり、のちには完全に落ちてしまうようになります。(二九―一九二)
このように伝道はしておいたけれども、その後の収拾方法において、欠如した活動体制をもってきたので、多くの人を犠牲にしました。それゆえ、原理講義をして因縁を結ぶことよりも、因縁をもった人を結実させることが、私たちの責任です。ゆえに、責任者は、いつも何を考えなければならないのか、責任者の使命はみ言を伝えて、蒔くことではなく、刈り取ることです。これを知らなければなりません。み言を伝えることは蒔くことであり、蒔いて刈り取ることが、責任者の使命です。例えば、大きくなった芽に水をあげ、手入れをし、除草作業もし、花が咲くようにし、実を結ぶようにしなければなりません。これがある期間が過ぎたあと、完全に育って収穫するとき、初めて責任者としての使命を完結するのです。ところで他人が植えておいたところに、再び植えようとしては駄目なのです。それをよく手入れしてあげなければならないのです。たとえ、他の人が植えたとしても、よく手入れして収穫をするようになれば、それは天の倉庫に入庫されるのです。ところがそのような考えをもたず、過去の指導者の性格や、彼についての全体的な方法を把握もせず、これを再び植える業をするので死ぬのです。そうしては駄目だというのです。
このように、私たちの体制の中で、前任者と後任者の間に継承がよくなされなかったので、多くの人を犠牲にしなかっただろうかというのです。このような観点から見る時、責任者たちは、み言宣布も宣布だけれど、彼らを必ず育てることができる責任者になれというのです。蒔く責任者にならず、蒔いてから、刈り取る責任者にならなければなりません。刈り取るまでは三年以上かかります。一遍に刈り取ろうとしては駄目です。ゆえに、イエス様が、十二弟子を率いて、三年以上歩んだのです。それは原理です。ゆえに三年は苦労しろというのです。
それで、先生が伝道地を設定して派遣しながら、「皆さんは、三年間服役するという立場で、そこに売られて雇用生活をするという立場で、部落なら部落に行って忠誠を尽くしなさい。そして彼らに何を教えてあげるのか。忠誠の道理を教えなさい。それだけでなく、実践して見せてあげなさい。そうすれば、必ず、皆さんが言わなくても自分たちができることを引き継ぐというのです。君も私も、このように出るとき、皆さんは、その部落で、完全に基盤をつくるようになります」と話しました。
それにもかかわらず、地方に行って、その責任をすべて成せないがゆえに、まるで天国に家を建てて、なくなってしまうような基盤を立てたというのです。その上に家を建てるというのは、家を新しく建てることよりも、もっと難しいことです。過去に伝道しにいって、失敗して、食口がみなバラバラになって、現在一人しか残っていない所に行って伝道するようになれば、最初に行って伝道するより、二倍三倍の苦労をしなければならないというのです。これは多分皆さんが、実際に開拓してきながらよく感じたはずです。こういうことを見るとき、私たちが果たさなければならない責任を果たせなかったという結論が出ます。
このような、すべての問題をおいて見るとき、私たちはこれを再び評価しなければなりません。最初は地域本部の解決問題であり、二番目は、原理講義においての実力問題、三番目は、食口たちを伝道して育てる問題です。生んでおいて、ほっておいてはいけません。生んで育てなければいけません。自分の継承者として育てなければいけません。私たちは今まで、このような問題をいい加減にしてきました。それで、皆さんが、今やあすにでも責任をもった所に行くならば、このような問題を中心に計画を立てなければなりません。
皆さんは今まで、伝道した人がどれくらいになりますか。もし皆さんが今まで十人伝道したならば、十人を自分の所管の中にいる人たちと共に、最小限一年に一回くらいでも、総会をもたなければなりません。全羅道、あるいは慶尚道、あるいは江原道に分かれているとしても、一年に一回ずつは集まらなければなりません。全体が集まることができなければ、呼んで会うとか、でなければ、機会をつくって会いにいってでも、一年に一、二回は、会わなければなりません。親子の関係のように、今まで過ごしたことについて、お互いに話せなければなりません。子供が、親から離れて他地方へ行って帰ってくるようになれば、その間過ごしてきたことを報告して、父母は、それを励ますのと同じように、昔の心情的な関係を中心に、うれしいこと、悲しいことをお互い話し合いながら、良い時間をもたなければなりません。これが長ければ長いほど、その人たちは、皆さんが忘れられないようになります。ところが皆さんは、そのようなことをしませんでした。
では、今まで、どのようにしたのでしょうか? 全羅南道地域の責任者だった人が、他の所に行くようになれば、どのようにするのかといえば、全部手紙を書いていくというのです。そうしたのでは駄目です。必ず後任者に彼らを紹介させなければなりません。紹介をするのでも、人格的な紹介をしなければなりません。「私はこのように動いたのですが、この責任者が、このようにして動いて、ぶつかり合うようなことが起これば、このようにしなさい。しかし、それでも難しいことがあるときには、手紙を書きなさい」と言わなければなりません。自分がいる所に連れていけというのではありません。新しい後任者に彼らをつなげ、今まで自分から育てられた、その基準を中心に、より良くなせる基盤を成してあげなければならないのです。新しく来た責任者は、その教会の食口一人一人について、よく分からないゆえ、そのようにしなさいというのです。私たちは今までこのようなことをよく成せませんでした。(二九―一九一、一九七〇・二・二八)
5 九五パーセント人のために生きる責任者となれ
誰が一番高い霊界に行くのでしょうか? 人のために生きれば、神様の胸の中にさっと入っていくというのです。皆さんもそのように、先生の話を聞いて、実践しながら生きてから、霊界に行くようになれば「先生のそばに来るな」と言っても、宇宙が自然に引っ張っていくのです。
きょう、ここに教会の責任者たちに集合せよといいましたが、皆さんの教会がなぜ発展しないのでしょうか。それは、その責任者が、このような内容をもって生きられなかったからです。それは間違いない事実です。神様が、そういう眼鏡をかけて見る時、その眼鏡にかなう人がいないというのです。ですから、霊界では協助しないのです。またそうするので発展しないのです。責任者たちが、食口たちにさせることはできても、お使いに行ってあげることを知らないというのです。問題はそこにあるのです。九五パーセント、人のために生きようという、そのような責任者がいないので発展しないのです。
今から、皆さんのそのような思考方式を振り返り、先生のみ言のとおりに九五パーセント、人のために生きようとする時、復興しないなら先生は偽者です。先生が、うそつきだというのです。人のために生きる人が三人だけいれば、四方に広がっていきます。それは何のことだか分かりますか?
イエス様も頭の手拭いで、弟子たちの足を洗ったでしょう? 「私は、侍られることを望むのではなく、侍りに来た」と言ったのです。それを拒否した時、私がこの足を洗わなければ、お前と私は関係がないと、最後の宣言をしたのです。そのことが分かりますか。イエス様もそのように生きたというのです。その言葉は、数としては成せませんでしたが、九五パーセント人のために生きる生活をしたというのです。分かりますか。今、はっきりと分かりましたか。(はい)。九五パーセントを話すとき、自分の心に引っかからない立場で話をしなさいというのです。そうすればすべてのことがOKです。分かりましたか? 何のことか。(はい)。
ですから、寝るのは少なく休み、食べることを超越して、時間を惜しんで「ために生きる」活動をし、訪ねていって見本を見せてあげ、時には手を握って涙も流し、祈祷もし、身もだえし、「この国を誰が守るのか」と言いながら愛国思想を吹き込まねばならず、天の思想を吹き込まなければなりません。それは父母の愛、孝子の愛、忠臣の愛、聖人の愛、聖子の愛と通じるのです。
さあ、そのように生きて死ねば、彼が、「ために生きた」すべての群れが痛哭しながら死んだことを、心から哀悼する涙を流してあげられる地上の基盤ができるというのです。同志ができるというのです。枝が伸びるというのです。それで、皆さんの娘、息子たちが、そのような父だといって自慢できるのです。天と地に、私たちの父は真の父だったと、自慢できる先祖にならなければならないし、夫にならなければならないし、その国の国民にならなければならないし、世界の人類にならなければならないし、天国の民にならなければなりません。「天国を代表した愛する聖子であった」と言わせるためには、人のために愛をもって涙を流し、身もだえする歴史がなければなりません。
皆さん、伝道しようとすれば、その村で一年が過ぎ、二年が過ぎるほど、無感覚な男になることができないというのです。岩にすがって痛哭しなければならないし、木にすがって痛哭しなければなりません。人に会わなければならないけれど、人に会えず、木や石にすがって事情を話すことのできる資格もないけれども、私の事情を話し、涙を流す時、山や川が後援できるようになれば、そこで育った草と穀物を食べて生きる人は、自然についてくるようになるというのです。
皆さんが、責任を負ったその地域を思う時、どこへ行くにも涙がついて回り、「私が精誠を尽くしたことは、天が忘れようとしても忘れることができない」と言えるくらい、心の中には、いつでも宝として残っていなければなりません。(一三四―二五三)
神様が、皆さんのために生きるのと同じように、皆さんも、神様のために生きなければならず、また先生を知ったなら、先生が皆さんのために生きるのと同じように、皆さんは食口のために生きなければなりません。それが、元に戻って皆さんにも行くのです。そうでしょう? そのような問題において、皆さんが何になったのかといえば、どろぼうのような人が多いのです。取って食べてしまう人が多いのです。天のものも取って食べるし、食口たちのものも強奪して食べる一番恐ろしい立場なのです。このようにしたなら、皆さんの後孫が全部七代を越えられず、絶滅するというのです。
さあ皆さん、世話になる人になりましたか? 世話をする人になりましたか? 世話になる人になりましたか? (世話をする人になりました)。間違いなく、そのようになりましたか? (はい)。そのようになったら、発展しなければなりません。問題はどこにあるのでしょうか。皆さんに神様が協助しないのですが、なぜ協助しないのでしょうか。先生に協助するのを見れば、間違いなく神様は協助するようになっているのです。ところが、なぜ皆さんに協助しないのでしょうか。原則が違うから、思考方式が違うから、方向が同じでないので協助できないというのです。皆さんは、それを知らなければなりません。(七〇―一四九)
6 強力な神様の愛をもって生命を動かしてこそ
いくら強い人でも、私がもっと強ければ、引っ張られてくるのです。磁石と同じです。神様の愛を中心に愛すれば、寒い冬に、部屋で火鉢が暖かい空気を漂わすようになれば、人は暖かい火鉢の回りに集まるでしょうか、集まらないでしょうか。「集まるな」と言っても集まってくるのです。すべての昆虫が、光がある所に集まるのと同じです。そうすることによって、強力な神様の愛を中心に生命を動かさなければなりません。生命は何が動かすのでしょうか。愛です。その愛の根本は、神様の愛です。神様の愛をもって現れるとき、動かない生命はないというのです。皆さん、そのような実験をしてみなければなりません。
先生が、南韓に下ってきて、釜山の影島(注:釜山湾内にある島)で出発する時、最高の決定の場に立ったのです。私の一生において一番深刻な場になったので、その誰よりも、同志を愛し、兄弟を愛し、その国の民を愛することのできる一時となったのです。その時は、先生のすべての神経が集中されていたし、神様もやはり、一人の子女を探すために、家庭を成すために、国を探すために、愛した最高の心情的状態だったので、神様が感じる感動と共に私が話したのです。
その時の言葉は、私の言葉ではありません。マイクを持って放送する言葉でした。その時は、そこに来た人たちは一週間だけたてば、全部霊界に入るのです。一週間が何ですか。何時間内に、霊的世界についての体験の役事が起こりました。それは地上に電波を送るのと全く同じです。神様の愛の電波を送るのと同じです。その電波が世界に広がっていくので、霊界について、そういった恵みを願った人たちは、そこに感電し、また訪ねてくるのです。そういったことが起こったのです。
それゆえに、皆さんもそのような基準を立てなければなりません。ですから、直接行かず、見ず、会わなくても、既に感じることができる心霊基準と、因縁が、先祖から高い心霊基準を受けた人に、自動的に、朝に太陽が昇れば、遠い所にいても近い所にいても、すべて太陽を受けるのと同じような役事が起こるのです。それで、皆さんが夢の啓示だとか祈祷する中で、そういった因縁を尋ねていって会うようになるのです。
では、皆さんが神様に会うためと、イエス様に会うために、どれほど目が腐るほどに慕わしく思ってみましたか。それが問題です。先生から言えば、神様が慕わしく懐かしくて、一週間以上寝ずに夜を明かしながら祈る時もありました。そうして、朝に太陽を見るため目をしかめて……。そういう時もありました。そのように、懐かしさがしみ通るようでなくてはならないのです。そうしなければ、皆さんは死んでいるのか生きているのか、私が人間として、生きるのか死ぬのか、という生死の問題を完全に解決できない深刻な場に入るようになります。しかし死ぬことはできないのです。価値なく死ぬことはできないというのです。ゆえに、生死の問題を根本的に、どこで解決するのかという深刻な問題に入って、神様と談判する場に入っていかなければならないのです。(五〇―二八三)
皆さんは先生が好きですね。時間が長くかかるなら来ないでしょうに。先生がいることが分かればみな、集まってくるのです。(笑い) そうでしょう? (はい)。皆さんもみなそうなります。皆さんも先生とそのようになるのです。先生の言葉なら、どこに行っても同じだ、そのようになるのです。それが分からなければなりません。それが原則です。自分が愛する人よりも、統一教会の食口一人を慕わしく思わなければならないというのです。そうして食口が集まれば、私は絶対立ち上がれないというのです。足が離れないのです。それで草創期には、夜を明かし、奥さんたちも、御飯の準備をするのも忘れ、夫が出勤するのもみな忘れてしまうことが起こったのです。
それで先生がどこに行っても、夜でも昼でもついて回るのです。私がねずみの穴に入っても、ついて入っていこうとするのです。先生だけについて回るのです。そういう何かがあるというのです。それはなぜそうなのかというのです。愛があるから、神様の愛があるからなのです。愛は目には見えないけれど、光のようなものを発散するというのです。それが必要なのです。分かりますか。愛するお母さんがいるということを考えただけで美しいというのです。すべてのことは同じなのです。それで先生は何もないけれど、これを売って暮らすのです。一番高いものなのです。分かりますか? (拍手) 皆さん、今、分かったでしょう。どのように流れていくかということが、分かったでしょう? (はい)。(一〇二―四一)
7 愛の認定圏を確保することのできる責任者になれ
死ぬ前に、大韓民国について、世界を越えていけるほど愛したといえるようになれば、その愛はなくなるのではありません。次に私たちが世界の前に行くとき、既にみな与えたので、ないのではありません。既に与え、始まったので、何千倍押すことのできる、何千倍、もっと大きく世界に与え、残ることのできる愛のふろしきは、いくらでも継承して誕生するのです。ですから愛は無限です。分かりますか? (はい)。
愛は与えれば与えるほど生じるのです。終わりがないのです。より加重的に与えることができる余裕が生まれるのです。しかし、違うことは、お金は終わりがあるということです。知識も終わりがあるのです。権力も終わりがあります。世の中の万事のすべての人間の事情、人情を通じたものは、みな終わりがあるけれど、永遠な真なる愛はいくら与えても終わりがないのです。もっと無限に近くなり得る内容が、連続的に継続される、驚くべきことです。それゆえに、この力をもって宇宙を作用させて余りあるという結論が出るのです。分かりますか? (はい)。
皆さん、自分たちが神様の愛を中心にした決定的な所有権を拡大していますか、それが重要な問題です。皆さん、確実によく理解しなければなりません。自分が一生の間、二つのひざでひざまずいて、固くなった肉が埋まってしまっても、決定しなければ死なないというくらいに、身もだえして、解決しなければならない課題として残っていることを知らなければなりません。
自分が直接成せなければ、相対圏にいる人を通じて、私の国民が「このようになっている当時の愛する息子」だと、証言できるようになるとき、それを通して認定されるのです。直接的でなく、間接的にでも、認定されなければならないのではないですか。なぜですか? 救援摂理において、神様がカイン圏を探そうとすれば、カインが、「神様の愛する息子」だと証言したとしても「アベル」だと証言しても、神様が受けることのできる、原理の内容がなければならないのではないだろうかというのです。直接的な道に認定を受けられなければ、間接的な道を通じて認定を受けようと努力するのが、今日の統一教会の教役者たちが行く道だと見るのです。
先生が認めてあげて、神様の、先生の愛を受ける息子の立場に置いておいたのですが、これをもっては通じないというのです。自分が直接的に解決できないなら、間接的にでも解決しなければなりません。この二つの道を通じて、愛の認定圏を確保できる自身を探すために努力しなければならないということを、はっきり知らなければならないというのです。分かりますか? (はい)。
ですから、奥さんたちは、皆さんの奥さんではありません。子供たちのために行かなければならない、愛の決定権をもって、決定しなければならない課題がまだ残っているというのです。そのような課題をもっている自分たちなので、主体になることはできないのです。
皆さんがこのような業をする日には、皆さんの教会は発展するのです。発展しなければ、先生が言ったことはうそだというのです。やってみなさい。皆さんがおなかがすいた時に、食口たちと一緒に食べるために、一固まりの御飯を包んで食べず、どれほどに待ってみましたか。外に出て、遅くまでみんなが帰ってこない時、夜を明かしながら、どれほど待ってみましたか。それが父母の愛です。言葉だけでなく、事実そうしなければなりません。(一二一―二四二)
ですから、あなたたちは、そういう基準をしきりに立てなければなりません。習慣化されてしまったのですね? 堕落世界での習慣化が。皆さん、天についての思いをどこに行ってもしますか? 座っている時も、食べる時も考えますか? 二十四時間天が中心になっていますか? どうですか? 自分自身がみな知っているのではないですか? 父母様のことを思えば、骨の髄まで溶けて、道を歩いていっても、ふらふらになってしまわなければなりません。責任をもてない恥ずかしい自分を天地が注目するのです。統一教会の名門家の息子だとか、看板を持った姿が、そんなことであっていいのかというのです。
草を見ても恥ずかしく、流れる水を見ても恥ずかしい、村の犬がほえるのを見るとき、「さあほえろ、私のような者には、犬がほえなければ」という心をもたなければなりません。そういう事情をみな経ていってこそ、この宇宙史に隠された天の悲しみが、はがされるというのです。誰によってですか? 自分によって……。堕落の後孫として、天を探していくという、天の父母に侍るという人たちが涙がかれてしまっていてはいけないというのです。
教会がなぜ発展しないのかというと、ここに一体化がなされなかったからです。考えがそうであり、目がそうであり、鼻がそうであり、口がそうであり、耳で聞くことがそうであり、感じることがそうであり、生がそうである前には、駄目なのです。食口が来ることを……。自分の奥さんより食口を慕わしく思わなければなりません。自分の子供より、より慕わしく思わなければなりません。そのようにしなさいというのです。夜も寝ず、身もだえすれば、既に、人が何をしてもほのぼのとして見えます。そして、向こうにも、霊界の先祖たちが全部みな因縁を通じて役事するのです。来るようになれば、既に「何かあったんだな」とみな分からなければなりません。分かりますか、そのようになっていますか? この偽者たち! 祈祷をして、朝の何時までに来るといえば来るのです。それが分かるのです。時間まで分かるのです。来ると思えば来るのです。そのように偉大な力が、愛の力です。分かりますか、思慕の心情は偉大なものです。(一七一―三一)
心情圏というのは、何かといえば、天上天国と地上天国が愛によって連結された中央に、位置をつかんだ神様の主管圏をいいます。これを理論的にぴったり合わせなければならないのです。それだけ成せるようになれば、サタンが侵入できますか。自動的に屈伏するようになります。この者たち! ここがどこだというのですか。これは宇宙が保護します。なぜ宇宙が保護しますか。これはすべてのものが理想的主体なので、全部がここにおぶさろうとするのであって、持ち去っていこうとはしないのです。ですから保護圏にあるというのです。
皆さんの教会が発展するのか、できないのかということは、何から測定できますか。この原則をもって、この角度がぴったり合うのか合わないのかということをもってです。問題が、そこにあるのです。それが駄目ならいくら努力しても駄目です。今日、教会の基盤を自分の生活舞台として、自分のすべての生活方便で考えれば、それは大きな罪です。世界を代表し、国を代表しなければなりません。そうでしょう? 世界が大きいでしょう? 私が世界に行くためには、どのようにしなければなりませんか? 私個人が犠牲になって、家庭を通じ、家庭を犠牲にし、国家を通じ、国家を犠牲にして世界に行くようになっています。そうして、帰ってくるときには、どこに帰ってくるかというと、垂直には帰ってきません。一回り回って帰ってくるというのです。(一七一―一六)
8 教会を愛のふろしきで包め
人というのは、日常生活で、事理が明らかでなければなりません。鈍くてはいけません。その次に情がなくてはなりません。事理に明るいというのは、道理に合っているということです。前後左右を見ることができなければなりません。鈍くてはいけないということなのです。上下、前後、左右をわきまえることができなければなりません。その次に、それを包括できるものは情です。情のふろしきは全部包むのです。おじいさんおばあさんも包み、赤ちゃんも包み、みな包むのです。そうですか、そうではないですか? 理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ゆえに、先生は八十歳になるおばあさんも好きだし……。このごろは、ここがおばあさんたちが住む本部になったのですね。幼い赤ん坊もそうですし。愛のふろしきで包めば、みな喜ぶのです。お互い寄り添い合って、割れずに永遠に寝床に入って休みたく寝たいところが、愛のふろしきの中だというのです。
そのような心を皆さんがもたなければなりません。そうしてこそ心が安らかなのです。皆さんの横に来れば、なぜか良くて、その家に行って御飯を食べれば、いくら粟飯を食べてもおいしく、布団もなく、ただ横になって寝ても良く、祈祷しながら夜を明かしても良い、そうならなければならないのです。皆さんの教会がそうですか、そうではないですか? 教会を発展させなければなりません。家を建てておいたので、家の主人が、責任者があなた方なのに、その部屋の隅を見て、どのように寝、どのように遊び、どのように御飯を食べるのかというのです。それだけではありません。教会の責任も成さなければなりませんが、国の責任も成さなければなりません。その次に世界の責任も成さなければなりません。それが、私たちの人生の行くべき道なのです。(八一―三三八)
9 苦労する食口のために祈祷してあげなければならない
今後、地域長たちや地区長たちは、自分たちの地域内で、全体を代表して模範的に苦労した食口がいるのに、その人をまた飢えさせ、苦労させれば、地域や、地区の発展がなされないということを知らなければなりません。
私は地方の地域や、地区のために祈祷する時、その地域の責任者たちのために祈祷しません。責任者のために忠誠を尽くし、その責任者と相対基準を造成し、一生懸命仕事を成す、食口たちのために祈祷します。そうしてこそ、私たちのみ旨が少しずつ発展していくのです。
地区長が責任をすべて成したといって、地区長を褒めるのでなく、地区長を褒められるようにした、一人一人の食口を褒めなければならないというのです。今後、責任者たちは、自分たちを協助した食口たちのために祈祷をしてあげなければなりません。心情的な面で、借りをつくってはいけないのです。一線で戦っている、苦労する食口たちがいれば、御飯を食べる時にも彼らを思い、涙と共にはしを持って、涙と共に御飯を食べられるようでなければなりません。「天よ、彼らを守りたまえ」という祈祷が自然に出なければなりません。このような心情が、欠如されれば発展しないというのです。このような地域長は、ずっと苦労するのです。
このような原則で、私が三千万民族を眺めなければなりません。この民族の中に悲惨な人たちがいるということを、肝に銘じなければなりません。一さじの御飯を食べながらも、一さじのつゆを飲みながらも、「この民族の中にも、これも食べられない人もいるので、天よ、彼らに与えてください。この宇宙のすべてのものは、あなたのものなので、与えてください」と、切実に祈祷しなければいけません。このように与えたい心情が民族の隅にまで広がらなければいけません。そうしなければならない皆さんが、受けるために動いてはならないというのです。(一三―三〇〇)
10 父母のように責任を果たせ
あの(ダースト)夫婦は、まず夫婦が一つになっているというのです。お互いに協助し、すべて成すので、見本になるということを知らなければなりません。そして全体が、父や母のような責任を成そうとし、また、新しく入ってきた人たちに、そのような責任を全体食口がしようとし、新しい人がみ言を聞いたなら、どこに行っても、御飯を食べることよりも、服を着ることよりも、その人が食口になったのかという関心をもち、そのようなニュースをまず聞こうとする雰囲気にならなければなりません。そうではないのかというのです。それが発展する原則です。それ以外にはありません。(九四―一五二)
教会が発展しようとすれば、老人を愛さなければなりません。若者も愛さなければならないけれど、まず老人を愛さなければなりません。いくら服がどうであっても、他人として考えるなというのです。父母の心をもとうというのです。そのような心で、「私が神様のみ旨を中心に生きる者にならせてください」と祈祷しなければなりません。(二三―六八)
11 同役者の同情を受けられなければ
先生が今日、統一教会の全体の食口たちを見るとき、今まで発展現象を展開させなければならないのが、この時代の私たちの責任であるにもかかわらず、沈滞の一途をたどっているのは、何ゆえでしょうか? 地域長たちは、地域長自身を中心に、自分の周囲にいる地域長の同情を受けられない立場に立ったのであり、あるいは、本部や先生の同情を受けられる立場に立てず、より進んでは、天と地、今日このすべての人類が、皆さんについて同情できる基盤になっていないゆえに、皆さんはここで疲れ、皆さんが立っている所は寂しく、皆さんが立っているその基盤は荒廃していくということを知らなければなりません。
それゆえに、責任をもった人たちは、いつでも天の同情を残すことのできる基盤に立ってこそ、彼らに従っている後孫たちも、天の前に忠臣になれ、天の前に孝子になれるのです。このようなことを皆さんが肝に銘じ、今や地方に行くようになれば、この時代に適応できる皆さんになって、天が望む基準の前に、食い違いのない基盤をつくり、三年間皆さんが、最後の力量を発揮し、活動してくださることを望みます。(一五三―二八一)
五 牧会者自身の発展
五 牧会者自身の発展
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1 人は刺激を受けてこそ発展する人が発展するためには、また、ある目的を達成するためには、必ず刺激を受けなければなりません。一〇〇という目的を達成するためには、一〇〇ほどの決心がなければならず、それほどの時間的距離を通じなければなりません。すなわち、ある期間を経なければならないというのです。その時間を経ていくには、推進力がなければなりません。その推進力は、時々刺激を与えてこそ生じます。(三一―二七三)
人は刺激がなければ発展できません。人には刺激が必要なのです。現在の立場で、刺激を受けられない人は、発展しないのです。刺激を受けようとすれば、新しい熱意がなければなりませんが、その熱意は、一人でいれば生じませんし、相対的関係が成されていなければ生じないのです。皆さんは、それをはっきり知らなければなりません。主体と対象の関係をもたなければ、熱意をもつことはできないのです。(三六―一三一)
いつでも、刺激を受けなければなりません。刺激は、今よりもいい刺激を受けなければなりません。それはどこで補充されなければならないのでしょうか。食口たちでなければ、神様から補充されなければなりません。国民でなければ、国王であるとか、天からしか刺激を受けるところがありません。それゆえに、天に食口と両手をつかんで行かなければなりません。そうでしょう? それ以外にどこにありますか? そこに食い違うようになれば、み旨に背反するようになるのです。
大きな目的を達成するにあたって、十年に成されることならば、それを十年間引っ張っていこうとすれば、十年間毎日のように刺激させてあげられる原動力を補強できなければ、疲れてしまうのです。そうでしょう? ある人は、三年ももたず疲れてしまうのではないですか。それは何かといえば、刺激が切れてしまってそうなのです。(五六―五七)
2 神様を中心に新しいものを刺激できなければ
今日統一教会の食口たちが、日常的生活感情から外れ、毎日のように新しいことを追求していき、その基盤の上で、神様が協助してくださるということを実際に体験する人がいるならば、その人は無限な発展をするのです。(三〇―一三一)
皆さんが、環境的な面で、善の実績を積み、新しい感動の実を喪失せず、常に新しい場を培っていけば、そこには必ず無限な発展がついてくるというのです。
そうするところには、男性、女性は問題になりません。もし探す人がいないならば、幼い子供たちでも集めて、童話を聞かせてあげ、童謡を歌いながら、その環境に酔うことのできる新しい刺激を感じなければなりません。それを感じれば、その場にも、神様が共にあられるというのです。そのような新しい刺激をもつために皆さんは生活の中で、続けて新しい分野を開拓することのできる仕事をしなければならないのです。そうしなければ、新しい発達をもたらすことはできないのです。(三〇―一二四)
神様だけを中心にして自分が、新しいことを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そのような心情を感じながら活動をするようになれば、そこには必ず繁殖が起こるのです。そうすれば、発展するのです。生きている木には新しい芽が出るのです。きのうときょうは違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。反面、根がない木は死んだ木です。きのうときょうは違って発展するのです。(三〇一―一三三)
新しい分野に、新しいことを創造する創造主の心情を身代わりする立場に立って、無限なる価値を高める、新しい基準を模索していくのに、自分が功労者になると決心し、行かなければなりません。そのような人になるなら、彼は決して滅びないのです。彼は天が共にあるので、常に発展するのです。分かりますか? (はい)。(三〇―一五五)
先生が自信をもったことは、「私が決定して判決したことは、私個人の立場だけではない。これは成されるのが当たり前だ。いくら反対しても、反対するところには順応する男ではない」ということです。そのような歴史的な伝統をもっている男だということを、皆さんは知らなければなりません。何のことか分かりますか。
そのような、生活基盤がなければなりません。私が一人でいれば、他の空想をしません。一人でいれば、直ちにみ旨を中心として、「このようになり、このようになるだろう」という考えをたくさんします。そして「父よ、この問題は、このようになるのではありませんか。このようにならなければならないのが、あなたのみ旨の前に合う原理的な見解ではないのですか。これは、このように転換させなければならないのに、ここには、このような人がいなければならないのではないですか」という考えを誰よりも多くする人です。皆さんが見るときには、そのようなことを考えない人のようでしょう? いつも考える時間をもつのです。ゆえにできれば、清平のような所にしょっちゅう行くのですが、その時間がとても楽しいというのです。
昔精誠を尽くしたそのような時、天と共に談判し、天が選んでくださるすれすれの境地で戦った気分、そういう気分をいつでも回想しなければなりません。それを忘れてはいけないのです。雨が降る日ならば、雨の降る日の記憶がなければならず、日が昇る日なら、日が昇る日の記憶がなければなりません。歴史的時代に、自分が天と共に関係を結んだ心情を、その時の環境で感じられるように、いつも反復させながら、生活において刺激を受けなければなりません。刺激がなければ、発展できないのです。(五六―五六)
3 間違いも一つの刺激の要素になる
間違いは、悪いことではありません。間違えれば、ここに新しい刺激を受けて、ジャンプできます。刺激を受けて、善良に飛躍できれば、間違いもいいのです。勉強ができなくて、落第をしても、私が一度落第することによって、優等生になることができます。
「こいつ、何をしたら落第して同僚の中で最高になれず、こうしてどうしようもなくなったのか!」と言うのですが、落第をすることによって、それが刺激になり、衝撃になって、他のほうに飛べば、落第したことが、むしろ善なる道に導く結果となるのです。行くとき、直線で行くのは大変です。こうして行くのに最善を尽くさなければなりません。(一〇〇―八八)
4 主体的立場で環境を引っ張っていかなければ
皆さんは、一つの核心的な喜びの刺激を通じ、環境圏の中のすべての要件を吸収し、発展しなければなりません。そのような場では、神様を見て「離れろ」と言っても、離れないのです。ある発展的な要因を経て、時間と現実的舞台を打開していくというときには、神様が離れないというのです。その人は、必ず神様の胸に帰ってきます。また帰ってこなければなりません。そうしなければ、神様のみ旨は成されないのです。(二九―二四四)
環境を革新しなければなりません。子供のいない静かな所とか、そうでなければ、聖地を探していつも祈祷する時間をもたなければなりません。ゆえに、自分の内的分野において、自ら刺激を受けることのできる、主体的な場を決定しなければなりません。そうできなくて、今までの習慣的な生活環境にそのままいたのでは、自分の発展を期待するというのは、妄想だというのです。それゆえに、常に新しい要件を介入させなければなりません。(三〇―一二五)
5 牧会者が発展しようとすれば
先生は今まで、韓国にいる数多くのキリスト教徒、その誰よりも神様の前に精誠を多くささげました。心情的な人は、発展するようになっています。個人的な心情から、家庭的な心情、民族的な心情、世界的な心情へ発展し、体恤するようになっています。ゆえに心情をもって、さらに精誠を尽くす人がいるときに、神様はその人にすがるのです。そうでない人にすがっては、神様は作戦をすることができません。
天国の保衛の命令を受けた立場に立って、自分の位置をどのように信仰的に引っ張っていくのかという問題が、何よりも大きな問題なのです。(二五―三一八)
金イルファン! (はい)。口は治りましたか? うん? 手術したのですか? (しませんでした)。うん? (手術しませんでした)。支障はないのですか? (はい)。ところで声が死んだ者の声のようです。(のどがかれました)。そうか……良かったな、お前の嫁さんがかわいそうだ。だが、このごろはどうですか? (元気でおります)。元気でいるのか? 嫁さんが、泣いて回っていたが……よかったな。一生懸命やりなさい。
教会が随分復興しました。哀切な思いをもたなければなりません。哀切な思いをもって、人の分からない涙をたくさん流さなければならないのです。皆さんが道を歩いていても、さっと見れば、自分の心を抑制することができないように、電柱にすがって、自分を制裁していく生活が連続されなければなりません。先生がそうなのです。アメリカの五十州に出入りしながら、そういった祈祷をするのです。そのような祈祷をすれば、天の軸が花を咲かすのです。それゆえ、祈祷をするために続けてするようになれば、その戦いは、どっちみち神様が勝利で刈り取るのです。(一四五―一一九)
原理的に動かなければ、発展しないのです。それゆえに統一教会の原理は、妄想的な原理ではありません。科学的な原理です。現実にそのようにならないのなら、発展しません。神様が運行されないのです。(五六―三四六)
率直でなければなりません。ぐずぐずして、隠そうとする人は、発展しません。しかし、率直な人は発展します。この宇宙が押してあげるので、発展します。どこに行くのにも宇宙が押してくれるのです。そのような東洋や西洋や過去や現在や未来を問わず、率直な人はみな、友人になるのです。(一〇〇―八八)
どういう人が発展するかということは、周囲からその人に、どの程度関心をもつのかということから分かります。その人に周囲の関心が消えてしまえば、いつか彼は折れてしまい、いつの間にか関心を受ける第二の人物が登場します。(一七―三三三)
人は意欲がなければなりません。仕事をする時にも、きのうよりきょう、もっとやり、きょうよりあす、あすよりあさってに、よりやらなければならないという意欲がなければなりません。そうしてこそ、発展できます。(二一―九一)
すべての努力を自分の発展のために投与するのが目的であって、他のことが目的ではありません。責任遂行の過程で他人が分かってくれるのを望むのは、愚か者です。お祝いごとをしている家に行って、もちをくれるかくれないかも分からないのに、「先にキムチのつゆをくれ」と言っていいのですか。考えてみてください。御飯をくれるのかくれないのか分からないのに、はしから引っ張り出していいのですか。人は礼儀をもって生きなければならないのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(二三―一四六)
秋になれば、春を迎えるために準備する心をもった人は、発展し、育つのです。死んだ人は、秋になったといっても、春を迎える準備をしないのです。しかし木は、秋になり、葉が落ちれば、春を迎えるようになるのです。分かりますか? それを知らなければなりません。いくら、寒い冬が来て、冬の風が吹いてきても、それに耐えてこそ、新しい春を迎えることができるように、私たちにいくら大きな迫害があったとしても、それは問題ではありません。死地に生命のいかりを下ろすことのできる自信がなければなりません。そのためには、私を自ら否定しなければなりません。(四一―一五〇)
復帰しようとすれば、一つから二つ、それゆえに、一番下から出発しなければならないと考えなければならないのです。もしそれが駄目ならば、早くして上らなければならないと考えなければなりません。「早くしてニューヨークに入らなければならない。ニューヨークに行こう」と思わなければならないのです。行くのに三年なら三年、五年なら五年以内に行くと、各自が定めなければならないのです。そういうものをもっていますか、もっていませんか? そういう何かがなければならないのではないですか。「七年という歳月がかかっても私は行く、その時になれば、私が七年間準備したそれを使うだろう」という信念をもたなければなりません。「七年間かけたすべてのことは、私のこの時を得るための準備だった」。こういう人は勝利する人です。その間、私が戦って勝ったことをみな条件として立てて全部合わせ、集中攻撃すれば、爆発して出ていくのです。これを知らなければなりません。
早く成功しようという人になるなというのです。成功して、後始末をできない人になってはいけません。しかし遅く成功しても、成功したのちに、子孫にそれを続けられる人になれというのです。そういう成功を望めというのです。そうするためには、着実に磨いていかなければなりません。着実に磨いていかなければならないのです。(六六―一一一)
第二節 伝道
第二節 伝道
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一 伝道をしなければならない理由1 伝道とは何か
伝道とは何でしょうか。伝道とは、サタン世界を捨てて、笑いながら天の道についてくるようにすることです。天の国に導くことです。これを知らなければなりません。分かりますか? 皆さんを見ていると、伝道するとき、その人が好きでも嫌いでも、強制的に「来なさい、来なさい」と言いますが、そんなことでは駄目なのです。人は霊物なので、皆さんがある人のために祈祷して、一度実験してみなさい。ある一人を非常に愛し、その人をみ旨の前に立てるため、心痛い心情をもって、涙を流してみなさい。そして研究してみなければなりません。(五〇―二七九)
伝道というのは何でしょうか。アベルがプラスなら、カインはマイナスです。サタン世界です。サタン世界について、私がプラス、アベルの位置にいるのです。そのサタン世界のプラスをマイナスになるように、服従するようにするのです。創造するのです。私と一つになれるようにつくるのです。再創造です。再創造、分かりますか?
ですから嫌いでは駄目です。うれしくて成さなければなりません。神様が天地を創造される時、喜んで造ったのであって、悲しくて、造りましたか。ですから、自分が難しいことより、この大変なことより、より驚くべき愛を与えなければならないのです。(一〇八・八四)
創造というのは投入です。ゆえに人のために、天使長のために投入した者ほど、自分が復帰されているのです。同じ道理です。
こういう公式があるために、先生が公式に現れれば、皆さんに「投入しろ、犠牲になって投入しろ」と言うのです。それは正しい教育ですか、悪い教育ですか? (正しい教育です)。統一教会は、世界で天使長圏を復帰して、世界を復帰するための運動をしなければなりません。これは復帰されるまで続けなければなりません。神様が創造の主人であられるのに、神様が創造される時、「誰かせよ」と言ってしたのですか? 自動的にしたのです。ですから誰かが「せよ」と言って、しなければなりませんか。自分が望んでしなければなりませんか? (自分が望んでしなければなりません)。同じなのです。
ゆえに、伝道しに行けというのは何ですか。完成して早く帰ってこいということです。天の国に早く帰れということなのです。それゆえ、「行かない、嫌だ」と言うのは、この場で滅びるということなのです。ですから、滅びないように追い出さなければなりません。これが理論的です。それゆえに、皆さんはこれを知ってからは、行かざるを得ないのです。ドイツ人も行かなければならず、アメリカ人も行かなければならず、黒人も行かなければならず、日本人もみな行かなければなりません。「私は、それは必要ない。やってみても、こうであり、こうだ」そのようになっていないのです。みなこのようなことが引っかかっているのです。(八一―一五四)
伝道することは、皆さんが、国家的伝道圏をつくることです。国家的伝道基準をつくるなら、国家的解放圏がつくられ、世界的伝道圏をつくるなら、世界的解放圏がつくられる。これが地上においての神様の戦法なのです。(五五―二八)
皆さん、外に出て伝道しなさい。ところで伝道とは何ですか? 道を示してあげることなのです。皆さんが世界のために、神様に帰る道を教えてあげるのは、どれほど偉大なことでしょう。本性の人間を見て、「お前、どこに行くのか」と聞けば、「アイゴー、世界を通じて、天の国に帰らなければならない」そう言うのです。その道を開拓してあげるのはどれほどいいだろうか、というのです。迫害を受け、また何を受け……。いつも世界を通じて、天に帰るのです。(一一七―一〇二)
証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。讃美歌に、「イエス、イエス信じるところには、受けた証拠が多いのだ」という箇所があります。皆さんに、受けた証拠がありますか。証拠を受けたと、威張って伝道に出るのですが、そういうものが証拠といえますか。それを証拠にして何をしますか。残っている人もいないのに、何の関係もないというのです。
皆さんは天国に行く時に、礼物として持っていくものがありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが、前にずらっと立っているのですが、彼らの前に皆さんが、包んで、持っていくふろしきを広げることができるでしょうか? 皆さん一度考えてみてください。こじきの包みのようなものを、広げることができますか。統一教会が、どんな苦労をし、皆さんが、どんな苦労をしましたか? 「国のために、世界のために」と言いながら、それほどの苦労もしないで、どうやって「国のため、世界のため」と言えますか。「苦労をすることはしたが、苦労したとは考えません」そうしてこそ当然なのです。まだ行く道が残っています。霊界に行ってふろしきをほどいて、「これは一生涯私が準備した贈り物なので、受け取ってください」と言えるようでなければなりません。女性たちが、嫁に行く時には一包みずつ持っていくのに、天国に行く時には、体だけぶらぶらと行くのですか。(三二―三七一)
2 伝道をしなければならない理由
今まで宗教は何を目的にしてきたのでしょうか? 自分の救いという問題を中心にしてきました。そういう宗教は必ず滅亡します。終わりが来ます。今はいくら世界的に成されているといっても、それは必ず、もう一度復活しなければなりません。自分一人の生命を救うための宗教と、キリスト教を信じる信徒たちの目的がどこにあるのでしょうか? 「自分が救いを受け、天国に行く」と言います。そう言ってはいけません。天国に行くのに、一人で行って何をしますか。万民を連れていくために信仰をしなければならないのです。
ゆえに、「伝道するな」と言っても、伝道しないわけにはいかないのです。「善を行うな」と言っても、行わないわけにはいかないのです。(三五―二〇五)
天国は、絶対一人では行くことができません。二つを備えていかなければならないのです。それゆえ、夫婦と兄弟をもち、四位基台を復帰して行かなければなりません。統一教会、文先生が、このように必要なことだけ発見して発表したために、若い男性たちの中には、文先生が嫌いな人が多いのです。考えてみれば、そういうような必要なものだけ、全部くっつけて売り飛ばしたのです。そう言ったとしても、私が、宗教詐欺師というわけではありません。
このような点から見るとき、皆さんが生きていくためには、伝道しなければなりませんか、伝道しないほうがいいですか? (しなければなりません)。天国とは誰の天国ですか? 統一教会の文先生の天国ですか? もし天国が文先生の天国ならば、皆さんは、先生から借りた天国に行って暮らすのですか? (三四―二九三)
伝道に行くことは、私も生き、カインも生かすためです。言い換えれば、伝道は神様とサタンの前に認証書を受けて、実践するために行く道です。私が戦うのは、認証書を受けるために、立てておいた条件のとおりに実践するためのものなのです。分かりますか。皆さんはそれを知って、道を行かなければなりませんが、今までそのように行った人がいますか? 何も知らず、行ったり来たりしたでしょう。(四〇―二五二)
さあ、もし皆さんが州に行って、三年間伝道ができなかったとしたなら、この間に死んだ人たちが「やあ、こいつ! お前が伝道をしなければ、サタンになるのを知っているのか。なぜ私を伝道しなかったのか。天がお前を送ってくれたのに、なぜ伝道しなかった。お前のために、私が死んで、地獄に来た」と言えば、どうするつもりですか? 「お前が伝道しなかったので、私が地獄に来ている。サタンに送った。だから、私はお前を讒訴する」と言うのです。また私も同じく、皆さんに讒訴するというのです。(一二五―一八)
今、統一教会で、伝道しに行くというのですが、行くというのは後退ですか、前進ですか? 「伝道に行く!」というのは、前に進むということです。「進む」ということは、発展するということをいうのです。前進するということをいいます。ゆえに伝道しないと、発展もなく、前進もないのです。
伝道に出て、仕事をする人をあざ笑い、座っている人は滅びます。そのようにあざ笑っては、こじきになり、手を挙げるようになるでしょう。そうなるか、そうならないか、今に見ていなさい……というのです。(三六―一二七)
伝道しなければ滅びます。滅びたければ、伝道しなくてもいいです。カインを探せない人は、立つ場がないのです。いくら神様の愛を訴えても、カインがいなければ天国に行けないのです。(三四―二九二)
伝道しなければならないのです。私の体と心と、精誠を尽くして……。
伝道をするのに、私の精誠が不足して、私の精誠をすべてささげても不足で、私たちの母、私たちの兄弟にまでも、「協助してくれ」と言わなければなりません。父母まで、兄弟まで、娘までも協助させようとしなければならないのです。そうしなければなりません。そうしてこそ、霊界にいる人たちが恩恵を受けるのです。
皆さんに、今、「外に出て伝道せよ」と言えば、「伝道に出たくないのに……アイゴー、私は伝道には出ない」と逃げようとするでしょう。そんなことで天国に入れますか? さあ、外に出て、その町内の誰よりも精誠を尽くしなさい。アメリカなら、アメリカの開拓者以上に精誠を尽くしても、不足で、自分の弟、自分の兄さん、自分の父母、自分の家の財産、全部投入しても不足なのに、行って、寝るだけ寝て、遊んでばかりいるではないですか。それなら、むしろ行かないほうがましでしょう。
皆さんは今、何の活動をしようと、その活動にパスしましたか、第一次旧約時代の活動にパスしましたか? 誰かが少しお金を使っても、「アイゴー、あの人はああいう服を買って着ているから、私も少しいい服を買わなくては」こういう考えをもちますか。もちませんか? 皆さんはどうですか?
さあ、伝道しなさいというのです。皆さん、伝道しましたか? (はい)。聞くと、時間がなくてできなかったというのですが、時間がないですか? 精誠が足りなかったというふうに考えませんでしたか。そうですか、そうではないですか? (そうです)。それを知らなければなりません。
みなやくざのように……。皆さん、統一教会は、やくざとは通じないのです。それが通じるなら、私は苦労はしませんでした。一生が短いのに……です。何のためにこういうことをするのですか、なぜですか、なぜ? これを知らなければなりません。この原則を知らなければなりません。(九五―二九八)
私たちが不平を言うことができますか。疲れることができますか。そういう心情が必要です。「私が、このようにすべての精誠を尽くすことによって、神様の息子、偉大な息子になる」このように考えなければならないのです。分かりますか? 父の代わりに、母の代わりに外に出て伝道せよというのです。愛してこいというのです。それを皆さんは成さなければならないのです。
一度に、これほどの金の塊を掘り出すことのように、一番地、一番地、他の所を探して回るのです。多くの家を探して回れというのです。それをしなければなりません。伝道しなければなりません。そうしなければ神様の事情が分からず、イエス様の事情が分からず、先生の事情が分からないのです。先生は今でも伝道するでしょう? 同じではないですか。これは原理の道です。(九五―三〇三)
今、皆さんにおいて、伝道が怨讐ですか、体が怨讐ですか? (体が怨讐です)。伝道も皆さんが好き勝手に行うのではないのです。伝道しに行く人は、サタンの前に公認を受けに行くのです。神様から公認を受けるため、伝道に行くのです。ゆえに神様の認証書を受けて、またサタンの認証書を受けておいて、戦わなければならないのです。分かりますか? (はい)。
皆さんが伝道しに行くのは、救ってあげるためではありません。救われるために行くのです。分かりますか? 現在の私が、そういう立場だというのです。私が先に救いを受けてこそ、他の人の救いをなせるのです。先にアベルになってこそ、カインを救うことができるのです。皆さんはアベルになりましたか? まだなっていないでしょう。
アベルになるには、どのようにしなければいけないのでしょうか。まずは、神様の愛を受けなければならず、二番目には、生命がなければなりません。そして三番目には教えなければなりません。これが公式です。
それならまず、神様の愛を受けなければならないのですが、今皆さんは、神様の愛を受けられますか、受けられませんか? 愛はどのように受けるのですか? サタンを追い出すほど、そこに比例して、愛を受けるようになるのです。悪を除去した分量に該当する愛を、神様から自動的に受けるようになるのです。そうしなければならないのではありませんか。私が悪を除去する分量ほど、神様の愛が私に下りてくるのです。
私が生命をささげて、悪を屈伏するようになれば、生命を探すことのできる神様の愛が私に来るのです。これは公式的です。おもりと同じです。一方が下りていけば、他のほうが上がるようになるのです。悪を多く除去すれば、善が上がり、悪を多くもつようになれば、善が下りていくのです。これと同じだというのです。悪を除去するほど、愛を与えるのです。それゆえ、誰よりも神をより愛せというのです。神様をより愛せということは、神様を愛するほど、神様の愛を受けるというのです。すなわち、神様を愛したので、神様の愛を受けることができるというのです。(四〇―二四三)
プラスとマイナスが一つになったなら、また他のプラスになり、マイナスを探し出すのです。これは一つつくれば、また違うプラスになって、マイナスを探し出すのです。大きなものが、相対的なものを取り扱うようになれば、これがまた一つのプラスになり、またマイナスを探して発展するのです。これと同じように統一教会も、二つに分かれているのです。分かりますか? 個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に分かれたのですが、アベルが何をしなければならないかというと、サタン側に対してマイナスの立場にならなければなりません。これがプラスですが、プラス型だけであれば、世界統一は成されないのです。ゆえにアベルがマイナスになり、プラスであるカインを吸収し、新しいアベル側より大きなプラスをつくろうというのです。
それゆえに、伝道をしなければならないというのです。分かりますか。伝道をして、より大きなプラスをつくらなければなりません。このようにプラスをつくって、家庭を成すのです。カインを復帰したアベルは、家庭の祝福を受けるのです。そうでしょう。家庭的アベル圏を中心にして、家庭的カインを吸収し、二つが一つになって、より大きなプラスになって、氏族的中心になるのです。(五六―二〇九)
上中下関係に、上下があるでしょう。上下を通じなければなりません。三段階ではないですか。左右を通じなければなりません。前後、左右、上下があるのが、天地の道理だというのです。先生を通じて、皆さんがあるのは、後孫のためにあるのではないですか。それゆえに伝道をしなければなりません。他のためでなければならないのです。これが天理です。そうでしょう? 左右のためでなければならないのです。父母は左右になるのです。兄弟があり、国があるでしょう。これが前後だというのです。ですから「ために」生きなければならないのです。(六八―一〇四)
皆さんが春を迎えるのに、伝道するのが何ですか、伝道して何をしようというのですか? 夏の日を迎えようというのです。より良い日において、枝を伸ばすようにし、葉を伸ばすようにして、花が咲き、実を結ぶようにしよう。これなのです。では統一教会はどうですか? 「アイゴー、私は三年間伝道したから、今は家に帰って静かにしていてもいいだろう」そう言ったなら、どうなりますか? それが実を結んでも、その実を越えることのできる生命の余力をもたなければ、北風寒雪が吹くようになるとき、乾いてしなびてしまうというのです。(一九六八・三・一)
3 伝道する目的
伝道は第二の私をつくるためです。(一八―一八六)
旧約時代は、物質の祭物時代です。そうですか、そうではないですか? (そうです)。その次に、新約時代は何ですか? 息子の祭物時代です。実際に、イエス様がそうだったでしょう? 新約時代のイエス様がそうだったでしょう? この時は、祭物を体でささげるのです。体は、神様が願う最高の祭物です。それが経済復帰です。ファンダレイジングです。ファンダレイジングをするのです。世の中の人が、一般の人についてこれず、世間のキリスト教徒がついてこれないほどして、その次には息子として立てられたので、み言をもって、神様の代わりに愛さなければなりません。伝道しなければなりません。イエス様の使命を成さなければならないでしょう。(九五―二九四)
伝道とは何か。息子の位置に立って、すなわち、言うなれば新約時代を蕩減するのです。サタンに勝たなければならないのです。サタンに勝たなければならないのです。(一一九―四九)
伝道に出る目的とは何ですか? イエス様以上に優れることです。イエス様以上に優れなければ、祝福は受けられないのです。そうでしょう? イエス様より優れたならどのようになりますか? イエス様はゲッセマネの園に行って、生かしてくださいと三回も祈祷したのですが、私は死ぬようなところでも祈祷せず、死んでいくというのです。(笑われる) 私はしないのです。私は絶対にしないのです。死ぬなら死んだでしょう。そうすれば、イエス様より優れているのです。そのように行くのです。私が死ぬ場に行っても、私は祈祷しないのです。私が生きるために祈祷しないのです。分かりますか? (はい)。
さあ、伝道する目的とは何ですか? イエス様より優れているので、イエス様の弟子のように、反対する弟子でなく、死ぬにも、一緒に死ねる弟子を私がつくるのです。死ぬ場に共に行かなければならないのです。その人が死のうとする時、その息子が死のうとする時、私がまず死ねる場に行かなければならないのです。
すべての十字架は、私が責任をもち、村で石を投げられても、私がまず受けようとし、悪口を言われても、私がまず言われようとし、鞭打ちを受けても、私が先に受けようとしなければならないのです。分かりますか、何のことか。(はい)。伝道する目的とは何ですか? (イエス様より優れるため)。(九六―一二二)
では、伝道はどのようにするのですか。それより一生懸命やれ! それより一生懸命せよというのです。物質を復帰するよりも、旧約時代を越えていくよりも、新約時代を越えて息子を復帰することは、それ以上一生懸命しなければなりません。それが原則です。それ以上一生懸命せよというのです。そうしなければ、原理に合わないというのです。
そうしてこそ、新約時代を通過するのです。イエス様の代わりに、責任を完成するのです。アダムが万物を失い、人を失い、愛を失いました。この三つを失ったのです。ゆえにアダムの代わりになり、神様の息子、娘になるためには、万物を探して、人を探して、愛を探してこなければならないのです。そうしてこそ、復帰されるのです。それが原理です。それは、レバレンド・ムーンの言葉ではないのです。そうでしょう。分かりますか? (はい)。ゆえに、せざるを得ないのです。
ですから、先生が、万物を探すため、お金をもうけるため、どれほど泣いて、歩き回りながら苦労をしたか分かりません。伝道をするために夜を明かし、どれほど涙を流したか分からないというのです。神様が願う家庭を探すため、どれほど十字架を背負って、迫害を受けたか分かりません。(九六―一五一)
私たちが原理で伝道するのは、愛を探す運動をすることなのです。心情の世界は時空を超越します。み言も祈祷も、究極には愛のためのものです。完成は、愛の理想を成すことです。(三三―六九)
4 伝道の価値
いくら時代的な一日の生活でも、伝道するその一日は、永遠と関係を結ぶのです。そのような秩序のころ合いの上に、私たちの一つ一つの行動というのは全体、あるいは永遠と関係を結んで、それがなくならず、残るというのです。
それゆえに皆さんが、伝道するその一日の血と涙を流し苦労したすべてのことは、永遠と関係を結ぶのです。「秩序の土台の上に真を立て、永遠を約束する不変の価値」、その次には、皆さんが一人ずつ全部、三千里半島(注:韓半島)に出て伝道する時、その価値が初めて立てられることによって、どうなるのですか? 「高く立てられる真理の立て札」、このようになった真の基準が、このように人間が行かなければならないというその真の基準が、だんだん現れるというのです。
個人的に現れ、家庭的に現れ、国家的に現れて、統一教会が進むこの真理の立て札、これが初めて人間が行かなければならない立て札となって、どのようになるというのですか? (ようようたる……)。「ようようたる善なる日を美しく飾れ」初めて恒久に継続される善なる日々、一日一日の生活を迎えるのです。(一五二―二一九)
伝道すればうれしい。反面伝道しなければ喜びがこない。先生もこのことを成さなければ苦しいのです。伝道すれば、悪口を言われても、うれしい。(一九―二二)
開拓伝道をするようになれば、生きておられる神様が、いつでも私たちの周囲で共に守ってくださっていることを体験できます。神様を背信し、反対の方向に行ってしまう場合には、その後の道は長くありません。(三五―一九三)
神様が生きておられるということを体験するようになれば、「伝道するな」と言っても、必ず伝道するようになります。伝道することが、一番衝撃的であり、新しいことをつくってくれるからです。十人いれば、彼らに心から対したなら、十人が新しい人となるというのです。そうしてから教会に来て、祈祷してみろというのです。そうすれば、彼らが発展する時、必ず私自身も発展するようになっているというのです。私自身が上っていくのです。(三〇―一五四)
霊界に行けば、誇ることは伝道しかないというのです。霊界では、お金をたくさんもうけたということは、誇る内容になりません。また、世間で権力をもったといって誇ることもできません。生命をどれほど生かしてあげたのか、これが誇りです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、数多くの民族を新しい生命と関連させて、どれほど生かしてあげたのですか? これが財産です。財産はそれしかありません。
霊界には、ないものがなく、慕わしい物もないけれど、一番慕わしいものがあるとすれば、真の人です。それゆえ、真の人を養育するために功をささげたその功臣は、天上世界で、当然、栄光の息子、娘になることができます。ゆえに誇ることは、それしかないというのです。(三〇―一四八)
皆さんは、早く伝道して、あの下に行かなければなりません。常に走っていって、心のままに上って、心のままに下って……そうできる人をつくっておけというのです。ゆえに、私が下ったなら、しきりに押し上げてくれる人がいなければなりません。何のことか分かりますか? 皆さん、先生に困ったこと、難しいことがあれば、皆さんみんな、先生の代わりに行こうとするでしょう? 先生に難しいことをさせようと考えますか? 同じ道理です。ゆえに、そういう基盤をつくらなければならないのです。(一〇四―一八四)
二 伝道者の姿勢
二 伝道者の姿勢
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1 伝道出発前の準備皆さんは、伝道に行きたくて夜眠りもせずに、世間にどんな貴いことがあってもみなよけておいて、天の国の一員として、み旨のための一員にならなければなりません。それで汽車に乗っていきながらも、「車よ、よく行くのだなあ。きょうは、私の一生の貴重な日として一ページを記録できる、最高の瞬間になるだろう。神様、ありがとうございます」と、こう言える自分にならなければなりません。世界で一番難しく、大変な場で「私は一等の国民だ」と、堂々と宣布できなければなりません。神様を愛そうとすれば、皆さんは欲張りにならなければならないのです。(二四―三三六)
皆さんは、伝道対象者を前にして夜を更かし、痛哭して祈祷してみましたか? 自分の母、父が死んだ以上に悲しみながら、また愛する恋人が死んだ以上に悲しみながら、痛哭してみたかということです。してみましたか、してみませんでしたか? してみなかったならしてみなければなりません。夜を更かしながら痛哭しなければならないのです。一つの生命を生かすことさえできるなら、何も惜しいことはないというのです。お金や、服や家が問題ではないということです。人を愛するのに、狂わなければなりません。(三四―二七〇)
皆さんが、教会に来るとき、ここにいる食口たち、これくらいの食口たちだけでは駄目なのです。皆さんが、教会に来るときは、自分の父母、妻子をみな連れてこいというのです。自分の兄姉をみな連れてこなければなりません。皆さんが、お母さん、お父さん、自分のおじさんや、姻戚のはとこまで伝道するために、どれほど血の涙を流したのでしょうか。その一つの生命を引っ張ってあげるため、夜を更かしながら、精誠を尽くして、祈祷しながら、自分の一身を祭物として、どれほど身もだえしてみたのか……。というのです。これが問題となるのです。皆さんは、その置かれた環境において、中心にならなければなりません。皆さんが中心となって行かなければならないということを知らなければなりません。(四一―九〇)
伝道しようとすれば、人の心理を研究しなければなりません。表情や、歩き方だけ見ても、あの人が喜ぶか、嫌がるか、分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければなりません。
自分の妻や、家で一緒に住む人の足音だけ聞いても、彼にいいことがあるのか、悪いことがあるのか分かるのです。そうして、自分の妻が、部屋にすっと入ってくれば、「あなた、何で気分が悪いのか」と言うのです。そうすれば、妻は、いつ見たわけではないのに、既にだんなさんがみな知っているので、言うことがないのです。そういう定規をもって暮らさなければなりません。関心をもって祈祷するようになれば、その人が、私に関心をもつようになるのです。(四二―一七四)
皆さんが、伝道に出るときは、全部霊的に指導を受け、コーチを受けてこそ、その次から、これが開かれていくのです。例えば、市場に行っていた人が車を運転して、皆さんのいる所を探し、皆さんの家に来れるようにつくる霊的な何かがなければならないのです。そうしようとすれば、どうすればいいのでしょうか? 自分の愛する人が来るより、より深い心、愛する人を探して迷う心と同じような心をもって、伝道しなければなりません。そういった雰囲気にならなければ駄目なのです。(九六―三二〇)
私たちが伝道をする時も、きのう伝道する時の心と、きょう伝道する時の心が、出発する時から違わなければならないのです。言い換えれば、過去にはこういう心をもって出たけれども、きょうは新しい心をもってなさなければならないという覚悟で、出発の動機から、そのように違う覚悟で行ったなら間違いなくいい結果をもたらすというのです。しかしそうもできず、昔よりもっと低い立場で、きのうより駄目な心で出発するようになれば、必ず後退の一路を歩くようになるのです。そのような環境の中で、継続的に仕事をすればするほど、そこに破局を自ら招くようになるのです。また、それが一方的でなく、四方的に、そういった後退の感情を起こしていくなら、いくら目的が大きく、いくら固く決心をしたとしても、それは停止状態として、動こうにも動くことのできない完全に固着した立場を、私たちは体験するようになるのです。(四二―六六)
それから、伝道に出る時、「お金がなくて行けない」ということを言うなというのです。イエス様がお金をもっていましたか? 神様は復帰歴史を、お金をもってしましたか。生命をもってしたのです。血をもってしたのです。それでキリスト教の歴史は、血で蕩減した歴史なのです。血をもって、生命をもってしたのです。お金をもってしたのではありません。お金をもって生きて死ぬのは、賃金労働者です。息子、娘はお金で育てるのではありません。そうでしょう? そう知って、皆さんがそういう心をもって行くようになれば、天が必ず役事するだろうと私は信じます。(一五四―二一〇)
ゆえに、伝道に行くときは、伝道費を持っていきません。イエス様は、気が狂ったようだったでしょう。その、反対を受ける弟子たちを見ると、伝道に行くのに、みなお金も持たず、着る服も持っていかず、そういうことがどこにあるのですか。飢えて死ぬのが当然のようでしょう。これは何ですか。こじきの中のこじきになって行こうというのです。それはなぜですか? なぜそうだったのですか? キリスト教徒たちは分からないのです。なぜそうしましたか。これは重要な問題です。愛する弟子たちの前に直接命令するその道、一文も持たず、二着の服も持つなという、それがキリスト教の伝統的思想だということを知らなければならないのです。弟子たちに初めて指示したことなのです。その精神がクリスチャンの中心です。先生の言葉は合っていますか、間違っていますか? (合っています)。(一一八―一七七)
伝道に出る時は、お金をたくさん持っていくな、心情をもっていけ。(二七―二六七)
2 精誠と伝道
皆さんが、伝道しに行くというとき、ただ行ってはいけません。どれほど精誠を尽くして行くのかということが問題です。ある人を伝道する際に、一週間や一カ月、あるいは、一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間は精誠を尽くさなければなりません。雨が降っても、雪が降っても、御飯を食べても、寝ても覚めても、あるいは行こうが来ようが、休んでも、どんな行動をしても、一体の心をもって、その人の前に完全に、全部与えてみよということです。完全に与えれば、完全に返ってくるのです。これが原理です。
ゆえに、神様を愛するにおいて、どれほど精誠を通じて愛し、人間を愛するにおいて、どれほど精誠を通じて愛するのかが、問題なのです。これが霊界に行って人格になるのです。栄光の基台になるというのです。(四二―二二八)
皆さんが伝道してみると、伝道ができないのですが、できないことをしなければなりません。して、またして、石を海に投げるのと同じです。そうすることによって、海の水をみな埋めて、山になる時まで、限りなくするのです。そうすることによってどうなるのでしょうか? 私が心情的に成長するというのです。体は何も変わることはありませんが、心情が成長するというのです。
早朝に起きて、その村のため、自分が引き受けた責任地域のため、祈祷し、涙を流すその道は、心情的で、霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が村内を見下ろすと、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流すしかないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せるそのような共鳴力が入るなら、霊界が総動員するのです。
人間として、神様の前に、感動的涙を流して、神様が「やあ、有り難いなあ! 堕落したアダム・エバの後孫は、昔のアダム・エバよりましだなあ!」という感動を受けて涙ぐむ場に入ってこそ、霊界と通じます。「堕落したアダム・エバの後孫として、天を背信した後孫が、こんなことでいいのか」と言いながら、神様が感動的涙を流してこそ、霊界が協助するというのです。そこから霊界が開かれるのです。それ以下では、絶対駄目です。それが原理です。原理、原理なのです。ですからその場と、皆さんと、どれほど距離が遠いかというのです。(九六―二八二)
伝道しようとすれば、自分が原理のみ言を知らなくても駄目だし、自分が涙を流すことができなくても駄目だし、精誠を尽くさなくても駄目なのです。(二〇―三四五)
どこに行っても、一人でいるときには、いつも祈祷せよというのです。いつでも考えを集中させて伝道する人は、その目を通して見るとき、即刻的に伝道するのです。環境とか、位置は考えないのです。それが、ぴったりと合っていくのです。それが行く道なのです。そういう自分になってこそ、世間で生き残るのです。どこに行っても成功するのです。都市で歩いていて、商店を見ても、あの品で商売すればもうけが残るだろうということが、すぐ分かるのです。何のことか分かりますか? 天が共にあるのです。今はっきり分かりますね? 人類と神様に重荷になる人が人類を解放することはできず、神様を解放できないという事実、それは真理です。(一二八―一七三)
今、世界の私たち食口たちの中でも、先生を知る前から、先生を夢の啓示の中で見た人が多いのです。ここにもそういう人がいるでしょう。統一教会に入り、先生に会ってみると、統一教会に入る前に、夢の中で会ってみたこともあり、教えを受けた因縁があったという人たちなのです。分かりますか? それは、自分の先祖たちが善であるのでそうなのであって、自分のできが良くてそうなのではありません。先祖たちの功績を通じて、そうだったということを、皆さんは知らなければなりません。そういうことが起こるのです。
そういう因縁をもつようになれば、そこに相対される人は、やけに心が不安で、自分は他の所に行かなければならないのに、北側にしきりと行きたくなるのです。しきりに行きたくなるのです。それで引っ張られる所に行ったところ、人にふっと出会ってみると、因縁を結んだ人に会うようになるのです。
ゆえに、皆さんが伝道に初めて行くとき、祈るような気持ちをもって精誠を尽くしながら行けば、自分が行かなければならない方向が分かるようになるのです。このように天が導く道に従って生活すれば、遠くにいらっしゃる神様でなく、自分の生活圏の中で、すべての心情的変遷を主管される、左右される、主体的神様を感じるようになるのです。ゆえに、神様を感情的な自然の環境に接して暮らされる父として、侍ることのできる生活をするために努力しなければならないのです。(五〇―三一五)
皆さんは純粋な立場で、祈祷をたくさんしなければなりません。ある部落で伝道しようとすれば、早朝に起き、その部落を眺めるとき、その部落が死んでいく子供のようであり、自分の息子、娘のように感じなければなりません。そうして、夜を更かすように、その部落のために痛哭することのできる心をもって、伝道してみろというのです。そうしたのに伝道が駄目なら、先生が責任を負います。(三六―一三四)
伝道するため、徹夜してみましたか。先生は夜もたくさん明かしました。あの世で、聞くでしょう。伝道するため幾晩明かしてみたかと。皆さんは、すべての力をささげ、伝道しなければなりません。(一〇―二五二)
精誠を尽くして、どれほど天が協助したのか見なさい。地で自分の親戚と両親を伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れないでしょう。(一八―一三四)
伝道するにおいても、商売するのと同じように伝道しろというのです。効果的にせよというのです。昔は、伝道に行く時、どこに行っても何の準備もなく通ったけれど、今は準備して行けというのです。精誠を尽くして通えというのです。分かりますか? 昔と違わなければいけないのです。(一〇二―四五)
3 伝道隊員がもたなければならない姿勢
皆さんは、「生きた人間」哲学を探究しなければなりません。いつも私がどうすればあの人を、先生に、あるいは皆さんに、導くことができるかを考えよというのです。その人たちが、皆さんに引っ張られるようにせよというのです。こうするための、ただ一つの方法がありますが、先生はその方法を知っています。それは他の人をあがめるという精神です。人間には自分に利益になることがある時には、いつでもその方向に行こうとする本性があります。
皆さんの接触している人が利益を受け、皆さんが与えれば、皆さんは自然に他の一人を導くことができます。もし皆さんがその相手から、ある利益を受けようとすれば、障害が生じるようになります。皆さんがある人をあがめれば、皆さんは彼と近くなるのです。このような方法を通じて、皆さんは、すべてのことを教えることができます。伝道は、自分のためのものではないという固い信念をもたなければなりません。
問題は、皆さんが一人の個人を救うため、彼にどれほどのエネルギーを投入することができ、彼の心を動かすためにどれほど与えることができるか、ということです。それが私たちの活動の核心です。このようにすることによって、皆さんは神様の心情を知り、神様がアダムにどれほど多くの力を注がれ、またアダムを復帰するため、どれほど多くの力を注がれたかということを知るようになるのです。
皆さんも一人を中心に、神様と同じ心情をもたなければなりません。皆さんが、その一人に皆さんのすべてのエネルギーを投入はできないといっても、「私はこの件では最善を尽くします」ということだけは決定されていなければなりません。それが、皆さんのもたなければならない心の姿勢です。
そういう心の姿勢をもってこそ皆さんは、神様がアダムを再び探した時の、喜びの涙を知るようになるのです。そして皆さんは、神様の心情を体恤するようになるのです。ゆえに、伝道に出て人に会うとき、皆さんは、それと同じような悲しみの涙を流さなければならないのであり、また神様が一人の人間について感じた愛を感じなければならず、その立場を感知しなければならないのです。
皆さんは、それと同じようなことを経験するため、努力しなければなりません。そうすれば、その人が神様に帰ってくるとき、皆さんは彼と一緒に、喜びの涙を流すようになるでしょう。彼は、悲しみのその瞬間、そして苦痛のその瞬間を永遠に記憶するでしょう。そういった状況で、皆さんがその人の知っている過去に過ごしたどの人より、より大きい感動を彼に与えるようになれば、皆さんは永遠に忘れられることはないでしょう。その時、皆さんは彼に、彼の友人が与えることのできる助けよりも、より大きい助けを与えなければなりません。彼が喜ぶ時には、彼に似合う何かを言ってあげ、苦痛を受けるようになればその苦痛を心配してあげ、慰労してあげなければなりません。伝道する時には、このようなことを考えなければなりません。このような関係によって人間は、互いになじみ合っているのです。(五二―二七六)
路傍伝道をする場合においても、私一人ですると考えるかもしれませんが、決して一人ではありません。皆さんは、いつでも神様の心情の中にいるという考えをもって、国を一つの祭壇と考え、その最低点に立っている自分だということを知らなければなりません。そういった場で、「すべてのサタンよ、来るなら来てみろ」という心をもって、伝道しなければなりません。そういった勇気と、経験が必要です。(一八―二七六)
皆さんが、地方に行って伝道する時は、皆さんの個体が行って伝道するのではありません。天の国全体に代わって、出ていって戦うのです。全家庭のため、行って戦うのであり、全兄弟と全食口のために行って戦うのです。(一五―三〇四)
皆さんは、伝道に行くとき、一人で行ってはいけません。必ず、伝道に出られない人たちと連係作戦をしなければなりません。そうして、一線と後方が、合同作戦をしなければいけません。一線にいる人は、前で戦い、後方にいる人は、精誠を尽くし、精神的にも、物質的にも協力しなければなりません。そういった精誠がなくてはならないのです。今回は、仕方ない食口は行かなくても、みな同席したという条件を立てなければなりません。(一一―二一〇)
伝道しても、女性は一人で行くなというのです。歳の多いおじいさんやおばあさんでも、杖をついて歩くおじいさん、おばあさんでも連れていけというのです。そうでなければ、小学校の学生でも、一人連れて歩けというのです。分かりますか? (はい)。伝道するなというのではありません。危険なのでそうしろというのです。(六六―二二六)
今回の期間に、皆さんが引き受けた地域に行けば、「面の者たちは、みんな来い。面の出身の霊人たちよ、みな集まれ! 忠誠大会をしよう」と言える覚悟で仕事をしなければなりません。ある反対者が現れれば、皆さんは、彼が自分の子供にも与えることのできない大きな愛で、父母の立場で、その人に対してください。被造物の生命の要素になるのは、神様の愛なので、極致の愛は、その者を屈伏させることができます。また父母が、自分の子女のために仕事をするよりも、より大きな奉仕で、その反対者のために仕事ができる子女の立場に立ってください。そうすれば、その反対者を屈伏することができるようになります。(一一―二七四)
伝道しようとする人がいるときには、自分に何か貴いものがあれば、それを全部与えようとする心がなければなりません。服なら服を与えようとする、そういう心が前に立たなければならないのです。また自分に食べ物があれば、「アイゴー、おなかがすいているので、自分が食べよう」というのではなく、おなかがすいても、新聞紙で包んでおいて、「誰か来ないかなあ」というのが父母の心です。食べ物を見ると、「おなかがすいたから、自分が食べなくては。誰も来ないだろう」という考えをするのではないのです。自分がおなかがすいても、ある人がおなかのすいた立場にいれば、それをあげて、自分が食べるという考えを乗り越える心情です。そういった自分にならなければなりません。何のことか分かりますか? (五〇―三〇七)
「果たして、自分は伝道したい心が切実か」ということを考えてくださるようお願いします。ある力をすべて尽くして、死んでもいいと思わなければなりません。私は神様の心情が分かるので、皆さんを追い出すようにするのです。(一二―三二九)
今、伝道しに行く人たちは、原理のみ言をよく知らないからといって心配することはありません。出ていって、忠誠を尽くして動いて、原理のみ言を語れる人が来れば、それに従って、み言を聞きに来れるように、人を動員する運動だけすればいいというのです。また、相手が原理のみ言を語ってくれというのに、「私は原理のみ言が分からない」と言ってはいけません。原理のみ言を精誠を尽くして語り、そこに不足なことを、今後、本部人員を配置して補充しようというのです。(一五〇―三二七)
皆さん、伝道できないと考え、心配するなというのです。統一教会で伝道しなくてもかまわないというのです。心で、「あの人たちはいい人たちだ」といううわさを起こすのです。分かりますか? 「あの人たちは、絶対借りをつくるのを嫌がるのだ。一度してあげれば、その何倍も返してくれるのだ」。そういう人なら、嫌ではないのです。(八五―四二)
大衆に対して、痛哭するように訴える心情にかられなければなりません。人に会えば、私ののどから血を吐いても、一人を伝道するためにそれをしなければならないというのです。こうであり得る心がなければならないのです。痛哭して、涙を流しながら、一人を伝道するため訴えてこなければなりません。(一二五―二三)
皆さん、伝道に行って活動する時、先生が説教したように、体がどうなっても、鼻に何が入っても、目に何が入っても、そのように伝道すれば伝道されない人はいません。
鯉のようなものをつかむときは、明珠(注:輝き光る玉)のようなもの、小さなものがあれば、背にさっと載せれば、釣れるのです。皆さんに今、教えてあげるのです。それを手でつかもうとせず、簡単につかむ方法は、小さな網をかぶせて、こうしてひっくり返しに引っ張るのです。あのえらが、後ろにこのようにひっくり返っているので、網をこうすれば、すぐに引っかかるのです(行動で示しながら語られる)。えらが、こうなっているのです。それはみな、捕まえて食べられるようになっています。(九二―三二二)
皆さんは、伝道に出て物質についての苦痛と、人についての苦痛と、心情についての苦痛を体験しなさい。
悪い人までも、同情心が起きるようにして後援を受け、帰ってこなければなりません。(一一―七五)
自分一人で、独自的に「何がどうで、どうだ」と言いながら、非難してはいけません。地方に行き、伝道する時も「私がまず頑張らないといけない」と考えるとするなら、それは間違った考えです。私がよくやって、先生に褒められ、教会に行って褒められなければならないという考えは、間違った考えだというのです。褒められても、褒められようとは思わず、自分がどうしたなら父母の心情に因縁を結べるか、どうしてこそ、誰も干渉できない、固い因縁を神様と結べるかを考えなければなりません。こうした内的なことが問題であって、外的なことは問題にならないということです。(二四―一四一)
先生は、皆さんが伝道や啓蒙がうまいことを自慢したいのでなく、涙を流して、震え、飢え、石をつかんで祈祷したことを自慢したいのです。(一一―七五)
皆さんが伝道に出て、苦労して、飢え、悪口を言われて歩くのは、皆さん個人のことではありません。「私は、私たちの家に代わって、兄弟に代わって、十字架を背負い、自分の国を立てるため、基盤をつくるために行く」という考えをもたなければなりません。(一五―三一一)
伝道する時も、自分のためにし、自分を考えては絶対……。「私は死ぬために来た、死ぬために、私一人を蒔いて、イエス様のように蒔いて、小麦の種になり、芽が出れば、刈り取る」こう考えなければならないのです。肉と血をみな取ってこそ、芽が出るのです。そうしなければ駄目なのです。公的生活をしなければ、引っかかるのです。こうしてパスするようになる時、堕落圏を越えていくようになるのです。長成級を越えていくのです。(九六―一一八)
皆さんが伝道するにあたって、まず十人を伝道せよというのです。分かりますか? 伝道するようになれば、互いにまず十人を伝道せよというのです。伝道しようとすれば、犠牲にならなければなりませんか、犠牲になるべきではないですか? 犠牲にならなければなりません。そうすれば、必ず神様が助けてくださるのです。そうすれば、神様は反対の立場で助けてくださいます。
ところで、皆さんが十人を伝道するのに、不平不満を言って伝道すれば、伝道できますか? 十人がいるのに、皆さんが、「み旨だか何だか、それがどうしたのか」と言いながら、不平を言うなら、その人たちは皆さんの言葉を聞くでしょうか、聞かないでしょうか? いくら褒めてくれて、「その言葉を聞いてみよう」と言っても、不平を言うようになれば絶対伝道がなされないというのです。
では、どうしなければならないのでしょうか? 不平不満を言ってはいけないので、忍耐して犠牲にならなければならないのです。我慢して犠牲になる方法しかありません。そうでしょう? 我慢して犠牲になれば、その十人は、自分を「悪い」と言いますか? (「いい」と言います)。知っていることは、知っているのですね。全体が私のためにするでしょうか、引き下ろすでしょうか? 「ために」するというのです。我慢して、克服できなければ、「ために」しても、「ために」ならないこともあるのです。しかし、我慢して克服することを続ければ、続けてなされるのです。ゆえに最後まで我慢しなければなりません。忍耐して克服しなければなりません。耐え抜かなければなりません。(四四―一七)
皆さん、伝道に出るとそうなのです。伝道に出て、部屋に行って休むのではないのです。道を逸し、道端に座って休むこともでき、夜を更かすこともでき、御飯を食べることもできるのです。御飯を食べるのも食卓で食べるのではないのです。お弁当を包んで、伝道に出て、道を歩きながら食べることもできます。それが、どれほど美しいことかというのです。それは人には分からない世界だというのです。(七二―三二五)
伝道するには、辛抱強くなければなりません。人が悪口を言っても言わなくても、自分のすることはしなければならないのです。伝道しようとすれば、悪口を言われるようになっているのです。なぜなら、人がしないことをしながら、村の中を歩き回り、犬を吠えさせることがよくあるからです。ですから悪口を言われるようになっているのです。(四二―一七一)
人は、辛抱強くなければなりません。辛抱強くなければならないのです。私は、皆さんが食べるものがなければ、飢えて死ねと絶対に教えないというのです。御飯を食べる人がいる所に行って、分けて食べようというのです。口があるから、そのように話をし、あいさつをし、いくらでもその人の家で食べられるというのです。先生は、そういうことをみなしてみたのです。おなかがすけば、私が国のために忠誠を尽くし、天と地のために忠誠を尽くしたので、誰よりも御飯を食べられるために、食事する人の所に行き、「三食食事ができなかったので、分けて食べよう」と言うのです。このように堂々とせよというのです。(九四―一〇二)
4 路上伝道のときに取らなければならない態度
女性たちも、今後は少しきれいに、頭もきれいにし、服も端正に着て、そうしなければなりません。特に、髪、女性の頭というと……。(笑い) 男性はいいのです。女性たちのことなのです。外に出て回る人たちは、現在七〇パーセント以上が男性なのです。女性より男性が多いというのです。それを知らなければなりません。ですから、その人々は、男性に対する関心はないのです。全部、女性たちはどうかと見るのです。
ですから笑う時も、「アー」(口を開けて見せながら)こうして笑うなというのです。口を開けずに、にこっと笑うのです。すべて練習しなさいというのです。(笑い) 目から笑い、口で笑えというのです。口から笑わず……です。なぜそうかというと、人は話すとき、目を見て言うのであって、口を見て言わないのです。ですから、目から笑わなければならないのです。口から笑えば失礼なのです。
そして、女性たちは、できれば髪を垂らすなというのです。男性はみな女性が髪をこのように垂らすのを嫌うのです。気分を悪くするのです。特に春の風が強く吹く海岸沿いなので……。そうすれば、この頭の毛みんな……。気分が悪いのです。ゆえに、それを注意し、できるだけ端正でなければならないのです。私がみんな監督をすればいいというのですか。しかし、そうできなくてはいけないでしょう。ですから「先生が見ても、これだけすれば間違いなくパスだ」と言えるようにせよというのです。
また皆さん、昼食時になっておなかがすけば、「アイゴー、御飯を食べる時間になったなあ」と思うなというのです。皆さんは行き来する人を全部、遊覧するようにじっとしていますが、ニューヨークの人たちは行き来しながら、統一教会の者と百人も会えるでしょうし、千人にも会えるでしょうから、全部同じように対さなければいけないのです。昼食の時間が来ても、「アイゴー、おなかがすいたのだが」絶対そう思ってはいけません。じっと立ちながら、(力ない表情をされる)こうしているなというのです。立っていながら、ある深い瞑想や、思索をするのはいいが、絶対こうして立っているなというのです。
また、壁のような所に、刺激的な宣伝ビラのように、このように立っていますが、どれほど見るに堪えないですか。(笑い) 本当に休みたければ、隅にビラを置いておいて、行って少し休めというのです。多くの人に対して良く感じたのに、一人でも休んでいれば「統一教会にも、いくらか、ああいった輩がいるんだなあ」と考えるのです。しかし、そういう人をいくら探しても、探せなかったならば、考える人なら、必ず統一教会に来てみるというのです。反対の新聞を出す人は、私たちが誤ったことを写真に撮って、新聞に出すのです。そうすれば、それを見て、「統一教会の人たちはいいとばかり思っていたのに、ああいうこともある」と思うのです。そうなり得るのです。新聞に出て有名になることもあり得るのです。ですから、絶対そのように、朝出るときはこうして出て、一日中こうして回り、帰る時もこうして帰らなければならないのです。帰ってくれば、兄弟同士はうさ晴らしをしたっていいというのです。(八六―二六一)
そして、皆さんが道を行って、ビラのようなものをたくさん分けてあげながら、捨てていったものがあれば、これは必ず人が踏まないようにし、統一教会会員ならば誰でも行って拾えというのです。これがこの市民の前に模範にならなければならないということです。道を行くのに、ビラが落ちればどうなるか、よく見なさいというのです。そこには、いろんな人がいるはずなのですが、それを拾うのは、千人、万人に分け与えるより重要だということを知らなければいけません。そういうとき、私たちが拾って模範を見せれば、ビラ千枚分けることよりそれを見た人たちは、考えのある人たちなら、それが無言の宣伝になるというのです。それを拾う人を百人、千人も見ることができるのです。それが百枚、千枚分けてあげることよりましだということを知らなければなりません。こうした、数々の動機をつくらなければならないのです。
皆さんが立って、配ってあげたビラは、どんなに汚れたものでも、必ずみな拾ってごみ箱に入れて、環境をきれいにせよということなのです。そうすれば、そこに毎日出るので、その周囲にいる商店の人は、みな見るのです。「あの女性、また来たのだなあ。あの男性、また来たのだなあ。あそこに配置されたあの人の性質はどうだろう」と一度試験をするために、つっついてもみるというのです。
この周囲に、商店の主人たち、息子たち、全部集まって、あの人がどうであり、どうだと言って、「お前、一度くらいあの人をテストしてみろ、つっついてみろ、どうするか見てみよう。こうなるだろう」と自分たち同士で論争も起こし、いろんなことが一度に広がります。それをみな収拾できるのです。今後、この作戦によって変わるということを知らなければならないのです。その人たちが、一度、二度、三度しても、少しも変わらなければ感服して、その次には、宣伝をするというのです。「やあ、すごいなあ、本当にすごい」と……。(八六―二六三)
皆さんは、どこに行くにも、しっかりしなければなりません、今からは、皆さんは宣伝ビラと同じなのです。歩くのも、しっかり歩かなければなりません。整然と、端正に(行動で見せてくださる)、二人で会って行っても、列をつくっていかなければ、ショーウィンドーを見て、こんなふうにして行くなというのです。今回六十日の期間は、ニューヨークの市民を正しく指導する教育期間です。
皆さんは、市民を教育する先生だという考えをもたなければなりません。何か、私が教えなければならないのだが、私は会わなかったけれど、私を見る人に教えてあげるという考えをもって……。こうして、今回ニューヨーク市に影響を及ぼさなければなりません。
ゆえに皆さんは、「私は今回の期間に、こういう表情をするのだ」ということを定めよというのです。その次には、私は「こういった親切なことを言うのだ」ということを定めよというのです。いつでも、その方法を覚えて動きなさい。誰かが攻撃をしても、その表情をせよというのです。さらに論戦して、「お前行くなら行け」そう言ってはいけません。絶対そうしてはいけません。ありがたく、あいさつをせよというのです。「また会おう」と一言言うのです。論戦が終わって、互いに気分が悪くて送る時は、そのまま送るなというのです。「また一度会おう」と「本当に有り難い」と言うのです。絶対会った人を、寂しく、誤解させるように、気分を悪くするなということです。分かりますか? (はい)。(八六―二六四)
女性は、頭を少し端正に整えなければなりません。そして、少しカラフルな服が必要です。できれば三人の友達に「私、これだけ整えればいいかな?」と言って、ちょっと見てもらうのです。いい服でなくてもです。そして端正なことだけ、認定を受けていけというのです。それが必要ですか、必要でないですか? (必要です)。
さらに、女性たちは、靴下やストッキングのようなものも、二つも三つも伝線したのをはいて、こういうふうに……。(行動される、笑い) そうならば、はくなというのです。はくなということです。そして、私たち統一教会の女性たちは、あまり変な靴を履くなというのです。平凡なもの、普通のものを履けというのです。あまり新式でも駄目だし、あまり古くても駄目で、中間のものを。
そして統一教会の女性たちは、見ると顔が少し、潤いがなければいけません。そういうクリームがあるのです。全部、食べれずやつれているように見えれば、「統一教会の女性たちは、レバレンド・ムーンが、あまりにも仕事をさせるので脂っ気がないんだなあ!」このように考えるので、潤いを与えるクリームを、ちょっと潤いが出るくらいに塗りなさい。脂のちょっと多いのを塗るのです。脂っ気が多いもの。(笑い) これが必要です。
特別に女性たちの唇に塗る、紅のようなものがあるでしょう? それ、ルージュというのですか? 何ですか? 私たち統一教会の女性たちは、それは塗らないのですが、その代わりに、唇が乾かないものを塗らなければならないのです。そんなに乾いているのに、話すのを見れば、気分が悪いのです。(お父様、薄いのは、ちょっとつけてもいいですか?)。ああ、それはいいです。そういうのがあるのです。脂っ気があるの。(笑い) 女性たちが、唇が乾いて、カサカサになったまま話すのは、気持ちが悪いのです。とても気分が悪いのです。そうなのです。皆さんは知りませんが……。そういった面で全部きちんとしなければならないのです。分かりましたか? (はい)。
それから女性たち、歩く時、お尻を振らないように。(行動でされる。笑い) 絶対そうでなければいけません。それが必要なのです。これからは女性たち、きちんとするでしょう? (八六―二六四)
その次は男性、男性、男性……。(笑い)男性はねえ、歩く時姿勢がきちんとしてなくてはなりません。姿勢が、こうして、こうして。(行動される、笑い) 男性は背が高いので、そうやって歩く人たちが多いのです。男性は大きいのでこうやって歩くのです。(笑い) 背が高くても、ビシッとしなければなりません。
皆さんは、歩くのもピシッと歩かなければいけません。その人が歩くのを見れば、みんな分かるのです。ピシッと歩かなくてはいけないのです。皆さんが、街に出て歩く姿を見なさい。ある人はこうやって……(行動される)。こうやって歩く人がとても多いのです。できれば、ここからここまで、まっすぐにして歩く練習をしなければいけません。
皆さんが、自分自身を考えてみれば、私が歩くときどうやって歩くのかが、今は分からないでしょう。どうやって歩くのか分からないでしょう? それは、既に間違ったことなのです。姿勢は必ず、まっすぐでなくてはなりません。靴が、こうやって上がってくるように歩いてはいけないのです。あまりこんなふうに歩いてもいけなく、あまりこんなふうに歩いてもいけません。ある人は、こう歩きます。こうやって(行動される)。
そして、できるだけ男性も、お尻をこうやって振るなというのです。肩もすくめてはいけません。ボクシングする人を見れば、姿勢がまっすぐでなければいけません。それは、どんな観が揺らいだらいけないというのですか。まっすぐでなければいけないのです。必ず、そうでなければいけないのです。また、靴を脱いで、いつも後ろ側を調べなさいというのです。ある人はこうやって、こうやって擦れて減っている人。ここだけ擦れている人。それではいけません。先生は、そうではないのです。さっと、靴をひっくり返してみると、その人が分かるのです。紳士になるのは楽ではありません。それを知らなくてはいけません。頭もそうです。
またいつでも、服を着るとき、服のボタンがいくつか知らなければいけません。人を見れば、すぐ見えるというのです。ボタンをふっと見て、既にこれが二つなら、その人は落第なのです。奥さんが、自分についての関心がない人なら、着実なだんなさんでなく、そうでなければ、その人自身が、そういった面の整理がなされていないということなのです。ゆえに、自分自身をいつも考えなければいけません。自分自身がそうならなければならないのです。それは、自分自身がそうだということをいうのです。
そして、上着のボタンはできれば一つだけはめなさい。全部はめないで、端正にしないといけません。なおまた、そこに注意しないといけないのです。男性は、実は、必ず外に出る時には、さっと一度こうやってみよというのです。習慣をそうやってつけるのです。さらに男性はネクタイ……。私も、今行ったり来たりするので、分かりませんが、ネクタイは、いつでもまっすぐでなくてはなりません。ですから、先生はピンを使うのです。そうすれば絶対、こういうふうにはなりません。ある人はこうやって……(行動される、笑い) これをいつでも、注意しないといけないのです。ゆえに、これをきちんとして行けというのです。(拍手) そして、服の色とネクタイの色が、いつでも合わなければなりません。きちんと合わなければならないのです。これが大変なのです。(八六―二六五)
また、できれば男性は、髪をよく切って整えよというのです。男性たちは、手を見ると、ここにあかがたまっていては、絶対いけないのです。ビラのようなものを配る時も、ここにあかがついていては絶対、失礼です。
大体男性を見ると、後ろ姿が、どう端正でないといけないのですか。前を見ても、前を誰が見ますか? みな後ろを見るのです。さらに、黒い服を着た時には、頭をかくと、ふけが落ちるのです。ふけがあります。これが必ず落ちるのです。ゆえに、そういう時はいつでも払えというのです。それを必ず考えよというのです。
皆さんが、自分自身の顔を見る時に、「このくらいだったらいい」という姿勢で、出ていって行動しなければなりません。分かりますか。男性は毎日出て歩くので、そういった面では相当、関心をもつだろうと見ているのです。特に独り者の男性はです。(八六―二六七)
5 伝道と牧会者の姿勢
望みとは何かという時、人はだんだん良くなることを願うので、のちにはそれが理想になるのです。ゆえに、私が望むことをどうやって実現するのかという問題が、一番重要なのです。
では、皆さんが教会長として祈り、出ていって活動する時、願いは何でしょうか。教会長は、多くの人を伝道するのが願いであるはずです。ゆえに、教会長として、理想実現をどうするのかというのが重要なのです。(四八―二四)
まず地域に帰れば、その地域を伝道するためにどうしなければならないのでしょうか? この世界はサタン世界であり、この地域は、今まで怨讐が住んできた地域であることを考える時に、そこに怨讐があがめることのできる代表者が誰かということを知らなければなりません。人としては、どういう人であり、地としてはどういう地かということを知らなければなりません。
では、私がそういった基盤を立てて、「どこの誰を屈伏させるまで、どこの誰をみ旨の前に復帰させるまで、私は決意する。ある地域を復帰する時まで決意する。今日復帰歴史というのは、人を復帰し万物を復帰しなければならないので、サタン圏の人の中に、有名な地方有志なら誰々を復帰する。どの地域を復帰する」そうやって祈祷するのです。
この地を復帰するためには、私が死んではならないという心をもって、どんな難しいことがあっても、これを復帰するという決意をもって、自分の力が不足でもここに同志を糾合し、自分の能力が不足するならば、同志の能力を集めて、これを早く早く、夜でも昼でも休まず活動する中で、不足ならば天にすがって汗を流さなければなりません。そういう祈祷をしてみよというのです。
ある人を選定し、祈祷するのです。戦うのです。「神様、私はこういう意味において、この地域の数多くの生命を生かすため、彼が必要です。その人の現在の状態はこうなのですが、必ず必要です。その人でなければ駄目です」と。皆さんが、腰のひもをしっかり締めて、手ぬぐいを結び、生死を決断する、こういった舞台において、天の前に訴えるようになる時に、上達するというのです。ですから精誠を込めて戦い、探してこそ貴いのです。(一五三―二七八)
見てみなさい。自分が責任をもった地域を見るとき、全部地獄に行くだろうと、ソドムとゴモラのように全部地獄に行くだろうと感じ、私の差し伸べる手を、霊界でどれほど待っているかを感じ、その喚声が耳に聞こえるのを感じなければならないのです。皆さんは伝道に出て、人がいないと心配するなというのです。皆さんが、その村内の道を過ぎていくと、(黒板に書かれながら語られる)この道を行くようになるときには、この村内に自分が、兄弟たちが死んでいく時に来たというような、あるいは友人が来たと喜ぶような役事があるでしょう。そこではその兄弟が死んでいって悲しむ以上に私が悲しまなければならず、あるいは、会えなかった兄弟が訪ねてきて会う喜び以上の喜びを、私が完全に感じられなければなりません。こういう私にならないと駄目だというのです。それをいつも考えなくてはなりません。
道を歩きながらも、自分でも知らずに一つの生命を救わなければならない責任を感じ、涙を流しながら歩くことのできる、心にしみるような心情にならなければならないのです。皆さん、そういうことを感じたことがありますか。涙が出て、鼻水が出て口からまで水が流れ、このズボンにこぼれたことがありますか。そうしてみなかったのではないかというのです。皆さんがもしそうなれば、このすべての自然が、皆さんが行く時、慰労の対象になるのです。事実そうなのです。感じるのです。木に寄りかかれば、お母さんが自分を抱いてくれることより、より慰めを感じるというのです。
ですから、寂しい人ではないのです。そこで私が祈るようになると、今後起こることを天が教えてくれるのです。では、その日を描きながら、死ぬことがあっても感謝し、殴られて、追い出されることがあっても我慢して、克服しなければならないのが、私の責任であることを感じるのです。神様との約束があるのに、私がこれを捨ててはいけないということを知らなければなりません。(八八―二六五)
先生が伝道を、どれほど一生懸命やったのか分かりますか。伝道をどれほど一生懸命にしたのでしょうか? 私が、二時間しか寝ず、二時間も寝ない日々も多かったのです。七年間続けてです。続けてみ言を語るのです。(九五―四三)
先生は、今もそうなのです。韓国の食口たちが、きのう、おととい来たとき、十二時になったのです。私は疲れているけれど、その中に一人でもいれば、「さあ、君たち行ってくれ」とは言えません。疲れていても、私はそうできないというのです。そういう訓練をしてきたというのです。十二時が過ぎ、夜一時が過ぎても、その時間が貴いことを知って座っているなら、その一人の人のために、私がその人の友人になり、その一人の人の話し相手になり、その時間を延長しようとします。また、その時間を延長したといって、もっと寝ようとは考えない人なのです。来ることを嫌がり、何かをするのが嫌なら、それが何の喜びですか。主人がそうであってこそ、その家に入っていけばどこに行っても境界線がなく、どこに行っても自由なのです。そうでなければ不自由なのです。教会の責任者がそうで、教会がそうなら、誰が来ようとしますか。
ゆえに、教えてあげなさい。伝道することも教えてあげ、全部教えてあげるのです。皆さんが開拓時代に出ていって、伝道するようになれば、伝道した人が来るのを見ても、自分も知らないうちに「万歳」を言い、歓迎する心でいっぱいにならなければならないのです。来て、帰る時には自分の恋人が帰っていくより、もっと寂しがれというのです。行ってしまうと、目から涙がこぼれ、それほど涙を流しながら、自分も知らないうちに祈祷してあげる心情になれというのです。そうすれば、その教会は復興するのです。絶対復興するのです。去ったのちには自分も知らずに、行かなかったらいいのにと涙を流すことができ、自分も知らずに祈祷し、そうして夜を明かして祈祷すれば、その人が啓示を受けて、自分も知らずに早朝にやって来るのです。早朝に教会に訪ねてくるのです。そういうことが起こるのです。
ゆえに、全体の責任は責任者が負わなければなりません。一つにならなければならず、蕩減しなければなりません。それでも発展しなければ、私たちの原理が全部間違っていることになるのです。復帰原理がみなうそなのです。全部、虚風であり、空砲なのです。ですから、それをよく知って皆さん、今こそ新しい決意のもとで、こういう原則、これが分かりますか。簡単なのです。一つになることと蕩減復帰、これを忘れるなというのです。(八八―二六四)
話をするときには、心から話を聞いてあげるのです。夜を明かしながら聞いてあげるのです。ここから、事は始まるのです。夜を明かしながら、時間が問題ではありません。お父さん、お母さんが、子供が飛び出して苦労して、自分たちを再び探してくるまでの苦労したその話を聞くようになるときには、涙を流しながら、その子供が痛がる以上の痛みを感じて、対する場なので、父母がいいのです。それと同じような心情の所有者になれというのです。
あるいは、着た服を見るときに、古びた服を着たりすると、古びた服を見ると、恥ずかしくて、見られないような心情にならないといけません。母の心が、父母の心がそうだというのです。子供にそういう服を着せた父母が、そうでない服を着せたい心が切実ならば、その子供を見るのに恥ずかしい心を感じるように、そういった心の姿勢をもてば、そこに必ず繁殖が起こるのです。先生はこのような原則を中心として、役事をしたのです。夜でも昼でも、そうなれば西風が吹くようになるのです。(一九六九・五・一二)
伝道しに出て、活動する中で、伝道の責任をもった人は、伝道についてのすべてのことを確実に教えてあげなければなりません。このように一回り回るようになると、生活を指導できる能力をもつ人になるのであり、教育を指導できる人になるのであり、伝道を指導できる人になるのです。
伝道の責任者は、誰がいつ来て尋ねても答えることができるように、伝道をどうするという計画が立てられていなければならないのです。教育に責任もった人は、誰でも来て、この原理がどうなったものだと聞けば、いつでも答えられるようにみな知っていなければなりません。(五四―三三三)
三 伝道の秘訣と方法
三 伝道の秘訣と方法
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1 伝道できない原因あなたたち、教会の伝道ができないといったでしょう。伝道がなぜできないのですか? こういういいみ言をもってなぜできないのですか? 昔の習慣性がそのまま生きているので、革命を成せないため、駄目なのです。(一四五―一〇〇)
統一教会の教会員たちが、今まで伝道するのに、なぜ伝道できないのか。原則から外れているからです。原則に合わなければ、伝道は駄目だというのです。皆さんに、「伝道に行くとき、既成教会員たちを伝道せよ」と言ったでしょう。「一般の人を伝道せよ」と言いましたか? 「既成教会の牧師を訪ねよ」と言ったのに、「アイゴー、あの牧師は自分より能力があるのに、聖書は私はよく分からないのに……」。聖書を知っているとか、分からないとかを考える必要はないのです。そうであればあるほど、もっと行かなければなりません。そうでしたか、そうではありませんでしたか? そうしているのですか、そうしていないのですか? そうすれば、必ずその家に行って女中をしても、その家に行って家政婦をしても、その家に行って食べて寝て、その教会に行っても、自分の部屋のように、自分の家のように考えなければならないのです。その家が私たちのうちなのです。このうちは、アベルが管理する家であり、カインが管理する家ではありません。見に行ってきましたか? それはカインが管理する家ですか、アベルが管理する家ですか? 純然として逆になっているのです。それが、原理的ではないのです。ゆえに難しいのですが、それを探すことをしなければならないのです。そうなれば、その次からは一遍に戻っていくのです。分かりますか? 破裂し始めれば一遍に変わるのです。(五五―二五八)
皆さんは、伝道できない原因が何かを知らなければなりません。人のゆえにできないのでなく、問題は自分にあります。道にバラが咲いていれば、道を過ぎ去る旅人は誰でも、この花に関心をもたない人がいないというのです。そうですか? いないのですか、いるのですか? (いないのです)。全部同じだというのです。皆さんが、ぱっと咲いているバラの花のように、行き来する人の前に、香気を震動させてみよというのです。そうなれば、通り過ぎる娘たちがニコニコ笑いながら、「まあすてき」と言って、さっと来て折ろうとするのです。またおじいさんは、「アイゴー、このように寂しく道端に咲いているなあ、これは駄目だ。動物が通って、いたずらすると駄目なので、折って部屋に飾らなくては」と言うのです。同じく、そういった心情的花を咲かせられる皆さんにならなければなりません。分かりますか。夜に明かりがあれば、そこに昆虫が集まってくるのと同じだというのです。(五〇―三〇四)
伝道ができないのは、誰の責任ですか? まず、天使長の責任です。復帰過程において、再創造過程において、天使長の立場にある、教会長に責任があるというのです。分かりますか? 分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。(五〇―三二五)
皆さんが伝道ができないのは、なぜでしょうか。「あの人は何で来るのか」と言われれば、伝道は駄目なのです。どんな心をもたなければならないのですか。母や父のような心をもたなければならないのです。一人来れば、五千年、一万年待ち焦がれていた、息子、娘が訪ねてきたように感じなければならないのです。私の息子、娘が来たのでうれしくて、形容できないほど心でうれしがらなければなりません。人は霊物なので、嫌がっているということをみな分かるというのです。自分を喜ぶ目から、姿から、心から、喜びを感じるようになる時、伝道されるのです。父母が失った子供を探すようになると、子供が帰ってくる時に喜ぶ心と同じ心で、その間の事情を聞きたがって、「この間何をして過ごしたのか」と言う時、自分のすべてを告白しようとするというのです。ゆえに、先生に会うようになれば、私は口をぴたっと閉じていても、訪ねて来て、皆いろいろ話すのです。(一九六九・五・一二)
今日、地方に出て伝道するのに、なぜ伝道できないのでしょうか? その人の生命を生かすための観点で、私が伝道するのでなく、自分が生き、自分が良くなるように伝道するためだというのです。観点が違うというのです。皆さんが神様のように、より与えなければならないのに、ただ自分の話だけしたというのです。ですからみな離れていくのです。食口たちは、あなたたちよりもっと苦労させ、自分は楽に過ごそうとして……。これはサタンの遊びなのです。神様が共におられません。アベルになれないのです。先生がこの位置に来るまでに、三十年の道を築いてきたのです。(七六―三三六)
皆さんの考えで、「み旨の時が来たのに、なぜ伝道できないのか」と言うでしょうが、それは皆さんのゆえにそうなのです。先生はどこに行っても、伝道することができるというのです。私は、どれだけでも言えるのです。私がそういった境地に精神統一していくなら、環境がすぐに変わるのです。ですから、それほどに距離があるのです。みな同じように見えますが、距離があるのです。それをどうつくるのかということを考えなければならないのです。
そして、皆さんが今、天のみ旨を知っていますが、いつ天の声を聞いて、いつどこで霊的に先生に会って報告するのでしょうか? それを相当に慕わないと、そうならないのです。そうすれば、みな教えてあげるようになっているのです。皆さんが、夜寝るのも忘れ、食べることを忘れ、愛する人を忘れるくらい、それを思うことができれば、完全に直接通じるというのです。(九四―一五七)
皆さん、先生が慕わしくて御飯を食べられず、そうしてみなさいというのです。直通します。アメリカにいる先生が、今何をしているのか、みな見えるのです。これはうそではありません。分かりますか、何のことか? 心情のはしご、心情のアンテナは、先生に通じるようになっているのです。それにもかかわらず、自分の考えだけをもって先生の命令や、指示をなし、上部の指示を計算して、このような精神姿勢は正さなければならないというのです。分かりますか? (はい)。(六八―一〇五)
今まで、統一教会が伝道しても、なぜできなかったのでしょうか? この原則がなされていなかったからです。先生は今でも昼寝はできません。習慣になって、昼寝をしようとするとしても……。いくら疲れていても、昼寝はしません。食口たちが、世界でみな苦労しているのを考えると、それが良心に引っかかるのです。雨が降れば、すぐに皆さんのことが思い出されるのです。雪が降っても、皆さんを思います。ゆえに船に乗って、海に出るのです。そうすれば心が楽です。先生が、そうしながら祈祷しているという事実を知らなければなりません。どこかに行けなければ、ここででも、自ら進んで疲れる仕事をしようとするのです。それが必要なのです。そう暮らす限り、統一教会の先生のために、死の場に行くというのです。父母について恨まないのです。感謝するのです。
そして、先生はいつも第一線の友達だという考えをもっています。第一線の友人。後方の友達でなく、第一線の友人だという考えをもっているのです。そうすれば、食口たちが一線に立った司令官だと考えるのです。ここに主の責任者として来れば、主をどれほど愛しているのか? 主の地をどれほど愛しているのか? 主の人をどれほど愛するのか? これが問題です。(一三一―三三三)
伝道ができない? できないのは実力が足りず……。信仰が足りず……。精誠を尽くして一度で駄目なら、二度、三度、四度、だんだん、より強く反復するのです。駄目なら成されるときまで。ゆえに、がっかりするなというのです。がっかりする者が、一番気の小さい者だというのです。皆さん、伝道に出て、一州に影響を与える自信がありますか? 「私は一州が問題ではない。一つの国が問題ではない」。まず、そういった自信をもたなければならないのです。自信がありますか? (はい)。(七七―二〇)
2 伝道の秘訣
地方に行けば、伝道する時、誰は何カ月、あの人は三カ月目、あの人は五カ月目、あの人は一年半、三年なら三年、このように一カ月目、二カ月目、基盤をつくるための期間をみな決めて、何十、何百名をみな計画を立てて祈祷しなさいというのです。そうしていますか? 稲穂を刈り取るのです。この者たち! 秋に収穫すれば、穂を刈りますか? よもぎの畑を耕しますか? (よもぎの畑を耕します)。よもぎの畑を耕すのに計画がなければならないではありませんか。「あの人に何カ月必要だ」と言って、駄目なときには私の精誠が足りないので、昼も夜もないのです。夜を明かしながら、祈祷するのです。断食祈祷するのです。人を愛することが、神様の主義なので、人を愛さなければなりません。
これが原則ならば、私自身の愛が不足でも、神様は、私が私のためにするのでなく、相手側のために祈祷するその功は、聞いてあげなければならないので、聞いてあげるのです。ところで、そういう祈祷をしてみましたか? してみたかというのです? 全部、統一教会をつぶす、やくざ者になっているというのです。「先生は本国に帰ってきて、いいことは言わずに……」と思うかもしれませんが、これが、いい話なのです。分かりますか? (はい)。これ以上いいことはないのです。先生が、今まで信仰の道を明らかにしてきた、生活哲学を話すのです。分かりますか? そうして、できないのか見てみなさいというのです。駄目なら先生は偽者だというのです。であれば、先生についてくるなというのです。先生を信じるなというのです。先生が詐欺師だと思うのですか? そうしてみて、信じなさいというのです。
皆さんが、道を行く人と会うのに、心がぎこちないなら、祈祷せよというのです。そして、家を訪問するときにも、その家に入っていって、その家庭のために、息子、娘のために祈祷せよというのです。褒めなければならないのです。そうでしょう? 伝道するという、生命を救うという者がぼーっとしていていいですか? ゆえに、どんな人でも、里長に会うとか、誰に会うのにも、ずっと会ってみて、「どんな人だ」と分析して、精誠を込めるのです。とても、伝道はおもしろいというのです。おもしろそうですか、おもしろくなさそうですか? 考えてみよというのです。そうしてみよというのです。おもしろいですか、おもしろくないですか。「あの人は六カ月以内に、五カ月以内に」、こういう実力と、信念を兼備して、そしてその人について、夜も昼も、祈祷してあげよというのです。人を見れば、すぐ分かるというのです。
さあ、先生の言葉を聞いてみると、皆さんが今、どんな段階にいるのか分かりますか? 皆さんは、やくざ者たちです。やくざ者、分かりますか? 本当ですか、うそですか? (本当です)。何が、本当ですか? (はい)。本物になろうとするでしょう? 人が慕わしくて、涙を流さなければなりません。
これを考えよというのです。父母をすべて捨て、先生のあとに従う皆さんではないかというのです。そうではないですか? 故郷に行きたくないですか? 父母と会いたくないですか? 私がなぜ、このことをしなければならないのですか。なぜ、父母のひざ元を離れてこのように孤独な、山川をさまよわなければならないのですか? 見えもせず、会いもしなかった人になぜ会わなければならないのですか。神様のゆえなのです。父母の事情よりやるせなく、兄弟の事情よりやるせなく、友人の事情よりやるせない神様の事情があるからです。
ですから、彼らよりもっと懐かしがられないといけないのではないですか? 訪ねてくる食口を、父母を慕うように、兄弟と対するように、誰か来れば、行ってしまうのではないかと心配し、そうならないといけないのです。立って行ってしまうかと、あれこれ食べさせて。皆さんの心はそうですか? それが、父母の心情を抱いて僕の体をもつということなのです。そうなれば、その人たちが、来てから行こうとすれば、お尻が離れないのです。分かりますか? そういう何かがあるのです。霊的に体験するのです。とてもおもしろいのです。
そうして、食口たちに対するようになるとき、誰かが、「あすの朝来る」と祈祷して寝れば、来るのです。来るのです。分かりますか? (はい)。私が、この神山にもこのような訓練をさせたのです。「お前、祈祷してみよ。こういう心、こういう心情をもって、こうすれば、本当にこうなる。君が東洋人なので、今までお前に、神様が協助しなかったかもしれないが、今、米国に来ているので、私の言うとおりに信じてしてみよ」と語ったのです。ですから、神山が信じて、そのとおりにしたのです。誰かが、あすの朝来るように祈ると、来たというのです。そういうことが起こるのです。何のことか、分かりますか?
心情が、いたたまれないような心情でなければなりません。どの程度か、愛する恋人を慕う以上の立場にまで、行ってみよというのです。そうすれば、直通です。世間で、恋わずらいにかかるということを聞いたことがあるでしょう。神様に対して、それ以上になってみよというのです。そういう立場に行くと、はしを持っても「お父様! 一緒に召し上がりましょう」こう言うのです。そういう実感なのです。実感がわけば、自然なのです。どこに座っても、「お父様!」と言って、いいものがあれば、自分も知らずに差し上げたく、いい服を着る前に、まず着せて差し上げたいのです。そのようになれば、この先生に対して、そういう考えをするようになれば、心配すれば、先生がいい服を着ているのが、みな見えるのです。そういう経験がなければならないのです。
伝道する秘訣があります。それは、ある人が、訪ねてきて過ぎ去るとき、耐えられないくらい残念がることができるようにならなければならないのです。夜十二時が過ぎ、二時になっても、「行こう」と言えば、胸がキュッとして、「もう少ししてから行けば……」という心をもてる人ならば、教会の復興は間違いありません。
先生は、今までその原則を中心に生きています。皆さんが先生を観察すると、そういうことをたくさん感じられるというのです。食口たちが集まって、夜十二時が過ぎ、二時、三時になって、「行こう」と思っても、「もう少ししてから行こう」と思います。そういう心がなければ、発展しないのです。そこには、父母の心が動くのです。
子供と同じ部屋で寝たいし、一緒にいたい、こういう父母の心を皆さんは相続しなければなりません。誰かが粗末な服を着ていれば、それを見て、恥ずかしく感じなければなりません。姉さんや兄弟が見てもそうなのに、親の心はどうですか。息子が食べることもろくにできずに、やつれた顔をしているのを見れば、父母は自分が食べずに何でも取っておいて、そのまま与えるのです。そういう心をもたなければなりません。(二三―六七)
皆さんは、先生が言うことを、そのまま流れていく村人の話のように考えてはなりません。そこに生命を懸け、他のことができなくても、それをしなければならないのです。伝道する道は、特別なことではありません。原理のみ言を聞かせることと、原理のみ言を読ませること、この二つの道しかないのです。今皆さんが、街頭に行って、伝道するのはなぜですか。人を連れて何をしようというのですか? 原理のみ言を聞かせ、原理のみ言を読ませようということなのです。(九六―一三一)
伝道するとき、どうやって愛の話をすればいいでしょうか? 「伝道、伝道」と言わなくても愛の心をもって暮らせばいいのです。あなたたち、愛をもって暮らしてみよというのです。町内で会う人は、自然に来るようになるのです。低気圧が来れば、高気圧に「来るな」と言っても来るようになるのです。愛することは、低気圧圏をつくることです。ゆえに、高気圧圏が全部集まるようになっているのです。
先生のような人は、どこかアフリカの奥地のような所に行っても死にません。既に自然に対することが違い、暮らす生活方法が違うのです。そこは、低気圧圏になるので高気圧圏が飛んでくるのです。自然にうずめてあげないといけないのです。伝道しなくてもいいのです。
そう暮らせというのです。伝道することはないのです。そうすれば、神様が訪ねてくれるのです。そこに香気が漂うので……ちょうが、全部花が咲く時、「ちょうよ来い!」と言われて来ますか。香りがするので、においをかいで来るのです。においをかいで来るというのです。
「異端、統一教会、悪い悪い」と言って、全部北側に鼻を向けるのに、統一教会の方、南側に向かってみると、においをかいでくるのです。続いてくるようになっているというのです。(一四四―二五一)
私たちは、武器を持って伝道するのではありません。愛をもって伝道するのです。アベルが愛で、カインを救った勝利の基盤を通じて、偽りの愛で占領されたのを、真の愛で復帰しなければならないのです。そうしてこそ、相衝(注:衝突し合うこと)がない、本然の世界に帰れるのです。ある手段と方法を通じてしてから、またサタンが、手段と方法をもって、来る戦法が残っていることを知らなければなりません。(四〇―二五〇)
サタンには、サタンの作戦法があるのです。サタンの攻撃法があるのです。私たちは、それを知らなければなりません。サタンが攻撃するのは何ですか? サタンがサタンになったのはなぜですか。自分がサタンになった、その内容をもって出てくるのです。私のようになれば、私のようにすれば、サタンだ、私の側だというのです。
サタンが、サタンになったことを、少し調べてみましょう。最初に、サタンが接近する時には、「やあ、このエバよ」と言って行きますか、笑いながら行くでしょうか? どのように行ったでしょうか? (笑いながらです)。ですから、伝道する時、(表情をつくりながら)こうして気分悪くしなければならないですか? 気分良くしなければなりませんか? (笑いながらです)。
さあ、サタンの魁首を捕まえる秘訣も同じなのです。同じなので、一番いい言葉で、その人を説得しなければなりません。「お前が暮らす場がどんな場か? このように悲惨で、このように悪いが、私たちが暮らす場はこう良く、こう素晴らしい」。共産党式の宣伝なのです。
サタンは、表裏が違うのです。それが、サタンです。では天の側はそうあり得ますか? (いいえ)。では、表も良く、内も深くないといけません。それが方法です。朝は兄弟同士けんかをし、伝道に出ては、「ははは!」と言っていていいのですか? (駄目です)。それでは、サタンが「やあ、お前、私と同じだ。こいつ!」と言うのです。皆さんが、心に喜びをもって、体も喜ばなければなりません。そのように喜びをもてば、神様の喜びとサタンの喜びとは違うのです。ここで二つの力を見ても、これは二分の一で、これは二分の二なので、こちらが勝つというのです。理論的に合っているのです。内的、外的に一つなので、二つが倍になるから勝つというのです。倍になるから勝つというのです。
サタンは表と裏が違うので、一つしかないというのです。こちらは内外が同じなので、二倍なのです。二倍、二倍だから、続ければ結局、誰が勝つかというと、サタンが追い出されていくのです。今まで先生が言ったことが、伝道に行くときの秘訣です。(七六―三三三)
3 伝道は一対一の伝道がいい
皆さん、一人一人伝道しなさい。一人一人、一対一、一対一作戦を組まなければなりません。皆さん、そうしなければならないのです。(九六―三一六)
一対一の作戦が必要です。一対一の作戦、一人について、どれほど集中攻撃をしたのか、その回数の増減によって、参席数の増減が起こるのです。何のことか分かりますか。どうということはないのです。誠心誠意の限り対してあげ、彼らが一つの目的のために、その国のために、世界のためになるのに、誠に満ちたそこに感動されて、伝道されてくるのが七〇パーセントです。七〇パーセント。
ゆえに、街頭から引っ張ってきたといえば、一度来ても、元来関心がない人なので、全部流れていってしまうのです。しかし、集中攻撃して来た人は、どうしてこの人がこうなったのだろうという関心をもって来たため、それやこれが思想の中に、そういう根拠が、どこにあるのかと関心をもって聞くようになるのです。そういう人は、原理を全部聞くのです。分かりますか? それは理論的なのです。分かりますか? (はい)。(七〇―一二二)
二人、三人、伝道しようと思うなということです。一人ずつだけしなさい。
人が、生まれる時には、一人ずつ生まれるのであって、二、三人ずつ生まれるのではありません。双子が生まれるのを喜びますか? 一人ずつだけ生めというのです。一人ずつだけ。ゆえに、皆さんは一カ月に一人ずつだけして、一年に十二人を伝道するという目標を立てて、一年十二カ月、精誠を尽くせというのです。
もし、皆さんが十二カ月の間、精誠を尽くして、十二人伝道したというようになれば、一人につき、五十名ずつ増えます。なぜですか? この人が自分を伝道するため、精誠を尽くすことを伝統として受け、伝道された人はすべてそうして伝道をするからです。「ああ、私は一人を伝道するために、あれほど祈るのだなあ」と思いながら、伝道されたその日から、み言を聞き、座って「私も誰々を伝道しなければならない」と考えるのです。そうすれば、その人も何日もたたず、一人を伝道するのです。その次には、またその人によって来た人が、伝統を受け継ぐようになり、それが急速度に広がっていくのです。今は、そういったことを意識しながら、復帰の一路を行かなければならないのです。(二三―三一〇)
4 伝道するときの対話方法
伝道するときには、軽々しく話をしてはいけません。その人が陰性なのか陽性なのか把握して、そこに合わせて話をしないといけません。人の中には、陰性的性格をもった人と陽性的性格をもった人がいます。陰性的性格をもった人には、絶対憂うつな時にこの話をしてはいけません。その人が陽性的な時、すなわち気分がいい時に行って話をしないといけません。気分が悪くて沈んでいる時には、絶対うきうきするような言葉をかけるなというのです。むしろそういった時には、気分を見ながら同情しなければなりません。
また陽性的な性格をもった人には、陽性的な時に話をしてはいけません。そういう人には、必ず陰性的な時に話をしないといけません。陽性的な時、すなわち気分がいい時に話をすると、保てず、みな流れてしまうのです。ゆえに、そういう時は避けて、反対に、深刻な時に話をしないといけません。(四二―一七三)
人を探すため、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうというように考えなければなりません。私が、春の人、夏の人、秋の人、冬の人、春夏秋冬の人を愛していき、冬の人、あのソ連の人までも愛していくと思わなければなりません。そうしてこそ自分の相手を愛せるのです。それが復帰のプロセスだというのです。(九六―一五二)
精誠を尽くしたにもかかわらず、彼が言うことを聞かないといって、寂しがったり、悲しく考えてはいけません。天理原則がそうなっていると考える人は、福を受けるのです。そういう人は、絶対に寂しがったりはしません。時が近づいているので、春の風が吹いてくるのです。しかし、精誠を尽くしたのに、それを受け取らない人には秋風が吹くのです。それは、自分の時が近づいているのを知らせるためです。(四二―一七四)
一つの生命を伝道すれば、早くから先生が皆にそうしたように、夜を明かして、み言も語り、温かく対してあげなければなりません。食口たちが訪ねてきても、見て見ないふりをしていれば、誰がまた訪ねてくるでしょうか。草創期に、新しい食口を心から慕った心情を忘れてはいけません。(二一―三二一)
5 伝道するときに留意すべき点
伝道に出て、自分勝手に歩き回りながら、「原理のみ言、創造原理、堕落論はこうです。統一教会を信ずれば、良いです、良いです」と、言葉では良く言うというのです。そうしたのでは駄目なのです。それよりも、甲という人がいれば、その甲という人をおいて一度祈祷してみなさいというのです。その父母が愛する場以上の場に、私がどう出るのかということが問題なのです。これが戦いです。彼のお母さんやお父さん以上の心でもって、私がどうやって彼を占領して出るのか? これが問題なのです。
人は霊物なので、滅びる所には行かないようにし、繁栄する所にはついていこうとするのです。ゆえに、その人に利益になる場に、その何を目的にさせ、その人の父母が、その人を愛する以上に愛の動機を、私がどうやって感じさせて愛するかということが問題なのです。ここでいう愛とは、世間の愛ではないのです。(五〇―二七九)
伝道は、言葉を中心にするのではありません。自分たちの自覚に従うのです。自分の該当分野で、全体の目的にどうやって結び付けるかということが問題です。(二四―八一)
皆さんがこの間六〇年代に伝道したのは、自慢するために伝道しましたか、救うために伝道しましたか? じっと考えてみなさいというのです。(救うためです)。皆さんは、既成教会の信者たちを救うために伝道しましたか? 自慢するために伝道したでしょう。これが問題なのです。(三四―二七三)
ある人が結ばれている綱をじっと見ると、その人は、お父さんお母さんの愛を受けています。お母さんお父さんの愛を受けており、兄弟の愛を受けているというとき、その人に対しては、伝道が難しいのです。それを鑑定できなければなりません。そういった人には、何かいいことを提示してあげなければなりません。利益となり得る何かを提示しなければならないのです。しかし提示しただけでは駄目です。愛の感情を誘発して、自分と関係を結べる作用をしていかなければならないのです。
では、どのようにしなければならないのでしょうか。ここには、こうじのような愛が必要です。聖書にも、こうじという言葉を、比喩でいっていたでしょう。そのこうじのような愛は、神様の愛です。神様の愛を私がどう感じるのですか? 前に、「一つの生命をおいて祈祷してみなさい」と言いましたが、ある人について祈祷してみなさい。その人のために夜を明かしながら祈祷してみなさい。ここには、歳の多いおじさんやおばさんたちがいますが、息子、娘が死ぬ時、どれほど心が痛いかということは、自分が体験しないと分からないというのです。そうでしょう? (はい)。娘、息子を生んで、育てて、その息子、娘が死んだ体験のある人は、その心が分かるのです。その心以上に愛せば、誰でも引っ張られてくるのです。(五〇―二八〇)
自分を中心として、全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろう」という考えは、絶対するなというのです。その人に対して、権力があり、またどういう人であるかを望むなというのです。人は、優れていても、劣っていても、そのお母さんが生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。そうでしょう? 自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することは、あるはずがないのです。(三三―一六四)
伝道する時、お金のたくさんある人がいれば、その人が来ればいいのにと思うかもしれませんが、その人が来て何をしますか? それが統一教会のためになることですか? その人のためなのですか? 伝道した人が、お金がちょっとあるからといって、自分の生活を解決しなければならないと思っては、絶対いけません。生命を救うのに、物質的なことを考えては絶対いけないというのです。皆さんは、こういったことをみな選び分けていかなければなりません。
皆さんが、人を見て、「いい、悪い」と思ってはいけません。高い人になるためには、低い人をよく収拾しなければなりません。(三四―二五〇)
絶対、人を選ぶなというのです。こじきでも、どんな人でも、できがいい、悪いが問題ではありません。むしろ、できのいい人より劣った人のほうが、心情的にはいいというのです。真実なる一生に、この世間で対されてきた父母の情以上の心を、私を通じて受けられ感じられることが起こる時には、夜も寝れずに訪ねてくるのです。御飯を食べられず、朝早く訪ねてくるのです。そうか、そうでないか、やってみなさいということです。「私は実力がなくて伝道できない」そういうことは全部、話にならないというのです。話になりません。(一九六九・五・一二)
皆さんが、伝道するにあたって、人を選ぶなというのです。分かりますか? (はい)。人は、天性がそうでしょうが、冬に通り過ぎていくこじきを見て帰ってきても、御飯を食べられず、夜は寝られませんでした。そういう性格があります。お母さん、お父さんに、そのこじきを部屋に連れてきて、よく食べさせてあげて、送ろうと。そういう性質は天が愛する性質ではないのですか。
ですから、皆さんが伝道する際に、選んでするなというのです。分かりますか? (はい)。なぜあの人を、私に送ってくれたのか? 自分に来る時は、何か目的があって来なかっただろうか? その目的を一〇〇パーセント充足させてあげなければならないのです。それをなせなければ、あなたの事情を聞いてあげられなかったと、悔いの涙を流して、再び来れる機会でもつくってあげようと決心するのが、教役者の責任だということを、皆さんは知らなければなりません。(五六―三五)
6 伝道の難しさと、その克服
伝道は、出産することなのです。出産と同じなのです。私が暮らしてみると、一人を自分の息子以上に信じられる人にするためには、息子を生むより、三倍の努力が必要なのです。伝道しても、責任をもたなければならないのです。こうやって行った人が、こうやって来ようとすれば、衝撃的な感動を受けて、涙を流すとか、自分自身、憤りや悔しさを感じるとか、今まで、感じられなかった心情的、爆発事件が起こらなければならないのです。(六六―二一五)
皆さん、伝道しに行って、打たれた時や迫害を受けた時には、自分のことを考えるより、天のことを思いなさい。神様も共に嘆息しておられます。打ったその者たちの過ちを許すようにして、救ってあげなければなりません。そうすれば、サタンも神様を打てません。神様が対応する者を打ったとしても、直接、神様を打てません。受けた時は、神様と共に受けたと考えるのです。そこに生活方式があります。感謝すれば、サタン世界に条件となり、私を打った環境に引っかかります。イエス様も、そういう蕩減条件を立てました。(一五―一四五)
食口たちの中に、伝道に出て、疲れて力を落とす人がたくさんいるのを見ると、彼は誰のために出発したのか、出発が誰からで誰のための過程であり、その目的が誰を中心に結実しようということか、という問題を見るとき、彼は何の余地なく背信者なのです。(六〇―二四)
皆さんが、ある地域に行って伝道するとき、初めには束縛される時代があります。この束縛される時代を、打開しなければなりません。そうして、ある程度になれば、飽和時代が来ますが、大抵の人は、この飽和時代に滅びてしまいます。ですから、この飽和時代を中心として、新しい道を模索しなければなりません。そうしないと、飽和時代が、自分を審判してしまうようになるのです。(四二―一七四)
皆さんが、ある地域で伝道活動をすれば、最初に反対する人は、おじいさんのような人です。統一教会を信じて来る時、最初に、おじいさんたちが反対します。このおじいさんたちが、たばこのパイプを口にくわえながら、普通両班たちが歩くような姿で来て、「こいつら、どうして暴れ回るのだ!」と言って反対します。その次には、お父さんのような人たちが反対します。その次には、お兄さんのような人が反対します。そのように、三代から反対を受けなければなりません。反対を受けなければなりません。堕落の歴史を見れば、おじいさんはアダム型ですが、サタン型のアダム型です。お父さんはイエス様に反対したサタンです。そして、カインがいなければなりません。ですから、カインのおじいさん、カインのお父さん、カインのお兄さんを屈伏させなければならないのです。(二四―三四〇)
皆さんが伝道に行ってみても分かるでしょうが、反対する人がどんな人かというと、父母たちです。息子を、極めて愛したお母さん、お父さんが反対するのです。「アイゴー、うちの息子が統一教会に通うのは本当にいいことだ。こんな教会がどこにあるだろうか」という人が、どこにいますか? 皆さんが伝道に行くとき、そういう父兄がいましたか? ひどく反対し、怨讐になるのは、精誠込めて育てた、その父兄なのです。そのお母さん、お父さんたちは、間違いなく反対するようになっています。これが、原理なのです。それは、蕩減復帰のためなのです。何のことか分かりますか? これが延長すれば、三代まで行くのです。ですから、この蕩減が問題なのです。皆さんは、この原則をはっきり知らなければなりません。(三四―九一)
伝道しに出て、迫害を受け、反対を受け、鞭を受けることはよくありますが、死なないだけでも、感謝と思わなければなりません。み旨の道を最初に出発した時のことを思い返しなさい。死ぬ場で、悪口を言われ、悪口を言われる場で対面し、対面する場で語り、語る場で、喜びながら発展するのです。(四二―一七二)
部落を中心として伝道する時、反対する人がいるのは、よくあることです。反対する人がいれば、私がもっと積極的でなければなりません。サタンが私を攻撃しても、私は反対する人のため、精誠を尽くさなければなりません。相手が強く反対してくれば、その反対よりも強い熱情をもって、私側にいる人たちに与えなければならないのではないですか。そうしてこそ平均になるのです。サタン側を攻撃し、こちらのほうに精誠を尽くし、そうしてサタンが攻撃するよりもっと精誠を尽くして、その人のためになろうとする時に、「迫害する人よりいい」という言葉を聞いてこそ、発展するのです。そうなっているのです。皆さん、そのように戦ってみなさいというのです。迫害する人がいれば、その人よりも、私がもっと一生懸命しなければなりません。分かりますか?
サタン側にいる彼らを引っ張り出すために、サタンを壊して、占領しに来たので、私を攻撃するサタンの何かがあれば、彼よりもっと一生懸命に、彼の側を攻撃できなければなりません。そうしようとするなら、私がもっと根気がなければならず、私がもっと精誠を尽くさなければならず、私がもっと優れていなければなりません。そうでないと、勝利の結果をもってくることができないのです。それは、自然の道理です。(五六―五九)
皆さん、そのサタンの活動結果を知ることができるのは……。皆さんが伝道してみなさい。とても重要な人を伝道して、いついつの何時に会う約束をすると、その時間に必ず事故が起きるようなことが、よく見られるでしょう。そういう経験があるでしょう? (はい)。(笑い) ですから、サタンがいることを、私たち統一教会員はよく知っているというのです。それは、早朝でも夜でも、二十四時間活動していることを知っているのです。ですから「私は、二十四時間一秒でも、もっとする」という思想をいつでももてというのです。そうしてこそ、神様が協助できる条件になるのです。サタンより活動をもっとするという精神と信念をもたずしては、サタンに勝てないのです。清算できないのです。(七六―二四六)
皆さんが統一教会に入ってきて、ある人を伝道しようとする時、ある人と約束すれば、約束したその時間に、必ずその人に何か事が起きるというのです。それは、相対的です。悪が反対するのです。それを見るとき、どの場を中心にして判決を下すのかというと、神様と私だけが残った場で、判決を下すというのです。ですからサタンは、「一人で行かず、横の人を連れていけ」と言います。「一人で行くな」と言うのです。悪い人は滅びても、一人で滅ぼうとはしないというのです。必ず横の人を押して倒れます。統一教会に来て落ちる人も、一人で落ちていかないのです。横の人にこそこそ語りかけながら、一緒に落ちていくのです。これがサタンの根性です。善なる人は、人を批評しません。聖書に、「人を裁くな、批判するな」とあるのは、全部それについての防止策です。(四五―七二)
皆さんが外に出て伝道する時、「誰々が外に出て伝道すればうまくいくのに、私が行くと、なぜ伝道が駄目なのか。行けば行くほど、疲れて無駄な苦労ばかりする」と言う人がいます。(笑い) それは、なぜそうなのですか。苦労をたくさんするのは、蕩減をたくさんしなければならないからなのです。伝道に出ても、すぐには伝道されません。伝道に出た日から、自ら蕩減しなければなりません。
自ら蕩減しなければならない責任が、自分の前にあるにもかかわらず、「これは、大変なのでできません」と言って後退すれば、その坂を越えられず、ひっくり返れば、元に戻ってしまうのです。こうして最後には息も絶え絶えになって転んでしまい、包みを持って逃げていくというのです。(一五五―二九六)
7 既成教会伝道
皆さんが、どういう人を伝道対象者にするのかといえば、できればキリスト教を信じる若い青年たちを捕まえろというのです。伝道する責任者たちは、どこに行っても、教会に通う人の名簿をみな知っておいて、そこに行って、初めは牧師に会い、その次は長老に会い、上から会ってから青年指導責任者に会い、その次に青年会会長に会うのです。そうして、青年会会長をどうやって動かすのかということを考えなければなりません。
牧師たちや、長老が反対せず、「素晴らしい活動をしているなあ、青年たちに話してくれ!」と言えるように、牧師たちに会えば、あらゆる手段を尽くして説得し、その講堂に出ていって、全体の信者たちの前で話せる機会を探すため、努力しなければならないのです。そして既成教会に行って、いつでも話せる内容を、最低三題目は準備しておかなければならないのです。最初から、「主が雲に乗っては来ない」とか言う必要はないのです。それについての話を、順序どおり話さないと、あるいは理論的にもそうなるようにして話さないと、追い出されるようになるのです。
青年たちに対する時にも、「私の話だけ聞こうとせず、あなたが話したいことも、みな話してください」と言わなければならないのです。牧師たちに対しても、小さな者が行って「牧師様、私がみ言を伝えにきました」とは言わず、「私は幼く、牧師様はここの指導者なので、私に助けとなるみ言を語ってください」と言って、彼の言葉をまず聞かなければならないのです。そうすれば、気分よく話してくれるのです。そうして話を聞いてから、「こういう問題はどう考えますか」と、聞き入っていくのです。最初から反対するなというのです。まず、みな肯定しながら聞いて、あとで「それは論理的な矛盾があります。私はこう考えるのですが」と言いながら批判していくのです。
そうしてから、牧師に対して、印象に残る一題目を話すのです。「これが、私が知っている新しい真理ですが、一度聞いてみてください」と言いながら、小さな話を一つだけしておいて、「私は、今までのこうした未知の事実を解決する新しい運動をしているので、今回の復興会に一度参席してください」と、誘うのです。牧師に本を渡しながら、「私は一週間ここにいるので、読んでください」と言うのです。そうすれば全部読めなくても、自分が読みたい数題目を読めば、気になって、聞いてみようとするのです。(五四―三三六)
皆さんが、伝道しようとする時、きのう、おとといには、「牧師様、お元気でしたか?」と言いながら、引っ張られていた人が、統一教会の原理のみ言を聞いて、「この牧師は何も分からないんだなあ」と思いながら、既成教会に訪ねていって、「牧師様、堕落がどういうふうに起こったのか、知っていますか? それも分からないのに、牧師さんですか?」と言えば、それは人を殺すことですか、生かすことですか? (笑い) それが愛ですか? 全部人を捕まえて殺す役だけしているというのです。そうでなくても、憎くてたまらないのに、傲慢に下品に振る舞うので、どれほど憎いでしょうか。そう行動するので、憎しみを買うようになっているのです。(三四―二七一)
彼らが、私たちに近づいてくるのには、二つの理由があります。その一つは、私たちの教会が問題の教団として登場するので、調べてみるためです。他の一つは、私たちの比重がだんだん大きくなるようなので、そこに同参してみようとするためです。ですから私たちが、早く大きくならなければならないのです。私たちが大きくなれば、恐ろしく感じるでしょう。ところが、自分たちより優れていると考えれば、「来るな」と言っても来ます。自分たちの暮らしに利益を見るために、私たちを訪ねてくるでしょう。
できるだけ、一般の人より牧師たちや既成教会の信者たちを訪ねていって、伝道しなさい。悪口を言われながらも、牧師たちを訪ねていって、伝道しなければなりません。朝訪ねていって、夕方訪ねていって、たびたび訪ねていって、いろいろな話を人間的に授け受けすれば、初めは反対しても、あとになって私たちの教会について調べてみようとするだろうというのです。そういう時、再臨論をよく話してあげれば、こちらに来るようになっているのです。
それでも、しきりに反対すれば、「私が、あなたのほうの教壇に立って講義してみて、あなた方が、私の教壇に立って講義してみて、あなた方のほうが正しいのか、私のほうが正しいのか、一度調べてみよう」と言って、しきりに追い回さなければなりません。そうすれば、「来るな」とは言えないだろうというのです。昔のように反対はしないだろうから、一度ためしてみなさいというのです。
そうなれば、牧師たちには心配が生ずるでしょうし、その心配する牧師のもとに誰がくっついているでしょうか。そういう時は、さっと訪ねていって、「牧師さん、執事さん、あなた方の心配事は、私がみな知っている」と言うのです。誰が教えてくれたのかといえば、「ただみな知っているのだ」と言うのです。そうなれば、その人たちは、たびたび打たれるようになるのです。それが一番恐ろしい作戦です。
サタンは信じる人の後ろをついて回ります。ですから、サタンよりもっと一生懸命、夜も昼も伝道しなければなりません。(四二―一七三)
キリスト教徒たちを伝道しなさいというのです。伝道する時、迫害されること、すなわち私は彼らに心から対するが、彼らは私を異端として扱い、詐欺師として扱うとき、その時の激憤した心、それを忘れてはいけないのです。骨のない男になってはいけません。いつもそれを忘れず「私があの時、ああいうことをされたではないか?」。誰よりも天を思い、誰よりも人のために正義に立脚した時に、悲惨さとわびしさを受けたことを、一生において忘れられないのです。それが恵みなのです。
その恨を、民族と共に、世界と共に解かなければなりません。その恨の根を引っこ抜かなければなりません。それを知らなければなりません。手をつける時ではないので待つのであって、手をつける日には、きれいに清算します。その日が何年後に来るだろうか、どんどん近づいてくるのです。その日が近づいてくるということが分かる時……。その日が来るだろうというのです。(五六―五八)
私が今回何の話をしたかというと、今から統一教会に反対したなら、のどをつかんで……。私が、そういう命令をしました。宗教指導者が、そういう命令をしてはいけませんが、宗教指導者だといって、打たれて死ぬ時、足でも、一度伸ばしたり縮めたりして死なないと……。じっと死んでいくことができますか? (笑い) さあ、これだけ我慢したなら、神様もそれをちょっと大目に見てくださらないと。
今から、ネクタイをつかんで、何をするのですか? ただ、たたくのではありません。修練所に引っ張っていかなければなりません。会議室に引っ張っていって、「やあ、こいつ、お前は今まで、レバレンド・ムーンが悪いとばかり思っていただろう? 証拠を出してみろ」と言うのです。といって証拠を出せなければ、首をつかんで、引っ張って修練所に連れていって、「三十分だけ聞いてみろ、こいつ!」と言うのです。そうして、ビデオテープ三十分のものをちらっと見せてやり、「おい見ろ、レバレンド・ムーンがお前が言ったそれと同じ者か、素晴らしい者か?」と言えば、「素晴らしい人だ」と言うのです。そうすれば、「こいつ、それなら、原理を聞け!」と言うのです。(一二六―三一)
8 伝道後の指導方法
先生は、夜も昼もなかったのです。夜も昼もなかったというのです。ですから、皆さんも、夜が問題ではなく、昼が問題ではないのです。伝道に出て、皆さんの言葉をよく聞くようになると、さっとひもで縛ってつかんで引っ張ってこなければならないのです。
ですから、最初に「いい」といえば、いいのです。強制的にしてはいけません。ですから、伝道だけされれば、必ず一遍に、一言も言えないようにやっつけなければならないのです。その直行コースが何かというと、修練制度なのです。修練制度、一人が三人だけ伝道して、一つとなって、完全に関係を結ぶのです。「おなかがすいた」と言えば、御飯を食べさせてあげて……。全部助けてあげるのです。勉強もさせてあげ、全部してあげるのです。着せてあげて、ここで今、それをするのです。来れば、お金がなければお金を出してあげて、「さあ勉強しろ、勉強しろ」と言って、「お前が、感謝するだけ返せ」と言うのです。早く育てて、その間に堂々と戦える人をつくらなければなりません。(七六―三三四)
伝道された食口は、心情的な原動力をもつことが必要です。そうして、その人たちが、どんな環境でも、皆さんが指示するまま、ついてこれるようにしなければなりません。これは、まずみ言でそのようにしなければならないし、その次は行動で、そのようにしなければならないし、心情でそのようにしておけば、その人は落ちません。その次には、伝道をさせてみなさい。他の人を伝道できるくらいまで育て上げなければなりません。こうなれば皆さんは、伝道した人を一人も失わないのです。
一人を伝道して、その人が教会に通い始めるのに、そのままにしておいてはいけません。教会に来れば、ある一題目を与え、講義をさせてみなさい。夜が明けるまで、話もさせてみなさい。そのように育てていくのです。自分が直接伝道することによって、信仰的な人格を早く築くことができ、その次には、快感も感じるようになるのです。また、多くの人と話すことによって、自信をもてるようになります。より意欲的な事件や内容を、彼に与えてあげなさい。このように約三年間指導すれば、三年分以上成長するのです。自分が直接走ってみれば、自ら定着するのです。
子供を生んでみて初めて、真の意味で、父母に孝行できるようになるのと同じく、自ら実践してみることにより、私たちが行く道についての価値を感じることができ、神様が共にあられるということを体恤できるのです。そういう人は、絶対落ちません。ところで私たちは、今までこういう人をつくれなかったというのです。これが統一教会が発展できない要因なのです。これが問題だというのです。(二九―一九七)
私たちは、立体的な背景を活用して影響を与えることのできる作戦を駆使していきながら、戦いもしなければなりません。戦闘が起これば、艦砲射撃もしなければならず、小銃射撃もしなければならず、援護射撃もしなければならないのと同じように、伝道も全く同じです。私たちが立体的な霊界を背景にして、先祖が動員される霊的雰囲気の中で伝道していけば、どれほどおもしろいでしょうか。
一遍に十人ずつ伝道すると思わず、一人ずつ伝道する計画を立てなければなりません。そうして、伝道されたその人を通して、その人の友人まで引っ張ってくるようにするのです。その友人には、原理講義だけしてあげ、その次には伝道した友人が、引き受けて指導するのです。食口を育ててみてこそ、一人前になるのです。
このように、自分が成したことを分けて分担させ、その責任圏を拡大していけば、自然に食口が増えていきます。ところが空中にふわふわと浮かんでいるしゃぼん玉のように、私たち食口がそのままでいたなら、そこから何の葉っぱが出、根が生えてくるでしょうか。(四二―一六一)
四 伝道方法 事例
四 伝道方法 事例
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事例1 水をちょっともらいに来ました昔、統一教会員たちが伝道に出て、「どこから来たのか」と聞かれれば、「どこから来たかって、どこから来るんですか? 通り過ぎて、水をちょっと飲ませてもらいに来ました」。(笑い) このように言いました。それは、気分がいいですか、悪いですか? (悪いです)。これからは、胸を張って行こうというのです。(四四―二〇五)
事例2 あなたは本当に班長ですか?
町内に行くと、班長がいます。その班長を訪ねていって「あなたが、班長ですか?」と聞けば、「ええ、私が班長です」と言うでしょう。「自分が班長に間違いない」と言っても、本当に班長かと何回か聞くようになると、そこで逆にはたかれるようになるのです。「本当の班長は、この世間にいないような気がするが」と言えば、「なんで本当の班長がいないなどと言うのか、人をそんなふうに無視してもいいのか?」と言うでしょう。「では、私の言うことをよく聞いてください。本当の班長は、こうしなければならないのです。ところであなたが、そうしましたか?」と聞いてみてください。聞いてみると、初めて聞く言葉です。本当の班長なら、自分の息子、娘より町内をもっと大切に思う心で、早朝でも夜でも追いかけるようになれば、その町内で追い出されるようになるでしょうか、好かれるでしょうか? (好かれます)。
昼も夜もなく、狂ったように町内を歩き回りながら、「町内に不便な点はないか」と、声を張り上げたといって、法に引っかかりますか? 無事通過だというのです。引っかかる法はないというのです。この不義の因縁に従って、からまった世間の法に引っかかるでしょうか? 引っかからないというのです。自然解放圏をもてる、自然な天国の舞台は、そういった場から広がるのではないだろうか、というのです。これは、理論的に妥当なことです。
ですから、狂ったように人を愛せというのです。狂うのは、真昼にだけ狂うのではありません。早朝でも、いつでも、町内を愛したくて、愛する父母、兄弟、妻子よりも、もっと町内を愛する心をもって、泣きながらその町内を自分の願望舞台と考え、汗を流せというのです。汗を流すのも、有り難く、悪口を言われるのも有り難く、追い出されるのも有り難いのです。これが私の愛の度数を立体的に築くための一つの調和法です。そういう心をもって、一年が過ぎ、三年だけ過ぎるようになれば、その町内は、その人の前にひざまずくようになるのです。これが天地法度だというのです。(四四―二〇五)
事例3 霊的な触感を発展させなさい
ある人を、慕う心情をもっていれば、その人に対せないように、塀を築いておいてもその壁を越えたなら、事が起こります。霊界で、その間隔を埋めてくれます。私が興南刑務所にいる時にも、言葉で伝道しませんでした。言葉を使わずに伝道しました。霊界が動員され、協助してくれました。しないと、大変なことになるからです。
同じことなのです。ですから、皆さんが地方に行っても、このようにしなければなりません。地方は、どうですか? 先生は、一九六〇年代に、名の知られた所はみな行ってみました。私は今、過去にはだしで三千里江山(注:韓半島)を横断できなかったのが恨です。この村、あの村、全部……。今、そうしようとすれば、すべきことができないので仕方ないけれど……というのです。
部落の家々を回りながら、水を一杯もらいたい気分です。この部落に行けば、どんな家があるでしょうか。あの村に行けば、どんな人が住んでいるのでしょうか。気がかりではないですか? そうしない限り指導者にはなれないのです。
今日、私が道を歩いていって、どんな人に会うか考えてみて、最初に会う人はどんな人だろうか、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人か考え、「お父様、どんな人ですか? 私はこういう人に会いたいのですが、どんな人ですか?」と、祈祷しなければなりません。私が考え、私が祈祷した、その基準とぴったりと合うならば、気分がいいのです。こういう体験をすることにより、皆さんの霊的な触感が発達するのです。
道に出ると既に、「きょうはこんな人に会うだろう」という感じを覚えるのです。人の霊は無限に通じるのです。きょうは、こういう人に会うだろうと考えたが、実際に、そういう人に会うと、「アイゴー!」と言ってびっくりするのです。このように、自分の考えと、霊界で教えてくれた霊感が、実際の事実としてぴったり合う時が多いのです。このような体験を積んで上らなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。
そういう直感と予感で、体験を通して、人の感情を知ることができ、国家なら国家の運勢を予測することができるのです。こうした体験で、霊的触感を発展させなければならないのです。そうすれば今後、この国がどうなるかということも浮かぶようになるのです。私が歩いていきながらも、それを考えることができ、空虚な場や、厳粛な場にいたとしてもいいというのです。(三〇―一五〇)
事例4 サタン世界を釣る神様の餌
伝道は、網で魚を捕るのと同じなのです。網を広げておいて、入れ入れといって、魚が入ってきますか? 魚が入ってこれるように、ついて回りながら、追い込まなければならないのです。それと同じように、伝道も人を追い込まなければならないのです。
魚をたくさん捕まえる人は、どんな人でしょうか? たくさん努力する人です。いろいろ方法を使ってみて、どんなにしてでもしようと、たくさん努力して、その時間の比例と方法いかんによって、漁獲量に差が出るのです。道理は全く同じです。(九六―一三一)
教会長であれ、地域長であれ、勝共講義をするようになれば、昼は頂いて食べるようになるのです。そして、うまくいけば夕飯も飢えたりはしません。それだけでなく、講義を上手にして感動を与えられるようになれば、封筒までくれるというのです。その封筒がサタンの餌だということも分からず、ひらひらさせながら……。それは一時的なものなのです。しかし、神様の摂理において、神様が私を餌と見て、サタン世界を釣ろうとされるのが分からなかったというのです。皆さん、神様の餌になりますか、なりませんか? (なります)。皆さんを餌と見て、釣りをしようというのが、神様の伝道方法です。そうでしょう? (はい)。皆さんは、餌にならなければならないのです。餌になり、食べられてこそ、サタンをつかむでしょう? そうでしょう?
悪が、善をのみ込んで、残る法がありません。のみ込まれるようになれば、むしろその善の種が入って、その体を肥やしとして、育つというのです。
私も大きくなり、それ自体も新しい姿で復活するのです。そうでしょう? 父母が子供を育てようとするならば、お母さんが乳を飲ませなければならないでしょう? 自分のすべての良いものを与えてこそ、それを与えてこそ、子供も生き、お母さんも生きるのです。二人、みな生かされるというのです。お母さんが子供に乳を飲ませないと、大きな病(注:気病みから生じる病)にかかるのです。このように、神様がサタン世界に対して釣りをしますが、餌の使命をするのが皆さんです。
餌の役割をしようとすれば、どうしなければならないでしょうか? 関心をもつようにしなければならないのです。そうするためには、本質が良くなければなりません。味だけ見て、「えいっ!」と言ってしまってはいけないのです。味を見て、いいようなので来たけれど、教会長の味を見て、「えいっ!」としてはいけないのです。そうすれば、神経を遣って来た人たちが、みな出ていってしまうのです。何の罪もない人をつかんで食べたということになるのです。死んだということなのです。来てから何日もたたずにさっさと去っていくでしょう。次に訪ねていけば、会わないようにと先に逃げていってしまうのです。(四七―三三七)
事例5 決めた家以外は行くな
もし皆さんが、孤児として育ったなら、孤児でしかないのです。孤児。未亡人の息子は何と言いますか? 何と言いますか? 父がいなくて育った人を何といいますか? (親のない子供)。「父なし子、母なし子」と言うのでしょう? 母なし子として育った者は、母なし子でしかないのです。ですから兄弟が必要なのです。必ず必要なのです。皆さんは、教会内の大人たちにも侍って暮らし、そうしなければならないのです。分かりますか? (はい)。
今からこのように伝道しなさい。今から伝道する時は……。そうすれば今や皆さんは、そういう神様を好きになり、人を好きになるそういう姿勢をもって、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くす姿勢をもたなければならないのです。その次には、伝道をどうするのですか? 軽々しくせず、重点的にしなさいというのです。今、全世界的に指示したのです。ニューヨークでは、一人が百二十世帯の責任をもったのです。全部私が記録しました。百二十世帯をみな配置して、一年十二カ月その家以外に行かず、時間さえあれば、行ってノックして訪ねていきなさい。そうすれば、十回にもなり二十回にもなり三十回にもなり五十回にもなるのです。そういうものではないですか?
その度数の比例によって、変わりない自分の態度によって、その百二十世帯は影響を受けるようになるのです。これが、今まで検討した結果です。
二十一カ都市伝道過程で、全部実験した結果だというのです。たくさん接触して、心から誠実に接触するその比率が、伝道数の比率に該当するということは間違いない事実なので、全世界に一元化しなければならないのです。英国で、百二十カ国の宣教師たちが集まりましたが、これを指示したのです。
それで、宣教師自身も伝道区域が決められないならば、今からは三十軒なら三十軒を選択して、決めた家以外には行ってはいけません。道端で他の人に会い、その人が三十分間くらいみ言を聞いて「いい」と言っても、流れていってしまえばそれで終わりますが、家を決めて、定着した場を探していくようになれば、三十分語ったなら、それはそのまま残っていくのです。十回会ったなら、十回加えられていくのです。そうでしょう?
街頭伝道時代を過ぎて、重点伝道時代、多方面伝道時代を過ぎ、重点伝道時代に、今集約させる時だというのです。これによって、今は私たちの数が必要なので、不可避的にこういう活動をしなければならないのです。これが先生の指示なのです。一年に十二カ月精誠を尽くせば、百二十軒の中で、十人でも歓迎するようになれば、十人伝道は問題ないのです。そうでしょう? 一軒の一人のおばさんが信じるようになれば、その家で、そのおばさんだけ引き抜いてこないで、その家に入っていけというのです。入っていって、そのおばさんの主人と、息子、娘を集めて、講義しなさいというのです。分かりますか? ですから、「一人が食口になったなら、その一人が私たちの食口だと考えず、その拠点を一家庭の食口として、認定できる基盤をつくれ!」このように指示したのです。
ですから、出張講義をしなさい。自分の主人を教会まで連れてくるのはとても大変なことなのです。一度行っただけでは、絶対駄目なのです。十回、二十回と行って、その婦人が「アイゴー、じゃあ聞こう」と言って、それほど苦心して話しても駄目だった場合、その次に話そうとすれば、何倍もの苦労をしなければならないのです。その心理的作用がそうなのです。
こういうことを見るとき、そういう時間の消耗、それ自体内に消耗せず、そのおばさんの家に行って、出張講義をしてあげなさいというのです。そうすれば、その御主人も、自分の奥さんとは違うので否定はできず、いいこと、聞いたことのない話を聞くので、関心をもつようになり、次第に……。その奥さんも笑みを投げかけるようになるのです。
そうして、統一教会に入ってきて、前より変わっていくなら、そこでは必ずだんなさんが感動して、比例的に感動するので、早い時期に、その家庭を中心に、主人が反対しない限り、一人のお母さんだけきちんと立っている限り、娘、息子の伝道は公式的になされるのです。分かりますか? (はい)。そうして姻戚のはとこがいるならば、何かの祝い事の日とか、還暦のお祝いとか、誕生日に、「みな集めて講義できる時間をつくろう」と言うのです。そうでなければ「いついつの何時に、姻戚のはとこまで全部集めて、食卓でも整えて、招待してください」と言って、訪問したお客さんになって話をするのです。行って、誰が紹介するのかというと、そのおばさんが「ああ、どこどこの教会の責任者ですが、一度聞いてみたくないか」と言いながら、「自分は食口だ」とは言わず、「私が聞いてみるととてもおもしろかったし、私が聞きたい内容がもう少しあるので、もう少し話してくれたらいいなあ。あなた方も一度聞いてみなさい」と言って黒板を持ってくれば、講義室になるのです。こういう活動をしなければなりません。
ですから因縁をもった人と一緒に、そこに入っていって、横的に四方を連結させる、伝道活動拡大を指示してきたのです。家庭を重点とした講義体制で、私たちの教会拡張運動を強化しなければならないというのが、今回先生が世界的に特別指示した内容です。分かりますか? (はい)。皆さんも帰ってそうしなさい。(七〇―一八三)
事例6 集中的な伝道をしなさい
私たちが活動するとき、時間があれば、小便をするのも活動地域に行ってしなさいというのです。休むのもそこに行って休めというのです。他の所で休むなというのです。休む日があれば、そこにけやきの木があれば、その町内のけやきの下で、昼寝をしなさいというのです。犬を吠えさせても、その町内に行って吠えさせなさいというのです。すべてのこと、弁当を食べるなら、そこに行って食べなさいというのです。歌を歌いたければ、そこに行って歌えというのです。とにかくそこに行って主力を成せというのです。
なぜそういった作戦をするのですか。先生が、今まで二十一カ都市、三十二カ都市で、ずっと作戦を立てながら、みなデータを出したのです。「あなた方は、どのようにして私たち統一教会の食口たちにつながったのか? マスコミを通してか?」と言って、新聞、ラジオ、テレビとみな分離して、○×式に全部調査するのです。その次に、自分の親戚が来ているので、親戚が勧めたのか。そうでなければ、統一教会の信者たちに街頭で出会って精誠を尽くされて勧められたのか、何回会って来たのかということを、統計をずっと出してみるのです。集会に参席する人の比率は、二回、三回、回数が多ければ多いほどそのパーセンテイジは上昇するのです。分かりますか? 何のことか。(はい)。
道端で一度会っただけでは、いくら精誠を尽くして会ったといっても、流れていってしまうのです。しかし、それと同じ効果を得たいならば、またそれほど努力しなければならないが、一度会ったその人を家に訪ねていって、通り過ぎる人に精誠を尽くすほどに精誠を尽くせば、それは逃げてはいかないのです。その次の日にまた行って精誠を尽くせば、空の器に水を入れるように、相手の心を満たすことができるようになるのです。
ですから二度、三度、精誠を尽くすようになると、その態度や純粋性や、今現在、米国で必要とする青年らしい青年であることを考えるとき、誰でも感動を受けるので、その若い人が、そのように切実に要求することを聞いてあげざるを得ないというのです。なぜですか? 自分の息子のようでもあり、娘のようでもあるからです。自分の息子、娘はヒッピーになっていて、自分の息子、娘は浮ついて回るような人間になっているのに、天地において、この人は、こんなに純潔でいられるのでしょうか? 「もしこういう人と、私が親しくなることによって、自分の息子、娘までも教化させることができる一つの道があるなら」と考えるようになれば、全部同意するようになるのです。それは、必ず関心をもってこの若者の誘いに乗るのが普通です。これは統計による決定的な事実なのです。分かりますか?
ですから、散発的な伝道を止揚して、集中的な伝道をすると、決定的です。ですから、どれほど人に多く会うか。これを確定して、科学的なデータを使ってみれば、間違いない事実として現れます。
ですから、毎日三時間以上は、現地に行って、消耗しなければなりません。三時間の間何をするかというと、行ってベルを押したなら、「私、また来ました。おばあさんいますか?」と言いながら、別に話はするなというのです。
「なぜ、こんなに毎日のように来るのか?」と言えば、「おばあさんが、私のおばあさんのようで会いたくて来たのです」この一言でいいのです。こうして、そういう因縁を結ぶようにして、講義をするときは、多くの講義をするなというのです。五分講義しなさい。少したてば、十五分。十五分以上はするなというのです。そうして毎日行って、こういうふうにして因縁を結ぶのです。
その次には、いい人はすぐ……。一度回り二度回るようになれば、大概ある人、どんな家が良く、どんな家が悪質なのか、みな分かるのです。ある家は既成教会の側で、といいながら、ABC……グループに分けておくのです。ですから、反対するような所には行かず、私たちを歓迎する家に行くのです。家に行って、皆いれば、「おばさん、私、来ました」と言って、炊事場に行って掃除もしてあげ、御飯も作ってあげ、こんなことをしなさいというのです。それは、人の家ではないのです。こうして、自動的に回しておく、こういう作戦をしなさいというのです。今は、このように展開していくのです。(七二―五一)
事例7 子供たちを通して伝道する方法
私は清平で、魚捕りもたくさんし、洲の中で、かに捕りもたくさんしましたが、大したことはありません。駆り立てるのですね。駆り立てなければなりません。駆り立てるのですね? (はい)。駆り立ててみたことがありますか? 昔は、網が小さく門が小さくて、うさぎの子が飛び越えていったので、その門に入っていかなかったので、伝道されなかったというのです。今は門も大きく、網も大きいのに駄目だというのは、追いやれないから駄目だということなのです。そうでしょう。(はい)。さあ、追いやる自信がありますか? (はい)。自信がありますか、何で追いやるのですか? 何でですか? 考えで追いやりますか? 考えで追い、こぶしで追い、目で追い、鼻で追い、足で追い、そのように追いなさい。
皆さんは、伝道しようとすれば、子供たちの童話を研究しなさい。それが一番近い道です。町内の子供たちが三人集まれば、おもしろい童話の話をするのです。おもしろい昔話をしてあげるのです。こうしておいて、御飯だけ食べれば「お母さん、どこどこに行ってくる」と言って教会に集まってくるのです。三十人くらい、お母さんが悪口を言っても泣いてでも来るようにしておけというのです。その次には、間違いなく、お母さん、お父さんがついてくるのです。分かりますか? (はい)。教会が遠ければ遠いほど、もっといいというのです。そうすれば、町内のたんぼ道を行って、落ちるのではないかと、ついてくるのです。それはそうだというのです。
そのようについてきて「ここの教会の先生が、どんな人か分からないけれど、私たちの子供が、お父さんよりも好きになり、お母さんよりも好きになって……」と言えば、「ああそうですか、一度いらしてください」と言って招待し、両親を座らせておいて、子供を褒めてあげるのです。「あなたの子はどうだ」と言い、「見かけはこうだが、お父さん、お母さんよりいい顔をしている」と言うのです。「まず、顔つきもいいし、性格的にもしっかりしている」と言いながら、一通り褒めれば喜ぶのです。褒められて嫌がる人はいないでしょう? 皆さんもそうでしょう。明らかにそうでないことを知りながらも、褒めてあげれば、気分がいいのです。そうでしょう。そうではないですか? 息子を褒めてあげればみんな喜ぶのです。こうしておいて、その子の性格を全部分析しておき、「子供はこう教育し、こう教育し、こう教育しなければならないと思う」と言いながら、「ゆえに、こういう話もし、お母さん、お父さんも今後こうしてあげなければならないだろうと思う」と、「今まで、そうしてきましたか」と聞くのです。そうすれば顔が赤くなるのです。その次には、「なぜできなかったのですか、なぜ今までできなかったのですか?」と言うのです。その時は、くずした話し方で話してもいいのです。「姿が、私の姉さんのようだ」と言いながら、「私が子供のころ、私の姉さんに、いたずらもし、意地の悪いこともよくしたが、奥さんは、私の姉さんのようだ」、こう言ってから、話し言葉で、「これじゃ駄目だよ」と言うのです。そうすると、笑いがこぼれるのです。そう親しむのです。それでも嫌ではないのです。褒めたことより悪口を言ったほうが、何分の一にしかならないので、褒めた度数が、埋め合わせられるのです。そう言いながら、「こういう面でこう指導すれば、この子が、将来この町内を指導できるだけではなく、この国に必要な素晴らしい[徳望之子]になりますよ」と言えば、「これからは、そうでしょう」と言うのです。その時、「では、私があなたの家を監督する」と言えば、「ハッハッハッ」と言うのです。
「監督する」と言ったので、その次には、訪ねていくのです。それが伝道です。訪ねていって、部屋に入っていき、「御主人さんを紹介してください」と言って、主人を座らせ、奥さんを引っ張ってきて……。伝道はそのようにするのです。(七三―一三〇)
事例8 考えが行き詰まっては伝道はできない
考えが明確になってこそ、行動が起こるのであって、考えが行き詰まっては、伝道できません。なぜできないのですか? 例えば町内の犬がワンワン鳴けば、わざわざ行って「この犬がこうだから、この主人も悪いんだ」と言うのです。そうすれば、主人が出てくるでしょう。そういう時には、恥ずかしそうに「アイゴー、失礼しました。あなたのような方の犬の悪口を言って。犬はそうですが、御主人は百倍も紳士ですねえ」(笑い) と言えば、悪口を言おうと近づいてきても、笑いがこぼれて、友人になるのです。
また、時には、庭に牛がつながれていたら、その牛に乗って、町内に入っていくのです。(笑い) それが伝道なのです。私が綱をほどいたのを誰も見ませんでした。ですからさっと乗って入っていきながら、「ああ、この牛は、誰の牛ですか?」と言うのです。町内で、「ある田畑に行って、人の穀物を食べるので、私がこの町内の牛だと思って、乗ってきました。誰の牛ですか?」と言うのです。そうすれば主人が出てきて「ありがとう」と言うのです。こうして、夕方になれば御飯をもらって、伝道もするのです。
そういう時に言うことは、うそも、うそではないのです。作戦上、便宜上、方法上そうしてみるのです。人間の世の中を調査して記録を残すため、一度してみるのです。そういったとして、神様が「罪だ」と言いますか? そうして主人に、いい言葉をかけて、利益になるようにすれば……。利益を与えるのは、うそを言っても絶対罪にはなりません。損害を与えれば、罪なのです。
さあ、それでも伝道できませんか? これは網をたくさん編んだわけですが、なぜ伝道できないでいるのかというのです。町内に若者たちがいれば、「さあ来い」と言って、鉄棒もし、バーベルもするのです。早朝ごとに、「エイ、ヤー、エイヤー」(行動で示されながら)一人でしていても、若者たちは運動が好きなので、集まってきます。山から、聖地のような所から、五坪くらいでも土をならせば……。それをするのに、お金はいくらもかからないでしょう。そうして、何人かになれば、「エイ、ヤー、エイヤー」と言って、町内を回りながら、鉦を打てば、集まってくるのです。そうして教会に連れてきても運動するのです。伝道はそのようにするのです。教会でだけ伝道するのですか? まず、お互い親しまなければなりません。人同士が、親しまないといけないのです。みな、親しくないといけないのです。そうでしょう? 海では、海を中心としてもできるのであり、山に行けば、山を中心としてもできるのです。
ところで、なぜできないかというのです。ただ、うずくまって、目をぱちくりさせて、空想ばかりしていて、伝道ができるでしょうか? 二十四時間休まず、歩き回ってみなさい。虎も夕方四十里回りながら活動して、餌を探すのですが、神様のみ旨を成すという人が、座りながら来るのを待っているのですか? サタンの子たちがそのままほうっておくでしょうか。とんでもないのです。初めて会った人と、どのように十年、一生の間会ってきた友人よりも近い友人になるのか、それを研究しなければなりません。先生は、伝道をそれほどすてきにするのです。ですから伝道活動もそうなのです。歩いていく人を倒しておいて、起こしてあげながら、あいさつをし、そうするのは、若い時代に通じることなのです。そうなのです。(七五―一三二)
事例9 人間と人間が親しくなければならない
さあ今からは、一九七五年、きょうは何日ですか? (二日です)。おしい、黄金のような一日が過ぎてしまったのです。ですから、今から帰れば、町内の人たちが、夜も寝れないように問題を起こしておけということです。そうしないと、その木ででも、眠りに落ちている町内に、二十四時間、一年間でも火をつける計画でも立てなさいというのです。腰かけて、芋でもさつまいもでも焼いて、行ったり来たりする人に「一つずつ食べなさい」とあげれば……。さつまいもを買うのに、お金はいくらもかからないだろうというのです。さつまいも一かますに、いくらぐらいかかりますか。いくらか買って包んでおいて、焼いて、「さあ、お食べなさい」と言うのです。それも伝道なのです。焚き火をして、芋を焼くのは、どれほど楽しいでしょうか。「アイゴー、熱い」と言えば、「熱いことは、熱いけれど、今薬用酒を飲むのだと思ってみてください」と言うのです。
伝道方法はいくらでもあります。それをしてみなさい。それはいくらかかるでしょうか。さつまいも、安いでしょう。(はい)。ひと月に一かますずつ焼いて食べさせてみなさい。(笑い) その町内はどうなるでしょうか? 「アイゴー、うちの町内が良くなるように、ああいう聖人が来たんだなあ」と思うのです。そうすれば、夕飯を食べるのに、その町内の人たちにさつまいもを焼いてあげたので、私が代わりに夕飯を食べることができるのです。夕飯の時間になれば、さつまいもを焼いてあげた人の家に行って、御飯も食べられるのです。冬になれば、焚き火にあたってから、すぐ教会に行くと部屋が寒いので、「お宅にちょっと泊めてください」と言うのです。さつまいも一つあげても、いくらでも行って寝ることもできるではないですか。行って泊まれば、朝御飯をよく食べ、おばさん、おじさんを集めて話をし、伝道方法は、いくらでもあるのです。
また、早朝ある家の門の前に行って、牛を土手に行って食べさせる時間が過ぎたのに主人が出てこず、牛が「モーモー」鳴きながら、御飯の時間が過ぎたというなら、さっと引っ張っていって、食べさせてあげるのです。そうすれば主人が出てこないはずがあるでしょうか? 出てくるのです。そうすれば、「小屋で一人主人を待つ牛がかわいそうで、私が今、食べさせてあげています」と言えば、主人が友人になるのです。さあ、なぜ伝道ができないかというのです。伝道がなぜできないのですか。
「商いの日」には、ただぼーっとしているなということです。商いの日になれば、伝道しようとする人と約束がなければ、商売している所に行けというのです。市場が遠ければ遠いほどいいのです。二里なら二里……。おばさんが行けば、「おばさんについていく」と言いながらついていき、その次には、話の中で、いい話をしてあげるのです。いいならただついていきながら……。それが伝道です。町内で、この人はと思う人なら、昼食の時、間違いなく会おうと約束するのです。そうして会って昼食をおごってあげるのです。うどんがいくらですか? 何百ウォンですか? それが、生活費に支障があるなら、うどん一杯おごってあげて、夕食は食べるなということです。もったいなくても……。それが福になるのです。人のために昼食を食べさせてあげ、生活費に支障があって夕食を一食食べなかったなら、神様が福を下さるのです。間違いなく福を下さるようになっています。善なる霊人たちが、必ずその人に感動するのです。昼食を食べ、その次に一回りして、夕方になれば、「涼しくて気持ちがいいので、見学を一度しよう」と言うのです。お金がなくても田舎の劇場に行けばいくらくらいか、このごろは安いでしょう。
そうしておけば、その次には、その家に行かなくても、「来い」と言うのです。「来い」と言えば、行ってその時には、他の話をするのではないのです。その町内に必要な話をし、その人に必要な話をするのです。統一教会を信じろという話はあとでしてもいいのです。原理講義をみんなしておいて、最後に「これが、統一教会のみ言だ」と結論を下せばいいのです。統一教会の看板をつける必要もないのです。話し終わってみると、「おもしろい話を聞いた」と言うのです。「ああ、素晴らしい話をするなあ、これはどこで習いましたか」と言うのです。そうすれば、その時「あなたも私よりもっと素晴らしくなれる、何か不思議に思う時、統一教会に来れば、こういう内容が多いので、全部教えを受けることができる」と言うのです。そうすれば、自然と動くのです。人間対人間が親しくなければならないのです。分かりますか、何のことか。(はい)。どんな方法を使っても行くことができるのです。なぜ駄目だというのですか。(七五―一三三)
事例10 問題を起こせ
私が、今回ヨーロッパに行って語ったことは、「問題を起こせ、私が刑務所に行ってヨーロッパ全体に、うわさを起こしてもいい。その内容を見て、ああ、そういう方法もあるなあという人が、半数を占めればいい。うわさを立てろ、うわさを」と言いました。先生もうわさをよく立てたでしょう? 「統一教会は、裸で踊って、踊りを踊る、異端だ……」。アメリカでもそうなのです。ですから私が「反対派がいなければ駄目だ」と言ったのです。反対派がいないとおもしろくないのです。反対派がいてこそおもしろいでしょう? お酒を飲んでも、見物する人がいてこそ、おいしいのです。そうでしょう? 一人で高級酒を飲んでも、見物する人がいないと……。こちらで「ぐっ」と飲めば、あちらでも「ぐっ」と言ってこそ、酒を飲むにも気分がいいでしょう?
同じなのです。仕事をするにもそうなのです。刺激を受けようとすれば、反対派がいないといけないのです。私は、既成教会が反対しなければ、統一教会は大変なことになると考えるのです。反対するので、がむしゃらに体面ばかりでなく、威信を立て、負けまいとするのであって、反対がなくなれば、みんなゆでた大根のように、かささぎが来て、いつでもつついて食べてしまえるというのです。
皆さん、考えてみてください。皆さんをじっと見てみてください。皆さんに汚れた心がありますか。世間に出て、人のように戦い、堂々と大きいレンガの家を建て、がむしゃらに暮らす自信がありますか? ありますか、ありませんか? ないでしょうというのです。見ると、たくみにおぼれて……。そういう者たちではないのですか。その代わり町内で、「あの人は良心的だ、間違いない」ということは、公認されるのです。そのようにうわさを立てれば、皆さんが悪いことをしたといっても、信じられないのです。
今、アメリカでもそうなのです。私たちの統一教会の人たちに会ってみると、とてもいい人たちなのです。ですから、悪いうわさが起きても、それを信じないのです。ある時は、何がどうしてどうしてと言い、興奮して来て、「この人たちに神様が天罰を与えたらいい」と言うのです。神様が天罰をなぜ与えるのですか。彼らが、そうでないといけないのに、罰をなぜ与えるのですか。絶対罰を与えないのです。罰を与える者たちは、(愚かな)人なのです。
宗教というのは、反対を受ける時に発展するのです。今まで宗教が、反対を受ける時は、必ず発展したのです。そうでしょう? (はい)。しかし反対がない時には、滅びるのです。分かりますか? そうであるならば、今から大韓民国が統一教会を支持し、反対しなければ、統一教会が滅びるのでしょうか? その時にはどうしますか? その次には、私が攻撃するのです。その時には、私が攻撃するのです。そうすれば滅びないというのです。今までのように、このまま続けたなら、そのように行けば滅びるけれども、私が休む間もなく二十四時間攻撃し、前進すれば……。
アメリカでもそうです。今まで、アメリカで学者たちが、反対がないので「アイゴー、死にそうだ」と言っているのです。ですから、その時には攻撃しなければならないのです。攻撃作戦ができないと、滅びるのです。攻撃を受ける時には、しっかり基盤をつくり、攻撃しなければならない時には、無慈悲にしなければならないのです。ですから、攻撃したのです。「言論界と闘争しろ。新聞社に行って戦え。行って、下の部下のような者に会うのでなく、編集局長、長に会え。会ってくれなければ、行って待っていろ。便所についていって待て」と言うのです。
彼は、シカゴ市長を二十五年した有名な人なのです。会ってくれないのです。その人は、民主党の資金を調達して、監獄に入ったのです。昨年「話を聞くか、聞かないか」と言って特攻隊を送ったのです。便所で見張っていたのです。そうでないと、そこに行って正門で待ち、家で待ち、どこに行っても全部……。秘書と組んだのです。秘書に「市長はどこに行きますか」と聞くと、「どこどこに行く」と言うので、その場を見張り……。さあ、ですから、会わないわけにいかないのです。その次には、激しく攻撃するのです。何で会ってくれなかったのですかと。民主主義世界は良いのです。人の人格を無視し、空の器を与え……。言いたいことをみんな言ったのです。少しずつ。そうして親しくなるのです。そうして前回行ってみると、祝電を送り感謝状を送ってきたりもしました。そういうことが起こるのです。そうするようにするのです。なぜできないかというのです。なぜですか。(七五―一三五)
事例11 伝道する方法はいくらでもある
伝道する方法はいくらでもあるのです。原理講義だけをしないといけないのですか? ラッパを吹くこともでき、道端でけんかもできるのです。けんかが伝道なのです。そうして人を集めて、その人が間違ったことを……。私が間違っていますか、正しいですか? 正義に立脚した証拠を提示しておいて、人は正義のために暮らさないといけないのです。この国の青年をかけて、この国の指導者たちをかけて、どれだけでも話ができないかというのです。なぜただ座っていながら「人がちょっと原理のみ言を聞きに来てくれたらいいのに」。これは何ですか。そうしては来ないのです。
そういう時には釣りにも出かけ、ハドソン川のような所に行って鯉のようなものを釣り、こういうことをしながら誰かが見物するようになれば、「プレゼントだ、持っていけ」と言って、伝道もできるのです。こういうほうが、むしろいいというのです。特に女性なら、大きな魚を釣れば男性たちを呼んで「アイゴー! 私は捕まえ方を知らないから、これ、ちょっと手伝ってください」と言えば、全部来るのです。そうすれば、「よし、おれも一度釣ってみるか」と言うようになり、そうすれば、すぐ友人になるのです。そうすれば、夕方私が、「うちに招待するから来い!」と言えば、「来るな」と言っても来るのです。
女の子たちがオートバイに乗ります。ブーン。君たち、オートバイに乗れるだろう、オートバイ? (笑い) 気分がとてもいいではないですか。どれほど気分がいいか、やってみなさい。そのオートバイ商店に行けば、若者が多いけれど、そこに座って、「あなた、オートバイによく乗れますか?」「何マイル走れるのか?」と言えば、偉ぶって、「私は百マイル、百五十マイル走れますよ」、「一度乗ってみよう!」といくらでも言えるのです。それが伝道です。
伝道するために、ある食堂に行けば、初めからカルビのようなものを買っておいて、お客が来れば……。それが伝道です。どれほど笑えるでしょうか、器をカンカンならしながら……。(笑い) その次に食べてからは、さっと高い所に上がっていって、こうすればみな注目するでしょうか、注目しないでしょうか。「お前たちは、この狭い空間で、私の作戦に完全に引っかかった」と考え、「ホホホ」と笑うのです。(笑い) 「ここに参席した人は、私に注目しない人は一人もいなくなる」と思って、一度にそうすれば、どれほど注目されるでしょうか。一度にできるのです。そうですか、そうでないですか。成功できますか、できませんか? (成功します)。そうすれば、聴衆が「ハッハッハッ」と言えば、その時はおとなしく……。(笑い)
さあ、これだけで終われば、おもしろくないでしょう? つまらないでしょう? 私がもう一度話しましょうか? 「はい、はい」こういうふうになっているのです。そうすれば、人間の問題を聞いてあげ、関心をもてる内容をつくって、そこからいくらでも原理講義もでき、説教もできるのではないかというのです。そんなとき、太った人がいれば、私がある時どこどこに行ったが、こういうふうに太った人は、どれほど……。そう歩き回るのが普通だといいながら、でもあなたはやせているほうです。そのように冗談も言いながら、いくらでも言えるのです。伝道はそうするのです。
また、学校の校長先生のような方に会いに朝早く、校長室に訪ねていって、「ああ先生! 私は先生にいついつ会った者ですが、私は先生の弟子かもしれません」と言い、そうでなくても、そう話すのです。私は先生に教えを受けた弟子かもしれないと、四日だけ訪ねていき、そう言えば、自動的に親しくなって、その事務室に自然に入っていけるのです。なぜできないかというのです。作戦はいくらでもあるというのです。作戦がないと伝道ができないのであって、なぜできないかというのです。(七七―二五)
事例12 三食の前に三人伝道
こういう作戦も立てられます。
さあ、御飯を三食食べる時です。朝食を食べるまでに一人に話をし、昼食を食べるまでに一人に話をし、夕食を食べるまでに一人に話をして、一日三人に間違いなく話せというのです。そうしなければ、食事をしてはいけません。こういう運動もしなければならないのです。そう決定すればどうでしょうか。御飯を食べるのは、何のために食べるのですか、体に肉をつけるために食べるのですか、み旨のために食べるのですか?
み旨のための時間を、朝便所に行く時間よりもたくさん取らないといけないでしょう? 昼食を食べる時間よりもたくさん取らないといけないでしょう? そうですか、そうでないですか? そういう運動をしなければならないのです。そうなれば、どうなるでしょうか? 食前に門前に行って。御飯、朝御飯! アイゴー……。朝、食べる前に、山でも見に行って、誰かに会って、食事の時間まで話をしないといけないというのです。そうすれば、健康にもいいし、みないいでしょう? そうせずには、御飯は食べるなというのです。深刻なことです。朝も昼もしなかったなら、夕食の時食べて、二食は食べずにいろというのです。そうすれば、しないでしょうか、するようになるでしょうか。こういう運動をしなければならないのです。
そうすれば、神様がそれをよくやったというでしょうか、駄目だというでしょうか。ゆえに、統一教会の信者たちは朝は、当然食べられないだろうというのです。伝道できないと食べられないでしょう? 伝道しに行って、もしおなかがすくなら、車を止めて、人がいる所に行って話をすれば、車に乗っていって昼食でも食べられるようになっているのです。こういう訓練をしないといけないのです。車に乗っていっても、車を止めておいて、人に会って、話を十分でもして、昼食を食べる準備をしないといけません。こういうこともしないといけないのです。こういったことをしてみますか、しないでおきますか? (しましょう)。これを皆さんからしなさいというのです。まず責任者からしなさい。この責任者がそうしないと、偽者なのです。
ゆえに、早朝に起き、散歩に行きなさい。朝行って食事をする前に、話をしに、散歩に行きなさい。食事は自分と同じ場に座る人がいる場合があるでしょう? この四位基台で、天的条件を立てて食べようというのです。朝食をしようとみな座っていればです。食事をしなければ連れて出て、人に会って帰ってくる順番に食べるように訓練するのです。そうして食事をしなさい。どれほど気分がいいでしょうか? 大したものでなくても消化がよくされるのです。おなかが痛かったり、そういうことはないのです。そうしたことをこれからするのです。(はい)。何年からは、そうしないと責任量を完遂できないのです。今回帰っていけば、帰ったその日から、夕方帰れば、その夕方から始めるのです。
皆さん、住所氏名を書いて、統一教会に関することを全部書いて、職業紹介所だとか、相談所だとか、ある個人相談ができるとか、何かを書いておいて、来る人ごとに一枚ずつ分けてあげなさい。電話番号を書き、それを全部持って街に出て、会う人に対し、「あなたの顔を見ると、何か心配事があるように見えますが、これを見て私を一度訪ねてください。相談してみましょう」といくらでも話せるのです。おかしな話が好きな人がいれば、「あなたをそれよりもっと楽しくしてくれる人を私がよく知っていますが、紹介しますから、一度訪ねてください」と言うのです。そうでもして一言言って、御飯を食べるそういう運動をしないといけないのです。次に来る時は、全部そういう、名刺を作ってきて、私に見せてくれないといけません。分かりましたか?
さあ統一教会は、全国的にこういう運動をしないといけません。全部ネームカードを作って、それをあげながら訪ねていきなさいというのです。そうすれば、訪ねてくるのです。各自の名刺を持って、「統一教会、何の責任者の誰々です」と言って。相談に乗るといって、全部書いて、何に優れた者だと後ろに書いておくのです。ビラと同じなのです。私たち、統一教会の信者なら、全部これを持たなければなりません。全部こういったことをしないといけないのです。分かりますか、何のことか。分かるのかというのです。(はい)。
そうして、伝統を立てるのです。時間は長くなくてもいいのです。十分や十五分に、これをみんなしないといけないのです。十分か、十五分に……。そうして「もっと知りたければ、私の所に来なさい」と言うのです。「次に会おう」と言って与えるのです。こういう運動をしないといけないのです。分かりますか?
そうすることによって、横的に連結される数が、朝、昼、夕と数えて一カ月なら何人かというと、三×三十全部で九十人なのです。九十人と語ったことになるのです。その人たちにカードをあげながら、「名刺でも一枚下さい」と言ってです。その次には手紙を書くのです。見なさい、通信でも募金運動をするのに、一パーセント、二パーセント、五パーセント来るのに、ここに一人も引っかからないというのですか。いや、手紙よりも、話を十分、二十分、三十分するのに……。考えてみてください。
伝道は食事の前に、十分ずつ出ていってしても、三十分くらい出ていってしても一カ月に一人は問題ないという結論が下されるのです。おなかがすいて御飯を食べたければ、通り過ぎていく人たちに、「ちょっとお話ししましょう」と言って近づき、「あなたの顔がいいので、一度見たくて声をかけました」。そうしてあいさつをすれば、食事までできるようになるのです。(笑い、拍手) あるおばさんに、そう声をかけるならば「あなたが、私のおばあさんに似ているので声をかけました」と言うのです。そうすれば嫌がるでしょうか。「ああ、そうですか」と言うのです。私のおばあさんのようなのでそうしたと、手を取って、「こちらに来てください」と言えば、みなそう……。そうなっているのです。
一カ月に一人伝道できませんか? アメリカを生かし世界を生かし、神様を生かすことでもあり、先生が、今こうして一日中話しながら、皆さんに、心からお願いしますが、それができませんか? できないと思いますか? (できます)。
今は、方法が分かるでしょう? 方法が分かりましたか? (はい)。やってみなさい。帰ってすぐするのです。(はい)。こういう風を全国的に起こせば、どれほど素晴らしいかというのです。
そうすれば、三万人以上伝道するのは、問題ないと私は思います。こう組織すれば、会社に通い、職場に通いながらも、いくらでもこれを成していけるというのです。いくらでも。……皆さん、門だけ開ければ、人がどれほど多いでしょうか。夜も昼もなく行ったり来たりするのに、なぜできないのですか? 一人を伝道して、一日に百食も食べることができるでしょう。(笑い) 「できない」と言うなというのです。私には通じないのです。
皆さん、これから帰るのに、地下鉄に乗っていってもです。伝道する人の所に行って、押しつけるのです。そうしておいて、こうして……。(体で表現される、笑い) それはいくらでもできることなのです。とにかく、いくらでもできるでしょう? それが罪になりますか? 神様が御覧になって笑うでしょう? 「やあ、こいつ、よくやるなあ」そう言われるでしょう? 「駄目だ」と言われるでしょうか。(笑い) 方法はいくらでもあるのです。一日に百人でも。私なら、百人でも会います。百人、それができませんか? 答えてみてください。それは易しいですか? 難しいですか? 駄目ですか? そうするのです。
さあ、こうして細胞組織、こうして、「やあ、私のような人を一人つくれば、コンビだけつくれば、二人でまたつくり、こうして十二人を私がつくって、会社に通いながら、七年間に八十四人は問題ありません。これは眠りながらでもやらないといけない」。こういった考えをもちなさい。それは、寝ながらでもすると考えなさい。
私たちの公式路程で、七年路程を行かなければいけないということを知っているでしょう? 一カ月に一人ずつ伝道すれば、一年に十二人なので、七年伝道すれば、八十四人になるのです。八十四人とは何かというと、イエス様の十二人の弟子と七十二門徒、この二つを合わせた八十四人なのです。イエス様がこれだけしていたなら、地上天国を成したのであって、死にはしないというのです。八十四人いれば、十字架に死んでいくでしょうか? ゆえに、地上天国を成そうとすれば、イエス様より優れていなければならないのです。(八九―三〇七)
事例13 近い友人や親戚のように対せよ
皆さんは、自分の地域で簡単に、特別な何かをしなさいというのです。鐘を一つ持って、夜十二時に打って回るとか、何かをしなさいというのです。起こそうと、ラッパを吹いて回るとか、そうでなければ、門をたたいて回るとか、何かをしなさいというのです。夜十二時になれば、どこに行っても一カ所に集まり、何をしてでも、有名になれというのです。
その次には、人が多い所に行って、講演もするのです。冗談も言ってです。友人になり、相撲もするのです。公園のような所に行けば人が多いので、二つに分けて、勝負もしてみるのです。こうして、押しのけ、殴ったりもしてみるのです。臨時に、こういった環境をつくって、百人でも二百人でも、全部指導して、運動するのです。じっと座って遊んでいるより、そうやって、好きなことができます。なぜできないのですか、なぜできないかというのです。全部そうすればいいのです。
そうして大衆を、私がどのように吸収できるのかを考えないといけないのです。できれば、その家に行って泊まってこいというのです。親しくなっては、「やあ、私は、お前が気に入った。お前は、自分の親戚のようで自分のいとこみたいなので、思い出したついでに、お前の家に行って一度泊まりたい」と言うのです。(笑い) そうすれば、なんやかやと言うでしょうか。好きだと、親しくなろうというのに、兄さんのようだというのに「来るな」と言うでしょうか? 一晩寝てから、早朝に起きて、庭を掃いてあげて、掃除を全部してあげるのです。そうすれば、「また来て、一晩泊まっていけ」と言い、「一週間に一度ずつ来て、泊まっていってくれ」と頼まれるようになるのです。そうだというのです。それがみな作戦なのです。
また、物を買いに行っても伝道するのです。何か一つ買えば、冗談を言うのです。「あなたの顔はとても美人だ。美人のような顔だ。私の妹に、とても似ているんだけれど」こう言うのです。自分の妹のようであり、自分の親戚のようでもあり、自分の親しい人に似ているというのに、「嫌だ」と言うでしょうか。見守ってくれるのです。「妹が思い出されるが、きょうこうして、妹のような人と偶然に会えてうれしい」と言うのです。そうして、「昼食を一度一緒にしよう」と言うのです。
こうなれば、「あなたは、誰だ」と言うのです。気がかりになるようになっているので、知りたがるのです。自分の家について、自慢をするのです。家に連れてきては、「私たちの家には、文先生がいて、こうして暮らしている」と話してあげるのです。全部話してあげるのです。その次には、土曜日に、「あなたのお母さんお父さんを、私たちが招待するからどこかいい所に遊びに行こう」と言って、乗せてブーンと行くのです。それがみんな作戦なのです。
これが多様でおもしろいのです。そうしてみれば、人はどうということもないのです。自分の損害にならず、必要なので「友人になるな」と言っても、友人になるのです。皆さんは、それを考えなさいというのです。ただ、ここに来て座れ! 創造原理! こうすれば、伝道できるものでしょうか? (笑い) それよりも、鼻をつかんで冗談を言い、「こいつ、こいつ」と言いながら友人になるのです。一、二時間に、二日、四日に、十年来の友人のように、親しくなれないといけません。
それを、どうするのでしょうか? 年の多い人なら、「年の多いおじさんのようであり、おじさんの背中、かっこいい」と言いながら乗っかるのです。「私のおじさんの背中とそっくりだ」と言いながら「一度乗っかってみたい」と言うのです。そうすれば、どうしますか。(笑い) 好きで乗りたいというのにどうしますか? そこで怒るでしょうか、にぎりこぶしでぶん殴りますか? (笑い) このように多様にするのです。そうではないですか?
目をパチクリさせながら、「誰か来るかなあ、伝道に行ってこないといけないかなあ」と座ってばかりいれば、全く……。(笑い) 男性は冒険をしないといけません。ですから、うちの孝進も、馬に乗ったり銃を打ってみたりするのです。お母様は、彼がお父様に似ているというのです。(笑い) オートバイに乗ったり、全部するのです。お母様は心配でたまらないのです。でも、することは全部しないといけないのです。そうしてこそ大きくなるのです。こんなふうに、本に挟まった虫のように細々としていてはいけないのです。
そうして、やるとするならば、私は十年間にすることを三年間でやってのけるのです。そうできるのです。では、どんなのがいいですか? 本を何ページか覚えて、べらべら言うより、外に出て、町内が騒がしくなるほど声を出す青年が必要なのです。今、それが分からないといけないのです。ですから皆さんも、そうならないといけないことを知らなければなりません。分かりましたか? ちょっと奇抜でないといけません。(九四―九七)
事例14 模範的な生活をせよ
行って教授たちに会えというのです。今は「科学の統一に関する国際会議」のために熟しているので、いくらでも会える風土が成されているので、行って会えというのです。行ってあいさつをしなさいというのです。有り難いとあいさつをし、「アイゴー! 教授は私のおじさんのようでもあり、お父さんのようでもあります」そう話をしてあげるのです。そうでなくても、「私が一人で外地に来ているので、おじさんも懐かしいのですが、おじさんのような教授の家に訪ねていくので、冷遇しないでください」と、笑いながら冗談を交えて話すのです。
ゆえに、皆さんは訪ねていってすぐ伝道する必要はないのです。親しくなるのです。親しくなればいいのです。そうすれば、「君は、なぜここに来ているのか? 何しにここに来たのか?」と言うのです。そういう時、「私が、なぜここに来ているかということを、あなたが知れば、あなたの息子たちも私と親しくなって、私と同じような人をつくるようになるかもしれないから話せない」と、いくらでも話せるのです。こうして、大変気がかりな材料をつくっておけば、来れば、話してくれというのです。そうして、その人に対して自分が責任をもつから話してくれといえば、話してあげるのです。
そして、その娘が幼稚園に通っているといえば、幼稚園に行ってみるのです。「おじさんが、とてもいい方なので、その娘がどういう子か会いたいのです」と言って、訪ねていくのです。そうして先生に会って「誰々教授の娘さんは、どの子ですか」と言って会って、「私はあなたのお父さんに会った」と言って……。その次は放課後に、さっと連れて帰ってあげるのです。それを何回かしてみなさいというのです。さあ、教授が「なぜ子供を連れてくるのか」と聞く時、「私は、先生の娘さんが好きで、息子さんが好きなので、子供さんたちのことがしきりに思われてそうしました」と言えば、嫌がる人が、どこにいますか? 「本当に善良ですね」と言うのです。やってみなさい。
ましてや男性なら、アメリカでは、車を直す技術だけあれば、伝道を大変たくさんするだろうというのです。その町内である車が故障したといえば、走っていって、直してあげるのです。一度さっと直してあげれば、完全に親しくなるというのです。そうしておけば、「誰々が車をよく直せるよ」と言って、車が故障したりすれば、呼びにくるというのです。その次には水道の栓も直せるし、電気も直せる……。みなこう言うのです。ある家に行くためにはそれがとても必要なのです。作戦上、一番必要なのです。
女性なら、編物のようなことをして、おもしろいものを作ったり、リボンのようなものも作ったり、帽子もかぶってみて道端で、学生たちに会い、あいさつをするのです。「どこの学校に通っているのか?」と言えば「高校に通っている」あるいは「どこどこの大学に通っている」と言うのです。そうして帽子を見て、「あ! この帽子……」そうすれば「そう? 一度かぶってみなさい。この帽子かぶると随分似合うねえ。私が一度作ってあげようか?」と言うのです。それは、いくらもかからないのです。次に、作ってかぶせてあげるのです。そうすれば友達になるのです。
先生は、靴下も作れるし、帽子も編めるのです。分かりますか? (はい)。ベンツのようなものも、私が一人で造れるのです。み旨のために、こういうことをするために、みんな準備してきたのです。分かりますか? 何のことか。(はい)。
その町内に行って、どこから手をつけたらいいかということは、一度さっと見れば、みんな分かるのです。この町内の者だといいながら……。私が、どんな教会に行っても、名も言わず、変装して入っていき、六カ月もあれば、その教会をひっくり返すことができます。そういったことは問題ないのです。六カ月以内に、間違いなくひっくり返すのです。それをするにはどうしたらいいのでしょうか? 全部生活から成していくのです。生活するのに指導者になり、生活に感動を与えることができるところから始めてこそ、それが安全だというのです。
先生は、写真の額のようなものも作ることができます。避難して、米軍部隊で、八カ月の間、大工の仕事をしたのです。それは習ったものではないのです。経験をたくさんしたので、すべての理論より先立つのです。普通の人は、専門家の三倍努力をすれば、ついていけるのです。彼らは早くしますが、私は精誠を尽くしてゆっくりするのです。
私が工場に行くと、工場を全部見て、指示するのです。そう訓練しました。見ることは、そのように見て回り、すべての事実が、理論に合うように訓練されています。何のことか分かりますか? (はい)。
生活の手本となりなさい。遊んでも友人になり、生活するのに友人になり、その次に、勉強するのに友人になり、旅行するのにも友人になり、狩りに行けば、狩りに行って友人になり、海に行けば、海に行って友人になり、農業をするなら、農業をしながら友人になれというのです。こうして、すべての分野で友人になれる能力があれば、理論的に説得する能力だけあれば、すべての分野の人をいくらでも引っ張って集めることができるのです。先生はそう考えるのです。そういう影響を与えようとすれば、自分がもっと勉強しないといけないのです。習うことにかかっているのです。勉強しに行って親しくなるのです。これを教えてくれといって……。
ですから、人と多く接触しなさい。そうしながら、その人が自分の深い秘密を話し合える場まで行けば、その人は「伝道するな」と言ってもいくらでも伝道できるのです。先生の学生時代にも、友達が全部自分の秘密を、私に話したのです。先生は、そういった秘密を、守ってあげたのです。そして解決方法を教えてあげたのです。伝道するには、原理のみ言だけ伝えたのでは駄目です。何のことか分かりますか? (はい)。模範的な生活をしなさい。生活として見せてあげなさい。生活的にさせるのです。言葉でさせようとせず、生活で行動させないといけないのです。話をすれば、話したようにするのです。(九五―二三八)
事例15 伝道も作戦を立ててしないといけない
伝道もそうです。「あの女性を私が伝道する」と思えば、時間を計って六カ月以内に伝道するのです。戦略を立てるのです。その女性は何が好きで、どんな文学書籍が好きで、と全部調べるのです。調査して、何時にどこに行って、何時にはどこどこの市場へ行き、と全部調査するのです。その次には会おうとして、電話しても会ってくれなければ、どのようにしてでも会うのです。会えば伝道するのです。方法はいくらでもあるのです。
全く会ってくれない時には、市場で何かを買って、帰ってくれば、偶然出くわしたようにして、ぶつかるのです。転べば、抱きついて転ぶのです。ハンドバッグを落として物を落とせば拾って……。それが、みな作戦なのです。ハンドバッグを拾ってあげれば、済まないと……。人がたくさん見ていれば、「御主人に会いましょう」と電話するのです。「私がこうこうして……」と言って説明するのです。こうこうして夫人に失礼したので、本当にすみませんと言って訪ねていって……。そう因縁を結び……。その家に行って主人と友人になり、その夫人は、「世間にああいう男性がどこにいる? ああまでして!」と言うのです。そうすれば、その家に出入りする環境も、思いのままにつくっておくことができるのです。
先生もそういう作戦を立てて、人の家に入っていって、一年半の間その家で御飯も食べながら、その夫婦を伝道したのです。その人たちが、み旨の前に必要な人ならば、そうするのです。私が十人兄弟のある夫人を伝道するために、その夫人の洗濯物までしてあげたのです。自分の娘、息子より、自分の夫よりも、私に相談できるように投入するのです。人に良くすれば、みな友人になるのです。そうでしょう?
皆さんが伝道できなければ、責任者が一カ月、二カ月過ぎても、伝道を一人もできなければ、それを見て、私が研究します。伝道がなぜできないのですか。伝道できないのは、おかしいのです。伝道しに行って空想するからです。私はそう考えます。空想するからそうなのです。なぜ伝道されないのでしょうか? 今月には、こうして駄目なら、次には反対にしなさい。学校に行って駄目なら、市場に行ってするし、方法は研究しなければなりません。先生がそう考えるので、伝道できない人に同情しません。できるようにするのです。できるように。何のことか分かりますか? (はい)。
皆さんも、三十歳になる前に。年が三十を過ぎた者、手を挙げて! 三十歳になる前にそういう準備をみなしておかないといけないのです。先生は二十六歳から……。平壌に行けば、平壌で騒ぎを起こし、ソウルに行けば、ソウルで騒ぎを起こしたのです。その時、私が行く所ごと、問題だったのです。それが、なぜ問題の対象になったのですか? 町内に行けば、町内の人が全部夜も寝ず、私がいる部屋にだけやたらと来ようとするので、問題の対象になったのです。町内の子供たちまでも、私のいる家の便所に来て、小便をしようとしたのです。それは不思議だというのです。
なぜそうかというのです。子供たちに会えば、とてもおもしろい童話を聞かせてあげるのです。御飯を食べるのも忘れるくらいにです。御飯を食べることも分からなかったのです。そういうことをできないといけないのです。子供たちを連れて、楽しく遊んだのです。一日に、何十種類も、何百種類も仕事を考案して、楽しく連れて遊んだのです。そうしながら子供たちに、「お母さんはどこに行ったの。お父さんは?」と言いながら全部調査して、子供たちを連れて、私の家に来て、遅くまで遊べば疲れるので眠ってしまうようになっているのです。そうすれば、さっとおぶって……。その家を伝道するために訪問できるのです。それは、どれほどいいでしょうか? 子供たちが、夜遅く遊んでから眠れば、お父さんの所におぶって連れていってあげるのです。その子をおぶっていってあげるので、有り難いことではありませんか。「ああ、お茶でも飲んでいきなさい」と言うのです。そこでも、問題が起こるのです。皆さんもそれが必要なのです。子供たちを連れて童話を話してあげ、子供たちの友人になれないといけないのです。
その次には、おばあさん、おじいさんの友人に……。家に行けば、おじいさん、おばあさんがいるのです。行けば、嫁がどうで、娘がどうで、他の家はどうで、その町内の誰がどうでというニュースを、みな聞けるのです。その町内をよく知らないといけないのですね。そうすれば、その町内の誰々はどの会社に勤めているのかみな分かるので、初めて会っても「誰々でしょう?」と言い、あいさつするのです。そうすれば、「何で知っているのか?」と言うのです。そうすれば「私はあなたをよく知っています」と言うのです。あなたの友人や姻戚になることができるので、「あなたの家に行きますから、一度お話ししましょう」と言うのです。みなそうして編んでいくのです。
さあ、その人が農業をするなら、農業についての話をするのです。農業をして、疲れて、力なく帰ってくれば、「アイゴー、あなたは、今年どんな農業をしているのですか?」と言い、「何はどうなり、何はどうなっていて……」と全部……。そういう話をしないといけないのです。「大変ですが、統一教会から来たのでみ言を聞いて……」と言えば、追い出されるのです。そうすれば追い出されるのです。
その人が、農業をすれば、「あなたの畑で、どんなものを作っているのか、一度行ってみましょう、連れて行ってください。何時に家を出ますか?」と言って、早朝についていくのです。そうして一日中、一緒に親しくなるのです。友人になりながら、稲束を結ぶのも手伝ってあげながら、昼食時には座って話をするのです。そうすれば、「あなたは何をする人ですか」と言えば、「本当に知りたいのですか? そうすれば、時間をつくってください。私の経歴を話せば、あなたがおもしろくて興奮して、私についてこようとして大変なことになるでしょう」。そう興味をそそる話をするのです。「アイゴー、聞きたいから時間をつくります」と言えば、「時間をつくってください」と言うのです。そうすれば、畑で仕事をして、ほうっておいて道端に出て、一時間、二時間、何時間でも話せるのです。伝道方法はいくらでもあるのです。
私たちが、その人たちを利用しようと、そうするのではないのです。その人たちを生かしてあげようと、そうするのです。作戦を立て、自分を統一教会で伝道したというとき、「エイ、こいつ!」と言い、「復讐する」と言うでしょうか、有り難く思うでしょうか? (九五―二三三)
事例16 認められる道をまず築かなければならない
見なさい。皆さんが町内で基盤をつくる時、町内で喜び、一緒に仕事をするのを好むように、「自分の家に来て、仕事をしてくれ」と言えば手伝いもし、そうできるように、道を整えておかないといけないのです。見たところはうぶで、何でもないけれど、出て話をするときには、町内の人が頭を下げるくらいにいくらでもできるのです。
町内に、白氏がいれば、「白氏、誰はどうで誰々はどうで、この町内で誰が一番良く、一番悪く、これは直さねばならず、この町内が良くなるためには、こうしなければならず、この息子、娘たちをしっかり育てないといけない」と全部話しながら「この町内が良くなる話があるが、一度聞いてみたいか?」と言い、その次からは原理を話すのです。
ゆえに、伝道する時、み言を聞きに来るのを望む人はちょっとおかしい人なのです。その人に会う日には、きのうよりもきょうは、必ずためになるようにして送らなければならないのです。それが鉄則だというのです。話ができなかったなら、私が食べるものを準備しては、食べさせてあげ、仲間になってあげないといけないのです。
そういう観点で、伝道するにはどういう人が一番いいかというと、若い人です。大学生たち、高校三年生から大学生が特にいいのです。その時は思春期なので、何でも吸収する、吸収性が強いのです。
その町内で、「ああ、あのおじさんはいいなあ!」という評判を受けるようになれば、町内の子供たちが、小さなことでも来て報告するのです。この町内で誰がどうだと、全部報告するのです。そうすれば、そういう報告を受けられる主人になるのです。おばあさんがそうであり、おばさんがそうであり、子供たちがそうであり、若い人がそうなら、その町内を完全に伝道できるのです。
おばあさんが車を運転していけば、「グッドモーニング」と言い、どこに行くのかとあいさつし、「ああ、おばあさんが運転されるのですか?」と言い、「私が運転してさしあげましょう」といくらでも言えるのです。「おじいさんの代わりに私が運転してさしあげましょう」と言えるのです。「どこどこに行かれるなら、私に電話してください。私が、市場に行く時、市場で買い物してさしあげ、同行してさしあげましょう!」と、そういうことをするのです。
今からは、他のことはするなというのです。そうしなさい。伝道することも、「私が州責任者ですが、私のほうに来れば、私はアベルで……」そういうつまらない考えは捨てなさい。王になろうとしても、民がいないといけないでしょう? 一人でいれば、何の責任者が必要かというのです。一人で座って空想していても駄目なのです。そういう人は、神様が絶対協助しないのです。何のことか分かりますか? 実質的に、そうつくりなさい。そういう風土をつくらないといけないのです。耕作を自分がしないといけないのです。一人でみんなしないといけないのです。(九五―二三六)
事例17 何でもできる能力を積みなさい
先生は、何の問題もなく、どこにでも行けます。お金がなくても何の問題もありません。先生は、すべてのことに訓練がなされているのです。そういう経験があるので、世界の多くの若者たちをリードできるのです。誰が最初に、ファンダレイジングを始めましたか? (お父様です)。先生だったのです。今、日本の食口たちがファンダレイジングをしていますけれども、先生が最初に始めたのです。皆さんが、私に弁明できないのです。「それをどうしますか? 自分はできない」と考えるなというのです。分かりますか? (はい)。こういうふうにしなさい。
先生は、伝道するためにありとあらゆることをしました。食品店に毎日行って、おばさんや、誰にでもぶつかってみて、転ばせて、家まで連れていってあげたり……。何でもして、会うことができるのです。(笑い) ついて行きながら、家に一度訪問するといえば、来なさいというようになっているのです。
皆さんが伝道できずにいるのが、とても良い研究材料なのです。昼食の時くらいに市街に行って、十二時になればひたすら痛哭して、一日中泣いてみなさい。毎日のように三人、四人、私を慰労するために訪ねてくるのです。「一度私の話を聞いてくれれば、この涙が止まり、この切なさがみな解けるのですが、あなた、二時間か三時間、時間をくれますか?」と言えば、時間をつくってくれるというのです。それがなぜできないのですか? なぜですか? 楽です。楽なのです。
先生は、「嫌だ」と言う家に一年半も行って、暮らしながら伝道したのです。その人は、伝道すれば、大きく用いられる道があることを知っていたためです。あざけるならあざけり、悪口を言うなら言え。十度以上は面前で悪口は言わないのです。人の良心上。最初には門前で追い返し、それでもそこに戻っていけば悪口を言い、またその次に悪口を言ったらもう一歩入っていけば、またじっとしていて、その次には、板の間で座り、板の間に座っていれば、悪口をとても言い過ぎたので申し訳なくなるのです。だんなさんが会社に出勤すれば、おばさんと、板の間に一日中座って話をするのです。部屋に入っていかないのです。主人が帰るまで。帰ってきて「何で、一日中こんな所で」と言えば、「はい、主人なく、人の家の居間に入れますか? 今、入らせていただいていいですか」と言えば、にっこり笑って、「頭の切れるやつだ。入ってきてもいいよ」と言うのです。次には、「あすには、間違いなく入っていっておばさんと話をしようと思うが、疑いもしないのですか?」と言っておけば友人になるのです。
悪口を言われれば、友人になるのです。その次には、そう話しておいてから、居間に入っていって……。主人が帰ってくる時には、おばさんを前に立てて「きょうは二人で歓迎します」、そう言うのです。
なぜできないのですか、尹博士、分かりますか、何のことか? そうしなくては、復帰摂理はできないのです。御飯ももらって食べ、そこで暮らしながら……。それがなぜいけないのですか。強盗をしましたか、どろぼうをしましたか?
奥さんに話をしてから、「あなた、この素晴らしい人が話すみ言を一度聞いてみてください」と言えば、「そうか? 随分褒めるから一度聞いてみましょう」と言って、一度だけ聞いてみれば、騒ぎになるのです。なぜできないのですか。なぜできないのかというのです。楽にしようとするから難しいのです。紳士的には駄目なのです。
部落に行って、話を聞かない者がいれば、捕まえて友人になり、話を聞かせて全部コーチするのです。相撲をしても上手だし、サッカーをしてもうまいし、何でも上手でなければならないのです。歌もうまくなくては駄目です。一日だけ会ってもおもしろくて、学校にも行かず、昼も食べずに行かず、「おもしろい」と言うように、リードできなければならないのです。昼食時になれば、家族たちがみな訪ねてくるのです。訪ねてくれば、そのお母さん、妹、兄さん、みんな友達になるのです。なぜできないのですか、なぜできないかというのです。おもしろいプログラムを組むのです。
そうしておけば、若い者たちは、昼食時になっても、お昼を食べに行かないのです。おもしろくてです。夜になっても行かないのです。お母さん、お父さんが訪ねてくれば、お母さん、お父さんと友人になり、弟、妹を送れば友達として、お姉さんが来れば、お姉さんともあいさつし、友人になるのです。その次には、その家に引っ越していくのです。その家に行くのです。皆さんが切実でないからそうなのであって、おなかがすいた時に食べる物を探す以上に切実なら、何でもできるのです。小鳥でさえ、おなかがすけば、食べ物を探すではないですか?
考えてみなさい。先生はおもしろいのです。そういうことをとてもたくさん研究したのです。私はどこに行っても……。町内のおじいさんに会えば、おじいさんの友人であり、おばあさんに会えば、おばあさんの友人であり、おばさんに会えば、おばさんの友人であり、娘さんに会えば、娘さんの友人なのです。子供たちに会えば、子供たちと遊ぶのです。ですからその時、韓国で統一教会に来た人たちは今でも、先生が忘れられないのです。
伝道できないという者たちは、考えもせず、研究しない者たちです。全然することがなければ、夕方娯楽でも始めなさい。プログラムを組んで、町内で娯楽をする所を訪ねていって、娯楽でもしなさい。
ある家に行って、あなたが素晴らしいと思う人の家がどこにあるのかと聞いて、紹介を受けた家に訪ねていくのです。訪ねていって、「ここでこの町内のために、有名な何々学者たちが集まりをもちますが、あなたの部屋を一度だけ貸してください」と言えば、貸してくれない人がどこにいますか。司会は私がするのです。司会は、司会を上手にするのです。そうすれば、町内の人たちが見る時、若い者が何かやりそうなのです。それが、みな作戦なのです。伝道する人は、うまくすれば、いくらでもいるということを知らないといけません。何のことか分かりますか?
ある日は目の業をし、ある日は鼻の業をし、ある日は口の業をし、ある日は耳の業をし、一度は親指、一度は人差し指、十本の指の業をしてみるのです。足の指も合わせて、二十種類こうすればいくらですか。二十四種類の業をなしてみるのです。教えてあげれば、まねしてみなさい。いくらでもできるではないですか。いくらでも、いくらでもできることなのです。
道を歩いていって、かわいい嫁さんたちがいれば道端に座って、「アイゴー、昼食を食べ過ぎて、おなかが痛いのですが、あの店に行ってちょっと薬を買ってきてくれませんか」と言えば、買ってきてくれるようになっているのです。そうすれば、「ああ、有り難い」と言って、「住所がどこか」と言って友達になるのです。
女性たちは、歩いていて、靴をちょっと遠くに投げるのです。(笑い) どうすれば歩いていけますか。だから男性たちが通り過ぎれば、「もしもし、私の靴をちょっと拾ってくださいませんか」と言えば、若い人が拾ってくれるようになっているのです。そうして友人になるのです。友達。そうなのです。(笑い) そうして伝道したといっても、神様は地獄には送らないのです。「やあ、実にすてきじゃないか、こいつ! こいつは役に立つなあ? 全国に行って、スパイのようなことをしても死にはしないなあ!」と考えられるのです。神様が、皆さんをサタン世界に送ったスパイと考えるのです。
女性たちは、女性同士、親しくなるのです。何の問題もないのです。何が大変ですか。いくらでも伝道できるのに、伝道できないという事実が、私にはなぞなのです。
こんなに狭い世間で、どうやって生きるのですか? どれほどこの天地が広いですか。こんなに広く、おもしろく伝道できるのに、なぜしないのかというのです。それは、何のことか分かりますか。先生の言葉が理解できますか? (はい)。
先生が、年が増えて、六十歳を越えましたが、今でも若い人に負けまいと考えます。ですから、いつも挑戦するのです。先生は洞穴も掘ってみたし、支柱も立てられるし、炭も焼いてみたし、やったことのないものがないのです。
山に行けば、食べるものがたくさんあるのです。うさぎも食べて生きるのに、人が生きられないことがありますか。皆さんが田舎に行けば、海もあり、川もありますが、海に魚が多いのに釣って食べることも知らないというのです。それをみんな教えてあげるのです。狩りの季節になれば、狩りをしてもいいのです。銃を撃てますか? (はい)。狩りをしても暮らせるのです。熊を一頭捕らえれば、一年食べて暮らせるのです。そういうことを何で研究しないのですか?
私がアメリカに来て、アメリカの魚を釣って売ろうと思うのですが、目の青い人たち、欲の多い青い目の者たちがもうけて暮らすのですが、私がそこのチャンピオンになろうというのです。それを、先生ができると思うのですか、できないと思うのですか? (できると思います)。できるのです。
私はアメリカの言葉もできないでいるのです。そうでありながらも、この国で誰もできないことをしているのです。先生は、アメリカでできないことはないのです。皆さん、そういう訓練をするのです。さあ、私が南米に行けば三、四年内に基盤を築けないと思いますか? アフリカに行くとしても、どこに行くとしても三年、四年以内にみな、基盤をつくるというのです。間違いなくつくります。どう思いますか? そういう自信をもっているのです。
先生は女装して歩いたこともあります。女装、分かりますか? 女装して歩いたこともあるのです。韓国のような所では、私は背が高いので、女性の服を着て歩けば、男性だとすぐ分かるので、雨が降る日に女装して出ていったのです。傘をさして。(笑い) 電車に乗って、ある時には男性たちの前で、気合いを入れてお尻をつねって「こいつ」と言いながら。(笑い) そう言ったといって、[女性]に対してどうしますか? (笑い) 逃げて回るためには、そういうこともみなしてみないといけないのです。大きなことをするためには。分かりますか? (はい)。それは、何のことか分かりますか? (はい)。
何のために先生がこうしたのでしょうか? 何のためですか? どんな道を通じてもみ旨を成そうと考えたからです。労働を通してもみ旨を成し、こじきのようなことをしてもみ旨を成そうと考えました。どこに行っても、み旨を成そうと考えたのです。どんな道を通じてでも世界を引っ張っていくのです。皆さんは、そういう人をつくってあげれば、気持ちがいいですか、悪いですか? (いいです)。
私は大工のまねもできるのです。門も直せるし、釘も打ち、難しいことをさっさと全部できるのです。御飯を作っても上手です。七年間自炊生活をしました。七年間一人で自炊したのです。何でもみんなできるのです。パンツのようなものも作って着るのです。一人で暮らしても、み旨を成さないといけないというのです。
悪口をたくさん言われ、恥をどれだけかいたかということを考えてみなさい。(笑われる) こういう、心の狭い者だったら既にやめているのです。ハハハと笑ってです。自由人なのでできるのです。
さあ、今から伝道は問題ありません。食べることは必要なく、住む家も必要ないのです。人は一度生まれます。一生は一度しかありません。二度とは来ないのです。ですからすべてのことを開発しておかないといけないのです。一つ一つ経験を蓄積しておいて利用するのです。すべて利用するのです。それが、金持ちなのです。全部準備しておけというのです。そのような人たちが豊かな人たちなのです。(一三二―二一〇)
事例18 手紙を書いて伝道する方法
伝道するには、その状況と、伝道しようとする相手がどのような人かによって、いろいろな方法が使えます。何度か会ってみて、この人はいい男性だ、女性だと思えば、皆さんは彼らに手紙を送ってもいいでしょう。彼らを伝道できる方法を使いなさい。そして、手紙を書く時、皆さん自身のスタイルどおり書くなというのです。立派で、浪漫的な小説や、偉大な人たちの文句を使い、愛と人々についての偉大な文学作品を動員して、いろいろな文体を作って書いてみるのもいいのです。
三種類の文体を準備するのです。ただこの三種類の文体だけでも、百人までも接触し、伝道できます。ですから皆さんが書く時、この三種類が、各々どんな反応を受けるか、実験してみなさい。皆さんの手紙をもらう人たちは、皆さんの素晴らしい手紙に魅惑されるのです。
そうすれば、皆さんは、彼らに直接会わないといけないのです。ところで一人で行ってはいけません。皆さんが、その手紙の返事をもらうとき、彼らの性格を分類できないといけないのです。ですから、それと似た型の人を食口の中から連れていって、一緒にその人に会いに行くのです。
皆さんが、発起人であり、その食口は、皆さんの補助者です。ですから皆さんは、沈黙を守らないといけません。時には、皆さん、三人が話をするようになるでしょうが、大概皆さんは、時折一言ずつ投げかけるのです。そうしてから、皆さんが立ち去る時には、その食口が彼らに、皆さんはとても素晴らしい人だと自慢をするのです。学校で、優等生だということを……。このように一緒に三度だけ会いなさい。
皆さんは、その時から、時事に関する話題をはじめとして、道徳あるいは倫理に関することも対話することができます。皆さんはこの時、彼らの話が正しいかということについて気にしてはならず、彼らの見解に反発してはいけないのです。この時は、「そのような問題について考える多くの若者たちがいるし、私は、そういう問題について講義することができる」と言いながら、慎重な方法で始めないといけない時なのです。そうして、「あなたも一緒に行きませんか?」と何気なく提案してみるのです。こうなれば、その相手は、皆さん二人の前で、皆さんの提案を拒否できないのです。あることに関し、意見が統一される二人がいる時、三番目の人は簡単に同意するのです。そして、彼らは友人になるのです。なぜ、そうできないのですか?
もし、皆さんが百通の手紙を書くなら、皆さんは驚くほどたくさんの人たちと接触できるのです。もし皆さんが、ある文体についての返事の手紙をもらえなければ、それ以上その文体を使わないほうがいいです。各々、他の文体の手紙を三度だけ送るようになれば、必ず反応があるのです。(五二―二七二)
事例19 人について研究せよ
皆さんが、ある家庭の家族を伝道するためには、着実に神経を遣わないといけません。さらには一年半神経を遣わなければならない場合もあるのです。反対が続くこともあるのです。その家族たち、すべてが皆さんを嫌がるのです。ですから一人、あるいは一家庭を伝道するためには、多くの努力が必要です。しかし、皆さんが一人を動かすなら、その家全体が救われるのです。こういう方法が人を動かす、一番いい方法です。もし皆さんが、今までいろいろな種類の人たちを伝道することを経験したなら、皆さんは心配することは何もありません。皆さんは、起こるどんな状況にも、対処していけるのです。
バスや汽車の中で、あるいは市場のような所では、次のような方法が、使えるでしょう。人に関して研究しないといけません。そうすれば、皆さんがある人を見れば、彼についてのあることを知ることができ、彼に接近して、話しかけることができるのです。例えば、「あなたは、何をそんなに心配していらっしゃるのですか? あなたの姿を見ると、何か心配していらっしゃるようですね」と言うのです。そこで皆さんは、一つの親交関係を結ぶのです。ですから私たちは、いろいろな型の人を研究して知らなければなりません。皆さんは、ある人の歩く姿を見て、その人に関して話すことができないといけないし、表情を見ても、その人の気質や性格を話すことができないといけません。
すべての発展というのは、一つの単位から出発します。一つの単位を中心として、他の公式が出るのです。その公式は、すべての人に適用されるのです。人の顔から皆さんは、その公式が浮かび、内的な単位を帰納的に推理できるのです。
皆さんが、ある人を知るためには、まず過去に知っていた三人を選びなさい。そのように、その人たちは、三種類の人たちでないといけません。そうして、彼らがどのような姿か、彼らの鼻、目、個性などを研究しなさい。こうして三種類の人たちの研究をみなしたとき、Aという人と、その半分くらい似た人と、またBという人と半分くらい似た他の一人を選びなさい。それで、Aと似た人から研究するのです。その人の半分は似ているので、その人の半分については、知ることができるのです。
もし皆さんが、小学校の時や中学、高校の時の級友たちをよく覚えていて、心の中に彼らを描いてみることができれば、彼らを、研究した三種類の人と比較しなさい。皆さんは、比較研究できるのです。そうすれば皆さんは、彼らがどうやって暮らし、どう仕事をするのかを理解する、良い参考資料をもつようになるのです。皆さんが、こういう方法をよく適用したなら、皆さんの判断は七〇パーセントの正確性をもてるのです。可能なら、多くの人たちと接触してみないといけません。そうすれば皆さんは、どんな人でも、すぐ判断して、早く評価する方法をもつことができるのです。
人によっては、目の大きさ、まゆ毛とひとみの動き、歩く姿、または寝る態度が様々なのです。それらが一番興味深いのです。例えば、すべての動物は、後ろ姿は似ているけれど、人間はみんな違います。食べることや眠ることのすべての行動が違います。一人一人の鼻を見ても、その鼻はみな違います。その大きさも違うし、その位置も違います。こういうすべてのものを眺めれば、突然彼についてのある考えが浮かびます。その時、皆さんは、その人が真実を語るのか、うそを言うのか、あるいは何を言うのかを正しく評価することができます。観察するようになれば、そこには一つのパターンがあります。人々を個人的に別々に見ずに……。皆さんが伝道する間は、こうして見るために一番いい機会です。
政治家も違うし、学者も違うし、労働者も違うのです。彼らの外的な表現も、職業、組織、そして考えによってそれぞれ違います。もし皆さんが、他のすべての形態を知っているなら、きょうは政治家に会い、あすは経済人に会うなど、皆さんの親交範囲は大変広がるのです。それで皆さんが、話ができないと考えてきた人たちまでも、自分のほうに引っ張ってくることができるのです。こういう伝道方法が一番重要なのです。
皆さんが重点を置いている特定の家庭にそれを適用してみるのもいいのです。なぜなら、そこには多様な人々がいるからです。それで皆さんは、その家族たちの中で、接触したい人を選択できるのです。人間についての研究よりも、もっと貴重なことはありません。そういう研究をするとき、皆さんは、会う人がどんな型の人かをすぐ鑑定できるのです。(五二―二七三)
事例20 街頭で宣伝伝道をしなさい
これから、私たちはどうしなければならないのですか。宣伝しなければなりません。国と世界が混乱する時が来たので、今からは、私たちが街頭に立って血を吐くほど切実な心をもって、今後の韓国観と、今後の世界観を中心に路傍で叫ばなければならないのです。黒板を背負って、街頭に立って、「眠りの中にいる民族よ、目を覚ませ! 行くべき道を知らず、迷路に立っている民よ、今後行く方向を選んで行かねばならない」と教えてあげなければなりません。
そうすれば、警察が、交通がどうのこうのと言って反対するかもしれませんが、反対されながらでもしなければなりません。交通が問題ではありません。大韓民国が行くことのできる交通路が遮断されているのに、街頭の交通が問題ではありません。こういう信念をもって、あちらこちら、商いの日なら、商いする場を訪ね歩きながらマイクを持って、か弱い女性の声で涙と共に民族の心情を揺さぶらずにはいられない時が来ました。勝共を成さなければなりません。民族が思想的に統一的な基盤を備えなければ、北の勢力を防げないではありませんか。
こういう内容を中心に、個人が行くことができる道、家庭が行ける道、町が行ける道、社会が行ける道を新しく、正さなければならない使命を皆さんがもっているので、皆さんが街頭で宣伝伝道をしなければならないということを記憶しなければなりません。約束しますか、しませんか? (します)。
最初は何ですか? (精誠を尽くす……)。精誠を尽くさなければなりません。先生が、夜でも昼でもこの国の行くべき道を心配した心を身代わりして、私がこの国にいないので、皆さんがこの意志を受け継いで精誠を尽くさなければなりません。その次には、眠っているこの民族がただ座った場で滅びるようになっているので、これを起こさなければならないので、皆さんが街頭に立ってすべての精誠を尽くし、叫ばなければならない時が来たことを知らなければなりません。これは遠からず立ち去る私が、皆さんの前に残すお願いの言葉だということを知って、帰ってくる日までこれを中心に民族をかき抱いて、あすの世界に向かって天倫のみ旨を残すために、すべての至誠を尽くしてくれるようお願いします。分かりますか? (はい)。そうするという人、手を挙げてください。(五〇―一八三、一九七一・一一・六)
五 伝道の形態と目標
五 伝道の形態と目標
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1 霊界を通じた伝道統一教会の草創期には、神様が直接役事し、食口たちを伝道しました。教会の重鎮たちを伝道することにより、回りの教会員たちまでも伝道しました。既成教会が援助物資を受けながら戦う時、私たちは、ぼろ服を着て戦いました。(一五―二七三)
皆さんが、カイン圏ホーム・チャーチさえ始めれば、アベル圏ホーム・チャーチは自動的に解決されるのです。そうではないですか? 自動的に自分の一族が連結されてくるのです。そういう時が来たというのです。それはなぜですか? 先祖たちが離れないからです。先祖たちを中心としてこの地上に自分の所有があれば、その管理をしなければならないのです。昔は、悪い霊たちが怒って主管しましたが、サタンが主管したものを全部主管できなければならないのです。
ですから、今後は統一教会に行けと命令したのに、聞かなければ病にかからせるのです。首を絞めて、「やあ、こいつ、何で行かないのか? こいつ、行くのか、行かないのか?」こうして、行かないなら足でけとばして、強制的に行かせるのです。それでも聞かなければ霊界に連れていくのです。早くそうなったらいいでしょう? (笑い) 心情に橋を架けなければなりません。心情の橋を架けなければならないのです。父母様がもった、神様がもった心情の橋と同じ横的な同胞愛、横的な世界愛に火がついた若者がいれば、その若者を中心にその氏族七十代まで降りて来て協助するというのです。七十代を中心にその一族に関係された娘、息子たちが、何十人になりますか。彼らが、皆さんに擁護して被害を受けないように保護するのです。愛の主人として侍るのです。
この版図を拡大しようとするので、競争が起こるのです。ですから夜も伝道するのです。夢うつつでも、先祖が出ていって伝道をし、また昼は、私たちが一生懸命伝道するので、統一教会の信徒にならざるを得ない時代に入ってきたというのです。分かりますか? (はい)。ですから大韓民国が統一教会の愛の網にみな引っかかったというのです。先生が組織してつくった網なのです。投げ網作戦です。これが組織です。(一六三―三〇四)
2 『原理講論』を通じた伝道
また、伝道するにあたっても、講義を聞いて統一教会に来た人よりも、本を見て統一教会に来た人は、講義を聞いて来た人よりも使い道のある人だというのです。ですから、先生は、できれば統一教会の原理を難しく書けと言ったのです。普通の人たちが来たところで……。今、統一教会が望むところは、指導者です。ついていく千人が必要なのではなく、導く一人が必要なのです。分かりますか? (はい)。
では、皆さんが三百六十人に本を分けてあげるようになれば、その中で、どれほど伝道されるのでしょうか。今、日本では、原理のみ言を聞いて、食口になる人が二〇パーセントです。百人がみ言を聞けば、二十人が食口になるのです。それは、知識水準が高いからなのです。それで、その人たちは、知識水準が高ければ高いほど比率が高くなるのです。分かりますか? 世界的な教授たちが、原理のみ言を聞けば、支持する人たちは半数以上になるのです。こう見ます。知識水準が高ければ高いほど比率が高くなります。こうなっています。分かりますか? ですから、韓国がその比率が低いというのは、知識水準が低いせいもあります。いくら水準が低いといっても、二パーセントないし、三パーセント……。(五六―二二一)
共産党が今まで世界を制覇したのは、本をもってしたのです。分かりますか。皆さんは、今までこれを考えることができなかったというのです。今まで伝道したけれど、本をもって伝道する方法は知らなかったというのです。本で伝道すれば、多くの数が広がるので、三千万復帰は本でしなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。一パーセントだけしてもいくらですか。統計的に見れば、日本の場合、今四パーセントが食口になっています。それを見るとき、一年に十人を伝道できないというのは、成立しないというのです。これは、科学的数字によっても確認したことなのです。分かりますか? 教会長たち、分かりますか? (はい)。今回帰れば、この運動をするのです。
さあ、それでは原理の本の原価がいくらですか。五百ウォン。五百ウォンで統一教会の信徒たちに全部分けてあげなさい。日本はそうしました。原理の本の値段をいくらにするか。四百ウォンにしましょう。四百ウォン、分かりますか。一人が三十冊ずつなら、一万二千ウォン。一万二千ウォンをどうしてでも準備しないといけません。誰でも必ず買わないといけないのです。分かりますか。統一教会の信徒として、原理の本を三十冊持っていない人は、統一教会員ではありません。これは、それこそ全世界統一です。全世界の統一教会が統一的な行動をしているのに、主体国である韓国ができずして話になりますか? それは偽者だというのです。韓国の伝統が立ちません。そうではありませんか? みんな買うのです。
ここの責任者たち、特に責任者たちは、なおさら早朝からそれをしないといけないのです。なぜ、ただ座って歳月を送るのですか。それではいけないのです。一日に一人会って、本を一冊あげ、一人から本を回収するのです。それができませんか。それは、できませんか、できますか? (できます)。話も持ち出せないのです。もしできない人は、今後祝福とか何かの福とか、何もないのです。(五五―二九一、一九七二・五・九)
そうすれば、私たち統一教会の一般の食口たちはただでいられますか? ただではいられないのです。今から、一般の食口たちは、一人が原理の本を三十冊買わなければなりません。日本では、原理の本を一冊五百円ずつ原価で与えるというではありませんか。ですから、二十万冊以上は出さないといけないのです。
皆さんが今まで伝道する時、毎日のように歩き回ったけれど、伝道されたのかというのです。伝道ができていないというのです。そういうふうにはせず、地方の有志たちに本を貸してあげるのです。一カ月に一冊ずつ貸してあげるのです。分かりますか? 一カ月なら、本一冊みな見ても余るのです。皆さんが一生懸命にすれば、その本を二週間にみんな読ませることができます。何のことか分かりますか? 伝道するより簡単なのは本です。原理の本がいくらですか? 千いくらですか? 八百ウォンする本をただで貸してあげるのです。
これは皆さんが宣伝することにかかっているのです。皆さんの三弟子がいれば、必ず読ませるべき本だと宣伝しながら、早朝から歩き回り、貸してあげるのです。一日に一冊ずつ貸してあげ、一冊ずつ回収するのです。そうなるでしょう? 原理の本三十冊を持って、人に貸してあげ、一カ月に一度ずつ回収するようになれば、一年なら三百六十冊です。三百六十人が本を読むということになるのです。これを二週間に一冊ずつ貸してあげるようになれば七百二十冊、七百二十人という人が原理の本を読むようになるというのです。
日本を見ると、原理のみ言を聞いて、食口になる人は四パーセントです。原理のみ言を聞いて四パーセントが食口になるなら、本を読んでからももっと多くの人が食口になるというのです。本を読んで理解できる人が統一教会に来るなら、彼は直ちに、統一教会の精髄分子として活動できるのです。ですが、原理を聞いて来た人は、そうできません。何のことか分かりますか?
今、韓米文化自由財団で、全国民に募金の手紙を送っています。ところで、百通送れば、大概四通あるいは二通以上は返事が来ます。二パーセント以上ということです。それでは本を読んで感銘を受けた人たちは、何パーセントと見るのか。それ以上と見るのです。こうして手紙を書いても二パーセントですが、私たちが直接訪ねていって精誠を尽くして分けてあげるようになると、それ以上の効果が現れると見るのです。分かりますか。ここに一パーセントだけとらえてもどれほどになりますか。また本を貸してあげるのに、ただ貸してあげるのではないのです。本を貸してあげてからは、中間くらいになって本を読む人に感想を聞き、いいという人には、本を売るのです。そうなれば、本もたくさん売れると見るのです。そうして原理に関心がある人がいれば、親戚のお母さん、お父さん、遠い親戚にも、「私が行って話をしてあげるので、全部集まるようにしてください」と言って、本を一冊ずつ分けてあげるのです。そうして、講義を続けながら、本をどこどこまで読みなさいといって、一週間ででも二週間ででも全部読ませ、そこについての解説をしてあげながら、勉強させるのです。
こういう所を何カ所かつくれば、その次には、自分のお母さん、お父さん、その親戚を集めて講義するのです。このように講義する所が十カ所できさえすれば、十人集まって集会ができるようになれば、父母なら父母、主人の両親なら両親に「きょう私が講義しますが、一度行ってみましょう」と言うのです。主人のお父さんが、「今まで、嫁ぎ先での生活をしないと町内でうわさが立ってきたが、一体全体何を言っているのか?」と言っても、「いい話なので一度行ってみましょう」と言うのです。お父さんが反対すれば、そのお父さんを伝道すると考えて原理のみ言を語るのです。原理の話をするのです。そうすれば、「ああ、うちの嫁は本当に立派だ」と、こうなるのです。一週間だけ聞けば、「後援するな」と言っても後援するようになるのです。(五五―二八九)
3 ビデオを通した伝道
統一教会の信徒たちは、今から原理の本三十冊、カセットテープ三十本、ビデオテープ三十本を持っていかなければなりません。ここにまた、ビデオテープレコーダー、それは、誰でも一つずつ持たなければなりません。これを今後、全員が持たなければなりません。分かりますか、何のことか。教区長、州責任者からそれを持つのです。分かりますか、何のことか? (はい)。(九七―二三一)
今まで私たちは、人がいないと言いましたが、事実人がいません。しかし、テープをいくつか準備しさえすれば、人がいなくても、十軒でも伝道でき、二十軒でも伝道できるのです。そして彼らが、「気分が悪い」と言うのでなく、「有り難い」と言うので、寄付金ももらえるのです。自分がお金をもうけなくても、活動できる費用をもらって使える道ができるのです。こうして、近ごろ来た人たち、きのう来たような人でも、テープに録音して分けてあげれば、それをもって伝道できます。これが急速度に、わずかな日の内に、全国的に多くの私たちの要員をつくることのできる最後の道だと考えているのです。(六五―三四一)
4 月一人伝道
私たち統一教会の信徒は、一カ月に一人ずつ伝道する運動をしなければなりません。二人もするなというのです。一カ月に各々、一人ずつだけ伝道すればいいのです。この運動は全世界的に展開するつもりです。日本はもちろんであり、アメリカ、ドイツなど、今まで世界巡回をしながら、世界の統一教会員たちにこの運動をせよと指示しました。もし、精誠を尽くしても駄目なら、他の方法を考えなければなりません。(二三―三一〇)
皆さんに先生が、「さあ、一カ月に一人ずつ伝道しなさい」と目的を提示したのです。それが目的なのです。動機は私になっているのです。皆さんが一つの主体になって、相手をつくるのです。ところで、それをしましたか? それをするためには夜でも昼でも、寝ても覚めても一切がそこに通じなければならず、そういう心が中心にならなければならないのです。見るのもそれなのです。聞くのもそれなのです。食事をするのもそれなのです。寝るのも全部そうしなければならないのです。そうしましたか? 全部しなかったというのです。いつでもそれが中心にならなければなりません。私が御飯を食べるのも、見るのも、聞くのも、寝るのも、服を着るのも、行ってみ言を伝えるのも、今戦うのも、全部そのためのものなのです。それが目的なのです。それが動機なのです。それを主体と対象間に一つつくらなければならないのです。
先生がさせることが、できないようですが、成されて余りあるのです。成されて余りあるようになっているというのです。偉大な業績が出るようになっているというのです。それが駄目なら神様が滅びたのであって、どうということがありますか? 成されるようになっているのです。それを、鼻歌を歌うように、寝言を言うように成してみなさい。成しますか? 寝ながらも、「一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人」こうして、目覚めてみなさい。そうなっているのかというのです。そうなっていますか?(六六―二六一)
皆さん、責任者たち、一カ月に一人伝道しなければならないという心がありますか? 食事もできず、夜寝なくても、しないといけないという人たちがいますか?(九四―一五八)
一カ月に一人ずつ伝道しなさい。これを世界的に命令しました。ところで先生に侍っている韓国の食口たちが、外国の食口に負けてもいいのですか? いくら難しくても、三十八度線を越えることより簡単ではありませんか?(二四―一八二)
今まで統一教会が活動したのは、サタン世界の外的な環境を崩すためのものでした。私たちが反対を受ける環境にいたので、そういう環境から民族を探し求めるための作戦にすぎないものでした。それで、統一教会自体の消耗が多かったのです。消耗戦をしたのです。しかし今は、そういう時が過ぎたので、個人なら個人が父母の心情をもって、一カ月に一人ずつだけ伝道せよというのです。そうすれば、伝道するのは、問題ではありません。もし、千人が一カ月に一人ずつだけ伝道するようになれば、一年に一万二千人になるのです。一年後には、十四万四千人になります。そのように三年だけ過ぎれば、統一教会員が百五十万人を超えるのであり、四年目には、千五百万人を超えるのです。そうなれば、何年か以内に韓国は復帰されるのです。
ですから、今まで、そういう原則を計画してきました。この人あの人、誰でも伝道してはいけないのです。分かりますか? 一人が一人だけ伝道するのです。分かりますか? そうすれば、次の月には、ここにいる数の何倍かになるのです。そうではないですか?(二三―三一一)
一日に三時間ずつ一カ月間精誠を尽くせば、間違いなく一人は伝道されるのです。ですから地方に行って、そういう基準を中心に、一日に十二時間以上精誠を尽くして努力すれば、間違いなく一週間に一人ずつ復帰できるのです。そういう原則を立て、今出ていって戦っているのです。分かりますか?
それ以外の教会の一般信徒たちは、少なくとも一カ月に一人ずつ伝道せよというのが先生の命令なのです。分かりますか?(五八―一一一)
一日に一人ずつ伝道できないという言葉が出るはずがありません。一日に一人が三時間以上伝道活動をするとすれば、一日に三時間ずつ三十日すれば、九十時間でしょう? そうでしょう? 一週間に九十時間しようとすれば、一日に十二時間はしなければならないのです。御飯を食べているのに、それができませんか? 男性でも女性でも、早朝からその業をするのです。一人一日に三時間ずつ、伝道活動を毎日して、一カ月に一人伝道できないというのは通じないのです。(五五―二八九)
5 八十四人伝道
伝道はできないはずがないというのです。夜も昼も手紙を書き、毎日のように電話せよというのです。自分の父母たちに「これをしないと私は死にます」と言え、というのです。祝福を受けた家庭も、ここにみな引っかかるのです。八十四人が、ここに引っかかるのです。それは何のことか分かりますか? (はい)。祝福を受ければ、天国に入れる門は開かれるが、行くことはできないのです。それは何のことか分かりますか? (はい)。
天国にはどのようにして入っていくのか。メシヤは世界を率いて入らなければならず、統一教会の信徒は、自分の親戚を率いて入らなければならないのです。それを知らなければならないのです。先生が来て、個人的に行く道、家庭的に行く道、氏族的に行く道、国家的に行く道、世界的に行く道をみな築いておいたのです。三人、十二人、七十二人、こうして、八十四人になるのです。(黒板に書かれながら語られる)これは、蘇生、長成、完成の三段階を経てくるというのです。(八九―二四七)
なぜ、一カ月に一人ずつ伝道しなければならないのか、それはなぜですか? なぜ七年とするのですか。七年は八十四カ月です。八十四カ月、これは十二弟子と七十二門徒です。モーセの前にあって十二支派に六人ずつ族長をさせるとき、七十二になるのです。ですから、七十門徒でなくて、七十二門徒なのです。
ですから族長を中心に、七人を立てました。分かりますか? (はい)。七人の編成がこうなっています。そうであればモーセを中心に七十二族長が蘇生で、十二支派が長成で、モーセが完成です。これが原理的です。ですから、三段階原則を中心に見るとき、私がモーセの代わりにならなければならず、私の前には十二支派がいなければならず、その次には七十二族長がいないといけないのです。そういう基準を今日、蕩減復帰しなければならないのです。
そうして、八十四人をもつというのは何ですか? イエス様がこの地に来て、何を探せなかったのかというと、十二弟子を探せなかったのです。民族を代表した、イスラエルの国の前に十二支派長をイエス様がもたなければならないのです。その支派の族長たちとは何かというと、祭司長だったというのです。十二祭司長が一つとなり、その次には、地方のすべての地方祭司長たちが、族長七十二人が、完全にイエス様の前に一つとなったなら、イエス様は死ななかったというのです。
これをどこから探さなければならないのかというと、教会と外部から、外的基準から探さなければなりません。これをザカリヤ家庭から探さなければならないのです。分かりますか? (はい)。ザカリヤ家庭、洗礼ヨハネを中心として探し、探して何をするのですか。自分の故郷に帰らなければならないというのです。そうして、カイン的ザカリヤ家庭と、アベル的ヨセフ家庭が一つとなり、初めて長子と次子が一つとなり、双子のような立場に立って、長子が次子の立場に立ったという基準から、弟を解放してあげなければならないのです。
もう一度言うと、ザカリヤの家庭は、カインの一族の場から、アベル一族と同じ場にいるヨセフ家庭を殺すのでなく……。堕落は殺すことでしょう? (はい)。カインが、アベルを殺したのと反対に、一族基準において、カイン一族である洗礼ヨハネの家庭が、アベルの一族であるヨセフの家庭を救わなければなりません。完全に救わなければなりません。
ヨセフの家庭が、あとから現れましたが、兄さんのように侍り、その前に完全に一つになることによって、歴史時代に兄さんが間違ったことを氏族的に蕩減するのです。氏族的に蕩減した三つの氏族だけ編成される日には、民族が自動的に編成されるのです。分かりますか? (はい)。民族編成が始まるのです。イエス様が、それをしようとして、できなかったというのです。八十四人が一つになれないことにより、故郷に帰って自分の一族と連結し、天道を引き継げる四千年ユダヤ教歴史と、ユダヤの国の歴史を引き継げる基盤を失ったというのです。それゆえに、イエス様の蕩減基準を成就しなくては、皆さんが祝福の場に、アダムの場に行けないというのです。分かりますか? (はい)。
ですから、すべての復帰路程を行く人たちは、運命的に八十四人を探さなければなりません。そうしないと、国に行く道を出発できないのです。分かりますか? (はい)。国なくしては世界に出ていくことはできません。先生がいくら世界の蕩減基準を立てたといっても、皆さんは、その場に出ていけないので、これを命懸けで、必死に努力をして、連結させようとしたのです。そうしないと、生きる道がないのです。皆さんの国と、皆さんの世界と、皆さんの天宙を探す道がありません。これをできずに行く日には、いくら先生を信じても、霊界に行ってからは引っかかるのです。門は開かれたのですが、行こうとしても、行けないのです。手続きが終わらず、待たなければならないというのです。
ですから、七年間に、七千年歴史に対して七年間にイエス様の恨とアダムの恨を……。アダムの恨とは何ですか? 信仰の三子女を救えないことです。その次にイエス様の恨は何ですか? その基盤で八十四人を蕩減して、本然の父母の立場に、真の父母の立場に、世界の中心である、世界の蕩減基準を立て、勝利なさった父母の立場に行けないことです。それゆえに、世界は運命的に不可避的にこの道を行かなければならないというのです。分かりますか? (はい)。
皆さんは祝福を受けたので、イエス様より上の立場ではないのですか? (はい)。同じなのです。皆さんを祝福したのは、先生の世界的蕩減基準を中心にして、ひもを引っ張って分けてあげるのです。皆さんに今、このことを代わりにしようといって、期間を延長してあげるのです。
それで、七年間に八十四人を運命をかけて、伝道しなければ駄目だというのです。七年を越えてはいけないのです。七年を越せば、二十一年かかります。二十一年路程で行けなければ、その次には、先生が二回三次七年路程に来たので、二回の三次七年路程のために四十年間を出発しなければならないのです。四十年かかっても、それをできなければ駄目なのです。成されない日には、六十年かけなければならないのです。(一二七―六九)
6 百二十人伝道
皆さんは国にすがって痛哭しなければなりません。「神様、この国を生かそうとされるのですか、殺そうとされるのですか?」と叫び、痛哭しなければなりません。そうして国家的なサタンを防いだのちに、その次には自分の氏族にすがったのち、痛哭しなければなりません。そうしなければならないのではないですか。そうでしょう? そういう人は、父母に対しては孝子であり、国に対しては忠臣だというのです。父母が完全であり得ず、国が完全でないことを知れば、それを補強するために孝子にならねばならず、忠臣にならなければならないのです。そのように孝子、忠臣にならずしては、天国には入れないというのです。
ですから、伝道をしなければなりませんか、しないほうがいいですか? (しなければなりません)。何人までしなければなりませんか? (百二十人までです)。百二十人までしようとすれば、四十年見て、一年に三人ずつ伝道しなければなりません。一年に正確に三人ずつ伝道をするとしても、四十年かかるのです。四十年を十年に蕩減できるのなら、皆さんは、四十年かかりますか。十年かかりますか? (十年です)。四十年を十年で蕩減しようというのです。そういうふうにしようとすれば、一カ月に一人ずつ伝道しなければなりません。
皆さん、十年なら江山も変化するというでしょう? この十年間、神様にすべての精誠を尽くさない限り、天上世界に行って、顔を上げられないのです。世間には、自分の父母のために十年以上精誠を尽くす人がたくさんいるし、国のためにも十年以上精誠を尽くす人が多くいるのです。ですから皆さんも最少限十年の単位はもたなければなりません。十年間、一カ月に一人ずつ伝道すれば百二十人です。この百二十人のために、私にある情熱と誠を尽くし、渾身の力を尽くさなければなりません。それが世界のための道であり、神様のための道です。(三四―二六九)
皆さんは氏族的メシヤになれというのです。これを具体的に歴史的な視覚から解いて話すなら、多くの時間がかかるので、話す時間がありません。皆さんは、氏族的メシヤにならなければなりません。そうなろうとすれば、皆さんが百二十人を伝道しなければなりません。皆さんのお母さん、お父さん、お兄さん、お姉さんなど、家族たちをみんな伝道すれば、どれだけいいですか? そうなれば、家で全部なすのです。ささいな、ペテロ、ヤコブのような漁夫たちを訪ねていってうわさを立て、十字架に死ぬようなことは必要ないのです。(三四―二九八)
第五章 牧会者と食口指導
第五章 牧会者と食口指導
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第一節 牧会者の指導姿勢一 牧会者がもつべき指導姿勢
1 牧会者は涙がなくてはならない
天は、皆さんを基盤にして環境を再び変革させる、その責任が果たされることを望むしかないということを知らなければなりません。ですから、公職にいる統一教会の信徒たちは、涙と共に復帰の心情をもって、すべての部署においてこういう運動を提示して、国家運動から世界運動まで展開しなくては、自ら涙したこの世界を天国に転換させ得る道がないという事実を知らなければなりません。
さあ、もう皆さんは分かったはずです。統一教会の人、本物の食口とはどういう食口であるかというと、涙を流す人であり、本物の責任者とはどういう人かというと、涙を流す人です。涙で堕落したので涙で復帰していくには、自分を中心にして泣くのでなく、神様を中心にして人類のために公的な涙をたくさん流さなければなりません。そういう涙を多く流した人ほど天の心情圏に近いのであり、それは因果法則によってもそうであらざるを得ないのです。
さあ、それで涙の出発をどこでしたのでしょうか。個人からしたなら個人的な涙を流し、その涙の基盤を通して家庭的な涙に発展し、家庭的な勝利を基準にして、氏族、民族、国家、世界に発展していかなければならないのです。分かりましたか、何の話か。(はい)。さあ、今まではこれを考えなかったのです。けれども、今み言を聞いてみると、事実がそうだったので、これから私は涙と共に天の心情に従い、人類のために涙を流そうという人は手を挙げてみなさい。(九四―三二四)
教会の責任者は目から涙が乾いてはいけません。世の中で本当にかわいそうな人は誰かといえば、教会の責任者です。いつも悲しみを抱いている人が教会の責任者です。神様の心情を思い、復帰摂理の時を思えば、神様がかわいそうだと感じる時が多いのです。どのようなことをして復帰の道を行かなければならないのかと考える時、私がこうであるからこういう道を行かないわけにはいかないと思う時、開いた口がふさがらず、のどが詰まって、胸が張り裂ける悲しみを感じる時が多いというのです。卒倒しそうに感じる時が多いというのです。こういう心情がなくては神様のための、神様の仕事をする人にはなれないのです。町内のどこかを歩いていて悪いものを見たなら「今は私がそのまま通り過ぎるけれども、この次に来た時に見てみよう。この私の手できれいに消し去っておくはずだ」。こういう考えをする人だというのです。(四六―二九八)
皆さんの目から涙が乾いてはなりません。責任者の目から涙が乾いては駄目だというのです。考えてみてください。先生について正しく知り、真心から先生を思うなら目に涙が乾くことがありますか? 先生は苦労すべき人ではありません。時にうまく出会えず、この民族が責任を果たせなくて、こうして苦労しているのです。(三三―一一八)
皆さん、感謝の涙を流してみましたか? 感謝して流す涙が雨垂れのように切れ目をつくらず、流れ落ちて自分の周囲を浸し、自分が立っている所に雨が降ったと感じるほど、痛哭しなければならないことを知らなければなりません。(一九八八・一〇・三)
ここに集まった皆さんは、地方に出ていって責任を負って動いているからには、いつもこういう観点を失ってはならないというのです。ある時は、自分でも知らないうちに寂しさが心に染み込む時があるはずです。そういう時はその寂しさが自分の寂しさではなく、神様が受けられる寂しさであり、天使世界が受ける寂しさであり、私たちの先祖が受ける寂しさだということを知らなければなりません。そういう時ごとに、皆さんはその心情の内に入り込んで共に涙を流してあげることができなければなりません。(一四―九)
皆さんの中で人知れず痛哭した人たちもいるはずです。草の根にすがって「神様! 私の恨みを解いてくださいませ」、あるいは岩にしがみついて「お前だけは分かるはずだ。初めに被造世界を造られた神様の願いが分かるはずだし、アダム・エバが堕落した時の神様の恨めしさも分かるはずだし、彼らを堕落させた天使が神様の前にどういう怨讐であるかということも分かるはずだ」と、何度も訴えたはずです。(一四―一〇)
愛国者は民族のための涙がまず先立つのです。これを知らなければなりません。分かるでしょう? 愛国者はその国民を眺めるとき涙が先に立つのです。孝子は父母を思うとき涙がにじむのです。父母のために物を買うとき、涙が先に立ってその物を選んだなら、どんなに悪い父母でもその孝子の前では溶けていくのです。そういうものです。分かりますか? 父母の愛は涙に従っていくのです。兄弟間の真実の愛も涙に従っていくのです。そうでしょう? そうなるのです。
それゆえに教役者としては、涙がなければ駄目なのです。食口が訪ねてくればうれしくて、涙が先立つ事情に徹してみなさいというのです。そうすれば、その家庭に人の痕跡が消えるかどうか見てみなさい。消えないというのです。それは間違いない事実です。愛をもった者は涙が先に立つものです。(五〇―三一七)
この国が生きる道はただ一つしかないというのです。三千万民衆が大きな声で痛哭し、涙を流すところに返り立つのです。痛哭する前は生きる道理がないのです。それでは誰が痛哭させるのでしょうか? 私たちが汗を流して積み上げた過去の歴史が、その材料が痛哭させるのです。なぜでしょうか。数多くの人たちが自分勝手に殴って追い出し、ありとあらゆるまねをし、使い回し、召使の真似をさせたのです。時が来ればその事実によって、三千万民族がこのみ旨を奉らなければならなくなるのです。十人の人がある部落に行って苦労したなら、十人の人が過ぎた日の事情を話すのです。みんな集まって「私たちはこの部落で過去こうでした。あるおじいさんがこうして追放し、誰がこうして棍棒でしたたか打って……」と。行って事実を報告するとき、その部落民たちが痛哭することによって、そこから犠牲の道が起こっていくのです。(一五五―三三〇)
皆さんの目に天に対する涙が乾いています。生きているお父様に侍り、感情をもっているお父様に侍って、孝子、忠臣の道を歩むという皆さんの目に涙が乾いています。それでは駄目です。(五六―三四)
皆さんがそうですか? 皆さんの教会がそうですか? 冷え冷えとして、冷気が立ち込め、ただ乾き果てて……。それは駄目だというのです。それは皆さん自身がそうだからです。そうならば、責任者はその町内を見ながら自己反省をしなければなりません。「どこそこの町よ! お前は福が多い町か? 災いを受ける町か?」というように……。皆さん自身の心性は、皆さん自身がよく知っているのです。「先生が教えてくれた道理を中心にして、天理の道理を中心にして生きるのが原則なのに、私自身がそうなっていないので、私に頼って天の道理を探そうというお前たちはかわいそうな者ではないか。それでも私を鞭打って、私とお前と互いが訓練し合って、互いに教え、教えを受けながら天の道を尋ねなければならない共同の路線を探してみなければならないのではないか」。こういう一問一答式の祈祷をしてみなさい。やってみましたか? これは、人が来たなら「ああ、献金する人、献金をよくしてくれる人は誰か。私に助けになる人は誰か」。絶対にそういう考えをするなというのです。
昔、私は釜山に巡回に行きました。先生が来るというので若い人たちはみな駆けつけて、背の高い者たちが……。ところで、彼らの後ろに八十歳になるおばあさんがいたのです。そのおばあさんがついてきて涙をぼろぼろ流しながら、「ああ、私も若くして先生に会ったならどんなに良かっただろうか」と嘆くのを私は見たのです。食口たちはその夕方にも先生が話してくれるものだと思っていました。しかし話をしてあげなかったのです。そのおばあさん一人を連れて夜を明かしたのです。そういう心、それが神様の心だというのです。皆さんの心もそうあるべきです。(八一―三二七)
皆さんの目から涙が乾いたというのです。皆さんは信仰の道に入ってきて、涙、鼻水、よだれ、その三つが集まった水になって、そばのように伸びてしゃくりあげるとき、息が詰まってあえぐようになるまで痛哭をしてみなければならないのです。何の話か分かりますか? (はい)。そうやって泣けば唇が全部はれます。口の中まで全部はれあがるくらいに、そういう悲痛な涙を流してみなければなりません。(五六―三六)
2 関心がなければならない
考えていないものが因縁を結ぶことはできず、因縁を結んでいないものが関係を成立させることはできません。(二一―八六)
今日、人々は人に対してあまりにも無関心です。横的関係において、横的な因縁を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対して煩わしく思っています。人が煩わしくなると修道の道を行く人になれません。
神様が復帰摂理をされるとき、私たち大韓民国だけを必要とされるのではありません。世界三十億人類を、すべて必要とされているのです。そのため、人に対する深い関心をもっておられるのです。これは今まで神様の摂理の中で、一番重要な目標でした。私たちがその目標を成すために集まった群れであるならば、すべての人に対して、神様と同じ位置から関心をもって対してあげることができなければならないのです。
これはうわべだけそうするのではありません。本心からわき上がってくる心をもつようになるとき、最高の因縁を結実する位置に立つことができるのであり、関係を結ぶにあたっても最高の関係を結んだ位置に立つことができるのです。こういうことを知って、これから食口はどんな困難があり、どんな環境にぶつかって苦難を受けるときにも、互いが受けたのと同じ心情で、同情する心をもたなければなりません。
人を愛するにあたって誰よりも先頭に立つとき、どんなに秋が来て、冬のような試練の絶頂が来たとしても、突き抜いて出ていくことのできる生命力をもつようになるのです。それで、そういう生命力は春に向かって力いっぱい生き残って、新しい世界の生命の母体になるということを皆さんが感じるよう願います。(二五―二九一)
私たちが心霊を指導するためには相手の心を観察することができ、相手の難しい問題に対して敏感でなければなりません。商売する人たちは、ある家へ行って犬がほえただけでも、この家の人がこの品物を買ってくれるかどうかが分かるのです。多くやってみると、買ってくれる人の表情がどうだという統計が出るのです。そして買わないという人に買わせる基準、そういう能力もなければならないのです。
そういう経験を多くすれば、相手に会ってその顔をさっと見ればもう、心配があるのかどうか一遍に分かるのです。何を見れば分かるのかといえば、目を見て、唇を見れば分かるのです。深刻になる時は、目が変わり、口が変わるのです。そうですか、そうではないですか? 好きになればすぐここ、ここが変わるのです。研究してごらんなさい。そうかそうでないか。笑おうとするとき目と口と……。
なぜそうかといえば、顔には動くものが二つしかないのです。心の表情があるなら必ず動作するようになるのです。ですから皆さんが話をすれば、喜んでいるのか、嫌がっているのか一遍に分かるのです。何を見て分かるのかといえば、目と口を見て分かるのです。それを測定してみれば、この人が「ハハハッ」と笑える度数がどのくらい満ちているかということが分かるのです。その測定方法をキャッチして、皆さんが心霊を分析して指導していかなければなりません。
そうしようとするならば関心がなければなりません。関心がなくてそれをキャッチできますか? 先生は誰とでも三日間だけ一緒にいれば、その人のすべてのことをキャッチすることができるのです。座るのを見ても大儀そうに座るのかそうでないのかを一遍に分析できるのです。今それが評判になっています。
私が、自分の問題を扱ってくれ、自分の問題を考えてくれ、自分の問題を問題視してくれたなら、その人は自然に私に対して有り難く考え、関心をもたないわけにはいかないのです。それを研究しなければならないのです。(六九―一六六)
食口(被伝道者)に対するとき、関心と愛着をもって興味深く対しなさい。(二三―二四九)
完全な主体の前には必ず相対が現れます。これが真理です。どこででも習いなさい。そういう人は通り過ぎるこじきの足どり、小鳥の鳴き声からも啓示を受けます。考えもせず関心をもたなければ、良いものと関係を結ぶことはできません。考え、関心をもって良いものと関係を結びなさい。(一四―九六)
3 熱意がなければならない
人間は誰でも熱意をもつ人に憧れるものです。熱意をもって直行しようとする人は、その行く手に冒険が加重されてこようとも、それを打破することができるものです。しかし熱意がない努力は、中断されやすいものです。
ですから前進を願う私たちにおいて一番必要なものは、私自身がどうやって連続的に前進することができる熱意の補給を受けるかが問題です。熱意がなければ刺激を受けることができないのです。また熱意のない刺激は必要がないのです。強い刺激は強い熱意によって因縁づけられるという事実を考えるとき、熱意に満ちた環境、熱意にみなぎる個体、熱意にみなぎる相対を追求しなければならないのです。
完成された人格、無限な人格を追求する私たち人間には、無限な熱意がなくては駄目なのです。無限な人格を追求することのできる私たち自身を見るとき、いつでも連続的にその熱意を追求することのできる自分自身になっているのか、そうでないならそういう熱意をもって目的を達成させようとする私自身になっているのかが重要な問題です。
こういう二つの立場のうち、どちらか一つの立場をなさずには、完成された人格を追求することはできないのです。(三六―九八)
神様を追求する私たちにおいて信仰生活を中心にしてみるとき、信仰の道には必ず冒険があとに続くのです。それは環境とともにこれを解決しなければならない闘いの路程が残っているからです。そういう道を強い信念をもっていくなら、その信念に比例するくらい消耗戦が起こるようになります。その時、その消耗戦を克服して余りある熱意がないときは、その環境で、前進どころか後退するようになるのです。そうならないようにするには、そういう熱意を補給させ得る力が自体内にあるかどうか、それがなければ相対的にそういう母体である神様と因縁を結んで、その熱意の補給を受けなければなりません。そうでなければ前進することができないのです。
それでは、神様はいつもそういう熱意に徹することのできる位置にいらっしゃるのかという問題を見るとき、当然神様はそういう位置にいらっしゃらなければなりません。ですから、そういう位置にいることのできない人間をその道に押し出すことができるのです。神様は全知全能の方であり、できないことがない主体であられるので、熱意においても主体になられるのです。しかしどんなに神様が熱意の主体であられるとしても、私自身が自ら熱意を受け入れることのできる地になっていなければならないということを、私たちは知らなければなりません。(三六―九八)
それでは、私たちが神様の熱意の補給を受けるために必要なものとは何でしょうか? 神様は純粋ですから私たち自身も純粋でなければなりません。ここで第三の目的を追求するとき、私たちはその目的が私と共に永遠な因縁で結ばれることを切に感じなければなりません。言い換えれば、それは三角関係にありますが、私の中にあるものであり、私と共にあり得るというのです。
私たちの自体内にあるその目的意識をどれほど自覚できるかという、その自覚の感度が熱意に変わり、熱意の本体であられる神様を誘導することのできる導火線にならなければなりません。
ところが私自身が無力で熱意の導火線になる道がなくなるときは、神様と私との関係を一致させることができないのです。言い換えれば、一つの動脈があれば一つの静脈にならなければならず、一カ所から与えれば一カ所から受けなければならず、百を与えれば百を受け入れることのできる私自身にならなければならないというのです。
それでは熱意を誘発させることのできるその動機とは何でしょうか? それは純粋でなければなりません。邪悪なものがあってはなりません。百が入ってきたら百として純粋に反映させることができなければなりません。これが問題になるのです。また、その熱意というものはどこから発生するのでしょうか? 純粋なものを基盤にして発生するのです。その純粋な基盤を中心にして熱意をどのくらい追求するのか、どのくらい必要とするのかということによって発生するのです。言い換えれば、どのくらい思慕し、どのくらい欽慕し、私自身がその無限な熱意の主体の前に現れることができるのかということが問題になるのです。そこには慕わしさが先立たなければならず、切実さが先立たなければならないのです。切実さがあるその裏面には、必ず熱意があるという事実を私たちは考えなければなりません。
その主体が神様だと考えるようになるとき、私たちは神様に会いたいし、出会いたいし、一緒にいたいだけでなく、神様の愛を受けたいし、愛を受けながらその愛の中で生きたいし、その愛の中で有終の美を飾りたいし、欽慕の心情がなければならないのです。こういう願いの心が切実なところから純粋な地を中心にすれば、神様のその愛の因縁が私と共に関係を結ぶのです。このように考えるとき、私たち自身がどれほど神様を慕わしく思うのかという問題が生じるのです。
どれほど神様を欽慕し、思慕したのでしょうか? 現在の私の立場をすべて忘れて、神様の前にすっかりささげることのできる立場に立っているのかという問題、言い換えれば、完全なプラスの前に完全なマイナスになることができるのかという問題が生じるのです。その完全なマイナスとして完全なプラスの前に対することができる、そういう境地に入るようになれば、完全なプラスは完全なマイナスに対して直行してくるのです。純粋な直行の行路を通して、その完全なプラスは完全なマイナスに向かって突進してくるというのです。そこで、マイナスは新しく後方から押してくれる反対の作用を引き起こすのです。(三六―九九)
4 包容性がなければならない
今、皆さんは縮こまり、みすぼらしく見え、粗末な着物を着ているけれども、すべてのものを備えて内外に立体性を取りそろえていれば、美しく見えるのです。そのときの美というのは、天地宇宙を与えても換えることのできない最高の美なのです。先生の目で見てもそうですから、神様が見ればなおさらです。こういう資質を備えれば、天地すべてのものは皆さんに入っているのです。目を見ればその目に天地の悲しみが入っており、手や足、どこを見ても天地を代表するものがあるのです。こういう傑作品をつくろうというのが先生の志です。
先生が若かった時は、古物商に行って他人が着て捨てた安物の服を買って、着て歩きました。若い女性たちがついて来れないように、臭いがする服を着て歩きました。横に行けば避けて逃げる、そういう服を着て歩きました。統一教会の男なら大ざっぱでなければなりません。靴下に穴が開いていても堂々としていることができなければなりません。大きい山には、生えている樹木が多く、五色の鳥や動物たちが巣くうのと同じように、皆さんもすべてのものが宿ることができる、そのような何かをもたなければなりません。そうすれば自分の全体の姿勢を備えて、それが一つの美として現れるようになるのです。服を立派に着たからといって美しいのではなく、立派に装ったからといって美しいのではありません。天地に評判になり、関心の的になり、全部がうらやましがることのできる自分にならなければなりません。(一四―二九)
皆さんが最初に教会に来た時に喜んだその喜びが、全部倒れてしまってはいけません。それが正常に蒔かれた一つの種になっていれば、そこから実を結んで数十、数百の種を刈り取り、その種をまた蒔いたなら数十、数百の春の日を迎えるのではないでしょうか。寂寞たる江山の上に一輪の花が咲き、数多くの花を咲かせ、花畑をなして、数多くの香りを漂わすことのできる香気の園をつくらなければならないのではないでしょうか。皆さん自身が、そういう香りを漂わすことのできる結実した園の真ん中に立っているのでしょうか? そうなり得ていないのです。
私が自分自ら漂わす香りを楽しむということは孤独なことです。しかし多くの香りの中で、たくさんの香りとともに私がかもし出す香りは高貴なものです。それは大衆が宿ることができ、万物が和動することができる要件になるのです。しかし一つだけでは寂しくわびしいものです。(六〇―二六)
責任者には、生命の感謝と生命の潤いがいつでも泉のように流れ出る、そういう何かが自分自らになければならないのです。苦痛に満ちていても平安であり、そこに安息することができる、ねぐらと同じように生命が宿ることができる、そういう安息所が自分の心になければなりません。その姿勢、そういう位置に立って、その次にどうなるのか? そうであるならば神様が共になされるのです。結局何かといえば、上下関係の連結をしなければならないというのです。(七〇―一四八)
愛のリーダーは融通性があるものです。すなわち、正しくかみ合いさえすれば、どこへでも入らずにはいられないというのです。全部が入るようになっています。そうだとすれば、それはどれほど格好がいいでしょうか。そうすることができれば、神様が通じます。(一一九―一九五)
5 山(鉱脈)を当てた鉱夫の例え話
昔、アメリカの東部の人たちが西部を開拓することができた要因とは何だったのでしょうか? その時の政治家たちの政策的な宣伝です。西部に黄金の山がある、何かがあるといい、天地に敷かれたものがすべて鉱脈であり、金の塊で、それは先に行って取り出した人のものだと宣伝をしました。それで死ぬか生きるかも知らず、インディアンであれ何であれ、生命を投げ出し、同僚が死んで倒れたのを見ても、もう少し行ってみよう、またもう少し行ってみようということで西部を開拓したのです。彼らはうわさが事実であると思ったので、みんな死んだとしても自分が残った日には、一獲千金を目指して天下第一のお金持ちになれるだろうという願いに火がついたため、西部を開拓することができたのです。
人々はそうです。鉱夫は鉱脈を当てるために出かけて、疲労困憊して死の境に至って、つるはしをもう一度だけ振るえば倒れる瞬間だとしても、もう十回だけ掘れば間違いなく鉱脈が出るとしたらどうしますか? 皆さんなら、つるはしを振るいますか、振るいませんか? 死の際だとしてもやるというのです。ですから問題はどこにあるのでしょうか? 皆さん自身にあるというのです。
皆さんが神様がおられることを知ったなら荷物をまとめなければなりません。嫁に行くとか、婿に行くとか、引っ越しをしなければならないならば、それに対して準備をしなければならないのと同じように、準備をするのが信仰生活です。引っ越し荷物を作って、行く準備をするのが信仰生活だというのです。
そういう瞬間が来るのです。今と同じ世の中に、ただそのまま暮らしていてはいけません。滅びていく世の中の汚いほこりをすべて払い落とし、つばを吐いて「私は行く」という心で、荷物をまとめて、新しい世界に行く準備をする生活が信仰生活です。これは間違いない言葉です。
神様がここに生きようとされるでしょうか? 神様が、皆さんが今住んでいる所でそのまま生きようとされるかというのです。ですから荷物をまとめなさいというのです。世間とは因縁を切らなければならないのです。
それでは、荷物をまとめてどこに行くのでしょうか? それが漠然としているから心配なのであって、そこを確実に知りさえすれば死んでもいいというのです。私がすべての精誠と生命を尽くしてこの道を行くのはこの道が間違いない道だからであり、この道をすべて行き尽くしたら、私が磨いておいた苦労の基盤を、そのまま人類歴史に相続してあげることができるということに生き甲斐を感じるからです。(三三―二三五)
大衆を指導するには、一つの方法だけをもっては駄目なのです。分かりますか? 松の木の根を掘ってごらんなさい。牛の角ではなく松の木の根です。松の木の根には筒の根があります。それをうやむやにしたら抜くことができないのです。もてる力を尽くして腰が折れるほどに一気に抜いてしまってこそ、根の先が切れずに出てくるようになっているのです。そういうふうに抜くときに一気に抜いてしまわなければなりません。ごっそり、全部一度にです。割れ目だけできれば、ダイナマイトを使わなくてもいいのです。(一二二―一六五)
大衆指導をしようとすれば、指導することのできる才覚がなければなりません。指導するということは順理的にはいかないのです。しかし一発たたいておいてやるようになれば、すべて動くのです。全部たたくのではなく、代表的に立たせてぶん殴るのです。そうなのです。他人は先生を悪く言うかもしれませんが、悪口を言う人が何人になるでしょうか。そうしないで六千名にどのように相手をつくってあげますか。もじもじしていたら何もできないのです。さっさっさっとしなければならないのです。何の話か分かりますか? (はい)。(一二一―五四)
二 父母の立場の牧会者
二 父母の立場の牧会者
P796
1 牧会者は父母の立場である今後、皆さんは個人的な責任を果たさなければなりません。統一教会の地域長や区域長としての責任よりも、個人としての責任を果たさなければならないのです。世界的伝統を中心として、個人としての責任を果たしたかどうかが問題です。その次に、責任者として責任を果たしたのか、教会長なら教会長としての責任を果たしたのかが問題です。
教会長は父母の立場です。父母は、子供たちをみな寝かせてしまうまでは先に寝られないのです。病気でない限りそうすることができないのです。分別つかない息子、娘のあすを心配しながら涙を流し、生活の難しさを感じるときには胸を締めつけられながら、その息子、娘のために幸福を祈ったのちに寝床に入るのが父母の心なのです。同じように、責任者は眠ることができないようにならなければならないのです。そして早朝や夜に静かな時間ができれば、自分の教会の食口たちのために人知れず涙を流し、精誠を尽くしてあげなければなりません。何の話か分かりますか? そうすれば基盤が築かれるのです。
このように子供を育ててどうしなければならないのでしょうか? 教会よりも国のために生きることができる愛国者にしなければなりません。そのためには父母が手本を見せなければなりません。手本を見せてあげながら教育する父母が正しい父母です。愛で正しい教育をしたのちに「やりなさい」と言ってこそ、正しい父母だというのです。皆さんがそういう生活をするようになれば、神様は皆さんから去ろうとしても去ることができません。また、そういう人には何か分からない強い力があって、すべての人の視線を自動的に引くようになるのです。その人に関心をもたざるを得ないのです。
冬に火鉢に火を燃やしておいたら、冷たい火鉢と熱い火鉢を説明しなくても誰でも分かるので、「行くな」と言っても熱い火鉢を探して行くようになるのです。同じように、皆さんもそうやって人が探しにくる人にならなければならないのです。そういう伝統的基盤を備えて犠牲的覚悟のもと、個人の新しい伝統を拡大させて家庭的基盤に連結させ、それによって氏族、民族、国家を形成するのです。これが天の行く道です。(三四―三一)
父母はその子供の生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれるし、育ててくれるし、愛してくれるのです。(五一―一七三)
2 父母の心情とは
皆さんが食口たちにさっと対するようになれば、すべての食口たちが集まった所で勧告するときは、自分が勧告するなというのです。私もそうです。私が今まで数多くの人たちを率いてきて、誤った人がたくさんいましたが、誤った時ちらっと見て「百回許してやろう」と心をそう決めて対するのです。先生は対する人たちを百回許してあげるのです。それが父の心なのです。
例を挙げていえば、今自分の息子が殺人強盗をして死刑囚になったとします。それで息子が刑場に引かれていく刹那に自分の息子を眺める父母の心が「やあ、お前はよく死ぬ。さあ、早く死ななければならないだろう? こいつめ」と言いますか? 心はそうだとしても、その心情は千度、万度許すことができる道があるなら許してあげたいのが父母の心です。そういう雅量をもって対するのです。千度許してやるという……。
けれども問題が違ってくるのです。私もそうした過去があった、私がそういう立場に立ったなら神様はどうするでしょうか? それは困るのではないですか? 私が現在そういう失敗を犯したなら、天は私をどのように処理するのでしょうか? 責任を背負った分野でこのようにしくじったならどうするのでしょうか? 今まで忠誠を尽くした基準もあるけれど、その基準を見るとき、要望したことがよくできなかったといって全部「この野郎」とたたき壊そうとするのかというのです。天がそういう立場に立てば、千度考慮するはずだというのです。そうして深刻な位置で……。そうして勧告を受ければ、鞭を受けてこうしても……。
今、統一教会に来た人たちの中で落ちて出ていった人がたくさんいます。その人たちの中のある人に会って、約三十分話をしました。秘密のような話を……。自分の位置を確保して来ようとしないとき、私はその人を憎みません。普通なら反対の立場で、「あらゆる非常に奇怪な罰、やあ、落雷を受けて死ねばいい……」と考えるかもしれません。しかし「分からないからそうなんだ、そうあり得る」と、その人の立場で思うのです。こうやって是正してあげたので、責任者もそういう観点からなさなければなりません。そういう人は心情を連結することができるのです。
そうしておけば、どんなに強烈な話をしても、私がそういう関心を表示したので、良心の呵責を感じません。良心の呵責にならないのです。そこには度を越して決断を下したとしても、まず対したその心情がそれ以上大きい基準になったために、天が私にくれた条件をかけて出ることができるのです。すべて方法があるというのです。(一五七―二五九)
父の心情を私が今まで話して教えてきましたが、この地上に四千年ぶりに送ったイエス様が十字架で死ぬ時に、父の心情の深い谷間を私が……。それをまるで知らなかったのです。結局それを考えるとき、神様の前に私が尽くした忠誠は、死の峠を切り抜けていくことのできる忠誠の基準ではなかったのです。それ以下で行ったり来たりする忠誠であり、そのように骨がびりびり溶け出る深刻な忠誠ではなかったということです。たとえ私が父の前に祈るものが……。(一五八―一五三)
3 父母の立場の責任者としてもたなければならない心の姿勢
皆さんが町内で貧しい人を見たり、御飯を食べてその人の家の前を通るとき、涙を流さなければなりません。皆さんの姿勢がそうでなければなりません。「この人がこのように貧しいのは、人類の祖先になる人が誤って堕落したためだ。私は父母の使命をもってこの町に来たのだから、この人に責任をもってあげなければならないのに、この町に来て一年が過ぎたのに、この人に与えたものは何だろうか? 何の恵沢も与えていないな」と思って、その家の前を過ぎるときは頭を下げ、涙を流しながら父を呼び、祈ることのできる心をもたなければなりません。皆さん、そういう心をもってみましたか? これが原理的なものなのです。
また、町内の子供たちが食べる物も食べられず、着る物も着られないのを見たら、胸を痛めなければなりません。「お前たちがこのようになったのは誰のせいだろうか? 私のせいでこうなのですね? この町が天国に行くためには、父母として来た私を中心にして足場をつくらなくては、カインの橋を架けることができない。この足場を経ずしては、父母の因縁を結ばずしては天国に行くことができない。私と、あなたたちと、この村は、真の因縁があって出会ったのだから、私は生死を懸けて最後まで父母としての責任を果たそう」という心が夜でも昼でも、寝ても覚めてもなければなりません。これが、父母の立場にいる地方の責任者がもたなければならない心の姿勢です。
スプーンを取るときは、その町内に御飯を食べられないかわいそうな人がいれば、彼らを訪問して御飯をみな分け与えて、彼らから「どうぞ私をそのままにしてスプーンを取ってください」と勧められるまではスプーンを取れないのが父母です。それが父母だというのです。子供をもった父母が、自分の御飯を一人で食べることができますか? 父母は「さあ、食べなさい。さあ、食べなさい」と子供たちに分けて食べさせてあげるとき、その中で分別のついた子供から、「お母さん、お父さん、私たちはもういいですから、どうぞお母さん、お父さんが召し上がってください」という言葉を聞いてこそ、その御飯を食べることができるのです。そういう立場で御飯を食べるようになるとき、その御飯は希望と愛の心で食べることのできる御飯になるのです。その御飯は悲しい御飯でなく幸福の御飯であり、絶望の御飯でなく希望の御飯であり、父母と子供がその御飯を食べるその場は終わりになる場でなく、天倫の因縁が新しく結ばれ、天と地の因縁が新しく結ばれる場になるのです。ですからその御飯は福になる御飯であり、その基盤は幸福の基盤になるのです。そういう段階から落ちないように願うのが、父母の心情ではないでしょうか?
皆さん、道端で遊んでいる、着る物も着られず食べる物も食べられないで骨だけ残っているような子供たちを見たら、自分の子供たちと同じく胸に抱いてやることができなければなりません。それができないなら、子供を生んでおいて責任を果たせない父母と同じく、自分の子供を乳母にあげたり、またはある町に捨てた母が自分の子供が育っている家の前を通ってその子供を見るとき、その子供の前に顔を上げられない恥ずかしさを感じる、それ以上の恥ずかしさを感じなければならないのです。これが心情の因縁です。もし、自分が生んだ息子、娘がそうやってやせ細っていたら、その子にすがって骨が溶けて肉がゆがむように涙を流さないでしょうか?
復帰歴史路程において、父母がいてもその父母を分からずに何千年の間、流離孤客(注:離ればなれになること)し、怨讐から引きずり回されながらも滅びず、種として今日まで残った血族の因縁はどれほど福となり、どれほど貴いことでしょうか。神様が私たちの国を滅ぼさず、後孫を残すようにされるために、その種子が途切れない位置に「私」を立ててくださったことに対して感謝する心をもたなければなりません。皆さんがその心を中心にして父母の心情を体得することのできる位置ができるようになる日には、絶対に飢えないようになります。町内が飢える前には皆さんが飢えては駄目だというのです。そういう位置にいるのに飢えるようになれば、その町内はすべて滅びるのです。
そういう心をもたなければなりません。人を見てもそうだし、牛を見てもそうです。「この野郎、牛め、お前が真の父母の鞭を受けながら田畑を耕すならどんなにいいだろうか? かわいそうな孤児と同じ身の上、僕の身の上、その運命を選ぶことができないそういう立場にいるお前がかわいそうだなあ」と言いながら、牛の耳をつかまえて額を打ち合わせてオンオンと泣くことができる、そういう心を遣うことができなければなりません。
畑を眺めてもそうであり、木を眺めてもそうです。「お前たち、歴史的な恨みがあるなら、きょう私を見て解きなさい。願望成就の欲望があるなら私に言いなさい。私が天のみ旨と因縁を結んであげよう」と言わなければなりません。み旨を眺めても、山河を眺めても、「私がお前を見捨てようか? 谷間谷間ごとに私がみな行ってあげよう」と言えなければなりません。今まで主人が行けなかった深い山中にある木まで探して「きょう私がお前を探してこの山中に来たのは、お前と同じ山中にある木たちが寂しいだろうと感じたからだ。だからお前を代表的に訪ねてきた」と言いながら、町内なら町内、郡なら郡にある山の木たちを代表する立場に立たせておいて祈ってあげ、きょうの喜びを末永く伝承して、きょうをもってすべての悲しみを解怨し、後代にはこういう悲しみをもたないように祈ってあげることができなければならないのです。
岩を眺めたら「お前は多くの人たちから何の願いを聞いたのか? 多くの人たちがお前を眺めて願望し、お前を眺めて呪い、お前を眺めてあらゆる思いをしただろうが、私はそうではない。お前が私に出会い喜ぶことのできるきょうを、どれほど待ち望んだのか?」と言いながら、岩が悲しむ前に先に悲しい表情をして、涙が前を覆う心情をもっていく皆さんになったなら、皆さんが行く道は絶対滅びないのです。
皆さんが苦しくなろうとすると、皆さんの先祖が遮ります。先祖たちは僕の僕の位置にいるので、僕である皆さんが行けば、皆さんに先だって先祖たちが苦労しなければならないのです。それで霊界が動員されて、自分たちの後孫に協助してくれる業が起こってくるのです。そうですか、そうでないですか?
これは神様を中心にして見るときも同じです。神様が父母の心情で天使長を愛しアダムを愛するとき、神様が受難を受けるようなことが起こってくれば、霊界に属する存在全体が神様に協助するために動員されるのではないですか? 同じような道理だというのです。皆さんが父母の心情をもてば、そういうことが起こってくるのです。分かりますか?
すべてのことが私の責任だというのです。「お前たちが打たれる前に私が打たれ、お前たちが苦痛を受ける前に私が苦痛を受け、お前たちが受難を受ける前に私が受難を受けよう。この町内がきれいでないのも私の責任であり、この町内全体に天国の起源をつくれないのも私の責任だ」と考えながら苦労し、夜に戻ってきて彼らのために福を請うことができなければなりません。自分の一生を懸けて嘆息するのではなく、その村とその村の後孫たちを懸けて嘆息する立場に立たなければなりません。父母の心情をもってこういう立場に立った人こそ、その町内が先祖に迎えたい人ではないですか? そうでしょう? (はい)。(四六―二八〇)
4 父母の心情で食口たちに対しなさい
お母さんお父さんが、子供を愛することを習ってしてくれるのですか? お母さんが子供を愛することを習いましたか、習いませんか? (習いませんでした)。習いませんでしたね? また、子供がお母さんお父さんを恋しがり、お母さんお父さんに従っていくことを習いましたか? 習いませんでしたか? 習うとは何を習うのですか。自動的に分かるようになっているのです。男性が女性を愛し、女性が男性を愛することを教えてあげましたか? それと同じように、心情の世界では自動的に分かるようになるのです。そこでは教育とか権力とかいうものは必要ありません。考えてみなさい。あなたたち開拓時代に十五、十六歳の娘や若者たちが出ていって開拓をたくさんしましたか、大学生たちが出ていって開拓をたくさんしましたか? (十五、十六歳の娘や若者たちです)。それ、みんなあるでしょう? 心情的な問題が……。大学生は、自分に実力があったら自分を信じるのです。そういう立場に立たずに、皆さんはこれから姿勢を父母の心情で……。今までの私たちの標語は何ですか? 父母の心情で汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにどうするということを、先生はいたずらに主張したのですか? 先生がそう生きたのです。その標語どおりに出ていって伝道してみなさい。先生の話が本当かうそかテストしてみなさい。食口がいないなら戸を開けておいて食口を恋しがること、それは紙一重の差です。そうやってみれば来る音がみな聞こえるのです。そのように恋しいのです。そのようになってみなさい。来るか来ないか、必ず道が開かれるようになっているのです。
姜賢実が初めてポンネッコルに訪ねてきた時もそうでした。先生は山に登れば失った子供を恋しがる心でした。姜賢実が来る音が聞こえるのですが、その時は先生はそんな心情の真っただ中だったのです。周囲には誰もいませんでした。この壁を心情で崩したのです。堕落の心情でふさがったものを天の心情で取り崩したのです。ですから駆り立てて入ってくるのです。分かりますか? 今までそうやって伝道しなかったために、みなごろつきになったのです。
そこに入れば、食べるものは準備したものが積まれたというのです。食口たちがみな持ってくるようになっています。(笑い) 神様の息子、娘は絶対飢えて死なないのです。あなたたちが出て伝道するとき、開拓するときのことです。地域長たちや伝道隊員たちが出ていって飢えていることを知ったなら、それを知った人たちは御飯が食べられないのです。のどが詰まるようになっています。
先生が監獄にいるとき、私は何もしないでいても「何番にはったい粉を持っていけ」と言ったといって持ってきます。そうして私ははったい粉をたくさんもらって食べました。この囚人たちは、ただ死ぬのが嫌なのですね。しかし、飢えて死んだらどうです? 天国に行くでしょう。そういう賭けをして生きるのです。(笑い) 死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬという心情でやってごらんなさい。いたずらに心配が先立って皆さんは、今のようなそんな調子なのです。(一九六九・五・一二)
誰が責任をもつのでしょうか? それを有り難く受けて、身もだえして自分の責任だとして荷を背負う人がいるとき、それによって外的サタン世界は崩れていくのです。蕩減歴史はこうして展開されるのです。分かりますか?
ですから主人である父母の心情をもたなければなりません。それで「父母の心情を抱き、僕の体をもって、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」と言うのです。このようにする日には、父母の代身者にならないわけがありません。父母が不平を言えば子供たちはどうすればいいのですか? 「ああ、これは大変だ」という親をもつ子供たちは死ななければならないのです。父母が泣いたら、子供たちは父母のために死のうとしなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。それでそういう標語を立てるようになったのです。
これは主体的な愛を中心にして統一させる思想です。主体を中心とする統一思想です。それでは「統一」の「統」は何の統の字ですか? 率いる「統」の字です。率いる立場はすなわち侍るということです。引っ張っていくということですか? 引っ張っていくのです。引っ張っていくのでどんなに大変でしょうか? みんな引っ張っていって、あとで平安な場に行くようになったなら、そのときは彼らが侍ろうとするのです。そのときには楽で、不平を言うことがありませんから「ああ、こんなに良いことは誰のおかげですか? 先生のおかげですね」と言いながら「侍るな」と言っても感謝して侍るのです。ですから万民が侍ることができる栄光の時までは、いつでもその責任を負わなければならないので受難の道を抜け出すことができないのです。(四四―二一)
三 道しるべとしての牧会者
三 道しるべとしての牧会者
P806
1 案内者としての牧会者私たちが一つのある山の頂上を見上げてそこを目指して行くとき、最高に高い地点というのは一つしかないのです。登る道が四方にあってその道の距離は取る方向によって違うのですが、その頂上に向かって行くことのできる第一の直行路、すなわちまっすぐ行くことができる道はただ一つです。その一つを中心として三六〇度の方向においていろいろ道が連結されるのです。最初は三六〇度でしたが、頂上に登っていけばいくほど、頂上が少しずつ少しずつ近づくほど、これは必ず出合うようになります。連結され、入っていくのです。これがあとでは四つに現れることであり、四つが二つに現れることであり、最後に頂上に至れば一つの起点に連結されなければならないのです。そうすれば私たちが頂上を占領することができるのです。
こういう観点から見るとき、歴史は山に登る様子と同じ過程を経てこなかったのでしょうか? 数多くの民族が分かれていて、歴史過程を経ながら直行すると言いましたが、その中では反対に登る人もいたし、いろいろな姿があったはずです。途中で疲れて休む人たちもいたでしょうし、下りてくる人もいたでしょう。下りてくるのに登っていく道より険しいので、「違う道に行けば楽だろう」と言って行った人、あらゆる歩みをした人たち……。こうして絡み合っているのが人類歴史ではないでしょうか?
それでは山全体を眺めるとき、その頂上に向かう一つの道を知っている人がいるなら、彼はいつでもその頂上を占領するための、誰もが願う案内者になるのです。これは間違いないのです。これは過去もそうであり、現在もそうであり、未来もそうなのです。頂上を征服するまでその道を知る人がいれば、彼はいつでも公認された案内者です。こう考えます。(八一―一七九)
道しるべはなぜ必要なのでしょうか? 私自身が早く頂上に行くためです。それでは、神様のみ旨を完成させるためにはどうしなければならないのでしょうか? 道しるべと私が一つになる道以外にないという結論です。その道しるべと私とが一つにならなければなりません。行きながら道が分かれたなら「おい、そっちに行けばいいかい? こっちに行かなければならないのだが。私が行きたい道はこの道で、君が行く道は違う」。こうでいいですか? 絶対一つにならなければなりません。夜も昼も一つにならなければならないのです。異議があってはならないのです。これが絶対的要件です。
「ところでお前は年が幼く私は年が上であり、君を見ると幼稚園児のようで、小学生のようで、私はおじいさんであり、すべての外的な常識、知性と経験から見てもお前が私の指導を受けなければならないはずなのに、耳に血も乾いていないお前が何の案内者か」。こうは言えないのです。案内者であることが分かった場合、鼻がつぶれていても、耳がゆがんでいても、片目でも、あるいは足が不自由でも大丈夫だというのです。何の話か分かりますか? (はい)。
必ず立派でなければ案内者になれないという法はないのです。一国の代表者として就任していく大使が、立派な美男子だけであるということはないのです。女性も大使として行くでしょう? 娘が行っても大使だというのです。同じことです。ですから任命を受けた大使を無視し不信するのは、その国を不信することであり、その国を蔑視することです。
案内者はいつでも……。きのうはこう言ったけれど、きょうは「そうしては駄目だ」と言うのです。夜に行って尋ねても「はい」、「どこそこ山まで登るのだが、あなたが案内することができますか?」と言っても「はい」。「そうか、夜でも自信がありますか?」と言っても「そうです」。昼に聞いても「そうです」。寝るときに行って起こして「あなたが案内者ですか」と言っても「はい、そうです」。いかなる時であっても考えがとどまる立場になるとき、目覚めて聞いてみても、「そうです」と、こうでなければなりません。そこに異議があってはならないのです。これは何のことをいっているのでしょうか? 春夏秋冬、四季を通じて変わらないということです。行く道、行く道が変わらないし、こうしたりああしたりしないのです。「そうですねえ」という言葉が必要ないというのです。(八一―一八三)
原理の道は踏襲する道だといったでしょう? 復帰の道は探し求めていく道ですが、皆さんは探していくことができますか? 探すことができないでしょう? 探し出せないので道案内人が必要なのです。三十八度線を越えるとき、最初に行く時は三十八度線を越えられないので、道案内人についていかなければなりません。道案内人が「伏せろ」と言えば、伏せなければなりません。「伏せろ」というのに立っていれば、そのまま死んでしまうのです。(笑い) 「伏せろ」と言えば、伏せ、「起きろ」と言えば起き、「はえ」と言えばはい、「腹ばいで進め」と言えば腹ばいで進まなければならないのです。やらなかったとしたら、みな滅びるのです。ちょうどそれと同じです。
ですから、皆さんは訪ねていかなければならない道を知らないので、先生が先頭に立って道案内するのです。行って伏せなければならないと信号だけ送れば、さっと伏せなければならないのです。そうすればいいのです。そうしますか、しませんか? (します)。ですから家庭を捨てて出なさいというのです。「集中射撃!」と言うそのとき、それぞれが、私の夫、私の子供を連れて一緒に行くとすれば皆殺しに遭います。そのときは分散して逃げなければなりません。分かりますか? (はい)。ですから夫とみな別れるのです。そうすれば種つぶだけでも残るのです。そうではないですか? (五八―八〇)
2 牛に牧草を食べさせる主人の立場
皆さんの中でも、牛を飼育しながら牧草を食べさせてみたことのある人がいるはずです。梅雨どきや湿っぽい日には、牛に牧草を食べさせるのは本当に嫌です。私も昔、牛に牧草を食べさせに行って、鞭も当てました。今笑っている人たちはそういう経験があるので通じる様子ですね。私だけそうしたのではないのです。両親が、「牛を引っ張っていって牧草を腹いっぱい食べさせ、何時までに帰って来い」と言うのに、平地には草一本なかったならどうしますか? そういう時は「知るものか、裏山にお父さんが一番愛している草原があるから、そこに行って食べさせよう」と、その勾配が急な山に引っ張って登って行くのです。ところでこの牛が登らずに途中でいくらもない草を食べようとするのです。その時、「この野郎牛め」と襲いかかるように強く打ち、棍棒で殴るのです。それでもかわいそうでないというのです。そういうことを感じてみましたか? こうやって無理やり引っ張っていって川を越えて山を登らせて、ちょうどその場所に放してやればその牛がどうしますか? 「食べるな」と言えば、食べませんか? そのときは舌はもちろん、唇、耳、目まですべて「ありがとう」と言いながら喜んで食べるようになるのです。
先生はそうすることができる所を知っているために、今まで皆さんを制裁しながらきましたが、皆さんはそれを知らずにいるのです。皆さんはそういう所があるということも知らないのです。皆さんがそういうことを確実に分かったなら、むしろ制裁してくれることを望むのです。何の話か分かりますか?
先生が皆さんに「伝道に出ろ」と言えばみな尻込みをして、「ああ、他の人たちは避暑に行くのに、何、伝道? 厄運が引き続くなあ」と不平を言うのです。
それは知らないからです。民族が解放されるし、世界が解放される道を行かないというときには、知っている人が打って追いやらなければならないのです。皆さん、打って追いやることが情ですか? ただほうっておくのが情ですか? 誰か細い女性たち、どちらが情なのか答えてみなさい。(たたき出すのが情です)。(三二―二五五)
3 避難途中で目撃したこと
昔、六・二五動乱が起こった時、避難途中で私はこういうことをたくさん見ました。お母さんが五歳の子供を背負って出たのですが、分別がついていないから戦争になって避難するのも知らずに、どこかに行くというので鼻歌を歌いながら喜んでついて出たのです。ところが背負っていってみると、お母さんの力が尽きて子供を下ろして歩かせるのです。そうすると子供は「お母ちゃん、やだ。私おぶってくれなければ行かない。おぶって、おぶって」(笑い)と言うのです。
こういうときに子供を愛する父母はどうしなければなりませんか? おぶってあげなければなりません。それが情です。しかし、おぶってあげたら二人とも死ぬことになるのです。それなら、どうしなければなりませんか? 歩かせなければなりません。歩かないというなら、脅し、ほっぺたをぶってでも行かせなければならないのです。そして避難所まで行かなければならないのです。
皆さんがその父母ならどうしますか? 捨てていきますか、殺しますか? でなかったら強制的にでも引っ張って連れていきますか? どんな方法が一番いいですか? 捨てることですか? 殺すことですか? それがみな嫌だったらどうするのですか? どうやってでも引っ張っていかなければなりません。耳をつかんで引き裂くとか、鼻の穴にひもを通してでも引っ張っていかなければなりません。
それが本当の愛です。そうやって無事に全部連れてきておくならば、自分の友達はみな死んだのに私だけ助かったといって「ああ、うちのお母さん、ありがとう」と言うのです。ところが耳がちぎれたので美人の顔に傷跡ができて嫁に行けないと不平を言う娘がいれば、雷に当たって死ななければなりません。そのちぎれた耳を見れば見るほど「うちのお母さんの愛は偉大だったんだな、父母の愛は恐ろしいな」ということを感じながら、千年万年自分の父母を尊敬することができる標的にするのです。
皆さんは、「先生は御飯を食べて出てくれば私たちを苦労させようとする」と思うでしょう? そうです。私は皆さんに情がありません。仕事をさせるときは情がありません。しかし共に暮らすときには情があるというのです。
仕事をさせるときには無慈悲に、鼻にひもを通してでも引っ張り出さなければなりません。「つらくて行けない」と言えば足で蹴り、棍棒で殴ってでも押し出さなければならないのです。これが正当な方法です。この言葉が理解できますか? そこのおじいさん、イー・ボンウン長老、理解できますか? (はい、理解できます)。百歳の老人も、たたき出してでも行くようにしなければならないのです。何十年も一緒に暮らしたおばあさんに失礼になってでも、行かせなければならないのです。これが私たちがしなければならない仕事です。
なぜそうしなければならないのでしょうか? 神様の最高の愛を受けることができる圏内に入るためにです。今までどんな宗教人も越えられなかったその基準を越え、どんな団体も尽くせなかった精誠を尽くし、どんな国も備えられなかったその国の形態を備えて、神様が今まで愛したくてもどんな団体も愛せなかったし、どんな国も愛せなかったし、どんな世の中も愛せなかったその愛をまるごと独占するためです。ですから、これは正当な教育方法であり、正当な作戦なのです。ここに異議がありますか? そのようにして滅びたなら、復讐しなさいというのです。私はそうやって生きてきても滅びませんでした。(三二―二五六)
4 殴ってでも行かせてやらなければならない
皆さんは師を眺めるときどんな立場で眺めるのですか? 「選民にさせてくださいますように」と言って、殴ってでも行かせるようにしてくれる指導者、刀で追いやってでも行くようにしてくれる指導者を探さなければなりません。もしもモーセが刀を取ってでもイスラエル民族を追いやったなら、十万くらいは死んでも、六十万がみな滅びはしなかったはずです。
理念的に、私たちにどんな試練が来るとしても問題はありません。行く道に支障になるものはけっとばしても行かなければなりません。指導者がそのように引っ張ってくれることを望まなければなりません。行かなければ滅びます。ですから、このようにしてでも必ず世界的カナン復帰の使命を果たさなければなりません。この使命が私たち統一教会の人の肩の上にあります。行かなければたたいてでも行くようにしてやる指導者がいなければなりません。行きさえすればいいのです。そうしてこそ歴史的勝利者になり、時代的な先鋒者になり、未来的な開拓者になることができます。(一二―六〇)
指導者は部下をさらによく食べさせ、着るものをさらによく着させてあげなければならないけれど、もし彼が危急な時は悲惨な道に追いやってでも送らなければならないのです。モーセがどれくらい切なかったから民族を離れて四十日祈祷をしたのか! モーセは彼らの前に暴風雨が吹きつけることを知っていたのです。
きょうも歩いてくる食口たちを見て胸が痛かった。そうであるほど彼らを追いやってでも、一日でも早く天宙主義を成さなければならないという切実な心を感じさせなければなりません。(一三―七三)
皆さんを、棒を持って、行かずにはいられないようにたたき出す責任者が必要です。皆さんが遊んでいて、その人さえ現れれば怖く、恥ずかしくて隠れる、そういう責任者が必要だというのです。そういう人が必要だと思いますか、必要でないと思いますか? 皆さん自身について考えてみなさい。(必要です)。小言を言ってもびくともしないように管理しなければならないのです。
皆さんを管理する指導者が、会えば笑わせ、踊りなどを踊り遊ぼうとする人がいいですか、仕事をしろと「働け、働け」と言ってせきたてる人がいいですか? (笑われる) どんな人がよりいいですか? (せきたてる人です)。本当にそうですか? (はい)。そうだというのです。
これが統一教会の運命です。運命というものはどうしようもありません。どうすることもできない運命なのです。まずやっておいて弁明しなければなりません。やっておいて話さなければなりません。寝る前に責任をすべて果たし、食べる前に責任をすべて果たし、休む前に責任をすべてなせというのです。それがうまい指導、管理方法ですか、まずい指導方法ですか? (うまい方法です)。それでは、皆さんは仕方がないのでしますか、喜んでしますか、まあまあでやるのですか? (喜んでです)。(九七―一九)
ある人たちは、「統一教会は独善的だ」と言います。しかし絶対というのは、最高の独善と通じるのです。ですから最高の独善的な過程を経なくては絶対に真なる基準に立つことができません。ただそれが永遠性を保存でき、真を擁護できる独善かということが問題です。独善それ自体だけでは駄目だというのです。分かりますか、何の話か。(二一―一五四)
四 手本となる者としての牧会者
四 手本となる者としての牧会者
P815
1 手本を見せなければならない牧会者手本となる生活の基本は何でしょうか? 神様を探し求めていくのに必要な人、私たちの歴史を明らかにするのに必要な人、この時代を開拓するのに必要な人、未来の基盤を築くのに参与する人になることです。そういう現実的基準で私が荷を背負って押し出なければなりません。そうして十年なら十年の期間に成し遂げておいたその業績を、歴史時代において自分の所有として残しておくことができる財産にすることも必要なことです。皆さんはそれを確実に分からなければなりません。(二一―二三二)
み言を伝えると同時に、人を育てなければならない責任があります。生命体を育ててあげなければなりません。
神様をどのように正しく教えてあげるのかということが問題です。第二の創造、すなわち神様の息子、娘をつくらなければなりません。すなわち、神様の生活を見せてあげなければならないのですが、その標準になるのが父母の心情です。
神様の生活を見せてあげるためには、具体的に皆さん個人が生活的な面で手本になりなさい。そして壇に立ったなら、ただ神様のみ言を語らなければなりません。そのためには皆さん自身が神様の共鳴体にならなければなりません。(三七―二八一)
神様は何を中心に進行しているのでしょうか? 仕事をするときも、心情を中心にして、ここに一切の精誠を尽くさなければなりません。天はどの道を行くのでしょうか? 私が違う道を行ったとしても父母が行くその道は、子供として心配しなければならないのではないでしょうか。自分が違う所で暮らしていても一日の生活はその心と共にあり、天と共に心情が一致する場で暮らしていくのが、統一食口が行かなければならない手本となる歩みではないでしょうか。こういう問題を見るとき、今日皆さんは、食口という名前の前に裏切者になってはいけません。その名前よりも実際的に裏切者になってはいけません。(六〇―二六)
2 牧会者とは手本を見せて生の基盤を築いてあげる者
物質的問題をもって教会活動をするよりも、心情を中心にして活動しなければならないのです。
私たち地域長は、思想的な面で、心情的に彼らの手本になることができ、彼らを育てていくことができる基盤を立てることなくしては、これから発展を企図することはできないのです。
責任者とは、命令することができる人ではなく、模範を見せて彼らのために基盤をつくってあげる人が責任者だということを知らなければならないのです。すなわち、アベルにはそういう人がなるのです。そうすれば神様の代身者になり、神様の代わりに与えることのできる人になるのです。それで神様の代わりに、与えることのできる位置がアベルの位置だというのです。アベルの位置は受ける位置ですか、与える位置ですか? (与える位置です)。受ける位置は何ですか? カインです。それは間違いないでしょう? (はい)。それでは、食口たちに世話になる責任者の前に、その団体やその集まりが発展しますか? 神様が祝福しますか? 神様が共にいますか? (いいえ)。どうしてそうですか? 原理的でないためです。それゆえに原理を守るのが、原理どおり永遠に行くのが、アベルだというのです。そこにはサタンが讒訴することができません。(七六―三三七)
3 神様と真の父母を見せてあげなければならない
私たちは共産主義が滅びても復活させなければならないのです。復活とは何でしょうか? 父母が来て解放してくれることです。アベルを誰が解放するのですか? アベルがカインに打たれて死ぬところを、誰が妨げてカインを解放するのですか? 神様と父母以外にはいないのです。それを知らなければなりません。天使と兄が一つとなって殺してしまおうとするのですが、これを救ってあげる人は未来の真の父母と神様のほかにないのです。これは原理的観点から間違いない結論であることを知らなければなりません。誰が救ってあげるのですか?
ですから神様と真の父母さえ確実に分かれば、みな解放されるのです。生き返るのです。ですから皆さんは神様と真の父母を見せてあげなければなりません。皆さんが神様と真の父母を見せてあげる証拠の実体にさえなれば、みな解放が起こってくるのです。分かりますか? ですからその人を捕まえたら真の父母を捕まえて、その人を捕まえたら神様を捕まえるのです。本心を知っているためにさっさとやるのです。分かりましたか、何の話か? これを確実に分からなければなりません。(一三一―五二)
第二節 主体・対象とカイン・アベル
第二節 主体・対象とカイン・アベル
P819
一 主体と対象1 統一教会の主体思想とは
今日統一教会の主体思想とは何といいましたか? 愛を中心にした主体思想ですが、愛の内容が何といいましたか? 神様、その次は? (真の父母)。真の父母です。この世界が一つの国になれば、真の父母思想を、全部父母を身代わりにして立てるのです。真の父母は霊界に行くのです。人間たちは真の父母の代わりに地上で父母と一つになり、妻子と一つにならなければなりません。この愛、これを壊してはなりません。ここにひびが入れば大変なことが起こります。ここにひびが入るようになればすべてがどうなるのですか? 宇宙の力の世界から追放されるのです。
愛の包括的な力の圏内から離脱するようになるときは、粉々に砕けるのです。どこかに行って存続し得る、歓迎を受け得る余地がありません。社会でもそうではないですか? 親不孝な子供になります。こういうことを見てみれば西欧社会は全部反対です。東洋に隷属させようとするので神様はそうするのです。
キリスト教文化圏を中心にしてはそうすることができないのですが、終わりの日にすべてそうなっているということは、今日東洋を中心にして隷属させ、東洋が主体になるようにするためです。すべてそうです。分かりますか、何の内容か。
私たちの主体思想が何ですって? (愛)。愛が何ですか? その中に神様がいるのであり、その中に真の父母がいるのであり、その中に自分のお父さん、お母さんがいるのであり、その中に理想的な夫婦がいるのであり、その中に理想的な子供がいるのです。理想的家庭がここから起こってきます。
この家庭を中心にして、その家庭が核になって無限に発展させ、世界まで拡大させることができるのです。その家庭は、ただそのままで軸です。その家庭は、どこに行っても、神様の真の愛に包括された環境の世界では、全部排斥を受けません。保護されます。そこで不合格になれば追い出されるのです。宇宙力が反発します。それで父母がいなくなれば悲しいのです。妻が死んだなら夫が悲しむのです。宇宙の力が保護しません。子供が死ねばなぜ悲しみを感じるのですか? 欠如したからだというのです。
愛を完成することができる道に一組の夫婦が欠如しているために、宇宙愛理想完成圏に符合できる要素が欠乏し、欠乏に比例してこれ自体が宇宙の運勢から追い出されるというのです。そういう人たちは上っつらを行くのです。因果法則において自分の父母から、自分の先祖から、良くないものがあるならすべて外部に持って出なければならないのです。こういう作用は、肺が作用するのと同じように、良くないものがあれば自然に外部に流れ出るのです。分かりますか?
私たち統一教会の主体思想とは何ですって? (愛)。愛、皆さんその内容が分かるでしょう? (はい)。皆さんがどこに行ってもぴたっと立っていれば、そこから世界的に拡大します。
こういう主体思想のもとで、愛を中心にして家庭的一つの確定内容を全体に適応する立場で、生涯を経ていかなければならないというのが、私たち統一教会の生活観です。このように見るとき、皆さんが今日まで生きてきた生涯自体は何のためですか? お金のために闘うでしょう? 経済問題のために闘い、その次に知識のために闘います。「あーあ、うちの女房は学校も出てないから離婚しなければならない」という親の子供たちは、これからすべて五体をちぎって死ななければなりません。天の愛の法には許しがありません。
このように見るとき、今日統一教会が主張する愛は、理想的内容を備えた家庭と社会と世界と連結することのできる、神様が願う創造理想的思考方式から出発したものです。これが出発と同時に終わりまで行くようになれば、拡張されたので帰ってくるのです。集約されているというのです。集約されてまた拡散され、そうしながら発展するのです。
皆さん、生活にこういう概念を植えて、そういう生活的な環境にこういう因縁を結ぶために努力しながら生きるようになるときは、神様のみ旨が皆さん自身の生活背景に成され、発展するのです。こういうことを知っているために、こういうみ言を話すのです。こうやって一度生きてみますか? (はい)。(一六四―九五)
今日統一教会で主体思想を教えるでしょう? 主体思想がいったい何かというのです。全体に責任をもち、全体に与え、全体の行く道を開拓するためのものが主体思想です。これが原理観です。分かりますか? 皆さんは主体者になりたいですか、対象者になりたいですか? どちらになりたいですか? 郡にいれば郡の責任者にならなければならないのです。そうでしょう? (はい)。責任者たちではないですか?
それなら、この東西南北区域を中心にして早朝の道を涙と共に何回歩いてみたのですか? その町内、その村の山に登って止めどもない涙を流しながら、誰がこの人たちを守ってやるのかとどれほど祈ったのですか? 問題はそこにあるのです。皆さんが涙を流すとき、霊界の先祖たちが涙を流してくれ、聖賢、賢哲たちが涙を流してくれ、そうなれば神様も涙を流してくれるのです。そのようにさえなれば、皆さんが行く道には、生きた役事、証拠的な役事がいくらでもあるのです。それで、皆さんが昼夜を分かたず三年続けて、一つの村とか一つの郡、一つの都市に影響を及ぼすことができなければ、その人は偽者だと見ています。(八一―三一五)
2 縦的主体とは
縦的主体とは誰ですか? 神様を抜きにしては縦的主体は出てきません。良心の本郷の基盤が神様です。良心を根拠にした、個人の良心を中心にして神様を根拠にした家庭、神様を中心にした氏族、神様を中心にした民族、神様を中心にした国家、世界、天宙、このようになってこそ縦的基準に一致することができて、神様が上がったり下がったりすることができるのです。この縦的基準も授け受けする運動をしなければならないでしょう? 上下に回らなければならないのです。これが回れば球形になるのです。
学校に行けば、学校の縦的代表者とは誰ですか? 縦的代表者は自分の教室に現れた先生です。その時間においては学生たちは、その先生の言葉を絶対に聞かなければなりません。横からこそこそする者たちは、全部破綻分子です。そういう人は落第する者たちです。落第生です。くず箱に入らなければなりません。
皆さんはもうこの看板を一度知ったのですから、自分がどんな基準にパスすることができる資格者なのか分析してごらんなさい。縦横の原則を一致化させた位置に、家主として、または族長として、民族の代表として、世界の代表として、行ったり来たりすることができるのですか? 神様は宇宙の代表として行ったり来たりはしないというのです。千年万年、行ったり来たりしないというのです。変わるものがないのです。(一四八―二五)
私個人が良心を中心として率いなければなりません。統一というこの「統」の字は何の統の字ですか? (率いる統の字です)。統一する統の字でしょう? どのように統べるのですか? (率いてです)。率いるということは、自分が絶対的な縦の位置で率いるのです。縦的基準なくしてどのように統一しますか? 皆さんは統一教会の信徒でしょう? 統一教会の信徒は手を挙げてみなさい。ここに統一教会の信徒でない人がいるためにこのように言うのです。分別も何もつかない老人たち、左手なのか右手なのかも分からずに、ただやたらに挙げるのですね。
率いなければなりません。率いるということはどういうことでしょうか? 絶対的に変わらない縦的基準に立って春に率いることや、夏に率いることや、秋に率いることや、冬に率いることや、春夏秋冬は変わるけれども率いることは変わってはなりません。「あーあ、春になって縦的な位置がつまらない。ああ横の位置がどれほどいいか、縦的位置は嫌だ。横的位置に行く」と思ってはいけないのです。責任者はそうすることができません。(一四八―二二)
3 主体者の責任
主体というものは生命の力が強くなければなりません。そうでなければ主体になれないのです。また主体というものが何かといえば、愛を内包しなければなりません。愛を内包しなければ主体になれません。相対を率いることができないというのです。同じです。中心になるためにも真理と誠にならなければなりません。中心になるためには愛がなければ駄目なのです。また、その次に責任者というものは、発展させ永遠を引いていくことができなければなりません。そうであるから誠でなければ駄目だというのであり、真なる生命と真なる愛と関係を結ばなければ責任者になれないのです。そうだと思いますか?
ですからこのすべてのものを一度に選別することはできませんが、無難に直行することができる道を行こうとするなら、「ために」存在しなければならない、という結論が出てくるのです。「ために」生きるようになるとき、私がプラスのために生きようというのならば、マイナスの位置に従うこともでき、また、プラスの位置にまで上ることができるのです。いくらでも連結するのです。(一三三―三一)
主体になるためには愛さなければなりません。分かりますか? 愛するために狂おうというのです。男性が女性を愛することでなく、男性は国を愛し、国の保障を受ける位置で女性を愛しなさい、世界の保障を受ける位置で女性を愛しなさいというのです。そういう立場にいる私たちの境遇であることを知らなければなりません。
それで、反省してみなさいというのです。私は愛を受けるためにいるのではありません。統一教会の信徒も愛を受けるための輩ではないのです。愛するための輩です。分かりますか? 愛するための輩ですから、世の中の人々は愛を受けたいために、私たちをどこに行っても歓迎しますか、しませんか? どちらですか? 世の中の人々は愛を受けようとする輩であり、私たちは愛そうとする輩であるので、世の中の人たちは歓迎するようになっています。そこで優秀な人は愛するようになっています。私たちが行くところについてくるようになっています。(五九―五八)
今日皆さんを見るとき、み旨を身代わりすることができる主体性をもって、責任をもつことができる人になっているのかというのです。皆さん、そうなっていますか? そういう人格をもつために、皆さんはもう一度生まれ変わらなければなりません。そうでなければ、皆さんは勝利者になることができません。全部が引っかかるようになります。(一七―五一)
皆さんは責任者として自主的な主体性をもち、神様の牧者として心情的な主体にならなければなりません。神様を動員しながら活動する、そこに発展がないはずがありません。私は以前にも韓国を助けてあげましたが、アメリカに行っても韓国を助けてあげました。こういう信念をもって今まで生きてきて、そういうふうにしようとしました。今でもそうです。(六八―一一二)
私はどこへ行っても、工場に行ったとすれば工場長になって働くのです。こういう信念がどれほど偉大であるかというのです。すべてのことに私が対することができるという信念は偉大な思想です。偉大な思想だというのです。「これを間違った、あれは間違っている」ということを知り、直ちに社長に会って「あなたの会社はこうです」と言えば、「おお、それがどうして分かったのですか」と言うのです。
「どうして分かったって? やってみたから分かるでしょう?」、こうなるのです。さあ、私たちの「ワシントン・タイムズ」が新聞オリンピック大会で一等になりました。その時に、私が責任者の立場で全部「ここを直しなさい、そこを直しなさい」と言いながら指導しました。こういう原則を知って皆さんが生活に適用するようになるとき、どれほど膨大な力の世界を自由環境としてもち得るかという、驚くべき事実を発見するのです。弱者になることができないのです。
これを思うとき、先生が皆さんに「これ、教会に座っていないで地方の責任者に会い、既成教会の責任者に会いなさい」と言うのは、第二人者になりなさいということです。第二人者です。それもやらずにどんと座って、ムーニーでありながら仕事もせずに、責任者だというだけで、相対の前に主体格になれないで「主体だ」と言うので滅びるのです。主体の位置にいて、対象の前に主体の責任も果たせない立場で「主体だ」と言っていては滅びるのです。プラスがなくては発展できないのです。そうであるために、責任者は食口たちよりもさらに努力し、さらに活動しなければならないのが原理です。分かりますか? そうでなければ詐欺です。どろぼうになるのです。詐欺師です。(一三一―二二三)
先生は八道江山(注:韓国全土)をたくさん歩き回りました。アメリカにも行ってすぐ、これから私が十年後には必ずこの地を踏んで……。国境が問題ではないというのです。ただ四十日を中心にして四十八州を「走れ、走れ、私の足が行かなければならない。山河草木よ、恋しかっただろう? 私がここに来たよ」と言ってすべての谷間、谷間に行き、できるだけ高い所に行って祈って……。そういう業をしなければならないのです。どこかサッと戸を開けて出るようになれば、庭が私を見てうれしがってくれるのを感じながら「来たのか! 私が一度出てみよう。私が行くよ、山にも行くよ」、そういう心にサッとなります。万物も主人を待っています。そうではないですか? 犬がいたならその犬が寒い冬、または暑い夏に飽き飽きするような夜を過ごしながら、主人が出てくるのをどれほど待つでしょうか? そのように寝ていた犬も、主人がすっと戸を開けて出てきたらいつのまにか尾を振ってサーッと走ってくるのです。朝、そうかそうでないか見てごらんなさい。どれほどうれしい表情をするか……。そういうことが分かるでしょう?
同じだというのです。すべての山野を従え、そういう心をもって「あの谷間に私が一度行ってみなければならないのだが。煙立つあの谷間に村があるなら、あの村に一度行ってみなければならないのだが、いつか一度行かなければならないのだが」、そう思って行ったなら、既に霊界の先祖たちが天の貴賓が来るということで、その家の掃除をさせます。そうだというのです。何の話か分かりますか? (はい)。夢の中でみんな見て、何か知らずに「あ! 人がいないか? 誰か来るようだ」と言うのです。
人心というのは天心と通じるのです。本然の心情世界には橋は必要ないのです。伝令者は必要ないというのです。それが何か知らずに「おや、人が来るようだ」と言うのです。私が考えるそのままに、そうなるのです。「誰か知らないけれど、うちに訪ねてくる人がいる」こういうことを感じるようになるのです。私がそのように心を決めていればです。毎日のように我知らず遠い山を見上げて、あのはるかな経路、谷間から回って出てくる道を見上げながら、我知らず待って……。そうだと思いますか、思いませんか? 父母が子供を待つのと同じように、子供を待つ父母は子供がいる所の地も愛します。同じことです。
さあ、主人の責任とは何ですか? 主体者の責任とは何ですか? 「ああ、おなかがすいた。御飯、御飯……」こういう思いになるとき、必ずその町内に御飯を食べられない人がいないだろうか? 御飯を食べられない人がいるなら、私が昼食一食だけでも食べずに隠れてその家に行って、その家の子供たちに補ってあげなければならない、こういう心をもちなさいというのです。そういう心をもっていれば、その人は「御飯を食べない」と言っても食べられないようにはなっていないのです。御飯を食べないようにしても、しょっちゅう誰かが食べさせてくれるというのです。天地道理がそうだというのです。この宇宙は一つの中心を探してさまよっているのです。(八一―二九七)
4 原理的生活観においての責任者の立場
責任者、主体というものは全体に責任を負わなければなりません。全体に責任を負い、その相対となる人たちが良い所に行くことができるように道しるべの役割をしなければなりません。道を整えてあげて、平坦な大路を整えてあげて、相対がまるでハイウェイを走ることができるようにしてあげればしてあげるほど、彼は偉大な主体です。簡単です。道理は簡単なものなのです。何の話か分かりますか?
家に帰った時、妻がいくら横になってグーグー寝ていても、「私がきょう責任を果たせなかったので妻がこうなんだなあ」、こう思わなければならないのです。「私が責任を果たせなかったために待っていないのだなあ」、そう考えてみましたか? 食事も作らないで昼寝をしていてもです。そういうふうに考えなければなりません。対人関係も全部そう考えなければならないのです。
初めて対する人が誤ったときは、私がこの人に何をあげ、何を投入したか考えなければなりません。そうすれば、失敗しても許してあげる天理をここから発見することができるのです。私が主体者として喜んで対してあげ、非常にうれしがることを願わなければならないのであって、そうしないでうれしがることを願うのはどろぼうです。どろぼうは別のものですか? 他人が苦労した畑に行って、苦労せずに取って食べるのがどろぼうでしょう? 悪はそこから生じるのです。
こういう原則的な生活観において、皆さん責任者の立場がどういうものだということがもう確実に分かりましたか? 分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。分かったという人は、手を挙げてみよう。(八一―三〇五)
責任者、主体者とはどういう人ですか? 全体に責任を負う人です。皆さんがその町内に行き「私がこの村内、この町内の責任者として来ました。天国実現のために神様が送ってくれた特攻隊として来ました。特攻隊として来て私は何をしたのか? この村に来て何を与えたのか? 主体者になったのか? 対象者になったのか?」。主体者になれず対象者にもなれなかったら、風に飛ばされず、落雷に当たって死なないでいるのが幸いだと思い感謝しなければなりません。
「この村が私の村以上の村であり、私が願った希望の故郷のようなので村人に会いたくて、朝に会ったら別れたくなくて、夕方に家に訪ねてきたらただ何かさらに与えたくて、夜を明かしてでも一緒に話をしたくて、行ってしまわなければいいのに」という心をもたなければなりません。心がそうでなければならないのです。なぜそうしなければならないのでしょうか? 何千年前に別れた兄弟たちであるからです。父母は死んだけれども何千年ぶりに、何十年、何百年ぶりに会った兄弟であるので、その情が心性を通じて直線に通じるようになるとき、そのほかすべてのものがみな通じるのです。
ですから、責任者として人が来るのを「来るな」と言ってはいけません。私は何日もいないで本部に行きますが、そこで人が来て待っているのは事実煩わしいのです。今回も日本から帰ってきて夜も寝ることができないで、きのうの夕方には立って歩いているのか座っているのか分からずに過ごしてきました。時間がちょうど反対ではないですか? ここで寝る時はそこでは起きる時で、ここが起きる時はそこでは寝る時でしょう? 私は目を開けようとしているのに、しょっちゅう目がつぶれるのです。片目を開けていたら、片目がしょっちゅうつぶれるのです。何日間も寝ないからそうなのです。だからといって、寝なければならないと思いもしないのです。夜が早く過ぎてしまえばいいと思うのです。「この一時間にどうやって神様と心情的つながりを結ばさせてあげるのか」という考えをするのです。それが必要なのです。
そうであるので、責任者が責任を全部果たせなかったら世の中にそれ以上恐ろしい罰がないのです。刑務所に入って、足かせをはめて座っているよりも恐ろしいことを知らなければなりません。責任を果たせずにどのようにして壇上に立ち、責任を果たせずにどうやってその村の人に厚かましく話しますか? 涙のほかに流すことのできない心情になってみなさい。そこから本性的因縁が出発するのです。(八一―三一二)
5 中心存在としての主体の使命
主体は何をしなければならないのでしょうか? 主体には保護の責任があります。またその環境で位置と方向を設定してあげます。そして、決定し防御し責任を負わなければなりません。(一九七八・三・一九)
中心存在とはどういう者でしょうか? 第一に保護の責任、第二に保護の能力をもっているのです。ある醜い男性がすてきな女性の前に立ったとき、危ない目に遭ったなら、そのすてきな女性の脇にサッと隠れますか? 考えてごらんなさい。ああ、美人で背も高い女性が危ない目に遭ったなら、醜い男性の後ろに隠れますか? 女性たち、どちらですか? 女性がいくら大きく美人だとしても男性の後ろに隠れます。それは保護を受けるということです。それが自然的表現であり、順理的表現です。中心存在は責任を負わなければならず、保護しなければならないのです。
また中心存在は第三に、動くにあたってリードするようになっています。道を選んであげるようになっています。そうでしょう? 知っている人が道案内をしないで、知らない人が道案内をしますか? そうではないですか? さあ、女性は博士で男性は小学校しか出ていません。ところで、山に登るとき博士である女性が先に立とうとしますか、小学校しか出ていない男性が先に立とうとしますか? 普遍的に十人ならば十人がすべて、博士である女性を無視して、男性が先に立とうとするのです。そうなっているでしょう? 中心存在はリードする責任があるのです。どこに向かってですか? 正しいところに向かってです。
統一教会の中心存在は誰ですか? (真の父母様)。真の父母は先生です。同じ道理です。文先生という人は統一教会に対するすべての責任を負います。良くても悪くてもです。統一教会の信徒たちの中には、私より年が上で立派な人が多いです。そういう意味で、良いことや悪いことを直ちに誰に話さなければなりませんか? ある人が責任者だといって、一人でするならそれは偽者です。四肢の中心は頭ですから、頭を全部通過しなければなりません。通過しないものは死んだものです。存在価値がないというのです。
ですから中心存在は第一に責任を負わなければならず、第二に保護することができなければならず、第三に指導することができなければなりません。(一七三―二四六)
中心というものはすべてのことに責任を負うものです。中心というものはすべてのものを与えられなければなりません。中心は責任を負わなければならず、保護してあげられなければなりません。(一三四―三一七)
女性と男性を中心にしてみるときも、夫と妻は同じ位置に立ちます。二人がいいと言いさえすれば同じ位置に立つのです。しかし横的基準においては同じ線に立ちますが、縦的基準においては誰が平行基準を合わせなければならないのでしょうか? 女性ではありません。男性です。ですから男性は右側に立ち、女性は左側に立つのです。
主体は副体(対象)を保護しなければなりません。保護する責任があるのです。その次にはどのようにしなければならないのでしょうか? 導かなければなりません。正しく行くことができるように方向性を提示しなければなりません。それで妻は夫の言葉を聞いてはいけませんか、聞かなければなりませんか? (聞かなければなりません)。夫が雑種の犬のようになって全く横的基準しか知らず、自分の下腹だけを神様以上に信じて絶対視するなら、そんな種類の夫は信じなくてもいいです。しかし良心をうんぬんし、家庭を心配し、社会を心配し、国を心配する心をもった夫なら、その妻はその夫と歩調を合わせなければならないのです。夫に従っていかなければなりません。(一四八―一七)
6 主体を中心にした対象圏の創造
見なさい。統一教会に入ってきたある人は「私は大学を出て知識階級で鋭利で賢明であるために、統一教会のレバレンド・ムーンのように愚直な苦労は絶対しない。こうやってスルスルと行く。レバレンド・ムーンは愚直な人だ」と言ったけれど、誰が鋭利で、誰が知識があって、誰が賢明な人かというのです。今になってみれば彼らはみな転がって落ちてあの落葉のようになりましたが、転がり落ちると思っていたレバレンド・ムーンはあの頂に実を結んだ枝になっているというのです。彼らは転がり落ちてしまいましたが、レバレンド・ムーンは世界が欽慕することのできる人物になっているのです。
どうしてそのようになったのでしょうか? 環境には主体・対象関係があるという事実を知っており、主体、対象にプラスすることのできる発展的な変化過程を経ていくからです。こういう哲学的な生活観、宇宙作用観をもっているので、滅びるようですが発展するのです。発展しないわけにはいかないのです。私の理論が間違っていない限り発展するのです。
それで本心は知っているというのです。強力なプラスが誰かといえば神様です。そうであるため神様を探していくことができる中間媒体にレバレンド・ムーンを立てたなら、その良心は自然にレバレンド・ムーンを考えずにはいられないのです。しきりに行くのです。体はこうしてしきりに行くというのです。そういう作用をするのです。(一三一―二二二)
先生のような宗教指導者が酒屋に行っても反対しないのです。そこにいる人たちを全部料理しようとすれば、そこの主体を料理しなければなりません。また主体が必要なものは対象ですから、その人たちを引っ張り出すためには、その中で一番上を行く人以上の業をすれば、自然に引っ張り出すことができるのです。社会学的哲学観というか、こういう観点で見るとき、統一教会はどのようにして発展するのでしょうか? こういう原理の適用を通して発展してきたということを、皆さんは知らなければならないのです。
神様が再創造歴史を通して主体と対象の関係を連結させていくので、私が主体的な一人の男性として神様を代表する位置に立ったというときは、再創造をしなければなりません。これと同じような原則を通して再創造をしなければなりません。それではどうしなければならないのでしょうか? 一つの相対圏を再創造するのです。誰かに会ってもてる精誠をすべて注いで、自分の分野に該当する環境の対象圏をつくるなら、それは永存することができる理論的基台の上に立つようになるのです。
さあ、それではその過程において何を中心にするのですか? レバレンド・ムーンを中心にするのではありません。創造した神様の心情、愛の理想を完成させて、愛の目的を完成させる心情的基準を中心にして主体の位置に立たなければならないのです。このようになれば堕落したとしても、本性の存在はその心が主体の心情圏に吸収することができる自然的な力をもつようになるのです。そのように連結されるのです。何の話か分かりますか? そういう環境でそういう対象圏をつくるためには、二十四時間すべての主力を注ぐのです。神様が創造したのと同じようにです。
それで個人相対圏をつくり、その次に家庭相対圏をつくるのです。それが原則です。家庭という環境ならば、世界歴史時代においての堕落圏の家庭ではなく、神様を中心にして創造しようとした家庭です。その家庭を中心に据える基準の位置に主体として立てば、それは神様を中心に据えた家庭基盤の上に対象圏、環境圏が造成され、氏族圏を編成することができるようになるというのです。(一三五―一七七)
統一戦線守護の方法は私を越えて天が協助することができる、すなわち私に天が力を注がれるのでなく、私によって相対に力を投入させることができる立場に立つことによって、私がいる環境に守護圏が起こってくるということを知らなければならないのです。ですから、いつでも神様と一つになっていると考えなさいというのです。伝道しに行っても神様と共に行き、話すのも神様と共にすると考えるのです。御飯を食べるのも寝るのも、全部神様と共に暮らすのと同じ心情をもってやりなさいというのです。そういう生活をしてみた人は、既に悲しい人に会えば悲しくなるのです。神様が感じることを感じることができるのです。それが体恤です。その体恤圏に入らなければなりません。体恤圏に入らなければならないのです。
ある都市に行くか部落に行けば、その部落がどうだということが直ちに分かるのです。そういう部落に行って、ある高い所に登って精誠を込めて祈祷しながら歌を歌えば、その部落の心ある人たちは探しに上がってくるのです。完全なプラスがあれば完全なマイナスが生じなければなりません。それが原則だというのです。
皆さんが伝道をするにも何をするにも祈祷し、精誠を込めていくようにすれば、既に見せてくれるのです。どんな人に会うだろうということを、みな見せてくれるのです。皆さんが伝道にさっと出れば、思いもしない所にしきりに行きたいのです。そこに行ってみると、神様が愛する人に会うのです。そういう体験をするので「神様がいる、いない」と話すことができないのです。(六九―二八八)
二 カインとアベル
二 カインとアベル
P836
1 摂理史に現れたアベル・カイン皆さんは、カインとアベルが共に神様に供え物をささげた時、アベルの供え物を受けられた神様の立場と、カインの供え物を受け取られなかった神様の立場は互いに違うようですが、そうではなかったということを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしたアベルを通そうとする心が少しでもあったなら、神様はそのカインの供え物を取られたのです。神様は時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに対そうとされたのです。(三―二〇五)
カインが神様に供え物をささげることに関心がなかったなら、神様がアベルの供え物を受けられようが受けられまいが、どうでもよかったのです。しかし、カインが憤り恨めしく思ったということは何かといえば、自分の精誠が及ばなかったと思ったのです。カインは神様に供え物をささげるために精誠を尽くすことにおいて、アベルより勝っていると思うことはあっても、対等な位置にいるとは考えもしなかったのです。そうではないですか? 同じ立場で同じ内容をもって供え物をささげても、自分のものをまず受けてほしいと願うのが人間の心です。
アベルが当然受けてもらえるに値する立場であるなら、それは不平を言うことができないのです。対等でないのに何の不平があり得るのですか? しかし対等な位置で精誠を尽くしたのに受け入れてくれなかったなら、不平を言うではないですか? ですから皆さんも精誠を尽くすことにおいては、より勝らなければなりません。供え物は、より勝る精誠の因縁を備えてささげなければならないのです。
アベルを中心にして見るとき、アベルもカインと同じ精誠で供え物をささげました。しかし、アベルはその出発点から神側であるため、神様は受けられたのです。ですから、アベルは神様が自分の供え物を受けられたとしてもただ「ありがとうございます」と言いながら温柔謙遜でなければなりませんでした。そうしたならカインが殺そうとしますか? しかしアベルは、神様が自分の供え物だけを受けられたので、カインの腸が煮えくり返るほど、度を越えて喜んだのです。どんなにうれしくても一人で喜んで黙っていたなら良かったのに、兄に自慢したのです。皆さんもうれしいことがあれば自慢したいですか、したくないですか? 自慢したいでしょう? 同じようにアベルも兄にそれを自慢したのです。ところが自慢が度を越えて「お兄さんの供え物は受けないで私の供え物は受けた。だからお兄さんより私が、より勝っただろう!」、このようなことまで話したのでしょう。ですからカインの顔は真っ赤になったでしょうし、憤らずにはいられなかったのです。そのように考えることができるのです。
アベルは神様の恩恵を受けたからといって、うれしいと自慢をしてはならなかったのです。恩恵を受けたならむしろ自分の不足を悟り「お兄さん、すみません」と言わなければなりませんでした。そうしたならカインが殴り殺しますか? 殺さないでしょう。これがアベルの失敗です。(三四―五一)
皆さんはアベルが好きですか、カインが好きですか? (アベルです)。私はカインも好きでなく、アベルも好きではありません。どうしてでしょうか? アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげた時、神様が自分の供え物だけ受けて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。そして「ああ、お父さん、なぜ私の供え物だけ受けたのですか?」と言って泣きわめいて、兄のところに行って「私の供え物だけ受けた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか? 間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。
カインとアベルは、供え物を同じように準備して神様の前にささげたことでしょう。カインは穀物を、アベルは羊を一年間精誠を尽くしてささげたのです。精誠を尽くすことはいいというのです。ところで誰が精誠をより尽くしたかという問題を離れて、供え物を受ける受けないという問題を見るとき、神様はアベルの供え物を受けざるを得ない立場であるから受けたのです。
ところで、アベルは神様が自分の供え物だけを受けられたので、自分ができが良くて、神様は自分だけが好きなので受けたのだと思って「お兄さん、見てよ。私の供え物は受けられたよ」、そのように自慢したのです。間違いなくそうしたのです。そうしなかったなら、じっとしているカインの顔がなぜ赤大根のように真っ赤になりますか? アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか? 間違いなくアベルはカインの前に行って「お兄さんが何だ、私の供え物を受けただろう」と言って両手を振りながら歩き、ねちねち振る舞ったでしょう。アベルは驕慢では駄目だということです。謙遜でなければなりません。それだから殴られて死んでも当たり前だというのです。殴られて死ぬようになっています。
統一教会の信徒はアベルにならなければならないでしょう? (はい)。それでは皆さんはアベルになりましたか、なっていませんか? なっていっているのかどうか分かりませんが、頭をもたげて「既成教会の牧師がなんだ? 堕落がどうしてなったって? なに、善悪の果を食べてなったって? 牧師であるあなたたちも、こういう問題は知らないではないか?」と言いながら驕慢に振る舞うことは、殴られて死んだアベルの行動と同じことです。そうしていたら統一教会は難しくなります。皆さんがそうしましたか、しませんでしたか? 先生は「どうかそうしないでくれ」と言ったのに、皆さんは外に出ていって、そのようにして歩いたというのです。(三四―二七二)
カインとアベルが供え物をささげたのち、アベルの供え物だけを神様が受けられたことを知ったカインはアベルを憎み殴り殺しましたが、ここには、カインとアベルが供え物をささげるために準備をする時からアベルを憎む心があったことを皆さんは知らなければなりません。カインは、神様が自分の供え物を受けられないので瞬間的にアベルに対する憎しみがわいて彼を殴ったのではなく、そのことにぶつかる前からアベルが憎くて殴り殺したい心がカインにあったというのです。
そういう堕落性の血統を受け継いだ今日の皆さんが、宇宙的な嘆息の峠を越えるためにはどうしなければならないのでしょうか。これから皆さんは、神様に不信と争いの条件を成立させる祭壇を積むのでなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光を抱かせてあげることのできる勝利的なアベルの祭壇を積まなければならないのです。
ですから、今日皆さんの生活はただ皆さん個人に局限される生活ではありません。全体を身代わりした生活だというのです。皆さん個々人が父の前に身をかがめるその時間なら時間、み旨を中心にして暮らす生活ならその生活が、直ちにその時間と生活でとどまるのではありません。そこからカインの立場なのか、アベルの立場なのかという二股道が決定するのです。すなわち、今日皆さんはひょっとすればアベルになり、ひょっとすればカインになることができる、ものすごい歴史的な瀬戸際の道に処しています。
そういうことを知って、もう皆さんは教会を中心に誰がアベルで誰がカインであるかを分別することができなければなりません。二人の人がいれば必ず一人がアベルで一人がカインであること、三人の人がいれば二人がアベルになることができます。また、カインにもなることができますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確実に分別することができなければならないのです。
そして、そのカインとアベルが一つにならず別れていてはなりません。一方は右手で一方は左手なのです。そのため誰でも私の神様であると同時にあなたの神様であり、私を愛するだけでなくあなたを愛する神様であられるという信仰の立場で、お互いがアベル的な存在を訪ねて侍り、カイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もし、そういう人になれなかったなら、皆さんはいつかは天の審判に引っかかってしまうということをはっきり知らなければなりません。
今日私たちの教会を中心にして見るときも、ここには必ずカインとアベルがいます。それで神様はアベルを通じてみ言を現し、すべての人がアベルと一つになることを願われるのです。それなのに、そのアベルと一つにさせないようにする者がいますが、それが誰かといえば正にサタンです。ですから皆さんが正しい信仰をもつためには、皆さんよりアベル的な存在と一つにならなければなりません。そのために、その方に自分のすべてのことを相談することができなければならないのです。(三―二〇六)
今日統一教会がカイン、アベル問題を提示するということは、イエス様の時代が過ぎたという話です。そして父母の前に立つことができるカイン・アベルという復帰されたアダムの家庭、すなわちサタンの讒訴を受けない兄弟の位置をいうのです。何の話か分かりますか?
「アベルの位置に立つためにはカインを探さなければならない」と言いました。それでは神様はカインを探すためにどのようにされたのでしょうか? イエス様をアベル的な立場に立たせて、イエス様を通してカイン的な存在を探すため国家的な摂理をしてこられたのです。ですからカイン的な国家があり、カイン的な教派があり、カイン的な氏族があり、カイン的な家庭があり、カイン的な個人があるのです。(三四―五四)
2 アベルになろうとすればどうしなければならないか
アベルは復帰路程において何よりも重要な使命をなさなければなりません。アベルという存在がみ旨の前に設定されたのは堕落のゆえです。もし堕落がなかったなら、アベルという存在をみ旨の前に設定する必要がないのです。
アベルが設定されようとすれば一人でいては設定されないのです。アベルがいる前にカインがいなければならないのです。アベルとして備えなければならない最初の要件は、カインがいなければならないということです。カインがいなくては、アベルになることはできないのです。また、アベルが本当のアベルとして選びを受ける位置に立つ時までは準備期間が必要です。言い換えれば、天側に立つのか立てないのかという期間が必要なのです。私たち統一教会ではそれを信仰基台を立てる期間だというのですが、その期間は供え物をささげる期間です。
供え物をささげるのは何のためかといえば、神様と私たち人間が別れたので再び心情的にきずなを結んで、また外的にもきずなを結ぶためなのです。そのため、そういうことを成し得なかったなら祭物になれないのです。祭物はそれ自体のためにあるのではありません。祭物は必ず、祭物を受ける人とささげる人のためにあるということを私たちは知っています。こういう祭物路程を歩むことが今までの旧約歴史であり、新約歴史であり、これから成約歴史に延長されていくということを私たちは知っています。(五六―七四)
アベルになるためにはカインがいなければなりません。アベル一人ではアベルになれません。必ずカインがいなければなりません。ところでカインには、天側カインとサタン側カインがいます。イエス様を中心にして見るとき、洗礼ヨハネは天側のカインでした。洗礼ヨハネが天側のカインに立てられたので復帰が可能だというのです。そうでしょう? (はい)。サタン側のカインはかじり取り、ほえるのです。それが原則であり、サタンの本性です。
皆さんがアベルになるためにはまず神様と一体とならなければならず、その次にはカインがいなくてはなりません。それではカインは誰ですか? 皆さんのカインは誰ですか?
カインがカインの位置に上るためには僕の僕の位置、養子の位置を経て息子の位置まで上らなければなりません。ここでの息子は讒訴を受けない息子をいうのです。この位置を経て、初めて神様の前に立つことができるカインの位置に上り立つのです。
ところでカインは、一人ではそういう位置に上ることができません。誰かが引き上げてくれなければならないのです。それでは誰が引き上げてくれなければならないのでしょうか? 引き上げる人はメシヤの使命をなすのです。それでは誰に代わって引き上げるのでしょうか? 父に代わって引き上げるのです。すなわち神様の心情を身代わりして引き上げるというのです。ですから父母の心情をもってこそ、引き上げることができるのです。
私がアベルになるためにはカインを探さなければなりません。カインを探す前にはアベルになることができません。したがって私が神様の代わりの立場で、僕の僕の位置と僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置に上がらなければならないのです。そうしてカイン・アベルを中心に屈伏したという条件を立てれば、初めて神様の前に立つことができる息子の責任が終わったということであり、その位置でカインが協助する立場に立てば、父母の位置に出るようになるのです。何の話か分かりますか?
それゆえに皆さんが伝道するのは、最初にカインをつくるためであり、二番目にアベルの位置を決定するためです。したがって、アベル的な立場に立ち、伝道する皆さんは神様の代身の立場なのです。また皆さんは神様を中心にして、イエス様の代わりに僕の立場を復帰する時代に、先祖たちができなかったことを身代わりして復帰しているのです。こうしてアダム時代からノア、アブラハム、モーセ、イエス時代を経て上ってくるのです。イエス時代に来てこそアベル・カインが決定するのです。イエス様時代以前には全部養子の位置にいたということです。(三四―五三)
アベルを選定するにあたって最初に誰だと言いましたか? (天のお父様です)。その次には? (善なる霊人たちです)。それから? (天使)。その次は? (サタン)。(笑われる) そういう話は初めて聞いたでしょう?
なぜそうなのでしょうか? サタンが「彼はアベルになる資格がない!」と言うときは駄目だというのです。サタンがアベルはこうで、こうで、こうで、こうでなければならないという条件をみんな知っています。サタンが「こうで、こうでなければなりません。それなのにそういう条件がなっていない」、そう言うとき、神様がそうすることができますか? 「この野郎サタンめ! 私がするというのに何だ?」、こう言うことができますか、できませんか? (そうできません)。判事の前で検事が「あ、あの人にはこういう罪があります」と言うのに、判事が「この野郎、私がするというのに何だ」と言うことができますか? (できません)。同じことです。神様は裁判長であり、サタンは条件を引っかける検事だというのです。同じだというのです。それでは弁護士と同じ責任は誰がするのですか? それは善なる先祖と天使長たちが、私たちと同じ復帰された善なる祖先たちと天使長たちがやるのです。
ところで、皆さんが決定することができるのかというのです。皆さんが「おお神様、私がアベルに決定しましたので神様よ! 先祖たちよ! 天使たちよ! サタンよ! 公認しなさい」、それができますか? 自分がそうすることができますか? (いいえ)。アベル側にはなることができます。アベル側には立つことができますが、アベルになることはできないということを知らなければなりません。アベル側です。それを知らなければなりません。それが何の話か分かりますか? (はい)。
さあ、アベルに選定されようとするならば、まず神様の召命を受けなければなりません。「やあ、誰それ、お前はこういう責任を果たさなければならない」と言うとき、「はい」と言わなければならないのです。神様がそのように呼んだなら、神側に立っている善なる先祖たちが喜びますか、喜びませんか? 反対しますか? (喜びます)。(八九―一二一)
アベルはどのようにしなければならないのでしょうか? 最初に神様と一体にならなければならず、二番目に天使長を愛さなければなりません。それでサタンである天使長に「あなたは神様の息子であるため間違いなく相続者です」と認定を受けられなければなりません。この時、天使長の立場にいる人はカインであり、アダムの立場にいる人はアベルになるのです。これをはっきり知らなければなりません。
それでは皆さんはアベルですか、カインですか? (アベルです)。アベルになりましたか? アベルになろうとすれば神様の愛を受けなければならないのに、皆さんは神様の愛を受けていますか? 受けていると思っていますか? 自分の手を見れば「ああ、この手は神様の愛を受ける手だ。ああかわいい」、そうしてみましたか? 「私の四肢は神様の愛を受ける手だ。ああかわいい」、そうしてみましたか? 「私の四肢は神様の愛する体であるなあ」、そう感じてみましたか? 「私の血と肉には神様の血と肉があり、私の愛には神様の生霊要素が躍動している」ということを感じてみましたか? そういう感覚を受けることができなければなりません。しかし、みなそうはできないというのです。分かりますか?
最初は何をしなければならないといいましたか? これをはっきりと知らなければ駄目なのです。最初は神様の愛を受けなければならず、二番目は天使長を愛さなければならないのです。この二つができなければ駄目だというのです。
人間が堕落することによって偽りの父母が出てきたのです。それでカインとアベルに分立して復帰摂理をするのです。すなわちアダムの代わりにアベル、天使長の代わりにカインを立てて復帰摂理をするのです。
それではアベルになろうとすればどうしなければならないのでしょうか? まず神様と心情一致しなければならないといいました。心情一致して神様の気に入れば、神様が愛さずにはいられないというのです。また、心情が一致するようになれば、神様の息子になるために「おい、お前こうして生きなさい、ああしなさい」というふうに生活的なことを提示するようになります。それでは指示したとおりにしなければなりませんか、しなくていいですか? (しなければなりません)。指示どおりにして神様の目的を成してあげなければなりません。こうすることによって心情的一致が外的一致に現れるのです。皆さんはこういう原理をはっきり知っていかなければなりません。(三四―八五)
カインとアベルはどんな位置で決定するのでしょうか? これが問題になります。カインとアベルは平安で良い位置で決定するのではありません。
カインとアベルが必要なのは何のためですか? 考えてみてください。それは蕩減復帰するために必要なのです。そうでしょう? それでは蕩減復帰しようとするならどうしなければなりませんか? 祭物にならなければなりません。(三四―九一)
神様はアベルをどんな位置で決定するのですか? サタンの讒訴を受けない位置で決定するのです。それではサタンの讒訴を受けない立場とはどんな位置でしょうか? 神様と一致した位置ですが、その位置はどんな位置であるかといえば、うれしい位置ではなく一番悲しい位置、一番難しい位置です。言い換えれば、死のうとする位置、一番悲惨な位置で神様と一体になることができるというのです。(三四―五一)
原理的な立場でアベルとは何ですか? 中心です。この中心の中には神様が入っていなければなりません。ところで皆さんはアベルになりましたか? (なれていません)。なぜなれていませんか? アベルになるためにはまず従順でなければなりません。神様に従順で一体とならなければならないのです。神様と一体となろうとすれば神様がしなさいというとおりにみなしなければなりませんか、してはなりませんか? (しなくてはなりません)。神様がしなさいということをみなできなければアベルになれません。九十九まで全部やったとしても、一つができないならアベルになれないのです。(三四―四六)
皆さんに「お前は個人的なアベルになったのか」と言うとき、皆さん自身がアベルになろうとするなら三人のカインがいなければならないのです。ですから「そのカインとは誰か?」と言うとき、「私のカインは誰と誰です」と言えなければなりません。そうすればそういう個人は、そのカインを中心にして縦的な歴史を横的に蕩減することができるのです。そのためその縦的基準において、その個人が中心の位置に立つようになれば一人の人として横的に蕩減することができますが、そういう個人になれないときには三時代、すなわち三段階を経なければ駄目なのです。そのため「お前のカインは誰か」と言うとき、「誰、誰です」と天の前に盾になるのが、統一教会でいう信仰の三子女です。三子女だけもっても駄目です。その三子女によって家庭の基盤を築かなければならないのです。家庭をもてばいつでも天国に行く道があります。(五六―九八)
それでは統一教会でカイン・アベルというとき、「私が先に入ってきたからアベルだ」、その言葉は当たっていますか、当たっていませんか? (当たっていません)。かえってそれはサタンになります。かえってそれがカインになる可能性があるというのです。ちょっと間違えばサタン側に先立ちやすいのが、統一教会に先に入ってきた輩たちです。
それではアベルになれる資格は何かといえば、アベルになった勝利的基盤がなければなりません。さあ、ここで統一教会で見てみれば先に来たのがカインです。あとで来たのがアベルになるというのです。そのため先に入ってきた人が神様と同じく天使に命令することができて、堕落していないアダムと同じく一つになることができるならいつでもアベルになりますが、もし自分を立てて神様のみ旨の模範になれない人は全部カインになるというのです。これは統一教会においてもそういう関係になりますが、統一教会を中心にしてすぱっと世の中を見れば、こういう世の中に現れたためにカインだ、こう見るのです。ですから私たちはアベル側になることができるのです。
さあ、それではこの外的な世の中を見たなら、ここにもカイン・アベルがいることを知らなければなりません。悪い人の中にさらに悪い人、少し悪い人、カイン・アベルがいます。ですから外的世間ででも民主世界と共産世界が争い、内的世界ででも統一教会と既成教会が争い……。こういうことが起こってくるのです。既成教会が兄さんで私たちが弟だというのです。それでは先に現れたキリスト教は兄さんでカインの立場であり、私たちは弟でアベルの立場であるから、弟に屈伏しなければならないのにそうしなかったなら、ちょん切るのです。(七六―三二九)
3 誰がアベルで誰がカインか
今日統一教会の信徒の中に「お、私が先に入ってきたのでアベルであり、あとで入ってきた人はカインだから、私に侍りなさい!」と言う気違いたちがいます。そういう気違いたちが多いのです。アベルとはどんな者がアベルですか? 神様のみ旨どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。これを知らなければなりません。カインは何ですか? サタン側です。サタンは何ですか? 自分を考えるところから出発するのです。アベルは自分のことを考えず、神様を考えるところから始めるのです。これを知らなければなりません。
先に入ってきたとしても、自分の欲心を振るう人はカインです。自分の考えが先に立つ人がカインです。そういう人は追放しなければなりません。先生はこういう原則で人に対します。どんなに長くなった食口でも、その心根が自分のためになるときは目もくれません。今は仕方なく私がそのままにしていますが、時が来れば荷物をまとめて追い出すのです。先に入ってきたといってアベルではないというのです。分かりますか? 私的な基準が先に立つのがカインで、自分より公的な問題、天をより考えるのがアベルです。これをはっきり知らなければなりません。(五八―六八)
ここ統一教会の信徒たち同士で兄弟を決定するのに、先に入ってきた人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとで入ってきた人はカインの立場であると同時にアベルです。(二四―三四八)
カイン・アベル問題を中心として……。「私は、本部から発令された地区長であり、または教域長であり、または教区長だから、私の言葉を聞くのです」。とんでもないです。こちらは神側であちらはサタン側であるため、サタン側が自分の言葉を聞くようになっていますか? カインはサタン側なのに、サタン側が自分の言葉を聞くようになっていますか? なっていないというのです。自分の言葉を聞かせるためには三倍努力しなければならないのです。三倍努力すれば一つは返ってくるのです。それはなぜですか? 蘇生、長成を越え完成数が天のものであるから、今日復帰路程でカインを救おうとすれば三倍努力して一つが返ってくるのです。そうなっているのです。それなのにこれは伏せておいて、命令することだけ知っていて、命令を受けることを知りません。姿勢が間違っているのです。
カイン・アベル原則はそうではないというのです。アベルはカインの生きる道を整えるために血を流したというところに価値があるのです。そこに貴いものが、そこに勝利の基準があるのです。皆さんも同じです。皆さん自身がみな食口たちのためにどのくらいアベル的な責任を果たしたのですか? 犠牲になってその一つの生命を……。人生の最高の目的と同じくらいその一人に生命を傾けて、どのくらい育ててみたのかという問題を、皆さんが自問自答してみなければならないというのです。(七〇―一四九)
統一教会の信徒たちの中でも自分を主張する人は全部カインです。先に生まれたのがカインでしょう? 先に生まれたのがアベルではないのです。先に生まれたのがカインであるため、教会に先に入ってきたと自分を高く考え、遅く入ってきた人を無視する人たちはカイン族内の血統を受け継いだ人です。そういう人たちは将来霊界に行って修練を受けなければなりません。そうしなければならないというのです。見ていなさいというのです。
自分が先に入ってきたといって自分を主張する人を、先生は使いません。そういう人を使えば間違いなく滅びるのです。そういう人たちはサタン側です。
そのため最後まで尊敬しなさい。最後まで愛し、最後まで恭敬しなさいというのです。先生が早朝から起きて水沢里に来るにもかかわらず朝寝坊をする者たちは、これから全部追い出されるのです。そういう原則があるということを知らなければなりません。分かりますか?
統一教会の信徒の中でどんな人がカインでしょうか? 頭を振りかざして人を使おうとする人たちがカインです。それではアベルは誰でしょうか? 責任を果たそうとする人たちがアベルです。分かりますか? (はい)。本来は先に入ってきた人たちがカインであるにもかかわらず、今日統一教会の信徒たちは、先に入ってきた者どもがアベル役をしようと威張り散らしています。それは自縄自縛することです。そういう人がどんなまねをしたとしても、原理原則どおりにやらなければ、先生は使ってあげないというのです。(四九―二一四)
アベルという存在はどんな存在で、カインという存在はどんな存在ですか? 私たちの原理で見てカイン・アベルを端的にいうなら、カインという存在は自分に心配があればその心配を他人におおいかぶせようとする人であり、アベルという存在は自分の心配もあるが他人の心配までも引き受けようとする人です。その差だというのです。(六二―一八九)
アベルとはどういう人ですか? 神様の愛を先に受け、その愛に比例するみ旨を抱き、そのみ旨を愛を受けただけ行い、み旨を立ておいた人です。アベルは神様の愛を受けたので、神様の復帰のみ旨を選ぶためには犠牲にしながらも行かなければなりません。み旨の基台ほど相対圏を死んでも成さなければならないので、行かなければなりません。この世界は相応的世界でなく、堕落圏内の相衝的世界です。その相衝的世界を取り除いてしまい相応的世界圏を願ってきたので、その世界は今のこの世界ではありません。新しい時代が来るのです。(五一―八二)
アベルとはどんな人ですか? どんな環境でも喜ぶ人です。喜ぶのに誰がまず喜ぶのでしょうか? 神様がまず喜び、その環境で喜ばなければなりません。これと同じ内容を見るとき、アダム・エバの家庭でアベルが責任を果たせなかったということを知ることができます。
二人の人が互いに怨讐と同じ感情をもって耐えられずに対決する位置にいるとき、どちらの人が残るでしょうか? ここでは復讐をするのが鉄則ではありません。その復讐の裏面に一つの条件、すなわち許すことができる雅量があれば復讐は成立しません。より勝るものの前にはより劣るものが吸収されるのです。ここでどちらが主体でどちらが対象でしょうか? より勝るものが主体で、より劣るものが対象です。
それでは、皆さんが良い人になろうとするその人はどんな人でしょうか? 絶対者であられる神様の前に絶対的基準を立てる人です。その絶対的基準には世界も含まれ、国家と民族、そして社会のすべての制度と理念が含まれるのです。そうでなければならないのです。そうすることができる絶対的環境を備えなければなりません。どんな社会、どんな制度の中でも、自分自身が与えることができる雅量をもった存在にならなければなりません。(三四―二三三)
皆さんは今までの神様とサタンの作戦法を知らずにいます。打たれて奪ってくる道がアベルの行く道です。サタンはまず打つので勝ったようですが、あとには、もっている自分の善なるものまでプラスさせて返してあげなければならないのです。何の話か分かりますか? 悪の側というのは相対を打って占領したとしても、占領したそれが栄えるのではなく、悪の中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡してから、それを取り戻す時には、もちにきび粉をつけてくるのと同じような役事をなされるのです。一時的には悪が盛んで善を打つ立場に立つのですが、だからといって天が滅びるのではありません。
それでは、カインとアベルをどのように区別するのかという問題を皆さんが知らなければなりません。統一教会の信徒たちの中でも、二人の人がいればその中にカインとアベルがいるのです。どんな人がアベルでどんな人がカインかといえば、侵害を受ける人がアベルで、害を加える人がカインです。じっとしている人のところに行って意味なく「この野郎!」と一言でも言ったらカインになるのです。例えば父母の前に二人の息子がいて、大きい息子は年が上で小さい息子は年下だとしましょう。ところで、その父母の相談の相手とかすべての面において父母の代身になれる息子は長男だけだとしても、この長男が、下の息子が何の失敗もせず何の過ちもないのに、下の息子に手を挙げるなら、一遍にその父母は上の息子側に立つのではなく、下の息子側に立つのです。これが今日社会で適用される善悪の判別基準であるということを知らずにいるのです。害を与える人が必ずカインになるのです。
私たち統一教会の信徒たちにおいて、教会のために熱心に働き精誠を尽くす人を見て、「あの人、人と違って際立ってあれは何だ」と悪口を言えば彼はカインになるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそうやって分かれるのです。罪のない立場で批判を受ける人、被害を受ける人は必ずアベルになるのであり、批判する人、害を加える人はカインになるのです。
一言話をするにしてもそうです。言葉を話すにしても、他人に利益を与える言葉を言う人はアベルになるのであり、他人に害を及ぼす言葉を言う人はカインになるのです。言い換えれば、私が他人に利益を与えるということは加害ではありませんが、自分の利益のために何かをするということは人に害を与えるということです。ですから他人に利益を得させるための位置が公的な位置であり、自分の利益のための位置は私的な位置です。このように、公と私を中心にアベルとカイン、善と悪は分かれるのです。これを皆さんは知らなければならないのです。(五六―八五)
より公的な存在がアベルです。統一教会の信徒たちの中に先に入ってきたからアベルだと考える人がいますが、先に入ってきても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれはしましたが、アベルより公的な立場に立てなかったためアベルに従わなければならなかったのです。統一教会の信徒の中でも先に入ってきたとドカッと居座って「私が先に入ったのでアベルだ」と言う人がいるかもしれません。しかし、あとで入ってきた人より公的な位置に立てなければ何ですか? (カインです)。カインです。アベルだというのは盗賊です。アベル的存在はより公的な立場に立った人です。(三一―一六五)
統一教会内で皆さんは、カイン・アベルの関係に互い違いにかかっています。原理的カイン復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰をしなければならないのに、平面的に関係を結ぼうとすれば皆さん同士ぶつからなければなりません。統一教会は無慈悲なところです。皆さん、統一教会を良いところだと考えないでください。統一教会は冷たいところです。冷やかでなければなりません。そうでありながらも言葉なく頭を下げて他人のために生きなければなりません。
そのためお互いが無関心主義であるように見える人たちが多いです。しかし、全体のために犠牲になる人がアベルであることを知らなければなりません。分かりますか? いくら先に入ったとしても関係ないことです。先生には好きなように変更する権限があります。縦的歴史が蘇生、長成、完成の三段階になっているために横的な歴史も蘇生、長成、完成の三段階になっています。先生が定めるとおりに、この期間を延長することもできるし、短縮させることもできます。皆さんはそれを知らなければなりません。(四九―二一七)
先生が全生涯をささげて自分の利益よりも公的な利益のために犠牲になり、そういう材料なら材料、量なら量をたくさん投入したことが隠されているために、皆さんが自然に仰ぐようになるのです。それが原理です。それが天運です。
皆さんが今回帰ったなら、いろいろな人たちの胸に残ることができる自分になるように願います。そうすればこそアベルになるのです。分かりますか? アベルのみ旨は反抗する位置で成されるのではなく、心から頭を下げて、「ために」生きる因縁が起こることによってアベルの基盤が連結されるのです。
アベルの完成は個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的あるいは民族、国家、世界的アベルの完成の基盤に続いていかなければ、世界復帰ということは不可能なことです。そういうことを知っている私たちは、夜も昼もやって来るその日その日を中心にしてこの原則を適用させ、この原則の発展を連結させるために休まず走っていくことができなければなりません。そういう人を、「天の人だ」と言うことができるのではないでしょうか。分かりますか? (六四―八一)
4 食口間におけるカイン・アベル関係
統一教会の信徒の中でもカイン・アベルがあるのですが、先に来た人がカインなので先に来た人が重要だというのです。そういう意味で統一教会に一番先に来た人は誰ですか? 一番先に入ってきた人が先生でしょう? 先生より早く統一教会に入った人がいますか? ですから先生がカインでしょう。神様に尋ねてもそうだというのです。しかし「やあ、侍りなさい、こっちに来い、この者ども」と、先生は皆さんに強制して「私に侍れ」とは言いません。するならし、しないならするなというのです。ただ正しく教えてあげるだけです。秋風が吹く前に遭うことになる夏風が恐ろしいということを、皆さんは知らなければなりません。
私たち統一教会の信徒たちを中心にして見るとき、カイン・アベルが誰かといえば、横的には先に入ってきた人がアベルで、縦的には新しく入ってきた人がアベルです。縦横関係を見るとき、横が縦を重要視しなければならないのであって、縦が横を重要視するのではありません。こうなるのです。
神様と人間を見るときにも、神様が人間を重要視することよりも人間が神様をさらに重要視しなければなりません。この伝統を重要視しなければならない摂理歴史は、手本にする路程だというのです。私が今まで三十六家庭に苦労をさせるのは、この法度に引っかからないようにするためです。統一教会の信徒たちにはみな黙っておきましたが、祝福を受けた家庭たちは全部苦労の道に送ったのです。それはアベルとしてしなければならない責任を果たしなさいということなのです。統一教団を中心にして、アベルとしての責任を果たしなさいということです。
ですから四方を備えなければなりません。皆さんの思いどおりにするのではなく、先生がするとおりにし、先生が行くとおりに続いていきなさいということです。先生が別に教えてあげるのではありません。統一教会の伝統を受け継ぎなさいというのです。統一教会の文先生がするとおりに皆さんもしなさいというのです。先生も家庭を捨て、父母を捨ててこの道を歩んできました。皆さんもそれに従順に従っていかなければなりません。
アベルになる秘訣は何ですか? 伝統を守ることです。殺されようとしながらも反発しない人がアベルになるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。イエス様を幼い羊だといったでしょう? ですからたとえ刺されたとしても反発してはならないのです。(四九―二一四)
さあ皆さん、責任者たちはカインですか、アベルですか? 先生の前にはカインです。そうすると皆さんは先生に対して「先生は私より兄さんになってもいいんです」と言うでしょう? 先生が先生になろうとすれば、先生自身よりもさらに皆さんを、「ために」尽くし愛さなければなりません。そういう論理です。それはどこででも同じことです。何の話か分かりますか? (はい)。横的に見れば皆さんが先に立たなければならないというのです。サタン世界に対しては皆さんが前に立ったというのです。何の話か分かりますか? 横的に見れば皆さんがサタン世界に先立っているというのです。先に生まれたのと同じような位置に立つというのです。しかし縦的に見れば皆さんが私の下に立つアベルです。あとで生まれた位置に立つというのです。ですから私が神様と絶対に一つにならなければなりません。絶対一つになって、カイン・アベルと一つにならなければなりません。
これは原理的です。これは縦的であり原理的です。神様が先にいるから長子であり、私は次子です。また統一教会で見れば、私が長子で統一教会に入ってきたみんなは次子の位置にいます。縦的基準は原理型です。しかし、横的基準はサタンになるのです。反対になるのです。それをはっきり知らなければなりません。縦的な基準が原理型です。分かりますか?
縦的に見れば先生が長子の位置にいて、皆さんは次子の位置にいるのです。また、横的に見れば皆さんが長子の位置にいて、先生が次子の位置にいるのです。それで皆さんを復帰させようとするならば、先生は奉仕しなければならないというのです。論理がそうなのです。反対になるのです。ですから皆さんが横的に責任を果たしてこそ、ここに入ってくるのです。皆さんが先生と完全に縦的横的に一つになればこそ、アベルの位置に立てるのです。
ですから縦的なときには皆さんが兄の位置に立ち、横的なときには弟の位置になるのです。サタン側ですから皆さんが指導している食口が兄の位置になるのです。それを確実にしなければ全部間違ってくるのです。分かりますか、何の話か。講義するとき……。分かりますか。(はい)。
言い換えれば、先生と皆さんの関係と同じように、皆さんと食口の関係においても、縦的には皆さんが兄の位置にいて、食口たちは弟の位置にいるために、自動的に支配することができるのです。支配することができますが、外的な世の中で横的に対するときには支配できないのです。皆さんがアベルの位置にいて、食口たちがカインの位置にいるのです。逆さまになるのです。ですから彼らを復帰するためには、責任者がアベルの蕩減路程を代わりに経なければならないのです。そうしなければ復帰できないのです。同じ道理です。
それが何のことかといえば、絶対に信仰を誓う統一教会の信徒たちは全部私の中にいるために、好きなように主管してもいいけれども、新しく入ってきた人たちは蕩減復帰歴史を経なければならないのです。縦的な立場では兄の位置で弟を扱うようにしてもいいけれど、横的な立場にいるときはそうではないのです。一つになれないときは、カイン・アベルの蕩減復帰の役事をしてあげなければ、彼らが帰ってくる道がないのです。同じ道理です。
そのため統一教会に入るなりすべてのものを、自分の持ち物と体と心をみんなアベルに与え、「愛さえもあなたの前にあげます」と言ってこそ初めて一つになるのです。それが簡単なことですか? 皆さんが神様と完全に一つになって、先生と完全に一つになる前には息子になることができません。息子の位置に立てないのです。完全に一つになる前にはアベルの位置がないのです。立つ位置がないのです。
さあ、ですから私が立って東西南北に人をつくらなければなりません。十二支派がそれで出てくるのです。十二の月があるので、十二支派をつくっておかなければなりません。私に絶対屈伏し、横的に完全に一つになって授受することができるようにです。ですから地にも十二の月があって一年になるのと同じように、霊界にもそういう十二の真珠門があります。十二支派はそれで出てきたのです。十二方数を合わせられなかったら四方四位基台を形成させなければならないのです。それは四方の立体性を表示する角度でなく十二方数、十二カ月の代わりだというのです。四位基台を完成して四方を備えなければなりません。
ですから、イエス様も自分を中心にして三弟子を立て四方になったのです。これを中心にして十二弟子をつくっていったのです。ですから統一教会が祝福するとき三名を伝道しなさいというのです。そうしなければ四数基盤をもてないために立つことができないのです。平面的基準でカイン・アベルの蕩減条件圏をもてなかった位置になるのです。分かりますか、何の話か。(……)。はー、皆さん、そんなことも分からないのですか! それなのに何が蕩減復帰ですか。復帰歴史だといったのも全部無駄な苦労をしたというのです。皆さんの信仰は全部サタンの位置にいたということになります。(一一六―二六六)
5 アベルの使命
私たちは原理でカイン・アベルの問題に関して習いました。アベルは、サタンあるいはカインから自分自身を分立しなければなりません。その次に神様の愛の圏内に入って、神様と兄の悲しみを感じて体恤することによって、彼らを身代わりして自分自身を進んで犠牲にしようという覚悟をしなければならず、生命を懸けて、生命をささげることがあったとしてもその兄を救わなければなりませんでした。しかしそうする過程で、アベルはカインによって殺害されてしまいました。
統一食口は原理を知っています。ですから食口たちはアベルの位置に立っているのです。そのため、皆さんはとりあえずサタンに対抗して闘うことができなければならず、サタン世界から皆さん自身を分立することができなければなりません。これは、皆さんが神様の愛の圏内に入らなければならないということを意味しています。
しかしこれが全部ではありません。その時から、皆さんは神様の悲しい心情と、サタン世界につながれている兄弟姉妹の悲しい心情を解いてあげるために、自分自身を喜んで犠牲にしようとしなければなりません。皆さんの生命、皆さんの犠牲の代価で、サタン世界から彼らを喜んで救い出そうとしなければなりません。アベルが犠牲になるところから復帰摂理は進展するのです。これが皆さんが記憶しなければならない公式です。これが神様の摂理の一つの単位になります。(五二―五二)
これからアベルは何をしなければならないのでしょうか? アベルはカインがいなければならないので、カインを探さなければなりません。その家庭なら家庭で、一番代表になるカインは誰ですか? このカイン一人だけを屈伏させれば、みな屈伏するのです。カインの中で一番悪いカインを屈伏させなければならないのでしょうか、少し悪いカインを屈伏させなければならないのでしょうか? (一番悪いカインです)。どうしてですか? 悪い者ほどその悪い相対をたくさん主管しているためです。さあ、それを屈伏させるのが簡単ですか? 難しいですか? (難しいです)。(七六―三三三)
アベルが誰を愛さなければならないのですか? (カインです)。アベルはカインを愛さなければなりません。愛で自然屈伏させなければなりません。血の涙で彼らを愛する立場に立たなければなりません。誰よりももっと、高い愛で愛してあげなければならないのです。そうしなければ屈伏させることができないので復帰されません。私たちは既成教会のために、大韓民国のために、北韓のためにそうしなければなりません。それで先生が今北韓のために祈祷するのです。(三四―二八三)
アベルを愛する前に天使長を愛さなければならず、カインを愛してからアベルを愛さなければなりません。これが原理です。天使長がサタンになったのでサタンが兄さんです。ですからアベルはサタンを愛さなければならないのです。神様も愛さなければなりません。それが重要です。ここにかかっているのです。
愛さなければサタンが離れて出ていかないのです。サタン分立、すなわちサタン世界をいつ分立するのかという問題を、今日既成教会は夢にも思っていないのです。「何信仰で、十字架のおかげで救われた」と言っているのに、どうしてキリスト教が衰退しているのですか? サタンを分立しなければならず、カインを屈伏させなければなりません。アベルがこの二大事件をどのように収拾するかというのです。
アベルの責任とは何ですか? サタンを屈伏させることです。屈伏させなければ分立できないのです。サタンを屈伏させなければならず、カインを屈伏させなければなりません。愛でです。兄さんを弟の位置に立てて、弟が兄さんにならなければならないという原理を知らなければなりません。堕落しなかったらアダム、エバを中心にして一度に個人完成、家庭完成、氏族完成、民族完成、国家完成、天宙完成基盤、神様の愛の圏が形成されるのです。そこにはサタンもいないのです。堕落もありません。
神様が直接主管する愛の波紋が……。しかし人間が堕落したために……。堕落することによって個人にも垣根が生じ、家庭にも垣根が生じ、全部垣根が生じたのです。ですからアダムとエバも怨讐です。アダム・エバの息子、娘、カインとアベルも怨讐です。また母、父全部が怨讐になったというのです。サタンを中心にすれば破綻です。神様のみ旨がここに入ってくることができなければ、全部破綻なのです。全部が分立だというのです。ですから皆さんの家庭では個人的な争い、兄弟の争い、氏族的な争い、民族的な争い、国家的な争い、世界的な争い、地獄の争いまで、全体にわたって、霊界の神様のみ座の下に至るまで、争いの場面が展開されるのです。
これを誰が収拾しなければならないのですか? アベルが収拾しなければなりません。言い換えれば、アダムが堕落したためにアベルがアダムの位置で収拾しなければならないのです。ところが個人からこの世界四十億人類が繁殖したものを一度に収拾することができないので、そのレベルを中心にしてカインレベル、家庭レベル、氏族レベルすべて蕩減復帰して連結させてつなげていく運動を、今するのです。
最初のレベルに何があるのかといえば、サタンがいてカインがいるのです。これを知らなければなりません。サタンは父でこれ(カイン)が息子です(黒板に書かれながら語られる)。それではいつ屈伏するのですか? 神様の愛の内容を中心にして私たちに生命をささげ、死んでも神様を賛美していくことができる位置で分立されるのです。そうしようとするならば、どのようにしなければなりませんか? サタン世界にアベルが入っていかなければなりません。自分の故郷を離れてサタン世界に入ってこのサタン夫婦を屈伏させるなら、本然の位置に上がることができるのです。出なければなりません。家を離れなければなりません。(一二九―二一六)
アベルはカインのために死ぬことができる、生命をすべてささげることができる立場に立たなければなりません。そうしなければカインがアベルの前に屈伏しません。カインのために代わって死ぬことができる位置に立ちさえすれば入ることができるのです。分かりますか?
そのためイエス様の教えの中に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というみ言があるのです。このみ言はアベルにも適用されるみ言であり、カインにも適用されるみ言です。アベルがカインを救おうとするなら自分の生命を惜しんではいけません。そうでなくてカインを救うことができますか? できません。また、カインがアベルについていこうとすれば死を覚悟しなければなりません。そうでなくてついていくことができますか? できません。二つとも同じことです。こういう観点で「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というのです。(三四―九九)
アベルは何をしなければならないのですか? 三大復帰をしなければならないのです。最初はカインを復帰しなければなりません。分かりますか? その次には父母を解放してあげなければなりません。その次には何の使命があるのですか? 神様を解放してあげなければなりません。このように三大使命があるのです。分かりますか? 言い換えれば、サタン世界を解放してあげなければ父母が出てこれないのです。その次には、父母を解放してあげられなければ神様が解放されません。この三大解放圏の責任をもたなければならないのが、アベルの使命です。(五八―六八)
アベルは子女の立場であり、カインは養子の立場です。ですからカインはアベルの前に絶対服従しなければなりません。ところがアベルがカインから背反されました。アベルはカインを再び探していかなければなりません。すなわち、イエス様が十字架の死を受けても復活して弟子たちを訪ねられたのと同じように、アベルもカインに死を受けても訪ねなければなりません。裏切ったカインの後孫を訪ねなければなりません。そういう立場を身代わりしたのが、ノア時代のハムとセムでした。(二四―三三一)
6 アベルとしての牧会者の使命
これから先、蕩減復帰をしなければなりません。蕩減復帰でなければならないのです。蕩減の道は誰が行かなければならないのですか。アベルが行くのです。それでは、教会責任者と新しく入った人を見たとき、誰がアベルですか? (教会責任者です)。それではカインが蕩減の道を行くことができますか、できませんか。答えてみなさい。そういうことがありますか、ありませんか? ないというのです。蕩減の道はアベルが行くのです。統一教会の責任者たちはこれを知りません。忘れてしまったというのです。これを知らなければなりません。ここに今いる各国の代表者たちも、それを知らなければなりません。蕩減の道は誰が行くのですか。カインが行くのではありません。アベルが行かなければなりません。涙を流すのも、まず最初に流さなければならないし、おなかがすくのも先におなかがすかなければならないし、悪口を言われるのも先に言われなければならないし、殴られるのも先に殴られなければならないのです。それが、蕩減の道を行ってあげるということです。既に一人が入ってきたとすれば、その人の話を聞き、その人の過去の話をすべて聞いてあげ、お父さんと同じ立場で相談してあげ、涙を流してあげ、祈祷をして、こういうことをしてあげなければなりません。
親しい人が行ってしまえば心が落ち着かず、その家の前まで送っていき、また朝になれば心が落ち着かずその家の前に行って待ってあげて再び会う、このようにすることができなければなりません。結局、誰よりもその人を好きになる人間になればよいということです。カインを最も好きになる人間になればいいのです。そこから蕩減の道が……。そうすればこそ、その人は私のあとを正常に従ってくるというのです。蕩減の道に従ってくるのです。ですから、蕩減の道を行かなければならないのです。それでは、誰が一つになるようにつくらなければならないのですか? (責任者です)。それはアベルです。カインではありません。カインは無条件にかみつき、破り捨てようと何度も妨害するのです。それゆえに、天の前に涙を流しながら祈祷をして、夜通し祈祷をして、というようにするのです。病人の中の病人、憂いを抱く者の中の憂いを抱く者になって、天の前に事情を痛哭していく道が蕩減の道だということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは、何も分からずに包囲されて窒息していくことを感じなければなりません。心が休まらない状態でなければならないのです。(八八―二六三)
カインとアベルのうち蕩減は誰がしなければならないのですか? カインがしなければならないのですか、アベルがしなければならないのですか。アベルがしなければならないのです。祭司長は、座っていながら稼いで食べていくのではないのです。心で精誠を尽くし、精誠を尽くして再創造の力を投入する人間であればこそ、座って食べていけるようになっているのです。それが原理です。再創造の役事です。見てごらんなさい。誰かが伝道して入ってきた人間はみな土の塊です。土の塊、石の塊、サタンです。それは自分勝手にできているのです。それを粉にして、つばきで練り水を注いで練り上げて泥んこを作り、ただひたすら努力していって自由に創作できるようにしてこそ、私が願う人をつくることができるのではないですか。同じことです。再創造なのです。再創造の役事なのです。(七五―一六七)
今日、統一教会の皆さんは行くや否や「えっへん。先生が何々教区長、何々教域長をさせたから、私はアベルだ」と言うのです。アベルになったのではありません。アベルの使命を果たしなさいといって送ったのです。ところが、アベルの使命をすべてすることができないで「私に仕えろ。私の命令を聞け」と言うのです。親が子供に仕事を言いつける時、自分は座っていながら言いつける親は、義理の親というのです。分かりましたか? 義理の親、本当の親は連れて出かけて仕事をするのです。教えてあげながら仕事をします。そうではないですか? そうでしょう? (はい)。それが本当の親です。(七五―一六八)
皆さんは今まで、統一教会のカイン・アベルの愛を間違って理解しているのです。責任者は無条件にアベルだと思っているのですが、そうではありません。アベルはカインを救ってあげなければなりません。そのようにして、カインと一つになってこそお母さんのところへ行けるのです。責任者と一つになることができなくても、皆さん同士で一つになればその場には責任者が訪ねてくるのです。それで二人、三人が祈祷するところには、いつも神様が共にいてくださるというのです。一人で祈祷するよりも、二人が集まって祈祷するようになれば……。皆さん、肉を切り血を分けることができる友達がいますか。そういう同志がいますか。
きょうからは、今までの責任者中心の考えを捨てて、食口中心の思想をもたなければなりません。どうして、そうしなければならないのですか? 家庭に主人がいた場合、その主人は、家庭天国をつくるためには自分のためのではなく、家族を中心とした観を立てなければなりません。そうしなければ家庭天国は生まれてきません。同じことです。今まで統一教会の先生のためにやったことを、統一教会の食口の皆さんのためにやり、集中的に愛の群れを横的に組んでいかなければなりません。そのようにすることによって天国の環境が成し遂げられます。縦的に先にやってしまってはいけません。縦的にだけやるのではないのです。
それゆえ、神様を愛するように父母を愛さなければならないし、父母様を愛するように世界万民を愛さなければならないのです。世界万民と一つになりなさいというのです。横にいる二人の人から足のにおいがし、口臭がするし、体臭がするという嫌な環境を消化しなければなりません。足を洗ってあげなさい。服がなければ自分の服を持っていって着せてあげなさいというのです。(拍手) (一一五―五六)
第三節 食口指導の要素
第三節 食口指導の要素
P869
一 食口指導の要素――他のために1 お父様と「ために生きる」という思想
今回、韓国に大会を開きに行った時、韓民族がレバレンド・ムーンに対して「歴史始まって以来、五千年歴史にいなかった偉人が現れた」とかいろいろと言っていました。米国でもそうです。(拍手) 自由世界でもそうなのです。「世界でこんなに迫害を受けるレバレンド・ムーンがこういう仕事をするのを見ると、人類歴史にいなかった人物として現れた、生きて聖人となる人だ」という話をする見通しがあると見たわけです。それゆえ、全世界の人々に「セカンド・アドベント」(Second Advent:再臨)という言葉が共通語になったようです。(拍手)
私が微賤な位置からこのように出てきたところには、どんな思想があったからですか? 何がそのようにつくり上げたのですか。「他のために尽くす愛」これ一つしかありません。私が通り過ぎる時には負債というにおいはにおわせませんでした。負債をなくしてきました。もしある国と民族があれば、その国と民族のために涙を流してあげ、福を願っていこうとしました。サタンを、そしてサタン圏を完全に占領したところで生命の道をわきまえるのですから、避けようがなく、そうせざるを得なかったことをはっきりと知らなければなりません。
「足よ、あなたはいつ部落のために、国のために、世界のためにやってみたのか? この目よ、鼻よ、口よ、いつそのようにしてみたのか? 手よ、いつしてみたのか?」と言うと、「命令さえあれば、いつでもいたします」と答えるというのです。私の目が、私の精神がそうだというのです。最後の死が来たとしても、私が死という名詞を前にして、負債を負って行きはしないというのです。負債を清算して行かなければならないのです。(拍手)(一三一―三六)
皆さんはイエス様が弟子たちの足を洗ってあげたことを知っているでしょう? 皆さんもそのような伝統を立てなければ、彼らを糾合することができません。先生はそのようにしてきました。先生は怨讐の息子たちが飢えているといううわさを聞いた時、パンツとねんねこはんてん一つだけを残して、全部持っていってあげたことがあります。そして、パンツだけをはいて、ねんねこだけを寝る時にかけて、一週間生活してみました。そうしているうちに、一つだけ残っていたねんねこまでも、彼らのために売ったのです。
どうしてそんなことをするのですか? 先生ができが悪く生まれついたからではありません。復帰の道を行こうとすれば、怨讐を愛したという絶対的条件を立てなければならないためです。この世の中には、そのようにできる人間はそんなに多くいません。しかし、先生は怨讐の子供たちのために持ち物をすべて売り、甚だしくは、パンツ一つとねんねこ一つが残っているうちで、ねんねこまで売ったというのだからやるだけのことはすべてやったというのです。「怨讐を愛せ」という聖書のみ言を実践しなければならないので、そういうことまでしたのです。(二三―三二〇)
2 教会指導者は食口のためにある
私がイエス様を信じているからといって直ちに「イエス様!」と言っては駄目だというのです。橋を架けていかなければなりません。私たちの平面的生活において橋を架けるために、教会ならば教会に行くようになる時、その教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は自分の目的を達成しようとする人間ではありません。もし、そのような人がいたとすれば、その人は指導者にはなれないということを、皆さんは知らなければなりません。指導者には自分と教会員との間に橋を架けてあげなければならない責任があるので、訪ねてきた信徒たちのために与えなければならないのです。
教会の指導者は信徒のために存在するので、神様のみ旨を中心として、信徒の精神的問題とか信徒の生命の問題までも責任をもっています。その指導者は、そのような自分が責任をもった分野を中心として、信徒たちを指導するのです。そうなれば、神様はその人を見て高い位置にいるというとき、信徒たちがその人と一つになっているとすれば、その信徒たちも高い位置に上がることができるのです。その人が私の代わりに精誠を尽くしてくれて、私の代わりに私の罪の贖いのための祈祷をしてくれるとすれば、私はその人の祈祷のお陰でその人が立っている所へ同席することができるのです。人々が恵みを受けている人の祈祷を受けようとする理由がここにあります。このようにして橋を架けて探していくのです。(三二―一六五)
皆さんは縦的な神様との関係は重要視しますが、横的な人間との関係を無視する時が多いのです。原理の中で講義しなければならない内容を見てみるとき、これは「貴い福音であり真理である」と言わざるを得ません。ですから、神様に対する縦的な内容が、横的なカイン・アベルの関係において一致しなければ復帰されないのです。真理を表象するすべての内容がここに盛られており、十字架が表象する意味もここに盛られているということを皆さんは知らなければなりません。
それゆえに、誰でもみな、良い時や悲しい時やどんな時でも、神様を考えなければなりません。縦的基準の前では、良い時も神様を考え、困難な時も神様を考えればよいのです。どうしてそうするといいのですか。それは、全体が神様と一つになるためにそうなのです。それゆえ自分が悲しい時、横的な環境で食口たちと共に悲しむことができる基盤がつくられていなければならないのです。また、うれしい時も食口たちと一緒に喜べる基盤が成されていなければなりません。
したがって、神様のためにする分だけ、人のためにもしてあげなければなりません。弟子たちがイエス様に直接してあげられなかったけれど、「あなたたちが非常に小さい者の一人にしてあげることが、すなわち、私にしてくれることである」と言われたイエス様のみ言の意味を、皆さんは知らなければなりません。(三四―二二九)
皆さんは今、何かといえば、平面的な面においてカイン・アベルの戦いをしているので、絶対的に食口たちのためにやりなさいというのです。神様と同じ位置で、食口のためにやらなければなりません。(七六―三三七)
責任者自身を見てみると、いつも幸福な人間ではないのです。不幸な人なのです。どうして不幸な人なのですか? いつも負債を感じるためです。ただひたすら、食口たちに私がよくしてあげなければならないと思えば、いつも負債を負ったと感じなければならないということです。そうでなければなりません。あるかわいそうな人を見たなら、その人の生命を気づかってあげて、夜通し話をしてあげるということが天職だというのです。その人が死んでしまうようなことがあれば私が犠牲になって、その人の死の道をふさいであげるのが霊的指導者の責任ではないでしょうか。そのような立場に立たなければならないというのです。
ですから、その話は何の話ですか? どのくらい食口のためにしてあげられる立場に立つか、という話だというのです。そうではないですか。どのくらいためにしてあげるかというのです。その人は他人ではないのです。私の延長ということになるのです。自分の枝になるのです。分かりましたか? 自分の枝になるというのです。自分が成長しようとすれば、よく保護してあげなければなりません。それゆえ、伝道すれば「信仰の息子、娘」という言葉があるでしょう? それは何ですか? 自分の枝です。枝だというのですから、どれほど補給しようとし、昼も夜もなく努力しましたか? そうだとすれば、自分が幹になるか、あるいは根にならなければなりません。根になっていれば、その幹が、あるいは枝が多ければ多いほど、その幹や枝が必要とする栄養素を土地から、自分は休まずに、要求する以上に供給してあげられる、余裕の条件があればこそ発展するのです。そうであればこそ大きくなるのです。すべての部分が栄養素を要求しているのに、それを補給してあげられずに限界線が存在するようになれば、てっぺんは乾いて死んでしまうのです。そうでしょう? そのようになるのです。(七〇―一四七)
皆さんは国のために、食口のために、兄弟たちのためにどれほど涙を流してみましたか、真実に愛してみましたか? これが問題です。このような問題を中心として、統一教会は心情的な歴史を追求してきたのですから、歴史時代のイエス様の心情よりも低くてはいけないのです。神様の心情を中心として、もっと高くなければならないのです。(六〇―一四五)
「ために生きる」人は負債をつくらない人です。そのように「ために生きる」ようになれば、間違いなくその三代の血縁関係が栄えるというのです。明け方、鶏が「コケコッコーッ」と鳴く時、私が門を開ければ、既に人々が来て待っているのです。夜眠らずに、夜中に垣根を越えてでもやって来るのです。そうなればこそいいのではありませんか。こうやって来ては、神様の公義のために夜が更けていくのも知らずに、この民族と世界に関する話をするのです。この世の中で恋人同士が恋愛すれば、これ以上にするでしょうか? 問題ではないというのです。
神様の愛の観念と、神様の理想世界を中心として話をすれば、夜が更けていくのも分かりません。別れることを千秋の恨みのように感じ、時間がいつ過ぎたのかも知らず……。そのような時間が連結されて、心情的な基盤を築き上げていくというのです。何の話か分かりますか?
さて、今までは侍ってもらおうとして「あーっ、私が責任者だから、私の言うことを聞け」とこういう具合だったでしょう? 侍ってもらうことに力を注いでいたけれど、これからは侍ることに力を注ぎなさいという話です。分かりましたか? (はい)。負債を負うなというのです。そのようにしてごらんなさい。負債を負わせなさいというのです。町に行っても負債を負わせるのです。一番簡単なことは、町の子供たちに負債を負わせることです。その次には年寄りたちに負債を負わせるのです。(六八―一一五)
偉大な指導者は、悲しむ者と共に悲しまなければならないし、困難な人を指導しなければなりません。困難な人を指導しようとすれば、困難な立場に入っていかなければなりません。その次に、苦痛を受けている人を指導しようとすれば、苦痛を受ける立場以上のところへ入っていかなければならず、死の立場にいる人を指導しようとすれば死の立場以上のところへ入っていかなければならないのです。
皆さんは新しいこと、できそうにない仕事が出てきた時、それをどのようにしなければなりませんか? 「やあ、おもしろい。私の人生の一ページに記録され始めた」と言って関心をもたなければならないのです。そこでよくやれば、乗り越えていくし、失敗すれば後退していくのです。(六五―三〇九)
3 自分のためにやれという時には宇宙が讒訴する
皆さんは例えば、ブロードウェイのような所をある夫婦が歩いていて、その夫婦が「あの人たちはどこに行くんだい?」と言われた時、彼らが喜んで「国に向かっていくのです」と言う時には拍手をしてあげなさいというのです。国に向かっていくのだという時は拍手をしてあげなさい。国を捨ててそのカップルが二人で行く時には、「ブーブーブー」と文句を言うのです。スケールの大きいカップルになり、大きな所へ行く人は、宇宙が拍手するのです。天も地も、すべての空気も、全世界が拍手するというのです。
しかし、大きなものを訪ねることをせず、自分のためだけに行こうとする時には、宇宙全部が讒訴するというわけです。なぜそうなのですか? 愛を中心として、愛の原則を中心として宇宙を造ったため、宇宙はその拍子を合わせるようになっているのであって、個人に拍子を合わせはしないのです。宇宙はそういう力をもっているというのです。さあ、はっきりと分かったでしょう? (はい)。(一三一―一二四)
父母の愛も良いけれど、父母の愛が父母のためにしろという愛であれば、子供はその父母の愛を必要としないのです。子供の愛もいいけれど、子供が自分のためにしてほしいというならば、その愛は父母も願いはしないのです。私もあなたのために、あなたも私のためにという、その愛に……。自分が十をあげたとすれば、「ために」という愛は必ず十一になって返ってくるというのです。「ために」という愛はそうなのです。
相手が小さなことで私を愛してくれて、何かしてくれたとすれば、私はそれ以上のことをもって返してあげたいというのです。これはしきりに拡大していくのです。拡大、拡大して、歳月が過ぎ、一生涯そのようにしてみれば、これが国を越え、世界を越え、永遠なる世界を、天国を越え、天上世界を越えていくのだというのです。
自分のためにしてほしいという所はすべて削減です。マイナスです。一度したあと、その次の二回目をする時には、十だった愛が削減されて八に減ってしまうのです。昼夜、自分のためにしてほしいというのは、心が反対に乾いて縮こまっていくということです。愛はどこから来るのですか? 相手から来るわけですが、「ために」してあげようという道だけをたどって、純粋な理想的な愛が往来するのです。アーメン! 一度、してみなさいというのです。(アーメン!)。(一一九―三二六)
4 「ために」する立場の結果
より「ために」なさなければなりません。より良く「ために」するとは何でしょうか? より「ために」してあげる人が責任者になるというのです。十人の中で誰が中心になるのかといえば、その十人を愛して、「ために」してあげる人です。その人に、十人の人々が訪ねていくのです。そうでしょう? そうですか、そうではないですか? その「ために」するということを悪いことだと思っていたのだというのです。「ために」するということにおいて、中心者になり、責任者になるということを知らなければなりません。そうして主人に、中心者になるのだということを知らなければなりません。国の大統領は、より国のためにする人がなるというのです。そうでしょう? 会社を相続できる人は、会社のためにより犠牲になり、より「ために」する人です。天理がそうです。「ために」生きることが良くないことと思っていたけれど、これがつまり中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのものを相続するための道であるわけです。それゆえに、「ために」生きなさいということを知らなければならないのです。良くないことではないのです。損害が出るものではないのです。商売の中で、こんな商売はないというのです。(一三二―二七六)
本来、人間が生まれたのは人のためなのです。人のために犠牲になるために生まれたというのです。人のために犠牲になるとどうなるのですか? 愛の伝統が立つばかりではなく、その人が愛の中心者になるのです。何になるのですか? 間違いなく愛の中心者になるのです。
学校を例に取って言えば、その学級全体のために仕事をする人が級長になるのと同じです。同じ立場にいながらも、人のためにする立場に立つ人が級長になるのです。大韓民国であれば、韓国の国民を誰よりも愛し、誰よりも韓国の国民のために生きているならば、その人は自然と民族的な中心者になるというのです。そのようになっているでしょう? それは否定することができません。
愛の中心者になってから何をするのですか? てっぺんに上るのです。中心者はてっぺんに上るのです。てっぺんに上れば自動的に群れを指導することができるし、主管することができます。主管者になるのです。これが天理原則です。これをはっきりと知らなければなりません。(五七―二六)
人はなぜ高いことを好むのですか? 多様な事柄と因縁を結ぶことができるから、高いことを好むのです。なぜ低いことを嫌がるのですか? 単純になってしまうからです。多様な関係から遠のいてしまうからです。人の中で一番尊い人は、高い理想、高い観(注:考え方)、高いことと関係を結ぼうという人です。そういう人が貴い人だという概念を、ここに見いだすことができるのです。(一二九―三〇八)
皆さん、なぜ「ために」生きるのが良いのかというのです。それは、中心者になるからです。中心者というのは責任をもつことができなければならないということを知らなければなりません。責任をもたなければならないというのです。すべてのことに責任をもち、影響を与える者が中心者です。そうですか、そうではないですか? アメリカはどうですか? 自分のためにという人間が中心になりますか、全体のためにという人間が中心になりますか? このような観点から見たとき、全体のためにするのだという人が、その分野において中心者になるのです。中心になるのですね? 「ために」してあげようという気持ちがなければ、中心にならないのだというのです。(一二九―三〇九)
神様の立場と父母の立場はどんな立場ですか? まず先に考えてあげることです。まず最初に考えてあげるのです。神様は、私よりも先に考えてくださるのです。父母は、私よりも先に考えてくださるのです。ですからいいのです。ですから主体なのです。二人して生活している時、「あー、あの食口がしなければいけない仕事を私がしてあげなければ」と思うことができればいいのです。神様はそういう方なのです。その人が中心です。「ために」してあげる人が中心になるのです。
さあ、私はアメリカから反対されているけれど、アメリカのためにしてあげたので、アメリカ人たちは私を尊敬しないわけにいかないのです。尊敬しなければ駄目だというのです。そういう人間が主人になるのです。世界のために犠牲になれば、世界の主人になるというのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。神様の立場と父母の立場を占めようとする人は、必ず中心存在になるというのです。それ以上の何がありますか? 今後統一教会の主人になる人は、神様のように、父母様のように、先生のように、教会の信徒たちを愛してあげる人です。その人は必ず主人になるのです。そうできなかったとすれば、すべてがひっくり返るのです。その食口たちが反対するのです。
簡単だというのです。分かりましたか? 私がその人に勝ち、その人を屈伏させる方法は、その人とけんかをして勝とうとはせずに、その人のために私が神様と父母の立場で先に考えてあげるという方法です。三年間だけためにやってあげれば、間違いなく私の言うことをよく聞くようになるのです。心はそうです。自分の奥間の戸まで開けて「あなたの好きなように私の家に入ってきてもいいです」。全部がそうなのです。そのような宇宙の原則的作用が、この本心を動かしているということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(一〇三―一三九)
二 食口指導の要素――授
二 食口指導の要素――授
P880
1 指導者はまず与える者である指導者とはどういう人間でしょうか? 与えなければならない人です。受けなければならない人間ではないのです。与える時に、いつも同じものばかりを与えてはならないのです。新しいものを与えなければならないのです。皆さん、説教をしようとすれば難しいでしょう? 原理のみ言はそのまま話せばいいのですが、説教は大変なのです。それは同じものを与えてはならないからです。そうでしょう? 同じものを与えてはいけないというのです。父母が愛する子供に、あれこれと良い物を選んで食べさせなければならないのと同様に、同じものを与えては駄目だというのです。
皆さんに与えるものがないのならば、神様からもらわなければなりません。神様からもらったものを食口たちに食べさせるのです。そうでしょう? 神様と共に相談して……。結局、皆さんは明らかに神様の代身になるというのです。皆さん、自分が祈祷をしながらも祈祷する言葉に自分が感動を受けるのです。そのような境地で祈祷をすれば、聴衆はすべて神様の前に虜になってしまい、「神様は生命の原動力であり、本体だ」ということを体得するようになるのです。人々はそのような経験をするようになる時、神様は絶対に必要であると感じるようになるのです。このような内容を連結させて、聴衆を魅了させるための祈祷が絶対に必要なのです。
歴史に現れる立派な人々は、立派な学者ではありません。立派な人とは、それこそ心情の飢えを感じる人です。その心情の飢えがいやされる時にその喜びを感じ、喜悦をしみじみと感じることができる境地に入っていくようになれば、聴衆はそこで虜になるのです。それを知らなければなりません。
与えなければならないのに、与えようとすれば補給を受けなければならないのですが、補給はどこから受けますか? 本部で先生の説教を聞いて補給を受けることもできますが、皆さんが一人で離れた所にいる時には神様から補給を受けられる補給路を持ち合わせなければならないのです。
そうしようとすれば、能力を養わなければなりません。どこかへ出ていくとすれば、一人で行くのではありません。啓示を受けなければならないのです。真の父母を伴って、お母さんお父さんを伴って、神様を伴って、世界が皆さんによって審判を受けるのだという心情をもたなければなりません。自分の前にあることは神様の摂理を左右するのだという気持ちをもって、どこに行っても審判の盾として行ったり来たりしないといけないのです。そういう気持ちで三回だけ行ったり来たりして功を積むようになれば、それが一つの契機となり、私が行けば神様が行き、私が来れば神様も来るということを自然と実感することができる境地に到達することができるのです。そのようになれば、皆さんが立っている所は発展するのです。(四六―二九九)
2 与える時の心の持ち方
父母の心をもって与えなければなりません。自分の欲望と野心をもって与えてはいけないのです。お父さんがそうするので、皆さんもそのようにするのです。このみ言は涙を通して出てきたものゆえに、皆さんも涙を通して与えなければなりません。真がないこの世に、真を植えなければなりません。(一一―二六八)
ここから統一教会の原則的な神髄の教理が出てくるというのです。与える時にはどういう気持ちで与えなければならないのですか? 友達の気持ちで与えるなというのです。また、主人が僕に与えるというような気持ちで与えるなというのです。父母の心で与えなければならないのです。父母の心で僕の体を使って、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために流すという立場にいなければならないというのです。この話は何を意味するのかといえば、与えたのちも、それ以上与えることができないことを涙ぐむことのできる心をもたなければならないということです。神様はそうだというのです。
与えたあとも恥ずかしくて頭をもたげられない心、少しでも良い物を与えたいのにそうできなくて、与えたあとも申し訳なく思う情、これが父母の心情なのです。子供にしてあげたあと、「これでいいのだ」という父母がいますか? 「もっと与えてあげたいのに、これだけしかなくて。この次は、もっと与えなければ!」というのが父母の心なのです。それゆえに、その子供が強盗をしたとしても、父母はその子供を愛し慕わしく思うのです。そうでしょう? (はい)。(三九―一九六)
与える時にはどのように与えなければならないのでしょうか? 食べて残った、残りかすを与えてはいけないのです。分かりましたか? 食べたあとの残りをあげるとすれば、食べたあと気分が悪くてつばを吐くのです。もちをあげるとしても、五つあったとして五つのうちあれこれと取っては置いて取っては置いて、あげる時にはむしろあげないことよりも気分が悪くなるというのです。そのようになっているのです。あげなかったことよりも悪いというのです。人にあげる時には、五つがあれば半分ほどそのままつまんであげれば、それで「ありがとう」と言うのであり、あれこれとつまんで見てあげたとすれば、世話を受けた人が世話を受けたあと批判するというのです。そのようになっているのです。それゆえ、与える時にはどのように与えるのですか? 神様と共に与えなさいというのです。(六〇―一七〇)
神様と共に与えるとは、どういうことですか? 父母の心情をもつということです。父母の心情をもち、僕の体を使って……。どうして僕の体を使わなければならないのですか? 僕を求めようとすれば、僕以上の僕にならなければならないのです。この世の中の人々は、僕の子供たちではありませんか? そのような僕を神様は救おうとしており、神様が僕を愛そうとしているのだから、どれほど難しいことなのかというのです。(六〇―一七一)
十を与えて百を得ようとする者は亡びます。そのような人間は心情を中心とした世界に入っていくことができないのです。天の世界は与える世界です。物質が問題ではありません。積善とは、すなわち与えることなのです。与える時には、私の心に物質をプラスして与えなければならないのです。神様の心情をもっていってあげることは、誰も止めることはできません。
神様は旧約時代には僕の立場で与えられ、新約時代には兄弟の立場で与えられました。これからは父母の立場で与えられなければならない時なのです。神様が父母の立場で与えてくださったものを私たちが受けたのですから、私たちも父母の立場に立って、父母の心情で与えなければなりません。そのような人になれば、神様はその人から離れることができないのです。
与える時には怨讐を片づけて与えなければならないのですから、戦いがあるようになっているのです。私たちは、与えようとなさる神様の心情を知らずしては行くことができないのです。与えるために六千年間戦ってこられた神様の心情を知らなければなりません。
幸せな人とは、与えたい時に与えることができ、受けたい時に受けることができる人です。不幸な人は、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人です。このような側面から見るとき、神様は不幸な方なのです。(一一―二三五)
人を愛する時に何を投入したとしても、それを考えるな! もったいないと思うな! 何を投入したかと記憶するな! もっと与えてあげたい……。それゆえに、皆さんが食べるのに良いものが出てきたとき、隠れて一人で食べる人間ならば、死んでしまわなければならない責任者だというのです。食べる物があればそれを食べないで取っておいて、ああ私が食べられなくても与えてあげたいし、一人で食べるわけにはいかないと、食口のことを思うことができる人になるように、という話です。そのような父母の心情を備える責任者にならなければならないというのです。(七〇―一六六)
お母さんが息子、娘たちに乳を飲ませて育てながら「私が乳を飲ませるのは、その何倍もの代価を得るために飲ませるのだ」というように考えますか? もっと与えることができず、切なくてたまらないのです。与えたあとも、より良いものを与えることができずに涙ぐむ父母の心が、永遠に存続するものだというのです。してあげたあとも、再びもっと良い物を与えてあげたいのに、それがなくて与えられないという切ない気持ちをもち、後ろを向いて涙をのむことのできる父母は、その息子を孝子に育てられないという法はないのです。そのような心情の場が復帰の路程です。その心情を離れては復帰は絶対にできないのです。(四六―一七三)
3 授けて受ける原則
先生は今までアメリカに来て、自分の家をもっていることが問題ではありません。すべての面で皆さんに負債を負わない生活を今もしているのです。そうしているのですからアメリカも発展するのです。それは原理がそうなのです。原理がそうだというのです。それで先生はいつも神様のようにアメリカの食口たちに与えなければならないのです。精神的に与えなければならず、物質的に与えなければならず、知識的に与えなければならず、どんなものも与えなければなりません。
では、十を与えて十二をもらう人が善なる人ですか、十を与えて八をもらう人が善なる人ですか? (十を与えて、八をもらう人です)。もらわなければどうなりますか? 神様と同様になるのです。神様はどこにおられるのですか? 神様は、そういう場に存在されるのです。(七六―三三七)
皆さんがまず最初に完全に与えて、三つをあげて一つを受けなければならないのです。分かりますか? それが原則です。三回与えれば、一回その三分の一を受け取りなさいというのです。
そうであるにもかかわらず、一つを与えて三つを返してほしいということが多いのです。多いと思うの、多くないと思うの? そうだとすればサタンです。神様の復帰摂理は、その三分の一、すなわち、三時代の摂理をして、三分の一を探すというものです。三つを犠牲にして、一つを探し出すというものです。旧約、新約、成約時代、この三つの時代を与えて苦労しながら、一つを探すというのです。三時代を与えて、一つの時代を探すのです。そのようになっています。それが原則です。
神様がそのように探してこられたので、私たちは三つを与えて一つを探そうというのです。一つを探し出しても皆さんがそれをもっていってはいけません。それは神様に返さなければなりません。
このような伝統が皆さんと先生の……。皆さんが一つ受け取れば、それを先生に返さなければなりません。また、先生は天に返さなければなりません。このように返さなければならないのです。このような伝統になればこそ、またこのように返してこのようになればこそ、皆さんの前に発展するのです。入ってきた人もそのようになれば、このように発展するのだというのです。(六六―三〇一)
神様を愛そう。神様を愛して神様の愛を受けてみてこそ、人を愛し、人から愛を受けることができるのです。それを知らなければなりません。分かりましたか? 先生を中心として……。先生が愛を受けようというのではありません。先生の自慢ではありません。原理原則がそうだというのです。父母を愛することができてこそ、愛を受けてみてこそ子供を愛し、愛を受けることができるというのです。同じ道理です。
このような問題を知って、皆さんがこの二つの原則をいつも考えなければなりません。神様を愛した分だけ人間を愛するようになるときは、神様が私を愛してくれるように、また人間が私を愛してくれるのです。それゆえに聖書にも、人の前で私を知っているというようになれば、イエス様も神様の前で知っているという話があったでしょう? 同じ道理です。同じ道理だというのです。神様を愛するように人を愛しなさいというのです。(七〇―一六五)
三 食口指導の要素――愛
三 食口指導の要素――愛
P887
1 すべてのものを和することのできる愛神様として最も願っておられることは何でしょうか? 神様として考えるとき、最も中心は何でしょうか? 高く低いすべての立場の関係を結ぶということも考えられますが、その中ですべてのことを本質的に連結させるものは何でしょうか? 高いことも好むし、低いことも好むし、東西南北はもちろんのこと中央や四方全体が好む、神様が理想として好み、高くあり得る考えを中心として完全に和合されて一つにすることのできるものは何でしょうか?
それは神様自身でもなく、神様が整えなくてはならない環境でもなく、神様の考えでもありません。これは考えだけをもってしては駄目だというのです。それでは何がなければならないのでしょうか? 高いもの低いものを連結させることのできるものは何でしょうか? 神様に必要なものは愛だというのです。このようになっているのです。
私たちはこのような概念をもって……。愛を中心としてこそ前後、左右、上下あるいは東西南北、中央全体が和合することができ、連結することができる道があるのであって、愛を除いてしまってはそうすることができないのです。愛は全体と和合することのできる内容をもっているのです。東の方でも必要としているものであり、西の方でも必要とするものであり、どんな端の方へ行っても必要とするものです。もっともっと端の方に行こうとするのは、もっと高い愛を探し求めるために行くのであり、また端の方から中へ訪ねてくるようになっても、もっと高く、もっと強い愛を探し求めてくるのです。大きな愛を探し求めていくとか、もっと強い愛を探し求めていくとかしなければなりません。このような内的な何かがなければならないのです。
遠くへ行くときは、大きなものを探し求めていくのであり、中央に帰ってくるときには強いものを探し求めてくるのです。強いといっても、その強いものがぺちゃんこな状態で強くなければならないのか、つんつん突き出た状態で強くなければならないのか、まーるく強くなければならないのですか? このように見るとき、内的に入ってくるならば、円形を描くことのできる強い愛がなければならないのです。
それゆえ、大きな愛、強い愛、このような概念を定めることができるのです。愛が良いという時は、大きな愛を探すのだというのです。大きな愛、大きな愛だけをもってしてはいけません。強い愛、どのくらい強くなければならないのでしょうか? すべてのことを融合させることのできる、すべてのものを本質までも思いどおりに因縁を結ぶことのできる力をもった愛、神様が考えたとしたなら、そういうことを考えたのだというのです。(一六四―六九)
皆さん、豆腐を作ってみましたか? 豆腐の作り方を知っていますか。豆を粉にして、布ぶきんに入れる前ににがりを入れれば固まるでしょう。凝結するのです。愛とは、にがりと同様で、すべてのものを固めるようにするというのです。それゆえ、女性は子供を生んでみることによって、真に満ちた女性になるのです。お母さんの心を感じてみなければなりません。(一六五―一〇三)
2 愛は宇宙も喜ぶ
サタンも愛を受けたがるので、サタンまでも愛するのだという心をもたなければなりません。そのような雅量をもって出ていく時には、サタンも間違いなく、「その勇士は自分の兵士よりも立派な天の勇士だ」と言って褒めたたえてくれるのです。イエス・キリストもそのような心をもって行ったので、十字架に亡くなられながらも怨讐のために祈祷することができたのです。ですから彼はよく授けて行ったというのです。(二六―五〇)
愛を絶対視する人間だけを宇宙は歓迎するのです。分かりましたか? 「レバレンド・ムーンは間違った」という人、手を挙げてみなさい。それで、文学や詩は「愛は永遠なるもの、愛は強いもの、愛は驚くべきもの、生命よりも高くて、何よりも、もっともっと大きなもの」と語っているのです。すべてのものを持っていってしまっても、万事がOKというわけです。さあ、御覧なさい。愛だけが絶対的な統一であり、絶対的な不変であり、絶対的な永遠であるといっても、全部の言葉がぎこちなくないのです。生命はそうではないのです。「生命は永遠なるもの、生命は不変なるもの」と言えば、これは当たっていないのです。
さあ、文学書籍や詩の中でたたえられているすべての言葉の中で、最も重要な言葉が生命の言葉ですか、愛の言葉ですか? どういう言葉ですか? (愛の言葉です)。知識? 権力? お金、お金? (違います)。それは、なぜそうですか? なぜ、そうなのですか? それを知らなかったのです。これを知らなかったのです。簡単なこれを知らなかったというのです。簡単なことです。(一三二―七九)
人間だけでなく、犬も主人が愛してやれば喜ぶのです。しっぽを振って、このように……。(笑い) そうですか、そうではないですか? 人が園を愛せば、鳥たちが集まってきてさえずるというのです。それで、愛はいいというのです。神様の趣味が何だろうかと考えてみたことがありますか? 文学作品? 神様の関心は愛しかありません。皆さん、皆さんの関心は何ですか? (愛)。誰に似てですか? (神様)。それで愛を中心として神様の息子、娘だというのです。さっき話した希望だとか、幸福だということも、愛を除いた希望がありますか? 愛を除いた幸福がありますか? 希望がなく幸福がないとしても、愛だけをもっていっておくならば、希望は自動的についてくるのです。幸福は自動的についてくるのです。
娘さんたち、愛に従ってお嫁に行きますか? 希望に従ってお嫁に行きますか? 何に従ってお嫁に行くのですか? (愛です)。愛は好きですか? (はい)。私は愛が嫌いです! (笑い) そうでないと言っても、あまりにもよくて……。御飯をおいしく食べていて、あまりにも良くてのみ込もうとして「おくっ! おくっ」とこのように引っかかるのです。本当に愛が好きですか? (はい)。見てみなさい。子供を愛する父母は息子、娘の手が汚く、醜くても自分の懐に入れたいのです。「アイゴー! その手、汚いわ。お風呂に行って石けんで何回か洗ってきなさい」と、そういうふうにはしないのですね? 愛だけが地獄を天国につくります。それは理論にかなう話ですか? 理論に合わないとすれば、可能な理論にはならないというのです。それゆえ、愛さえあれば、地獄を天国につくることができるのです。
今日、皆さんはなぜ、レバレンド・ムーンに従ってくるのですか? どうして、従って回るのですか? 青い色の目をして、どうして、従って回るのですか? 皆さんの顔を静かに見ながら考えてみれば……。青い目と黄色い頭の白人が、黒い目をもったアジアの人間に従って回るのだと考えてみなさい。(九〇―三一二)
3 愛の道を探して行くならば犠牲と奉仕をせよ
この愛の道を探し求めて行こうとすれば、犠牲、奉仕をしなければなりません。気分が良いですか? (はい)。犠牲、奉仕がなければ、十ほどの愛の因縁をもってきた人は、百、千、万の因縁の道を行こうとしても行けないのです。先祖が悪ければ、十ほどの愛ももってこれないというのです。
ところで、十ほどの愛の因縁をもってきた人も、百、千、万の愛の因縁を占めることのできる道があれば、そのような道を一回くらい行ってみたいと思わないだろうかというのです。行きたいですか? (はい)。統一教会の文先生はこれが分かったので、悪口を言われ、ありとあらゆるさげすみを受け、牢屋に入って死ぬような苦痛を受けながらも、今まで耐えてきたのです。また、そうですから私が民族のために生き、愛する時には誰よりも犠牲になろうとするのです。
愛することにおいても、この程度愛せば十分だといって行ってみても、自分よりも犠牲と愛の度数が高い人がいれば、私はさらなる犠牲と愛、すなわち、千倍、万倍の犠牲をして愛さなければならないとすれば、私はその道を行くのです。欲張りでしょう? そのような自分になればこそ、神様が愛を降り注ぐことができるというのですから、そのような愛は誰から来るのですか? この世の人々が嫌がる文先生から、愛を根こそぎ降り注がれなければならないのです。(四四―二〇三)
皆さんが、これから行って教会長として何をしなければならないのでしょうか? (僕の僕の……)。僕の僕であるけれど、愛をもってしなければなりません。愛をもって勝たなければ駄目だというのです。皆さん、分かりましたか? (はい)。どんな愛ですか? サタンの愛ではなく神様の愛です。自分自身を犠牲にする愛です。その愛はどこから現れるのでしょうか? 自分自身を相手に完全に与えるところから現れるのです。完全に与えるものは何かといえば、三対象の愛です。三対象の愛は完全に与えることができ、完全に受けることのできる愛です。これが神様の愛ではないのですか。
皆さんが完全に与える日には、完全に受けることができるというのです。もし、サタンがその愛を完全に受けてから逃げてしまったとしたら、どうなるでしょうか? 完全な対象的愛には、完全な主体的愛が生まれるというのです。ですから、心配する必要がないというのです。誰が分かってくれるといって喜び、分かってくれないといって寂しく思う必要がないというのです。そうではないですか? 本部で分かってくれるのならば分かってくれるし、教会長が分かってくれるといえば分かってくれるし……。もう、誰それが分かってくれないといって心配することがありますか。問題は完全な愛をもって現れることができないことです。それが心配の種なのです。(四八―三四)
霊的な責任者は時間を超越して、自分と関係がある人々に対してあげることができなければなりません。結局は、私が寝る時間を完全に人のために与えることができなければなりません。そして、私が食べる時間も人のために犠牲にすることができなければなりません。私が生きる生活も、人のために犠牲にすることができなければならないというのです。このような立場で、責任所管を知って実行する責任者になれば、その人は発展するのです。(七二―三一三)
4 愛に狂って生きなければならない
皆さんの手足が統一教会を愛するためにどのくらい動いてみたのですか? 私が御飯を食べるためには手足が多く動いたし、私の目が多く動いたけれど、統一教会の食口を愛するためにどのくらい動いてみたのですか? 統一教会のために、私が汗をどれだけ流してみて、私が努力をどれだけしてみたのですか。疲れた体で寝床に入る時、誰を愛するためにそうしたのですか? 自分のためにそうしたのだとすれば恥ずかしいことであり、世界を愛そうとしてそうしたのだとすれば栄光です。天国の一つの塔を積むために、一かけら一かけら積み上げていく土台が、その疲れた寝床の中で積み上げられていくのではないのですか。そうだから愛そう! そして、教会を越えて国を愛そう! 私たちがその業をしているのです。(五九―五八)
新しく入ってきた食口を愛すれば、蕩減条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにすることができないでいるところにあります。それゆえに、神様は互いに愛し合い和睦しなさいと語られたのです。(一八―四〇)
愛の極致。それは何かといえば、神様の愛だというのです。神様の愛に抱かれて他人を自分の子供のように、自分の兄弟のように考え、幼い子供は自分の家族の一員として考える、そのようにすてきな男性でなくて、神様の子女になれるのでしょうか? 神様の子女になるためには……。一般的な子女になると、神様の子女になれません。過去の聖人程度では駄目なのです。過去、現在、未来を通して永遠に、絶対的な男性として立たなければ、神様の息子になれません。それゆえに聖人たちが愛さなかった分野を、私たちは今愛するのです。先生はそのように考えているのです。(五五―九七)
愛に狂って生きなければなりません。酔って生きなければなりません。酔う度数が少し越えれば狂うのです。狂った人には、どうということがありますか? 狂った人には、どうということがないのです。順序を逆にするのです。お父さんに対して「お母さん」と言い、お母さんに対して「お父さん」と言うのです。それが愛の心をもって言うのならば「なぜ、お父さんを見てお母さん、お母さんを見てお父さんと呼ぶのか」などとは言わないのです。すべてが通じるというのです。愛は一つになっているので、このような理論が形成されるのです。それで人は酔って生きなければなりません。
文先生も酔って生きるのです。悪口を言われるおもしろ味が、どれほど味のあるものか、この世の人々は知らないのです。悪口を言われる味、悪口を言われるおもしろさが、どれほど味のあるものかをこの世の人々は知らないので、悪口を言われないようにするのです。しかし、私はその味を知っているのです。(笑い)(一四八―三二三)
四 食口指導の要素――精誠と祈祷
四 食口指導の要素――精誠と祈祷
P895
皆さんは、道の責任者ですが、今まで道のために精誠を尽くしてみましたか? 必ず、精誠を尽くさなければなりません。伝道は精誠に比例するものであって、知識や実力に比例するものではありません。皆さんは六〇年代にこのような体験をすべてしてみたのではありませんか? 大学を出てよく知っているという人よりも、精誠を尽くしながら伝道する人のほうがよりましではなかったのですか? 神様がどのくらい同情してくださるのかということが問題なのです。今、地区長たちが一片丹心でしなければならないことは何でしょうか? 御飯を食べることですか? 違います。この罪悪世界で一つ一つの生命をどのようにして、天の息子、娘として復活させて、天の国へ移してあげるのかという責任的使命感をもたなければならないのです。ひたすらに、そのような使命感をもって出ていってみてください。そうすればできないことがありますか。
完全な主体の前には、完全な対象が生じてくるのです。ですから、主体は対象のために祈祷してあげなければなりません。祈祷するには、対象が夜明けに起きるとすれば、その人よりも先に起きて精誠を尽くさなければなりません。人は自分のために精誠を尽くしてくれるようになれば、一遍に分かるようになっています。
責任者は自分の位置を守っていき、精誠を尽くさなければなりません。皆さんが責任者ならば、朝、祈祷する時に二十名ずつ以上は思わなければなりません。それで一日に七十名以上は思い、祈祷してあげなければなりません。食口たちと共に食べ、食口たちと共に生きなさいというのです。
人にとって最も深刻な時間は、食事をする時と寝る時なのです。腹が減って御飯を食べる時、そして、眠くなって寝ようとする時は、すべての神経がそこに集中されるからです。その反面、目覚める時にはすべての神経が解かれた状態なので深刻ではないのです。それゆえ、一日の生活の中で、三食の食事をする時と、寝る時が最も深刻な時間なのです。み旨のためにそのように深刻な場で祈祷しなさいというのです。そのような時に一度する祈祷が、普通の時にする何回かの祈祷よりもましだというのです。
皆さんはいつも、食口たちと共に食事もし、寝るのも共に寝るのだという心情で、食口たちを考えなければなりません。そうすれば、誰々がどうだという観が来るようになるのです。そのように感覚が鋭敏になれば、遠くにいる人も近くに見え、近くにいる人はもっと近く見えるのです。ちらっと見れば一遍に分かるというのです。心霊を指導する人たちがこの程度の能力もなくボケッとして、どうして人々を指導することができますか? 自分が一人の生命に対して、どれくらい誠を尽くしたかということが問題になるのです。
イエス様が「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)と言われたみ言の意味も、一人の生命を宇宙よりもっと貴く感じて、そこに心情の錨を下ろされたのだということを皆さんは知らなければなりません。世界を忘れて一人の生命のために、一対一で戦い、人間の価値の谷間を探し入っていかれたイエス様の心情的境地へ到達する時初めて、新しい食口の因縁が得られるようになるのです。
皆さんはみ旨を中心として、父母の心情をもって何をしてみたのですか? 皆さんが親しく因縁を結んだ人の中で、み旨の前で自分が大変な時に慰労してくれた人たちを、おろそかに考えてはいけないのです。一生の間、いつでもその人のことを思い、その人のために祈祷してあげなければなりません。ですから、神様はいつでも主体になるのです。皆さんがこのような因縁をもってなしていけば、このような因縁をもっている人は「来るな」と言っても訪ねてくるというのです。それで、祈祷しなさいというのです。
食口たちは誠を尽くして祈祷しているのに、責任者が寝ていていいのですか? それは負債をつくる生活です。それでは発展することができません。精誠とは一度に尽くすことができないものですから、自分が知っている人を一人ずつ、順序を定めて精誠を尽くさなければならないのです。一人ずつ、すがって祈祷せよというのです。
イエス様が失敗したのは、十二人の人を連れて回りながら、一人一人を前において祈祷する時間をつくることができなかったためです。どの一人に対しても、自分の骨髄に染み通る内的な事情を教えてあげることができなかったというのです。
自分の責任をすべて果たすまでは、横で誰が何だと言っても、押していかなければなりません。何かを前に置いて精誠を尽くし、祈祷をすれば、どんなことがあっても定めておいた祈祷の量は満たさなければなりません。もし、自分が定めておいて誠を尽くした人がみ旨の前から離れたとしても、その人を訪ねていって皆さんの責任をすべて果たさなければなりません。もう一度いえば、負債を負うなというのです。
五 食口指導の要素――十分な経験
五 食口指導の要素――十分な経験
P898
1 訓練と経験が不可欠人の素質というものは制限されているのです。そこに合う食口、人は何人くらいになるのかというのです。そこに合う人は何人くらいになりますか? ですから、私が合わせる業をしなければならないのです。合わないならば、合わせなければならないのです。これは必ず経験を通してできることなので、皆さんがそのような経験過程を経ないならば、真なる責任者になれないということを知らなければなりません。そうして、皆さんが責任者になれば、このような経験によって間違いない責任者の所管を果たして天の称賛を受け、皆さんが指導する団体ならば、団体のすべての人々の前に仰がれ、尊敬を受ける永遠なる新しい伝統を残すようになるのです。
それゆえ、そのような準備をしなければなりません。どんな外的な訓練や、どんな内的な訓練でも甘んじて受けなければならないという自覚をする皆さんにならなければならないのです。それを嫌だと思うなというのです。私はできないという思いをもつなというのです。(七二―三二八)
他人の先生になることは易しいことではありません。統一教会の先生になるのは易しくはないのです。極めて難しいことなのです。これは、罪人のように囚人の服を着て刑場の道を歩いていく、そんな気分なのですが、実際に行きつつある人間だというのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。皆さんは刑務所の生活をしてみたことがないので分からないのです。豪華な家に住んでいるけれど、私はその家を必要とする人間ではないのです。私は草屋でも生きることのできる人間です。草屋でも生きることのできる訓練ができています。服を脱いで手に持って土方をしに行けば、一等労働者になれる訓練をした人間なのです。そこに神様が愛する人がいれば、私が行ってすがり、環境をすべて収拾し、そこで涙ぐみ友人になることができる、このような心情的な訓練をした人なのです。(八五―四三)
2 知恵深く指導をしなければ
知恵深い指導者は、一度打ったら二度慰めてあげるのです。そして、食口たちが「私のためにそうだったのだ」と言えるように処理していくべきであり、そうできなければ、後ろ指をさされて反対されることが多く起こってきて、のちにはサタンが入ってくるのです。それを上手に処理できなければ、自分の弟子が怨讐になるのです。怨讐になり、復讐してやるといって、その人間が天の側に行くことができなくなれば、その心を中心として行動する一切の責任を、誰が負わなければならないかといえば、責任者が負わなければならないのです。(五四―二〇七)
もし、悪いことがあれば悪いことをその場で処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことを中心として良くすることのできる条件を探しながら、良いことが悪いことより小さくても、小さいことを見て悪いことを保留して処理することのできる余裕をもたなければなりません。
もし、一年前に誤ったことを見て切ってしまっていたとしたら、その人は完全に死んでしまっているのでしょうが、一年、二年、三年切ってしまわず保留して処理するようにすれば、一年、二年、三年ののちには、その人が生きることができる道もあるのです。(七二―三一三)
3 責任者になろうとすれば食口のために十字架を負う
責任者はかわいそうな人です。かわいそうな人だというのです。責任者は奥さんと二人、奥間で楽しく過ごしていても、戸をたたけば奥間にも「入ってきてください」と言わなければならないのです。結局は、自分の妻よりも食口をもっと愛さなければならないのです。自分の妻に良いものがあれば、それまでも売って、全部食口に与えようとし、息子、娘に良いものがあれば、そのすべてを食口のために使わなければならないのです。そういう生活方式にならなければなりません。
さあ、こういう生活をするようになればその家庭はどうなるのでしょうか? このような家庭は大部分が不幸な家庭に落ちやすいのです。そのようなことを継承して、継続的に一生涯の間押していけば成功することができるけれども、何年間かやってみて中断すれば、すべてが無効になってしまうのです。ですから、どこに行っても十字架を負っていかなければならないのが、責任者が行かなければならない道です。もし、食口たちが責任者に従って正しい思想を受け、その責任者のために生きる心をもつとすれば、その人が私のために生きようということのできる立場に立つようになれば……。
皆さんが御飯を食べるとしても、スプーンを持って「ああ、腹が減った」、ではないのです。食口たちのことを考えなければならないのです。服を着ても食口たちのことを考えなければならないし、全部そのように考えなければならないというのです。眠る時間も十字架だというのです。皆さんが疲れて昼寝をして起きては、「あー、気持ちがいい」と言うのも悔い改めなければならないのです。そのような生活をするならば、完全に霊界、天が協助するのです。これは、皆さんが信仰生活の体験を通すならば知ることができるのです。皆さんが自分の体を中心として、手であれば手が、どのくらい食口のために働き、目であれば目がどのくらい食口のために働き、公的な立場でどのくらい食口たちを訪ねて会いたいと思い、聞いてあげたいと思い、彼らのためにしてあげたのかを考えなければなりません。全部が自分のためにではなく、公的でなければなりません。
「責任者になろうとすれば」これがきょうのみ言の題目ですが、皆さんが責任者になるなら、このような十字架を負うことができますか? (はい)。そうしようとするならば、そのような訓練が必要なのです。千人の指導者になる前にこのような訓練をするにあたって、一人の責任者として合格することができるのでしょうか? 自分自身がそれを反問しなければならないのです。私一人を絶対必要とする友達ならば友達として、先生ならば先生として、信じることのできる一人の完全な責任者になれるのかという問題をおいて、私たちはここで訓練をしなければなりません。
皆さんがある教会の責任を負おうとすれば、「私が完全に一人の人のために責任者の役割をしてみよう」という訓練をしなければなりません。一人の人の責任者になろうとすれば、その人の良いこと、その人の悪いことに責任を負わなければならないのです。「良いことは私が責任を負い、悪いことは責任を負わない」と言ってはならないのです。「悪いことは私がまず責任を負い、良いことはあなたが責任を負いなさい」と、こうでなければなりません。私とその人を引き離すようにするものは、良いことが引き離すようにするのでなく、悪いことが引き離すようにするのです。悪いことに責任を負うことができる責任者にならなければ、離れるしかないという結論が出てくるのです。
悪いことを消化させて、良いものとして補充してあげるためには、個人の十字架を負わなければならないというのです。今後皆さんが責任者になるならば、これを考えなければなりません。個人の責任者として、「完全な責任者になれるのか」という問いに対して、皆さんは自答しなければなりません。「なることができる」と。その次に「家庭的責任者になれるのか」と問うとき、「なることができる」と言えるようになるときは、教会の責任者としても問題がないと見るのです。
私が一つの家庭において責任をもち、一つの家庭の家族たちを教会に導かなければならないというときは、その家庭の十字架を負わなければならないのです。その家庭の家族全体が負うことができなかった十字架を、私が代わりに負って解決してあげるというならば、その家庭は、その十字架を解決する時まで私の指導をおとなしく受けなければならない立場に立つのです。そのような訓練が必要なのです。
その次に一つの教会を中心としてそのようになれば、家庭の責任者はもちろんのこと、教会も問題がないというのです。教会も問題がないのです。教会を中心にして見るとき、「教会のすべての困難なことは私が責任をもつ。あなたの責任を私が代わりに負います」と言う人が、責任者だというのです。教会で困難なことがあるとき、食口たちがすべて責任をもたなければならないことを、「私が責任をもつ」と言ったならば、その信徒たちは責任者が負った十字架の責任を遂行するまでは、責任者の指導を受けなければならないのです。
一つの国の責任者も同じです。今後世界復帰をするのだと決意していで立つ私たちにおいて、果たしてこの責任を遂行することができるのか、できないのかという問題に対しての答えは、簡単だというのです。もし、私が今アメリカに対して作戦するにあたって、神様がアメリカのためにし、信じることよりも、私がアメリカのためにもっとし、信じるならばどうなるのでしょうか? そうだとすれば、神様はアメリカを審判できないという結論が出てくるのです。審判をしようとするならば、私がやったそれ以上のものをもってきてやってこそ、することができるのです。言い換えるなら神様は、私がアメリカのためにし、アメリカを愛し、アメリカを信じる以上に信じ、私がやったそれ以上のものをもってきてやってこそ審判できるのであって、そうでなければ奪ったりとか打ってしまうことができないというのです。何の話か分かりましたか? (はい)。(七二―三一三)
六 食口に王様のように侍りなさい
十人の主人になるためには、十人の人にかしずくことができなければなりません。そうでなければ駄目なのです。絶対に統率できないのです。ですから、今度各自が教会に帰ったならば、教会の人々と一つになって、二つの車輪、すなわち一つは右側の車輪であり、一つは左側の車輪になり、よく転がっていくようにしなければなりません。そのようになって転がりながらスピードを出せば、どんなに大きな家にぶつかっても揺れがなく、大きな岩にぶつかってもその岩を壊すようになるというのです。それゆえ、一つになって行けば発展するというのです。(五〇―三四五)
来る人に、王様のように対し、王様のように侍り、王様のように接待してあげなさいというのです。それで教えてあげて「私の先生が、このように何でもない私に王様のように対してくれ、王様のように奉仕してくれるのですが、その人こそ高い王様のような方であり、どのように侍ろうか」と言えるようにしなければなりません。そのような伝統を立てなければなりません。神様の息子の資格は、そこで与えられるのだということを知らなければなりません。(八九―二九〇)
人に王様に対するように侍ることも蕩減です。すべて蕩減法だというのです。その人がどんなに悪くても、王様に対するように侍るようになるならば、その精誠の心を、その人が受けることができなければ、神様が受けてくださるというのです。その人が統一教会を信じず離れていくならば、その人の善なる先祖が積んだすべての福を、私が根こそぎ引き継ぐのだというのです。これは恐ろしい作戦です。全体の福を、万民のものを私が探し求めるのです。収穫するのです。取り入れるのです。同じことです。アメリカがレバレンド・ムーンに反対すれば、どうなりますか? 同様の原理が適用されるのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。
祭司長はそのような道を行くのです。皆さんが責任を果たせなくては大きなことを言うことはできないのです。よそ見をすることはできないのです。私が心で誰がどうだと批判することはできないというのです。私が罪人なのに、祭司長なのに、私が責任を果たせなかったのに、どうして批判をしますか? 分かりましたね? (はい)。
これから帰ったなら、食口たちにすべてそのように侍りなさい。食口たちにそのように侍りなさいというのです。さあ、王様に侍るその家で寝ることができますか? 精誠を尽くさなければならないでしょう? そのようになれば、今からはアメリカに新しい伝統が立てられるのです。私はそのように見るのです。もう、分かったでしょう? (はい)。祭司長はどのようにしなければならないかということが分かりますか? (はい)。私の肉をけずらなければならないし、血を抜かなければなりません。私の肉と血を抜いてささげなければならないのです。その次には心情まで合わせてささげなければならないのです。今まで皆さんはすべて、賃金労働者です。賃金労働者も良かったのです。先生が責任を負って行きますから、先生に従ってきたのです。それが良かったでしょう? そうですが、今は、時が変わったのだということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(八九―二九三)
六 食口に王様のように侍りなさい
六 食口に王様のように侍りなさい
P903
十人の主人になるためには、十人の人にかしずくことができなければなりません。そうでなければ駄目なのです。絶対に統率できないのです。ですから、今度各自が教会に帰ったならば、教会の人々と一つになって、二つの車輪、すなわち一つは右側の車輪であり、一つは左側の車輪になり、よく転がっていくようにしなければなりません。そのようになって転がりながらスピードを出せば、どんなに大きな家にぶつかっても揺れがなく、大きな岩にぶつかってもその岩を壊すようになるというのです。それゆえ、一つになって行けば発展するというのです。(五〇―三四五)来る人に、王様のように対し、王様のように侍り、王様のように接待してあげなさいというのです。それで教えてあげて「私の先生が、このように何でもない私に王様のように対してくれ、王様のように奉仕してくれるのですが、その人こそ高い王様のような方であり、どのように侍ろうか」と言えるようにしなければなりません。そのような伝統を立てなければなりません。神様の息子の資格は、そこで与えられるのだということを知らなければなりません。(八九―二九〇)
人に王様に対するように侍ることも蕩減です。すべて蕩減法だというのです。その人がどんなに悪くても、王様に対するように侍るようになるならば、その精誠の心を、その人が受けることができなければ、神様が受けてくださるというのです。その人が統一教会を信じず離れていくならば、その人の善なる先祖が積んだすべての福を、私が根こそぎ引き継ぐのだというのです。これは恐ろしい作戦です。全体の福を、万民のものを私が探し求めるのです。収穫するのです。取り入れるのです。同じことです。アメリカがレバレンド・ムーンに反対すれば、どうなりますか? 同様の原理が適用されるのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。
祭司長はそのような道を行くのです。皆さんが責任を果たせなくては大きなことを言うことはできないのです。よそ見をすることはできないのです。私が心で誰がどうだと批判することはできないというのです。私が罪人なのに、祭司長なのに、私が責任を果たせなかったのに、どうして批判をしますか? 分かりましたね? (はい)。
これから帰ったなら、食口たちにすべてそのように侍りなさい。食口たちにそのように侍りなさいというのです。さあ、王様に侍るその家で寝ることができますか? 精誠を尽くさなければならないでしょう? そのようになれば、今からはアメリカに新しい伝統が立てられるのです。私はそのように見るのです。もう、分かったでしょう? (はい)。祭司長はどのようにしなければならないかということが分かりますか? (はい)。私の肉をけずらなければならないし、血を抜かなければなりません。私の肉と血を抜いてささげなければならないのです。その次には心情まで合わせてささげなければならないのです。今まで皆さんはすべて、賃金労働者です。賃金労働者も良かったのです。先生が責任を負って行きますから、先生に従ってきたのです。それが良かったでしょう? そうですが、今は、時が変わったのだということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(八九―二九三)
第四節 蕩減復帰と公式路程
第四節 蕩減復帰と公式路程
P906
一 歴史的蕩減復帰路程と私たち1 歴史的蕩減復帰路程
歴史は縦的な歴史を横的に蕩減復帰するものであることを皆さんは知っています。旧約時代、新約時代、成約時代と移ってきたのです。旧約時代は物を祭物としてささげる時代、新約時代は体を祭物として、すなわち実体を祭物としてささげる時代、成約時代は心を祭物としてささげる時代です。
なぜこのようになるのでしょうか? 天地創造の法度に従ったからです。人が堕落したので、落ちたそのものは土の塊にも及ばないのですが、これに水を塗り油を注いで再び造って、再創造の役事をするのです。神様は、人を一人造るために万物を造り、その次に人の体を造り、神様の心情を吹き入れたのです。こうして人間は総合体になったのです。宇宙の総合体になっているのです。原理でいっているとおり小宇宙だというのです。神様の性相的実体であり、形状的実体だというのです。皆さんが習ったことはすべて、このような意味なのです。
ですから、私たちが蕩減復帰するためには、どのようにしなければならないのでしょうか? まずは万物を復帰しなければなりません。人間が堕落して、神様のものだった万物が、サタンのものになってしまったので、神様のものとして取り扱われなければならないのですが、そうしようとすればここで再び造り直されなければなりません。造り直すのですが、何をもって造るのでしょうか? み言でもって創造したのですから……。それは理想、構想をいうのです。原理原則を中心としてみ言を実現させるためにつくったので、そのような業をするのです。それゆえ、旧約時代はみ言をもって信じる時代であり、その次には、み言をもって実践する時代であり、その次はみ言を中心として生活する時代なのです。生活時代に入っていくのです。天国は、これがすべて一致しなければなりません。信仰の時代、実践の時代、生活の時代、このように発展するのです。これは何なのですか? 一人が堕落したために……。本来はアダムとエバが一挙に……。(黒板に書かれながら話される)物質圏、その次は体の圏、心の圏、その次には霊の圏。統一教会では、これを生命視するのです。
このようにして、これをすべて成せば創造するので、物質は体と一つになり、体は心と一つとなり、心は霊と一つになります。(黒板に書かれながら語られる)これが蘇生(体)、長成(心)、完成(霊)圏だというのです。同様なのです。ですから、一度にもっているのです。七日間で成就するはずだったのです。ところが、それが七千年歴史を経て展開されながら三段階に分かれて発展してきたのです。
ですから旧約時代には、神様に帰っていくために蕩減条件として血を流さなければならなかったのです。必ず血を流さなければならなかったのです。なぜですか? サタンの血を受けたからです。サタンの血を抜かなければならないからです。それで、祭物は必ず、血を流す業が展開されたのです。
旧約時代は動物を中心とした祭物時代であり、その次の新約時代はイエス様を中心とした体、すなわち息子の祭物時代です。これは、信仰がなくてこのようになったのです。その次は成約時代ですが、この時代は心の祭物時代です。心情問題を中心とする祭物時代なのです。
ですから、皆さんが統一教会に入ってきて、心の苦労をたくさんするのです。このように復帰はなされていくのです。(七四―三一八)
物質をもって祭物をささげるのが旧約時代を蕩減する道であり、肉身をもって犠牲にするのが新約時代を蕩減させるのであり、心情をもって涙でみ旨を奉っていくのが成約時代を復帰することなのです。
①旧約時代は信仰基台を蕩減復帰する時代として、象徴献祭を通して万物を復帰する。
②新約時代は実体基台蕩減復帰時代として、実体献祭を通して人間の肉身を復帰する。
③成約時代は心情基台復帰時代として、心情献祭を通して人間の心情(心)を復帰する。
さあ、これは何ですか? これを蕩減復帰した時、この世の終わりの日にはどうなるのですか? 終わりの日には、これがすべて分立された立場で蕩減するのではありません。これは時代上には横的に現れるのです。これは(黒板に書かれながら語られる)旧約時代でしょう? この時代は万物時代なのです。物質時代です。私たちは私自体が、神様の前に再創造されたということのできる位置に行かなければなりません。神様の前に、すべて一度に統一されなければならないのです。これが何かといえば、私たち人間の所有権です。その次には、私の体です。その次には心です。このようなことが一遍に……。これがいつも失敗したのです。すべて失敗して上がってきたのですから、この時代に来て一度に統一して勝利しなければならないのです。何に失敗したのですか? 神様に失敗したのでなくサタンに失敗したのです。人間がサタンに失敗したのですから、結果的に神様が失敗したのです。
それではここで、人がサタンに勝利することにより誰が勝利しますか? 結局神様が勝利するのです。それゆえ、勝利は誰がするのかといえば、神様がするのではないのです。人がするのです。人がするには、どのようにしなければならないのでしょうか。原理原則に一致するようにしなければなりません。(七四―三二〇)
2 八段階蕩減復帰路程
今まで六千年の歴史は個人から家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に拡大してきた歴史なのです。統一教会では個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様の愛復帰、この八段階を経るのです。
祈祷をする時は、この八段階を中心としてするでしょう? お父様、個人復帰を完成し家庭復帰を完成し……。それが、個人復帰完成は家庭の中にあり、家庭復帰完成は氏族の中にあり、氏族復帰の完成は民族の中にあり、民族復帰完成は国家の中にあり、国家復帰の完成は世界の中にあり、世界復帰の完成は天宙の中にあり、天宙復帰の完成は神様の愛の中にあるのです。すべて、神様の愛を中心として、天宙的に一つになろうというのです。
それで、統一教会は心情歴史観を中心として天宙主義を叫ぶのです。そのような統一教会の信徒は、でくの坊ではないのです。ある人は「きょう生活するのでさえ大変なのに天宙主義? ふん、きょう死ぬとも生きるとも分からないのに永遠無窮な理想主義? この狂った野郎ども」と言うかもしれません。狂っていると思えば狂っているのです。(六一―七五)
それでは、その段階はどれほど大きいのでしょうか? 段階がどれだけ多いのでしょうか? 個人的段階を皆さんはパスしなければなりません。また、個人のパスだけでは駄目なのです。その試験というものは、平安で、よく寝てよく食べて、休みながら受けられるものですか? 試験は必ずパスしなければなりません。それをなぜパスしなければならないのですか? そうすることによって一段階を……。夜、昼が交差するのです。変わっていくのです。夜の時代から昼の時代へと行くことができるのです。春から夏に行くことができるのです。そのようになっているのです。発展することができるのです。一つのけじめをつけるためには必ず試験があるのと同様に、私たちの復帰路程も、そのような八段階が残っているというのです。個人蕩減路程、家庭蕩減路程、氏族蕩減路程、民族蕩減路程、国家蕩減路程、世界蕩減路程、天宙蕩減路程、その次は何ですか? 神様まで八段階なのです。これを過程で見れば七段階になります。ここまで、これは堕落人間が行かなければならない運命になっているのです。これは永遠をかけて行かなければならないのです。
私個人は、どんなことをしても家庭基準まで連結しなければなりません。これを連結するためには、これをもっと愛さなければなりません。これを愛して、ここに一致するために集中攻勢を取らなければなりません。自分を主張してはいけないのです。(一二五―二五〇)
今日、統一教会の原理は何をするのですか? ただ一つの道ですが、その道が原理の道だといって、そのまま入っていくことはできません。八段階を経ていかなければならない運命の道になっているのです。分かりましたか? 個人・家庭・氏族・民族・国家・世界・天宙・神様までの八段階です。八数は再出発の数ですから、その次には再出発はないというのです。分かりましたか? (はい)。(一三五―三〇四)
神様の愛をもつならば、何も必要ないのです。欲心も必要ないのです。その愛の中にすべてあるのです。何の話か分かりますか? (はい)。私たちがすることは責任分担です。責任分担によって蕩減復帰という言葉が成立するのだということを確実に知らなければなりません。
蕩減するには、個人的な蕩減、家庭的な蕩減、氏族的な蕩減、民族的な蕩減、国家的な蕩減、世界的な蕩減、天宙的な蕩減、その次には神様にまでの八段階なのです。段階で見れば七段階でしょう? 私が今、何の話をしましたか? 何が八段階ですか? (個人完成、その次は家庭完成、その次は氏族完成……。八段階を経ていかなければなりません)。経ていくにおいて、それは何ですか? 何のゆえにこれを経るのですか? 聞いたならば答えなければならないでしょう? (神様の立場に行けば、神様がすべてのことの主管者になるのですが……)。簡単なのです。蕩減復帰のために話したのです。今まで何を話しましたか? 少し、居眠りをしたのですね? このように、少し恥をかかせれば、目がひっくり返って聞くのです。何のために八段階を経るのですか? 私が教えてあげたではないですか? 何のために八段階を経るのですか? 蕩減復帰のためにです。分かりましたか? (はい)。蕩減復帰のために八段階を経ていくのです。
皆さんは、いつこのような八段階を経ましたか? (いいえ)。「その八段階はレバレンド・ムーンがつくり出したでしょう? 私には蕩減は必要ない」、そう思うかもしれないですが、人間の責任分担が事実ならば、人間の責任分担によってこのような形態の過程があるのです。堕落しなかったとするならば、二十一年の間に一度に自動的に越えてくるのですが、このように垣がふさがっているので一つずつ処理しなければなりません。サタンがまとめているので一度には処理できないのです。ですから、一つ一つ処理し代置させていく作業をしないわけにはいかないのです。(黒板に書かれながら語られる)そのようにすれば、サタンはいないのです。蕩減条件はないのです。堕落したのでサタンが生じたし、蕩減条件が生じたのです。その蕩減条件は人間の責任分担があるので、不可避的な過程なのです。
それで、個人蕩減路程を皆さんは知っていましたか、知りませんでしたか? 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様へと帰っていくのです。帰るのですが、それがどのように行くのですか? 上がっていく時も、これが伸びて上がって八段階まで上がろうとすれば、どのように行かなければならないのですか? 上がることはできません。どこでこの中心の幹を探してくるのかといえば、横に出ていき個人勝利をしなければならないのですが、心を中心として横に上がりカインと戦って勝たなければなりません。そうすればこそ、上がっていくのです。なぜですか? 私にはサタンが付いているから、そうだというのです。これを知らなければなりません。何の話か分かりましたね? (はい)。
堕落しなかったならば、個人・家庭・氏族・民族・国家・世界まですべてが、私個人を中心として、家庭も、氏族も、全部が一つの中心として神様まで一つの軸になるのです。しかし、堕落したことにより、この全体、軸がねじれているのです。堕落して、人々の角度がすべて違っているので、軸がねじれているのです。それで、ねじれている軸に乗って、サタンが私を操縦するのです。
そういうわけですから、ねじれた軸をたどり正しく立て直してから、上がらなければなりません。連続はないのです。氏族復帰だというようになれば、家庭を中心とした勝利的基盤をつくってから氏族圏内に出て戦って、氏族が反対する所を中心として自然屈伏させればよいのです。そのようにして、ずーっときて、こっちから回って入ってきて上がるようになっているのです。何の話か分かりますか? (はい)。
堕落しなかったならば、一遍に、二十代ですべて上がるはずだったのですが、二千年かかって行くというのです。アブラハムからイエス様まで二千年、イエス様以後二千年かかって来たというのです。それを知らなければなりません。そのままでは、上がることができないというのです。そのままただで上がることができればどれほど良いでしょうか? 堕落がなかったならば、そのまま一遍に上がるのです。個人完成が家庭完成になるのであり、家庭完成が氏族完成になり……。その時は氏族というものはなかったのです。自然に広がっていくようになっていたのです。ところが堕落したのちには、個人からして、家庭・氏族・民族・国家・世界までが引っかかっているのです。サタンの王国ができているからです。サタンの王権、天宙世界ができているからです。この世界をどのように復帰するのですか? 個人を中心として、ここに別々に植えるのです。反対になって引っ張っていかなければならないのです。脱出しなければならないのです。それで仏教のような宗教は出家をするのです。お母さん、お父さんを愛しては駄目で、お兄さん、お姉さんを愛しても駄目なのです。「その母や父を私よりも愛する者は、私の弟子になれない」という聖書のみ言は逆説的な論理であるけれど、それは天の道を探していく順理的論理として受け入れなければなりません。分かりましたか? (はい)。
そのため先生は、この世、この天地の間にこのような蕩減法を知って、個人から愛に焦点を合わせて、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛の焦点を合わせてやってきたのです。そのようにして見るとき、そのつど、サタンがこれを撃破しようとして全力を尽くしてくるのです。それで宗教は迫害の道を行くのです。涙と血を流さなければならないのです。てっぺんに上ってはいけないのです。陰にめり込まなければなりません。そこが安全地帯なのです。サタンは傲慢なので、困難な所を嫌うのです。ですから、一番悲惨な所が安全地帯なのです。
僕の僕から、これも八段階でしょう? 僕の僕から、僕から、その次は何ですか? 養子から、庶子から、その次は直系の子女から、その次はお母さんから、お父さんから、神様まで八段階です。同様だというのです。八段階が残っているというのです。はっきりと知らなければなりません。統一教会の責任者になる前にその国の僕にならなければなりません。そうでなければ解放の道がありません。僕の僕を通過してから養子の扱いを受けなければなりません。庶子の扱いを受けなければなりません。そして、直系の子女として……。
統一教会が今までどれほど、さげすまれてきましたか? こうして行って、上がるのです。この段階に上がる時には必ず蕩減がなければなりません。それでは蕩減の道を行きましたか、行きませんでしたか? 個人の蕩減の道を行きましたか、行きませんでしたか? 分からないでしょう? サタンと決闘して神様の公判による勝敗の決定を受けましたか? しましたか、しませんでしたか? できなかったならば、家庭はすべて蕩減路程を行くことはできません。家庭蕩減路程を行くことができずに、氏族蕩減路程を行くことができますか? 到底、望めないことなのです。氏族蕩減路程を行くことができずに民族蕩減路程を行くことができ、民族蕩減路程を行くことができずに国家蕩減路程を行くことができ、国家蕩減路程を行くことができずに世界蕩減路程を行くことができ、世界蕩減路程を行くことができずに天宙蕩減路程を行くことができますか? はっきりと知らなければなりません。
統一教会でいう蕩減法は真理ですが、その真理を実践しなければならないのに、皆さんはいつ神様を中心としてその深刻な時代にサタンと激闘してサタンを打ち破り、神様を迎えたのかというのです。ただの戦いではありません、自然屈伏をしなければなりません。
歴史始まって以来、神様をどの先祖よりも愛し、歴史時代に数多い民族がサタンのために忠誠を尽くしたすべての忠誠を合わせた以上の心をもって、神様の前に忠誠を尽くさなければならないという、こういう道理が残っていることを知らなければなりません。それをはっきりと知らなければならないというのです。蕩減しなければいけないというのです。
蕩減復帰、蕩減がなぜ必要ですか? 蕩減をしなければ、サタンを屈伏させる道理がないのです。本来、神様の愛の焦点が個人であったとしたら、そこにはサタンがいますか、いませんか? 原理的に見てサタンがいますか、いませんか? (一九八八・一〇・三)
歴史始まって以来、数多くの苦難の道がありましたが、先生が歩いてきたこの八段階の苦難の道というものは、歴史時代にサタン世界とか神様の歴史になかった道だという事実を知らなければなりません。そのような難しさのために「神様! 私はこの位置を忍耐することができません」と言って、涙を流してはいけない蕩減の道であったことをよく知らなければなりません。天国に行く者においては、涙を流しながら、涙をぬぐいながら、その道を行ってはいけないのです。涙を流すところを喜びで行くことができる基盤ができなければ、天国の足場が地上世界に残らないという天理原則があるというのです。
そのためにすべてが、僕の僕の王の位置の苦難の道、僕の王の位置の苦難の道、養子の王の位置の苦難の道、庶子の王の位置の苦難の道、息子の王の位置の苦難の道、お母さんの王の位置の苦難の道、その次にはお父さんの王の位置の苦難の道を、すべて行かなければならないのです。自分が苦労する道のゆえに涙を流すのではなく、人類にすがって人類の解放のために涙を流さなければならないというのです。これを解放しなければならないというのです。人類のために悔い改めをしなければならないのです。
神様の前に、神様は私をこの世の誰よりも失うことのできない代表者として知っているのですが、私も「この養子たちや悲惨な奴隷の子供たちをほうっておくわけにはいかないので、私と引き換えにしても彼らを救ってあげなければならない」という行動をしたというのです。そうするたびごとに、神様はサタンに対し、「このレバレンド・ムーンの話を聞いてあげなければならないのか、聞いてあげなくてもいいのか?」と尋ねてみれば、サタンは「聞いてあげなければなりません」と答えざるを得ないというのです。「あのような悲惨な位置でも、神様を愛し人類を愛することにおいて私が及ぶことのできない所にいるので、彼のような人に反対することのできる天理原則はありません。それで反対する何ものもございません。彼が行く道は解放圏です」と、こう言うのです。
私は四十カ国に聖地を選び定めながら、富裕な国、悲惨な国、それは僕のような国を訪ね回りながら悲惨な人に会う時、「あなたたちが行く以上の所も行ってきた私が、あなたたちの所に来て祈祷するのだから、私が祈祷することが、あなたたちが生きていくことのできる盾になることであろう。生命の道に導くことのできる道が、この土地から天の国へと導くことができる」と、自信をもって彼らを慰労することのできる心をもったというのです。それが復帰の道です。この場において栄光の中から出発できるはずだったのが、受難の道、苦痛の道から始まったのです。
このような内容があったとしても、今、歴史時代にこのようなことをすべて成し遂げておいて話すから、みんな信じるのであって、四十年前に誰が信じますか? そのような話をするようになれば、どれほど狂人扱いされたことでしょうか? 「おい、気の狂ったやつ、精神病になった。何、天地が動いて、世界を料理して、悪世界をひっくり返し善なる世界につくり上げるだと?」と言いながら。どれほどあきれ返ることでしょうか? 私はその道を四十年の間歩いてきたのです。ですからここに集まったムーニーたちよ、皆さんが受難の道を避けて行こうと言うならば、それはどろぼうだというのです。
これを縮小させて、蕩減のための期間は七年です。この段階も七です、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、段階は七つだというのです。七年の期間に……。これがホーム・チャーチ(Home Church:家庭教会)です。ホーム・チャーチ。
ヤコブが行った道はイスラエル民族が行かなければならず、モーセが行った道はイスラエルの国が行かなければならず、イエスが行った道はキリスト教が行かなければならず、先生が行った道はムーニーが行かなければならないのです。それは原理でしょう? (はい)。ここに行って迫害を受けなければならないのです。迫害を受けなければいけません。迫害を受けなければならないというのです。私が父母の立場にいて、子供たちを苦痛の立場に立たせているのですから、私一代にすべての受難をふさいでおいて、歓迎される世界の舞台で蕩減する期間を制定してあげたのです。それがホーム・チャーチなのです。これからは、もう、ダンベリーののちには、迫害時代がすべて過ぎていったのです。
ここに該当することが、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代、天宙時代、天の時代、これも八段階です。(黒板に書かれながら語られる)八段階だというのです。同様に復帰路程もそうだというのです。受難路程もそうですが、復帰路程もそうだというのです。個人から、家庭、氏族……。それで、皆さん、国が必要でしょう? 家庭が必要でしょう? これも同様なのです。同様の段階だというのです。すべて合わせて……。それでホーム・チャーチを中心として……。(一六一―一九五)
3 七年路程
神様は七千年苦労して、キリスト教は七百年苦労をし、その次には私たち個人個人は七十年をかけていくのです。七十年間奉仕して生きていこうとするのですから、七十年奉仕してお嫁さんをもらえますか? 統一教会は七年です。神様は七千年、キリスト教は七百年、キリスト教を信じる者たちは七十年、今日、統一教会を信じる者たちは七年なのです。だんだんと短縮されてきているのです。七十年をもって天国に行き、完全に老いぼれているのに何をするのかというのです。その時になって結婚しようとしたら、結婚できますか? おばあさんではないですか? 子供を生むことができますか? (笑い) それで、統一教会は七年という期間ですから、地上に天国を築くことができるのだというのです。(九六―一一九)
神様は七千年間苦労なさり、先生は七十年間苦労すればよいというのです。そして皆さんは七年間苦労すればよいのです。分かりましたか、何の話か。(はい)。神様は先生の何千倍も苦労をされ、皆さんよりも先生は何千倍、何百倍苦労したのです。そのように蕩減をし、そのように苦労をしたように見えますか? (はい)。(八〇―一一二)
ゴルゴタを越えるにあたっては、イエス様のように死んで越えるのではなく、生きて越えなければなりません。そうして、縦的な歴史を横的に蕩減復帰しなければならないのです。六千年の歴史が、この七年路程に該当するのです。六千年を七年に蕩減するというのです。六千年に千年を合わせた七千年を七年間に蕩減するのです。これが公式なので、堕落人間は誰でも七年路程を経ていかなければならないのです。この期間を越えれば、どんなことであっても収拾が可能になっていくのです。そのため、霊妙な復興集団も七年ばかり過ぎれば、底が見えて荷物をまとめるというのです。その七年が縦的な歴史を横的に蕩減するためにかかる期間なのです。(二一―二一一)
皆さん、七年路程とは僕の僕の立場から直系の立場までの段階を復帰する道です。それゆえ、七年路程の間にカインを愛するために僕の立場から入っていかなければなりません。そうであるので、私たちは部落ならば部落に出ていって伝道しなければならないのです。心情的に原理を中心として愛してみようというのです。誰かの血統を中心とした息子、娘としてではなく、天情に通ずることのできる、神様の心情的一致点を探して愛してみようというのです。また、生活的一致点と希望的一致点を探して愛してみようというのです。神様を中心として、心情の一致、行動の一致、希望の一致をもって、一度やってみようというのです。(三四―六〇)
七年路程が何ですか? 何をしなければならないのでしょうか? 人間が堕落することにより、万物世界を堕落させました。それで、万物の嘆息圏が生まれたのです。人間世界の嘆息圏と万物世界の嘆息圏、二つの嘆息圏が生まれたのです。創造された被造世界においては、人間を中心として、すべての被造世界の環境的要件が成されます。言葉を換えていえば、人間が堕落することによって、万物が嘆息圏に存在するようになり、また、堕落した後孫たちを中心として、人間たちが嘆息圏に存在するようになったのです。
そのため、万物が先に解放されなければなりません。神様は、創造する時、万物を先に造りました。その次に人間を造ったので、再創造の過程でもそうでなければなりません。復帰路程の蕩減路程、すなわち再創造路程を行かなければならないのです。復帰路程は再創造原理によって行かなければならないというのです。万物嘆息圏を解放しなければなりません。万物圏、その基盤の上に神様は人を造ったのです。そうではありませんか? 万物を通して人間を造りました。その時には堕落はなかったはずです。嘆息圏はないというのです。(一七二―四九)
この世で万物条件をすべて探して神様の前にささげるのです。その期間は三年半です。七年間、七数を通して神様が万物を創造されたのですが、この万物を探し求めるためには三年半を要するのです。三年半の間、体と心をすべて尽くし、精誠を尽くさなければなりません。
これが七年路程ですが、三年半を基準にして、二つに分けて行かなければなりません。三年を過ごして、息子、娘を中心として合わせて、家庭的に堕ちたものを復帰して、家庭的に天国に入っていかなければならないのです。三年半は家庭のために歩んでいく十字架の期間だったということを知らなければなりません。
ところで、皆さんが一つ知っておかなければならないことは、本来これは十四年かからなければならないということです。ここに七年かかり、ここまで上がっていくのに七年かかり、すべて合わせて十四年です。また、ここに七年かかって二十一年かかるものを、七年ですべて終わらせるのです。(黒板に書かれながら説明される)分かりましたか、何の話か。統一教会の二十一年路程はこれなのです。それは誰がするのですか? 先生がするのです。分かりましたか、何の話か。(一三三―一六〇)
4 必ず公式を通過しなければならない
科学が発達したのは、すべて公式によって、公式を適用して、その結果に従って発展したのです。今日の現代文明がその基盤の上にあるのです。それと同様に人間も、ある公式的な原則を適用することができる理想はないかということを考えざるを得ないというのです。結局、人格者は過去・現在・未来を通じることのできる、ある公式的な人物でなければなりません。(八七―一一)
皆さん、数学とか物理の公式とか、定理というものが二つ存在することができますか? 二つですか、一つですか? 現代文明は科学文明とも言いますが、この科学的発達は公式発達と同様です。それは全部、原則的公式に実績が連結されて今日の現代文明が形成されたのです。それを知っていますか、何の話か。それは思いどおりに、自分勝手にできたものではないのです。すべて公式的過程を経て発展してきたのです。それゆえ、伝統を尊重し、過去の良い公式的原則があれば、それをそのまま残し、その上に生きて、また、それよりももっと貴く発展した公式を……。このようにして文化世界は発展してきたというのです。(九七―一一九)
皆さんが教会長として、これから地方教会に行き伝道をするにあたって、しっかりと知らなければならないことは、一人を伝道するたびに必ずこの公式を経なければならないということです。必ずこの公式を経るというのです。(四七―二九三)
数学の公式を解くのに、年取った人であろうが王様であろうが、もう誰であろうが同じだというのです。それが原理です。堕落した人間たちが天国を探していくためには、統一教会のこの原則を外れては絶対に行くことができないのです。朴長老の伝道館にしても何にしても、あの人たちは全部おかしくなった人たちです。朴長老が私から学んだ教理をもって、人々を食いものにしたのです。三分の二も。背信者たちですよ。私がソウルに伝道のために送ったおばあさん弟子が、背信者になって……。ですから、末路がよくないのです。(一二七―六五)
二 責任分担と蕩減
二 責任分担と蕩減
P923
1 蕩減と復帰今日、統一教会の信徒たちは蕩減の道を好まないのです。それは何かといえば、復帰を好まないということです。「あーっ、私は復帰することは好きだが、蕩減は嫌だ」などという話はないのです。(笑い) それでは、どちらが先なのですか? 復帰が先ですか、蕩減が先ですか? (蕩減)。それはまた、どうして蕩減だというのですか? そうだけれど、皆さんが好むものは何ですか? (笑い) 皆さんが好むものを率直に話しましょう。(復帰)。皆さんは、復帰は好きだけれど蕩減は嫌がるというのです。神様の側から見てみればどうですか? 反対です。皆さんはどちらの側ですか? 神様の側ですか、サタンの側ですか? (神様の側です)。これを確実に知らなければなりません。皆さんは復帰を好むというのです。しかし、神様の側では復帰を好むことができないのです。蕩減をしたのち、通したのちに復帰を……。
それでは、復帰を好む側はどっちの側だというのですか? サタン側だというのです。そして、蕩減を嫌う側はどちらの側ですか? (サタン側)。サタンの側です。そして、蕩減を好む側はどちらの側だといいますか? (神様の側)。これで分かったのです。この統一教会も、その側なのです。それを知らなかったでしょう? これで分かりましたね。それでは、自分自身を静かに反省してごらんなさい。私は神様の側ですか、サタンの側ですか? それは、皆さんがよく知っていることです。皆さん自身に問いかけてみなさい。○(マル)が天の側で、×がサタンの側です。どういうのが天の側だというのですか? (マル)。答えた人は一人しかいなくて、全員黙っていて……。これを知らなければなりません。今まで皆さんはみ旨に従ってきましたが、復帰を好むことがサタンの側で、蕩減を好むのが神様の側だということを確実に分かれば、これからはどちらの道を行きますか? (蕩減の道です)。(一一六―一二七)
アダムの堕落はどのようにして起こったのですか? 不信から堕落したというのです。不信が一番の原因です。その次は何かといえば、自己主張から堕落したというのです。自己主張、自分を中心とすることだというのです。自分を中心とする立場から堕落したのです。その次には、自分を中心とする愛の圏を要求したということです。これが堕落の三大要素です。不信、その次は? 自己主張、自分を中心とすること、その次には自分中心の愛の圏を夢見てきたということ、これがサタンの足場だというのです。堕落した天使がこのようになったというのです。
それでは、これを蕩減復帰しようとすれば、これを否定しようとすれば、どのようにしなければならないのですか? 反対にしなければならないのです。絶対信仰! それで、絶対信仰が出てくるのです。私の人類の先祖が不信によって堕落したので、これを踏んで上がっていかなければならないのです。私たちの祖先が堕落したその線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければならないのです。絶対信仰とは何をいうのですか? 死ぬまで、死んだあとも、死にながらも行こうとするのです。皆さんは絶対信仰を知らないでしょう? 絶対信仰の限界がどこかというのです……。それを、私たちの実感的な生命体をもった私自身と比較していえば、死にながらも行くというのです。死にながらも、その道を行くというのです。死にながらもその道を行こうとするのです。私は死ぬ時に横に倒れるのではなく、前に倒れるというのです。そのような意味で、私の信仰を否定するのであれば、死の道を選ぶのです。
二つ目は何ですか? 自己否定です。一〇〇パーセントこの目を否定しなければなりません。自己否定です。私の見たい目、私の食べたい口! 三十歳まで腹が満たされた日がなかったのです。私がこれを知っていても、私自身を否定するのだというのです。
三つ目は何ですか? 絶対の愛です。絶対の愛はこれです。怨讐を消化すればこそ……。仇を討つことは許されないのです。怨讐自体が全力を尽くして、自分の国と自分のすべての権限、長子権までもすべて引き渡さなければならないのです。譲り渡さなければならないのです。(一二六―三五)
蕩減という言葉を知ってみれば、誰もが一番好むようになるのです。蕩減がなければ福もないのです。
統一教会の無限な黄金の塊とは何かといえば、蕩減です。死を冒して、すべてのことを犠牲にしてすべての困難を克服する、驚くべき言葉です。(一九七八・二・二六)
復帰歴史とは説明してあげてやるものではありません。なして、勝利して、収拾するようになっているのです。説明してあげてから行くのであれば、聖書は新約・旧約六十六巻必要ないのです。十ページあればすべて記録できるのです。分かりますか? 六十六巻もどうして必要ですか? 馬鹿らしいのです。十ページも必要ないのです。三ページあれば全部記録できるのです。(六二―一二六)。
2 責任分担
人間の責任分担がなければ、どうなったでしょうか? 人間の責任分担は何ゆえに与えたのですか? (……)。講義する人間がこれも知らないのですか? 人間の責任分担をどうして定めたのですか? (地上にお父様のみ旨を実現するために)。それは創造目的に対することでしょう? 本来、人間の責任分担をなぜ与えたのですか? 創造偉業に加担させるためであり、その次には何だといいますか? (万物を主管するために)。その次には? (創造性を似せるようにし、万物を主管することのできる資格を与えるためにです)。その次は? (原理の絶対性と完全無欠性のために)。この三つの内容です。
皆さんは神様の創造偉業に加担しなければならないのです。本来、堕落しなかったとしても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落しなくても、人間の責任分担を背負っているというのです。人として完成できる神様の九五パーセントの創造理想的形態をすべて持ち合わせたといっても、自分の五パーセントの責任を完遂しなければならないのです。人間自体の完成を神様だけがさせるのではなく、自分がそこに付け加えて完成しなければならない責任があるというのです。堕落しなかったとしてもです。
また、原理の絶対性というものがあります。原理というものは許すことができないものです。どうしても行かなければならないのです。死んでも行かなければならないというのです。永遠をかけて行かなければなりません。神様自身がこれを思いどおりにできるのであれば、神様が今まで復帰摂理の路程で受難の道を行く必要もなかったというのです。それをそのように制定しておいたので、責任分担的限界線があるので、神様は、その鼻に引っかかって今まで人間を復帰するための数多くの受難の道を歩いてきたのです。その責任というものは神様にだけあるものではないということを知らなければなりません。人間と共同的に責任を負っているというのです。堕落しなくても、そうだというのです。そのようになっていませんか?
このように見るときに、今日、堕落人間はどのようになっていますか? 堕落した人間は人間の責任分担だけではないのです。創造全体の九七パーセントをすべて蹂躙してしまったのです。そのために再創造しなければならないのですが、再創造とは何ですか? 責任分担の限界線に行くことができる、限界線に立つことができる、そういうものではないのです。創造過程全部が崩れたのです。それゆえに、それがどれほど難しいかというのです。それゆえ、人間が九七パーセントに該当する責任を果たさなければ、責任分担を完成することのできる道が永遠にないというのです。再創造しなければなりません。そのため、復帰摂理というものは再創造歴史なのですが、再創造がなぜ必ず必要なのですか? 人間の責任分担のゆえにです。人間の責任分担をして、その位置まで出ていくためにも、必ず再創造の過程を経なければなりません。再創造の過程を経ようとすれば、どのようにしなければならないかといえば、必ず蕩減しなければなりません。蕩減条件を立てなければなりません。受難の道を行かなければならないというのです。
神様は今まで人間の責任分担圏以上の位置で人間世界に対しているのです。しかし、それ以下に落ちた人間は、どうにかして橋をかけて上がっていかなければなりません。その圏内にすべての人類が引っかかっているのです。すべての世界が引っかかっており、歴史が引っかかっており、過去に霊界に行った人、現在のこの世界人類、今後現れる後孫全体が、この運命圏を逃れることができないでいるのです。これが怨恨の堕落圏です。
そうですから、再創造していくのにどのようにしなければならないのですか? 必ず闘争過程を経なければなりません。誰とですか? サタンとです。このすべてのものは何ですか? すなわち、再創造過程に必要な圏は誰が支配しているのですか? サタンが支配しているのです。九七パーセントの圏をサタンが支配しており、九七パーセント圏以上から神様が支配するのです。そのように見なければならないのです。(一一五―六六)
責任分担にも個人的責任分担圏があり、家庭的責任分担圏、氏族的責任分担圏、民族的責任分担圏、国家的責任分担圏、世界的責任分担圏、宇宙的責任分担圏、天宙的責任分担圏があるのです。なぜですか? 堕落した世界ではないかというのです。堕落した世界だから、その門がないのです。その門は責任分担を中心とした愛の圏でなければならないのです。個人から反対して、家庭、氏族もこれに反対するのです。そして、民族も……。(一六二―九二)
人間の責任分担を完成したのちには何が成し遂げられるのですか? その話は何かといえば、人間の責任完成と共に神様の直接主管圏内に入っていくのだというのです(黒板に書かれながら語られる)。これを知らなければなりません。原理がそのようになっているでしょう? (はい)。
ところで、直接主管圏内に入っていけば、神様は何を中心として直接主管するのかというのです。お金を中心としてですか? 顔がいいことを中心としてですか? 何を中心として主管するのですか? (愛です)。当たりです。愛、愛なのです。その時にアダムとエバは神様の祝福を受けて、神様の愛の圏内に入っていくのです。アダムとエバが愛の圏内に入って、その愛の圏内で一致したのちに神様の愛を平面のこの世に代行することのできる時代が、地上天国基盤だということを知らなければなりません。(一二四―三〇六)
神様の愛を中心として、完全な神様の愛が現れるようになる時、サタンが現れることはできないのです。それが責任分担の完成なのです。責任分担を完成していたならば、間接主管圏と直接主管圏において愛の因縁が結ばれるのです。そこで縦的愛と横的愛が連結されるのです。(一七三―二八六)
今日、統一教会で人間の責任分担ということを見つけ出したという事実は、宇宙的な発見だということを知らなければなりません。原子爆弾を発明したこと、アインシュタインが相対性原理を発見したこととは比較にもなりません。それを知らなければ歴史のすべてのことを解決することができないのです。神様と人間との関係、歴史のすべてのことは雑多なものなのです。何も解決できないというのです。義を貫く人々が歴史時代において、なぜ犠牲になってきたのかというのです。過ぎ去ったのちに、なぜ、その人たちの名前が現れてくるのかというのです。このような問題は歴史学者も哲学者も解決する方法がないのです。
皆さんが人間の責任分担というこの真理を知ったという事実は、偉大な所有をしたということです。ところで今、ムーニーたちは人間の責任分担を一番嫌がるのです。一番好まなければいけない人々がムーニーであるにもかかわらず、ムーニーたちは人間の責任分担を一番嫌がっているのです。どうですか? 好きですか? 嫌いですか? (好きです)。「皆さん、人間の責任分担を果たしなさい」と言ったのですが、果たしましたか? (果たすことができませんでした)。(一二四―三〇三)
この宇宙のすべての矛盾した事実と歴史のすべての非運の曲折、このすべてが、今日、歴史上の責任分担ということを知らなかったために生じたものです。そのような事実を知らなければならないのです。責任分担がどれほど重要なことなのかを、皆さんは知らなければなりません。責任分担を皆さんは勝手に考えているのです。「責任分担は原理で教えているのであって、私とは関係がない。この世の中は自分の思いどおりに生きることができるのだ」、このように考えているというのです。
そのように見るとき、レバレンド・ムーンが責任分担という言葉を発見したということは、偉大な発見だということを知らなければなりません。皆さんは、責任分担をどれほど重要なこととして理解しましたか? どれだけ重要なこととして理解したかというのです。この責任分担には宇宙が引っかかっているのです。神様も解放を受けられず、宇宙も解放されず、地獄の門もこのために解放されず、社会の矛盾するすべての不義の歴史が責任分担という垣根に、責任分担という塀に引っかかってあえいでいるというのです。(一二四―九四)
さあ、これで責任分担ということが分かりましたか? (はい)。 そうです。皆さんは責任分担を一日に何回ほど考えてみましたか? 食事をする時に責任分担、はしを持つ時に責任分担、はしと茶わんを洗う時も責任分担、トイレに行き大便をしながら、小便をしながらも責任分担、歩きながらも責任分担を記憶せよというのです。アダムとエバは、責任分担ということを考えることができなかったので滅びたのです。皆さんも責任分担を行わないならば滅びます。分かりましたか? 私たちはアダム、エバのように責任を果たせず堕落した人間になってはならないのです。復帰して勝利した人間になるためには二十四時間、責任分担を尊重して考えなければなりません。
さあ、今後、統一教会の信徒たちはあいさつをする時、この言葉を言わなければなりません。ヒューマン(human:人間)のHとレスポンスィビリティー(responsibility:責任)のRをもって、HRと言わなければなりません。「HR」と言うようになれば、「はっ(HR)!」と言うのですよ。「はっ(HR)!」。そのようにして歴史は、文化は創造されるというのです。すべての歴史の源泉だというのです。きょうここから「はっ(HR)!」とあいさつしたといって、「やい、この野郎! はっが何だ!」と言えば、「あなたたちは知らないでしょう。私の話をちょっと聞きなさい」と話をするのです。朝も「はっ!」、夕方も「はっ!」、こういうふうにやるのです。これが一番便利だというのです。(笑い)「はっ!」良いですか? (はい)。それは先生も好むし、神様も好むし、宇宙も好むというのです。分かりましたか? ですから、統一教会の皆さんは統一教会の責任分担を忘れてはならないのです。それが重要なことなのです。(一二四―一〇三)
3 内的蕩減条件と外的蕩減条件
皆さんが復帰摂理の基盤を築いていくにあたって、統一教会を中心として見るとき、蕩減の路程を経て基盤を築くのであって、そのままでは基盤は築けないのです。
それでは、蕩減という条件を何をもって立てるのですか。また、蕩減条件を立てて何をするのですか? これが確実ではないというのです。蕩減という言葉はありますが、その蕩減条件を立てて何をしようというのですか? 目的が不確実であったというのです。蕩減しようという目的は何ですか? 蕩減しようという目的が何かを確実に知らなければなりません。
復帰路程において、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様の愛復帰まで八段階を経ていかなければならないのですが、そのまま一遍には……。アダムとエバが堕落していなかったならば、そのまま一遍に完成するわけですが、これが歴史時代に僕の僕まで落ちていってしまったので、一遍に上がっていくことができないでいるのです。
それで、段階を開拓しながら継いでくるこの過程では、必ず蕩減条件が必要だったというのです。蕩減条件を立てることにより何が成されるのかといえば、サタンが分立されるのです。サタンのゆえに、蕩減条件が必要なのであって、サタンがいなければ蕩減条件は必要ないのです。それは分かりますか? (はい)。
今まで、この歴史を誰が動かしてきましたか? サタンが動かしてきました。ですからサタンを分別しなければなりません。サタンを除去させなければ、神様は入ってくることができないのです。神様の領土ではないのです。サタンの領土であるがゆえに、堕落した圏内において蕩減条件を立ててサタンを分別させなければ、追放することのできる蕩減条件を立てなければ、神様の領域が拡大され、神様が活動することのできる基盤を築くことはできないのです。ですから、分別して追放してしまわなければならないのです。
それでは、サタンが決定的に投入するようになったのは、何ゆえにですか? 一番目にアダムが堕落したことによるのであり、その次にはカインがアベルを殺したことによるのです。この二つの条件のために、縦的支配と横的支配を完全にサタンがするようになったというのです。霊界までもサタンが支配しているというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。
蕩減条件を立てようとすれば、アダム的な代身の存在、アベル的な代身の存在がなければなりません。これらが何を蕩減するのですか? アダム的代身の存在を通して蕩減復帰することは、アダムが堕落した縦的基盤です。このようにアダムの位置を復帰することのできる位置ができてからは、その次にカイン・アベルを蕩減復帰しなければなりません。カインがアベルを屈伏させたので、アベルがカインを屈伏させなければなりません。ところでアダム自身には直系の息子、娘がいないので、自身がこれを代身しなければならないのです。この二つの使命を果たさなければならないのです。(一六一―二〇四)
サタンを縦横に分別するときに、内的蕩減条件と外的蕩減条件があります。外的蕩減条件は、カイン・アベル蕩減条件であり、内的蕩減条件は責任分担を中心としたアダム蕩減条件です。このようにして、迫害を受けるすべての環境のサタン支配圏を中心として、サタンの情的環境を完全に克服してそれを除去するようになった時、天の側が始まるのです。これが原則です。(一六一―二〇七)
それでは、アダムがなぜ堕落したのかということが問題です。アダムの堕落は何かといえば、責任分担を完成できなかったことにより、神様との愛の関係が切れたことなのです。責任分担を連結させることができず、その次には神様の愛に連結させることができなかったのです。堕落することにより、責任分担の喪失と神様の愛の圏を喪失したのです。
それでは、サタンをどのようにして分別させるのですか? 蕩減条件を立てることのできる立場に立った、アダムの代身的存在にならなければなりません。堕落したアダムではありません。また、堕落したアダムが愛を失ってサタン圏的愛をつくりました。そうですから、天国圏的愛をもったアダム代身存在の立場で、サタンと対決してサタンを分立しなければなりません。責任分担を完成した位置に立って、神様の愛の圏を占領しなければなりません。
ところで、サタンは自分の責任分担未完成と、神様のサタン圏内の愛の基盤を中心として、この世界を全部占領した局面になっているのです。そのために、本然の基準において神様を中心とした責任分担を完成した資格者になったアダムの立場で、結果主管圏と直接主管圏において、愛を中心としてサタンと対決し、サタン側に対している人々よりも、より天の側寄りであり、サタン的愛に接するよりも、天の側でより愛したという条件を立てることによって、分別が起こってくるのです。ここで蕩減条件が成立するのだということを知らなければなりません。
しかし、サタンは自分が環境を支配しているので、あらゆる謀略、中傷を、あらゆる手段をすべて使ってでも、これを切ってしまおうとするのです。けれども、その環境を克服して、どんな業があろうとも神様を身代わりしてアダムが喪失した責任分担を探すならば間違いありません。永遠なるものなのです。そして、神様を愛するということにおいて、絶対、誰が何と言っても間違いないということのできる基準を立てなければ蕩減は成されていかないのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。
それゆえに、アダムの立場で責任分担を絶対に完遂しなければなりません。どのような誘惑であれ何であれ、目的とするところに動揺があってはならないのです。神様に対する息子としての権威を築いて、サタン圏内の愛、すべての環境を支配する情的力でどんなに誘導し、また、どんな力をもって反対しても、神様を愛することにおいて不動でなければなりません。絶対的です。このように迫害を一度受け、二度受け、三度受ければ、三度以上はできないというのです。このようにしながら、すべて峠を越えなければなりません。反対を受けてからは必ず二つに分かれるのです。アベル側の世界を収拾することのできる業が起こってくるのですが、その環境に勝利してだけ蕩減条件を立て、その環境でサタン分別をすることができるのです。サタン分別をすることができないならば、それはそのままサタン世界です。
蕩減条件は何を分別させるのですか? 責任分担を完遂して、その次に神様を愛するのです。サタンがどんなに迫害し攻撃しても、それを除去して、そこに動揺がなくなるようになる時、サタンが打っても打っても、それが退かなければ、その時はサタンが退かなければならないのです。このようにして、サタンを分別するのです。これが決定されなければ、カイン・アベルを蕩減する道はないのです。(一六一―二〇五)
縦的な蕩減条件とは何ですか? なぜ立てなければなりませんか? 責任分担完成と、神様に対する絶対的な愛の復帰完成、この二つの条件です。こういう基準があるので、イエス様も、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)という言葉を語ったのです。この原則からそういう言葉が出たのです。こう見れば、聖書がすべて解けるのです。そうでしょう? 同じように、皆さんが先生をそういうふうに愛しますか? (はい)。はっきり分かりますか? 雑然として今まで生きてきたでしょう? 蕩減条件は言葉だけではないと壇上で話しましたが、それが現在どのように適用するのか分からない立場で今まで使っていました。先生がいたからそうなのであって、そうでなければみなばらばらに分かれてしまったのです。分かりましたか? この韓国の連中? (はい)。内的蕩減条件が何ですか? (責任分担完成と神様の愛……)。それで何をしようというのですか? サタン世界が迫害してみよ、というのです。打ってみよ、というのです。私が皆さんを占領するのです。何でですか? 愛の力で、神様の創造の能力で……。そうすれば神様が共にあるのです。ここには神様が共にあります。やってごらんなさい、共にあるかどうか。先生は監獄の中にあっても、どんな拷問を受ける場へ行っても、これを忘れないで闘ってきた人なのです。そうしてこそ分別されるのではありませんか?
教会長! (はい)。これは理論的ですか、科学的ですか? 正しいのです。内的八段階、外的八段階というように、内的蕩減条件、外的蕩減条件を立てていくのです。それを知らなければなりません。よく分かりましたか? (はい)。
外的蕩減条件をどうしなければならないのですか? アベル一人で送るのがいいですか、自分の家族全部に代わって、父母の立場にいる人が代わりに行って、二人が一つになって開拓するのがいいですか? (二人が一つになって……)。誰が先に行かなければなりませんか? アベルが先に行かなければなりませんか? 責任者が先に行かなければなりませんか? (責任者が……)。責任者が先に行かなければならないのです。ですからアメリカにも、責任者である私がまずここへ来たのです。統一教会を誰が開拓しましたか? 誰がしましたか? 先生が原理をもってしたのです。このとおりになってきたのです。(一六一―二一三)
4 責任分担と蕩減
人間が責任分担を果たすことができなかったゆえに、蕩減復帰という怨恨の言葉が出てきたのだということを知らなければなりません。怨恨の言葉が。一番嫌いな怨恨の言葉が出てきたということを知らなければならないというのです。その蕩減復帰路程の時は、絶対に神様も後援はせず、本部も後援せず、一人でなさなければなりません。一人でしなければなりません。助けてあげるようになる時には蕩減にならないというのです。いけないというのです。どうしてですか? 人間の責任分担という原則があるので、その原則において助けてあげることは蕩減にならないというのです。それを助けてあげることができたならば、人間が堕落する時、神様が干渉して堕落しないようにするでしょう? 責任分担があるので、干渉することができなかったのです。人間の責任分担があるために。分かりましたか、何の話か。(はい)。
レバレンド・ムーンがどんなにどう言っても、神様は愛しているけれども、人間の責任分担を果たす過程において蕩減条件を行う時には、神様は協助することができないのです。私自身がサタンに勝ち抜いていかなければならないのです。サタンとサタン世界に勝っていかなければならないのは、本来のアダムに許された理想圏であったのですが、その理想圏を私が凌駕しなければならないというのです。何の話か分かりますか? (はい)。
(一二四―三〇四)
責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり、一つは左側の立場ですが、一つは右足のようであり、一つは左足のようですが、それを忘れてしまったのです。一つは左足で一つは右足なのに、ムーニーたちは責任分担も分からず蕩減も分からないのです。それで、どのようにして行こうというのですか? どのように行くのですか? こんなようでは行くことができないのです。責任分担と蕩減復帰を連結しておかなければ、前進は不可能だということを知らなければなりません。それを考えてみましたか? 蕩減は嫌でしょう? 女性たちは蕩減が嫌でしょう? 神様も摂理も嫌いでしょう? (違います)。
きょうからは新しく、食事することを忘れたとしても、眠ることを忘れたとしても、自分が愛する人を考えることを忘れたとしても、これを忘れてはならないのだということを知らなければなりません。そのように深刻なことなのです。神様もこれを通じなければ行けないし、レバレンド・ムーンも生きてこれを通じなければ行けないし、すべての統一教会の信徒たちもこれを通じなければ行けないし、全世界もこれを通じなければ行けないというのです。通じないというのです。全員、そのまま通過したいでしょう? 博士や教授の立場を無償で手に入れることができますか? そのコースを通過して博士になればこそ、博士をやっていけるのでしょう? そのままで、やっていけますか? 通過しなければ、それは偽者です。これからは、分かったでしょう? (はい)。
(一二四―一〇五)
三 統一教会の信徒の公式路程
三 統一教会の信徒の公式路程
P938
「宣教と教育」第一号から引用お父様はベルベディアで公式路程を強調されました。それで、本人はこれから、皆さんの祝福が公式路程とどのような関係があるのか話してみようと思います。
1 教育
皆さんの過去の教会生活は公式路程とどんな関係があるのでしょう? 原理によれば、初めて入教した人は、まず二日、七日、二十一日、四十日、総計七十日に達する公式的修練過程を通過しなければなりません。今、私たちはこのような修練過程をアメリカの地に定着させています。
もし、皆さんが入教した人々に七十日間の修練過程を経させて、彼らが教会と伝道のために仕事をすることができるよう教育したとすれば、教会を捨てることはほとんどないだろうと、お父様が数次にわたって強調されました。ゆえに、そのような教育は公式路程に先行します。食口ならば必ず七十日の修練過程を通して、そうしたのちにこそ、公式路程に出発するようになるのです。
2 第一段階は万物復帰
万物復帰のための基本的な期間として、三年半が必要です。この路程は外的な形態、すなわち、私たちの肉身の復帰に関係するのです。神様は環境を最初に創造されました。そして、ファンダレイジングの活動期間は縦的な面で、肉身の再創造資格を私たちに賦与してくれるのです。この期間は、肉体的に一生懸命仕事をする必要があるのです。
神様の摂理的側面から見れば、復帰ということは個人的復帰だけを意味するのではありません。万物復帰の路程は旧約時代の復帰に該当します。歴史的事件の復帰なくしては、私自身の完全な復帰はあり得ないのです。三年半の間の機動性があり、献身的なファンダレイジング・チームの努力は、万物をささげることにより旧約時代と連結する道なのです。
この期間は、このように蕩減条件を提示する期間です。それゆえ、私たちの努力と苦労は当然、神様の主要摂理に連結されるのです。
皆さんは全員、ファンダレイジングの経験をもっています。しかし、どんな条件的な短い時間に、またはある目的のために皆さんが属している部署でお金を稼ぐことは、ファンダレイジング・チームの活動に決して比較することはできません。ファンダレイジング・チームの目的と意図は部署次元、あるいは国家的次元の目的ではなく、全体目的である神様の主要摂理の目的と連結されるのです。
皆さんが知っているとおり、ファンダレイジング・チームは普通、朝早くから夕方遅くまで、本当に一生懸命に仕事をしているのです。このような過程は、肉身を再創造する蕩減条件を立てるのであり、旧約時代を蕩減する資格を私たちに与えてくれるのです。
3 第二段階は人間復帰
公式路程において人類復帰は二つの期間に分けることができます。初めの三年半の期間は、人類復帰と信仰の子女三名を立てるのです。
周知のように、元来、成長期間が過ぎたのち人間は完成するようになっています。しかし、堕落人間は長成期完成級で堕落したので、この段階まで復帰しなければならないのです。すべての人間は、再び長成期完成級に到達するようになっています。それで、私たちが三年半の路程を話す時には、祝福を受ける前のことを意味するのです。私たちは、これを「復帰の道」と呼びます。草創期には、公式路程のすべての条件を満たした食口だけが祝福を受けることができました。
二つ目の伝道期間は、また違う祝福後の三年半期間として完成を成すようになっているのです。祝福のあとのこの期間を、私たちは「原理の道」と呼びます。
これらに対する重要な相違点を詳しく話そうと思います。祝福を受ける前に私たちは、七年間の公式路程を歩まなければなりません。一般的に三年間の信仰の期間と、信仰の子女三人が必要です。しかし、お父様は最近は二年、あるいは三年間信仰した人にも祝福をしてくださいました。
祝福を受けるためには、原則的にこのような条件を蕩減するために十四年間が要求されたのですが、のちに七年に減ったのです。お父様は早く祝福をしてくださり、祝福のあとに路程を満たすようにとお許しになったのです。私たちが悟らなければならない一番重要な事実は、私たちこそ多くの恵沢を受けたということです。歴史上のこの時点に、私たちはこのような恵沢を受けるだけの価値のない存在です。したがって、公式路程のために実際に七年間が必要だという考えを、私たちは心深く刻まなければなりません。
4 原理の道
元来、アダムとエバが成長の各段階を完成することにおいて、各々の責任分担が与えられました。一つの段階の成長期間にはその段階の責任分担を、したがって三つの段階の成長には三つの段階の責任分担を完遂しなければなりません。ここには例外はありません。すべての人は全く同じ条件をもっており、責任を完遂することによって成長することができます。
もし、人間の堕落のあとに、神様が堕落人間にも全く同じ量の責任分担を要求されたならば、堕落前の本来の位置に私たち自身が復帰することのできる希望は少しもありません。責任分担を完遂することのできる機会を失った代わりに、私たちは蕩減条件を立てなければなりません。
神様の恩恵により、私たちは復帰の道を高く跳ぶように、大きく跳躍することができます。これを私たちは時代的恵沢を受けるといいます。
アブラハム以前、アブラハムからイエス様まで、イエス様から今日までの三時代があります。どの時代に生きても、単純に人々はある恵沢を受けたのだというのです。なぜならば、蕩減条件を通して摂理歴史が進展した時代であったからです。
5 真の父母時代の恵沢
私たち自身の復帰において七年間の蕩減条件の期間が必要です。(三年半はファンダレイジング活動、三年半は伝道活動)そして、人類復帰において七年が(祝福を受ける前に三年半、祝福後に三年半)必要です。お父様はベルベディアで、夫と妻が共に「七年間」を完遂してもよいと許してくださいました。それゆえ、すべての祝福家庭は三年半を満たす義務があります(編集者注:多くの食口たちは、家庭教会区域でのファンダレイジング活動をもって公式路程の代わりにすることができると誤解した)。
どうぞ、誤解しないでください。祝福を受けたのちの皆さんの路程は、蕩減復帰の道ではないのです。それでは何ですか? 祝福を受けたのちの皆さんの路程は「原理の道」です。
祝福後の「原理の道」が意味することは、皆さんの完成が、高跳び式ではなく、一歩ずつ一歩ずつ成されるのだというのです。祝福後に、もし、皆さんがこの最小限の蕩減条件を立てることができなければ、継続的に蕩減条件を立てる必要があるのです。
既に、かなり多くの食口たちが誤った道を歩んできたし、時には表面的な理解で、お父様が意味された道を誤って考えてきたので動揺しているのです。
もしも、公式路程において要求される蕩減条件を立てることができなかったならば、皆さんは、まだ負債を清算することができなかったという事実を深く理解しなければなりません。しかし、二十一年路程を成功的に完遂されたお父様に従う現時点で、この時代的恵沢は非常に大きいのです。お父様は一万双という驚くべき祝福をしてくださり、そのような霊的な行事を挙行なさりながら、信仰の子女三名とか三年半のファンダレイジングの期間、またはその上、三年間の信仰の期間も厳格に要求されませんでした。なぜならば、お父様の勝利による恩恵を皆さんと共に分かち合うことを願われたからです。しかし、皆さんの中の大部分はこの負債を負っているのです。
6 お父様が私たちに対される立場
お父様は、あたかもすべての食口たちが祝福対象者として既にふさわしく、公式路程をすべて完成し、残っている負債などは何もないかのように語られます。お父様はこのような観点から語られますが、このような基準に到達できない食口たちは誤解するのです。聞くところによれば、皆さんの中で大多数が責任を果たすことができず、時には他の種類の伝道に忙しかったというのです。そして、少しでも易しい仕事を取捨選択できると理解していました。不平を言う人たちは「教会の方針はあまりにもいろいろだ。それらは原則に合っていないし、いつも方針は変わるのだから」と言うのです。お父様は決して変わることはできません。原理も決して変わることはできません。ただ問題になることは、神様が願われる基準に私たちがまだ到達できないでいたということです。
7 祝福家庭の伝統
先週の日曜日の夕方の説教で、お父様は夫と妻が共に七年路程を立てる最少の蕩減条件である三年半の路程について言及されました。これは祝福家庭の伝統的期間です。
一九七一年、お父様がアメリカに来られる前のことだと記憶しているのですが、お父様は韓国のすべての祝福家庭に新しい伝統を樹立することを示されました。子女が四名いようが五名いようが、また最近祝福を受けたとしても、それは問題にはなりませんでした。婦人たちは、夫と子供たちと完全に離れて、国家のための開拓者の道を歩みました。これは祝福家庭の献身的な三年半の義務期間であり、祝福家庭の伝統となりました。その後、祝福家庭は三年半の間別々に離れて、大部分伝道に注入して一生懸命に仕事をしたのです。
8 環境祝福
原理によれば、祝福家庭は要求されるすべての蕩減路程から、既に解放されていなければなりません。そののちに、原理的な人生を共に分かち合うのです。しかし、実際において祝福家庭は、生活環境の祝福を受けることができませんでした。神様の立場から見るとき、依然として国家と世界のためのアベル的犠牲が要求されるのです。
その多くの犠牲と奉仕があるならば、祝福家庭の努力は驚くべき結果をもたらすことができます。それは条件を立てる期間中の努力とはまるで違います。なぜならば、これからの私たちの目的と関心事は世界復帰だからです。このような理由をもって、一九七一年から祝福家庭の婦人たちは三年半の間、献身的路程を通過しなければならないのです。
9 新約・旧約時代との連結
祝福後に人類復帰と関係する路程が、なぜ必要なのでしょうか? 祝福前の三年半の間のすべての伝道活動は、私たち自身の霊人体、または心の復帰に連結されるのです。すなわち、肉身ではなく、霊人体の復活を意味するのです。歴史的に、これは新約時代を蕩減するものなのです。旧約時代には、復帰のために万物を神様にささげたし、新約時代は、主に信仰を通じた内的な復帰に連結されます。
祝福前の復帰は、各人の外的、あるいは環境的復帰です。新約時代と人間の内的面を復帰したあとには、すべての時代と連結される時が来るようになるのです。それはちょうど、幼子がまだ父母ではないのと同じなのです。
創造原理によれば、元来、人は神様の自然環境の中で成長し、完全な息子・娘になれば、父母の位置を成就するようになるのです。しかし、長成期完成級で堕落することにより、私たちはまず子女の立場を復帰しなければなりません。(現在、神様の懐にいますが、まだ完全な段階ではありません)。
祝福を受けることにより、私たちは完全な子女の立場に立つようになり、合わせて、父母の位置に立つようになります。私たちには復帰に向かった二つの義務があります。
祝福を受けたあと、私たちは真の父母様との関係を通して、父母の心情を再創造し、成約時代と連結しなければなりません。このころの献身は侍る生活と同じです。私たちは侍ることを通して心情を復帰するのです。
このことから、私たちは祝福を受ける前と、祝福を受けたのちの二つの範疇を知ることができます。前者は復帰のある段階をいい、後者は完成をいうのです。
私たちが祝福を受けるのは、単純な結婚生活のためではなく、または外的な家庭のためだけというのではありません。一番重要な点は救援です。お父様が語られるとおりに三年半以上約婚状態で過ごした人は、すぐに結婚生活をスタートするのです。合わせて、これは祝福家庭たちの最少の蕩減条件を完成したものと仮定するのです。実際に皆さんの中心指導者たちは、皆さん個人個人の教会記録をよく見なければなりません。なぜならば、そこには様々な状況があるからです。
この公式路程はもっと短くなり、だんだん復帰摂理が拡大されるにしたがって困難も少なくなるはずです。未来には、祝福家庭の献身的三年半の義務期間もどんどん短くなるのです。
四 ファンダレイジングと伝道
四 ファンダレイジングと伝道
P946
1 ファンダレイジングと伝道とは何かアダムは神様が創造した万物を蹂躙し、人間を蹂躙し、また愛を蹂躙したので、私が万物に対し礼儀を備え、人に対する礼儀を備え、神様の愛に対する礼儀を備えなければなりません。
この道は商売に行く道ではなく、この道は伝道に行く道ではなく、運命的蕩減の道を行くのです。必ず行かなければならない道です。先生はこれをすべて知っている人です。皆さんは「ああだこうだ」と言いますが、どれほど難しいことか、すべて知っています。どうやっているかも、すべて知っているのです。さあ、そうして先生が「それはこうせよ」と教えてあげれば、「私はこうやりました」と言えなければなりません。先生にすがり、駄々をこねることもできなければなりません。(笑い) そうすると、先生はどうするのですか? 神様もどうしようもありません。さあ、愛ですがりつくのにどうするのですか? (九四―二七一)
皆さんは今、先生がこういう価値ある訓練をしているのですから、それの本当の意味を受け入れなければならず、本当の意味を消化できなければならず、喜びでできなければいけないのです。「経済活動をするのは万物を近くで愛することであり、伝道するのは人を愛するためのものだ」と言うとき、どれほど素晴らしいでしょうか。ファンダレイジングは自分の習慣をつくるためのものだというのです。自分が愛をもってそうなれば、あの世へ行く時、その習慣性をもってその世界へ入ります。梯子がそのまま架けられるようになるのです。同じことです。それはすべて登るためのものです。(黒板に書かれたものを示されて語られる)
そうすれば、あの世へ行って愛の化身とならざるを得ません。愛に対する理想的な完成者とならなかった時は、そういう訓練過程を経て、のちには神様のような神性を帯びた人間に帰らなければなりません。ですから、私は神様のそういう愛の神性から始め、この過程を経て、地上世界から天上世界へ来て、愛の神性へと帰るというのです。神様の息子となるのです。何のことか分かりますか? (はい)。そこまで行かなければなりません。皆さんはそれを考えないでしょうか? (一一八―一一七)
ファンダレイジングとは何ですか? 物を愛したという公証です。伝道とは何ですか? 人を愛したという公証です。そうしてこそ、妻が必要であり、夫が必要なのです。万物を愛することができず、人を愛することができない新郎、新婦を誰が必要としますか? 誰が願うかというのです。誰が願いますか? そういう男性を新郎として侍ろうと、どんな新婦が来ようとしますか? 来ません。そういう女性には新郎も来ません。
では、愛とは何ですか? 物質をもって節約し、惜しんで使うことのできる生活をしなければならないというのです。物質を愛し、その次に人を愛さなければならないのです。人間同士揉まれる社会生活において、どうかすると争いもし、不平も言うものです。不利になると、ああだこうだといろいろ事件が多いのです。そういう生活の中でじっと我慢しつつ、「うん! 愛するから耐えよう」という訓練をしなければならないのです。(一一一―一七八)
2 蕩減復帰すべき二つのこと
私たちが復帰路程を行くにあたって、なぜファンダレイジングと伝道を重要視しなければならないのでしょうか? それは摂理的に見るときに、神様が創造したものを人間がすべて滅ぼしてしまったので、私が再創造しないといけないからです。再創造するためには、神様が精誠をささげたので、私も精誠をささげるときにその条件が復帰されるのです。何のことなく、遊びながらするのですか? (いいえ)。神様がこの宇宙を造る時、遊びながら、踊りながら造ったのではないのです。精誠をすべて尽くして造ったのです。神様が創造なさった時のように、私が再創造するのが復帰の道です。
歴史的に見るとき、これ(ファンダレイジング)は旧約時代を越えるための方法です。それを知らなければなりません。旧約時代は物質で祭祀をささげたのです。蕩減復帰するには物質で祭祀をささげ、勝利しなければならないのです。そうでしたか、そうではありませんでしたか? (そうでした)。
完成しなければならないのです。これをパスしてこそ、その次に新約時代に入り、伝道できるのです。人に相対できるというのです。分かりますか? 教会で提示する経済基盤を立てることにパスしてこそ、伝道できます。伝道とは何ですか? 人を創造しに行くのです。人を再創造しに行くのです。そのまま伝道すればいいのですか?
ここで考えなければなりません。「経済問題を復帰しようとしてどれほど難しかったか、そうやって力を尽くして探したものだから手離せない」、こう言わなければなりません。それを知らなければならないのです。そうやって探さなければならないのです。「そのために私がもっている宝物やあらゆるものを全部投入し、私の汗と涙をすべて投入したから一番貴いものだ」、こういう考えをしなければなりません。
この世ですべて蕩減復帰しなければなりません。霊界から見れば、何が一番貴いのですか? お金でもなく、息子、娘でもなく、国でもありません。蕩減復帰が一番貴いのです。これが一番貴いということを、今力を尽くしてやれば本当に悟るようになります。これを経なければ天国へ行くことができないのです。先生とも関係なく、神様とも関係ないというのです。
それで蕩減復帰、経済基盤、旧約時代を越えなければならないのです。パスしたその次には、どこへ行かなければならないのですか? その次には伝道するのです。行って三年の間に三人、ないし十二人を伝道するのです。十二人を伝道しなければ駄目なのです。そうして何をしなければならないのですか? イエス様が三年間に十二名の弟子を探せなかったことを蕩減復帰しなければならないのです。
イエス様が死ぬ時、弟子たちがみな逃げたでしょう? 皆さんが死ぬ時逃げないでいることができる、イエス様の弟子より優れた弟子をつくらないといけないのです。それを知らなければなりません。一人を立てるのがどれほど難しいかを考える時、神様が一人のアダム、エバを探すのがどれほど大変であるか分かるのです。自分の津液を抜かなければなりません。骨が溶けるほど精誠を尽くさなければ残らないのです。分かりますか? (はい)。
三年路程を行き、十二名以上伝道しなければならないのです。そうすれば死にません。死なずに生き残る者となるのです。それで新約時代を越えていくというのです。新約時代がなぜ生まれたのかといえば、イエス様が死ぬことによって生まれました。十二弟子をすべて失ったので死んだというのです。その新約時代を越えるには、十二弟子以上になれる人を探し、神様を愛し、人類を愛せるメシヤの代身者にならなければなりません。(九六―一一五)
3 三十歳前に成すべき公式訓練
何、ファンダレイジングが嫌? この者は! なぜファンダレイジング訓練が必要なのですか? 皆さんが仕事をするにはお金が必要です。お金は誰もくれないのです。それを知らなければなりません。自分の手でつくらなければなりません。今日の世界的な基盤は全部私の手で整えたのです。私の手でつくったのです。誰かがしてくれたのではありません。
皆さんの一生の間、経済問題はついてくるのです。これがサタンです。これがいつもついてきますが、本来は引っ張り出さなければならないのです。経済問題が反対に引っ張っているのです。先生は、島国でもどこでも生きていけます。仮に皆さんが全部死んでも、私は生きるというのです。きのこならどのきのこが食べられ、薬草が何で毒草が何で、すべて知っているのです。そして、糸と針金さえあれば釣り竿を作り、魚をいくらでも捕まえられるのです。どこであっても生き残れるのです。いつでも自立できる知恵があります。統一教会では、三十歳前にこれを公式的に訓練しなければならないというのが先生の哲学です。
経済訓練をし、その次には愛の訓練をしなければなりません。七年間です。人から迫害を受けて鍛練されなさい。先生が初めて会った人も、一目見てあの人はどうこうと評価すれば、すべて当たります。それはどうやってそうなったのですか? 人から迫害をたくさん受け、多くの人を経ながら研究したからです。それが必要なのです。「やあ、ムーニー、経済問題に責任を負えるか?」と誰か言うとき、「イエス」と言わなければなりません。「やあ、ムーニー、人間世界に対処する時に、人を外交的な面で料理できるか?」と言われれば、「イエス」と言わなければならないのです。
その次には霊界です。霊界に対するすべての試練と、霊的世界の攻撃に防御できる能力をもたなければならないというのです。それなのに、男性として生まれておいて、どこへ行って世話になって生きるのですか? 経済的に世話になり、無能力で世話になり……。これはもう死んだほうがいいというのです。どこへも行けないのです。なぜ行けないのかというのです。(一一七―二四)
ですから伝道しなくては……。伝道は人の子供を自分の息子・娘以上、自分の民以上に愛することです。自分の兄弟の代わりに、自分の子供の代わりに、サタン世界の誰よりももっと愛さなければなりません。それゆえに、カイン・アベルの基準を中心にして、アベルが勝利すると同時に、そのカインも天国へ連れて入っていくことができるのです。そうしてこそ祝福を受けるのです。カイン・アベルが闘って一つになれないことによってアダムの家庭全部が破壊されたでしょう? これが一つになることによって初めて祝福が成されるのです。それが原理ではありませんか? それが原理なのです。(九三―二八三)
4 ファンダレイジングと伝道のために涙を流す
ファンダレイジングをして涙を流し、伝道して涙を流し……。今、ファンダレイジングのチームリーダーが来て、一つの教会にいながら涙を流さんばかりにし、また伝道する責任者が涙を流さんばかりにし、またその次に責任者が行き、涙を流さんばかりにし、こうして三人が抱き合ってみ旨のために私たちはもっと行こうと激励し、涙を流しながら人類のための十字架を私たちが背負おうと訴えれば、神様まで一緒に涙を流すのです。そこから天国が完成するのです。それが原理的なので、ファンダレイジング・チームと教会と一つにしなければなりません。それが原則です。先生はそう思っているのです。(九七―二二四)
さあ、ですからファンダレイジングをしながら泣かなければなりません。伝道しながらどれほど泣くのですか? 泣く人は福を受けるのです。その次には、生命を巡って心情の世界のためにそれこそ……。朝太陽を見れば、ああして熱い光を下さる神様の愛がどこにあるのかという思いがしなければなりません。ファンダレイジングする人が涙を流し、神様も涙を流してこそ天国に行くのです。そこから天国が復帰されるのです。人間復帰、主権復帰、万物復帰、すべて成るのです。分かりますか? (はい)。
ですから本部にいる人たちも、ファンダレイジングする人たちを、雨が降るこういう時は心配しないといけないのです。雨が降り、霧がかかり、雪が降り、そういう時には心配しないといけないのです。一緒に涙を流さなければなりません。伝道する人も泣いて、そうしなければなりません。そうでなければならないのです。神様まで泣く位置で、地上の王国が形成されることを知らなければなりません。そこから始まるのです。それが分かりますか、何のことか。(はい)。皆さんは統一教会へ入って、信じていると言いますが、祝福を受け、統一教会の何々の責任者だと言いますが、どれほど遠い所に立っているかを感じなければならないのです。(九七―二二二)
今日、この世の人々は経済、お金の問題のために生き、死にます。しかし私たち統一教会の信徒たちは、神様のお金を管理し、神様のお金を稼ぎ、神様のお金を使うと考えなければなりません。愛するにあたっても、私のための愛ではなく、私の国のための愛でもありません。神様を中心とした愛、人類を中心とした愛でないといけません。民族が先ではなく、国家が先でもありません。神様が愛せる、そういう世界が先なのです。何のことか分かりますか? (はい)。夢のような稼業を、一番難しい稼業を現場で実践しているのが統一教会員です。
さあ、その次が伝道です。自分の涙と血と汗を流さなければなりません。人のために涙と血と汗を流し、その次には家庭をもてば家庭のために涙と血と汗を流し、万物復帰のために涙と血と汗を流さなければなりません。経済活動は何でもないし、伝道活動は何でもありません。家庭を一つとし、天の家庭を成すこと以上に難しいことはありません。家庭をもてば、互いに心が合わない時もあるのです。そういう時には我慢するのです。「私が昔ファンダレイジングする時どうしたか、伝道する時にも耐えたのに、愛する夫にこのようにできるのか!」と言って耐えるのです。これは教育です。(九四―二七一)
5 我々の目標と勝利の三つのバッジ
ここに来て行くとしたら、今まで記録を出したそれ以上に走りますか、走りませんか? (走ります)。それで早く帰ってきますか、遅く帰ってきますか? (早く帰ってきます)。それで現在九百名の中で一万二千ドルを突破した人が二十八名です。こうして苦労した人は一遍に出てくるようになるのです。一万二千ドルさえ突破すればいつでも、一年まで行かずに引っ張り出せるのです。四千ドルを三回やれば緑色のバッジをあげ……。七千ドルを二回目ですか、三回目ですか? (二回目になるのです)。七千ドルは二回目になると言えますが……。七千ドルを二回目にすればピンク色のバッジをあげます。一万ドルをやれば白いバッジを……。
ですからグリーンは地を象徴します。グリーンは何かといえば旧約時代を象徴し、ピンクは何かといえばイエス様の愛を象徴し、白は何かといえば勝利を象徴するのです。これは完成を象徴するというのです。また、グリーンは何かといえば万物を象徴するでしょう? そう、すべてのものが青いのです。地も青く、海も青く、全部青いのです。ピンクは人を象徴しますが、人は愛がなければなりません。それは魅力的な光だというのです。ですから大概、ピンクの色を基盤にして、すべての花が咲くのです、濃く、薄く。
その次に白は何かといえば、これは神様を象徴するのです。それで高い山を見れば、そこには青い木があり、その次には岩があり、その次には雪があるのです。すべてこれを象徴するのです。三段階を象徴するのです。木は蘇生を象徴し、岩は長成を象徴し、雪は完成を象徴するのです。すなわち雪は神様を象徴するというのです。そして、磐石はイエス様を象徴するというのです。白いものは神様を象徴するのです。その段階が分かりますか? (はい)。
皆さん、ファンダレイジングする時、一万二千ドルを直ちに達成し、グリーンバッジとピンクバッジと、ホワイトバッジを短期間で取りなさい。ホワイトバッジを受ければいつでも帰ってこられるのです。分かりますか、何のことか。ですから三カ月、その次には二カ月、その次には一カ月やって、六カ月かかってこそ帰ってくるというのです。それでこうやって七数ぶりに帰ってくるのです。グリーンは三カ月、ピンクは二カ月、ホワイトは一カ月、ですから六カ月です、六カ月。そうしてこそ帰ってくるのです。解放されるのです。分かりますか? (はい)。そうして七カ月ぶりに帰ってくるのです。何カ月ぶりに帰ってくるのですか? (七カ月)。(笑われる)
今からはそうなるのです。誰がどのぐらい長くいるのかということです。バッジをいくつ付けて……。ですからグリーンバッジはここにこうして付けるのです。(しぐさをされる) 神山! (はい)。バッジを付けてあげる時は、一番できない人はグリーンで、その次はピンク……。
そして十二名を伝道するのに、その伝道バッジも作るのです。十二名はグリーンバッジで、その次には七十二名はピンクバッジで、百二十名はホワイトバッジです。なぜそうかといえば、イエス様の十二弟子、七十二門徒です。それから復活すれば百二十門徒……。こうなるのです。そうでしょう? それが目標なのです。
そうしてすべてパスしてこそ神学校にも行き、その次は責任者にもなるのです。今後ファンダレイジング・チームリーダーも、それをパスした人たちがやるのです。そして祝福も受けるのです。では皆さん、歩いて行くのですか、駆けて行くのですか、走って行くのですか、飛んで行くのですか? (飛んで行きます)。お尻が重いのに? (いいえ)。持ち上げてけとばせというのです。責任者程度は持ち上げ、蹴れというのです。それでもかまいませんか? (はい)。「ファンダレイジング・チームリーダーが人を打つ」と言って不平を言えといいましたか? (笑われる) それは人権蹂躙ではありません。蕩減復帰には人権が通じないのです。それでもかまわないですか? (はい)。絶対そうしないですか? (九六―一二七)
五 信仰の息子、娘
五 信仰の息子、娘
P956
1 統一教会員には二つの部類の息子、娘がある統一教会の教会員には、息子、娘に二つの部類があります。信仰の息子、娘と、自分の息子、娘と。なぜそうなのかというのです。それを教会長たちも知らないのです。私がまた原理講義してあげないといけないのですね。(信仰の息子、娘を探しておいてこそ、自分の息子、娘を愛せるから……)。(笑い) それも一理ある意味をもった言葉です。
復帰の道は行って振り返るためには、蕩減するためには……。これは霊的な世界であり、これは天使世界の息子、娘です。堕落した世界は何かといえば、天使の息子の世界です。サタンの息子で、神様の裏切り者である天使の息子だというのです。
裏切った天使の息子が、そのまま神様のアダムの血族として帰ってくることはできないのです。ですから裏切らなかった天使の息子の格を……。この格が何かといえば、堕落前のアダムと同じです。その三人の息子が必要なのです。三人の天使長を必要とし、あるいは歴史過程においてアダムの家庭の三人の息子を必要とするのです。また、その次にアブラハム、イサク、ヤコブの三段階。すべてのものを代表した天使世界、このすべての万物世界に三段階を経ていかなければなりません。人間がすべての三数の中心です。そういう意味で、三人の信仰の息子は、天使世界と被造世界を代表した天の側に探し求められた天使圏です。ですから神様が主管できる天使たちだというのです。
アダムとエバを本来誰が教育しなければならないのかといえば、天使が教育しなければならないのです。神様が教育するよりも、成年になるまでは天使が保護して育成するのです。それと同じように、信仰の息子、娘は、その信仰の父母が天に帰ることができる位置に立てるよう、みなで協助してあげなければなりません。その信仰の息子、娘の協助を受け、天の前に祝福を受けて越えていく時に、信仰の父母を協助したという条件に従って越えていくというのです。分かりますか? (はい)。そうすることによって、天使世界の三人の天使が復帰されるのであり、アダムの三人の息子が復帰されるのであり、ノア家庭の三人の息子が復帰されるのであり、三段階全体を代表した位置から越えていく条件が成立するのです。
では、完全に一つになったというのは何かといえば、エデンの園で堕落しなかったアダムを中心にして、三人の天使が完全に一つになったということです。これが一つになって、神様の祝福圏内に越えていくのです。何のことか分かりますか? (はい)。
元来がそうではありませんか? 堕落する前のアダム・エバの前に、三人の天使長が完全に協助し、アダム・エバの結婚の日を天使長たちが待ち焦がれなければならなかったのと同じように、信仰の息子、娘がその自分の信仰の父母に対し、切実に祝福を受けることを願わなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。ところが天使長が失敗することによって、天使長たちがみな引っかかったのです。
ですから信仰の息子、娘が実体をもって協助することによって、肉界と霊界に引っかかった条件を蕩減するのです。ですから信仰の父母と信仰の息子、娘は、堕落した世界の父母よりも心情が高くなければならないのです。分かりますか、何のことか? (はい)。堕落した世界の父子関係よりも心情が低くなる時は、天の側に立てないのです。堕落した世界の父子関係以上の位置へ出て一つになってこそ、天の祝福を受け継げる位置へ越えていくのです。
こうして祝福を受けたのちに自分の息子、娘が生まれ、父母が愛しても、サタン世界から蕩減条件をかけて讒訴できないのです。それが原理です。分かりますか? (はい)。堕落しなかったならば、アダム・エバを中心にして天使世界が一つになったのです。肉界や霊界が完全に一つになったので、一つになったその位置において、祝福を受けたアダムとエバの位置に出る時、サタン世界は完全になくなるのです。(一二七―五二)
2 信仰の息子、娘が必要な理由
こういう原則があるので、信仰の息子、娘を通じて堕落した世界を救うことができるのです。サタン世界を救えるというのです。ですから新しく教会に入ってきた人たちは、全部信仰の息子、娘が必要です。この信仰の息子、娘が必要なので、サタン世界へ行って探してこなければならないのです。
では、誰が探してこなければならないのですか? アダムとなり得る人、エバとなり得る人が探してこなければなりません。誰がこれを失ってしまったのですか? アダム・エバが失ったというのです。分かりますか? (はい)。
信仰の息子、娘を立てることによって、アダムの位置へ帰ることができる道が求められるという原則があるので、信仰の息子と一つにならなければなりません。一つになったのちは、サタン世界から越えてきたので神様の公認を受けなければなりません。そうしてサタン世界に行って、また、信仰の息子、娘を探すことによってサタン世界を完全に復帰でき、サタンを完全に地上から実体的に消滅させることができるのです。ですから信仰の息子、娘というのは絶対要件だというのです。ですから三人の息子、娘がいなければ祝福を受けられないし、結婚生活もできないのです。そうですか? (はい)。
第一に何かといえば、堕落した天使長の位置を復帰するためです。天使長は堕落しなかったアダムと完全に一つになり、祝福の日を願って祝福を受けなければならなかったのに祝福を受けられなかったので、これを蕩減復帰するためにその基準を立てようとすると、信仰の息子という条件のもとで三者が完全に一つにならなければならないのです。信仰の父母を、信仰の息子、娘たちが自分の世の中の父母よりもっと愛さなければなりません。そうしなければなりません。そういう心情的連帯が結ばれなくては、サタン世界を越えることはできないのです。それが一つです。
その次、第二は何かといえば、サタン世界を復帰するために絶対的に必要です。自分が信仰の息子、娘になっているけれども、自分にも信仰の息子、娘がいなければ復帰できないのです。自分がアダムの位置にいても、堕落した位置にいるからです。私はどうやって復帰されるのかというのです。復帰される基盤がありませんから、信仰の父母についていってはならないのです。信仰の子女の位置を越えなければなりません。そして、天使長の位置からアダムの位置へ来てアダム・エバが失敗した要件を再び繰り返し、解いていかなければならないので、自分も信仰の息子、娘の三人を探さなければならないのです。
ここで自分はアダムの位置です。堕落しなかったアダムの位置と、堕落しなかったエバの位置で、完全に三天使と一つになった条件を神様の前に絶対的につくらなければなりません。ですから信仰の父母を絶対視しなければならないというのです。そうして完全に一つになって、神様の前に愛を受け、祝福を受けることができるようになる時、自分も越えていくのです。
そうして越えていき、三天使と一つになった位置で、アダム・エバが本来受ける祝福を失ったものを再び蕩減しなければなりません。サタン世界から求めてきて、失った本然のアダム・エバの基準を蕩減し、乗り越えなければならないのです。それ以上の位置に乗り越えるようになる時、初めてその信仰の父母が祝福を受けられる位置へ出られるというのです。
ですから、信仰の息子、娘三人がいなければ絶対に祝福を受けることがどうなのですか? (受けられない)。確かですか? (はい)。アダム・エバが堕落し、三人の息子を連れて落ちていったため、三人の息子、娘がいなければならないので、ノアの家庭に三人の息子がいました。ですから八人の家族になったのです。ですからイエス様にも三人の弟子がいたのです。そしてその相対が来れば八人の家族になるのです。相対理想をなせなかったので、イエス様も死んだのです。
ですからあの世へ行って再び来る時は新郎としてやって来て、相対理想を成して八人家族の家庭を編成し、地上に顕現しなければ、本然のアダム・エバ家庭の基準を求められないというのです。理論がぴしっと合っているでしょう? (はい)。ですから信仰の息子は絶対必要だというのです。(一二七―五四)
3 信仰の息子、娘と直系の子女
信仰の父母さえいればいいのではありません。信仰の息子、娘は、また信仰の父母にならなければならないのです。統一教会の教会員になったといっても、血統は堕落圏内にあるのです。違いますか? (そうです)。ですから自分が同じように三天使を支配し、越えていかなければなりません。そうするには、一つになれるよう教育しなければならないのです。完全に立てられるよう、自分の父母、兄弟より愛せる位置に立たなくては、復帰の基準を立てることができないというのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。
安養教域長、どうですか? (はい、分かります)。ああ、この人たちは今までそれを尋ねなかったのではないですか? 統一教会の信仰の息子、娘たちがなぜ必要か、尋ねてもみなかったのです。これを知らなければ、サタン世界と別れることはできません。ですから統一教会は絶対的に必要なものが何ですか? (信仰の息子、娘)。
信仰の息子、娘たちが完全に一つになって、「やあ、アダムとエバが夫婦になって赤ん坊を生んだらいいです。早く生んでください」と言いながら、赤ん坊が胎中にいる時から拍手をし、全部準備し、そうしなければならないのです。そのすべての準備は誰がするのですか? アダムがするのではありません。天使長たち、信仰の息子、娘たちがしてあげるのです。イエス様の誕生時に東方の博士三人が来て敬拝したのも、信仰の息子、娘の代表として、歴史時代を代表してそうしたのです。何のことか分かりますか? (はい)。
皆さんもそれと同じように、信仰の父母が真なる天の愛の圏内で祝福を受けた、そういう夫婦となって、そこで息子、娘を生むことを切に願わなければならないのです。こうして信仰の父母が生んだその赤ん坊を、「やあ、私の愛する者よ」と言いながら愛したあとでこそ、天使として愛を受けるのです。分かりますか? (はい)。
その信仰の息子、娘が、自分の息子、娘を愛さなければなりません。信仰の息子、娘、天使が、アダム・エバを信仰の祖先として侍らなければならないのです。自分の息子、娘を本当に愛するようになる時、その自分の直系の息子、娘を愛するので、その時にこそ、信仰の息子、娘として愛を……。蕩減復帰原理は意地悪でしょう? それは理論的です。分かりますか、何のことか。(はい)。
ですから、信仰の息子、娘になった人は、信仰の父母が息子、娘を生むとすると、アダムが息子、娘を生んだのと同じように、天使長の立場で侍らなければなりません。そうしてこそ、その父母が「お前は今や祝福を受けることを私が推薦する」と、こうなるのです。「私たちの息子、娘を愛したので……」と言うのです。そうなれば養子になります。血統が違うのです。直系の息子、娘を愛したので、その息子と一つになった位置に立つことによって、初めて祝福の場に引き入れることができるというのです。そのままではいけないのです。双子のように、祝福を受けた信仰の父母の息子、娘を、胎中から愛さなければならないのです。
神様の愛を中心にして、信仰の父母の息子、娘を胎中から愛したので、心情的基準で胎中から生まれたのです。そして生まれるのに、自分が長子として先に生まれ、エバの胎中から祝福を受けて生まれた赤ん坊は二番目でした。横から見ると信仰の息子がまず生まれたのでカインの立場、兄さんの位置ですが、弟の位置に出てくるアダムの息子が本当の息子だというのです。ですから絶対的に侍ってこそ、ここからサタンの長子権のすべてのものが取り消され、天の圏内の次子が長子として完全に再出発するようになるのです。そうすればきれいに清算されるでしょう? (はい)。
ですから信仰の父母が赤ん坊を生んだならば、全部育てなければなりません。おぶって、「やあやあ、私の生きる道よ」と言いながらです。それが自分が生きる道なのです。「あなたは私の生命の救世主であり、私が祝福を受けられるようにできる真なる本体です」と言わなければなりません。信仰の息子は血統が違うのです。直系の息子がいるのに、どうやって祝福の場へ行くことができるのですか? 養子は入れないのです。
ですから胎中時代から愛し、完全に愛で一体とならなければなりません。そうして、生まれるのは天使がまず生まれたのですが、胎中から生まれるアダムを天使長が協助して生まれるようにするのと同じように、再創造するその過程を協助しなければならないのです。その過程を全部経るのです。
そうして完全に一つになったという基準から育て、その赤ん坊を最高の長子になるようにしなければなりません。そうしてその子がもっと大きくなって、「私を胎中から愛したので、私と一緒に祝福の場所に同参してください」と言う、そういう依頼を受けてこそ、信仰の息子、娘が祝福の場へ出ることができるのです。これが原理の根本道理です。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。
そしてアダムの息子も同じように、それが必要なのです。祝福を受けた父母が赤ん坊を生むのを待ち、また育ててあげ、このようにできる天使長が必要だというのです。難しいことを実際に蕩減する意味で、信仰の息子は絶対必要だということをはっきり知らなければならないのです。
さあ、では信仰の息子、娘とは何か分かりますか? (はい)。ですからその意味は三つあるのです。第一は天使長復帰の必要性であり、第二はサタン世界全体復帰であり、第三は自分が祝福を受けられる息子の位置に行くためです。ですから信仰の息子、娘は、信仰の父母が直系の息子、娘を生んで接ぎ木しなければなりません。誰に接ぎ木しなければならないのかといえば、自分の信仰の父母が生んだ直系の息子、娘と共に接ぎ木しなければならないのです。分かりますか? これは信仰の母に接ぎ木しなければならないのでもなく、信仰の父に接ぎ木するのでもありません。息子だから、息子同士接ぎ木しなければなりません。(一二七―五六)
六 教育と修練
六 教育と修練
P964
1 教育の必要性悪に接することができる要因を多くもっているのか、善に接することができる要因を多くもっているのかということを見るときに、全体が悪に接する要因に囲まれています。
悪を行う道においては教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行けるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても誰でも行けるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか? 自らそうなったので、今日、人倫道徳を中心にして良心の標準の前に選り分けて行けと教育するのです。
何を中心にした教育ですか? 善を中心にして、良心を中心にして教育をしたにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどのくらいいるのですか? 悪なることは、学ばなくても誰でもできるのです。誰でもみな満点を取れるのです。(三六―五七)
ですから教育が必要なのです。先生が夜昼二十四時間、時間さえあれば教育したように、すがり、涙を流し、昼食、夕食を抜いてみ言を語るのに酔って、夜を徹する、そういうことをせよというのです。先生が今までここでしている様子で分かりますか? 私がどこかへ出かけない時は、ここにいながら何をしますか? 一人が尋ねてくれば、一人に対して話をしてあげるではないですか? 一生の間そのように生きたではないですか? いつも今に精神を投入するのです。
そう、教育するのです。分かりますか? 教育しておけば滅びることはありません。教育は間接的準備です。間接的準備は直接的準備のためのものです。間接的準備をしておけば、直接的準備に転換することは私がやるので、皆さんは間接的準備だけしておきなさいというのです。(一四九―二〇五)
しっかりした鉄があれば、鍛冶屋がしきりに打たなければなりません。夜も打ち、昼も打たなければならないのですが、なぜ夜昼打たなければならないのですか? 春夏秋冬の季節を通過できる条件を立てるためです。朝は春で、昼は夏で、夕は秋で、夜は冬に該当するので、春夏秋冬です。
一年中、少年時代から青年時代を経て、壮年時代を過ぎ、老年時代を越えなければならないのです。鉄は長く打てば打つほど、一生打てば打つほど良い鉄になりませんか? (なります)。同じ道理ではありませんか? 打てというのです。あらん限りの力で打てというのです。ひっくり返して打ち、反対にひっくり返して広げ、縮めて、こうすれば……。それを知らない人は、「何だ、いつかはこうしろと言ったのに、きょうはこうせよと言い、あれこれと言う先生はもういい」と、こうも言えるのです。神様を見ると、事実「ああだこうだ」と言うのです。それはなぜそうですか? それは捨てる時だからです。一度にできない時は何も使えないのです。
きのうも工場長が見つめる中で、ビルを建てている所へ行って、そこで鉄について話すのをずっと聞きました。鉄の強度がどう違うかというとき、鉄を引っ張って広げる力と、押してこのように腹が出るようにする力が三十倍の差があるといいます。ちょっと見ると同じようでしょう? それを見ると神様が本当に立派だというのです。高層建築物を建てるとき、こう建てば、一対一となれば大変なことになります。そうなれば高層建築はできないというのです。細いがこれを立てておけば、そこに三十倍を加えてやっとこれが崩れるので、二十九倍加えても崩れないということになります。ですから鉄筋を横に立てるのではなく直線に……。
それと同じように、統一教会の教会員たちを全部、自分勝手になったものを打って最高にしっかりとつくらなければならないのです。そうして何をするのですか? 新しい高層建築物を建てるために投入しなければなりません。建てるのにそれが曲がりくねっていてはいけません。まっすぐに建てなければなりません。そうでなければ、それが丸くならなければなりません。それが全体を中心としては張力が十分でなければなりません。こうしておいてこそ、礎石を置くことができます。そうではありませんか? その礎石を置く時どうやって置くのかといえば、四角に入れる人はいません。力学的な力の作用を見れば、これは四十五度に通じるのでこういう力が通じるので、この原則に従うのです。ですから円形に従って、その原則によって礎石を立て、建物を建てるのではありませんか? そうでしょう? その横のものは、あってもなくても同じことです。その柱さえ受け止めてあげ、円形をつくっておけば、横のものは何も力を受けないというのです。(六四―一八三)
2 修練を受ける目的
皆さんが修練を受けるのは、皆さんの前にいる怨讐を追い払い、怨讐を審判するためです。そうするためにはまず第一にみ言を勉強しなければなりません。このみ言はどこから出たのですか? 創造当時の心情から復帰の路程を経て出てきたのです。この事実を忘れてはなりません。み言を備えなくては実体を立てられないし、実体を立てられないでは心情を立てられないので、み言を聞く時は体で聞き、心で聞き、心情で聞かなければなりません。
修練生には、歴史始まって以来なかった、ものすごい肉体的訓練も必要です。それをみ言と心情で耐え、打ち克たなければなりません。皆さんはアダムを学び、モーセを学び、イエス様を学び、先生を学んで、アダムやノア、アブラハム、モーセ、イエス様、先生の立場に立ってみなければならないし、み言と体と心が一つになるための内的な闘いで勝利すれば、神様は皆さんを公認せざるを得ません。私たちはいつも、「一番難しいことを私に命じてください」と言えなければなりません。(一一―一五九)
3 修練の過程と目標
統一教会は、今から何をするのですか? 統一教会に入ってくる人々は修練過程を経るのです。修練過程はどうやって経るのかといえば、二日修練会です。その次には? (七日修練会)。七日修練会です。その次には? (二十一日修練会)。二十一日修練会。その次には? (四十日修練会)。四十日修練会。ですから七十日間の修練が必要です。では、その七十日間修練が一体全体何なのですか? 無知によって堕落した人々が、知ることによって失ったものを復帰できるというのです。また、今までいい加減に生きたけれども、この期間に自分の習慣的環境を全部清算するのです。
では二日修練会とは何ですか? 今までもっていた思想観念を、反対にしていたその方向を新しい方向へ転換するのです。これは復帰摂理の段階でいえば、復帰基台摂理と同じだというのです。ですから今まで混乱した世間で生きた人は、統一教会の二日修練会だけは自ら行かなければならないというのです。思想的緩衝時代に入っていくのです。それで第一番目に二日修練会は、自分の立場を自覚させることです。二日修練会を受けるようになれば既成観念がどうで、統一教会の観念がどうで「これはいいな。今まで私が間違っていたな」と思って、もっていた観念をチェンジすることができるのです。
その次、七日修練会は何なのですか? 七日修練会からは蘇生時代に入るのです。旧約時代完成摂理圏に該当するのです。こうして、旧約時代完成圏に入ることによって何になるのですか? 新約時代のメシヤを迎えにいかなければならないと考えるのです。分かりますか、何のことか。ですから七日修練会を受けるのは旧約時代に該当するのであり、蘇生人格を解放する期間だと、このように見るのです。
ですから七日修練会を受けるようになれば、観念的チェンジから一身的チェンジになります。「やあ、み言を聞いてみると、私も今聖別された体になり、サタンに勝たなければならない。サタン世界から脱け出さなければならないな!」と思いながら、自分の観念を解消するのです。また、自分が決心をすることにおいては、一週間もすれば大概方向性をとらえるようになります。
そして七日修練会では、七日過程では再び原理過程の七数を完成しなければなりません。六日で人を創造したからです。神様を絶対に認定できる――サタンを絶対に認定するのではありません――神様の国と神様の民としての「私」が確定されなければなりません。神様の国と神様の民としての「私」が確定されなければなりません。神様の民としての私になれば、その次には神様の人としての私となり、神様の愛として、私の責任を完遂しなければなりません。
その次に二十一日修練会は何ですか? それは新約時代に該当するのです。そうすることによって、イエス様を救世主として侍ることができなかったのですが、救世主として侍ることのできる人にならなければなりません。すなわち、実体的メシヤの前に、洗礼ヨハネ的人格を完成するのです。分かりますか、何のことか。すなわち、それは、養子の資格を完成することです。
この二十一日修練会が峠ですが、二十一日修練会さえ越えれば食口になるのです。「献身するな」と言ってもするのです。ですから「修練会! 修練会! 修練会!」これが頭にびしっと詰まっていなければなりません。
その次に四十日修練会を受ければ、成約時代に該当する位置に立つので、接ぎ木する位置へ入るのです。分かりますか? メシヤを迎えて一つになって入っていく位置なので、初めて天国の代を継ぐことができる息子の位置に接ぎ木されて入っていくのです。こうして、堕落しないアダムよりも高い位置へ上っていく、神様の息子の資格を引き継ぐのです。
普通四十日修練会さえ受けるようになれば、「ああ、どうせ行くなら責任者になって蕩減復帰の数の道を行かないといけないな。ホーム・チャーチをしなければならないな」とこうなるのです。責任者はこういう道を行かなければならないのです。こういう訓練をさせておいて……。その前には絶対に仕事を命じてはいけません。仕事を命ずるなら伝道をさせなさい。こうして四十日四十数、四数を中心にしてサタンと闘える訓練を全部経なければならないのです。
そうして、心情基準がサタン世界のその誰よりも高くて、天と関係した心情基準をサタンが公認できる立場から出ていかなければなりません。自分に所属したすべての所有と自分の心情基準が、天と関係をもたなければなりません。今までは、堕落してサタンを中心にしてサタンの所有、サタンの体、サタンの心情を中心にしてこうなったが、神様を中心にして神様の心情、神様の体、神様の所有に、次第に結ばれて蕩減しなければなりません。そして神様の前にささげなければなりません。それは自分のものではありません。所有というものが、本来神様のものになるようになっているのであって、自分のものになれないというのです。
四十日修練会まで受ければ、大概自分がみ旨のために生命を懸ける覚悟をする段階になります。一週間修練会までは原理を聞かせ、自分の過去を清算し、み旨の前に仕事をしなければならないと決心させるのです。そして一週間の修練中に、献身的に歩むことを決意するように目標をぴしっと定めたのです。ですから過ぎし日のすべてのことを清算できるよう、全部面接し、「清算して献身的に歩みますか?」と言えば決意しますから、決意したのちに、二十一日修練会では何をするのですか? その時は「み旨のために死ねるか」ということが問題になります。「み旨のために一生をささげられるのか」という問題を中心にして教育するのです。そうして二十一日修練会が終わることによって、自分が神様の息子であることを自覚させるのです。こういう基準まで引き上げるのです。
その次に四十日修練会は何をするのかといえば、「お一人であられる神様の代身者になろう」と言えば、それこそ完全に出て闘わなければならないというのです。神様が復帰摂理をするために、今まで歴史時代の先頭に立って闘ってこられたのと同じように、すべての責任を負われたのと同じように、四十日修練の時は、自分が神様の代身者だということを自覚するように修練しようというのです。すべての過程をそのように組むのです。ですから公式化、教育制度において、公式をつくろうというのです。いろいろなことをしてみて、一番良い方法を中心として公式化させるのです。東部の教育制度や西部の教育制度、その次にはアメリカ全州の教育制度も全部同じです。
こうして食口修練は全部で七十日なのです。二十一日修練と四十日修練をすれば六十一日になり、その次には七日修練をすれば六十八日、そこに二日修練を合わせると全部で七十日になります。
七十日修練を教会でしてあげなければ、霊界の讒訴を受けます。七十日修練さえしてあげれば、統一教会の一般的歴史を大概概括的に知るようになるのです。原理の深さも知るようになり、統一教会の動きも知るようになります。「この道を行くのにどのように行くべきか」ということを自ら知るようになるのです。そうなれば、大概統一教会へ入ってみ言を聞き、内容を知らないという立場には立てないのです。内容を知っているといえる人をつくるのです。そうして終われば、教会は責任をすべて果たしたのです。教会としての責任を果たしたというのです。
教会が責任を果たしたというのは、教会の責任者たちが、責任者として、自分の所属内にいる人々に対し――霊的世界で見る時――条件に引っかからないようにしたということです。そう、原理的数字が七数です。神様と一致するためには、必ず七数を越えていかなければならないのです。七数は完成数です。ですからそういう観点から七十日は責任をもたなければならないのです。四十日と二十一日修練をするので六十一日、七日と二日を合わせるので? (七十日です)。二日修練会をするようになれば、大体、話は全部できます。
そして私が米国でどうやったかといえば、土曜日と日曜日にしました。西欧社会は土曜日と日曜日は休むので、その期間にはどうやってでも伝道して修練会をするのです。韓国にも明洞に講義所があったでしょう? (はい)。食口たちを動員し、行き交う人を伝道して教育するのです。そして二日だけ教育すれば、大概この道は普通の道ではないということを知り、方向をとらえ始めます。それで二日修練会がぱっと終わると、その次にはすぐ七日修練会に入れなければなりません。七日修練会さえ聞くようになれば、大概この道を行かなければならないと考えるのです。既成教会の信徒たちが七日だけ聞けば、大きな葛藤が起こります。「私は誤って信じていたな」と思って、心情が複雑になります。
そうして二十一日修練会に入れなければならないのです。一次に原理を聞くようになると整備され、二次に修練を受ければ昔のことは過ぎ去って、新しい観が生じます。その次に三次に聞けば決心するのです。「この道を行かなければならない」という決心をします。四十日になれば、自分がサタン分立をして天の側に立つ者となることによって、蕩減復帰に入るようになることを知ります。
そうなれば、出て行って七年路程を行かなければならないのです。七十日修練を受けて、七年路程を行かなければならないのです。これは公式です。行かなければ駄目なのです。そういう観点において、そういう観が今、皆さん責任者たちと統一教会員にはできていないのです。ですから既成教会を何だかんだと言っては駄目なのです。必ず七年路程を行かなければなりません。今後も行かなければならないのです。(七五―九四、九九―二六七、一〇七―二四一、一七二―四七から総合)
第五節 草創期にあったこと ――錚々たる方々――
第五節 草創期にあったこと ――錚々たる方々――
P974
一 お父様にあったこと
1 野牧(地名)修練会であったこと
野牧修練会での話を一つします。貯水池に蓮があったのですが、とげがあって恐ろしい姿をしていました。その真っ青なとげに毒があり、ちょっと刺しても全部膿むのです。こういう所に、男性、女性を問わず全部入って魚捕りをするのですが、先生が先頭に立って全部引っ張って入りました。ところが、「やあ、あそこにどうやって入るのか。風邪を引いたらどうする」と言う人がいます。ですから、「お前の好きなようにしろ」と言いました。そう言った人を、今も記憶しています。名前は言いません。その人に野牧でのことが思い出されるかと尋ねると、「もう一度そういう時があればいい」と言います。
しかし既に時は過ぎ去りました。もう十回でなく、百回やって蕩減すると言っても、本物にはなりません。本物は一つです。二つではありません。いくら気勢のいい人も、野牧修練会の話さえすれば、良心があって恥ずかしがります。良心は本当に良く、素晴らしいものです。恥ずかしいことをすべて知っているからです。その恥ずかしさが救いです。(三六―三六)
2 地方巡回時にあったこと
今回の期間にずっと巡回したので、声も大いにかれました。行く先々で約三時間、四時間以上み言を語り、初めて会った食口たちと夜が更けるのも忘れて話をしたからです。
一度はこういうことがありました。夜九時に三陟(江原道にある地名)に到着するようになっていたのに、途中で車が故障し、その日の夜が過ぎ、次の日の明け方の四時四十分に到着しました。ですから参席した食口たちがどれほど待ったでしょうか? とても疲れてしまったのです。明け方に集まりをもったのですが、東海岸なので警備が厳しく、長く話もできませんでした。一時間ほど話し、原州を経て春川に行き、きょうの朝皆さんに会うようになったのです。
そういうことがある時、先生が何を考え、どういう祈祷をしたと思いますか? 今年は青年食口たちが、先生の命令を受けて伝道に出ているし、神様のみ旨を共同の使命として感じ、成し遂げるために苦労しています。事実は本当に難しいこともありました。そういうことをおもんぱかりながら、「皆さんの困難を身代わりするために祈祷するので、これを知ってほしい」という祈祷をしました。ですから外地へ出て、一晩も眠れませんでした。(一一―一七九)
3 先生の監獄の同僚
私が統一教会を中心にして出会った人々は、全部難しい位置で育ててきました。一番難しい位置で育ててきました。それが貴いというのです。自分たちがパンのかけら一つでもおいしいものがあると、それを食べないで先生にあげようと包んできて待つことができる、こういう環境まで越えてこなければならないのです。涙をためて慰労できる、そういう場の因縁がなければなりません。そういう友達がいなければならないのです。
皆さんも、牧師を中心にして一回そうやってみなさいというのです。自分の教会の教会員が千名いれば、その千名の教会員の中で、牧師のために最も忠誠を尽くし、最もよく侍る人の三倍せよというのです。それを研究せよというのです。先生はどの監獄でもそういう友達をもっていました。ですから監獄から出る時、自分の妻がいて、母がいて、親戚がいたけれど、あいさつだけして、その家庭に残っていないで私についてきたのです。私についてきたというのです。
4 道で出会った病にかかった人
皆さんは人を選んで伝道してはなりません。できの悪い人に対しても、世界にないような同情をすることによって心情的に高い場に上るのです。私が今も忘れられないことが何かといえば、鷺梁津(ソウル市内の地名)駅へ行けば記憶が鮮やかです。私は黒石洞で暮らしたのですが、上道洞を越えた所に松がうっそうと茂り、その向こうに草花を育てる日本式の家がありました。そちらにずっと回っていくと田があって、その向こうに村があったのですが、そこに開拓伝道に通った家がありました。私が一度は会った人ですが、その道で病にかかっていました。その時が三月末ごろでした。新学期で開校し学費を持ってくる時でしたが、見るとその人は息子もいないかわいそうな人でした。天安に自分の娘の家があるといって、学費を全部はたいて、旅費と病気を治療することまですべてしてあげました。それを見れば、その人の先祖は悪い人ではありません。私はその時、その場を離れられませんでした。背を向けられないのです。(五六―三九)
二 牧会者たちにあったこと
二 牧会者たちにあったこと
P977
1 ある牧会者の引っ越しの経歴以前、ある地域長から、地域長生活をしながら十七回も引っ越しをしたという話を聞きました。十七回も引っ越しをしたので、「もう引っ越しだ」と言うと、「まただな」と言うのです。そんな具合なので、服には穴が開くだけ開いて、顔を上げて出られないほどみっともない様子になったというのです。それは良くできたのですか、できなかったのですか? それでも死ぬなというのです。倒れても死ぬなというのです。死んではおしまいです。倒れても恨むなというのです。「神様、ぐっすり眠らせてください」と言って倒れなければなりません。そうかといって、死ねという話ではありません。
ヤコブがこのように難しい立場に対している時、天の使者たちが上ったり下りたりしたのであって、気勢が堂々とし希望があふれる場にいる時に、天の使者たちが上ったり下りたりしたと思いますか? 死ぬような場に至った時……。行く所がなく、石の枕を敷いて眠る身がどれほど惨めだったかというのです。皆さんみたいなら、祝福も何も、私がなぜそうしたのかと思うでしょう。そして統一教会の霊神(注:霊験あらたかな神)になろうとするでしょう。(笑い) (三〇―三四五)
2 牧会者たちの腹の減る生活
今日、地方にいる地域長が、御飯を抜く場合もあるということを私は知っています。祈祷の中で、誰が飢えているということを見ています。しかしそれについて何も言いません。時が近づいてくるにつれて、統一教会の思想を正しくもった人が誰かということを見たいのです。ですから皆さんは新しい決意をしなければなりません。ボーッとしてはいけないというのです。
統一教会の思想は、天から引き継いだ栄光ある伝統的な思想です。昔から、み旨を成そうと数多い先祖たちが死を恐れず、受難の道を前にしながら天を中心にして引き継いだ、そのみ旨です。それは歴史時代を中心にして見ても、歴史が過ぎたとしても、その本質には変わりはないのです。変わってはならないのです。(四三―五六)
今、地方教会が難しいことを知っています。ある教会の引導者は飢えているということも、私はよく知っています。飢えよ、というのです。国を生かすためには、善なる群れが地獄の生活をしなければなりません。そうしてこそ、悪党のような群れを悔い改めさせることができるのです。そういうことがなくてはなりません。これが先生の主義です。ですから今もそういう生活をしているのです。
統一教会はお金がありません。お金がなければ日本から持ってくることもできるし、世界各国から持ってくることもできるではないかというかもしれません。その言葉は合ってはいます。しかしそうなれば韓国が負債を負う立場になります。今からは、お金がなくても、お金がないという話をやめなさいというのです。
「両班は、凍って死んでも、もみがらを焼く火にはあたらない」と言います。私がお金がなくて、負債を負ってでも人を助けてあげるのに、誰が負債を負ったと思いますか? お金はないが、やりたいとおりにやるというのです。では皆さんはこれに賛同しますか、しませんか? (します)。女性たちはどうですか? (します)。するなら、どの程度しますか? 大韓民国だけを愛するのですか、世界を愛するのですか? (世界です)。世界のための道を行こうとすれば、元手がなければなりません。元手もなくて、自分の手で一家をなしますか? そういう時は、皆さんが先頭に立っていかなければなりません。私が皆さんを売るとすれば、売られていきますか、売られていきませんか? 売られていく自信がありますか、ありませんか? (あります)。では、私が売ってしまうと言えば、売られていかなければならないのです。これがすなわち公的な道です。(三五―一四八)
3 学生たちの弁当で食事を間に合わせた事情
見なさい。韓国で開拓地へ出て伝道したその時は、お金を一日稼いで一日生きるのが難しかったのです。一日稼いで一食食べて生きるのが難しかったのです。若い人たちが出て歩いていて、道を行くのにこうしてつまずくことがいくらでもあるのです。そういうことをしながら、開拓時代に伝道師たちが責任者になってある村に開拓に出たのですが、食べる物はなく、仕事はできるが仕事をすれば「ここに仕事をしに来た」と言って村の中で迫害がさらに加わるので、仕方なく十里の道以上行って仕事をした人たちがたくさんいたということを知らなければなりません。
ですからついてくる食口たちが全部……。責任者が本部からお金を持ってくるのではなく、そういう事情をもって開拓伝道するのです。そうしながらも、自分の事情が死ぬなら死ぬのであって、絶対話をしませんからね。そうやったのだから、できるのかというのです。こうして六カ月が過ぎ、一年が過ぎて、分かってからはすがりついて痛哭するのです。
そして、弁当を持ってきて食べさせる運動が起こったのです。ですから、その御飯を食べなければならない指導者の心がどれほど悲惨ですか? また、御飯をあげていく学生が学校へ行って御飯を抜くことを、どれほど思うでしょうか? こういう中で、互いにそれを克服しながら、「我々は死んだとしてもみ旨を成さん」と言って、心情的連帯感に浸っていたのです。
そうやって学校へ行く場合は……。きのうまで、統一教会に入る前までは誰よりも良い弁当を持って通っていた人々が、統一教会へ入ってからは毎日弁当を持たないで来て、昼食の時には一人で校庭にこっそり隠れているのを友達に発見されたりしたというのです。なぜそうするかというと、自分の父母に知られたなら大変なことになるからです。一回、二回でなく、続けてそういうことをしなければならないので、信じられないという友達がお母さんの所へ行って、「あなたの息子、娘たちはちゃんと昼食を持って通っていたのに、このごろ統一教会へ入ってからは昼食も持たせてあげないなんて、なぜそんなことをするのか? 統一教会の人々はそれこそ人間ではないのか? 息子は息子としての扱いをし、娘は娘としての扱いをすべきなのになぜそうなのか?」と言って抗議するということが起こるのです。ですからその親が息子、娘たちに、「お前、学校で弁当を食べないそうだがどうなっているのか?」と尋ねるようになるのです。尋ねれば事実を話さざるを得ないのです。
父母たちがこの事実を知って、「こいつら! 統一教会の教会員たちは全部息子、娘の弁当を奪って食べ、搾取して食べ、血と肉をしゃぶる吸血鬼だ」と言って反対をしたのです。そういうことが全国的にたくさんありました。ですから統一教会員が来るといえば、息子、娘たちの血を吸う人が来るといって、町内で群れをつくり、その人をみんなで打ったりありとあらゆることをしたのです。さらに全国のキリスト教徒たちは、神様の羊を奪っていく狼の群れが入ってくるといって、全部組になってありとあらゆることをしたのです、ありとあらゆることを。そういう環境で彼らを指導していた統一教会の先生の心はどうだったでしょうか?
さあ、ですから、「彼らが十年後にどうなることか?」ということを、統一教会の指導者なら考えないでしょうか? こうして私の力でお金を稼いだのです。私が工場を立てれば二十四時間工場へ行って仕事もし、私のアイデアも提供し、全部私の手で……。そうしながら将来の基盤を準備しなければならなかったので、私が経済問題に対して基盤を整えたのです。(九四―二三一)
4 初期開拓当時の難しかった生活
私たちが韓国で開拓する時は、仕事をしようにもする所がなかったのです。そうして飢えるのが日常のことだったのです。麦の粉や米の粉を買って、コップに水を汲んでそれを一杯ずつ飲み、四十日伝道をしたことを知らなければなりません。それも思いのまま、あるだけ飲みますか? 違います。四十日断食する訓練だと思ってやったのです。そういう開拓をして……。
ですから労働でもしなければならないのに、ある地方の責任者として行った人が、その部落周辺に行って労働をし、そうすると威信が立たないのでその地方では労働できないのです。ですから労働をしようと思うなら、明け方には起きて五時間歩かなければならないのです。そうやって仕事をし、夜には帰ってこなければなりません。二十時間内でそういうことをしなければならないのです。行くのに五時間、帰ってくるのに五時間かかる所へ行って労働しなければならないのです。そうすると一日の賃金が五百ウォンです。五百ウォン受け取って……。それは韓国で二食分にしかなりません。二食分です。分かりますか? 一日仕事をしたのがそうなのです。それは毎日労働してもやっていけないということです。ですから皆さんは、先輩たちが背後でどんな苦労をしたか話をしても分かりません。分からないのです。いくら話をしたところで理解できないのです。
さあ、例を挙げて話せば、み旨の仕事はしなければならないし、出て講演はしなければならないのですが、腹が減っていてできますか? ですから仕方なく、金持ちの家の前を通り過ぎると犬が水を飲んでいるので……。ここのように、犬が何かの肉を食べるのではないのです。とぎ水のようなものを飲むのに、その犬の耳を捕まえて、「お前には金持ちの主人がいるから、私がこれを奪って飲んでもお前は死なないではないか」、こう言って追い払い、その水をがぶ飲みしたのです。そうしながら仕事をしたことを知らなければなりません。皆さんはそういうことを知っていますか? 知りません。そういうことを、私はよく知っているのです。そういうことを目撃して……。目で見られず、胸が破裂しそうで話もできない、そういう情景をたくさん見て味わった人であることを知らなければなりません。
そういうことを味わわされるたびに、先生が経済力をもたなければならないと、どれほど……。私が短期間で経済力をもたないといけないと……。その基盤を整えるために、私が工場にどれほど情熱を注いだか知れません。誰もついてくることができないほど、熱心に働いた人間なのです。
皆さんは国家基準まで上るために苦労しますが、責任を負った私には今後に対する責任があるので、基盤を整えておいたのちの、皆さんに対する経済的な準備をしなければならないと思って、昼夜を分かたず努力したのです。(八九―二七八)
5 ある青年牧会者の講義
私たちの教会には逸話がたくさんあります。前に、ある地域長が反共講師として、ある地方へ行った時のことです。そこには村の有志たちがみな集まって、警察署長から郡守に至るまで、公務員たちは全部集まりました。ところが反共思想講座の責任をもった先生が来るといったのに、その先生は来ないで、髪ぼうぼうの独身の男がてくてく歩いてきたというのです。初めは講師のお使いだと思い、「お前さん、どこから来た? 講師の先生はいついらっしゃるのか?」と尋ねたというのです。ですからその講師はまごまごするほかありませんでした。「きょう、講師として統一教会の誰それが来るといったのに、どうなったのか」と尋ねるので、「自分がそうだ」と言ったというのです。そうすると、髪ぼうぼうの独身の男が講師であることを知らなかった彼らは、集まってひそひそ話したというのです。自分の息子の年ごろの幼い青年が講師だというのだから、気恥ずかしいことこの上なかったのです。
しかし、自分たちが公文で招請したので、壇に上げるしかありませんでした。そこで約二時間半、講演をしました。そうしたところ、彼らの目がひっくり返るのでした。(笑い) 反共講師である私たち地域長たちは、全部二十代の青年だったでしょう? こういう人たちが、郡守や警察署長の友達になったので、統一教会に入って最近このくらいなら出世したわけでしょう? 先生の言葉を聞いて行って、滅びたことがありますか? (一九―二一八)
6 開拓に出た統一教会のおばさんたち
今日の統一教会の皆さんは、生きてきた生活の方向が異なります。根本的に違います。「ために生きる」生活をしてきました。地方に出て開拓し、人ができないことを今までしてきました。一番初めはあざ笑いました。最初はあざ笑ったのです。何でもない者がやって来て、一カ月、二カ月、約一年やったところ、教会を造り、部落の若者たちを全部連れていくのです。五十名、六十名の村の未婚男女を集めるのです。そういうことに対して、最初は「変なやつがやって来て村を滅ぼす」と悪口を言われても、それで終わりませんでした。
学生たちを集めるものとばかり思ったのにそうではなく、その次におばさんからおじさんまで、村で賢い人々が全部入って、数が少しずついっぱいになったというのです。そうなった時、考えが変わるのです。感嘆しながら自分のことを考えるのです。「過去幼い時、私はこうだったのに。やあ! 今見ると立派だ」と言うのです。「立派な人を何カ月前までは私が追い出そうとしたんだなあ」と思いながら、そこで自ら反省し、自責するようになるのです。その反省する量が大きく、自責する深さが深いほど、それが尊敬度に変わるのです。尊敬度に変わり、順応できるたびに変わるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
小学校しか出ていないおばさんたちが田舎へ行って、教会を建て、一年、二年、三年、四年、一人でそこにすがって苦労しました。部落で今まで人ができないことをしたという事実は、その部落全体がいくら反対しても忘れようにも忘れられないのです。結局は自分たちより優れていることを知るようになります。
自分たちは妻と一緒に住み、家族と共に住みながら不平を言っていたのに、あの人たちは一人でやって来て寂しく暮らしながら、部落が反対し、全体が反対するにもかかわらず、それを消化していきながら一年、二年、三年を過ごしてきたという事実は、世間にないというのです。そこから感激が起こるのです。こうなれば、年取ったおじいさん、おばあさんから、おばさん、おじさん、村の青少年に至るまで、全部尊敬するようになります。そういう感動的な要件を残したのです。(一七二―九一)
三 草創期食口たちの姿
三 草創期食口たちの姿
P985
1 伝道地で慕わしい食口に出会った事情私たちは、食口を食口として慕うことを知る新しい春を迎えなければなりません。昔は伝道に出かけて自分が孤独でいるので、一人の寂しい食口を尋ねるために互いに五里の道を行き、途中で出会った事情も残っているではありませんか? その時は個人を選別していく時でしたが、今は国に向かって選別していかなければならない時なのです。こういう時においてそうしたい心があるなら、周辺にいる食口たちを、一度でなく十回でも尋ねていきたくてもがくことのできる心があってこそ、統一教会を中心にして正常な統一教会の食口の名前をもてるのです。
一つの面なら面を中心にしてそうしなければならないし、一つの道なら道を中心にしてそうしなければなりません。さらに自分の道だけ良くても駄目なのです。道全体が良くなるためには、全体の道の前に手本となり得ることをしなければなりません。その手本となるにあたっては、自分を中心としてなるのではないのです。家庭のみ旨と父母のみ心に従って手本とならなければならないのです。そうする所から、行けば行くほど輝くことができる孝子となるのです。(六〇―二九)
ここで教会員同士出会えば互いにうれしく、もっぱらここの責任者を中心にして互いが出会って夜を明かしながら……。昔はそうしたでしょう? 青坡洞本部でも、昔は二時、三時、四時まで眠らないのが普通でした。そのように訓練をしたのです。そうして先生がどこかに行くと、会いたくておばさんも泣き、老人も泣き、おばあさんも泣き、おじさんも泣き、娘も泣き、青年も泣いたのです。会いたくてです。太陽を見上げるようにです。太陽というのは松の芽も、白菜の芽も、大根の芽も、野いばらの花も、すべての花が見上げるのです。見上げるのは同じことなのです。
そういう運動が起こらなければなりません。このごろは教会員同士何だかんだと争い、既成教会と争い、謀略や中傷もしていますが、それではいけません。互いが会えばあげたくて、互いがためにしたくて、そうしなければなりません。どこが、そうなりましたか? (一二六―一九六)
私たちは何のために兄弟を捨てましたか? なぜ兄弟を捨てましたか? それよりもっと近くなれる兄弟の因縁が神様を中心にして私たちを尋ねてきたので、高次的な内容と高次的な価値基準が神様を中心として私たちを尋ねてきたので、私たちは今までのものを捨てて出会ったのです。より価値あるものを迎えるために出会ったので、ここから肉身の兄弟の情よりももっと強くならなければならないのではありませんか?
昔はそうだったのです。任地に出て伝道する時に、互いが甲・乙地域に離れていれば、出会って別れる時、会いたくて互いが送ってあげるためにあっちのほうまで行って、また送ってあげるために来て、行ったり来たりしながら夜を明かすこともありました。兄弟同士もそうなのです。弟が行く難しい道を心配しながら、食べる物があればそれを食べず、包んで五里の道を遠しとせず走り続けて持っていってあげたりしました。
ところが今統一教会の教会員同士はそうですか、そうではありませんか? 兄弟の情以上の情が皆さんの間で結ばれなくては天国へ行くことはできません。兄弟ではない兄弟たちが、兄弟の情以上の情を結び、父母ではない父母に父母以上に侍らなければなりません。それが統一教会員です。統一教会では真の父母、真の兄弟のことを話すでしょう? 私たちは真の父母、真の夫婦、真の兄弟を中心にして、真なる家庭を願ってきたので、兄弟ではない人々が集まり、兄弟の情以上の情を結ばなければならないし、父母でない父母に父母以上に侍らなければならないのです。それが、因縁を結んだ統一食口が行くべき道です。
世間を見なさい。今まで血族を中心として織り成してきた因縁について見るとき、父母が子供のために犠牲になる場合がどれほど多かったですか? 同じように、「統一教会の文先生である私が、そういう使命を果たせる道を歩いてきたか?」と自問自答してみます。そうできなかったら後退せよというのです。(四九―二二九)
2 数十里の道を歩いて集会に参席した食口たち
大韓民国各地を隅々回って五日ぶりに帰ってきました。太田を経て、全州を経て、光州を経て、馬山を通って大邱を経て三陟に、その次に堤川を経て春川を通って帰ってきました。
今回、巡回しながら感じたことは、今は私たちが闘わなければならない時だということです。地方にいる青年男女たちが深く決意しているのを見て、今回の期間の闘いは、勝利の成果をもたらすだろうと思います。ところが今回胸痛く思われたのは、私たちの食口たちが、先生が行くという場所に数十里の道を歩いてくるということでした。世間の人々はお金があり車に乗って通えるのに、ここに来るのが嫌で来ないが、統一教会の青年は数十里の道を歩いてきます。光州へ行くと、あの木浦から、あるいは二、三日夜昼分かたず歩いてきたというのです。こういうことを見るとき、私たちの教会が目標とし、立てようとするみ旨が成されるという思いがしました。
神様が願われる一時と一つのみ旨のために、自分の一身の困難にもかまわず飛び込んでどんな苦難をも退けて動く彼らは、社会的な経験がある人々ではありません。また、彼らは個人的な事情にとらわれている人ではないし、個人的などんな意識や知識をもっている人々でもありません。二十歳前後の幼い人が、自分でも知らずにみ旨のために生命をささげる覚悟をしていで立つ姿を見るとき、どれほど殊勝に見えたか分かりません。そういう食口が実に多いのです。
大体において、彼らはここ本部にいる青年たちより、もっと気迫があります。本部を中心とした、ソウルと京畿道一円の食口たち、現在ここに参席した皆さんと彼らを比較してみる時、神様に向かう切なる心とみ旨に従わんとする忠誠心において、皆さん方がついていけない気迫が彼らにあります。もし、皆さんが責任を果たすことができなければ、彼らが皆さんを踏み越え、その責任を果たすだろうと感じました。(一一―一七九)
3 切符もなくて、こっそり汽車に乗った事情
皆さんは、良い経験があれば、それについて必ず日記にでも一章記録しておきたい心をもたなければなりません。その記録は、皆さんの歴史に長く残るものです。自分の一生の信仰路程において、言葉でいえない価値ある記録になるのです。そうできないことが恨みになるのです。
皆さんは、昔地方からソウルに上ってくるために、切符もなくて、こっそり汽車に乗ったことがあるでしょう? 一番隅っこに座り、車掌が現れるかも、と冷や冷やしたでしょう? 車掌が現れたというと、ねずみのようにどこでもこっそり入り込んで体を隠していて、車掌が通り過ぎた時になって初めて安のため息をついたでしょう? それでもそのころが良かったことを感じるのです。その時の気分は、他の世界で感じようにも感じられないものです。
統一教会を信じつつ従ってきてみると、そういうこともあるようになったというのです。事実、お金を出して切符を購入できないことが誤りなのです。代わりに、この次にこの国のためにより大きな助けを与えなければならないのです。内的にそれ以上のものを与えなければなりません。自分個人としては、法の処罰を受けなければならないのです。しかし、法の処罰を受けても、公的基準で仕事をする時、天国ではいかなる条件にも引っかからないのです。ですから苦労はしたが、その時が良かったというのです。(三〇―一五二)
4 赤ん坊をおぶってでも白雲台に登った食口
私たちが行く道は死から出発したので、死をかけて、死を覚悟して歩まなければなりません。行こう! 人は誰も疲れるのは同じであり、困難なのも同じです。行こう! 私たちは思想基準が違うのです。荒々しい風が吹いてきて、死亡の波濤が流れてくる位置へも行こう。天気が悪く、風が吹いてくる位置へも行こう。過去、白雲台に登山する時と今を比較してみよう。過去には、赤ん坊をおぶってでも白雲台に登山した人が四名もいました。今は何人になるでしょうか? (一二―一三)
5 み言の前に涙の海を成した食口たち
皆さんが統一教会へ入り、初めてみ言を聞けば涙の海を成します。さらには御飯を食べることも忘れます。自分の家へ行くのは死ぬほど嫌で、教会に来るのは本当に気分がいいというのです。皆さんもそういうことを感じてみましたか? すべてのことは、蒔いたとおりに刈り入れるのです。豆を植えれば豆を刈り入れ、小豆を植えれば小豆を刈り入れるのです。(三五―六七)
6 死んでもついていくと誓った食口のつまずき
今まで統一教会を信じても、落ちていった人々がたくさんいます。先生の前に、人間万物相(注:金剛山にある奇岩怪石)が集まったといえるほどいろいろな種類の人々がいました。私の脳裏から忘れられない人々もたくさんいます。時々、あの平壌時代から今までをずっと振り返ると、過去に対した人々のいろいろな型が、きょうここにもあるということが分かります。数多くの人間像が通り過ぎたというのです。過去に先生に従って落ちてしまった人々の中には、現在の皆さんが決意し、駆け回るより何十倍も強い決意をした人もたくさんいました。
では、きょう皆さんが、「先生に死んでも従います」と言う時、先生は皆さんを何パーセント信じるべきでしょうか? 一〇〇パーセント信じるべきですか、五〇パーセントだけ信じるべきですか? (一〇〇パーセント信じるべきです)。それが苦痛だというのです。一〇〇パーセント信じてあげて皆さんが背を向けたら、一〇〇パーセント分、十字架を私が負わなければならないからです。神様をそれだけしか紹介できなかったということになるので、紹介した人が恥をかくことになるのです。世間でもそうではありませんか? ですから何パーセント信じるべきかについて多くの苦しみがあります。
過去に先生に従ったいろいろな人の中には、こういう人もいました。
白頭山の天池までも先生に侍って登り、そこにある磐石を耕して畑をつくり、じゃがいもを植え、千年の恨みを抱いても先生に侍り、世間がすべて変わっても自分は変わらないと言った人がいました。何のことか分かりますか? 岩を耕してそこにじゃがいもを植え、千年の恨みを抱いて生きるそういう恨みがあっても、天のみ旨のために先生に侍って生きんと誓った人がいたというのです。しかし、風が吹きつけてくると、二年もしないでやめ、自分だけ生きると、先生を捨てて逃げてしまいました。
皆さん、ペテロについての話をたくさん聞いたでしょう? 「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ二六・三三)と誓いましたが、鶏が鳴く前に三回裏切ったペテロでした。(二六―一四〇)
7 絶対服従の手本を見せたアメリカ食口
今、韓国の統一教会員たちが麦飯を食べれば、アメリカの統一教会の人々も麦飯を食べるといいます。寝るのにも寝台が何ですか? 韓国人たちが床の上に寝るといえば、寝台を捨ててコンクリートの上でぐうぐう寝るというのです。おもしろかったのは、アメリカの四十九州を私が全部回ってみましたが、アメリカにいる若い連中がそうするというのです。カリフォルニア大学院を出た者がいますが、十一カ国の言葉をとても上手に話すのです。私がその男に、「運転せよ」と命令しました。そしてその次には教会の重鎮たちにも「運転せよ」と言ってお使いを命じ、死ぬほど苦労させました。そして、「私の宿所は一等ホテルを取るように」と言いました。「良いホテルを取るように。私がお前たちのためにアメリカへ来たのだから、お前たちはそうしなさい」と言いました。それで行く先々で一等ホテルを取っておいたのです。
そうしながら、従っていた人々に「お前たちは床の上に寝なさい」と言いました。何日くらいもつか見てみようと思って……。このように先生も意地悪なことをよくやります。どこへ行っても必ずそのようにさせてみます。そうしておいて、終わりのころになって、できれば「お前たちも良いホテルを一緒に取りなさい」と言います。ところが、のちには一緒に取るようにといっても取らないのです。なぜそうするのかと問うと、前は、寝て目をパッチリあけると先生が見上げられたのに、そうなると先生を見下ろすことになるからというのです。その連中は背が高いですからね。(笑い) 見下ろすことになるから駄目だというのです。やあ、この連中、もういいな……。(笑い)
これを見る時、「やあ、思想とはこのように恐ろしいものだなあ。自分にお金がないと嘆くな。世間が難しいと嘆くな」。異国の地で私を見なくてもこういう群れができたということを思う時、神様がどれほど苦労なさったかということを感じました。(四八―一一七)
8 「金日成」と言えば浮かんでくる四十代のある食口
私が今も記憶していることがあります。ある既成祝福を受けた家庭ですが、年がおそらく四十歳を越えた人です。静かな明け方に門をたたきます。それで門を開けてあげたところ入ってきました。なぜ来たのかと尋ねると、話すことがあるというのです。何のことかというと、深刻な話だというのです。話してみなさいというと、「私が金日成の首を取ってくるから送り出してください」と言うのです。(笑い) どうするのかというと、どうするのかはその時にならないと分かりませんが、とにかく送ってほしいというのです。それでいいというのです。
どうするかというのは、その時になってみて分かることではないかというのです。まず行くのが問題であって、どうするというのはその時になってみて分かるというのです。それで私が「よしいいだろう、お前」と言いました。今も時々思い出します。私が今も北を思い、金日成を思う時は、その人の顔がふっと浮かび上がります。前に私がその人に、「今も行きたいか?」と言うと、「はい」と答えるのでした。(笑い) それでいいのです。本当にそうできる時になれば、「お前、一回してみろ」と、第一号特命、密命を下せるのです。その時まで死なないで待ってみなさいというのです。それで「金日成」と言うとその顔がぱっと浮かびます。
もし統一教会の教会員の中で、「先生、私が神様と一本勝負をするか、神様がそれを信じてはいけないと言いつつ逃げるくらいに信じたいので、神様を少し紹介してください」と言える人がいれば、先生の心の中には、「神様」と言えばその人の顔が浮かぶのです。思い出さずにいられないのです。神様が驚いて逃げていくほど信じるという人が出れば、「神様」と言う時にはその人がいつも問題になるのです。
「信じられないことが何なのか? 一号は何で、二号は何で、三号は何で……」このようにずっと考えてみなさいというのです。なぜそうなのですか? サタン世界を料理しようとするならば、サタン世界で信じられることをもってしては駄目です。サタン世界で信じられないことをもってして料理しなければならないのです。ひっくり返すにはどうすべきですか? 下からひっくり返さないといけないですか、上からひっくり返さないといけないですか? 上からひっくり返すのは、返せるとしても価値がないというのです。(四四―三四四)
9 清平開拓時の誇らしい食口
統一教会の文先生自身も、食口たちが見て恥ずかしくないのか? 前にもそうです。聖日に、朝から昼、夕方まで約十三時間話をして清平へ行ったのです。雨がどしゃ降りなのに、食口たちが地を掘っていました。ぴしっと決めた日付に自分の責任を遂行しなければならないので、せざるを得ないというのです。行くや否やあまりに疲れて、座って布団を広げて寝られないので、足を開いて天幕の中にある布団にもたれ、口を開けていびきをかいて寝ました。そうしていて、いびきの音に目を覚ましました。目を覚まして外をのぞくと、雨が鉄砲水のように降るのに、食口たちがつるはしを持って地面を掘り、リヤカーを引いていくのです。それを見て私は涙を流したのです。
この場にもし神様がおいでになったら、どうなるでしょうか? 文先生が生涯をかけてきたその路程において、最後の通牒を下した神様が来られたらどうするでしょうか? そういう心が統一教会の文先生にあるので、その人々が疲れても、先生を見て、できれば寝ることを願ってそうするというのです。先生が寝ると言って、「統一教会の文先生は寝ていて、我々は働き……」こういう心があればおしまいなのです。
このごろ何かの令状がたくさん出るそうですね? 甲号訓練(注:一番困難な訓練)だ何だといって、こういう時行こうという人は多いのですが、来ようという人がどのくらいいるのですか? 終わると来る人は誰ですか? 来る人がなければ、真実な心をもって働く人ではありません。
きのう、麗水が故郷のある青年に、二十三年ぶりにお父さんから電報が来たのですが、仕事をしていてその電報をさっと受け取りながら、「サタンが現れたな」という言葉を聞いて、「そう、サタンが現れたならお前はどうやって行動し、サタンをどうやって処理するのか?」と考え、初めて行くのでお金を一銭もあげないわけにはいかないので、二千ウォンをあげながら行ってこいと送りました。「こいつ、サタンが現れたと言ったくせに、どこかへ行って消息があるかないか見てやろう」と思ったのですが、この男がきのう来ました。「やあ、この男。お前は条件ができた。私が願う標準の前に、神様の前に、この建物を全部建てておいて、誇ることができる条件がそろった。この男よく来た」と思いました。
皆が苦しいと行くことを願っているのに、また帰ってきたその人は本当に統一教会の人なのです。そのように行って帰ってきた人々は、今後仕事をする人の中で、行って戻ってこなかった人より、残って苦労した人よりもっと輝ける内容をもてるというのです。なぜそうなのでしょうか? まだみな試験をしてみることができなかったのです。皆さんは命令を受けた位置に立てなかったし、そういう行動をする位置に出られなかったし、これかあれかといえる決定的な立場に立てなかったので、誰を信じなければならないのですか? 行って帰ってきた人を信じなければなりません。それで、私がきょう行ったなら何を買ってあげようかと考えています。どう、買ってあげるのをやめましょうか? その人にだけ買ってあげれば、他の人が「なぜその人にばかり買ってやるの?」。(笑い) そうなってはいけないのです。(四六―五三)
10 教会がそれほど好きだった食口たち
統一教会の教会員たちが、最初に統一教会へ入った時は、誰でも一回は夢中になる時がありました。「なぜだか知らないが教会へ来たくてたまらない。教会に行きたくてたまらない」と思うのです。ある時は、教会の門を閉めてしまっても、門を乗り越えてくる人が多かったのです。教会の隅にでも、一晩寝るのが望みだったのです。彼らを追い出すとオンオン泣き、追い出して門を閉めておくと、死んでもいいといって門を乗り越えてくるのです。門を乗り越えてくる人々は、もしも盗人だと思って打ち殺したら、その人は間違いなく天国へ直行するのです。(笑い) そういう時があったのです。
また、教会で御飯を食べれば、御飯がなぜそんなにおいしいか分からないというのです。お化けがついたのでもなく、他の御飯と全く同じ御飯なのに一味違うというのです。すっぱくて渋い大根キムチも、立体的な味がするのです。(笑い) 教会へ来て御飯を食べればおいしいというのはなぜですか? 愛する父母が、精誠を尽くして炊いた御飯がおいしいのと同じです。そこには慕わしさがあふれ、相対的存在までもそこに結実され得る自体としてあるから、悪いものも良いものと感じられるのです。そして、これが自分と関係を結び、相対的な価値として登場するので良いものとして現れ、おいしくないものもおいしいものとして現れるというのです。
それはすべて神経作用です。そうでしょう? 味というのは神経作用によって分かるようになります。ところが天の神経作用は超自然的な作用です。全体を合わせて主管する立場にあるので、そこには悪いものがないのです。皆さん、恵みに酔ってみなさい。世の中が王宮に見えるというのです。汚水の中に入っていても、その場所が王宮に感じられるのです。うじ虫がわくのを見ても、それが世界の一等舞姫たちが踊っているように見えるというのです。本当にそう見えるというのです。
それは、今日の人間自体の感情ではそう感じられませんが、超自然的な感情の主体性をもったので、そう感じられるのです。ですから、そこで見えるものはすべて喜悦の対象として見えるのです。それゆえに霊界では悪いものがないという結論が出るのです。(三六―一一八)
皆さんは、自分でも分からずしきりと教会へ行きたいでしょう? (はい!)。父母が「行くな」と言っても、御飯さえ食べれば行きたいのです。学校へ行っても、心がそわそわするのです。授業を終えて教会へ行かないと、何かを失ったような気分がするのです。皆さんはそういう感じをもってみましたか? (はい)。
皆さんは、誰かが来いといったので、昼夜分かたぬ客のようにこうしてたくさんやって来て、御飯をあげ、コーラをあげ、寝かせるのですか? 皆さんはお客ですか、主人ですか? 主人がお客を冷遇すれば、その家は福を受けますか、罰を受けますか? (罰を受けます)。ですから先生は皆さんにこうして新鮮な空気で接待しています。(笑い) 門をぱあっと開いて接待するのです。その次には何の接待をするのですか? み言の接待です。先生に会って、一通り笑い、一通り喜び、一通り悪口を言われながら、一番良いものを学びます。悪口を言われても喜ぶのを見れば、一番近いでしょう? 悪口を言われても喜べば、それ以上良いものは必要ありません。こういうことああいうことを見る時、先生は行って休み、御飯一杯を食べるよりこうしてみ言を語るのがもっといいのです。皆さんがこうして喜ぶので、皆さんに御飯を食べさせなくても先生は胸が痛くありません。(笑い) (二六―一九三)
皆さん、統一教会へ入るとおかしいのです。昔おもしろく遊んだ友達は自然と遠くなります。昔は学校が終われば家へ行くことしか知らなかったのに、統一教会を知るようになったのちには、家よりも教会へまず行きたい思いがあるのです。うそですか、当たっていますか? 事実ですか、うそですか? (事実です)。それは小学校の生徒も同じであり、大学生も同じであり、家庭をもった夫も同じであり、主婦も同じであり、父母も同じです。皆が一様に同じなのです。
人はみな同じなので、韓国人たちがそのようであるように、アメリカ人も同じであり、日本人も同じであり、イギリス人も同じであり、ドイツ人も全部同じです。(六五―一〇二)
統一教会へ行けばへばりつくといううわさが出ています。そういうことを知っていますか? 人は損する道には絶対行かないのです。皆さんがここへ来る時も、十ウォンでも損するという思いをもってきた人は一人もいないのです。食べ残したかすだけでも残るものと思って来たのであって、損するために来る人がいるかというのです。ですから利益になる所には「行くな」と言っても行くのです。そうでしょう?
それで統一教会員たちにきちっと教えてあげさえすれば、私があの深い谷間へ行っていても、白頭山の頂へ行っていても、皆さんはすべて訪ねてくるようになっています。穴の中にいるならば、「入ってくるな」と言うと、痛哭しながら「老い、死んでも会うのだ」と言うのです。会わなければならないようになっています。統一教会へ行けば利益が出ることを知れば、そうなるのです。私が皆さんよりできが悪くて悪口を言われ、こういうことをするのではありません。先生の目を御覧なさい。私は虚勢を張っていますか? (四一―二三七)
統一教会はどういう所ですか? 「統一教会へ行くと文先生に狂う、電気装置を使って流す」、そういううわさが立ちました。流すとは何を流すのですか? 春が巡ってきて暖かくなれば、凍っていた雪は「解けるな」と言っても解けるのです。牛を捕まえて、供え物、天祭をささげなくてもみな解けるのです。もっと高い愛の前には、自然に引かれて当然です。そうなっているのです。それで統一教会へ出るようになれば、自分の息子、娘もみな忘れてしまうのです。そういう何かがあるのです。自分の愛する夫が反対するなら、死んでも会いたくないのです。私は女性になってみたことがないので分かりませんが、女性たちにそうなのか、そうではないのか尋ねてみなさい。そうでなければ偽者なのです。今まで人間世界で一番貴いという問題が……。天を求めて行く道の前では、台風が吹いてくれば押し込まれない人はありません。もっと優れた愛には引きつけられて当然です。(五六―一六五)
四 誇らしきその名前
四 誇らしきその名前
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1 金元弼氏先生は北で女性三人(池承道、玉世賢、鄭達玉)と、男性一人(金元弼)を復帰(伝道)しました。こういう基台がなければ復帰摂理は成されません。(一九―二七三)
皆さん、経理部長(金元弼氏)を知っているでしょう? 私が経理部長に会った時、その人は髪ぼうぼうの独身で十九歳でした。その後四年過ぎ二十三歳になったのですが、「何かやることでもありますか?」と言うので食堂のボーイもさせ、ありとあらゆることをさせました。もらった御飯も食べさせ、昼食の代わりにお焦げも食べさせました。だからといって、私が御飯のためにそうしたのではありません。こうしてありとあらゆることを味わってみたというのです。とても劇的で印象的で、おもしろかったのです。(二六―六八)
私たちが釜山で避難生活をする時、元弼が絵を描く時、枠だ何だと線まで私が引いてあげたのです。私の意見がたくさん入ったのです。顔に鼻さえ描けば、服のようなものは私が塗ったのです。夜を一緒に明かしながらそうしたのです。十二時から始めて、一日の夕方には肖像画を四十枚まで描いたのです。分かりますか、どういうことか? (はい)
それを全部描くには、線を整え、ラインをぴしっと引かないといけないのです。四十枚ずつ持ってくれば、ラインを引いて、ラインに従ってまねて描くのです。全部ラインを引いてあげるのです。一枚でいくらかといえば、三ドルでした。一枚で三ドル。帰国するアメリカ軍のキャンプへ行って……。帰国する時、奥さんに贈り物するものがありますか? 自分の奥さんの肖像画をあげるのが一番良い贈り物であることを知ったので、そのアイデアを出して、そういうことをしたのです。今なら三十ドル、四十ドル、いや約三百ドル受け取るのです。ここがアメリカだったならです。
ですから、一人平均二十枚以上を一日の夕方に描かないといけないというのです。それを描けるかというのです。仕方なく私が全部やったのです。夜を一緒に明かしたのです。そして会社へ行って夕方遅く帰ってくると、途中まで出て私が元弼を待っていて、連れて入ってくるのです。その時は、私が「原理原本」の草稿を書く時なのです。
ですからその時、その印象を今でも忘れません。そのミスター・キムも忘れられないし、先生に対して良くしてくれたこと、避難してきて寂しく、悲しくて、一緒に月を見上げて思いつつ暮らしたこと、その印象が引きはがせないぐらい残っているのです。
その時ミスター・キムは、会社へ行って家に帰ってくることを、自分の恋人が訪ねてくるよりももっと楽しみにしていたのです。そうならないといけないのです。「お前、少し家で休んでいなさい」と言っても、「ああ! 私は嫌です」と、先生にばかりくっついて歩いたのです。便所へ行って三十分だけ座っていると、便所の戸をたたいたのです。居眠りすることが多かったのです。(笑い) それぐらい心情的に近くなっていたのです。
ですから避難してくる時も、自分のお母さんと家を全部捨ててきたのです。「そこにいなさい」と言っても、みな投げ捨てて先生についてきたのです。そういうふうに心情的に因縁づけられていたので、韓国食口たちは今先生が来ないといって、先生を思って涙を流す人が多いということを知らなければならないのです。息子がいて、孫がいて、おじいさんもみないるのですが、涙をポトポト……。何のことか分かりますか? (はい)。
皆さんにはそういう責任があるのです。夜歩いて食べる物があれば置いておいて一緒に分けて食べようとするし、ひたすら、和同して全部解いてあげようとするし、難しいことがあれば自分が開拓してあげようとするのです。ですからいいのです。ですからついてくるのです。迫害されながら、村の中、町内で大騒ぎなのにです。国で全部追放しようとするのにです。
昔私たちはそういう雰囲気でした。そして伝道に出て人が伝道されれば、伝道した人がひたすら会いたくて毎日来る、そういう雰囲気だったのです。(九六―一四三)
ここにいるミスター・キム、知っているでしょう? おい、金元弼! 私たちが避難してきて、避難民生活をしながら就職した時、あなたが出かける時、ついていって連れていき、来る時、出て待っていたりしたものですが、自分の息子、娘に対しては私はそうできないのです。その時、米軍兵士たちの肖像画を描いたのですが、一枚につき三ドルずつ受け取って描いたのです。一日の夕方までに三十五枚、四十枚までも描きました。そうするには、全部私が準備してあげないといけないのです。夜を明かしつつ、全部やってあげたのです。私がもっと一生懸命やったのです。自分が熱心にするより。(笑われる) 髪のようなのと、服は私がすべてさっさと描いたのです。顔だけ残しておいて。そうしてお金を稼いで伝道経費にし、全部こうして開拓したのです。(九七―二二二)
統一教会で見ると、三十六家庭を立てるためにはイエス様の三弟子、天使長家庭を代表した三数を解決しなければならないのです。その三数が決定されたので、アダムの家庭、ノアの家庭、ヤコブの家庭型の三十六家庭が現れるのです。
三十六家庭で代表されるこの三家庭の中で、第一家庭が金元弼です。歴史は、誰でもその位置に立てることはできません。誰でもその位置に立てることができません。これこれのプログラムによる、これこれの背後の内容が霊的な世界でできていないと、長子の位置に立てられないのです。そういう人が金元弼なのです。その次に二番目が誰かといえば劉孝元です。劉孝元。そして三番目が金榮輝です。(一六九―一一〇)
2 劉孝元氏
劉孝元協会長に初めて会う時は深刻でした。追われ追われて釜山から大邱に、三段階でソウルに上り、場所を定めて会う時は復帰なのです。釜山の一番端っこへ行き、影島へ行き……。影島が一番端っこではありませんか? 残ったふんのようなものが影島です。私はそう思います。そこで一番深刻な人は、天下に私一人しかいませんでした。ですから神様は役事なさるのです。その劉協会長も愚鈍な人です。亡くなった人ですが……。武士道のような精神が強く、一つしか知らない人です。その人がそこへ座って解けてしまったのです。(四七―三一六)
皆さん見たでしょう? 昔劉協会長にも、先生が公席で悪口をよく言ったのです。その人はそれが誇りでした。悪口を言ってもよく受け止め乗り越えたというのです。ぷんとして、「先生が責任者をそのように問責するなら責任者がどうやって責任者の仕事をできるのか、威信と体面も立てられず」と言うかもしれませんが、先生も威信と体面を立てられない局面なのに、こういう局面に皆さんが威信を立てるようになっていますか? うじ虫の袋でも探し回る局面で威信が何ですか? 今は先生が威信を立てる時が来ているのです。(五一―二八五)
昔は、本部にいる教会長が公席に現れさえすれば、私がそれこそ犬か豚を扱うごとく悪口を言うのです。「この男は!」と言って……。そして、先生と一番近いが、部屋へ入ってこようとすると、門の外に立って考えるというのです。そうしてから、「また悪口を言われよう」という決心をして入ってきたのです。(笑い) そうしてこそこれが……。先生が高ければこれが高くて、こうならなければなりません。(黒板に書かれたものを示して話される)これがなければなりません。こういうことが、これを消化できる消化圏になるというのです。消化圏。消化できる道が開かれるのです。
ですから、学校では恐ろしい先生が良い先生です。分かりますか? 悪口を言い、何と言ったとしても、従順にその悪口をすべて消化する人は、その場所に同参するのです。同参して、その先生の直系の弟子になるというのです。それが原則です。そうでしょう? それはそうですか? (はい)。(一二五―八二)
また、ある人は、「劉協会長は統一教会の忠臣であるにもかかわらずいつもこき使われて、死んだあとは賞はやれないが、せめて悪口を言う」と言うのです。そういう人々は、私と劉協会長との間を知らないのでそう言うのです。長年一緒に仕事をしてきたのだから、すべてのものが百点であり得ますか? ですからできなかったことを清算してあげるために、公席で悪口を言うのです。(四五―二六三)
先生が劉協会長について深刻に考えたこととは何かといえば、そうできる内容をもっていったのかということです。その人は先生についてくるにあたって、私のためにたくさん苦労をしました。その中でも、先生が監獄にいる時、先生を多く思ってくれました。ですから先生が劉協会長を思うと、「彼はこういう人だった」と考えるようになるのです。監房に寝そべっていては、明け方になると会いたいその情に引かれて、伝え受けたメモ一つまでも生命の価値として受け入れられるほど、内縁の支えが彼にありました。そういう協会長だったことが思い出されます。(三三―八三)
生命と死について見る時、どちらが強いですか? 死より生命がもっと強いですか、生命より死がもっと強いですか? サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。ですからみ旨を知ったのちには、死すべき場所で死ぬことを嫌がってはならないのです。
今回劉孝元協会長が亡くなる時、「先生に出会って今までこうしてきたが、最後をどうやって結ぶのか?」と私が尋ねました。そうしたところ、劉協会長は、「永遠に変わらない」という言葉を残して逝きました。そうでなければならないのです。サタン世界では、いずれにせよ死ななければなりません。死ななくては復活できません。一時代を過ごさなくては別の時代を迎えることはできないのです。分かりますか? (三四―四七)
孝元が忠誠を尽くしたように忠誠を尽くそうと掲げて、救いを受ける人がいなければなりません。(一〇―二六三)
今後の韓国社会では、統一教会は問題にならざるを得ません。見ていてください。先生について研究する人が多くなるのです。そうすれば、先生の名前とともに、先生について歴史が残るでしょう? 統一教会、文なにがしの伝記が残りますか、残りませんか? (残ります)。今後日本の歴史がなくなり、アメリカの歴史がなくなるとしても、統一教会の文先生の歴史は残るのです。残るようになっています。ここにも文先生と書きましたね。よくやりました。
その歴史の本の第一ページには、「統一教会の文氏は……」と始まるのです。(笑い) その次に、「釜山影島に行ったが」と言いつつ、劉孝元というびっこをひいた病身の協会長が出てくるのです。(笑い) そうではありませんか? そして、三十六家庭がどうしてこうして結婚したが争いが起こった、私のお父さんを出してくれと大騒ぎしたということが全部出るのです。そこに登場する人物たちは歴史的な人物たちです。(二七―二五八)
私がきょう特に話すことは、伝統を尊重視しなければならないということです。統一教会において、劉協会長の功労は大きいのです。そう、珍勝に対しても先生はたくさん考えてきたのです。お母様に対してもそういう話をしましたが、功労は功労として報いてあげることを知る指導者にならなければなりません。ですから譽進の時にもそうだったし、仁進の時もそうだったし、劉協会長のことを思ったというのです。それは劉協会長がよく知っているのです。
統一教会の今の弊害は何ですか? 幹部の皆さんは、私たちの宗教財団における劉協会長の功労をよく記憶しなければなりません。それが日がたてばたつほどだんだん希薄になるよりも、その日を記憶して……。先生が彼を追悼する日をやめよというまでは、全国的な記念日として追悼し、教訓としなければならないのです。
彼は国家的時代の活動ができなかったのです。世界舞台の時代まではできなかったのですが、教会を創建した時代から国家と連絡できるその期間(十三年前)において、教会を開門することにおいては第一の功労者であることに間違いありません。そういう立場で見る時、その伝統的中心思想を残したその功労を私が分かってあげるのです。また、彼が不具の体なのに、私は三年八カ月の間、一日に十八時間以上毎日講義せよと責め立てたのです。なぜですか? 彼によって原理を教育させる一つの伝統を天地の前に残しておくためです。全世界のすべての講師たちが毎日のように三年以上このことを継続しても、十何時間以上の講義をしても、疲れたと不平を言える人をなくすためにそうしたのです。天地の前にそういう伝統を残すために、不具の身なのにそうさせたのです。
今も思い出すのが……。その時は私たちが麦飯を食べる時なのです。その人は本当に肉が好きでした。魚が好きで、肉が好きでそうしたのに、その時は本当に難しい時でした。修練会をしても御飯を食べられず暮らしているのに、こじきが入ってきて御飯を少しくれといって麦飯をあげると、そのこじきはその御飯をごみ箱へ投げ捨てていく、そういう時代を過ごしたのです。
そのように食べられず、栄養もよく取れない中で、講義し、疲れて横になると……。ある時には、痛くて午後は講義できないというのです。それで彼を責め立てたことが思い出されます。「お前がそんなでいいのか? 原理を命を懸けて伝えないといけない。お前が命のある限り、一人もいなければ空中を見てでも話をしないといけない」と言いながら気合いを入れる時、横に伏して目をまん丸くして「先生のおっしゃることが正しいです」と言って、ぱっと立ち上がるのです。起き上がる時、足の股関節がくっついていたので、手で突っ張ってようやく起き上がったのが目にはっきり映りました。それを私がよく知っているのです。ですから過ぎ去ったこと、私という人が死後を思うなら、そういう観点から思わなければならないのです。(一三〇―三二二)
3 金榮輝氏
今回金榮輝を立てたのは何かといえば、金榮輝は三十六家庭で三人の息子の内の代表です。三人の息子の代表なのです。金榮輝が三人の息子の中でも三番目です。三時代が来ることができる、新しい時代に門を開くべき立場にいるのです。ですから鍵をよく管理していて、今後天に入って天国を建設できなければならないのです。
ところが年が六十歳ではないですか? 年が多くみな誤ってはならないので、ここで引き継がすことができる業をなさなければなりません。それはどういうことですか? 新しい教育をせよということです。何のことか分かりますか? 新しい伝統を立てなければならないというのです。今までやった、そういうことでは駄目なのです。正義に先頭に立ち、事理に明晰で、サタンが好む痕跡についていく環境を整備し、天がどこへ行こうと四つの羽を広げ、喜びで安息所にとどまることができる環境の天国をつくらなければならないのです。何のことか分かりますか?
ですから金榮輝は今そうなのです。愛の心をもって、すべて何でも愛さなければなりません。神様を先生ほど愛せず、国を先生ほど愛せず、教会を先生ほど愛せなかったというのです。ですから先生を中心にして、その伝統を手本としなければなりません。(一四九―一七三)
ここに教会長がいますが、この教会長は先生を身代わりした人です。この人が責任を果たそうと果たせまいと、最後まで引っ張っていくのです。民族的な蕩減というこの膨大な仕事を果たすまでは、教会長を前に立てて闘っていくのです。この人は人格的な面で欠陥があるかもしれませんが、欠陥があったとしてもそれは本人が責任を負うのではなく、先生が責任を負うのです。彼を誰が立てましたか? 先生が立てました。ですから責任も先生が負うのです。先生が滅ぶなら滅ぶのであって、彼が滅ぶのではありません。(二四―一四一)
金榮輝は今何をしなければなりませんか? 金榮輝が今、統一教会と勝共連合の会長になっているので、その名前どおりになったのです。金榮輝。栄光を輝かせられるその位置にしっかり立っています。天下に号令できる位置です。鄭大和が偽の大和でなく、本当の大和ならどれほどいいでしょうか。(笑い) その名前は、和睦です。ですから教会長が絶対必要なのです、鄭大和! そうなのです。このごろはもう奥さんしか知らないといううわさが立ちましたが、そうですか? 金榮輝! (笑い) 奥さん崇拝主義者になったといううわさが立ったのですが? やあ、どうなのか尋ねているのです。(そこまでは行きませんでした)。(笑われる) そこまでは行かなかったが行こうと……。約七分の稜線は越えたのですね。(笑い) いいです、いいです。(一四八―二五二)
金榮輝! 二つの長でしょう? 金榮輝、今漢字を使おうと思って言っているのです。榮輝、輝く輝の字に栄華の栄の字。とても名前がいいです。こういう時に一度使ってみましょう。(一六六―二六九)
皆さんは、若いころから統一教会に入り、今中年となり、老年となっています。金榮輝、六十歳になるのではありませんか? 五十九歳ですか? (六十一歳です)。もう六十一歳ですか? (笑い) 大尉の階級章をつけて歩いていたのがきのうのことのようなのに、もうそんなになりましたか? 六十一歳なら老人になったのです。青年時代に入ってきて、壮年時代を経て、今老年時代に入りました。(一七二―八九)
金榮輝協会長を中心にして見る時、彼が主体で皆さんは対象です。主体と対象の関係で皆さんが対象なら、絶対的な対象の位置で主体を補強してあげなければなりません。主体に何かの欠陥があれば、対象はそれを補強して、絶対的な対象である自分と自然に一体となれるように、主体をもう一度創造する業をなせというのです。そういう完全な対象の前には、その主体が不完全でも、必ず完全な主体として登場するようになります。そして主体が絶対的である時は、主体がその絶対的な位置さえ守っていけば、対象も絶対的な位置へ出るようになるのです。これが原理観です。教会と対社会問題においては、公私問題をいつも考えなければなりませんが、我々自体内ではいつも主体と対象の観念を忘却するなというのです。分かりますか? (三三―一七五)
韓国は、今から金榮輝協会長を中心にして完全に一つとなり、先生を身代わりして皆さんが韓国に責任を負わなければなりません。(はい)。先生が今はもうどうか心配しなくてもいいように……。榮輝、分かりますか? (はい)。重大な責任です。全部分かりますね? (はい)。
第六章 霊的役事と摂理的主要行事
第六章 霊的役事と摂理的主要行事
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第一節 統一教会と霊的役事一 統一教会と霊界
1 世界基督教統一神霊協会とは
私たちの教会の名称を見れば、「世界基督教統一神霊協会」です。世界基督教統一神霊協会。「世界基督教統一」とは世界の基督教を統一するということで、その次に「神霊協会」に「神霊」が入っていますが、神霊は人間世界ではありません。霊的な世界です。世界の基督教を統一したその基盤の上に、神霊なる役事が展開するというのです。神霊なる役事をして世界を一つにしようというのです。ですから、もし神霊を除いてしまったならどうなりますか。既成教会と同じです。世界基督教統一神霊協会から神霊を除いたなら、世界基督教統一協会になるでしょう? 神霊を除けば何にもなりません。
このように見るとき、今日の人類歴史にも、必ず歴史を動かしてきた精神があるのです。精神というものは心の中にありますが、その精神は体の支配を受けません。体を超えて、環境を超えて世界を支配しようとするのです。そうではないですか。皆さん自身が「素晴らしい人になろう」と思うとき、その「素晴らしい人」とは、自分一人を中心にして、体を動かして思うがままにできる環境での、素晴らしい人を指すのではありません。自分の思うとおりにするのですが、その思うとおりにすることが家庭を超え、環境を超え、国家を超え、世界を超えて、さらに進んで霊的な世界があるならば、霊的世界まで影響を与えることができる人になりたいというのです。(一六八―二四一)
世界基督教統一何ですか。(神霊協会)。神霊協会。何で統一するのですって? (神霊で)。神霊で統一するのに、親子関係の神霊で統一するのです。その神霊は何ですか? その幻のようなありさまは何なのですか? 愛を中心とした、霊的世界と人間世界の調和を成すことのできる、神霊だというのです。分かりますか。
神霊は、盲人の目を見えるようにすることが問題ではないのです。ふさがった耳を聞こえるようにすることが問題ではないのです。最近キリスト教が、「全知全能の神様にはできないことはない」と言いながら、「足なえが立ち上がります」と言うけれども、そんなことは何でもないのです。神様はそれを必要としません。愛の神霊というものを知らなければなりません。
聖書にもあるように、礼拝を受ける時は神霊と真理で受けなさいといいますが、それは何の真理ですか。何か、物理学の、ピタゴラスの原理ではないのです。ニュートンの原理ではないのです。そんな真理ではないのです。愛の真理です。その愛の真理の最高は何ですか。父と息子・娘、このように見なければなりません。神様が必要とするものは、お金や権力や知識ではなく、愛が必要なのです。
なぜ愛が必要なのでしょうか。神様が喜ぼうとすれば相対がなくては駄目ですから、人間を造りました。人間を喜びの相対として造りましたから、人間の愛においての価値は、被造物ではあるけれども、神様と同等の権能をもつことができるのです。このことを知らなければなりません。今日のキリスト教の信者たちは「創造主より被造物は劣っている」と言っていますが、馬鹿なことを言うなというのです。では神様がなぜ万物を造りましたか。それを確実に知らなければなりません。
神霊協会は何ですって? (愛)。何の愛? (父子関係の愛)。父子関係の愛を中心にして調和されるのです。この調和が、地上でほんの少し行われても、その波紋は宇宙的です。電気であれば、放送局がどんなに小さくても、送る電波は宇宙的です。弱いものですが、宇宙的に波及するのです。それと同様に愛の調和圏は、範囲は小さくても宇宙と連結され得る内容を備えているということを、皆さんは知らなければなりません。(一一三―一〇三)
私たちの教会の名前は世界基督教統一神霊協会です。先生が今までこの仕事をしてくるのに、息が詰まったりはしませんでした。全部霊界のプログラムを進行しているのです。私は、天がどうして、お父様がどうでといった話をしないのです。それは全部真理で消化させて体系づけて話すようになるのです。いい加減に話をしないのです。私が、霊界に通じたおばさん、おばあさんたちの言葉を聞いて、適当にこのみ旨をやっているとでも思っているのですか? とんでもないです。彼らは知らないのです。彼らは霊界から証されるから現在のことが分かるのであって、どのように進展していくのかは分からないのです。(六八―二七六)
さあ、私たちの団体は宗教団体だというのは間違いありません。宗教団体だというのです。それでは、宗教団体ですけれど、何の宗教ですか。統一のための宗教団体だというのです。それで統一教会なのです。
では、統一というその言葉は、どこを中心にする言葉かということを確実に知らなければなりません。いったいどこを中心にしていう言葉ですか。もちろん世界を中心にしていう言葉だと考えるかもしれませんが、「世界」といえば、私たちは二つの世界をいうのです。一つは霊的世界、もう一つは実体世界、このように見ます。ところで、一般的に「世界」といえば地上世界、今住んでいるこの世界をいいます。ですから、この二つの世界のための統一だと考えやすいのです。大体このように考えることができるのです。
さあ、このように見るとき、宗教という言葉はどこを中心にするのですか。この世を中心にするのではなく、霊的世界を背景にしているのです。これは過ぎた歴史を通して見るとき、間違いない事実です。そうなのです。
では私たちが世界基督教統一神霊協会を見るとき、この統一という言葉が出てくるのですが、世界のキリスト教をどのように統一するのかというのです。今日のカトリック教徒など既成教派が多いのですが、ここに縛りつけられているのではないのです。それを知らなければなりません。統一は、この世を中心とする教会も歓迎だということを知らなければなりません。しかしこれらの教会は今まで争ってきたので、どんなものが出てこようと一つになろうとはしないのです。
さあ、それならばどのように統一するのですか。今まで数多くの教会指導者たちが、あるいは、ローマ法王庁を中心にして統合運動をしてきましたが、それは可能ですか。既に不可能な結果が現れたし、今でもそのような結論が出ているのです。ところで、これを統一できる内容のある道があるならば、どのような道なのかというのです。ある宗教的な強力な指導者が現れて、「統合しろ」と言ったところで統合できますか。ある政治的背景を中心にして、統合しなければ即刻処断するという、恐ろしい背景をもった人が現れても不可能なのです。可能なのではなく不可能だというのが結論です。
では、すべての宗派が一つにならざるを得ない真理があからさまになればどうでしょうか。半分ほどはそれを支持するとしても、これはサタンの怪物かもしれないといって、また反対するのです。そのように難しいのです。では、死んだイエス様がそのまま生き返って、ローマ法王庁を中心に教化したとしても、昔死んだ若いイエス様がこの世の人として現れて「私がイエスだ」と言うとき、誰が信じますか。信じないのです。(笑い) 本物のイエス様が再び生き返ったとしても信じないのです。イエス様を信じる人が何パーセントになるのでしょうか。皆さんはどうですか? ムーニーはどうですか? だまされやすく信じやすいムーニーのことです。(笑い) 洗脳されたというではないですか。洗脳されたのです。どうですか? 皆さんの中で何人信じますか? それを信じられそうですか? (いいえ)。(笑い)
さあ、このようなことを見るときに、レバレンド・ムーンは、どれほど素晴らしいでしょうか。白人社会で勝手気ままに生きた若い連中を集めて一つの世界をつくるのだと、このように集まって団結ができるようにすることだけでも、どんなにか偉大なことであるかを知らなければならないのです。
ではレバレンド・ムーンは、この世的な力、この世的な知識をもってこのようにしたのですか、霊界を通してしたのですか? このように見るとき、この世的基準が介在して影響を与えることよりも、霊界の基準が介在して影響を及ぼしたことがもっと大きいのです。
皆さん、自分を中心にして今日このように集まり、動くということ自体が、もちろん原理のみ言もあり、先生が指導した影響があったからだと認めても、それだけでは駄目なのです。ここには、見えないけれども、皆さんを転化するように影響を及ぼす、何十倍以上もの強い霊的な力が介在されているのです。そのような事実を否定できないのです。それは事実ですか? 違いますか? (事実です)。皆さんには実感できる事実です。皆さんを根拠としたとしても否定できなく、誰が何と言っても否定できない実感のある事実だということを知らなければなりません。それは事実ですか? (はい)。
では、サタンが一番好きなことは何でしょうか? サタンが望むものは何かというのです。それが問題なのです。サタンが言うには「統一教会の原理のみ言を講義してもよい。原理を全部暗記して雄弁に語る素晴らしい講師でもよい。認めます。それは仕方がない。明らかな事実であり、現れた結果だから仕方がない。しかし霊的作用だけはしてはいけない」というのです。そうですか? そうではないですか? (そうです)。
霊的作用がないならば、どんなに真理が良くても、昔のように信じようとすれば信じ、勝手にできるのです。生涯を通して自分の生命を歩み、前進するのが難しいというのです。一気に習慣化されてしまうのです。若い時は信じるかもしれませんが、年老いては沈んでしまうと、このように見るのです。ですから老いぼれて死ねばおしまいで、死んで地獄に行けばおしまいなのです。
では、サタンがこのように見ているのですが、神様はどのようにされますか? 神様はどのようにされるのですか? ここに霊的版図をもって一生を通じて老いて死ぬとしても、力が加重されるような霊的な福音をどのように普及させるかということを、悪神に反対される善神としては考えざるを得ないということは、理論的だというのです。(一三一―二〇八)
世界を統一しようとするならば、どうやってやらなければならないのでしょうか? 解放をどこでするのでしょうか? 霊界と肉界が解放されなければなりません。霊界の解放と肉界の解放が……。霊界の解放は神様には必要ないのです。神様のようにサタン圏を全部統一できる能力がある人が出てくれば、霊界と肉界に分けられているものが一つになるのです。解放されるのです。サタンを主管することのできる人だけが現れれば、霊界も解放され、肉界も解放されるようになります。(一六一―二四三)
2 統一は霊界からまず成される
皆さんは先生が今まで語ってきたみ言を聞いて「そうだ」と考えますが、霊界で既にそれを知り、決定的ページをめくったあとを、地上がついていっているということを知らなければなりません。元来、堕落しなかったならば地上が先で、霊界があとになるのが原則なのですが、逆になったのです。(一三一―四〇)
ですから霊界を一つにしなければ地上で一つになれないのです。地上で一つになれなければ霊界でも一つになれないのです。運命共同体だというのです。見てみなさい。西洋人たちが東洋人と結婚し、東洋人たちが西洋人と結婚するということはとても良いことなのです。
それは何かというと、霊界が西半球と東半球とを回るのです。皆さんの心が皆さんの心ではないのです。天運がそのように回るので、皆さんもそのように回るのです。それでレバレンド・ムーンが仲介所の役割をするのです。私がこのダイナマイトの導火線に火をつけておくのです。さあ、ドイツで作った火薬、イギリスで作った火薬が、怨讐だからといって爆発しないなどということがありますか? 火をつければ「バーン」と、みんな爆発するのです。愛も導火線に火をつけてやれば、みな爆発するようになっているのです。もっと強くなれるのです。そのようなことが起こるのです。
霊界で見るとき、先祖たちが「はあ」とどれほど喜ぶでしょうか。すべての人種が「はあ」とどれほどうれしがるか考えてみなさい。(笑い) 霊界でも、今まで白人は白人同士でいるというのです。黒人は黒人同士でいるのです。霊界も全部分けられているのです。黄色人種は黄色人種同士が相対峙してこのようで……。今回、地上ですべてこうであるから、お互いがぶよぶよになって一つになるのです。統一が成されるのです。さあ、ですから一つの世界になるのです。「天において成されるとおり地においても成されますように」と言ったのと同じく霊界でそのようになるので、地でもそうなるのです。それを知らなければなりません。さあ、先生は偉大なことをしましたか? どうですか? (偉大なことをなさいました)。(拍手) (九九―一八八)
霊界を統一できなければ地上統一ができないのです。ほんの小さな、ここに立っている人が霊界を統一できる能力をもっているのです。もっているだけでなく統一したというのです。イエス様、孔子、釈迦、全部私に協助しなければなりません。ですから、よく信じて通じる人は……。きのうも仏教を信じる人が、先生のところに来て三拝敬拝をして、こう言ったのです。「私の両親が、文先生のために二十四時間祈祷しろと私に命令するので、どうしてそれをしないでいられましょうか?」こう言うのです。お釈迦様も協助しなければなりません。協助しないならば、私が天法を適用して公法に引っかけるのです。そのような能力がある人なのです。分かりましたか?
孔子であれ、回教の道主であれ、これからはすべて溶けてしまうのです。共産世界までも今現在、霊的分野にあっては全部侵蝕されてきているということを知らなければなりません。何のことか分かりましたか? 皆さんが明き盲になっているから分からないのであって、少したてばガチャガチャ……。いつこうさせるのか分からないのです。(八二―三〇九)
3 先生は霊的世界の最高の専門家
霊的世界の専門家が文なにがしではないですか? (はい)。それはノーベル賞を受ける人ではなく、ノーベル賞を受ける人を審査する委員長なのです。彼らがどんなに霊通しても、その内容がどんなふうになるのかを知らないのです。それは統一教会の文先生に習わなくてはなりません。そうでしょう? ですから世界の霊通した人たちはすべて私の子分たちです。
それで全世界の霊界が……。アメリカを見てみなさい。今、心霊科学でいうには、地上人一人に三千三百二十名という数の霊人たちが動員されて、くっついていて協助しようとしているのだそうです。その霊界の霊人たちが何千億になるでしょうか? それを四十億倍すると何千億になりますか? そのような膨大な霊界の霊人たちが、統一教会の文なにがしの子分になるというわけです。気分がいいですか、悪いですか? (いいです)。こうなのです。分かりましたか? (はい)。
ですから仏教を信じている現在の信徒会の会長だという人が、毎日のように先生の所へ来て、「お釈迦様が先生に侍りなさいというのです」と言っては先生に敬拝をするのです。彼らも私の世話になれば解放されるのです。
イエス様はどうでしょうか? イエス様も念願を成就しようとするならば、私が橋を架けてあげなければならないのです。こんなことを言うと、既成教会の信者たちはそれこそ足がこわばって固くなるでしょう。固くなるのです。(笑い) 私がうそをつけば天罰を受けるのです。それをよく知っている人です。私は事実を話しているのです。イエス様も私が上げてあげなければ駄目なのです。こういう事実があるのです。分かりますか? 孔子とかお釈迦様とかマホメットとかみんなごちゃごちゃにして、韓国の聖君賢者もみな、私たち統一教会で出世するために神命をささげようとしているのです。既に門を開けてあるので順次……。
このようになれば、これからは町内ごとに霊通が起こります。神様に対して教え、教育しなくても、誰でも「神はいない」と言えば「いなーい」という言葉がなくなり「いるー!」というふうになるのです。それが何のことか分かりますか? 「神様はいない。神様はいない。神様はいない……」と言うと、口がピタッとくっついてしまうのです。そうなり得る時が来るのです。それこそ超非常時局だというか、何といえますか? そのような時が来ているのです。
見てみなさい。今から二百年前に「ああ、大きな鉄の塊が人間を五百人くらい乗せて空を飛んでいく」と言ったなら誰がそれを信じますか? 信じますか、信じませんか? それを信じろというのは気違いざたか、魂が抜けた人なのです。気のふれた人。今は? 今はどうですか? 信じないですか? (信じます)。今から百年前に「ああ、こいつの鉄の塊が水の中で泳ぐ魚のようにどこにでも行ける」と言ったならそれを誰が信じますか? 信じますか、信じませんか? (信じません)。見なさい。今の人工衛星の話を三十年前に「いやあ、船のような空飛ぶ船に乗って地球から星の国に飛んでいく」と言ったならそれを信じますか? 信じますか、信じられませんか? (信じられません)。信じられないのです。
では、文先生が今話していることを信じますか、信じられませんか? (信じられません)。それが三十年前に信じられなかったことと同様に、三十年後にこのようなことができないと誰が自信をもって話せますか? 誰が自信をもって話せますか? ここにいる教授たち? (笑い) 馬鹿なことをしているというのです。彼らよりも私の頭が、アンテナが高く、観察する目も大きく……。世界的に有名になることができる素性があり、素質があるために有名になったのです。
さあ、ですから一言ですべての意味を知って信じてみなさい。信じてみなさい。信じにくいならば信じるということにしてみましょう。(笑い) そうですか、そうではないですか? 信じて損することには何がありますか? これはこうなのに「こうではない」と言ったり、逆立ちして歩けるというのに「歩けない」と言ったり……。(八三―一一六)
過去に聖人聖者が大勢いましたが、このような世界的舞台に、「反対をされても一人孤独に闘うぞ」と言う男は私一人しかいません。(拍手) ですから霊界は「頑張れ、頑張れ、頑張れレバレンド・ムーン!」と言っているのです。見なさい。ヤンキー・スタジアムが大きいですか、霊界が大きいですか? (霊界)。霊界にどれほど多くの人口があるか考えてみましたか? 今、霊通する人々の言うことを聞いてみると、一人当たり三千三百二十余名の霊人たちがくっついて歩いている計算になるというのです。(笑い) そのような味方がいるということを考えたとき、この世に負けますか、勝ちますか? 考えてみなさい。
その霊人たちが原子爆弾を恐ろしがるでしょうか、大砲を怖がるでしょうか? (怖がりません)。(笑い) それと同じように皆さんも銃弾を恐れないで、原子爆弾を恐れないで、国を恐れないならば、絶対に負けないのです。(笑い) 間違いなく勝利するのです。超越しなければなりません。皆さんは反対するけれど「行け」と命じ、私はひらりと飛び越えてあとからぴったりついていって、すべて行ったあとで門を閉めて、私が主人としての役割をするというのです。(笑い) 全部通り過ぎたなら門を閉めてしまうというのです。さあ、そのような考えをしながら、今闘っているのだということを知らなければなりません。
霊界に行っている霊人たちが、レバレンド・ムーンがそういう考えをしているのを見るとき、くだらないと考えますか、痛快だと考えますか? それこそ口を開いて、目を見開いて、うれしくて「はあ」と、そうしなければならないのです。そのようなことを神様が御覧になるとき、「いい見せ物ができた。はあ……」。(笑い) そうなるしかないではないですか? ですから神様から、霊界から、天使から、その次には地上にいる考える人、世界を愛する人は、「ああ! レバレンド・ムーンはよくやる、よくやる、よくやる」と言うのです。今や、もう少しすれば、ガチャガチャとそれこそ国が飛びついてきて世界が動いてくるというのです。(八六―一九三)
4 統一教会の信徒のあとには数多くの霊人たちがついて歩く
霊界には霊人たちがどれほど多くいるでしょうか? 霊人たちはどれほどになるでしょうか? うん? (七百億ぐらいになるのだそうです)。七百億? (はい)。その霊界が全部味方なのです。分かりましたか、何のことだか? (はい)。(一六七―三七)
それゆえに皆さんが今仕事をしているそのことを、皆さんがするのではないのです。ここにいる皆さんの後ろには、数多くの霊人たちが連結されています。もちろん皆さんの先祖たちが連結されていますが、特別に信じている宗教があればその宗教の宗主を中心にして、皆さんが動くところに完全に集中されるようになっています。ですから信じて打てば、壊れて出ていくというのです。ですから自分一人だと思うなというのです。数万、数百万の霊人たちが動員されているのです。
ですから四千万が問題ではないのです。霊界の何千億にもなる霊人たちが、全部地上で左右を中心にして畝を作ろうとするのです。ですから畝を作ろうとすれば……。固い畑を耕そうとするならば、耕す姿がしっかりしていなければなりません。その次には牛が丈夫でなければならず、その次には耕す人が力強く押してあげなければなりません。牛がいくら丈夫で、いくら姿がしっかりしていても、耕す人が力強く押してあげなければならないのです。
ところで牛と犁は全部準備されているというのです。今、霊界が牛のように引っ張ってくれているのです。犁は私たちのみ言を中心にして入れなければならないのです。ではこれを誰が押してあげるのですか? これは皆さん、責任者が押してあげなくてはなりません。それでこそ深く耕すことができるのです。これは皆さんの信仰いかんにかかっているのです。それを知らなければなりません。(一六四―一六九)
神様と霊界がそのような私の目的を知っています。彼らが皆さんを見守っているのです。それなのにどうして中断できますか? どうして足を投げ出して眠って休めますか? 神様はこのすべての状況を見ていらっしゃるということを確実に知らなくてはなりません。心は知っていますが、肉身はそうできません。反対に行くのです。すべての環境が皆さんを誘惑します。皆さんはそのような環境を見ることができるのです。今や私たちの時が来ました。け立てて出ていかなければなりません。続けて前進しなければなりません。
皆さんはすべての所を占領できます。神様はいつも皆さんの横で、皆さんを保護なさっているのです。そのような環境の中でも私たちを保護なさいます。皆さんはそれを考えなければなりません。神様はどれほどそのような時を待ってきましたか? そのような時が私たちに来たのです。皆さん、前に出ていかなければなりません。勝利するその日まで前に出続けなければなりません。終着地まで。分かりましたか? (はい)。
これが私たちの使命です。私たち人間の責任です。個人的、家庭的、国家的、世界的なすべての圏内でそのような責任を負わなければなりません。その基盤の上で神様の愛が実現され得るのです。また、霊界が皆さんをどこででも絶え間なく助けてくれるのです。よく分かりましたか? (はい)。これを確実に知らなければなりません。皆さんが問題です。(一六二―九四)
これは本物の統一教会の信徒でなければ、信じない人には分からないのです。地上ではさっとたやすく生きられますが、霊界では足を置かなければなりません。私の前に誰か助けてくれる人がいなければなりません。個人的に助けてくれ、家庭的に助けてくれ……。このような愛の代表が、世界的に代表できる連中が統一教会の連中ですから、この統一教会の連中のあとには、数多くの霊人たちがついて歩くのだということを知らなければなりません。皆さんの後ろをついて歩いているのです。皆さんの先祖の中で善なる先祖が順番に、より善なる先祖が先に立って……。その先祖の後孫の中で、統一教会に入った後孫の相が自分に似ていれば、それのみを取っても好きになるのです。
「いやあ、私に似ている!」。善なる先祖であれば、それだけ自分に似ていればどれほどうれしいでしょうか。もし行っては、統一教会に連結されれば霊界と肉界が大変な騒ぎなのです。あっちのほうでは支持しろと言ってついて来て、頼りに協助しようと大変で、地上のほうでは、できないと言って大変で、このような現象が起こるのです。(九二―二一二)
今日の私たち統一教会は少数の集まりであり、反対されて心細いと思いますが、皆さんが知らない間に全世界的に垣根を壊して洪水のように押し入ってきています。大きな洪水が起これば、ほんの少しすき間のあいている犬用の出入口があれば、そこを通って洪水がふうっと出ていくのです。同様に、私たちもそうなるのです。私たちがそこに案内できるわき道を少しだけ開けておいたのですが、大きな洪水のようなものがこれを通じてあふれ流れています。
さあ、考えてみてください。神様が今まで地上復帰を心配していらっしゃり、地上に生きてから霊界に行った善なる霊人たちと、神様のために死んだすべての犠牲者たちが、全部地上復活の完成を望んでいるのですが、神様がお出ましになる時、霊界のそのすべての霊人たちを連れて下ってこられますか、連れて下ってこられませんか?(連れて下ってこられます)。その霊人たちを連れて下ってきながら、世界の人々がお互いに愛することのできる綱がなわれる条件を立てなければなりません。今日、統一教会が出てきて世界の兄弟たちをすべて愛することができる条件を、ここにかけておいたためにどっさり下ってくるのです。(九〇―一九八)
結局は霊界という霊界は、すべて文鮮明先生を出世させるために……。心霊科学の世界では今どんな評価をしているのかというと、地上の一人の前に三千三百名に該当する霊人たちがいるというのです。これからその霊人たちが下ってきて協助するのです。それは何を指すのかというと、三千三百名の四十億倍ならばいくつですか? 何千億になりますか? そのような霊人たちが霊界に集まっているのですが、優れた人であろうと、さえない人であろうと、統一教会の文先生一人を出世させようと総動員しているのです。何のことか分かりますか?
見てみなさい。高い霊界と通じる人に先生の姓名三文字をさっと持っていってやり、「この方に対して祈祷してみてください」と言ってみなさい。祈祷してから「ああ」と言って敬拝するのです。「先生!」と、そう言うようになっています。何のことだか理解できますか? (はい)。それこそ明き盲であり、神経が麻痺した人は理解できませんが、私は専門家だから明らかに知っているのです。(八二―三〇八)
5 私と霊的体験
皆さんの体と心が一つになるにあたって、本格的な教育をしていかなければなりません。心の声を聞きなさいというのです。その声は苦労すれば苦労するほど、近く聞こえるのです。それで共鳴体になったということを感じなければなりません。そうして、皆さんの手を見るようになれば、手が光を発するのを見ることができるのです。そのような立体的な神秘的な体験が起こるのです。分かりますか? 間違いなくそうなのです。
ですから不平を言うなというのです。イエス様は十字架を背負いながらも不平を言いませんでした。それと同じです。それは今日皆さんの生活にも当てはまる鉄則なのです。そのような心が強ければ強いほど、そういう行動が強ければ強いほど皆さんの体、心が共鳴体になるのです。それが最大限になればどうなるのかといえば、私が夜、誰かを抱いてあげて一緒に寝るとき、その寝ている人をじっと見てみると、それが誰かというと、私だというのです。霊人体が私を抱いて寝るということを発見するというのです。自分の霊人体であることを知るというのです。分かりますか、何のことか。(はい)。
人間はそうなっているのです。そのような体験をしなければならないのです。それを体験するためには必ず犠牲の過程を経なければなりません。先生が監獄生活をしながら一番印象的だったことが何かというと、難しい苦労をしたことです。そのようなことがあればあるほど、霊的な心との共鳴圏が鋭敏になるのです。普通の人ならば耐えられないほどの重労働をしても、体は労働をするけれども、心は労働をしないのです。こういうことをするようになれば霊的な体験が実に早くなるのです。そして、そのような体験をするようになれば、体の疲れはすべて逃げていってしまうのです。必ず体験しなければならないのです。分かりましたか? この体験をしないならば、霊界へ行って共鳴がうまくいきません。そういう体験をもつように努力しなければなりません。それで、霊的に体験して、夢うつつに先生に会うことが少しずつ多くなってきているのです。
そうなればなるほど霊眼が広くなるのです。そうであれば、座ってこう見れば先生が何をしているのかすべて分かるのです。ですから、皆さんは家にいても、皆さんが父母様に侍り一緒にいることができる圏内に入るのです。それを見るのです。本当に来て生活するのを。そうすれば霊界は自動的に開くようになるのです。そうなっているのです。それは現実的問題です。これは妄想でなく現実的問題です。このようにしてこそ、皆さんが活動するようになれば、霊界がすべて協助するのです。自由自在に協助して、することは横的に拡大されるのです。(一〇二―四八)
宗教は「捨てろ! すべて取って片づけてしまえ!」と言うのです。分かりますか? (はい)。そのように否定をしながら一つだけ望むこととは何ですか? 全部否定して私までなくしてしまえというのではなく、「私は復活しなければならない」という思想です。復活しなければならないという思想。分かりましたか、何のことだか。(はい)。それで私の確信を、宇宙よりも大きい確信をもたなければならないのです。私は善の立場で神様の身代わり、この宇宙の代わりになります。どんな立場でも私は変わりません。分かりましたか、何のことか。(はい)。
では、その次にはどんな現象が起こるのかというと、霊的に攻撃が来るのです。霊的な攻撃が来るのです。霊的試練と肉的試練があるのです。皆さん、それを知っていますか? 皆さんが統一教会を信じながら、霊的にあるいは肉的にそのような試練を受けてみましたか? (はい)。男性が男性として勝利したということを、何をもって認められるかというのです。どうすれば男性として勝利した男性になれるのか? 男性が男性同士で闘って勝つということですか? (違います)。それは女性が試練をするのです。この女性の試練を無慈悲に切ってしまえばいいのです。どれほど美人が現れて私を魅惑しようとしても、びくともしないようでなければなりません。(九五―八八)
霊的世界を体験するということは、すなわち四次元の世界に通じるということです。また、そのような時には何千年も前に生きた預言者、先烈たちも今日の私と因縁を結んで対話もできるし、相談もできるのです。すなわち、今日の実際の生活的時間圏の中で私が経験でき、また皮膚で感じることができるのです。(四―二二五)
私たちは神様の心情を話します。神様の心情がどこにあるのかというとき、祈祷の中で音声を聞いてみれば「先生の言うことをよく聞け。先生を悲しませてはいけない。先生を喜ばせてあげなさい」と言うのです。それしかないのです。そう教えてくれるのです。そして、先生に会いたくて夜も寝ずにいると霊界が開くのです。一番早いのがそれなのです。霊界が開かれるのです。先生がアメリカで何をするのか、座っていて見えるのです。そのようなことが起こるのです。これは漠然としていた信仰の主体的対象を、現実的な実体的主体として、横的舞台で体恤できる圏を形成したというのです。このような事実は、宗教世界に偉大な革命を提示することであるということを、皆さんは知らなければなりません。ですから、体恤がなくては駄目だというのです。(七六―一五二)
二 霊的役事と霊界協助
二 霊的役事と霊界協助
P1031
1 霊界はとても膨大な心情の世界霊界の事実は、本に記録するとしたら、何万冊の本でも記録できないくらい多くの内容があるのです。今まで人間たちに見せて教えてあげた霊界は、一部分ですから、今までの霊界を紹介した本では全体の霊界を解明することはできないのです。
聖書に記録されたみ言が、人間の行かなければならない信仰路程の全体を含んでいるみ言なのか、全体の価値を回復させることのできる内容を備えているのかというとき、私は、「そうではない」と言いたいです。このようなことを言えば、悪口を言う人がいるかもしれませんけれども……。それで信仰の条件として「イエス様を信じよ」と言うのであり、神様は人間たちがイエス様を最大の価値をもたれた方として信じるようにするためにいろいろ役事をされたのです。(三―二〇)
皆さんは、霊界がどれほど複雑か知っていますか? 論山ハルモニも霊界の役事をしていますけれども、そのようなすべてのことを先生が知らなかったなら、この統一教会は壊れてしまったのです。数多い霊通人たちが来て、これをすべて収拾できるようにしてあげるのです。
この原則的な世界観を中心にした個人的な批判基準、家庭的な批判基準、氏族、民族、国家、世界的な批判基準、神様が見ている批判基準をどのように立てるか? その批判基準は、時代の変遷によって変わるものではありません。絶対的な時代を擁護して、絶対的な時代を消化できる基準を探していかなければなりません。そのような基準はどこにありますか? それは心情があるところです。神様の心情を感じ進んでいかなければなりません。これらが神様の心情なのか、何なのか、夢にでも考えてみましたか? 明き盲になってしまって、駄犬になってしまって飛び跳ねているのです。方向を知らず、目的も知らない船は難破するのです。(七一―四九)
皆さんが知らなければならないことは、霊界は神様を中心にした一つのセンターを中心にして、すべてのものが連結されているというのです。しかし地上ではそれができないでいます。センターがないというのです。悪を中心にしたセンターになっているので、すべてのことが相反しているのです。
ですが、霊界はすべて統一です。同じ階級でなくても級が高いものもいるし、もちろん地域もすべて違いますが、すべてのものが天に従っていかなければならないということを知っているのです。低級の霊人たちも、神様を中心にして従っていかなければなりません。それが信仰観念のように、生活の目標になっているのです。それが永遠の生活目標になっているのです。地上にはそれがないというのです。(一六一―二二〇)
2 今は霊界が地上を襲撃する時
今や私たちの前には霊的世界の侵攻時期が近づいています。今日地上で私たちが理解できない奇異な現象がたくさん起こっています。ですから皆さんは、ここに自分の霊力を身につけなければならないのですが、それができない人は押し出されてしまうのです。押し出される人は自然に審判を受けるのです。(四―一五四)
今までの歴史過程ではどのようになったのかというと、二人が闘えばその中で少しでも善なる者が勝ちました。それが原則です。地上世界が一つの理念圏の中に入るようになれば、どうなるのか? 地上よりも少し善なるものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日の名も知れない神経症とかいう神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは天地雙和湯を飲まなければなりません。
天地を和動させることができ、地を和動させることができる、こういう理念のために霊界が地上を襲撃する時が来たというのです。地上人が地で神様のみ旨の代身者となる時ですから、一つになるためには必ず闘いがあるのです。二人が闘ったあと一つになる時が、天が中心になって合わさる正に審判の時です。このように霊界が地上を襲撃する、このような局面で地上を代表することのできる総指揮官の使命をもってくる方が再臨主だというのです。
第三イスラエル建設路程の出発に臨んでいる皆さん! 皆さんはどのようにしなければならないのですか? 霊界の法度を知ってこそ抜け出せるのです。その使命系統がどうなっているのか知らなければなりません。その国の軍隊は味方の軍隊で使っている暗号を知ってこそ、戦争をするときに味方から攻撃されません。
この時は天の国の暗号が聞こえる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、また、人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代なのですが、このような暗号を通じて連絡できるし、作戦計画を遂行することもでき、地上統一理念の代身者になれる時代であるのです。(三―三五三)
今日までは地上世界を霊界の悪い霊たちが襲撃してきましたが、今からは善なる霊人たちが来て人間を救ってくれるようになっているのです。過去には悪い霊たちが襲撃して地獄に引っ張っていきましたが、今や、善なる霊人たちが襲撃して天国に連れていく運動が起こっています。反対の世界になるというのです。
堕落しなかったならば、アダム・エバは霊界のどこでも行けるはずでした。地上のどこへでも思うとおりに行っても、反対する者は一人もいなかったはずです。神様の愛を中心にした一つの血統的基盤を正常化させたならば、神様を中心にした息子、娘たちは世界のどこにでも、霊界のどこにでも通じない所はなかったのです。それを知らなければなりません。皆さんが知らなければならないことは、堕落したために根が違ってしまったということです。(一六一―二四八)
皆さん、今までは悪い鬼たちが、悪い霊たちが全部、病気をくれたり災いをくれたりしたものです。悪い霊たちが活動する時は、とても体がびっくりして震えて恐ろしいのですが、善霊たちの時はわけもなく良いのです。とてもわけもなく踊りたくて、こう……。(笑い) サタンが役事すれば、寒い部屋で体がこわばるのと同じようなことが起きます。それを私たち統一教会とサタン世界で感じなければなりません。
統一教会に来ると、わけもなく良くて自由だというのです。心が良く、何であろうとしても自由ですが、自分の家に行くとぎごちないのです。自分の家に行ってもそうだというのです。サタン側にいるようになるとぎごちなくなり、お母さん、お父さんが話すことが変であり、すべて嫌で、とこうなります。愛した夫、妻までみな嫌になるのです。さあ、そのようなことを感じる人は手を挙げてみなさい? 下ろして。それを感じない人は全部偽者です。偽者。(笑い) 世間の人々は今……。アメリカでもそうであり、世界の人々もレバレンド・ムーンがどんな神秘的な力をもっているのか、どれだけ研究しても分からないのです。統一教会の信徒になってみるまでは分からないのです。(九〇―一九八)
さあ、さっと一つの峠だけ越えれば、霊界があるのです。これからは、今や超感覚的時代が来ます。霊通しない人がいない時が来ます。今や人々がこの地球を襲撃する時代は過ぎ、次には霊人たちが襲撃するのです。サタン、悪鬼が今襲撃していますが、善なる霊人たちが襲撃する時が来るのです。そのような道を築くために私がこうしているのです。子に対する親の立場を見ても、愛する位置で、愛する心をもって、その子のために与えることのできる親がいるから良いのです。
皆さん、今やこれくらい来ました。誰が否定しようと行かないわけにはいかない道です。また、死の道を行かないわけにはいかない道です。一人行くようになる時はどうしますか? 荒涼とした霊界が展開されるならば、どこへ行きますか? 国籍はありますか? 国籍のない民族がどこに行きますか? 家がありますか、どこに行きますか? 一番恐ろしい世界になります。そこにはサタンが来るであろうし、天使も来るのです。サタン側に立っているならば天使も来ません。(六一―三二七)
今、霊界では雲のように多くの霊人たちが地上に下ってきています。もし私たちが霊界を知らないなら、彼らの協助を失うようになるのです。私たちが活動するにあたって霊界が協助して、彼ら霊人たちの協助を受けて仕事をするならば、私たちの目標がもっと早く成されるのです。
私たちの将来にどんな災難が降りかかるか分かりません。私たちはそれに備えてすべての準備をしなければなりません。世界各国に派遣された宣教師たちが今の宣教の基盤を構築することができたのは、霊界の協助があったからです。私たちは宣教活動をしながら、自分を保護できる対策をもっていなければなりません。霊人たちは先生が誰なのか、何をしているのかを知っています。ですから先生の写真を所有している時、霊人たちはその人を助けて、難しい局面を打開させてくれるのです。そして保護してくれるのです。
皆さんは真の父母に仕えて従う、運命の道に入ってきている群れです。それゆえに私たちは、サタンと闘うにあたって第一線に立った兵士と同じです。ですから霊的保護と協助が必要な立場です。私たちすべては、私たちの前に置かれた障壁の山を越えることを望んでいます。(一三〇―二九一)
3 善なる人には善霊が、悪なる人には悪霊が協助
今日、人間世界に住んでいる皆さんは、人間世界を中心に霊的現象を見ることができます。いかなる時代やいかなる時でも、宗教人はもちろん、その他の人々も、霊界の因縁に従って、霊界と混合された生活圏で生きているということは歴史的実証です。歴史過程を見ても、そのように生活してきたという事実は、私たちが宗教を信じなくても、夢を通してだとか、いろいろ神秘的な体験を通して知っているのです。
それで霊界を見るようになれば、善なる神と悪なる神があり、地上ではその影響を受けて善なる人と悪なる人に分けられるようになっています。それは理論的な結果です。論理的だというのです。ですから良い人、悪い人という概念は何ですか? 善神の協助を受ける人と悪神の協助を受ける人がいるのですが、その二種類の形態の内容をもって良い人、あるいは悪い人だと結論を下すのです。(一三一―一六七)
霊界は今までは何をしてきたのですか? 神様を除いて見るとき、私たちの先祖たちは今まで何をしてきたのですか? 地上に荷物を背負わせようとする輩は悪霊であり、地上の荷を背負おうとする輩は何ですか? (善霊です)。善霊です。それはなぜ善なる霊なのですか? 善霊はどうして善霊なのかというと、神様に、神側に合わせたからです。
では、善なるものの中でどんなものがより善なるものですか? 皆さんがこれを確実に知らなければなりません。善であり、悪であり、何であり、と大ざっぱな計算をするみたいに適当にやってはいけません。善の中でもどのようなものがもっと善なるものなのかという問題を取り上げてみると、その個人の苦労を代わりにしようという人よりも、家庭全体の苦労を代わってあげようとする人がより善なる人であり、個人に責任をもつ人よりも家庭に責任をもつ人がもっと善なるものです。そうではないですか? (そうです)。どうしてそうなのですか? 神様がそうだからです。神様がそうしてこられたのです。
神様が今まで摂理してこられた目的は何のためですか? 人間個人の幸福のために、個人の目的を達成するために仕事をしてきたのではありません。全世界が願う目的を達成するために働いてくるのです。個人を探し求めることはその個人を探して家庭を探すためであり、家庭を探すことは氏族を探すためなのです。こうして民族、国家、世界へと少しずつ範囲を広げていくのです。(六二―一九一)
今日、キリスト教が世界的な宗教になったのは、その時代ごとに、難しい環境がある時ごとに犠牲になり、願ってきた望みの天国、終わりの日に来て一つの理想的天国を実現することを目標にしてすべてのものを犠牲にして、生命まで犠牲にしてその量を満たしてきたからです。個人的量を越えるようになる時は、家庭的量の時代に越えていくのです。私たちは知りませんが、天が収拾するというのです。そのような民族があったならばその民族は知りませんけれど、個人時代を越えて家庭時代に誰が連結させますか? 天が連結させるのです。霊界が動員して「お前はこういうふうに行かなければならない」と、その時ごとに霊的な世界の指導方針を通じて環境を引き継いであげる業をしたのです。その時ごとにそれを受け継ぐ先覚者や預言者たちにあっては、その環境的時代の立場と歩調が合いませんでした。反対的な現象が起こりました。それで理解できないのです。(一六八―八二)
皆さんが一つ考えなければならないことは、霊界は二十四時間休まずに活動するということです。時間と空間を超越しているという事実を、皆さんは知らなくてはならないのです。霊界で霊人体は寝る時間が必要ですか? (いいえ)。それを考えてみなさい。どれほどすごいことか。それが良いのですか、悪いのですか? (良いです)。何が良いのですか? どうして? (一〇七―一三)
三次七年路程になる前の歴史と、三次七年路程になった今後の歴史は大変異なっています。この三次七年路程を中心にして悪の勢力は今から下っていかなければならず、善の勢力は上っていくのです。ですから三次七年路程というこの期間は、霊界と肉界が交差する時期にもなることを、皆さんは知らなければなりません。
霊界を中心にして見ると、悪い霊がいるのと同時に中間の霊がいますし、善なる霊がいます。三段階の蘇生、長成、完成、このような段階にとどまるのと同様に、三次七年路程が制定されることによりどんなことが起こるのかというと、善なる霊たちが地上に連絡することのできる道ができるというのです。そうなるしかないのです。蘇生・長成圏がサタンの主管圏内にとどまって、悪なる勢力の版図圏内にあるので、悪い霊が主導的な役割をし、悪い人間が世界をすべて料理してきました。ですが三次七年路程が制定されたその時からは、これが交差し始めるのです。
交差する時は霊界が下ってくるのですが、悪い霊から下ってきます。交差される時は中間霊界を越え、善なる霊界に越えていく時ではないのか。これが越えていく日には善なる霊と善なる人々は上っていき、悪い霊と悪い人々は下っていくのです。今までは善悪がお互い上ったり下ったり、このように交差しながらごちゃ混ぜになってきましたが、今からは善と悪が完全に分かれ得る、新しい次元の時代に入っていくのです。
ですから今から問題になることは何でしょうか? 善なる個人とその個人を中心にした善なる家庭、善なる氏族、善なる民族、善なる一つの国家形態、サタンが一つの国家を形成しているのと同様に、その国家基準以上の基準さえ越える日には、完全な善が全世界を支配できる時代に入っていくのです。(七五―一九三)
さあ、百ぐらいの力をもっている輩がいるとすればどうでしょうか。それに勝つためには百十、百二十、二百の力を合わせなければなりません。ですから、戦争という過程を通して、人類は自分たちも知らないうちに大きなブロック的発展、統合発展圏に移動してくるのです。闘いをすれば、必ず善なる側と悪なる側とに分かれます。善なる側は神様がコントロールし、悪なる側はサタンがコントロールしますが、いつでも善なる側が勝ち進みます。善なるほうが勝ち進むのです。結局、この闘いの歴史は、堕落した人間の戦争の歴史ですが、その背後で悪神と善神の戦争歴史としてつづられてきたということを、人類は知らなかったのです。
人をして闘うこの闘いには、死んでいった霊たちまでも合同攻勢をしてくるというのです。善なる人は善なる霊が協助し、悪なる人は悪なる霊が協助するのです。そうして悪なる人はサタン側へ、善なる人は神側へ……。このように霊界が連結されて闘いの歴史を連結してきたということを、人類は知らないでいたのです。(一六一―一三)
4 霊界の協助を受けようとするならば
統一教会の信徒たちは、自分を中心にして生活しないで、全体のために生きるならば、すべての善なる霊たちが守ってくれるのです。ですから、どこへ行っても心は安らかで……。すべて保護してくれるのです。霊界へ行けば、霊界は人のために生きた人々が行って住む所ですから、自分を中心にした人々は一番困るのです。「ために生きる」世界に入っていった人々は、「人のために」という方向の心をもって生きたので、そのすべての世界に対して自分が関係を結んで前進できますが、自分のために生きた人々は背を向けるのです。背を向けるのです。そこからしきりに追い出すからです。ですから、そういう人々同士が集まって地獄に行くのです。
それで、今そういう善なる霊たちが下ってきて皆さんを協助して、先祖たちが全部協助するのです。(一六四―三〇八)
私たちのみ旨に対する天的生活において、一番重要なこととは何でしょうか? 天の前に同情を買うことのできる生活です。同情を買うことのできる生活。
今日、地域長ならば地域長として天が見る基準があるというのです。十なら十くらいの基準をもって天が見守っているのですが、ここで動かないことが五くらいあるとしましょう。そういう時は、五くらい反対的な条件が作用して、食口たちは落ちて出ていくのです。落ちて出ていくだけでなく、私のすべての環境が一遍に押し寄せてくるのです。こうなって、一度責任を果たせなくて倒れる地域長になってしまうならば、彼は再起の余地がないのです。
しかし、その環境を看破して、天が望む十だけの基準の前に私が十二、十五くらい動いたならば、天が探し訪ねてくる十ほどは私のものとして成され、私としては天の責任を果たす立場に立ち、五くらいはその地方に蒔いていくのです。蒔いてからは、これはいつでも私によってそうなったのだから私が管轄できる一つの基盤として残り、この蒔かれたものはこの時代の運勢とともに生命の役割を身代わりできる基盤になり、ここから天が動くことのできる基盤になるのです。
この基盤だけ残っていれば、必ず霊界は協助してサタン世界を打ち破ることのできる基盤として、活動舞台を取ることのできる条件が残るので、天に対して行く人の前にあっては、いつでも天が同情できる立場に立つというのです。天が同情できる立場に立つようになれば、天を指向するすべての良心的な人たちは自動的に同情を受けるようになるということは、天地の原則なのです。(一五三―二八一)
皆さんが知らなければならないことは、皆さんの心霊状態が最高に達したとき、決心をして天のために動いてあげれば、霊界から善なる霊たちが下ってきて皆さんに協助するというのです。ところで、皆さんの心霊状態が落ちれば、そのように協助していた霊たちが一人、二人と去るのです。去るようになるとき、その霊たちがどれほど悲しむだろうか、去っていつまた地上に来て協助するだろうかというのです。一度去って再び皆さんの所へ来るのは難しいことなのです。ですから、一度は霊人たちを次第に増していくことのできる自分の行動が必要だということを知らなければなりません。それでこそ、皆さんのすることが早くはかどって、発展していくのです。天運がついてくるのです。天運が……。何のことか分かりますか? (はい)。(一六一―二七三)
霊界が総動員して再臨して、協助するのです。皆さんはこれを知らなければなりません。皆さんは、一つの条件でも霊界よりも一生懸命にしなければならないのです。アダムは天使よりも熱心にしなければならないのです。同じです。霊界が協助するということは、私の世話になろうとするのです。私に霊界の世話をさせようとするのです。霊界では皆さんの世話になろうとしているのです。ところで世話をしてあげる者が、主人になる者が、世話になろうとする霊人たちより駄目でいいのですか? それで主人になれますか? 分かりますか、何のことか。
それでその地方の霊たちが協助するようにするには、その地方に今まで住んでいて霊界に行っているどんな人よりも、神様に忠誠を尽くすことにおいては絶対負けないという信念をもたなければなりません。(一〇二―九八)
皆さん、霊界の協助がなければ駄目なのです。霊界が協助しようとすれば真実でなければなりません。すべて真実でなければならないのです。神の息子として、堕落したすべての血統的な内容を超越した純粋な立場で、神様の心に似て、神様がいつも考えざるを得ない息子の位置を探さなければならないのです。それを知ることができますか? 原理を知れば、それを知ることができるようになっているのです。(七五―一八〇)
水で話せば、そっちは高い水で、私が低い水ならば、私は落ちて下っていくことはできないというのです。高い水がいつでも私に接近してこようとするのです。ですから真空状態になれば、高気圧圏は自動的に来るのです。それが原則です。
それでレバレンド・ムーンが行くのに、そのような低気圧圏を連結させてあげるのです。善なる霊たちがすべて殺到してきて善なる運動が起こるのです。すなわち、新しい運動が起こるのです。それで先生が行く所はいつも問題なのです。じっとしていても闘いが起こるのです。外では良いとか悪いとか、甲論乙駁して大変なことになるのです。今もどれほど大変ですか? 今ごろになって、レバレンド・ムーンが良い人だと証をして入ってくるのです。そうでしょう? (一三一―三三)
一九八〇年代だけ越える日には……。驚くべき計画があるのだけれども、今はそれは話しません。さあ、そのように知っておいて、強固に耐えてこの統一教会に入ってきた驚くべき自負心をもち、どんな障壁を打っても岩壁を打っても穴を開けていくという信念をもって、皆さんが進んでいき活動してくれることを望みます。そして霊界でたくさん協助するのです。皆さんは自分がしていることは間違いなく成功するという自信をもって、霊界の保障を受けて出発しなければなりません。そして活動を、し続けなければなりません。何のことか分かりましたか? (はい)。そうしようとするなら、誰よりも潔い心、善なる心をもち、祈祷して、天の拍子に合わせながら進んでいかなければなりません。そうしながら、蕩減の路程を感謝してやりのけながら行くという生活的訓練をしなければなりません。皆さんが今、探してでもそのような行いをしないでは発展できないのではないか、こう考えるのです。(八八―二六一)
ではなぜ、霊界が皆さんに協助してくれないのかというのです。この原則に一致できないので、協助してあげるわけにはいかないのです。協助してあげれば、結局サタンを助けることになるのです。(九七―一七六)
霊界というものは、そのように適当に動くものではないのです。原則に立脚せずしては動かないということを知らなければなりません。(一〇二―四七)
民衆全体を統一教会の前に立たせることのできる村があるならば、その村を中心にして面なら面、郡なら郡、道なら道に対する責任を十分に果たすために、自分の村を超越しなければなりません。これを探すために神様が苦労したことがあれば、それ以上の苦労をしないでは、面と郡と道を探すことはできないということを皆さんは知らなければなりません。
現在、統一教会を中心にして見るとき、神様が統一教会の背後で協助している度数がどれほど強いでしょうか? この時の神様が、統一教会をどれほど協助なさるでしょうか? その協助の度数を中心にして、それ以上の苦労を私たちがしようという心をもたなければなりません。(三〇―一九)
神様はどんな人を協助するのですか? 自らを助ける者を助けるのだそうです。自らうまくできるようでなければなりません。それが絶対条件です。自ら停止し、自ら後退しては絶対駄目です。これは公式です。違うと言うことができる人がいれば言ってみなさい、それでいいのですか? 千年万年やってみろというのです。そうできるならば、私が全部してしまったのです。(一七二―一六四)
皆さん、自分が何を引き受けたいのですか? 何をし、どれほどなのか、一度してみたいことを考えてみましたか? それは絶対自分がする、自分がする、自分がしなければならないという考えをもたなければなりません。誰かの協助を受けてやろうという考えをもってはいけません。私が影響を及ぼすのだという考えをしなければならないのであって、人から影響を受けようと考えては駄目です。それでこそ天が協助するのです。天もそうなのです。天が協助するのは、影響を及ぼすことのできる人に協助するのであって、影響を受ける人には協助しないのです。(一三二―一〇)
皆さんは原理で習ったのです。完全なプラスになれば、完全なマイナスが生じてくるというのです。先生は監獄にいる時、言葉は語りませんでしたが、たくさん伝道しました。共産党統治下の銃剣の前に発見されれば大変なことになる局面でも、霊界が協助するのです。先生に協助していた神様は、今皆さんに協助できるように態勢を備えたにもかかわらず、皆さん自身がそのような信念の中心体になれないので、天が協助できないということを知らなければなりません。(六九―二八八)
すべて自分が決定しなければなりません。ですから自分なりの秘法をもっていなければなりません。どんなに反対されても、その原則だけに従っていくようになれば、駄目なようでもうまくいきます。そうして、反対する何かがあったとしても、押して進んでその成果が神様のみ旨と一致することを一緒に経験させ、実際に見せてあげ、体恤させなければなりません。そうしようとすれば、内的な問題を中心にして皆さんが判決できなければならないし、天の協助がなければなりません。天の協助を受けようとすれば、精誠を尽くさなければなりません。(四六―二九七)
神様が協助したとしても、世界的なサタンよりも勝り得る位置にあって協助すれば、神様の威信が立つのです。権威が立つのです。体面が立つからです。サタンより低い位置にあっては協助できないのです。(四九―二四三)
人の本性は一つの方向に動きます。人が本性のままに動けば、神様が協助するのであり、善なる動きをするそこに天倫が同伴するので、すべてのものが自動的に成されていくのです。(一四―一五)
今からは、皆さんの行動一つにも、言葉一言にも神様の心情を反映させなければなりません。また、天使世界の恨を解いてあげ、祖先たちの歴史的恨を晴らしてあげなければなりません。そうして悪が充満しているこの世界を、私たちが救わなければなりません。これが聖徒たちの望みであるからには、その望みに責任をもって進んでいかなければなりません。
このような立場にある皆さんが、神様や、霊界や、数多くの聖徒たちと無関係になっては駄目なのです。彼らの願いが地上に成されることを望むのですが、彼らが皆さんと何らの関係もなくなれば、皆さんはただの一個人にすぎなくなるのです。もしそのような人に霊界が動員されて協助してあげるならば、被害が甚大なのです。そういう人は神様も責任をもてません。または、そのような人には協助してあげられません。
ですから、霊界の協助を望み、神様の協助を望み、神様のみ旨に対する立場で神様の保護を受けることを望むならば、神様と善霊人たちの心情と常に一致して進んでいかなければならないということを忘れてはいけません。(一四―八)
5 霊界動員
皆さんが霊界に負けない主体的統一圏を地上にまず備えることによって、相対的統一圏の霊界が一つになって、神様の所期の目的を達成する勝利圏へと越えていくのです。地上が主体なのです。地上が主体なのでここで完全に統一圏を成してこそ霊界がいつも協助するのであって、地上がその主体圏を成さなくては駄目なのです。それはなぜですか? アダム・エバが主体だったのです。天使世界は相対だったのです。(一三一―一六七)
神様を信じなければならないのです。神様だけをよりどころとすればいいのです。私たちの団体も主体と対象の関係になければなりません。主体と対象の関係をもてない団体は存続できないことが原理の基準ですから、私たちが主体になって、霊界の天使たちを動員しなければなりません。その業を今しているのです。地で解けば天でも解けるというのですから、地が問題なのです。(六五―一五二)
霊界はカイン的で、地上はアベル的です。今まではカイン的な立場にある霊界が人間たちを支配してきました。霊通人たちがすべて人間たちを支配してきました。地上にいる人間たちを命令して使って、自分が恵沢を受ける業をしてきました。ですが、真の父母を中心にしてこのような子女の立場に立つようになれば、そのような時は過ぎ去るのです。
神様の法度に従って前後の関係が……。まず天側に近く立つ人を中心にして、順理的に前後の法度を立てる時代へ入っていくのです。地上に生きている人間たちは、二番目であるアベルの立場にあったけれども、ヤコブのように長子権を奪い、祝福を受けて勝利するこのような転換期になることで、今や霊界が地上を支配するのではなくして、地上の人たちが霊界を支配することのできる時に入っていきます。
もし、これを逆利用するようになるときは、霊界の干渉を受けるようになるのです。このようになるのです。このような観点で見るとき、地上にいる数多くの霊通人たちが霊的に体験したすべてのことを自分の生活方式で利用する、人々の運命を判断してやったり未来を見てあげたりして、お金をもらって自分の生活を営んでいく、このような時は過ぎ去るのです。そのようにしていては、かえって自分たちが災いを被る時に入ります。
結局は、地上の人々のために生きなければならない時になるのです。神様の息子、娘のために生きなければならない時になるのです。霊界それ自体を見れば、これはアダム・エバを創造する前の天使世界に該当するのです。この天使長が、結局私たち人類を支配してきたのです。これが堕落した世界だというのです。これをひっくり返してしまわなければなりません。
天使はアダムよりも先に造られました。先に出てきてアダム圏を支配することによって……。今までアダムは価値がない立場にいたので、言い換えれば、アダムという存在が出てきたという基準はなくて天使圏だけがあるという立場だったため、今日の地上にあるすべての万民は天使圏の世界にとどまっていたのです。霊界の支配下にいたのです。何のことか分かりますか? (八三―一五)
一番至急なことは何ですか? 数の問題です。数が問題だというのです。それでは、数を確保するためにはどうしなければならないのでしょうか? 皆さんの実力が問題です。第一に実力がなくては駄目です。実力がなければならず、その次には実績が問題になります。これを解決する方法は、実力と実績を養うことが問題になるのです。皆さんが今まで伝道をしましたが、今までしてきた方式をもってしては駄目だというのです。皆さんが今までしてみたけれども、さほど発展を見ることができなかったということは、その方式をもってしては駄目だということを示しているのです。
では、どんな方式でしなければならないのでしょうか? 霊界を動員しなければならないのです。霊界をどのように動かして、この所期の目的を達成するのかということが問題になるのです。なぜそうかというと、堕落がアダム、エバ、天使によってなされたので、今日の復帰時代の皆さんにあっても、皆さん自身がアダムの立場にあれば天使世界の霊界が協助しなければなりません。霊界が協助できるように一つにならなければなりません。そうでないならば発展できないようになっています。その二つが一つになれなくては、天国に入っていくことはできないのです。堕落する時に、アダムと天使長と一つになって落ちたために、復帰原則において天国に入るためには、アダム・エバの立場にいる皆さんに天使世界が協助して一つになってこそ入れるのです。天使によって堕ちたけれども天使の協助によって復帰するのに、後援を受けることができる、指導体制の指導を受ける立場に立たなければ入っていけないということが原理観なのです。分かりましたか? (はい)。(七二―三五)
韓国が勝つことができる秘訣は、霊界を動員することしかないのです。分かりましたか? そうですか? (はい)。すべての条件は韓国が負けるようになっているのですが、勝てる道は何なのか? 千名動員されたなら、霊界では一万名動員すれば負けますか? (負けません)。日本人は日本の霊人しか動員できないのですが、韓国が世界の霊人たちを動員できれば勝ちます。道はただ一つ、それしかありません。分かりましたか?
では霊界を動員するためにはどうしなければならないのでしょうか? 先生が、「霊界を動員すれば勝てる」と言ったから、じっと座っていて「霊界よ、動員しろ!」。(笑い) そのようにして霊界を動員できますか? そのような時、霊界で「よしよし、待っていた。そのようにする」、そうなったらどれほど良いでしょうか。
霊界を動員するためには、最高に深刻な立場に立つようにならなければ動員されません。それを知らなければなりません。世界的な霊界を動員するためには、世界的な忠臣の気概をもって、神様のために血の汗を流す立場に立たなければなりません。そういう場にのみ霊界が動員されるのです。これは先生が経験した事実なのです。皆さんは経験できなかったかもしれませんが、そうなっているのです。分かりましたか?
み旨のために命をすべて投入し、死ぬ覚悟をして、忠臣の道理と聖人の道を探して、国を愛し、世界を愛さなければなりません。自分の一身を忘却するような場で、私一人滅びるのはかまわないが、私によって世界が滅びてはいけないといって、身もだえする位置に立ってこそ霊界は協助します。分かりましたか? これが、他の国よりもどれほど先んじているのかという問題が、勝敗を決定する要因になるのです。そうですか? そうではないみたいですか? (そうです)。間違いなくそうです。
では霊界をじっと見るとき、霊界が好きな人は誰ですか? 世界的に見るとき、もちろん日本人も好きでしょう? 韓国人も、アメリカ人も好きでしょう? イギリス人、ドイツ人もみな好きですが、霊界が一番好きな人がいます。その人が統一教会の文先生かもしれません。霊界は先生が好きでしょうか? (はい)。先生が「成そう」と言ったことは、霊界で後援するようになっていますか、なっていませんか? (なっています)。ですから先生から好かれるような者になれば、霊界は引かれて入ってきて協助するようになっています。
では、問題は何でしょうか? 先生が命令したとおりに、どの国が先頭になって走るのかという問題が、結局は霊界を動員できる帰結点になるのです。分かりましたか? (はい)。機動隊が闘っている間にも、自分のすべきことはすべて済ませてから闘う者がいるだろうし、そのようなことはみな別に置いておいて積極的に闘う者もいるのです。では、積極的に闘う者にならなければなりませんか、普通に闘う者にならなければなりませんか? (積極的にです)。積極的に闘う者にならなければなりません。「朝は御飯を食べる時だから闘っては駄目」と言う人は、積極的な人ではありません。また、「お昼御飯だから闘っては駄目だ」と言う人も積極的ではありません。積極的な人は、食事の時間でも、寝る時間でも、全く休む時間がありません。一片丹心にすべてを闘いに投入できる人でなければ霊界を動員できません。霊界が降りてきて一緒に組むことのできる主体が地上にないので、霊界が長久に協助してあげられないという結論になります。夜であろうと昼であろうと、それこそ寝ても覚めても忘れず、一人でいる時も口ずさむことができるほど、み旨に徹しなければなりません。そうしてみ旨のために心配して国を求めるにあたって、模範的な運動をするという心をもって動くようになるとき、霊界は間違いなく動員されて協助してくれるのです。分かりましたか? (はい)。(五八―九八)
先生は今から数十年前に、この三千里半島のために涙を流して闘ったということを、皆さんは知らなければなりません。若くても、若い花のような青春時代に……。その時は日帝時代でした。私たちの怨讐たちがこの国を踏みつけている時、神様に向かって涙をまき散らしながら訴えた伝統、天が立てた伝統があるということを皆さんは忘れてはなりません。では、今やそのようなみ旨を知り、皆さんが過去に先生と同じ青春時代の年齢に際しているならば、天の大々的な協助を受けようとするならば、過去において先生が三千里半島のために祈った以上に、皆さんがその伝統的な精神を手本にして、地域を中心にしてそのような切実な祈りをしなければなりません。そうするようになれば、三千里半島は問題なくひっくり返るというのです。もし皆さんの力が不足するようになれば、天が食べさせて、生かしてくれるのです。(一五三―二七九)
6 祖先協助
いつも「私は神の息子だ」と、こう考えなさい。私がそのような主体なので、私が対するすべての相対は、主体である神の息子の価値と対等な価値をもつのです。ですから、私が対する草の一株も福を受けるのです。そして私が訪問するその村に対しても「やあ、きょうこの村にあなたが望む希望の人が来るのだが……」という考えをしなければなりません。「私が対する人、私が真剣に自由に話をしてあげる人は福を受けるのだが……」そういう心がいつも続かなければならないのです。もし皆さんがそういう人になれば、その町内が迫害をするようになるなら、霊界に行っている人たちは、動機的存在として一致するために皆さんに協助するのです。霊界に行っている人たちは、皆さんの祖先で、皆さんの根であるから、彼らが皆さんに協助しようとするのです。その部落ならば部落で反対したとしても、霊界で協助しようとしています。ですが、霊界から協助するということは、望んでいるその目的のために協助しようとするのです。(六六―二五九)
皆さんの先祖の中で善なる先祖が、一時はキリスト教を中心にして神様の歴史を奉ってきたけれど、今や皆さんが横的に統一教会のみ旨を奉って統一教会を信じる人は、先祖たちがすべて復活します。なぜそうなのでしょうか? すべての先祖もアダムの子孫です。神様の歴史は、ユダヤ教を中心にしてキリスト教に連結されたのですが、今や地において横的に展開されたので、統一教会を信じる人々にはキリスト教を数千年信じた人と同様に、善なる先祖たちを連結してこの地上に働き得る基盤を築いておいたのです。(九〇―三二〇)
霊界でも協助してくれるようになっています。今は時が、彼らの祖先たちが動員されなければ駄目なようになっているのです。先生が精誠を尽くしたことに対しては、霊界が先生の立場を後援しなければならないので、彼らの祖先たちが助けるのです。ですからその人たちが教育を受けて帰っても、またこの修練所に来たくなるのです。今まで様々な人がここに来て去りました。きょうも、来て、行った人がいます。(一三四―四二)
すべての文化圏の主流の宗教人たちが地上に来て、自分の信者たちを後援するために世界の発展に協助するのと同様に、今日韓国にいる皆さんの氏族たちは宗主と同じ系列に立ち、善なる皆さんの祖先や四大宗教の聖人たちが、この地上に来て働いたのと同じ恵沢を受け継ぐのです。すなわち、再臨して天使長の位置でアダムを後援できる時代を迎えたのです。
今や皆さんの先祖たちが協助するようになっています。昔は悪い祖先たちが後孫を利用したのです。しかし今や、善なる先祖たちが下ってきて活躍できる時に来ました。ですから皆さんはそれこそ十字架を背負わなければなりません。氏族圏の十字架を背負い、民族の代身となって蕩減して、国家と世界のために十字架を背負ってやり、国家と世界のために蕩減するという人がいなければなりません。世界的理念時代に処すことが国家と民族の希望ですから、霊人たちは今まで高い位置に立てなくて、はるかどん底に組み敷かれているのです。しかし世界的恵沢圏の中で皆さんが十字架を背負い闘うならば、皆さんによって、さっとみな復活できるのです。ですから、平面的な立場で先祖代々に救援できる足場が築かれるのです。そうなってこそ、皆さんの一族の解放が始まるのです。何のことか分かりますか? (はい)。私の話すことが分かりますか? 何のことか理解できますか? (はい)。
十字架を背負わなければなりません。個人的蕩減、家族的蕩減、氏族的蕩減、民族的蕩減、世界的蕩減、天地の蕩減に責任をもたなければなりません。この国、この地を代表して、解放の勇士として前進しなければなりません。十字架を負って矢を受けて、困難を克服しなければなりません。公義のために困難な位置に立って鞭を受ければ、それだけ代価を得るのです。「私がその代価を受けられなくても、私の祖先たちが過去にした過ちを許してください。私たち先祖たちが隊列でもたもたして、こう行っても逆に行き、ありとあらゆる所業をしたことを許してください。もたもたしたとしても、天のみ旨に立つことのできる系統的な列祖たちの再臨復活の道を築いてください」。このような祈りを皆さんがしなければなりません。それが皆さんの責任です。そのために犠牲の十字架を背負えというのです。
まず皆さんの先祖を解放しなければなりません。それを知らなければなりません。その次には皆さんの一族を解放しなければなりません。そのために今回、既に故郷にみな配置しましたか? 故郷に配置するのは六千年の聖書の歴史始まって以来初めてです。カインを救わなければならない復帰歴史にあって、「故郷を救え」と言うことのできる論理はありません。カインを愛して帰ってきて、救うようになっているのです。そうではありませんか? 先生が世界的カインを蕩減して帰ってきたので、皆さんが福を受けるのです。(一七二―二五四)
皆さんが神様のみ旨を受け継いで代身者になったので、霊界にいる先祖に「私が指示するところに方向を合わせて!」そう言う時、そのすべての霊人たちが望む、その方向とは何でしょうか? 「愛の理想世界の終着地に向かって前進するように」と言う時、霊界が「ノー」と言いますか? アーメンでしょう? アーメン。(一七三―一一二)
7 先祖解怨
歴史時代には、交差時代があります。皆さんの一生にも交差時代はあるのです。結婚のような問題もそうです。良い意味の交差時代、悪い意味の交差時代があります。一方の先祖はこのように悪く、また一方の先祖はこういうふうに悪いならば、ここには必ず、直ちに死んでしまうようなことが起こったり、想像もできない、考えられないような不祥事が起こるのです。個人もそうであり、国家もそうなのです。
ですから、どの国であろうと平坦に行く国はないのです。これがこのように起こって、このように動くのです。上ったり下ったりしながら動くのです。サインカーブを描けば必ず交差することになるのです。このような発展をしてきました。それは昔、旧約時代にもそうであったし、新約時代もそうであったし、今でもそのようになっています。ですから、自分の先祖たちの反応が地上に反映されて、これが結ばれて解かれるということが起こるのです。これによって私たちの幸・不幸が左右されるのです。私たち統一教会が今現在、歴史的な交差時代に入ったのです。
私が皆さんの前に紹介したい人は、論山ハルモニです。そのおばあさんが相当苦労したということを知らなければなりません。
なぜその方を私が立てたのでしょうか? 今の時がどういう時かというと、霊界と肉界が合流して交差する時です。そのような時に入ってきています。霊界は地上に下りて解怨成就して、地上では天上世界に上って位置を占めなければならない時なのです。このような交差時代に入ったというのです。
先祖解怨という言葉は、キリスト教や一般宗教人たちには分かり得ないことです。これを見ると、巫女が厄払いをするのと同じだというのです。それは気分が悪いのです。迷信のような、そういう内容がなくはないのです。しかし本来、宗教は迷信を排しては成立できないのです。イエス様? それも迷信です、迷信。大きい意味での迷信なのです。大きな意味、説明を付け加えることができ、目的観がはっきりしたそのような立場に立った迷信なのです。イエス様が迷信的なことをたくさんしたのです。水の上を歩いたりしたのです。何がどうしてどうなったと、そのようなことはすべて信じられるかというのです。それは理解できないのです。(七五―二四九)
では、今の時はどんな時なのか? 皆さんが全世界を見れば、多くの人たちにノイローゼの現象が起こっているのです。これはなぜそうなのかというのです。これは霊的世界と肉的世界が交差されるためにそうなのです。これが交差されるようになる時は、善なる人にまず最初に来るのではありません。ニュースを早く知るのは誰ですか? 善なる人がまず知るのではなく、反対する怨讐たちが先に知るのです。善なる方のニュースを誰が早くキャッチしようとするのかというと、怨讐たちが早くキャッチしようとするのです。それと同様に、霊的世界が地上に臨むにあたって、善なる霊たちがまず地上に臨むのでなく、悪なる霊たちが先に地上に臨むのです。全体が下ってくるのでそうなるのです。
そのような立場で見るときに、交差させることのできる責任者たちが必ずいなければなりません。そのような立場で、論山ハルモニが先祖たちのために解怨しています。祖先解怨は悪い先祖たちを解怨するのではなく、善なる先祖を解怨するのです。加えて韓国には世界史的な使命があるので、そのような運動を韓国で始めてこそ、この運動が世界的に展開されていくのです。誰が? それは誰でもしなければなりません。(七五―二五一)
先祖の願いを解くことだといって、それはどのようにするのかというのです。全部見てみれば、ちょうど巫女の厄払いみたいです。私もそういうことをよく知っています。そういう面をよく知っているのです。霊界がそういう過程を経なければ駄目です。この交差を何回しなければ……。そのようなわけで、一番最初に出てくる先祖は……。一時間はサタンが入って、また一時間は善なる霊が入ってくるのです。一時間は悪い霊が、一時間は善なる霊がするのです。これを分けてあげなければなりません。悪い霊は悪い霊で防いであげなければなりません。(七五―二五五)
一九七五年からは、それこそ霊界と肉界が一つにならなければならないのです。ですから霊界、肉界をすべて許してあげなければならないでしょう? 霊界を許して解怨成就することと同時に、既成教会の誤った牧師たちもすべて許してあげなければなりません。それで今回の機会に、牧師たちのために私たちが今そのような行いもするのではありませんか? 霊界も許してあげ、肉界も許してあげなければなりません。それによって許しを受けた人々は、自分たちが私たちに借りをつくったので有り難く思い、私たちを後援するようになるのです。そういう道が広くなるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(七五―二六〇)
三 真の父母様と霊界
三 真の父母様と霊界
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1 天上からのみ印を受けたお父様復帰歴史を相続するためには霊界に行って、そのすべてのことを勝利したという基準を立てなければなりません。すなわち、霊界を統一しなければなりません。ゆえに来られる主は、霊的な勝利の実りであり、肉的な勝利の出発になります。(二三―二五五)
今日の皆さんは天上世界の数多い霊人を動員して、み旨を中心にしてこの世界を審判できる勝利者になろうとして、先頭にいで立つことができなければなりません。そうしないと天の王子の姿を備えることができません。統一教会の文先生は、正にそのような決心で生活してきた人です。
今や、先生の個人的な心情を試したり、秤で計ったりすることには問題がありません。また、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的なことまでも問題がありません。ある時は霊界の数多い霊人たちが、約四十日間文先生をほうり出そうとデモをしたこともありました。これはうそのような事実ですから、よく聞いておいてください。十二使徒とイエス様までも先生を知ることができませんでした。統一教会の文先生が霊界を台なしにしようとしているというのです。台なしにするのは誰がするのか、自分たちが台なしにしているのに……。それで誰が真なのか、偽者なのかを明らかにする争いが起こったのです。それが四十日の争いだったのです。
その時、神様は決着をつけてくださいませんでした。神様は、誰が真なのか争ってみよという具合でした。それで四十日の間、決着をつけるために争ったのです。その争いで先生は決して敗者にはなりませんでした。神様がじっと見ていると、霊界も譲歩しないで先生も譲歩しないのです。それで千年万年争いが続くようなので神様は、決着を下さなければならない立場にまでいったのです。
今や霊界も先生によって左右されるのです。先生はこのように霊界を統一した条件があるので、地上の統一を計画しているのです。先生が話すのを見ただけでは、何のことだか分からないのです。世の中で、立派な人物だといわれる人々が先生を見る時は、甘っちょろい何も知らない人のように見えるのです。ですが、先生を正しく見ることのできる人もいます。神様の王子になるためには、世の中に絡み合っている心情的な縁者を無慈悲に切ってしまって、唾を吐ける覚悟がなくてはならないのです。それがなくては天の王子になれません。なぜならば、この世は神を打って出発した悪の世の中だからです。それゆえに悪で絡み合ったこの世をそのまま置いては駄目です。必ず蕩減復帰しなければなりません。(一九―一五四)
ある時、全霊界が動員されて「文なにがしは天の逆賊だ」というレッテルを貼ったのです。思いもかけない不純な子が生まれたというのです。野生の梨の畑に一つの本当の梨が生まれたという意味です。そのようにすべてが干渉してきたのです。(二五―三二六)
さあ、こうして霊的世界からいわゆる道主という人たちに霊的に会って、原理的な闘争をしてすべて屈伏させたのです。それは何のことだか分かりますか? (はい)。イエス様の秘密を私が知って……。「あなたが地に来られて、これこれのことをできないまま行かれませんでしたか?」、「それをどうして分かったのですか?」、「どうして分かったかって? 知っているのですね。あなたがこれこれで死なないはずのところを死んだのですね」。「はい! そうです」。こういう争いをしたのです。こういうことを言えば、既成教会の牧師が来たなら目がひっくり返るのですね。その人の目がひっくり返って飛び出ろ! (笑い) 愚かで無知な者は、それこそ頭の後ろを殴られなければならないというのです。誰がうそをついて、誰が本当のことを言っているのか、今すぐに死んでみろというのです。分かりますか、何のことか。(はい)。そういうことに対しては、文なにがしという人が何ですか? (チャンピオンです)。チャンピオンなんだけど何なのですか? (誇りです)。何の誇りですか? (統一教会の誇り)。統一教会の誇り。
統一教会とは何かというと、統一の「統」の字は何の「統」ですか? (率いるという意味の「統」です)。率いる統の字だということは、指導を受けるということですか、指導をするということですか? (指導するということです)。指導して何をするのですか? 二つにつくるのですか、一つにつくるのですか? (一つにつくるのです)。聞くまでもないことではありませんか。ですから霊界に入れば、文なにがしという人がさっと大将になっているのです。分かりますか? (はい)。そこに子分たちがたくさんいるけれど、その数多くの子分たちである宗教指導者たちが朝になれば「グッドモーニング」と言うのです。(笑い) それが何ですか? (誇り)。何の誇り? (統一教会の誇りです)。
このような話は皆さん初めて聞く人もいるのです。ですから、そういう天上からみ印を受けた人なのです。み命を受けて地上に現れて、次には何をしなければなりませんか? 地上にあるすべての人類を中心にして氏族、民族を中心にして闘うのです。ここには白人はいないのですか、赤いのがいないのですか、黄色人もいないのですか、黒人もいないのですか……。商売人や何やら、どろぼうまですべて相対して争うのです。(一〇〇―二五)
2 霊界と肉界を統一させてこられたお父様
今や霊界は先生によって左右されるのです。先生はこのように霊界を統一した条件があるので、地上の統一を計画しています。(一九―一五五)
霊界を統一させたということは何かというと、世の中、カイン世界は否定してしまったのです。霊界が統一されて先生の側になったということは、天使長世界が先生と一つになったということです。一つになったのでサタン世界、このカイン圏はどうにもしようがなくなったというのです。言ってみれば、本然の基準を中心にして、アダムを中心に天使長世界が協助する基準に振り返ったというのです。このようなことを、地上世界に再編成しなければなりません。(一六五―一一〇)
世界的に二つの大きな壁があるのですが、一つは霊的地域であり、一つは肉的地域です。皆さんは肉的地域の穴を開けて、越えなければならないし、先生は霊的地域の穴を開けて越えなければならないから、「祖国のために内外のダンベリーの峠を越えよう」という、このような標語をもって……。壁という壁はすべて壊してしまって、神様が下さった新しい祖国で……。(一三三―三二七)
昔は、各宗教の道主を中心にして精誠を尽くすようになれば縦的に連結されたのです。断食祈祷をするか、精誠を尽くせば上っていくのです。上っていけば、霊界が道主たちを中心にして下ってきて会ったりもしました。ところで、それは堕落圏にあるので堕落圏を貫いて進まなければならないのです。精誠を尽くしてこの堕落圏と心情圏を……。原理主管圏内が堕落圏になっていて、直接主管圏内が霊界になっています。そして私たちは無原理圏内に落ちたのと同様です。ですからこれを貫いて迫害を受けながら上っていかなければなりません。このように精誠を尽くせば、そこに対応できるように自分の宗主たちが現れて教えてくれるのです。そうしながら霊界がしきりに下りてくるのです。統一教会が出てきて、霊界と肉界を連結させるにあたって偉大な貢献をしたというのです。
この圏がなぜ生じたのかというと、個人の犯した罪、個人が行かなければならない蕩減の道、家庭が行かなければならない蕩減の道……。家庭といえば、数多くの家庭です。氏族にも数多くの氏族があるし、民族にも数多くの民族があるし、国家にも数多くの国があります。ですから行かなければならない道が全部違うのです。ですからこれがただそのまま死んで行くようになれば、霊界に全部壁ができるのです。日本人と韓国人の間に壁ができて、全部壁ができるのです。霊界は本来そのようになってはいないのです。神様の愛を中心にして一体化された人が行くようになれば、この境界線は全くなくなるのです。
ですから、この結果主管圏内をサタンが支配するために、これを貫いて出ていくための戦いを今まで宗教人たちがしたのです。それで休まず祈り、断食祈祷をしなさいというのです。イエス様御自身もその行いをしたのです。先生もその行いをしました。先生は十七時間祈ったこともあります。最近は祈祷をそのようにはしません。私が祈らなければならない内容は、すべて成就されたのです。この膝にたこができるほど祈りました。祈りをするようになれば普通十二時間です。そういう闘いをしなければなりません。そうしないでは、霊界のすべてのことを解決できる道を探すことができません。
このようにして、分けられたものを引き上げなければなりません。ここで引き上げようとしても全部上がることはできません。先生を中心にして特定の集団を頼りに、世界に伸び進んでいきます。
ここに上るのと反対に、それにしたがって下ってくるのです。下ってくるのです。下ってきて地上の壁を壊し、霊界の壁を壊して連合運動を起こすのです。(一六九―九)
統一世界はどのようにできるのでしょうか? 霊界と肉界を解放できる人が出なくては統一世界は成されません。皆さんが霊界と肉界を一つにつくることができますか? 霊界と肉界を解放させることができますか? 問題です。堕落しなかったならば霊界、肉界は既に一つになって統一されたのです。一つの世界なのです。解放だとか何だとか、そういう言葉は必要ないのです。堕落したために霊界、肉界がすべて分けられたのです。全部解放しなければなりません。一つにしなければなりません。(一六一―二四九)
3 真の父母と霊界
イエス様が祈ったことを見れば、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六・一〇)と言ったからといって、天ではすべて成されたと考えては駄目です。天で成されたということは体系的な形態で、一つの中心を中心にしてすべて順応できる方向を整えたというのです。ですが地上ではそのようになっていないのです。イエス様を中心として、一つの代表者を中心にしてそうならなければならないのですが、そうなっていないのです。これを知らなければなりません。
では、救援摂理とは何なのですか? 霊界が天を中心にして左右されているのと同様に、地上が神様のみ旨を中心にしてどのように左右されるか、そのような運動をしてきたのです。数多くの宗教を立てて、文化の背景が違い、級が違いますが、そういう形態で復帰摂理を進行してきたというのです。
では、今まで霊界の中心的な役事を誰がしたのでしょうか? イエス様が中心でした。イエス様と聖霊なのです。神様を中心にして、イエス様と聖霊を中心にして一つになるために体制を備えて出てきた基盤が、地上のキリスト教を中心にして、神様とイエス様の名前と聖霊の名を通じてキリスト教文化の体制を形成して出てきたのです。霊界がそのようになっているので地上もそういう形態になって、霊界と肉界が二つとも合わさって一つにならなければならないのです。同じです。
そのようにして一つの霊的世界と肉的世界がいつ結ばれますか? 再臨時代に来て結ばれるのです。そうなれば再臨なさる再臨主は霊界のすべての常習的、すべての体制的内容を引き受けて地上に来て、その体制に一致され得る環境で世の中を追い立てて上っていくのです。世の中をより分けて上っていくのです。
ですが先生のあとには霊界のすべての組織形態が内的に引き継がれています。霊界は先生の側です。ところで実際世界はサタン側になるので、先生は実際の基盤がないので霊界の基盤を活用することができないようになりました。それでサタンの讒訴圏を抜け出すために先生が地上で個人的勝利圏、家庭的勝利圏、氏族的勝利圏、民族的勝利圏、国家的勝利圏、世界的勝利圏のために今まで四十年の間闘ってきたのです。(一六一―二二〇)
今や、統一教会を中心にして世界的に霊的な世界の統一的組織形態を備えながら、サタン世界はすべて倒れ始めました。世界万民が統一教会のレバレンド・ムーンを称賛するような時になれば、霊界の統一的な基盤がこの地上に移される体制と化すのです。そうなれば地上に天国が形成されます。
では、いったいレバレンド・ムーンは何をしようというのですか? 神様が願われるとおりに霊界が統一的形態を整えたのと同じく、地上も統一的な形態をつくろうとするのです。そうなれば終わりだという時、み旨がどれほど近くに来ているのかを、皆さんは知らなければなりません。
霊界が完成されますか? 霊界はいまだに未完成です。なぜ未完成なのですか? 本来霊界がヒエラルキー・システム(Hierarchy system : 階級組織、方式)、これが何かというと、神様と真の父母を中心にして、真の子女を中心にして全霊界が連結されなければならないのですが、その内容が成されていないのです。地上もやはり駄目です。この内容だけ霊界に……。霊界は自動的です。地上だけもってきてくっつけておけば、霊界は自動的です。
もう一度言ってみれば、堕落しなかったアダム主義、神様を中心にしたアダム主義、アダム主義であると同時に真の父母を中心にしたヒエラルキー組織が霊界なのですが、それができていないのです。今までその中心の中には仏教を中心にした釈迦クラブが入っていて、孔子クラブが入っていて、イスラム・クラブが入っているのです。それで霊界は真の父母主義とアダム主義が現れることを、イスラム教の者も儒教の者も仏教の者もみな望んでいるのです。ですから統一的な方向を経なければならないので、地上にも真の父母の役事が世界的な基準を探して上るようになるとき、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的にその結果が地上で現れるようになるのです。
それで統一教会が世界主義になることにより何が起こるのかというと、霊界の霊人たちが全部霊界にはいません。目的は地上で完成して逆に入らなければならないので、全部再臨するようになります。全部活動するようになります。世界に広がっている統一教会員たちが尖端になって「動け! 動け! 動け!」ということを望んでいるのは、数千億にもなる霊界の霊人たちの願いです。ここに合わせて霊界にぴたっと備えて一つつくっておけば、神様が主管する世界になるのです。真の父母の名の前に、一つの統一された世界が永遠に続くのです。
霊界のヒエラルキーの中心が何かというと、一つ目は神様、二つ目は真の父母様、三つ目は真の子女、四つ目は真の国です。ここで真の子女は何なのかというと、真の父母の直系の血統を受けた子女です。ここで国を中心にして国民が起こらなければならないのですが、ここですべて分けられてしまいました。
天の国の王宮で一番先に住まなければならない方は誰ですか? 天の国の王宮の席に座って統治する方は誰かというのです。本来神様は、二性性相であるアダム・エバの中に入って一つになって、神様と真の父母が天の王権を支配できる位置にいなければならないというのです。堕落しなかったならばそうなるはずだったのですが、堕落したので、再び真の父母が出て移さなければなりません。(一六一―二二二)
霊界はこのような原則になっているのですが、肉界にこのようなことが現れればどれほど引っかかるでしょうか? 神様を中心にして、二つ目は真の父母が現れ、三つ目は真の子女が現れ、四つ目は、天国民を通じた真の国家が現れなければなりません。そうなることをここで(黒板に書かれながら話される)どれほど待ち望んだかというのです。皆さんが地上に現れて本然のみ旨を成すことを、霊界に行った霊人たちが数千年の間どれほど待ち望んできたのかというのです。
ここを主管することは何なのか? (黒板に書かれながら話される)最初はサタンを中心にして、二つ目は偽りの父母、すなわち堕落した父母、悪父母を中心にして、三つ目は悪子女、四つ目は悪国家、こうなっているのです。霊界の世界やこれからのこの世界は(黒板に書かれながら話される)これを全部否定します。
統一教会で「真の父母だ」と言うので、皆さんのお母さんお父さんたちが「私たちは何なのか?」と言って反対するのです。(一六一―二二四)
霊界をどのように標準化するのかということが、今日大きな問題です。標準化させるにあたり、まず神様を中心にして世界的な主流宗教を中心にして連合運動をしなければならないのですが、この宗教を中心にした連合運動が、実に難しいのです。この連合運動というものは誰がしてもいいというものではありません。これは父母様の時代に来て今……。このように分立されたことが堕落した父母から始まったので、これを糾合させることも父母を中心にしてしなければなりません。
メシヤという方は、もともと父母の代身として来るのです。それでその父母を中心にして連結されなければならないのですが、その父母自体を中心にして最高の宗教が連結しなければならないのです。それがすなわちキリスト教なのです。ですからこのキリスト教が再臨主、すなわち来たる主様と完全に一つになったならば……。再臨主は父母なので数多くの後孫たちに対して、悪い人でも善なる人でも愛さざるを得ないのです。(一六四―一六四)
真の父母様がしなければならないことは何かというと、条件的ではあるが、あの霊界のすべてのふさがったものを地上で、一番低い所から蕩減するのです。歴史の全体を、代わって蕩減する過程を経なければなりません。条件的に八段階の形態を中心にして、これを世界的八段階にすべて連結できる条件的な核を中心にして蕩減しなければならないというのです。そういう業を四十年の間してきたのです。(一六四―一六六)
神様は救援歴史をして、宗教文化圏を立てて複雑に未開な人間たちを教えて……。あの霊界でこの地上世界と関係することがどれほど難しいですか? どれほど難しいかというのです。そういう背後を編みながら未知の人間たちを引き上げるのです。僕の僕の時代から僕の時代、養子の時代、庶子の時代、嫡子の時代、その次には夫婦の時代として、父母の時代を経て、神様の位置まで復帰していかなければならないのです。この八段階の難しい受難の道を歴史をかけて経てきたのですが、今日統一教会のレバレンド・ムーンが出て、こういうすべての順理的路程を開拓することを一代においてやってのけましたが、歴史時代の私たちの先祖たち、その人類たちはそれを知らなかったのです。どんなに電波を送っても、何か言葉が出なければならないのですね? 「ううん」という声は出るのですが、言葉が出てこないのです。周波数が合わないから、周波数を知らないから。(一六二―一八四)
先生はどれだけ霊界の事実を知っていても、話をしないのです。知らない人のようにしているのです。ですが私の行く道の問題に入るようになると冷淡です。無慈悲に方向を選べるその何かがあるから、今日の混乱した霊的過程を克服してきて、混乱したこのような時代の過程を克服してくるのです。どんなに風波がぶつかってきても、その風波が私にぶつかって私を押し出そうとするのではなく、その反対なのです。(七一―五〇)
文先生が霊界では今大将になっているのです。私が行く道を妨げるものはないのです。そういう神様から、あの国のどういう所でも……。なぜ? 本質的愛の門を開けて愛の道に従っていこうとするからです。(一六八―二九〇)
4 真の父母様の霊肉指導と統一教会の信徒
皆さんの前にあっては、天使といっても信じられないのです。そうでしょう? 天使が、誰が天使なのか知らないのです。ですからこの霊的な長成期完成級的な責任を誰がしてあげなければならないのか? 元来はイエス様がしてくれなければならないのです。分かりますか? イエス様が後のアダムとして来たので長成期完成級の霊肉を中心として完成しなければならないにもかかわらず、霊的基準だけを完成したので長成級の中心的天使長級にあるというのです。それが何のことだか分かりますか? 長成級の中心的天使長級、何のことだか分かりますか? (はい)。理解できますか? (はい)。そういう立場なのでイエス様が協助しなければならないのです。こうなるのです。
ところでイエス様が皆さんを協助できるのかというとき、イエス様はキリスト教の信徒たちに協助するのは可能ですが、統一教会の信徒には直接協助するのは難しいというのです。分かりますか? なぜ? 統一教会の信徒は本来完成級に向かって越えていくべき人々だというのです。何をもって? 霊肉をもって越えていかなければならない人々です。こういう霊肉をもって完成級を越えていかなければならない人を、霊的な基準をもった天使長の中心的使命をするイエス様は協助できないのです。ですから再臨というものが必要だということを知らなければなりません。それが何のことだか分かりますか? (はい)。
では、今日統一教会には誰が協助するのかといえば、統一教会は霊的な面では先生の霊が指導し、肉的な面でも先生の肉が指導するというのです。分かりますか? (はい)。この両面を協助することによって、天使世界のイエス様がしたことを協助して完成世界へと越えることができるように、天使長的な協助もしながら実体的には今、原理主管圏内にあって完成級世界へ行く道も指導しているのです。分かりますか、何のことか。(はい)。(七二―三六)
皆さんが先生の命令のとおりに実践すれば、霊界と先生が教える啓示をみな受けるようになります。分かりますか? 昔は祈祷しなければ駄目だったのですが、今は生活することによって祈ること以上の世界に入っていくというのです。それならば、天国のどこへでも……。(一二九―三五)
統一教会は霊界から送ってくれて出発したのです。統一教会の皆さんは、これを知らなければなりません。統一教会の出発は、文先生の主張によって始まったのではないのです。私は口を閉じていますが、霊界が指導してくれてすべて糾合され始めたのです。統一教会の歴史がそうなっているのです。
今日先生が行く道は先生個人を主張するのではないのです。霊界の対象的圏を収拾していく道を築くのです。それゆえに神様の心情という言葉が出てくるのです。神様の心情という問題が起こるのです。これを否定するようになるときは、その存在は必ず悪に帰結されるのです。これを知らなければなりません。(七一―四九)
皆さん、霊的体験をしていますか? 皆さんは先生と直接的に関係を結ばなければなりません。先生と生活圏内で直接関係を結び、神様と直接関係を結ばなければなりません。そうでなければいけません。皆さんは早朝ここに何をしに来るのですか? 損害を望んで来ますか、利益を望んで来ますか? 神様と結んで神様の愛を受けるために来るのでしょう? 先生が話を上手にするのでもないし、先生の話を聞くとむやみに興奮して心が……。そうですか、そうでないですか? それは神様の心情圏を探すためにそうだというのです。神様の心情圏。何の心情かというと、愛の心情圏だというのです。私たちの目的地がどこなのかというと、神様の愛の心情が私たちの目的地です。(九一―六九)
統一教会の皆さんが既成教会の信徒と違うことは何かというと、地上に生きていて上ったり下ったりすることができるため、霊的現象を横的なこの世の中で頻繁に体験するのです。分かりますか? それは既成教会とは違うでしょう? そうですか、そうではないですか。(そうです)。全部、先生が教えてくれるのですね? (はい)。先生が教えてあげる人、手を挙げなさい。手を挙げてみなさい。全部がそうでなければうそですよ。夢の中で先生を見るでしょう? (はい)。そういう人、手を挙げてみなさい。どれ、どのくらいなのか見てみましょう。一〇〇パーセントですね!
これが起こることにより、横的な地上に愛の圏を中心にした超民族的心情的基盤が起こります。ですからそこに対応する超民族的、横的ではなく、縦的な神様の愛が宿るのです。それゆえ霊界の霊人たちが協助するのです。霊的再臨時代が来るのです。分かりましたか? (はい)。
それで遠からず将来に良い時代が来るのです。これが完全に個人対個人でぶつかり、家庭対家庭、氏族対氏族でぶつかって地上で一斉にこれが起こるのです。一斉に起こって、平面的にぴったり一直線に一つになるときは、これから霊的世界が夢でなく、現実の社会生活圏内に入るのです。ですから一つの部落に十軒の家があれば、七軒で預言する時代が来るのです。超神秘的世界が遠くない将来に来るのです。(一〇一―七九)
さあ、皆さんのお母さん、お父さん、先生が、皆さんと関係を結んでいる人々が霊的に、あるいは夢や祈りの中で現れてすべて指導してくれますか? 統一教会では夢の中で、祈りの中で、幻想の中で現れて教えてくれるのです。皆さんが統一教会に入って何日もしないでそういう役事を見ますが、それは何十年の間歴史を犠牲にして、数多くの霊人たちの血と殉教の祭壇を連結して、犠牲の代価を払ってこそ初めて成ったことだという、その価値を知らなければなりません。億兆の金を与えても買うことのできない心情的価値であるということを知らなければならないのです。何のことか分かりますか? (はい)。(九一―一七七)
皆さんは、夢とか祈りの中で先生にみな合わなければなりません。お母様、お父様にすべて会って指示を受けなければならないのです。難しい問題について祈祷するときには、すべて指導してくれなければなりません。時々でなく一生を生きる間、共に生きながら指導してくれなければならないのです。
そういうお母さん、お父さんならば、皆さん、老いたお母さん、お父さんだといっても一緒にいたいですか、「ああ、お母さん、お父さん、私は嫌いです」と言いますか? (一緒にいたいです)。(笑われる) 皆さんがそういう愛を中心にして、「私はそういう父母の子女だ」という自覚をもつ日には、宇宙を探すことのできる資格をもつのです。宗教にあっては、こういう宗教は最初で最後です。再びはないのです。(九〇―一九九)
統一教会に入ると何が違いますか? 既成教会、一般宗教と違うことは何かというと、統一教会に入って皆さんが霊的体験をするにあたって、必ず先生とお母様が現れて役事することです。そういうことを見るのです。それが皆さんの生活圏内に、引き離そうとしても離すことのできない主流的な思想に固着してしまうという事実を感じるのです。ですから神様は誰の体を、誰の形状を着て、この地上にいる人間たちの前に現れることができるのでしょうか? 先生の形状とお母様の形状を着て、全世界の子女たちの前に現れることができるということを皆さんは知らなければなりません。
今日、統一教会が違うことは何かというと、先生がここにいますが、全世界の統一教会の信徒たちを霊的に指導しているというのです。それがうそですか、事実ですか? (事実です)。それを誰がしますか? 神様御自身がするのです。神様御自身が君臨してそのことをしているという、驚くべき事実を皆さんは知らなければなりません。そうなのです。それで皆さんがどこかに伝道しに行って失望したりするときは、先生が現れて先に道を……。皆さんもそうなのです。朝に夕に教えてくれるようになれば、それは間違いないのです。間違いなくそのようになります。(九〇―一九七)
5 霊的世界の定住時代
私がダンベリーに入るようになれば、統一教会がなくなると思ったのですね。しかし今まで歴史的に未知な事実を、ダンベリーを中心にして清算しなければなりません。それでその時が一九四五年を乗り越える時なのです。その時に……。なぜダンベリーに行くようになったのか? それはニクソンが失敗し、カーターが失敗したからです。アメリカが失敗した責任を取るのです。ここに来ている私を目の前に置いてすべてつくっておいたのです。それで再度一九八三年に……。一九七三年にニクソンを中心にして摂理したすべてのことを、ただそのまま押し出せば何の問題もなかったのに、これが失敗するようになるので国家的基準で再び問題が起こるのです。それで韓国に行って再び連結させなければなりませんでした。そうでなければ帰ってくる道がないのです。レバレンド・ムーンがどんなに行こうとしても、再び蕩減しなければ行けないのです。条件に引っかかります。
それで一九八三年十二月を中心にして、韓国に行って全国民を動員するのです。全国民を完全に束ねる運動をしました。世界とキリスト教を代表する七十二カ国のアカデミーの代表者たちを集めて、束ねる業をするのです。そうして全国を総なめにしたのです。完全に……。こうしてサタンと激戦をしたのです。ですから韓国が、国家全体が完全にレバレンド・ムーンの運動によって、ぽっかりと浮かび上がってしまったのです。こうしてサタンを支配するというのです。ですから先生の家庭が全世界を代表して家庭的攻撃を受ける時だから、サタンは先生を攻撃できないから興進を攻撃したのです。最後の光州での講演時間にその事件が起こったのです。国が父ならば教会は息子と同じです。こういう立場でキリスト教が相変わらず反対をするので、そういう立場を蕩減しようとするので興進が祭物になっていったのです。
キリスト教が地上で反対することによって、霊界のイエス様を中心としたキリスト教が地上に協助する道がなくなったのです。霊界にいるキリスト教の信徒の霊たちが、イエス様を中心にして地上に下ってきて協助しようとするならば、地上にいるキリスト教が反対するときには協助することはできません。ですから必ず祭物的な条件をささげて霊界と地上が連結しなければなりません。そうしてこそ祭物をささげた団体だとかその周囲を通じて、地上世界を通じて横的な代置運動で発展させていくのです。誰を通じて? 興進を通じて、興進を通して入ってきます。
皆さんの知っているとおり、今まで霊界に行っているすべての霊たちと、真の父母の血族が霊界に行って直接的に関係を結んだことはありませんでした。そして霊人たちの願いは何かというと、真の父母と心情的つながりを地上で結びたいのです。しかしそれを結べないので地上にいた息子を送ってあげれば、霊界に行ったその息子と関係を結ぶことで……。すなわち、興進を通して地上に下ってきて、キリスト教を協助して消化する運動をすることができるというのです。そうすることによって、イエスを中心にしてキリスト教の霊界が地上に再臨して、全体の霊界が再臨することのできる環境が展開されていくのです。(一六一―八〇)
霊界は真の父母を通じた、真の父母の管理圏内にあるのです。ですから霊界を主管する立場に父母様があるのと同時に、息子も主管できる権限を受け継ぐようになり、その息子を霊界から送るのです。送るのは連れてくるためです。連れてくるため、目的がそれなのです。
来れば、父母を通じてきたのでここに定住できます。行かなくてもいいのです。定住しながら活動できるのです。分かりますか、何のことだか。ですからサタン世界が溶けてしまうのです。善なる霊がちょっと来て仕事をして行くようになると、相変わらずサタンがそうであり得ますが、今に至っては定住します。定住するのです。
ここでサタンの愛によって死亡圏が生じたのです。死亡圏とは何かというと、往来できる道がないということです。(黒板に書かれたものを示しながら話される)死亡圏が生じたここに、興進君をこう送ったことで、死亡圏が断たれて出ていくのです。死亡の愛でなく、真の愛を中心にして死亡圏に勝ったのです。
この中で父母様の愛を中心にした杭を打ち込まなければなりません。それで父母様を中心にして愛の杭を打ち込みました。この杭を中心にしていつでもここに来ることができます。いつでも往来が可能です。この道を妨げるものは何もないというのです。死亡圏に勝ったのです。天の愛の力をもって興進君が犠牲になることで、それを条件にして先生が特別な条件を立てて祈祷した基盤の上に立ったので、これを死亡圏が妨害する道はないのです。(一六一―八一)
霊界で今すべてそうではありませんか? 興進君がここに来て仕事をするのは、先生がとても苦労をしたので、天命を受けて来たのです。こいつらめ、このくそ犬みたいな者たちが、先生が今まで血肉をささげて積み上げてきた金のごとき塔を、このくそ虫どもが掘って食べているのです。それを知らなければなりません。ですから霊界が全部責任をもって、張り飛ばすのです。ぶん殴ることだけするのですか? ぶん殴ることが悔しいと不平を言う人たちがいるのですが、不平を言えというのです。時を知らない人たち……。その時の風に私が左右されないのです。
先生もそういう話を既にすべてしました。霊的世界の定住時代が来るというのです。再臨復活を中心にして、統一歴史が再臨復活によって成されるのだとみな習ったではありませんか? 再臨して統一が成されるのです。そういう新しい歴史の転換時代に向かって天が歩調を合わせるために動けば、それに対して有り難く思わなければなりません。(一七〇―二八六)
第二節 今日の時と主要行事
第二節 今日の時と主要行事
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一 時の区分と時の意味1 年代区分と解説
きょう七月七日の七・七数は第二次七年路程に匹敵します。
皆さんは原理で習いましたが、二十一数がなければなりません。万物でいえば二十一年です。
アダムから二千年、アブラハムから二千年を過ぎて、イエス様によって完成的基盤を収めようとしました。
その後二千年が延長された歴史でした。その後の二千年は、歴史を経て再度整備しなければならない意義があります。
韓国は二千年になれば大きな変動が起こります。この二千年を中心にして六十年、四十年、二十年の歴史を置いて蕩減してきています。
一九六〇年という年は、二千年のまとめをして四十年を出発する年でした。先生を中心にして見ると、二十年間ずつ復帰してきたのです。
一九二〇年から一九八〇年まで六十年。
一九四〇年から一九八〇年まで四十年。
一九六〇年から一九八〇年まで二十年。
一九四〇年から二〇〇〇年まで六十年。
これは歴史を見るとき、再蕩減期間です。
この二十年間に二千年、二千年、二千年、都合六千年間を蕩減しなければなりません。
一次七年路程はアブラハムの蕩減。
二次七年路程はイエス様の蕩減。
三次七年路程は完成蕩減を意味する。
私たち統一教会で見ると三段階に分けることができます。
アブラハム以前の時代は摂理以前の時代で、それと同じく、私たち統一教会にも準備時代がありました。その次に総蕩減時代がありました。摂理完成時代にイエス様が来て摂理するのと同じく、統一教会もそうでした。
それが旧約時代、新約時代、成約時代に匹敵します。これはまた一次、二次、三次路程に各々匹敵するのです。皆さんが知っているとおり、第二次時代はキリスト教蕩減時代でした。これが歴史的な蕩減路程です。
ユダヤ教はキリスト教を宗教として認めませんでした。それでキリスト教は傍系民族を中心にして発展しながら、キリスト教の信徒は異邦人としての扱いを受けました。イスラエルの歴史は排撃を受けながら神様の圏を拡大させてきました。その時はイスラエルの人が一番だったのです。しかし実際はイスラエルの人が一番なのではなく、彼らが対している神様のみ旨が第一でした。同様にキリスト教でも神様のみ旨が第一でした。そういう伝統的思想を知らずにいてはいけません。
イスラエル民族が自分たちを愛して神様のみ旨を忘れ、キリスト教がキリスト教の文化を打ち出して神様のみ旨を忘れました。
これから私たち統一教会にあっても、新しい文化と向かい合うのではなく、この文化を起こした神様と向かい合わなければなりません。
文化の基盤や国家の基盤は変わっても、神様は変わりません。
キリスト教が神様のみ旨を忘れたため、キリスト教が衰えているのです。
統一教会の運動は、蘇生旧約、長成新約、こうして完成時代は成約時代に匹敵します。それが六千年歴史をもっています。それを六十年間に短縮しなければなりません。
それを先生を中心にして見て、一九四〇年を起点と見るとき、二〇〇〇年まで六十年間、一九二〇年から一九八〇年まで見ると、ここで二十年の差がでます。一九二〇年から一九八〇年まで六十年間は蕩減期間に該当します。
最後の三段階が全体の歴史を総蕩減します。これが一次、二次、三次にわたる七年路程です。
一九八〇年から二〇〇〇年は、歴史時代のすべてのものを総蕩減するエデン復帰時代に入ります。すなわち神様のみ旨を成すようになります。一つの国をもって出発しなければなりません。その時になれば、共産党も私たちを慕わなければなりません。民主世界も解体段階に入ってきて、私たちだけが残るようになるのです。
一九八〇年まで世界的なすべてのものを蕩減しておかなければなりません。
一九六〇年から一九八〇年までの二十年間、なぜこのように急変するのか知らなければなりません。それが誰のゆえですか? それは私たちのゆえです。私たちは地の底から天まで、道を築かなければなりません。それは地獄から天国まで、道を築かなければならないということを意味します。それは、これまでの歴史にないことでした。
この二十年間に再び復活させなければなりません。ですから霊的世界の解放運動、地上世界の現在を解放しなければなりません。過去を解放し、現在を解放しなければなりません。解放して新しい世界運動をするのです。一九八〇年から二〇〇〇年まで、二十年間に世界的文化圏を形成しなければなりません。
一九二〇年から二〇〇〇年までの八十年間に、この世界を新しい世界につくらなければなりません。
モーセの八十年と同様に、この八十年を通して地上楽園をつくらなければなりません。七数を越えて八数の世界に入ります。(一九七四・七・七、ベルベディア修練所、「会報」六九―二)
2 先生の在世時の価値
幸福は他の場所にあるのではありません。未来にはないのです。幸福は父母を交えて兄弟と一緒に国を探し、世界を探すことのできる時が最大の幸福点です。幸福の極致です。父母を失い、親戚を失い、氏族を失ってどれほど成功したとしても、それは幸福ではありません。私が愛する父母と一緒に、愛する子女と一緒に、愛する妻子と一緒に、氏族と人類と天と一緒にいるのが個人の幸福ではないでしょうか。その幸福の極致というものがこの時しかないのです。先生が行ったのちには永久にないのです。(一九七一・一一・二六)
先生の一生というものは、一番貴いのです。皆さんの前にあっては二度とない時なのです。それで、先生に会う時にはみ旨を中心にして大騒ぎしていたのに、何年もしないうちに「何がみ旨だ、私が楽をしなければ」。これは、約婚者が他の人を中心にして結婚するというのと同じです。皆さんが死んだのちには、その死体が讒訴するのです。「こいつの肉の塊が何になるか」というのです。
若い人たちはもっと活動しなければなりません! 三千万民族を代表する若い人たちが今腐っていくのに、もっと活動しなければなりません! 皆さんがみ旨を通して感じたその心情を……。皆さん、そうではありませんか? 学校に通う学生たちも、統一教会に入れば家より教会に先に寄りたいと……。それはすべて皆さんが体験したことです。なぜそうなのかというと、六千年目にして初めて春の陽気を迎えることのできる一時、数千年の運勢圏の中に巻き込まれて入ってくるからです。何年そこそこの運勢ではありません。数千年の運勢です。数千年の運勢に乗れる一時ですからそうなるのです。その心情は至極貴重なものです。この時を蹂躙するようになる時、歴史を蹂躙するのです。天倫を蹂躙するのです。(一九七一・一一・二六)
何千年にもなれば運に乗ってそういうことがあるのです。そういうことはしっかりと保管しなければなりません。いつ先生が自分を教えてくれることがあるか、考えてみなさい。自分の先祖たちにそういうことがあり得ますか? この時代に、この短い私たちのような生活圏内で接触できたという事実は奇跡です。皆さんの氏族を中心にして大きい奇跡を起こして奇跡の恩徳を迎え入れる人が誰かというと、統一教会に加入した最近の人たちです。これは前にもなかったし、のちにもないのです。他のものは滅びてもこれだけは残るのです。(一九七一・一一・二六)
皆さんの一家が、一族が、あるいは一国民がどれほど多いとしても、個人的に成就できる時は、歴史上に他の時はないのです。統一教会が教えてくれた教理が事実ならば、この時しかないのです。(一九七一・一一・二六)
ですから先生がこの地に生きている間、在世の時に世界的な政治的機構だとか国家的な機構だとか国家的な伝統だとか、すべてのものをつくっておかなければならない大変な内容をもっています。これを皆さんができないならば、大韓民国の国民たちはとても苦労するのです。そういうことを位置を決定して、そういう行いをわきまえておくために、今まで働いていることに皆さんが歩調を合わせたという事実は、その歴史が称賛できることだというのです。(一九七一・一一・二六)
真の父母に侍ることができる幸福な一日をもったという事実、それ以外には何もないではないですか。これは事実だというのです。言葉のとおり事実がそうだとするなら、どれほど手を挙げて称賛しなければならないでしょうか。考えてみなさい! 霊界で、事実それが確実にそうだと知るようになるとき、霊界の霊人たちがそれを眺めれば、どれほど喜びを表現するか考えてみなさい。最高のものが結実された場です。最高のものが復活できる核心です。(一九七一・一一・二六)
み旨と先生というものは、いつでもあるものではないのです。(一九七一・一一・二六)
こういう問題を見るとき、この時がどれほど恐ろしく、どれほど貴重な時間なのかということを皆さんは知らなければなりません。(一九七一・一一・二六)
皆さんのこの場というものは、世界に一つしかない場です。(一九七一・一一・二六)
こういう意味で、統一教会では事実踊らなければならないのです。(一九七一・一一・二六)
先生を中心にして見るとき、生涯は長くありません。しかし天宙的なみ旨を抱いた内縁があるので貴重なのです。その一人の生涯を中心にして歴史が帰結されたのです。その一つが分水嶺になって、それを中心にして踏んで越えていくことができればいいけれども、越えられなければ永遠に行く道がないのです。未来の望みの実体として追求していく時代になる驚くべき一時、その無限な願いがわき出る所、永遠なる神様が保障してくれるその位置、その時が一番重要な時期なのです。(一九七一・一一・二六)
その時代がどの時ですか? 今日私たちが生きているこの時だけがそういう時だということを考えるとき、一年が過ぎることがどれほど惜しく悲痛であるか、私自ら決意できて、死をかけて決意することができる生活をしなければならないのが現在統一教団に立っている集団ではないかと思います。もしこの時を取り逃がすようになると、皆さんの一族、一派に再びあり得ない時であるのです。(一九七一・一〇・九)
この時こそ、一番重要な事項を決定できる時であるということを知らなければなりません。それこそ私たちは、神様の前にあっての相対的な解決点を提示しなければならない時が来ました。神様の願いを成就し解決できる重要な時、私たちが現在立っているこの時こそ、歴史始まって以来一番息詰まる時です。(一九七二・一一・九)
現在私たちが処しているこの位置と、私たちが当面しているこの時は、偉大で歴史的な時点に処しているということを知らなければなりません。(一九七四・九・八)
もし時を逃せば何千倍の力をかけてもできないのです。時を逃してしまえば仕方がないのです。この時が過ぎれば一つの国がすることを十国、百国がするといっても仕方がないのです。もし皆さんができないならば、皆さんの後孫が何倍もの難しい代価を払わなければならないということを知らなければなりません。この時が、どれほど迎え難い時なのかを知らなければなりません。(一九七八・四・二)
私たちはその時間を、その時を逃してはいけません。それで私たちは深刻なのです。この時を合わせる日には、神様の愛が私たちに探し出されるのです。
この時が、どれほど迎えることが難しい時なのかを知らなければなりません。ある計画があって、あの千里の道からねらいをつけて合わせてきています。ボタンを押すために数多くの国が犠牲になり、数多くの宗教が犠牲になりました。大変な代価を払いました。
しかし今までそのボタンを押せませんでした。今日統一教会の時代に来て、皆さんの精誠のこもったか弱い手を通してこの時代を編んでいるという事実を知らなければなりません。ですから霊界にいるすべての霊人たちはどれほど深刻であり、神様はどれほど深刻でしょうか? (一九七八・四・二)
皆さんは運勢が良いからなのか、あるいは良い星のもとに生まれたからなのか、時代的な恵沢を受けて良い時代に生まれました。鞭を受けても直接受け、賞を受けても直接受け、言葉を聞いても直接聞き、叱りを直接受けることのできる時に生まれました。(一九六〇・一二・一一)
昔、預言者、聖人たちは数千年、数万年、いつこういうことがあるか分からなくても信じて死の道を行ったけれども、今日私たちが、目の前に可能な事実を置いても行けないならば……。(一九七六・一・一)
3 今日の時の意味
責任者は今の時がどういう時なのかということを知らなければなりません。その次には、この時に私たちが何をどのようにしなければならないのかという、その使命を知らなければなりません。皆さんの責任を果たすにあたって、盲目的にするのではありません。目的意識が徹底していなければなりません。また、目的意識がどれほど徹底しているといっても、先生が「こちらに行こう」と言えば、それに対して皆さんは反対をしてはいけません。(二四―二二七)
さあ、今の時はどういう時なのかというと、世界的に外的なことと内的なことが完全に分けられる時であり、内的なことと外的なことが完全にぶつかって生死を決定する時であり、民主世界と共産世界、唯物思想と唯心思想が闘争する時だというのです。それで世の中に従っていけば、サタン世界にしきりに引っ張られて入っていくのです。世の中を否定し、宗教に深く入っていけば、天の側へしきりに入っていくのです。(一〇二―二三一)
イエス時代は縦的時代なのです。今、先生の時は横的時代です。この新しい時代を迎えることは易しいですか? ですから横的に七年以上祈らなければならないのです。今までは二十年以上努力して初めて霊界のイエス様に会って祈りましたが、それは不可避的なことです。最近は原理のみ言を聞いて、みな「ああ、真の父母様のために……」このように直ちに、一週間以内に心情圏に入っていくというのです。原理のみ言を聞いて、自分が真の父母の真の子女にならなければならないということを知るようになれば、直ちに入るのです。それがどれほど近いですか? 真の父母がどれほど近いのかを知らなければなりません。(一三一―一五八)
時はだんだん最後の解決点に向かって流れています。歴史も流れているし、宗教も流れているし、主義も流れています。こういう問題を解決しようとするので、ここも戦いであり、あそこも戦いであり、ここでも嘆き、あそこでも嘆いています。
こういう混乱期に、信じようとしても信じられないし、収拾しようとしても収拾できない時にエリヤが現れて、新しい心情の一端を吐露したのと同様に、歴史で探し出すことができなかった天の心情を吐露する新しい声はないのか? 皆さんはそういう考えをしなければならないのです。(六―三五)
今の時はどういう時か? 最後の時です。そうであるほどに、すべてが渾沌状態にあって自分を収拾できない断末魔的な時代に臨んでいます。ここに神様がいるならば、神様が対処できるものは、これをどうやって再び救ってあげるのかということです。(一二六―一一二)
今や私たちの時は来ました。神様が願った一時を迎えたというのです。歴史時代の数多い人類が、あるいは数多くの預言者たちが血の道を選んで行きながら築いてきた望みの一時代、願ってきたその時代が私たちの目前に到達したのです。それが私たちの時代にかかっているのです。
それが今どのようになっているのかというと、大きな魚の前に餌になって、おいしいにおいを漂わせて、しっぽを振りながらぐるぐる回っている気分だというのです。その餌を先生が握って座っていて、魚が食いついたら引っ張るのです。そういう気分です。(笑い) ですからいつ「疲れた」と言うことができ、ぐずぐずして何のつまらない考えをする時間があるのですか? 「ああ、私は一週間断食をしたので魚よ、食いつくなら食いつき、そうでないなら食いつくな」、そう言いますか? そういうことが起これば、精神がぱっと気づくのです。骨が溶ける恨みがあるとしても、これはおもしろいのです。(四〇―二二)
無限の動力を中心にした物質文明時代が来ています。一番最初人間には生食時代があり、その次には火食時代を経、次には水食時代、すなわち水の栄養を取る時が来るというのです。これからは科学的食糧で私たちの健康を十分に保持できる時代がやって来るのです。私たち人間の努力が必要な時代は乗り越えるというのです。(四―二〇)
み旨の道を行こうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか? み旨の道を行こうとするなら、摂理の道を行くのに……。(黒板に書きながら話される)み旨の道を見るならば、物権が取り扱われる物権時代があります。その次にここは人権時代、その次には神権時代、その次には愛権時代、このような時代があります。
さあ、それでこの摂理の過去、復帰の道をずっと見るならば、今まで聖書の歴史を見ると、物権時代は何の時代ですか? 祭物時代です。オファリング(offering)というものは摂理的なものです。復帰というそういう過程で必要なものであって、み旨の世界では必要ないというのです。
物権時代は何かというと、祭物時代です。人権時代は何かというと、犠牲奉仕時代です。神権時代は許しの時代です。その次は何かというと、愛権理想時代です。この理想を願うのです。ここで、最初のこれは何の時代かというと旧約時代です。これは新約時代、これは成約時代です。皆さんがみ旨の道を成就するためのこの歴史的過程を全部このように集約させることができると見るのです。(一一八―一六七)
今、誰が、地区長がどうで、地域長がどうで、勝共連合の誰がどうで、誰がどうでという、そういうことを言っている時ではありません。私たちは一貫的に団結して、国家が要求する方向と目標をもって、これから韓民族が主導権をもてる、思想的基礎を立てることができる、この挙国的な責任を果たさなければなりません。今後は皆さんがこのような活動をしなければならない時が来たことを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。(六七―三〇三)
時を逃さないで、時を失わないで、事を奪われるなというのです。それを失わない方法は、今先生が話した二つしかないのです。うとましい人間にならないで人を愛する人になり……。その二つだけするなら、それを絶対失わないのです。それだけパスすればいいのです。それしかないのです。私が調べたから、それしかないのです。(九四―一四三)
目的地に近くなるとそれだけ「ハア、ハア、ハア」といって死ぬくらい苦しくなるのです。神様が皆さんならば、一番苦しい道、サタンもついてこれず悪い人も誰もついてこれない谷間に行くのです。これだけは間違いないのです。それで自分が英雄になるのだと欲心をもった人は、みな落ちるのです。欲心をもった人は落ちるのです。分かりますか? (九四―二四)
二 主要行事――名節制定、儀式、宣布
二 主要行事――名節制定、儀式、宣布
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1 父母の日――先生の佳約(婚約)式一九六〇年陰暦三月一日(陽暦三月二十七日)四時、青坡洞一街、前本部教会で この時間にお母様(韓鶴子女史)との正式約婚式を挙行なさったのだが、その翌年からこの日が「父母の日」として定着した。(劉孝元氏の筆記帳)
2 先生の聖婚式
一九六〇年陰暦三月十六日(陽暦四月十一日)四時、青坡洞一街、前本部教会で挙行
一九六〇年四月十一日、陰暦三月十六日、早く神様が創造理念のみ旨を広めて天地が開闢されて以来初めて施される先生と韓鶴子女史のおふた方の聖婚式、ここ天と地の情念が凝結されて、聖徒の敬意と緊張が端に届き、大主宰の尊厳であらせられる性相の前に静かにこうべを垂れる。
聖婚式はこの日、朝の十時に始まり、場内にまず手ずから聖塩をお撒きになり、「蕩減復帰の父母の式」である第一次式では、ソウルと各地方の教会から選抜されて集まった七百余名の男女聖徒が密集した中で進行された。
各々左右に列をつくっている中で、粗織りの木綿二枚の広さを置き、東西に伸ばした中央の通路を歩いて出てこられたのち、北方(事実は便宜上西方)に配設された行礼台にお出ましになって天のお父様に対する簡単な祈祷と天宙に向けて発した宣布があったのち、金元弼、鄭達玉の両氏の送辞と柳光烈氏の頌詩奉読があったのち、いったん退場なさった。すぐに続いて「栄光の父母の式」である第二次式に入った。
おふた方は再び入場なさって神様に宣誓、一同四拝があったのち、相面三拝、礼物交換、相面一拝でいったん本礼を終えられて、一緒に食口の方を向いてお立ちになった。
順序に従って礼物奉呈に入って代表で李俊容、金榮輝の両氏と鄭大和嬢が礼物を差し上げて、高等学生である尹宙鎮君と金明愛嬢の頌詩奉読があった。
続いて式は先生の宣誓、そして食口たちのために一緒に手をお挙げになって祝福の祈祷を施してくださることで終えられた。(「史報」一号三ページ)
聖塩はこの日から使い始められた。(九―七九)
世界的な迫害を清算するためには、イエス様が国家基準でできなかった霊・肉的蕩減条件を蕩減しておかなければならないのです。イエス様が立てる蕩減基準を大韓民国に立てておいて……。イエス様の願いは何ですか? 結婚することでしょう? そうではないですか? (そうです)。イエス様の願いは何ですか? 結婚することですね? 男性の願いに、何かほかのものがありますか? イエス様も男性でしょう? (はい)。神様の前にあって、神様の愛を中心にして結婚することが誰の願いですか? (イエス様の願いです)。イエス様の願いです。
ところが死によってその願いを成し遂げることができなかったので、再び来て、その願いを成すことがイエス様の願いです。ですから今やユダヤの国とユダヤ教の中でイエス様の願いを成せないことを、今日統一教会を中心にして韓国でイエス様の願いを成就してあげなければなりません。それが何ですか? (結婚式です)。結婚がどこにありますか? 聖婚式でしょう? 一九六〇年代にそれをしたというのです。そうやって蕩減できる基準を立てました。(一二二―一〇六)
一九六〇年度に家庭という基盤をもったので今や滅びないのです。家庭基盤をもてなかったなら滅びるようになるのです。一九六〇年度のこの聖婚式がどれほど歴史的な事件だったことか! 今まで六千年間の摂理歴史時代で、アダム一人を探すために苦労したその基盤の上にアダムが地上に基準を立て、エバを完成したエバとして迎え入れることができるということは、霊界と肉界に分けられたことが初めて地上世界に連結されることなのです。男性は天の代身であり、女性は地の代身です。分けられた霊界と肉界が連結されるのです。アダムとエバの怨讐だったその壁が崩れるのです。アダムとエバが神様と会えなくしていたこの壁が崩れるのです。サタンが抜けて出ていくのです。こうして神様とアダムとエバが一つになって、ここから……。(一二二―九七)
六千年の間天が願ってきたアダムが来て、この地上で蕩減して、一九六〇年度に聖婚式を挙げたというこの事実が、どれほど大変な事実かということを皆さんは知りません。天から見る時にどれほどはらはらして、生死の危い局面を経ていく、どれほど息詰まる期間だったことか! こういう全般的なみ旨を先生が知っているので、行こうとして、それを切り抜けられたというのです。分かりますか? (一二二―一〇二)
一九六〇年代が、有り難い年ですか? (はい)。どれほど有り難い年なのか知らなければなりません。ですから一九六〇年度からサタン世界では大動揺が起こるのです。歴史家たちもいうけれど、なぜ大動揺が起こるのですか? 一九六〇年度から四十年間、二〇〇〇年までそうであろうに、なぜ大動揺が起こるのかというのです。それは清算をする期間です。清算するためには取り外して散らしてしまい、掃いてしまわなければなりません。ですから内的四十年間、外的四十年間にこういう業が起こるのです。(一二二―一〇三)
先生が一九六〇年度を中心にしてお母様を迎えて聖婚式をしたのであり、父母様の家庭を中心にして氏族編成をなしてきたのです。(一三五―一七八)
こうしてお母様を選んだのち、統一教会に女性の時代が来たのです。女性時代は艱難時代です。(一二二―一〇五)
3 三子女の祝福式――万物復帰の式と子女復帰の式
一九六〇年四月十六日(陰暦三月二十一日)、青坡洞一街、前本部教会で
一九六〇年四月十六日、陰暦三月二十一日、この日は三双の天の息子、娘が結合する聖婚式挙行の日です。
朝十時にまず「万物復帰の式」である第一次式が始まりました。
先生が壇に上って正座なさったのち、様々な聖徒代表から拝礼と礼物をお受けになり、金元弼氏の頌詩奉読に続いてお二人一緒に手を挙げて祝祷なさることで閉式したのですが、この順序の中で直接動員された方は先生お二人以外に二十一名でした。
すぐにあとに続けて第二次式に入ったのですが、これがすなわち、金元弼・鄭達玉、劉孝元・史吉子、金榮輝・鄭大和ら三双が永遠の佳約(注:夫婦の契り)を結ぶ祝福の礼式です。
その中で先に行われた第一式は「子女復帰の式」なのですが、この順序に従って前記した順番でカップルたちが間隔を置いて歩いてきて、既に登壇しておられた先生の前に至っては先生に向かって横の列で整列したのち、千年の魂がこの場にもつれて緊張する息苦しい問答礼式が、先生と結婚当事者たちの間に行われました。続いて先生が歴史に決着をつけて歴史の出発を告げる歴史的な事情と、復帰の曲折を解く神様の心情に福をささげる祝祷をなさった。(「史報」一号三ページ)
先生が家庭を祝福する時には、その三家庭を中心にして祝福をしなければならないのです。何のことだか分かりますか? それで先生の息子、娘も、そういう三家庭を中心にして祝福をしてあげました。そういう歴史的意義もあるのです。それを知っていますか? (はい)。教会長、分かりましたね? (はい)。その二またの道が連結されなければなりません。霊界で分かれたものを地上で束ねてこそ、霊界でも束ねられるのです。地上で完全に蕩減してこそ霊界も崩れるのです。サタン世界が追放されるのです。(一二二―一〇一)
4 心情復活の日宣布
一九六〇年四月十七日、三清公園、復活節礼拝
今日当面している復帰路程の主な目的は再臨主に会うことです。再臨主の使命は堕落によって失われた心情を復帰することです。ゆえに私たちは心情を占領してこられるその方に対して、一大復活の役事を起こさなくてはならないのです。(九―八九)
今までの預言者、聖人たちは体と心では無限に悲しみました。しかし、まだ心情で悲しんだ人はいません。心情世界の悲しみは、まだ未開拓分野です。私たちは、この分野を開拓しなければならない先鋒者として召されました。それゆえに私たちは体の訴え、心の要求、心情の要求、この三つの関門を越えなければなりません。
皆さんは歴史を振り返ってみることのできる、歴史的な先鋒者として天の召命を受けたのです。これは言葉だけではありません。心情の門を開放してこそ新婦が現れ、神様も自由にお出ましになれるのです。それで、一にも心情、二にも心情です。
私たちはとにかく心情の門を通過しなければなりません。心情の門を通過したという条件を立てないならば、復活できません。イエス様も心情の問題を解決できなかったので、天国に入れなかったのです。ですから第一にも心情で、千番目も心情で、一万番目も心情です。この心情の門を開けてこそ、天国の門が開きます。天国の門が開く日、その体と心、心情に傷を受けなかった人が天国に入れます。体と心と心情に傷を受けず、イエス様がしなければならないことを代わりにする人が、イエス様の兄弟です。イエス様に対してお兄さんと呼ぶことができます。これは特権中の特権です。
過去の歴史は、外的な土地と祭物を奪う戦いの歴史でした。しかし今は、内的な人と主義を奪う時代です。この内的な戦いがまだ解決されなかったので、天国の門がピタッと閉じられているのです。完全なものが出てきてこそ、この戦いが解決されるであろうし、天国の門も開くのです。それがすなわち心情の開放です。ゆえに天地全体が心情の分野にあって、自由開放をしなければなりません。天地はこの時間も、心情の因縁を結ぶために嘆いています。
神様はすべての被造万象を心情の因縁でお造りになりました。それゆえに草一株にも心情が連結されています。ところで人間は、堕落することによってその因縁が断たれてしまいました。もし、天上の心情の因縁と地上の心情の因縁を連結させることのできる者がいるならば、彼は天地の何であろうと解決できます。(九―八八)
きょうのこの復活節に際して、私たちの心情が問題です。天が望まれるとおりに、現実で価値的な味を出す人にならなければなりません。今まで復活を完結したという人が天にも地にもいなかったのですが、このかわいそうな民族が住む韓半島から復活が成されるということは、頭を下げて感謝しなければならないことです。この基準を成した人がいるならば、彼は億兆の金をあげても換えることができません。彼はすべてのものを失ってしまった人のようですが、すべてのものを持っている人です。心情の主導権を握ってこられる父の前に、喜びと幸福と楽しみを帰し奉る息子であり娘です。それゆえに私たちは、彼の心情世界に接ぎ木されなければなりません。
神様は私たちの父です。主は私たちの新郎です。天は私たちに、慕わしさと神様主義と忠誠を知らせてくださいました。今や私たちは父子の心情、夫婦の心情、君臣の心情をもって、主義を統一させていかなければなりません。そのお父様の名のもとではお互いに許し得ないものはなく、曲折が心に積もることはできません。新郎の名では譲歩できないことはありません。一人の王様のもとに忠誠を尽くすにあたり、一つになれないなどということはありません。これが心情復活の総結論です。
四十年の人生の間、こういうことを一度言うことを願ってきたのですが、今日こう言うようになったので、これを聞く皆さんは無限の栄光と考えて、心に刻み込んでください。(八―九一)
5 子女の日
一九六〇年陰暦十月一日(陽暦十一月九日)、青坡洞一街、前本部教会
6 四位基台復帰
一九六一年一月二十七日(陰暦十二月十一日)、譽進様の誕生日、青坡洞一街、前本部教会で(劉孝元氏の筆記帳)
7 女性を代身した奉献儀式
一九六一年二月二日、譽進様奉献式(誕生七日目)、青坡洞一街、前本部教会 *娘は七日に奉献し、息子は八日にする。
この式の参席者が式の喜びを忘れる時、各参席者自身が責任を取るという条件のもとに参与した。
基礎は涙と血と汗で立てなければならない。(一一―八二)
8 実体復活の日宣布
一九六一年四月十七日、銅雀洞国立墓地の裏山、復活節の礼拝
四月十七日、この日はイエス様が復活なさった日です。どれほど良い日でしょうか? イエス様の祝福を受ければ、霊界で勝利したイエス様の土台の上に立つようになります。皆さんは、天下の大怨讐と戦って勝てる勇者の姿で現れなければなりません。
この道を無難に越えれば、天国に行くことは問題ありません。イエス様の復活は霊的な復活であり、実体の復活を成してその目的を達成したのちに祝わなければなりません。完全な復活をしてこそ、イエス様に対して兄弟だということができます。神様は涙と嘆きでこの日を迎えられました。完成復活とは何ですか? 創造目的を達成した実体の復活です。(一一―一四五)
これから実体復活ができる一つの存在になろうとするなら、彼は歴史的な基準を蕩減して、現実の戦いで倒れないで勝利しなければなりません。それでこそ実体復活をすることができます。そうなる日が実体復活の日です。この基準が立てられてこそ「悲しみの世の中よ、元気でいろよ。私たちは元に引き返す」と言えるのです。実体の時代が来るのです。歴史的な闘争過程を経て、イエス様の望みである新郎新婦の基準を完結してこそ、初めて私たちが望む地上天国が成就されるのです。(一一―三三七)
歴史的なすべての基準を完成して、「何でも守ることができる」と言ってこそ、再臨の一日を迎えることができます。今やこの地にイエス様の使命を引き継ぎ、神様の心情を引き継いで来られる方がいらっしゃるなら、その方がこの世界の主人公です。実体復活は、心情まで通じなければなりません。その日は、天地が回る日です。
実体復活の日が来ようとするならば、実体の父母がいなければならないし、実体の子女がいなければなりません。皆さんは実体復活を通して栄光の位置に進み出なければなりません。そのためには戦いをしなければなりません。そうして栄光の主権を立てなければなりません。この道は、死のうが生きようが行かなければならない道です。(一一―三三八)
9 勝利の山祭(礼拝)
一九六三年二月二十一日、江原道溟州郡旺山面九切里老人峰
*世界の主要名山の中心(象徴的)、共産主義屈伏のため
10 天勝号進水式
一九六三年六月二十六日、午前八時三十五分、仁川市万石洞の埠頭
11 万物の日
一九六三年陰暦五月一日(陽暦六月二十一日)
献貢式(一九六三年七月二十六日 陰暦六月六日)、青坡洞一街、前本部教会
天のお父様が悠久なる歴史を導かれながら、待ち望んでこられた願いの日である「万物の日」の意義を説明なさり、天の子女の名で天下万物をささげる「献貢式」をもたれました。献貢式によって「万物の日」を制定なさる契機になるようにされました。この場で、次の年からは陰暦五月一日を「万物の日」として守ると宣布されました。(「成和」第二十九号)
12 蕩減基金の献納に関する儀式
一九六四年五月十二日正午、青坡洞一街、前本部教会
アベルとイエス様の血の値を蕩減する日としてこの日を立てます。
七年路程にあって今まで四年間は蕩減の条件があって消耗してきたけれど、残りの三年は一致団結して個人が勝利した基準の上で国家的、世界的な蕩減基準で越えていかなければならないのです。(一四―六九)
元来は、「万物の日」をまず探し立てて「子女の日」と「父母の日」を探し立てなければならないのですが、統一教会は逆に探し立てました。先生は個人的に「万物の日」と「子女の日」を探し求めて、その基台の上に再び「父母の日」を探し立てました。
真正な愛で訪ねてこられた父母が、子供たちから捨てられたという心情を感じてみることなくしては、真の父母の立場で「父母の日」を立てることはできません。
この三つの日を血で侵犯されたのです。父母を殺した罪、子女を殺した罪、さらには万物を捨ててしまった罪をどうやって蕩減するのですか?
ユダがイエス様を売った血の値で旅人の墓地を買いました。それゆえに、蕩減基金で聖徒たちがとどまることのできる家を準備しなければなりません。
蕩減基金はお金の中でも、一番貴重なお金です。この基金に逸話が多くなければなりません。悲惨なことが多くなければなりません。(一四―七〇)
13 象徴的な聖殿建築宣布式
一九六四年陰暦四月十二日(陽暦五月二十三日)、青坡洞一街、前本部教会 生命水下賜なさる。
象徴、形状的に条件を立てることは個人から家庭へ……広げるためです。象徴、形状、実体で条件を立てます。内的・外的闘争をするのにも象徴、形状を経てします。国と国、宗教が分かれ、すべてのものが分けられたのです。
これを反対に統合していきます。キリスト教が、来られる主に侍ったなら一時に成るはずだったのですが、侍ることができなかったので、これを再び象徴、形状、実体で探していくのです。
この式は、エデンが立てられて、民族が立てられて、地の上にこういうものを立てて、天の基準に合わせていくのです。
私たちはこの世界、この国の主人だという考えをもって、信念をもって戦わなければなりません。
天の宮、天の圏、天の民を立てる日として、新しい時代に越えていく式です。
また、生命水です。心に忌むことがある時、この水を聖塩と一緒に飲みなさい。水が底をついたなら、誰かが飲む六時間前に補充しなさい。
聖塩は外的分別、生命水は内的分別です。心情の因縁を結んでくれる生水です。(劉孝元氏の筆記帳)
14 実体サタン屈伏儀式
一九六四年六月九日、青坡洞一街、前本部教会
一次儀式(午前七時)
〈み言の要旨〉今までは与えるための消耗の歴史でした。しかし今からは取り入れ、栄える歴史なのです。
今日、三次にわたってするようになる実体サタン屈伏儀式は、本然の世界の全権をもって善の主権を立てて心情を中心にして統治するようになることを意味する式です。今や僕と息子を立てて父の使命と母の使命をする父母を立てて、神様が被造世界を直接主管できる土台を準備しなければなりません。
この土台を準備するために、神様は苦労の道と十字架の道を歩んでこられました。今や神様は、今に至るまで与えてきたものを刈り取り、義の功績を立てて新しい時代に越えていかれます。
今までは聖霊時代を蕩減するために、聖霊も堕落人間の立場にあったけれど、今からは聖霊は不義を直接審判できなければなりません。今までは過ちを放任してきましたが、今からは善なる霊界を動員して責任を追及しなければなりません。
今からは、お父様に直接侍らなければならない新しい時代に入ってきました。今からは、直接的にお父様の命令を受けて行動しなければなりません。
今までは蕩減をするために役事をしてきたけれども、今からは蕩減をさせるための役事をしなければなりません。それゆえに皆さんは、聖霊の立場に立たなければなりません。また、個体でなく全体を身代わりした公的な存在として立たなければなりません。個人的な感情や不満で公的な義を行うのに支障があってはなりません。
復帰は父子中心なので、どれだけ難しい事情があっても、神様を中心にして生きてこそすべての恩恵を刈り入れて、すべての道人を屈伏させることができます。今からは、すべての道人たちがこの所に向かって入ってくるようになります。ですから皆さんは、イエス様と聖霊を身代わりして行動しなければなりません。
神様の要求に対して全体をささげなければなりません。また、公的な命令に対しては絶対に順応しなければなりません。たとえその命令が間違ったものであっても、従順にすればそれは恩賜に変わります。
今からは神様の前に新しい生活をしなければなりません。先生がみ言を語らないとしても、皆さんは指導をしなければならない責任があります。神様が下してくださるすべての恩賜を結実しなければなりません。
この式は神霊が分かれたことを再び合わせてやる式です。自分のことよりもみ旨のためにする心配のほうが大きくなければなりません。今までは蕩減の苦労をしたけれど、今からは神様の前に自分の功績を立てるための苦労です。
今までは聖霊が間接的に役事をしたけれども、今からは神様が直接役事なさいます。皆さんも先生に代わって役事しなさい。昼の十二時に挙行する二次式は、不義を許さず、分かれた天と地を再び合わせ、また、霊界を動員して新しい命令による新しい戦いを展開することによって、地上でサタンの実体を清算する式になります。
二次儀式(正午)
〈み言の要旨〉み言の前に不義が立つことはできないという信念でこのみ言を伝えるなら、このみ言によってサタン世界には恐怖が来ます。これからは、み言を中心に長子権を奪う役事がなされます。私たちがみ言を伝えるにしたがって霊人たちも協助をします。朝に行った式は、心情審判の条件を立てる式であったし、昼に行う式は、み言を中心として分かれていた天と地を合わせる条件を立てる式です。今まではこのみ言が世の中の誹謗を受けてきたけれど、これからはそうではありません。今からは活動するに応じて広く広まるのです。
三次儀式(午後十一時)
〈み言の要旨〉一次、二次に続いて今回の式は、人格審判の条件を立てる式です。国(注:大韓民国)に対する式はこれで最後です。世界のための式はしなくてもいいのです。国家と教会が受難を受けるのは、サタン実体を屈伏させる基準になります。
良心を欺いてはいけません。これは天に記録されます。生命水に何を入れたのか。これはモーセが偶像を燃やして水に入れて飲むのと同様、サタンを燃やして食べるのです。勝利者の快感をもって、続けて苦労でもって進んでいけば、自分の実績として残ります。今や皆さんは、こういう条件を立てたのでサタンを屈伏させることができるという自信をもちなさい。(一四―八三)
15 キリスト教のための式
一九六四年陰暦六月十七日(陽暦七月十五日)午前八時、青坡洞一街、前本部教会
百四十四はイスラエル全体の数であり、世界の第二イスラエル全体の数です。全キリスト教を新しい方向に回します。この式によって全キリスト教はアベル的な立場に、全人類はカイン的な立場に立ちます。私たち百四十四名の群れは、代わりに忠誠を立てなければなりません。そうすれば、イエス様の当時に役事したすべての役事を集中的にできるようになります。
百四十四名(12×12)全員が、十四万四千の代表であり、見た目にはみすぼらしいけれども、至極大きい意義をもっています。(劉孝元氏の筆記帳)
16 霊的サタンを打つ式
一九六四年陰暦七月七日(陽暦八月十四日)午前七時、青坡洞一街、前本部教会
17 肉的サタンを打つ式
一九六四年陰暦七月十四日(陽暦八月二十一日)午後十一時、青坡洞一街、前本部教会
18 心情のろうそく伝授式
一九六六年一月五日十時、青坡洞一街、前本部教会
全世界百二十カ所に聖地を選定なさり、ここに復帰された子女たちが立ちましたので、これからは神様と一体化しなければなりません。
この心情のろうそくの火は、お父様の心情を受け継いで、アダムとエバが堕落した以前の立場に復帰する印なのです。この意味は、自分を溶かして犠牲にすることによって、この世を明るくすることにあります。「これが誇りとなり、心霊を明るくすることになるようにしてください」と祈祷されました。(劉孝元氏筆記帳)
19 聖石奉献式
一九六六年一月二十七日午前一時、青坡洞一街、前本部教会
〈聖石奉献祈祷要旨〉
四十カ国の百二十カ所の聖地から持ってきた、天地全体を象徴する石と土を奉献いたしますので、その国の全体を奉献する条件として立たせてくださいますように。この式を行うことにより、すべての権勢は神側に集まり、サタン世界の権勢は崩れるようにしてくださいますように。
20 「神の日」宣布
一九六八年一月一日三時
①氏族(統一一族)中心、または家庭を中心として、神様が自由に運行することのできる勝利の基盤が準備されました。
②神様がエデンの園で、アダムとエバを中心として望まれたその基準を、今から成すことができます。
③この日が設定されることにより、新しい方面での発展段階に向かってさらに前進することが可能となり、今までの歴史は蕩減の歴史だったので、私たちが苦労し、汗を流して苦労したすべての実績は蕩減のためのものであっただけで、神様が本当に喜ぶことのできる苦労にはなれなかったのです。
④しかし、これから私たちが涙を流し、血と汗を流して苦労したすべての実績は、サタン世界において蕩減条件となり、流れ去ってしまうことはありません。
⑤これからの苦労は、私たち自体のものとして連結され、自体の実績として取り入れることができるのです。そのような時代圏の中に入ってきたのです。(すなわち、私たちの苦労は、すべて神様の勝利として決定できる時代になった)。――栄光の時代圏、神様が喜ぶことのできる時代圏。
x神様が干渉することのできる時代。
a天の家庭を中心として、神様が直接的に指揮することのできる時代圏になる。
⑥皆さんが十の苦労をしたならば、その十の分の苦労した実を結ぶことのできる時代圏を成す。
⑦これが神様の前に無限の自慢となり、サタンの前には無限に悔しい事実となった。
⑧「神の日」が制定されることにより、霊界の数多くの霊人たちが地上に降りてきて、神様が願われるみ旨を中心として、本格的に戦闘することができる時期になる。
⑨今までの世界の運勢は、逆戻りする運勢だった。これからは、恩恵を皆さんが刈り入れることのできる時代圏内に入る。
〈お願い(「神の日」の宣布の時)〉
①この日の深い意味と価値を知らなければならない。
②この日を指標として、各自の生活の土台を開拓し、さらに統一一族としての責任を追及し、民族的責任を完遂しなければならない。
③私が願ってきたことをしなければならない。
④真の忠臣として備えるべきものを備えなければならない。
⑤皆さんには、「神の日」の内容がどういうものであるかを後代の後孫たちに教えて、彼らをして遺言を定めるようにしなければならない責任がある。
⑥孝子、孝女の権威をもって、りりしく雄々しい姿をもってサタンの前に自慢することができ、善の実体として責任を果たすことができなければならない。(劉孝元氏筆記帳)
一九六八年一月一日に「神の日」を宣布することにより、堕落しなかった父母の立場を復帰した。これにより、サタンは完全に除去され、人間は完全に復帰される。(二一―二三)
一九六八年一月一日は、初めて神様が地上において創造理想を願われた、すなわち神様の愛を中心としてアダムとエバが一体となり、愛を中心として初めて着陸することができる、歴史始まって以来、初めての喜びの日である。その日を、「神の日」であるということを知らなければなりません。(拍手) この世がどんなに反対しても、既成教会の信徒たちが反対し、すべての牧師、法王、その誰が反対し、天下がすべて反対したとしても、この日は神様にとって、歴史始まって以来、創世以後、初めて喜びの日となり、良き日となるのです。(一六一―四六)
「神の日」がどういう日であるかというと、神様の直接的主管圏内に入ったことを意味する日です。また、「父母の日」は、堕落した父母が堕落以前の立場に上がっていくことを意味する日です。そして私たちは「神の日」、「父母の日」だけでなく「子女の日」、「万物の日」も探し立てたのです。(三四―一〇三)
一九六八年正月一日になって「神の日」を制定したのです、そうでしょう? (はい)。それはなぜですか? 七年路程を越えていかなければならないというのです。ですから神様の直接主管圏に入って「神の日」を制定したのです。「神の日」が決定されることにより、その期間の「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、歴史時代に失われたすべての悲しい日々を蕩減し、世界的な本格的出発を始めたのです。分かりますか? ですからお母様も、七年路程を経たのです。それはアダムが、全部保護してくれるのです。(一二二―一〇五)
皆さんは何も知らずに、分別のつかない幼い子供のようで、背中におぶって、おなかがすけば泣き騒ぎ、いろいろなことをしたけれども、父母の使命はとてつもないというのです。行かなければならない道を選んでいかなければならないし、越えなければならない山を越えていかなければならないし、渡らなければならない海を越えて、このように来たのです。ですから、一九六七年を越えて、一九六八年を中心として、「神の日」を迎えることができるという事実は……。そこにおいて初めて、地上に光が輝き始めたのです。それからは共生時代、天が霊的な共生時代を開くのです。肉的な共生時代は一九七七年でしょう? ここから霊的な共生時代に入っていくのです。ですから統一教会は発展していくのです。イエス様が成すことができなかったことを、イエス様が成したのと同じ立場に立ったのが、韓国での聖婚式です。イエス様が聖婚式をしたとしても、七年路程は残るのです。七年の大患難がそれです。それを蕩減して、一九六八年において「神の日」を迎えたので、その次からは大移動が可能であるというのです。(一二二―一〇七)
21 長成期完成級を越える式
一九六八年二月八日
この日を期して、家庭を中心として、心情的に長成期完成級を越える式をすることにより、エデンの園でアダムとエバが堕落した以前の立場に返るのです。(二三―二五一)
22 「神の日」を宣布したのちの七カ月
一九六八年陰暦七月七日(陽暦七月三十一日)七時
* 劉孝元氏筆記帳
23 イエス様御聖婚の特別式
一九七一年一月三日午前零時七分
お父様。真の父母の名によって、ここにお一人がイエス様の相対としての因縁を結び、家庭の名分を備えることになりました。これにより、今まで一つになることができなかった霊界と肉界を一つにしてくださり、一つになることができなかったカインとアベルを一つにしてくださり、復帰世界において、天使世界とアダム世界の権限が、この時間を期して新しく発足することのできる内容を、お父様の権威と、お父様の愛と、お父様の生命と、お父様の全能の権限を通して成立させてくださいますように、お父様の前に切にお願い申し上げます。(三八―九五)
きょう私たちがこのような式をして、このような日を迎えることにより、世界のキリスト教が、霊界が、協助して動くようになるのです。(三八―一二八)
24 勝祝日
一九七三年七月一日
『マルスム選集』六七―二三七~二六六参考
イエス様の解怨成就の一日を代表することのできる喜びの日、摂理史的な意義をもつ式。
一九七三年七月一日、アメリカで「勝祝日」という歴史的な記念の日を制定しました。今までいろいろな記念の日を韓国で定めたけれども、世界で勝利を祝う日を制定したのは初めてです。分かりますか? 統一教会の歴史において新しい起源を準備した日なのです。
「勝祝日」は第二次七年路程における三年の峠(前半)をよく越えたので、制定することができたのです。三年の峠をよく越えたというのです。よく越えることができたので、勝利を祝うのです。これからは、どんなにサタンが反対しても、また、反対すればするほど、サタンが崩れ去っていくのです。どういうことか、分かりますか? 昔とは違うというのです。反対すれば反対するほど、サタンが崩れ去るのです。ですから、既成教会も、これからは息も絶え絶えになってしまいます。アメリカの教会も、これからは反対する余力がないのです。
遠からず私たち統一教会が、全国に台風のような風を巻き起こすのです。「ああ、青坡洞の統一教会の本部、つまらないから、既成教会が声を上げればすぐなくなると思っていたのに……」。それは大きなお世話です。これからは、アメリカのどんな主権者でも、取り除くことができない基盤を築き上げてきたことを知らなければなりません。アメリカの国民が反対したとしても、取り除くことのできない基盤を築き上げてきたのです。約八カ月の間、奇跡のような実績を積み上げて、帰ってきたのです。事実はここに入ってきますと霊界でも勝利を祝うという言葉が出てくるというのです。「勝祝日」というものをさっと定めておいてきたというのです。七月七日は歴史的な日です。一九七三年七月七日にアメリカから出てきました。(黒板に書かれる)七月七日は歴史的な日です。
「勝祝日」を定めておき、七月七日にアメリカをたったのです。そして、アジアの日本を七月八日にたったのです。この日は、再出発の日なのです。その時、「日本では必ずこのようなことが起こるはずです。私が日本に行けば、歓迎の良い報告があるはずだ」と考えました。案の定、そのとおりになりました。(六八―一五九)
イエス様の路程において三年路程を越えたのと同じ先生の立場になったので、陽暦では七月一日に「勝祝日」という日をアメリカで定めてきたのです。統一教会で祝うすべての日は韓国で定めてきましたが、今回初めてアメリカの地で勝利を祝う日を設定し、アジアを訪ねてきたのです。(六八―二七一)
25 文氏氏族解放式
一九七三年陰暦七月七日(陽暦八月五日)、清平修練所
『マルスム選集』六八―二五六~三〇四参考
きょう、私が祈祷した中で分かったかもしれませんが、統一教会の氏族的家庭を解放させる祈祷をしました。今まで先生は、自分の家庭のための祈祷はしませんでした。公式な席上において、神の前に「ああ、私のお父さん、お母さん、私の霊界の先祖たちを助けてください」という祈祷を一言もしたことがありません。正式にそのような祈祷をしたことがないというのです。私のお父さんが、お母さんがどうなっているのか、兄弟がどうなっているのか……。これからはそのようにするのではなく、氏族と宗族を重要視するのです。私の氏族以上に私は皆さんを愛しました。お母様以上に私は皆さんを愛しました。子供たち以上に愛しました。そのように愛したか愛さなかったか、祈祷してみなさいというのです。これからはその愛を刈り入れるのです。刈り入れて、子供たちを愛するのです。私が、気でも狂ったかのように子供たちを愛するというのです。もし、それが地上においてできなければ、霊界に行って間違いなくそうするというのです。
このようにすることによって、文氏の氏族の霊的基準が解放基準を開門するようになり、霊界に統一的恩恵圏が広がるのです。その因縁は、数多くの氏族たち、親戚の八親等まで連結されるというのです。どういうことか分かりますか? 私の先祖を見てみると、文氏一家、あるいは姻戚関係を中心として全部婚姻したので、ここには三千里半島の民族が連結されるというのです。そうであるのに、韓国が滅びていくような立場ではいけないというのです。ですから、霊的な救援の門を開いておいていこうというのが、先生の所信です。このようなことを既に祈祷してきたし、考えてきたということを、皆さんは知らなければなりません。どういうことか分かりますか? (はい)。
皆さんは、霊的基準においては先生に侍ることはできなかったけれども、霊的氏族的基盤を連結させて、皆さんがこのみ旨を中心として一つになることにより、内的霊的基準を通して、外的な氏族が連結されるのです。(六八―二七一)
先生の一族であれば一族においては、きょうこの一日が、祝福を受ける日であるといえるでしょう。そうすることにより、これから文氏の氏族の先祖たちが再臨して、文氏の氏族たちがみ旨のために働くことのできる道が連結されると見ると同時に、彼らと共に姻戚関係を結んだ韓国民族もすべて連結されるというのです。このように各氏族が連結されるということを考える時に、これは霊界開門の起源になるというのです。ですから、きょうこの歴史的な日を、皆さんの心に記憶してくださるように願うのです。
一九七三年のこの日は、霊界において勝利を決意することのできる日であり、この世においても勝利を決意することのできる日であるということを、皆さんは知らなければなりません。
地上開運という言葉は何かというと、先生が今まで外的基盤を築いたものを、これからはアメリカまで内的に連結することができるようになったことを意味するのです。ですから、皆さんが一つになり、イエス様が十字架で亡くなられた立場を取り消すことができる、すなわち、「私は意味もなく死んだ」ということのない立場に立たなければならないというのです。
もう一度言えば、イエス様と弟子たちが一つになる立場に立ったとするならば、すべての世界の祝福を受ける門を開くことができたということを、皆さんは知らなければなりません。
距離は離れているけれども、皆さんは韓国の中にいるからといってアメリカを他の国と考えず、一つの国と考えなければなりません。地球は大きいけれども、一つの国だと思えばいいのです。私たちの国のために、必要適切な所に行って、先生が仕事をしていると考えなければなりません。イエス様が昇天する時に、「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つになるためであります」(ヨハネ一七・二一)とおっしゃったような、そのような切なる立場と同じ立場に先生がいるということを知って、先生が帰ってくる時は、誇らしい皆さんになっているよう願っています。
そうであろうとすれば、まず国のためよりも、皆さんの家庭が一つにならなければなりません。アベルになれば、アベルは統一された群れです。家庭でいうならば、自分の個体のみならず、家庭全体が統一された群れです。こうして氏族統一がなされる基盤から、氏族解放がなされるのです。ですから皆さんを信じ、またそうすることのできる立場に行くことのできる立場で、霊界の開門役事、霊界を解放させるこのような運動をするという事実は、むしろ皆さんの前に福をもってくることができるというのです。きょうは、そうなることのできる良き日となることを知るのです。(六九―二八九)
先生は昨年七月に来て、文氏氏族を解放する式をしたのです。そうでしょう? 文氏の氏族を解放しなければ、イエス様が洗礼ヨハネとヨセフの氏族を解放できず、道がふさがってしまって、行く道がないというのです。それゆえに先生も氏族解放をしなければならないのです。イエス様が恨みをもっておられることは何かというと、ザカリヤの家庭とヨセフの家庭が一つになって氏族的責任を果たさなければならなかったのに、それができないままに越えてしまったことにより、イエス様が引っかかってしまったのです。ですから、復帰時代においてある氏族が神様の摂理のみ旨に対し、それを解放してくれないと、イエス様が行く道がないのです。ですから解放式をやらなければならないのです。(七一―二三七、一九七四・五・一)
◎文氏を社長にした理由
①み旨が願う摂理史で見ても。
②文氏がこの地の上で霊的開門の恵沢を施さなければならない立場でもって見ても、そういう内外を見ても 良いから。
③文氏の家門に霊的に開門する意味で、地上でこのような道を開いていれば統一教会の皆さんにも良いのと同時に、この民族に良いのです。これに対して話をしてはいけません。そういう基盤が築かれて、名目上彼らでなければ駄目だという肯定的な基盤を開いておきました。
④それゆえに先生から霊肉を中心とした復帰基準の運勢を韓国の地で始めることができます。(六八―二九五)
26 勝恨日
一九七四年五月一日
今はどういう時ですか? 今まではサタンが攻撃したけれど、今からは反対になるのです。今まではアベルがカインのゆえに犠牲になってきたけれど、今からはどういう時代かというと、国家基準を中心として勝利的基盤を築いたので、イエス様が国家基準で失敗したものを復帰できる、連結させることのできる時が来たので、アベルが犠牲になるのではなくて、アベルがみ旨を立てるためにカインを犠牲にさせる時だというのです。何のことか分かりますか? (はい)。
こういう時になったので、今から皆さんの苦労は、皆さんの財産になります。アメリカがこういうみ旨のために生きたなら、アメリカの財産になるのです。私たち統一教会が、私たちが苦労すれば、世界のすべての福を私たちが一人占めするのです。近年に時が変わるのです。
堕落がなかったなら、本来、上が神様になり、下が天使長、すなわちサタンになるのだけれど、逆さまになっているのです。それゆえに神様がアベルを通して復帰して、ここに上っていくのです。そうしようとするならばサタンを引きずり下ろさなければなりません。ここで交差するのです。(黒板に書きながら話される)交差される一時があってこそ交差されるのです。こういうふうに交差される時がなければならないのではないかというのです。カイン・アベルが入れ替わる時が来なければなりません。
蕩減復帰とは……。ここで、これが変わると蕩減を受けるのです。(黒板に書かれたものを示しながら)同じなのです。ここで、下で蕩減したとしてもこれが下がるようになれば、ここで蕩減するようになるのです。同じことです。ここはこうなって福を受けるのです。ですからここで蕩減を受ければこのように上っていくのです。ここは神側なので蕩減がないのです。ここは上っていきますから、サタンが下っていけばいくほど蕩減されるのです。ここから、個人から、家庭から大きくなれば大きくなるほど、ここは蕩減が多くなるのです。すなわち、ここは大きくなればなるほど蕩減がなく、この線を置いてみると、全部落ちるのです。見てみなさい。こう落ちるのです。ここはますます蕩減がなくなります。分かりましたか? ですから十二時を過ぎなければならないのです。夜の十二時、一日が変わる時間。(黒板に書きながら話される)
それがいつかというと一九七四年五月一日です。その日が「勝恨日」です。ですから先生がハワイ集会を終えて韓国に行く時、このような責任を果たしてから神様とサタン世界に対して宣布したのです。「今から歴史は交差するのだ」とサタンが公認し、神様が公認する中で宣布式をしたのです。その日がまさしく一九七四年五月一日です。私たち統一教会が始まった一九五四年から一九七四年まで、満二十年になる日です。
神様は実に科学的な神様です。私は五月一日が私たちの創立記念日だということを考えなかったのです。(笑い) 神様は科学的な方です。年数で二十一年になるこの日に合わせて、この日を宣布しなさいという特別な神様の命令が先生にあったのです。これでこそ原理にぴったりと合うのです。私たちの原理にぴったり合うのです。
ですから交差される日が来たということを皆さんは知らなければなりません。これから自信をもって個人で攻撃すれば後押しされるのです。家庭で攻撃すれば後押しされるのです。昔は皆さんが恐怖感を受けましたが、今からは向こうのほうで恐怖を感じるのです。私たちはだんだん良くなるのです。人がどんどん増えていくのです。行けば行くほどそうならなければならないのです。
結局はアダムが失った霊肉を探し、アダムの本来の姿を探して、サタン世界に命令できる時に入ったというのです。ですから皆さんはもう、堕落していない天使世界を動員して、サタン世界を攻撃できるのです。分かりましたか? (はい)。皆さんの先祖たちは天使世界に該当するので、皆さんの先祖を動員し、皆さんのすることを手伝うようにできます。そのような時が来たというのです。
これから統一教会に反対する人は罰を受けます。霊界から攻撃をしてくるのです。これからそのようなことが多く起きます。今に分かります。国家的時代へと越えていくようになったなら、共産世界の指導者たちを霊界へ連れていくのです。(七二―九二)
最近になって先祖たちを復帰解怨する業をしました。数多い道主をすべて霊界から統合できる基準を中心にして、この道主たちを一カ所に集める道を開いておいたのです。
今度の五月一日には何の式をしなければならないのかというと、今まではカインがアベルを犠牲にしてアベルが蕩減してきましたが、これを逆にしなければならないというのです。霊界でもそうです。論山ハルモニが皆さんの先祖を今解怨してやるというのですが、それをしてあげろというのです。八道江山をすべてやってあげなさいというのです。特に、祝福を受けた幹部たちを、みな先祖解怨してあげなさいというのです。
今まではこの蕩減復帰原則によって天の愛を受ける人を立て、彼を犠牲にして自分が恵沢を受けるのです。それが、カインがアベルを通して救われるということです。(はい)。統一教会の信徒たちもそれと同様に、アベルが犠牲になることでカインが福を受けてきたのと同じ立場にあるから、今日、統一教会の信徒たちにも霊界の霊人たちが恵沢を受けるためにくっついて苦痛を与え、よく信じる人を病気にかからせたりするのです。このようなことが起きるのです。これが、いつもそうであるから面倒くさいのです。「もうそうせずに、お前たちが恵沢を受けようとするならば、サタン世界に行ってサタン世界の基盤を滅ぼす功績を立てればいい」。こうして切り換え(転換)させておくのです。変えておかなければならないというのです。何のことか分かりますか? (はい)。
今までは統一教会に反対し、どのようなことをしたとしてもみな無事通過してきましたが、これからは反対したなら反対する者を霊界がやっつけてしまい、みな滅ぼすのです。これが公認されることで、そこから新しい恵沢を受けることができるのです。このように道を戻しておかなければならないのです。先生はこれを地上世界でしておかなければ、永遠にこれを背負って行き……。このようなことを知らないから、これは大変なことなのです。
ある霊人たちは、私たちの子供たちのところまで来てこう言うのだそうです。「神様が愛する息子、娘までも犠牲にして万民を救う蕩減復帰歴史の路程が残っているからそうなるのだ」と。しかし、それは面倒で、また、時代が変わる時になってきています。世界的時代を中心として越えなければならない時で、世界的時代は完成時代であり、その完成時代圏内は霊的であるけれど、長成級の霊人たちは思いのままにできないのです。それゆえに、長成級は従っていかなければならないし、完成級は指導しなければならないと、このようになるのです。そうしようとするならば、ここで命令をして長成級の霊人たちを犠牲にする恨みがあっても、完成級的な私たち統一教会の人々は苦労してはならないというのです。何のことか理解できますか? (はい)。(七二―四〇)
皆さんが探している神様は、公式的摂理としてプログラムをつくって、すべての歴史的設計をもって合わせるのです。カイン・アベル原則で環境的要件に従って一致するようになる時、大韓民国は滅びないのです。このことをすれば大韓民国は滅びないというのです。どんなに共産党が手ごわいといっても、神様のみ旨とともに一つになる道を行けば……。そうではありませんか? カイン・アベルが一つになるから、天側に戻っていくから打つ時が来るのです。そういう原則で大韓民国が滅びないという結論を下すことができるのです。漠然としたものではありません。分かりましたか? (はい)。
さあ、それで今回したことが何かというと、これを変えておいたのです。カイン・アベルの蕩減復帰歴史をすべて蕩減するため、私たちが役事をするのです。これからは先生自身も怨讐に対して、神様に「神様、今まで神様が悲しかったそのことをもって怨讐を除去してください」と祈る時が来たのです。分かりましたか?
今までは、私が祈れば引っかかるものでした。犠牲になるべき祭物が怨讐を讒訴できないというのです。分かりますね? ですから血を流してでも、足を切られながらでも、どうするのか? ただひたすら行くべき道を急いで行かなければならないのです。それを弁護し、それを防護してくださいと主張できる立場になれなかったのです。ですから……。私が新聞に一回でも出して反駁しましたか?
既成教会が今まで二十年の間反対したけれど、私はただ腰の折れた虎のようにして理解してあげてきました。これからは腰が治ったのです。これからはそういう時が来るのです。(はい)。ある時これがうまくいっていなかったので、これを変えておくことができる誰かが出現しなければなりません。これを変えておくのにいい加減に「変えておこう」と言って、「変えておいた」と言ってなるものではないのです。(七一―二五六)
ですから皆さんは今、こういう祈祷もしなければなりません。「お父様、きょう『勝恨式』を通してカイン・アベルの蕩減復帰歴史は逆さまになりました」と言うのです。今までは共産党が何でも先んじていたのです。悪が何でも先んじていたのです。これからは、善が先んじなければならないのです。悪が主導的な役割をしてきたのですが、今は善がしていかなければなりません。今まで統一教会が迫害を受けてきたのに、神様は死んだようにしておられました。しかし今は生きた神様として統一教会を守り、統一教会のために反対する人々を除去して、ここに何倍かの蕩減条件を提示して前進するのです。
ここで皆さんが知らなければならないのは、「今や、霊界にいる先祖たちが来て、私たちの前に蕩減を受けようとせず、私たちを助けて、私たちのみ旨に反対する人々をみな屈伏させれば三倍以上の恵沢を与える」、こういう条件で私が祈ったということです。ですからそういう方向に祈れというのです。
それゆえ今からは、統一教会に反対する人々がたくさん霊界に行くことがあるだろうし、少しだけ時がたてば共産党の巨頭たち、この国の巨頭たち、世界の巨頭たちをどんどん連れて行くということが起こるのです。天と反対になる人々はどんどん連れて行くのです。先生がそう見るので、皆さんもそういうことを信じ、そういう方向で皆さんが……。
原理で見れば、ある一時、そういうことが起きなければならないというのではありません。ある一時、そういう宣布式がなければならないというのです。「地で結ばれるならば天でも結ばれ、地で解かれるならば天でも解かれる」というみ言のとおり、地で先生が父母の特権をもって、こういう原理原則を中心にした復帰の行脚を決意する勝利の起点を中心にして、このように解いておくことによって、ここにおいてカイン・アベルの恨みが解ける「勝恨日」をもったという事実は、統一教会としては栄光に満ちたことです。
今、国も問題が複雑になり、キリスト教会も事件があったでしょう? それはみな必然です。偶然の一致ではありません。そうしてすべてのものが一つの点で、ぴたっと合うのです。
それで私が二十五日に来て、二十六、二十七、二十八……、七日目……。皆さん、こういうことを知り、この条件を中心にして祈ることを願います。そして私たちを通して恵沢を受けることを願っていた先祖たちも、私たちのみ旨に協助することにより、私たちを通して蕩減を受けるよりも三倍の恵沢を受けることができるのです。三倍の福を。なぜですか? それは蘇生時代、長成時代、完成時代を経てきたので、私たちのために三倍蕩減をさせて天が協助できる道が開かれるということを、皆さんは原理的に知らなければなりません。分かりましたか?
ですからそのように回ってきた歴史が天の側にひっくり返される日が、正にこの日です。その時間が、正にこの時間なのです。(七一―二三九)
27 総解怨式
一九七五年五月一日、清平修練所
『マルスム選集』七八―九~二九参考
今日、統一教会の先生がしなければならないのは何ですか? 個人的に完全に勝利しなければならないというのです。これを連結させなければならないのです。そうするには、この複雑多岐なものを収拾しなければなりません。すべてそうならなければならないのではありませんか? 個人からその複雑多岐なものをすべて収拾しなければならないのではないかというのです。それは一番難しいのです。出発が難しいというのです。
このように統一教会の家庭の出発は難しかったのです。その次には上っていくのです。これを見ると、上れば上るほど、これがだんだん小さくなります。そうではないですか? 上れば上るほど、だんだん小さくなるのです。ここまで! ここまで上れば上るほど……。それで先生の家庭を中心にして皆さんがこのような過程を経て上らなければならないのです。この国家を中心にして横的に四方に向かってどこでも行ける道を築いたという事実が重要です。今まではこの穴を、これを越えられなかったのです。ここですべて滅びたのです。分かりましたか? (はい)。(黒板に書いて話される)
ですからこれから私たちの家庭は、ここのこの線を越えれば蕩減路程はないというのです。皆さんが精誠を尽くせば、その精誠は皆さんの一族と後孫がすべて受け継ぐのです。すべて受け継ぐのです。昔は蕩減路程といってそれをちゃんとやらないと滅びて移動されていきましたが、今は皆さんの功労の実績が皆さんのものとして収拾され、固着される時が来たというのです。
今までは皆さんの実績が皆さんのものではありませんでした。中間です、中間。中間に積んでおいたのです。その主人に誰がなるのですか? 財産を、お金を集めておいたとして、それが自分のものではないというのです。誰が主人になるのかという戦いをする立場で今まで功労を立ててきたけれど、これからはそのような時代ではないのです。決定的に私たちのものだという、そういった時代圏内に入ってきたということです。
ですから、今からは国家基準を越えればそういう心配はないのです。それゆえに、これからは飛躍できる時代に入っていくというのが私たちの原理観です。分かりましたか? (はい)。正にそういう時が来ますが、この時を迎えて何をしなければならないのですか? この時を迎えたなら、ただ単に越えては行けないのです。それで、その基準を越えようとするからには、堕落しなかった本然の基準を中心として、すべて解放させてあげなければなりません。解放してあげなければなりません。
それで五月一日を中心にして、陽暦五月一日を中心にして清平で総解怨式をしたのです。ところで皆さん、その総解怨式をなぜ清平でしたのでしょうか? それは清平を国際的基盤の中心地と見るからです。韓国を中心として見れば、ここが本部ですが、清平はこれから国際的修練所を中心とした中央地にしようとして先生が買ったのであり、また天の前にそのように祈った所です。ですから時間さえあれば私は清平に行くのです。分かりましたか、なぜそこに行くのか。(はい)。
そこは霊的な面においてすべての運勢が集結し、そこから重要なすべての問題を解決していかねばならない所だと分かったので五・一六広場の大会とか、すべての重要なことはそこで考えました。そうしなければなりません。なぜですか? 世界的な所だから。そこは本部と離れていて川を渡る位置にあるから、全世界の大洋に対することができる相対的な立場であると同時に、先生自身がその相対を主体的な立場で連結させることができるそういうみ旨があるから、清平を重要視して時間さえあれば行っていたのです。分かりましたか? (はい)。全部、原理的な内容があるからそのようなことをしてきたのです。それで清平で五月一日を中心として「総解怨式」をしたのです。「総解怨式」、それについてみな聞いたでしょう? (はい)。
皆さん、人間が堕落することによって何がどうなりましたか? 神様が自由な神様になれませんでした。すなわち、拘束の神様になったということです。その次には人類始祖が拘束されてしまったのです。罪悪によって……。その次は天使世界まで拘束されてしまったというのです。それだけでなく歴史的な数多くの宗教人たちが拘束圏内であえぎ苦しんでいるのです。人類もやはり同じです。
その次にはサタンが生じました。悪なる霊界が生じました。悪なる霊的な対象の実体が地上に生じたのです。それらが全部一つの中心を中心として、一つの境界線を成しているのです。この境界線を越えようとするなら、蕩減という過程を経なければなりません。ですから、順理的な面からこれをかき分けて進んでいける立場をつくるためには、天と地が平面線上に置かれていなければなりません。その中で人間が正道に従って生涯路程を行くことができるためには、地から天まで行く道を準備しなければならないのです。
それが今まで私たち統一教会を中心として、個人的に国家圏まで入っていける基盤が築かれる時なのです。ですから霊界でも、個人的に国家圏を思いのままに往来できる道を開いておかなければならないのです。そういう式が「総解怨式」です。神様に恨みが満ち、真の父母様に恨みが満ち、天使世界に恨みが満ち、その次にはイエス様を中心とした数多くの宗教人たちに恨みが満ち、善君を中心とした忠臣たちに恨みが満ちたし、善男善女たちに、あるいは烈女たちに恨みが満ちているというのです。そういうことではありませんか? 自分たちがその国の忠臣になり、または聖君になったけれど、それが流れ流れて、到底天のみ旨と連結され得る民族になれないことによって、みな恨みを抱いているというのです。その次にはサタンの支配下にある悪霊たちも、結局は堕落でそういう結果が生じたゆえに……。自分たちもサタンになりたくはなかったのです。できるなら善なる天側に戻りたいという願いをもっているのです。
では、誰の失敗でそうなったのですか? それは神様が誤ったのでもなく、天使世界が誤ったのでもなく、アダムが誤ったのです。人類始祖の過ちでそのようになったのです。そうであれば、それを誰が解かなければならないのですか? 人類の祖先が解かなければならないのです。
そういう観点から今日の韓国自体を見れば、統一教会の文先生がそういう使命を代行するために来たというのです。ところで先生は今まで数十年の間、統一教会を中心として反対を受けてきました。それがまだ解けていないというのです。解けていないのです。ですから先生を知った神様も、先生によって心に悲しみをもっていらっしゃるというのです。
それでどうしなければならないのでしょうか? 統一教会の文先生の願いとは何でしょうか? 国家解怨成就です。国家的基準で勝利するその日が、解怨できる標準の日です。そうではありませんか? イエス様の恨みを解いてあげなければなりません。ですから国家を中心にして解怨することができる基盤を築かずには、統一教会の文先生の恨みを解けないというのです。統一教会の文先生が解かれないと、神様は解ける道理がないというのです。神様が解く道がなければ、天使世界はますます解く道理がないのです。天使世界が解けずには、再び地上の真の父母を中心として相対的な立場に立った人類は生きる道がないというのです。そうではありませんか?
ですから、霊的な世界での神様の解怨成就、真の父母の解怨成就、天使世界の解怨成就をすることによって、地上での宗教道主たちの解怨成就……。これをみなしてあげなければならないのです。その次には善君、忠臣、烈女たちの解怨成就、その次にはルーシェルとイスカリオテのユダとネロ皇帝まですべて……。
今までは悪なる世界のサタン圏内で生活してきたけれど、サタンの名ではない真の父母の名で……。解怨成就の原理原則を見たときに、神様の解怨成就とともに天使世界の解怨成就をしたという順理的な道が地上に連結されることによって、天のみ旨は本来、罰を与え審判するためのものではなくて、生かし、理想をもたらし、幸福をもたらしてあげるものであるから、皆さんは皆さんなりに活動する、そこに該当することのできる善なる世界へと発展できる道が開かれるようになったというのです。(七九―二四)
今、霊界はどのようになっているのでしょうか? 神様が思うままに降りて来ることができるので、全霊界が地上に直行することに反対するものはありません。今までは教派が違うので、行けないといって全部止めたのです。上部がすべて解決されて通牒が行ってこそ、すべて門を開いておいて横的にも行けるし、縦的にも行けるのですが、それができていなかったのです。
しかし今やこのような解怨式をすることで、神様がお出ましになるのと同時に真の父母が来て、その次には霊界にいる善なる善君たち、善なる道主たちが来るのです。その次には悪なるサタンまでも……。今まではサタンが悪い側だったけれども、これからは違うのです。反対するものは地獄に行くので、全部天国に行こうとするのです。みな、銃を逆さまに持ってサタンに対して、サタンまでも解放させようとしているのです。ですからこれから悪の主導権が自分も知らないうちに瓦解していく時代に移るというのです。この三年だけ過ぎた日には、それが完全に頭を上げて地上に現れるのです。何のことか分かりますか? (はい)。
それで先生は三次七年路程において全米を風靡して霊的世界的キリスト教の運勢を集めて韓国に入ってきたのです。霊的国家的基準を越えて世界的基準まで行って運勢を集めて入ってきたのです。肉的国家的基盤を連結させて、霊的な世界的勝利の土台の上で肉的世界的土台を結束することにより、霊肉を完全蕩減できる世界史的新しい起源を準備して、新しい次元でもって登場するというのです。(七八―二二四)
28 救国世界大会―南北統一と世界統一の宣布式
一九七五年六月七日、ヨイド広場
『マルスム選集』七八―二四〇~三〇三、一二二―一〇九参考
さあ、ヨイド五・一六広場という所は歴史的な広場ですから、今回の集会は神様のみ前にて歴史的公義の審判を受ける時です。分かりますか? (はい)。統一教会はそれこそ世界史的な神側に立った団体なのか、民族を救える団体なのか、そうでない団体ですか? 統一教会の家庭は民族的家庭を代表して導くことができる主体性をもっているのか、統一教会の人たちは四千万ならば四千万民族に対して主体性をもてるそういう個人になったのかということを、今回の大会で天から公義の判定を受けることのできる良いチャンスだというのです。それだけでなく、世界人類の前に公義の判定を受ける権威を立てることができる時であり、民族の前において今まで悲しく悔しかった歴史的なすべてのものをここで清算し、新しい受難の代価として善義の功績による恵沢を、恩徳をささげられる時だと見るのです。ですからこの瞬間こそ、深刻な瞬間であることを皆さんは知らなければなりません。
では、この瞬間は何ですか? 今までは摂理の中で負けてきたというのです。今まで民主世界である米国を中心として第二次大戦以来三十年の間いつも負けてきたのです。私たち統一教会でいえば、負けてはいなかったけど、いつも負ける形態を取りながら黙々と歩んできたというのです。
ですが、私たち統一教会は個人的に準備し、家庭的に準備し、氏族的に準備し、民族的に準備し、国家的に準備して、いくら個人が引っ張っていっても行かない! 氏族が引っ張っていっても行かない! 民族が引っ張っても世界が引っ張っても、共産党がいくら統一教会を 弄 んでなくそうとしても、なくせないのです。
こういう次元の高い主体的起源を整えたので、天意によって判定的勝利の権限を神様の名とともにもって行き、堂々と新しい出発を宣布する式にもなることを皆さんは知らなければなりません。分かりましたか?
ですから神様の恨みを解かなければならないし、その次に真の父母の恨みを解かなければならないし、その次には数多い宗教指導者たちの恨みを解かなければならないし、その次には、善君、善なる王たちの恨みを解かなければならないし、忠臣烈女たちの恨みを解かなければならないし、その次にはサタン世界の人々までもみな恨みを解いてやらなければならないのです。(七八―二二三)
キリスト教がサタン世界の一線ではありませんか? カインを屈伏させたその基盤があることによってヨイド大会、ヨイド大会が七月六日でしたか? 五月七日でしたか? (六月七日)。六月七日ですか? 六月七日、このヨイド大会が終わってその日から四十日目に、四十日たってからその次は朴正煕大統領へ私が手紙を書いたのです。「あなたはこうこうこのように進んでは駄目だ」と、ずっと書き並べて手紙を書きました。返事を待ちながら四十日もたったので、私はアメリカの戦いをもつようになったのです。(一九八八・一〇・三)
29 統一式
一九七六年陰暦一月一日(陽暦一月三十一日)、青坡洞一街、前本部教会
『マルスム選集』八二―二二〇~二二八参考
今回なぜ先生がここ韓国を訪ねたのですか? 今回訪ねてきたのは、すべての歴史を蕩減するために来たのです。それで「統一式」をしたのです。ここに来てから何をしたのかというと「統一式」をしたのです。正月一日「統一式」をしたのです。今まで霊界と肉界を中心として国家が勝利した基盤でこれが出発できる統一的起源をもてなかったのです。この式をするために来たのです。
その次は何かというと、今日、天の国の民だとか天の国の息子、娘だとかいうけれど、父母様の誕生日を迎えられなかったのです。父母を中心として誕生日を迎える資格がないのです。霊界へ行った霊人たちも今なお真の父母の誕生日を迎えずに行きました。それで天国の民としての行使をできないというのです。天国の天使世界が父母様の誕生日を迎えて祝ったならば、アダムが完成した圏内に同参できる権威があるけれど、そのようにできなかったのです。天使世界の数多い霊界が分かりましたか? もしも誕生日の祝いをしたならば完成されるでしょう?
ですから霊界と肉界の万民が真の父母を中心として誕生日を記念できる特権的きっかけをつくる式をしたのです。そのきっかけをつくったのが父母様の誕生日です。分かりましたか? (八四―一五二)
30 天勝日
一九七六年十月四日
「天勝日」という言葉が、天が勝つということが、どれほど難しい課題かということを皆さんは知らなければなりません。天が、霊界が勝利できる要素、その起源とは何でしょうか? 真の愛、神の愛でなくてはなりません。神様の愛が立っている所には、サタンの愛の世界が退けられなければならないのです。神様の愛を中心としてなっていないものはサタンが主管するようになっており、神様の愛が基盤となっている所は神様が主管するようになっています。サタンが愛するということは、サタンが既に主管しているというのです。これをどのようにして奪ってくるのか、復帰するのかという問題なのです。愛を中心として継ぐことのできるこの基準がすべて分かれているので、神様はこれをどのように教えてくれるのか、どのようにするのかという問題が宿題にならざるを得なかったという事実を知らなければなりません。分かりましたか? (一三五―一二三)
私たち統一教会では、世の中が知らないたくさんの記念日があります。その中の一日が「天勝日」という日です。「天が勝利した。天が勝利した日を記念する日だ」という言葉の起源はいったいどこから生まれたのでしょうか? 絶対的な神様によって始められたこの宇宙であるなら、そのすべてのことは勝利の土台の上で進行されなければなりません。また、成し遂げられたすべてのものは、すべての存在物が褒めたたえ、すべての存在物が和合できる一つの中心のものとして現れなければならないのです。これは常識的な結論です。
では、この「天勝日」という言葉が生まれた理由はどこにあるのでしょうか? これは堕落によって生まれました。堕落がもたらしたおみやげだと見るのです。
天が勝利したというその言葉の中には、個人的な勝利圏がなければならないし、家庭的な勝利圏がなければならないし、氏族、民族、国家、世界、もっと進んでは霊界、天宙的勝利圏まで形成されていなければなりません。個人がどれだけ勝利したとしても家庭的勝利圏ができていない時には、その個人的勝利圏は立つ場がないのです。
個人は必ず家庭の土台の上に立つのです。家庭の上に個人が立てるというのです。どんなに家庭が勝利圏をもったとしても、その勝利圏は必ず氏族の土台の上に、これが中心として登場するようになるのです。氏族は民族の上に、民族は国家の上に、天地の上には神様が君臨すると見るのです。(一四八―九)
「天勝日」とは何の日ですか? 歴史始まって以来やっと、本然のプラスと本然のマイナスが完全に神様の愛圏の内に参与できる一日を地の上に立てたので、「天勝日」という日が成立したということを知らなければならないのです。分かりますか、何のことか。(はい)。先生が一生を戦い勝ったのと同じように、皆さんにもその場に同参するための特赦の期間が三年路程だということを知らなければなりません。全世界にわたって戦ってきたものを一つの所に集中させて戦って、皆さんの基盤を築きなさいというのです。(一二九―三六)
「天勝日」がもたらしてくれたものは、今まで神様と天使世界が霊的仕事を主にして地上のことを間接的にしていたのを、霊界が地上のことを直接的にして、霊的仕事を間接的にするようになったというのです。これが「天勝日」がもたらしてくれた結果だということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。
「天勝日」がもたらしてくれた贈物が何であるといいましたか? (ホーム・チャーチ)。ホーム・チャーチ。そのホーム・チャーチ活動が何の背景をもつようになったのですか? 今まで働いてこられた神様の方向が霊界から肉界へと移されたというのです。ですから新しい時代が来たのです。新時代になったのです。分かりましたか? 確実に知らなければなりません。(一〇五―一四三)
今日、この「天勝日」を中心として天が喜ばれたその日を思いながら、これからこの日を標榜し世界を天側に分立させて、一つの天国に向かって前進していく勝利の版図が拡大されることを感謝します。日々の栄光と日々の喜びが父の愛と一緒に歌い踊ることのできる生活を連続させ、万民に至るまで兄弟の圏を形成され、民族を治めることができる父母の席に君臨されて栄光をお受けになるようお願い申し上げます。(一四八―六〇)
今や、私たちは新しくみ旨を中心として行きましょう。(はい)。「天勝日」に汚点を残さない私にならなければならないという人にならなければなりません。さあ、そのようにするという人は手を挙げてください。下ろしてください。その次には神様が働く方向が霊界から肉界へと移されるにあたって、その霊人よりもっと、神様よりもっと熱心に働かなければならないのです。このように働くのに恥ずかしくないように、天地の責任者にならなければならないと思いなさい。(一〇五―一四五)
31 地勝日(天地勝利の日)――天紀元年宣布
一九七七年二月二十三日(陰暦一月六日)、サンフランシスコ
一九七六年十月四日を中心として天が勝ったという宣布をすることができたのです。その日が四年前のきょうであったということを皆さんは知らなければなりません。この日があったから、私たちは一九七七年二月二十三日を中心として新しい時代に入ったのです。これからはどのように迫害をするとしても……。迫害を通して迫害をする者たちが罰を受けるのです。何百倍蕩減をしなければなりません。(一〇九―七七)
私たちは一九七七年から新しい時代を宣布しました。新しい時へと歴史が転換するということを宣布しました。その時からホーム・チャーチを始めて、三年間ずっとしてきました。そこに合わせて復帰摂理の一段階、神様が今まで摂理された摂理的な一段階の終止符を打たなければならないという世界的宣布がなくては新しい時代へ越えられないというのが、いつも神様の摂理の中にあるのです。(一一四―一一一)
一九七七年二月二十三日を中心にして新しい時代を発表したのです。三年ぶりに全世界に、神様の愛の伝統を中心として長子を愛したという条件を立てた基準から越えていくのです。全世界的にです。それは正しいですか? 間違っていますか? (正しいです)。そのように歴史は発展してくるのです。原理を越えて克服していくのです。それで統一教会は、怨讐の国に天国の伝統を植えてあげようというのです。そうしようとすれば、それがどんなに難しいかという事実を知らなければなりません。その伝統も、真の愛の伝統であるというのです。(一二四―一四三)
一九七七年二月二十三日を中心として、統一教会では初めて公式的に、天がサタン世界に攻勢をとることができる歴史的転換期をこの地上に打ち立てたのです。それがレバレンド・ムーンが成した路程です。私には世界のキリスト教文化圏に代わることができる基盤がすべて公式的に取りそろえられたのです。ですから歴史時代に宗教という仮面をつけて裁判することができる法廷闘争が、その時からようやく始まったのです。その前にはできなかったというのです。(一二九―二二一)
人々がなぜニュー・イヤー(New Year : 新年)というのかというのです。ニュー・イヤーというのは霊界、神様の働く方向が変わったということです。今は直接主管します。直接主管するというのです。ですからサタン世界の最高の位置を遮るのです。最高の位置を。(一〇五―一四五)
32 文氏氏族解放と世界氏族解放宣布
一九七八年十一月二日、清平
先生は今まで、自分の父母を一度も伝道することができませんでした。私はお母さんにも原理のみ言を一度も話すことができませんでした。私の親戚にも原理のみ言を一度も語ることができなかったのです。皆さんをより愛したという条件を立ててこそ帰っていくのです。訪ねてきてこそ帰っていくというのです。ですから一九七八年十一月二日になってようやく父母と祖先を中心として式を挙げたのです。天地全部を一つにする式を挙げたのです。
先立って何をしましたか? 霊界というものは地上でのすべての関係がそのままになっているので、霊界は数多くのクラブになっているのです。すべてに壁があるのと同じように、そこも同じです。知っていますか? 霊界はすべてこのようになっています、地上と同じに。
このようにしながら宗教圏はその系統に従って集まるのです。それでは、先生が何をしなければならないのかというと、主流宗教と傍系宗教を中心としてこれを一つにする、主体と対象の関係を中心として一つにする、これを連結させるということをしなければなりません。地上でそれらを一つにする条件をすべて立ててやらなければならないのです。そうすることによって霊界がすべて連結されるのです。これが最初です。次に何をするのかというと、氏族です。主流氏族と傍系氏族、これさえ一つになれば霊界が一つになるというのです。さあ、これをしようとするならば主流宗教と傍系宗教を一つにつくらなければなりません。そうしてこそこれが始まるのです。分かりますか?
それで今回行って何をしたのかというと、先生の氏族を中心として全世界の傍系的氏族と一つにつくる業をし、統一教会を中心として傍系的宗教と一つとなり統一されるこのような式をしたのです。それは何日ですか? (一九七八年十一月二日です)。そうです。清平でそのような式をしたのです。それでその式を挙げて、私たちの教会で間違いがあれば蕩減条件があるだろうといいましたが、案の定三週間以内に大きな事故があったというのです。食口四人がそこで溺れ死んだのです。そしてあのニュージーランドで人が死に、そのような蕩減が起こったのです。何のことか分かりますか? そうすることによってすべての霊界、この二つの世界の霊界がすべて連結されて一つとなったのです。塀がすべて崩れ落ちたのです。
ですから、霊界では皆さんの祖先はどこであろうと思いのまま塀もなく降りて来ることができるのです。昔は霊界から降りて来ようとするならばどんなに難しかったことか、降りて来ることができなかったのです。しかし今は霊界と地上が一つとなった統一圏になっているので、今後統一教会に反対すると滅びていくのです。だんだん、今だんだんと……。第三次七年路程が過ぎると反対するものは怖くないのです。何のことか分かりますか?
それではなぜそのようになるのでしょうか? 地上はアダムで、霊界は天使長なのです。(黒板に書かれる)ですから地球全体に代わるアダムの位置と、霊界全体を身代わりしたアダムの位置と、霊界を身代わりした天使長の位置、この位置をつくっておかなければなりません。堕落する前には全霊界がアダムに協助したのです。ですから今は全霊界が皆さんに協助します。全霊界が。(一〇二―九五)
今日、真の父母は三段階圏世界復帰のための使命を中心としてどうするのですか? すべて復帰歴史を蕩減していくのです。蕩減していってから次に入ってくるのです。ですから韓国を中心としてすべてこのような役事をするのです。もって来て合わせておくのです。それで今回韓国に行って何をしたのですか? 一九七八年十一月二日にしたことは何かというと、これをすべて連結させるのです。そうすることによって、この壁がすべてなくなるのです。どこであろうと行くことができるようになるのです。境界線がなく、どこにでも思いどおりに通じることができるのです。それですべて相対的関係が結ばれるというのです。
ですからこの霊界を動員することは誰にかかっているかというと、皆さんにかかっているのです。地上で動員するのは誰にかかっていますか? 皆さんにかかっているのです。ですから地の人々はアダムと同じく、霊界の霊たちは天使長と同じです。今や、皆さんの祖先の中の善なる霊たちは天使たちの責任をもっているということが分かったので、命令をしなければなりません。その祖先たちの祖先が誰であるかというと、皆さんであるというのです。これはすべて祖先復帰です。皆さんから始まるのです。祖先ですから、これらに責任をもたなければなりません。未来の責任者です。過去に責任をもち、現在に責任をもち、未来にも責任をもつのです。三時代の責任者だというのです。何のことか分かりますか? (はい)。
ですから今後この主流、すべての摂理の流れはどこへ行くのですか? 氏族的メシヤ過程を経て民族的であり、国家的であり、世界的な過程を経て霊界に行き、神に帰るのです。何のことか分かりますか? (はい)。皆さんの行く道はそうであるというのです。皆さんの主流がどうなるのかといえば、すべてこのように行くというのです。摂理の水の流れはそのように行くのです。
そうしようとすると、私にとって心と体が一つにならなければならないのです。その次にはここで相対をもって出会い、一つとなって、次には氏族と一つとなり、だんだん拡大されていくのです。そのような中心存在としての皆さんになるのです。その中心存在は愛を中心としてなさなければなりません。すべてが愛を中心としなければなりません。これはすべて愛を中心として共鳴するのであって、他のものを中心としては共鳴されないのです。(一〇二―三一)
今まで私が何をしてきたのか? 霊界に数多くの壁があり、ふさがっていたのを崩したというのです。地上の数多くの民族の中で、人種の中でふさがれていた壁を神の愛を中心として崩したのです。この業をしてきたというのです。
それで昨年になって、十一月二日に何をしたかというと、霊界にあるすべての教派、宗教の門を全部開け放ったのです。国家間のすべての門を開け放つ時となり、入ってくるのです。それで宗教の門を開け放ちましたが、一つ残ったのは何かといえば氏族の門です。氏族の門を開け放たなかったのです。分かりますか? ですから仕方なく文氏氏族解放と合わせて世界氏族の解放を宣布しました。清平で十一月二日先生が宣布しました。それがどういうことか分かりますか? (はい)。これによって数多くの道(注:宗教の道)の世界の門を開け、この地の数多くの氏族圏を……。氏族の門を開けておくならば国家的な門は自動的に開くのです。分かりますか? (はい)。そのような時が来るというのです。
門を開けておいたので昔の道人たち、宗教を信じて行った霊たちが、地上の復帰摂理に天使長のような立場で地上のアベル圏を協助することができるのです。そのようなことは特定な宗教だけにありましたが、今日地上で壁を崩しその範囲を広げることにより、宗教を信じていた人であれ信じなかった人であれ、すべてが祖先のために孝子となり、忠臣となり、烈女となったそのようなすべての霊が地上人に来て、自分の後孫たちを善なる道に導くことのできる道が開かれたのです。何のことか分かりますか? (はい)。それが新時代へと越えていく道だというのです。
霊界全体の壁を崩すための役事を地においてしましたが、今は地上においてすべて成し遂げられたので、霊界で働いていたものが今はどうなったかというと、地に移ったというのです。分かりますか? 霊界のすべての道主、道人、霊人たちが霊界拡大のための基盤を築いた使命が、地上の使命へと方向を変えたというのです。それが新時代宣布の起源になるのです。何のことか分かりますか? (はい)。
ですから統一教会には国境がないのです。国境がないというのです。この世の国境をしだいに狭めていくのです。(一〇五―二六四)
33 私の日――転換期(一九七八年十二月三十一日)
一九七九年一月一日
きょう一九七八年十二月三十一日この時間はターニング・ポイント(turnning point : 転換期)です。さて皆さんはこのターニング・ポイントがいつなのか知らなかったでしょう? 知りませんでしたが、今知ったので、あすからは根本的に変わらなければならないというのです。あすからは私の時代に入っていくのです。あすからは、私の時代なのです。私の時代。あすが何の日ですか? (私の日)。私の時代、私の日、私の誕生日、全部いいですね。(笑い)
私たち全体は今から新しい姿をしなければなりません。起きるのも遅く起きてはいけないし、行動が変わらなければならないのです。(一〇二―二二一)
34 霊界統合宣布式
一九八二年六月二十一日
皆さんは氏族的なメシヤです。皆さんの先祖たちを救うことができ、今生きているスミスならばスミス自体を救うことができ、後孫も自動的に救われるというのです。そのようなメシヤです。イスラエル民族は今まで二千年、二千年、二千年、このようにして六千年を下ってきましたが、今日私たち統一教会は六年間にこのような六千年の価値を引き継ぐというのです。ここを見るとこれは三段階ですが、これがこの二千年に該当し、これがこの二千年に該当し、これがこの二千年に該当する内容になっているのです。ですからこれをすることによって皆さんの祖先がどうなるのかというと、このようにこれも連結され、これも連結されて、今後のことも無限に連結されるというのです。(黒板に書きながら話される)
すなわち、宗教を知らない人が宗教の恵沢圏内に入るというのです。選民思想を立てられない人が選民思想にどっと越えて来るというのです。何のことか分かりますか? それで氏族的メシヤには縦的・横的な内容が全部含まれています。この事実を知らなければなりません。
ですから一九八二年六月二十一日、先生が霊界統合宣布式をしたのです。この日は昔先生が監獄に入った日なのです。一九四八年ですから、これが三十四年目になるのです。三十四年目になる日なのです。三十四年目になる日ですから、三十三年を終えて三十四年に入る日だというのです。それは何かというとイエス様の三十三年生涯の全体歴史を統一教会で蕩減復帰したというのです。この時が米国と闘った時です。米国で最先端に立ったのが統一教会です。ですから霊界に属するすべての先祖たちが、皆さんのホーム・チャーチ基盤を通して全体が再臨します、全体が。
さあ、それでは霊界に行っている皆さんの先祖は誰かといえば、天使世界の天使と同じです。皆さんの祖先たちは天使世界の天使に匹敵するというのです。そして皆さんの世界はアダム・エバ世界に匹敵するのです。また、今後の後孫は未来に匹敵するのです。それで、ここ霊界がアダムを助けなければならない立場であるように、皆さんがメシヤの立場、アダムの立場であるので、霊界の皆さんの先祖が来て天使世界の使命で協助するというのです。協助することによりこれが一つとなれば、結局はこれが解放が始まるというのです。これが原理です。(黒板に書きながら語られる)(一一九―四四)
35 世界平和教授協議会 議長団宣言決意文
一九八三年十二月十八日正午、リトルエンジェルス芸術会館本館
全世界から世界平和教授協議会の議長団が韓国のソウルに集まってきて、第一回世界大会をもつようになったことは歴史的なことです。全世界の人類と韓国民が注視する中で、世界各国からこれほど短い期間内にここに集まってこの行事を行うことは、実に驚異的な事件です。これは私たち全体が一心一体となっており、また世界平和を身にしみる思いで念願していることを証明するものです。
私たちは今日、人類が自由と生存までも脅かされている、大きな新たな危機に直面しているということを知っています。また、共産主義は過酷な暴君であるということが日増しにあらわになっていますし、民主主義も世界に希望と勇気を呼び起こし得る何らの代案も提示できないでいるのです。
私たちは、文鮮明先生が提示された神様主義の新しい価値観である統一思想こそ、より理想的な世界のための大胆で強力な新しいビジョンを提示していると思います。このビジョンは既に全世界すべての国の良心的な人々をして世界平和のために生涯をささげて献身させる力を発揮しており、私たちはこの事実の前に深く感謝を申し上げる次第です。
ここに、第一回世界大会に参席した世界各国の議長団は次のように決意します。
私たちは歴史と文化と国境と人種の壁を越えて神意に従った理想世界を建設するために、神様を中心にした
①一つの善主権を誇り
②一つの民を誇り
③一つの国土を誇り
④一つの言語と文化を誇り
⑤一つの神様を中心にした子女になることを誇り
⑥一つの伝統を受け継ぐことを誇り
⑦一つの心情世界を成すことを決意して
この目標に向かって総進軍することを、全世界と人類の前に厳粛に宣誓し決意します。
一九八三年十二月十八日
第一回世界平和教授協議会世界大会
36 宇宙的主権転換期
一九八三年十二月三十一日 聖フランシスコ病院二階
*各家庭代表および韓、米、日、独と第一、第二、第三イスラエル代表参席
み旨的に、歴史的に見れば、アベル的な存在が祭物として行く確率が高いのです。すなわち摂理史的にアダムを個人的な人類の先祖と見るとき、イエス様はアベル的存在でした。それでイエス様は十字架の祭物として亡くなられるようになったのです。同じく父母様の家庭でも聖進をカインとした喜進(アベル)が亡くなり、また譽進をカインとした惠進(アベル)が亡くなり、また今回は結局このように孝進をカインとした興進(アベル)が亡くなるようになったのです。
新年になる前にこの式を挙行するのです。今や宇宙的転換期が来るようになります。すなわち、主権転換になるのです。先般、韓国で代表的に宣言した七十二カ国は、世界の代表国家の数です。そして韓国、日本、米国、ドイツ、この四カ国は横的な代表国家です。すなわち、歴史的なアダムの家庭を復帰するのです。
今や興進が亡くなることにより共産侵略を阻止するようになるのです。七十二カ国を代表として立てることによって、東洋文化と西洋文化が融合されるのです。国民はアベルであり、主権者はカインです。今回、この病院が積極的に協助して医者たちがすべて涙を流して感動を受けたことは、カトリック側で大きく手助けした条件になります。そして七十二カ国の代表の中には特にユダヤ教の信徒が多かったのです。これから東・西洋の宗教、政治、芸術が一つになる契機が今回準備されたのです。
興進が亡くなることによって、これから霊界と自由に往来するようになるのです。これによって全世界が統一教会の祝福を受ける時が来るようになります。今回、興進が亡くなることで霊肉一緒に世界が戻ってくるようになります。政府が反対したことが、支持に変わるのです。摂理的に見るとき、一九八四年ならば三十年の私生涯が終わり、一九八五年からは公生涯に差しかかるようになるのです。
興進が生きていくようにしてくださいませ。二十四長老を中心にして天国を建設するようにしてくださいますように。
真の父母と真の子女が一つになって、勝利の印を押して興進の霊肉を受けてくださいますように。
ユダヤ教、キリスト教、統一教会が一つになることを受けてくださいますように。
神様の世界になるようにしてくださいますように。
今から一九九〇年まで七年間、攻勢をかけて統一世界になるように神様と真の父母様が祝福してくださいますように。
このようにアベルたちが亡くなるのは、各家庭が責任を果たせなかったからです。したがって今後、各家庭が一つになるようにしてくださいますように。
聖進と孝進の間を、興進が祭物になって亡くなることで、円満に解いて復帰されたエサウとヤコブになれるようにしなければなりません。興進が祭物になって亡くなることで、父母が完全に一つになれるようにしなければなりません。お母様はお父様に服従さえすればいいのです。(一三〇―九三)
37 愛勝日
一九八四年一月三日
『マルスム選集』一三七―二〇七~二三八、一六一―六七~九〇、一七一―二五一~二五六参考
今日、「愛勝日」というもの、愛を中心にして勝ったという言葉がサタンを抱えて出てきたのです。「愛勝日」ではなくて愛祝日です。愛祝日にならなければならないのです。このようなすべての妖邪な言葉、付帯的な副作用的記念信号を残したという事実が、今日堕落の贈り物だということを知らなければなりません。再臨という言葉自体もそうであり、祝福家庭というその言葉自体も堕落によって、蕩減法によって願わなかったその形態が生じたのです。
堕落した所から復帰された祝福家庭というこれ自体も、本来原理世界にはありません。本来の子供は完成級に到達して、直接主管圏と間接主管圏が一つになって愛と真に満ちた父母を中心にして、そこで愛してから何カ月、何年後に生まれるようになっています。それが子供なのです。愛するや否や、「ヨーイドン」をするなり子女が出てきますか? 逆さまになったというのです、皆さんの母、父も今まで。逆に歩いて上ってこのように引いて上らなければなりません。分かりますか? (一三七―二五四)
38 一つの世界創建宣布式
一九八四年陰暦三月一日(陽暦四月一日)
今日、祈祷の中で「神様の命令で天上統一、地上統一を中心にした統一教会の運勢圏を中心にして主流思想を立て、一つの世界創建に向かって前進するようにしてくださいますように」と言って宣布式をしたのです。分かりますか? 一つの国のために前進すべきです! アーメン!
さあ、そういう信念をもって、皆さんは今や皆さんの家庭基盤を中心にして国を探し求めなければならないし、世界を探し求めなければなりません。国の基盤を促進させて世界に出ていかなければなりません。それが遠くない将来に、目前に近づいてくると見るのです。(一三一―六一)
39 愛天日宣布――愛天燭伝授、一情祈祷会実施
一九八四年五月十六日零時四十五分、米国ベルベディア
父母様の愛を中心にして杭を打たなければなりません。杭を打たなければならないのです。その杭が打たれる日、サタンと神様の前に紛れもなく杭を打った日がどういう日なのですか? それが「愛天日」です。今や神様の愛を中心にして過ぎていける時代へと変わったというのです。なぜですか? 地上地獄を撤廃したからなのです。地獄、監獄まで撤廃してしまったのです。地獄、監獄までも天国圏へと追い込むのです。分かりましたか? (拍手)
それで、このような時代において皆さんが「一情会」、「一情祈祷会」をつくったのですが、「一情会」というものは何のことですか? 今まで話したこのような心情圏を連結させることのできる世界史的な意味があります。(黒板に書きながら話される)父母様を中心にして、何よりも愛する心情をもって一つになるための運動が「一情祈祷会」だというのです。宣誓です。宣誓するその時間が、祈祷する時間です。それが一情会運動の意味です。そういう内容が宿っていることを知らなければなりません。
そういうことを中心にして、私たちはすべて一つの精誠を尽くして、神様と父母様と一つになるための運動をするのです。それでこのような分野に合わせるのです。これは世界的です。天と地、このように世界的に展開するのです。ですから愛だけが可能です。愛のみが世界的にこのように越えていくのです。(一三二―一二五)
さあ、ではここにすべての各代表、世界代表、百二十カ国宣教国を代表して全体が集まったのですが、「先生のみ言を中心として完全に統一されて、愛の主管圏を乗り越えていきます」と誓いますか? (はい、お父様)。ありがとう。今からは解放です。先生がこれからは解放の位置に行くのです。今からは、新しい時代への転換時代が来るのです。(拍手)
それできょう、このような「愛天日」を通して死の恐怖もすべて愛で消化しなければならず、監獄の恐怖も愛で消化しなければならないという祈祷をしたという事実を知らなければなりません。統一教会を中心にして死を愛で消化して、きょう、法廷、地上地獄を愛で消化するという式を、先生が今挙げたという事実を皆さんが知らなければなりません。「愛勝日」と「愛天日」をつくることは真の父母がいなくては不可能なことなのですが、父母様が現れて歴史時代にこういうことをすべて成して、後代の人々が行く道を高速道路でつくってあげました。それで歴史を置いて末長く「愛天日」を愛して、「愛勝日」を賛美しながら記念しなければならない重要な日であることを知らなければならないので、この時間に宣布するのです。(一三二―一〇〇)
愛するお父様。きょうは一九八四年五月二十日でありますが、この時間は一九八四年五月十六日零時四十五分を中心にして「愛天日」を宣布したその日に代わって、イースト・ガーデンの家庭的基準で世界史的な宣布の日を連結させることができる日ですから、この場にお父様が座してくださいますように。
地上の真の父母が座していて天の父母がここに臨み、霊界の興進とイエス様を中心にした百二十国家の統合的な環境的霊的世界全体がここに臨み、地上の百二十国家全体の復活圏の中の象徴的な実体がここにお臨みになられたので、この時間を期して、悪い愛によって天の主管圏と所有圏を喪失したことを……。今やこの世界史的な蕩減の頂上において、真の父母の愛と神様の愛を中心にして失ってしまった歴史的な相続権を復帰することと同時に、愛の主管圏を立てることができる「愛天日」を宣布できる、このとてつもない歴史的な頂上に立っています。
天よ! 地よ! すべての宇宙はこれが望みの日であったので一つの心、一つのみ旨、一体の心情圏に立って、父母様が宣布することを大々的に歓迎しながら受けてくださることを願います。神様が共にあって、父母様が共にあって、父母様を中心とする真に満ちた家庭の息子、娘、祝福家庭の全体が一つになる天国の愛の圏の相続時代に向かって前進することを宣布しますから、すべての天宙はこの時間に厳粛に受けることを望みます!
神様の名と真の父母の名前で「愛天日」を宣布いたします。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。(万歳三唱。拍手)(一三二―一〇二)
40 開天門日(開天日)
一九八五年二月一日三時、ダンベリーにて
『マルスム選集』一三六―一八七~、一四〇―二四~五八、一六四―一八四~二七七参考
きょうは二月一日、「開天門日」を宣布した日です。開天門というのは何ですか? 文字どおり天の門を開いた日です。
昨年のこの日、先生はダンベリー、お母様はイースト・ガーデンを中心にして初めて天と地が通じる門を開きました。それで天上世界の善なる祖先たちは、地獄を経て地上の後孫たちに来るのです。地獄に勝った人だけ天国へ行くのです。(一九八六・二・一)
先生がダンベリーに入って何をしたかというと、一九八五年二月一日を中心として霊界と肉界がふさがれてしまったのを、門を開けておくということをしました。先生はダンベリーにいて、お母様はイースト・ガーデンで特別な祈祷をするのです。これで門を開くのです。誰がこの門を閉まるようにしたのかというと、堕落した父母がしたので、この門を開けるのもすべて復帰された父母様の使命です。開けなければならないのです。それで開けておいたのです。これを、この門を開けておいたので悪い祖先たちが地獄に行っていたとしても、今や善なる後孫たちが来て、自分の系列的な祖先を伝道できる道が生じたのです。何のことか分かりますか? (はい)。
昔は、アブラハムだとか宗教を中心にして復帰摂理をすることができる、父母様が生まれることができる、真の父母が来て復帰摂理をすることができる、氏族圏の継代を連結させて出てくるのです。それを見るようになるとアダムからアベル、ノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、イエス時代まで、この系統は天から地まで連結されることができる族譜です。この族譜に妥当であり得る系列は一つしかありません。それ以外はすべて関係ないのです。
これが完成されてこそ真の父母が出て、ふさがったものをすべて崩すことができるのです。真の父母が生まれなくては崩すことができないのです。(一四四―二六二)
二月一日午前三時にお母様と監獄で談判をして、地獄と天上に高速道路を築いておいたのです。高速道路は通されたけれど、準備をしなければなりません。車がなくてはなりませんし、運転を習わなければならないし、ガソリンがなくてはなりません。それは自分にはないものです。自分の祖先たちがもってくるのです。分かりますか? 自分の祖先たちが車をもってガソリンを入れ、教えてくれてすべて霊界に引っ張り上げる運動を始めたのです。こういう言葉を信じますか? 信じられないなら信じるなというのです。事実です、事実。行ってみなさいというのです。
近ごろ、霊通する人々が「あっ! 天国の旗が一カ所に集まって方向を決定して動く。今年二月からは地獄の門も開き、天国の門も開いた」と発表をするのだけれど、誰がそのように発表するようにしたのか、動機の起源者も知らないのです。きょう私がこのように「新時代復活、現時代は過ぎ去り新しい時代、統一教会の迫害時代は過ぎ去り、解放のラッパの音が鳴り響く時が来た」と宣布することによって、天下がそのようになったというのです。(一三七―一九〇)
41 一勝日宣布――聖水式挙行
一九八五年八月二十日早朝三時十五分、米国ベルベディア
ニューヨーク近郊にいる祝福家庭は、先生が出監なさった直後である八月二十日早朝三時十五分ベルベディアセンターに集まり、先生から懇切な意義説明を聞き、文孝進様が催した聖水式に参加しました。
これは八月十六日朝七時、イースト・ガーデンで行った「一勝日」に根拠を置き、その意義とその行事を引き継ぐものでした。
この「一勝日」は、韓国で祝福子女四十日修練会を無事に終えて帰ってきた(十五日晩)孝進様を歓迎する式典で宣布されました。
一九四五年八月十五日第二次大戦の終戦後、満四十年になる一九八五年八月十五日を送り、最初の日である十六日、新しい出発を記念する勝利の儀式でもありました。この日午後七時から始まった「一勝日」宣布式は十時三十分までみ言を語られ、また、祝祷され、この席で聖水式を挙行され、長子権の確立を宣布されました。
聖水式には父母様と子女様たちが全員参加なさり、食口たちを代表して十二名が十二支派を代表して参席、すべて新しく制定された聖水を飲みました。
一和生水四瓶を種水(原水)とされ、イースト・ガーデンの応接室の卓上に置いて祈祷されたのち、小さな杯にお注ぎになり、父母様、子女様たち、祝福家庭代表十二名の順に飲みました。(「史報」四六号六ページ)
42 統一教会が世の中に現れる時
一九八六年一月一日
今や一九八五年が過ぎ去り一九八六年が始まりましたが、さっき祈祷することでどういうことが起こるのかというと、世の中が逆さまに回るようになるのです。どこへ回るのでしょうか? 時計の針が回るように回ったというなら、一回り全部回って、今からは逆さまに回り始めたというのです。今までは統一教会が世の中に踏まれて生きたのですが、これからは統一教会が世の中に現れる時になったというのです。(一三七―三七)
きょう私がこの記念式の前から祈祷したことは何かというと、キリスト教と一つになり……。キリスト教文化圏にあった善君たちを中心にして、彼らがすべてローマ法王時代に忠誠を尽くしたのです。それを全部一つにくくるのです。そして霊界へ行っている善君の王権を中心として、忠臣、烈女たちを地上に連れてきて真の父母の王権を中心とした理想圏へ、大統領であっても王であってもみな「レバレンド・ムーンについて行きなさい」と言うのです。レバレンド・ムーンの知らせをみな聞くのです。これからは良い知らせが聞こえ、すべて「有名である」と言うようになっているのです。悪いという言葉は入っていき、「良い、良い」という風が吹いて、しきりに霊界の自分の祖先たちが来て教えてくれるのです。霊界にいる善なる祖先たちが地獄まで入っていって教育するのです。その門を私がダンベリーで開けておいたのです。(一三七―一九〇)
43 南北統一運動国民連合創設
一九八七年五月十五日、リトルエンジェルス芸術会館本館
先生がなぜこの創設大会を必ず五月十五日までにしようとするのか? 今のこの時が、季節でいえば、夏の時節に入る前の時だからです。今はすべての万物が蘇生する時だというのです。また、全体の運勢で見る時……。五・一六革命が何年に起きましたか? (一九六一年です)。そうです。そういう五・一六革命の運勢を中心にして新しい主権ができたのです。ですから、その前にしなければならないのです。それを越しては駄目だというのです。ですから、近ごろの韓国の情勢も全部がそうなるのです。これは変に合わせたのではありません。神様の摂理のプログラムがこうだから、全部が混乱に陥っているのです。野党も混乱し、与党も混乱し、国民自体も行くことができる方向がなく、宗教も手をつけられず、誰も手をつけられないのです。ここに私たちがぴったり合わせたのです。ぴたっと身につけて越えていくのです。こうすることにより、霊界と肉界が分かれて、東西が分かれて、南北が分かれたすべての運勢を集約させて、このように集めるのです。
ここに、私たち祝福家庭を中心にした全世界の運勢が連結されていて、韓国の運勢がすべて連結されているのです。この運勢を、何と言おうか? 鉾の先のようなその先端を中心にして刺す業をするのです。
そうすることによって、これからは霊界に私たちが宣布するのです。もうこの大会が終われば、すべてのものが世界的です。これがみな万民を代表する運勢です。これによって大海に一つの渦巻き圏をつくるようになるのです。渦巻き圏が回り始めたなら大海が全部巻き込まれるのと同様に、たとえ韓国でしても、それは韓国だけでなく世界が動いて回っていくのです。
ですから、責任をもつ人がどのように信念をもって動くかということが問題だというのです。(一六四―一六九)
44 摂理的統一転換式
一九八八年九月二十七日、漢南洞公館
大変な新しい時代が開門して入ってきているこの時点にあたり、オリンピック大会の大勝利と合わせて世界文化大祝典を宣布したでしょう? (はい)。それによって先生がいろいろと問題に手を着けたのです。そういうことなどをはじめとして一まとめに束ねて、世界が新しく回ることができる一つの中心軸が構成されるのです。ここにすべてのものが巻かれて回れば、すべての世界がサタン世界に落ちないで天の世界で倒れるのです。ですから、一つの世界に行く促進剤として活用するのが文化大祝典です。そういうものであることを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。(一九八八・一〇・三)
①個人的、②家庭的、③氏族的、④国家的、⑤世界的、統一転換式――考えれば、私が近ごろ二十七日に(世界文化大祝典の宣布日)転換式をうまくやりましたね。その転換式をした時から回り始めたのです。じっと見てみなさい。分立されたこのすべてのものが、カイン・アベルの両体制圏内に統一圏を中心にして合わせたので、カイン・アベルを中心にして二つの世界、共産世界と民主世界が統一される運勢が額を突き合わせてくっついたというのです。分かりますか?
どこで? (ソウル)。ソウルで、では、金日成はどうなりましたか? 金日成はあの鳥のしっぽにくっついています。一番哀れなのが金日成です。(一九八八・一〇・三)
摂理史的にすべての転換式はあくまでもカイン・アベルを中心にした転換式です。父母の位置にも出ていけないのでこれは縦横の蕩減条件をいい、愛の中心をいうのです。父母まで中心にして一つになっているので、初めて新しい統一国開天節を発表できるのです。(一九八八・一〇・三)
一番目:南北分断と連合
二番目:ソウル・オリンピック大会と摂理史的一致点
三番目:連合統一戦線主導
四番目:統一的一体理想具現
その次五番目は何ですか? ソウル・オリンピック大会を中心にして見るとき、ソ連と東ドイツはカイン側で、アメリカと韓国は何です? アベル側です。ですからカイン・アベルの世界観において別途にソ連でカイン・アベルが連合されることをいい、また民主世界が連合されることをいいます。これがオリンピックの時に初めてカイン・アベルが手を出したので、果たしてこの二つの世界を誰が連結させるのか? 私たちが連結させるのです。ここで真の父母の権限が生じるというのです。これをしっかりつかんで今や杭を打っておかなければなりません。新しい世界へ戻るというのです。
その次には何ですか? 統一転換式をしたので、その次の六番目は何ですか? 縦的な心情圏と横的な心情圏を家庭から世界的基準へ連結させることのできる時になったので郷土に戻るのです。その次には神様を中心にした先祖が出現するのです。何のことか分かりますか? 郷土に戻って神を中心として新しい祖先として出現して、国家基準と連結しなければならないというのです。分かりましたか? そうして摂理歴史の転換点が形成されなければなりません。自分を中心にして国家まで形成しておいてこそ、その道がサタンの讒訴を受けないのです。(一九八八・一〇・三)
45 世界統一国開天日宣布
一九八八年十月三日、京畿道、龍仁
天が開く時節であるこの時節に乗って、個人的な門が国家的に開いたのを世界的門まで開いてこそ、韓国の運勢は世界の内外へ届くことでしょう。アーメンですか? (アーメン)。ぴったり合うのです。
それできょうは何なのですか? 世界の何ですか? (「世界統一国開天日」です)。そうなのですね。世界統一国、統一世界、世界統一国開天節の日を宣布することができる、そういうすべての摂理観的な内縁を通した理論において一致点が内外に、前後左右にぴったり合うので、この日は理論的にも、体恤的にも私たち統一教会の歴史の観点にあって一致されるので、この日をもって私たちの希望の日が開門されるという言葉で代置しても異議がないのです。(一九八八・一〇・三)
一番目は韓国と日本の統一の開始であり、
二番目は米国と韓国とドイツとソ連の統一の開始です。
その次には米国のキリスト教と韓国の統一教会による統一世界が起こるというのです。これが三番目です。
四番目はキリスト教文化圏がアベルになって、唯物世界と共産世界の唯物史観と唯心世界の統一が起こるというのです。
五番目は何ですか? 地上世界と天上世界の統一です。それが連結されることによって天上世界と地上世界の統一が始まるのです。
六番目は摂理史的蕩減責任完遂です。摂理史的責任完遂が終わったというのです。責任が完遂されることにより、完成した家庭が出発するのです。
サタン世界の基盤の上で初めて完成された家庭体制、この体制は家庭のみではありません。氏族、民族、国家、世界にこの体制圏が生じることによってサタンの存在の価値がなくなるようになるのです。それは解放世界になるというのです。
それゆえに七番目は地上天国世界の出発であり、八番目は家庭、国家、世界、全地上の天国、天上天国の実現が約束されるのです。天地に初めて愛の一体の理想世界が展開されるというのです。
これが統一誓約を中心にして、このような統一国家が開天節を宣布できたという内容を説明したのです。分かりましたか? (はい)。
その次には何ですか? このようなことを私たちがしていくにあたって、これから二世たちをどのように教育するのかという問題です。だからオリンピック思想の伝統を受け継いで、外的に見れば健康でなければなりません。内的に見れば愛が充満しなければなりません。愛が充満するようになれば、父母の愛を身代わりすることができ、子女の愛を身代わりすることができるのです。愛国、愛世、愛天を身代わりすることができる愛が充満した人格者にならなければなりません。(一九八八・一〇・三)
46 一心式
一九八九年六月二十三日、リトルエンジェルス芸術会館本館
「韓国プリチャッキ連合会」の総裁推戴式に先立って午前十時三十分から午前十一時三十分までリトルエンジェルス芸術会館本館三階の迎賓館で、先生御夫妻に侍って私たち教会側の代表十二名と姓氏宗親代表十二名等、三十余名が参席した中にて歴史的な一心式が挙行されました。
カイン圏とアベル圏が神様と真の父母様を中心にして一つになるこの一心式は、郭錠煥牧師(世界日報社長)の司会で進行されましたが、まず真の父母様に、真の父母様の家庭を代表した孝進様と薫淑様の敬拝があり、続いてアベル三列、カイン三列に立って全体敬拝(一拝)、各代表者敬拝、先生御夫妻に冠(金冠)奉呈、韓国の全姓氏を代表して全体敬拝(一拝)、「私の誓い」五節の奉読、先生の祝祷(一心式奉献祈祷)、記念ケーキカット、金榮輝会長の先唱による万歳三唱等の順で進行されました。(「史報」九二号九二ページ)
47 愛援摂理時代宣布
一九八九年八月二十日、ベルベディア(米国)
救援摂理の目的は、男性と女性を救うことです。その次に愛援摂理だとか完成摂理というものも、この二人がどのように愛でもって一つになって結ばれるのかということで、みな終わるのです。
神様はアダムを再創造し、エバを再創造して、サタンがいなかった本然の愛の時代へ戻っていくのです。愛を失ってしまったので愛を中心として再創造しなければなりません。それで、アダム完成、エバ完成をさせるのです。
ですから、神様の救援摂理だとか、愛援摂理というものは、男性、女性なくしてはできないし、また愛なくしてはできません。(一九三―五二)
愛援摂理時代は、神様が直接主管する時代です。(一九三―五五)
今からは、摂理的な観点から見るとき、愛の摂理時代です。分かりますか? メシヤがこの地に四隅を占領する摂理時代が来ます。それがすべての結論です。そこですべて終わるのです。それで救援摂理時代が完全に終わり、愛の摂理時代が始まります。
原理に立脚していうならば、結果主管圏は、長子権復帰によって責任分担を完成するのです。長子権復帰によって一番初めに生まれた子供であれ、次に生まれた子供であれ、エバとアダムの子女なのです。神様の子女なのです。それで、父母を中心とした子女が神様を中心として家族、血族を連結する摂理時代へ戻ってきたので、愛援摂理時代だというのです。
天の摂理時代は、父母の時代、愛の時代に入ってきました。原理の道をただ踏み締めて熱心に行くならば天上人格完成、地上人格完成になり、国を通ずる時代になります。それで、愛援摂理時代へ変わっていきます。(一九三―六九、八四、一〇〇)
48 八定式
一九八九年八月三十一日、アラスカ、コディアック(米国)
縦的に僕の僕、僕、養子、庶子、嫡子、エバからこのように復帰していくのです。嫡子を通じなければ母を復帰することができないのです。それで、本然のアベルが勝利した基盤をもち、長子権を完全に復帰しなければ父と母の立つ場がないのです。
エバは、二人の息子を生んだのですが、最初の息子、すなわち、サタンの息子を生んで長子としました。神様は仕方なく、次男を中心として蕩減復帰の道を今まで歩んでこられたのです。誰がその責任を負うのですか? エバです。したがって嫡子が勝利した基盤を世界的基盤として、母と息子が一つになった上にアダムが立つことができるのです。また、アダムが一つになったその上に神様が立たれるようになります。縦的蕩減の道なのです。何のことか分かりますか?
皆さん、原理で習ったでしょう? 僕の僕、僕、養子、庶子、嫡子、エバ、アダム、神様から愛の世界へ戻っていきます。上っていくのです。上っていくその基盤を連結するのです。連結してピラミッドのようにつくります。(一九三―九二)
49 天父主義宣布
一九八九年九月一日、アラスカ、コディアック(米国)
御父母様は、九月一日、アラスカのコディアックで「天父主義」を宣布なさいました。
神様は、人間の堕落以後、今まで長子権を復帰するための摂理をしてこられたのですが、今やアベルがカインを完全に屈伏させることによって堕落人間が父母を迎えることができるようになりました。したがって父母がカインもアベルもみな愛することのできる、父母主義、天父主義時代が到来したというのです。(今までは、神様がアベルを、サタンがカインを愛してきました。カイン・アベル主義=共産主義と民主主義=兄弟主義)
また、神様の摂理は、蕩減の時代がみな終わり、神様が直接愛でもって摂理する、神様がすべての被造世界の父母になる天父主義(真の父母主義)、王権復帰を宣布するようになったというのです。(「史報」九六号三八ページ)
50 天地父母宣布
一九九〇年二月二十七日、漢南洞公館
愛するお父様。きょう一九九〇年二月二十七日、午後七時十分前を期しまして、この漢南洞邸宅に御父母様と共に全国に広がっております全国学舎教会教区長たちと全体教会の教区長たちがひと所に集まりました。
今回の機会に韓国で御父母様を歓迎することは、韓国だけの歓迎に終わるのではありません。今回の期間は、アメリカを越え、全世界を越える最頂上の位置に立ちまして父母の特権的権限をもち、天上世界の解放とともに地上世界の解放を予告する宣布の期間でありました。
その中で天と地を代表することのできる永遠な王権が、この地から天の国にまで直線でもって着陸することができるよう宣布なさり、サタン世界のすべての権限を踏み、御自身の創造理想を中心とした愛と平和のための統治権限が行使され得る時代へ前進することができますよう、お父様、宣布なさいますように。
神様の解放と真の御父母様の解放と万民の解放が神様の愛を中心として、また、神様の王権を中心として成されますようお許しくださいますように。
すべてのみ言をすべての天宙の前に、この内容を真の御父母様のみ名により宣布いたします。アーメン、アーメン、アーメン、アーメン。(「史報」一〇一号七ページ)
51 神様祝福永遠宣布式(七・一節)
一九九一年七月一日、漢南洞公館
〈祈祷〉
愛するお父様。きょうは、一九九一年七月一日。一九九一年は、摂理史的転換時期におきまして一番最後の峠の位置を占めた年であることを知っております。正月から六月まで複雑多難な環境を越えまして新しく七月を迎えるようになりました。
お父様。きょうを期しまして神様祝福永遠宣布式をすることによって摂理史を代表してきたすべてのこと、天が立ててきた条件を清算し、勝利と解放と栄光の日を自祝するようになることを感謝申し上げます。
このすべてのことを神様が注視し、すべての霊界の善なる霊たちと預言者、先烈と祖先たちも注視し、また、サタンが今まで天を裏切ってきた恥ずかしい自分を告白して、天のお父様の権限の前に自ら屈伏することのできます環境要件を提供することによりまして自由の解放圏に、人類の土壇場の位置に立つとしても従っていくことのできる恵みを中心として宣布するすべてのことを注視しまして、お父様のみ旨に侍り、真の御父母様に侍り、統一天国に向かって前進することのできます統一式を、解放式を、すべての勝利的宣布式を天の前に奉献することに賛同してくださいますよう願いながら、このすべてを真の御父母様のみ名によって天の前に宣布いたします。アーメン、アーメン、アーメン、(「統一世界」一九九一年七月号付録一ページ)
〈祝祷〉
今日まですべての路程を天が保護することによって、今や一九九一年七月一日を中心としまして恨みに満ちた歴史的な蕩減路程を取り片づけ、新しく創造主神様と本然の父母となり得る横的な真の父母に侍り、左右が一つになり、南北が一つになり、すべての宗教圏と政治圏とすべてが一つになって長子権を受け継ぎ、父母権を受け継ぎ、王権を受け継いで本性世界の解放圏を探し求めようとする、すべての宣言が必要であることを私たちは知っております。
すべての悪の役割を清算し、歴史とともにこれを埋葬してしまい、勝利と解放の天国が地上に到来することを真の父母のみ名によって地上世界と天上世界に宣布いたしますから、万世に末永く盾として定められ、主導してくださいますことを、きょう、七月一日、この時間に真の父母のみ名によって宣布いたします。(アーメン)。真の父母のみ名によって宣布いたします。(アーメン)。真の父母のみ名によって宣布いたします。(アーメン)。(「統一世界」一九九一年七月号付録五ページ)
きょう、七・一式を終えることによって、御父母様の思いどおりにすることのできる時が来たのです。今までは、私の思いどおりにできなかったのです。思いどおりにすることができたならば、先生がなぜ苦労しますか? 世の中を相手に、なぜできの悪い業をしますか? すべてのことに時があるのです。時に対する責任を果たせずしては、顔を上げて思うままにすることはできません。(「統一世界」一九九一年七月号付録一三ページ)
牧会者の道
牧会者の道
第一章 牧会者論 … 39
第一節 召命を受けた者たちの生き方 … 41
1 ノア … 41
2 アブラハム … 45
3 ヤコブ … 48
4 モーセ … 52
5 ダビデ … 55
6 洗礼ヨハネ … 56
7 イエス様の三弟子 … 58
8 ペテロ … 59
9 ステパノ … 64
10 使徒パウロ … 65
11 それ以外の預言者たち … 65
第二節 現代の祭司長、責任者の行く道 … 69
1 牧会者の起源はレビ族の祭司長 … 69
2 レビ族の祭司長の行く道 … 71
3 祭司長の祭物精神 … 75
4 祭物の復帰過程 … 80
5 統一教会の牧会者の使命 … 85
第三節 牧会者の使命 … 95
1 「真の師」としての牧会者 … 95
2 医者としての牧会者 … 98
3 開拓者としての牧会者 … 104
4 天の密使としての牧会者 … 111
5 牧会者の使命 … 122
6 使命に対する自覚 … 128
第四節 牧会者の責任 … 130
1 牧会者とは選ばれた者 … 130
2 召命に対する姿勢 … 132
3 牧会者の資格 … 137
4 牧会者の責任 … 144
5 任命を受けた者の使命に対する姿勢 … 161
6 牧会者がもつべき内的姿勢 … 165
第二章 牧会者の役割 … 185
第一節 牧会者の祈祷 … 187
一 牧会者の祈祷 … 187
1 祈祷しなければならない理由 … 187
2 祈祷の内容と順序 … 190
3 祈祷に対する応答 … 192
4 お父様の祈祷の境地 … 194
5 食口のための牧会者の祈祷 … 197
6 中心に向かう祈祷 … 201
二 統一教会の祈祷 … 201
1 真の御父母様の名前で祈祷 … 201
2 一段階先を行く祈祷 … 204
3 神様を主とした祈祷 … 206
三 早朝の祈祷 … 207
四 徹夜祈祷 … 210
1 夜は神秘性が強い … 210
2 徹夜祈祷の意義 … 211
3 教会ごと徹夜祈祷をしなければならない … 213
4 お父様の徹夜生活 … 216
5 イエス様と徹夜祈祷 … 219
第二節 聖地聖別と聖地祈祷 … 221
一 聖地聖別の理由 … 221
1 聖地聖別の理由 … 221
2 聖地聖別の経由 … 222
二 聖地聖別 … 222
1 聖地聖別
実例 1 1965年12月22日 劉孝元氏 筆記帳 … 222
2 聖地聖別
実例 2 1966年1月1.2日 劉孝元氏 筆記帳 … 224
三 聖地選定 … 226
1 聖地の格位 … 226
2 聖地選定の意義 … 227
3 霊界が動員される聖地 … 228
4 聖地選定の過程 … 229
5 聖地選定の結果 … 232
6 聖地選定時の余談 … 234
四 聖地祈祷 … 235
1 聖地祈祷をせよ … 235
2 聖地と私たち … 237
第三節 聖日礼拝 … 240
一 安息日を守る目的 … 240
二 聖日礼拝のための牧会者の準備 … 240
1 祭祀は祭司長が管理しなければならない … 240
2 三日前から礼拝準備をしてこそ … 241
3 赤ん坊を産む母の精誠よりもっと精誠をささげてこそ … 241
4 礼拝時間を厳守してこそ … 242
三 礼拝時間 … 243
1 礼拝時間は祭祀をささげる時間 … 243
2 礼拝時間は公的な時間とせよ … 244
3 礼拝時間に遅れるな … 246
4 すべての制度は責任が優先だ … 249
四 礼拝の時の心の姿勢 … 251
五 早朝礼拝と夜の礼拝 … 252
第四節 説教 … 254
一 お父様の説教 … 254
二 説教の準備と神霊 … 258
1 説教準備は本でできるものではない … 258
2 霊的な実力を具備しなければならない … 260
3 心霊的生活が必要 … 264
4 歴史的生きた材料を多くもたなければならない … 266
三 説教の実際 … 267
1 題目の選定 … 267
2 説教時にもつべき心の姿勢 … 269
3 説教時注意すべきこと … 271
4 説教はいつも新しい刺激を与えなければならない … 272
5 説教は恵みの感動がなければならない … 274
6 説教時間 … 278
7 説教の難しさ … 279
四 お父様のみ言を中心として説教せよ … 281
第五節 十一条生活 … 284
一 お父様の物質観 … 284
1 お父様の物質観 … 284
2 万物(お金)の願い … 286
3 所有の決定 … 288
二 祭物と聖物 … 293
1 祭物 … 293
2 祭物とは、所有を決定させる条件物 … 294
3 人類の復帰に至大な貢献をした万物 … 296
4 聖物の重要性 … 298
三 十一条 … 300
1 献金に対する本来の基準 … 300
2 十一条の意義 … 302
3 十一条は復帰のための蕩減条件 … 304
4 十一条をささげる姿勢 … 306
5 十一条は一番精誠を込めた、純なるものでなければならない … 307
6 十一条の生活 … 310
7 献金を受ける方法 … 312
四 聖塩と分別生活 … 312
五 牧会者の公的生活 … 317
1 牧会者の公的な生活 … 317
2 万物に対する公的な管理法 … 321
3 牧会者の公金管理 … 327
第六節 牧会者と教会生活 … 330
一 教会と教会生活 … 330
1 教会とは何をする所か … 330
2 教会のためにせよ、という理由 … 334
3 教会が存在する目的 … 334
4 社会生活より教会生活がもっと重要だ … 337
5 教会生活において留意する点 … 339
二 教会組織 … 340
1 組織の必要性 … 340
2 理想的な組織の形態 … 343
3 草創期の組織 … 347
4 三段階組織 … 348
5 三位基台組織編成を生命視せよ … 351
6 組織強化のための体系をつくらなければならない … 355
三 私たちの体制と系統 … 356
1 教会本部と私たち … 356
2 教区長(地区長)の道 … 359
3 教域長(地域長)の道 … 363
4 教会長(区域長)の道 … 371
5 食口の道 … 374
6 お父様が指示したとおりにせよ … 380
7 同役者間の関係 … 387
8 行政体制 … 392
四 牧会者がもつべき慕わしさ … 394
1 人を慕わしく思ってこそ … 394
2 人を接待することを好んでこそ … 397
3 夜が明けるまで話をしてあげてこそ … 401
4 人を無視しないで尊重視してこそ … 406
5 すべての人を愛せなければならない … 410
6 神様が立てた因縁の中で愛せ … 416
第七節 成約時代と侍る生活 … 419
一 成約時代とは … 419
1 成約時代とは何か … 419
2 成約時代は愛の時代 … 420
3 侍ることにより救われる時代 … 422
4 成約時代とは聖徒たちの祭物時代だ … 424
二 侍る生活 … 426
1 侍る生活開始の日時 … 426
2 侍る生活の目的 … 426
3 侍る生活は精誠を尽くして真の父母と一つになること … 427
4 侍ることの心の持ち方 … 432
5 侍る生活の態度 … 436
6 天国とは心情で侍った者が行く所 … 441
7 侍る生活の事例 … 446
8 お父様の写真を持って歩きなさい … 448
三 早朝敬拝 … 451
四 私の誓いの解説 … 453
第三章 有能な講師への道 … 469
第一節 手本となる講師の事例 … 471
一 手本を見せてくださったお父様 … 471
二 一日十八時間講義した劉孝元協会長 … 477
三 講義時間の三倍祈祷した安昌成講師 … 481
四 お父様のみ言を適用させる郭錠煥本部長 … 482
五 覚えて講義をする英国青年 … 483
第二節 聴衆をとらえる法 … 485
一 聴衆に対する法 … 485
1 講義の最初の時間が重要 485
2 即席で講義しても感動を与えることのできる訓練をしなければ … 485
3 臨機応変式対処能力も必要 … 486
4 講義の主になる相対を探せ … 487
5 聴衆の心理を把握してそれに合わせて講義する … 488
6 聴衆と親しくなってから講義を始めれば効果的 … 489
7 聴衆に自然な印象を植えつけなさい … 490
8 全体を和合させる融通性のある人になりなさい … 490
9 度胸(信念)をもちなさい … 491
二 講師が取るべき態度 … 492
1 本人の体格によって取る態度を変える … 492
2 大衆集会における経験をたくさんもつ … 494
3 個人の特技は関心を引くことのできる武器 … 494
4 態度では服が問題だ … 495
5 聴衆によって態度を異にする … 496
6 ジェスチャーも練習する … 497
三 聴衆を感動させるには … 498
1 聴衆の関心度がどれくらいなのかを知る … 498
2 話はおもしろく実感があるようにする … 500
3 うそをついてはいけない … 500
4 多くの経験を積まねばならない … 501
5 刺激を受けることのできる相対的品物も必要 … 503
6 指導者は経験が豊かでなければならない … 505
7 感情に訴えねばならない … 506
四 バークレー校で生まれた逸話 … 507
第三節 名講師になる道 … 510
一 まず原理の実力をつけなさい … 510
1 毎日原理のみ言を読まなければならない … 510
2 講義ができなければ読んであげるのもよい … 514
3 まず原理でもって講義の枠を立てなければならない … 516
4 原理の本を全部覚える計画を立てよ … 517
二 講義をたくさん聞き、たくさんせよ … 520
1 有名な講師の講義をたくさん聞かなければならない … 520
2 講義をたくさんすればするほど名講師になる … 523
三 講師が備えるべき姿勢 … 526
1 原理を活用する講義法と講義する者の姿勢 … 527
2 神様が共になされるという信念をもちなさい … 532
3 相対の関心を呼び起こしなさい … 534
四 講師が留意すべき点 … 535
第四節 講義と牧会者の使命 … 539
一 講義という牧会者の重要な仕事 … 539
1 責任者は口がはれ上がるくらい講義しなければならない … 539
2 御飯を食べるように毎日講義しなさい … 542
3 壇上の席というのは多くの生命に責任を負う席 … 546
二 講師の基本的な立場 … 551
1 講義はどのようにすべきか … 551
2 心情一体をなす公人の立場に立たなければならない … 552
3 講義の目的はどこにあるのか … 554
三 講義と伝道 … 558
1 み言には創造の能力がある … 558
2 食口の増加は原理講義の回数に比例する … 561
3 生命の問題は生命で解決しなければならない … 565
四 講義に対する牧会者の姿勢 … 568
1 講義をする「味」を感じなければならない … 568
2 気違いのように講義を続ければ、霊界と接触するようになる … 573
3 多くの人が必要なのではなく、責任者一人が問題 … 575
第四章 教会発展と伝道 … 579
第一節 教会の成長と発展 … 581
一 発展に対する根本理論 … 581
1 発展しようとするならば作用しなければならない … 581
2 発展の形成 … 582
3 発展の原則 … 584
4 発展の要素 … 586
5 発展の形態 … 586
二 発展の実際 … 587
1 社会の発展 … 587
2 国家の発展 … 588
3 歴史の発展 … 589
4 宗教の発展 … 591
三 お父様と統一教会の発展 … 593
1 お父様が発展される理由 … 593
2 統一教会が継続して発展する原因 … 595
3 内的な摂理の基点と一致してこそ発展する … 598
4 ある時には、統一教会が発展できない理由 … 600
5 統一教会が発展しようとすれば … 601
6 統一教会が発展するほど、サタン世界は滅んでいく … 603
四 教会の発展と牧会者の責任 … 604
1 間違った過去を清算せよ … 604
2 教会は牧会者にかかっている … 606
3 原理講義についての計画と、実践が重要だ … 608
4 蒔く責任者より育てる責任者となれ … 611
5 九五パーセント人のために生きる責任者となれ … 618
6 強力な神様の愛をもって生命を動かしてこそ … 621
7 愛の認定圏を確保することのできる責任者になれ … 624
8 教会を愛のふろしきで包め … 628
9 苦労する食口のために祈祷してあげなければならない … 629
10 父母のように責任を果たせ … 630
11 同役者の同情を受けられなければ … 631
五 牧会者自身の発展 … 632
1 人は刺激を受けてこそ発展する … 632
2 神様を中心に新しいものを刺激できなければ … 633
3 間違いも一つの刺激の要素になる … 635
4 主体的立場で環境を引っ張っていかなければ … 636
5 牧会者が発展しようとすれば … 636
第二節 伝道 … 641
一 伝道をしなければならない理由 … 641
1 伝道とは何か … 641
2 伝道をしなければならない理由 … 644
3 伝道する目的 … 651
4 伝道の価値 … 653
二 伝道者の姿勢 … 656
1 伝道出発前の準備 … 656
2 精誠と伝道 … 659
3 伝道隊員がもたなければならない姿勢 … 663
4 路上伝道のときに取らなければならない態度 … 672
5 伝道と牧会者の姿勢 … 679
三 伝道の秘訣と方法 … 684
1 伝道できない原因 … 684
2 伝道の秘訣 … 689
3 伝道は一対一の伝道がいい … 695
4 伝道するときの対話方法 … 697
5 伝道するときに留意すべき点 … 698
6 伝道の難しさと、その克服 … 702
7 既成教会伝道 … 706
8 伝道後の指導方法 … 711
四 伝道方法 事例 … 713
五 伝道の形態と目標 … 763
1 霊界を通じた伝道 … 763
2 『原理講論』を通じた伝道 … 764
3 ビデオを通した伝道 … 768
4 月一人伝道 … 769
5 八十四人伝道 … 772
6 百二十人伝道 … 775
第五章 牧会者と食口指導 … 779
第一節 牧会者の指導姿勢 … 781
一 牧会者がもつべき指導姿勢 … 781
1 牧会者は涙がなくてはならない … 781
2 関心がなければならない … 786
3 熱意がなければならない … 789
4 包容性がなければならない … 792
5 山(鉱脈)を当てた鉱夫の例え話 … 794
二 父母の立場の牧会者 … 796
1 牧会者は父母の立場である … 796
2 父母の心情とは … 798
3 父母の立場の責任者としてもたなければならない心の姿勢 … 800
4 父母の心情で食口たちに対しなさい … 804
三 道しるべとしての牧会者 … 806
1 案内者としての牧会者 … 806
2 牛に牧草を食べさせる主人の立場 … 810
3 避難途中で目撃したこと … 811
4 殴ってでも行かせてやらなければならない … 813
四 手本となる者としての牧会者 … 815
1 手本を見せなければならない牧会者 … 815
2 牧会者とは手本を見せて生の基盤を築いてあげる者 … 816
3 神様と真の父母を見せてあげなければならない … 817
第二節 主体・対象とカイン・アベル … 819
一 主体と対象 … 819
1 統一教会の主体思想とは … 819
2 縦的主体とは … 822
3 主体者の責任 … 823
4 原理的生活観においての責任者の立場 … 828
5 中心存在としての主体の使命 … 830
6 主体を中心にした対象圏の創造 … 835
二 カインとアベル … 836
1 摂理史に現れたアベル・カイン … 836
2 アベルになろうとすればどうしなければならないか … 841
3 誰がアベルで誰がカインか … 849
4 食口間におけるカイン・アベル関係 … 856
5 アベルの使命 … 860
6 アベルとしての牧会者の使命 … 865
第三節 食口指導の要素 … 869
一 食口指導の要素――他のために … 869
1 お父様と「ために生きる」という思想 … 869
2 教会指導者は食口のためにある … 870
3 自分のためにやれという時には宇宙が讒訴する … 875
4 「ために」する立場の結果 … 876
二 食口指導の要素――授 … 880
1 指導者はまず与える者である … 880
2 与える時の心の持ち方 … 881
3 授けて受ける原則 … 885
三 食口指導の要素――愛 … 887
1 すべてのものを和することのできる愛 … 887
2 愛は宇宙も喜ぶ … 889
3 愛の道を探して行くならば犠牲と奉仕をせよ … 891
4 愛に狂って生きなければならない … 893
四 食口指導の要素――精誠と祈祷 … 895
五 食口指導の要素――十分な経験 … 898
1 訓練と経験が不可欠 … 898
2 知恵深く指導をしなければ … 899
3 責任者になろうとすれば食口のために十字架を負う … 900
六 食口に王様のように侍りなさい … 903
第四節 蕩減復帰と公式路程 … 906
一 歴史的蕩減復帰路程と私たち … 906
1 歴史的蕩減復帰路程 … 906
2 八段階蕩減復帰路程 … 909
3 七年路程 … 918
4 必ず公式を通過しなければならない … 921
二 責任分担と蕩減 … 923
1 蕩減と復帰 … 923
2 責任分担 … 926
3 内的蕩減条件と外的蕩減条件 … 931
4 責任分担と蕩減 … 936
三 統一教会の信徒の公式路程 … 938
1 教育 … 939
2 第一段階は万物復帰 … 939
3 第二段階は人間復帰 … 940
4 原理の道 … 941
5 真の父母時代の恵沢 … 942
6 お父様が私たちに対される立場 … 943
7 祝福家庭の伝統 … 944
8 環境祝福 … 944
9 新約・旧約時代との連結 … 945
四 ファンダレイジングと伝道 … 946
1 ファンダレイジングと伝道とは何か … 946
2 蕩減復帰すべき二つのこと … 948
3 三十歳前に成すべき公式訓練 … 950
4 ファンダレイジングと伝道のために涙を流す … 952
5 我々の目標と勝利の三つのバッジ … 954
五 信仰の息子、娘 … 956
1 統一教会員には二つの部類の息子、娘がある … 956
2 信仰の息子、娘が必要な理由 … 959
3 信仰の息子、娘と直系の子女 … 961
六 教育と修練 … 964
1 教育の必要性 … 964
2 修練を受ける目的 … 967
3 修練の過程と目標 … 968
第五節 草創期にあったこと――錚々たる方々―― … 974
一 お父様にあったこと … 974
1 野牧(地名)修練会であったこと … 974
2 地方巡回時にあったこと … 974
3 先生の監獄の同僚 … 975
4 道で出会った病にかかった人 … 976
二 牧会者たちにあったこと … 977
1 ある牧会者の引っ越しの経歴 … 977
2 牧会者たちの腹の減る生活 … 977
3 学生たちの弁当で食事を間に合わせた事情 … 979
4 初期開拓当時の難しかった生活 … 981
5 ある青年牧会者の講義 … 983
6 開拓に出た統一教会のおばさんたち … 984
三 草創期食口たちの姿 … 985
1 伝道地で慕わしい食口に出会った事情 … 985
2 数十里の道を歩いて集会に参席した食口たち … 987
3 切符もなくて、こっそり汽車に乗った事情 … 988
4 赤ん坊をおぶってでも白雲台に登った食口 … 989
5 み言の前に涙の海を成した食口たち … 990
6 死んでもついていくと誓った食口のつまずき … 990
7 絶対服従の手本を見せたアメリカ食口 … 991
8 「金日成」と言えば浮かんでくる四十代のある食口 … 992
9 清平開拓時の誇らしい食口 … 994
10 教会がそれほど好きだった食口たち … 996
四 誇らしきその名前 … 999
1 金元弼氏 … 999
2 劉孝元氏 … 1003
3 金榮輝氏 … 1007
第六章 霊的役事と摂理的主要行事 … 1011
第一節 統一教会と霊的役事 … 1013
一 統一教会と霊界 … 1013
1 世界基督教統一神霊協会とは … 1013
2 統一は霊界からまず成される … 1019
3 先生は霊的世界の最高の専門家 … 1021
4 統一教会の信徒のあとには数多くの霊人たちがついて歩く … 1024
5 私と霊的体験 … 1028
二 霊的役事と霊界協助 … 1031
1 霊界はとても膨大な心情の世界 … 1031
2 今は霊界が地上を襲撃する時 … 1033
3 善なる人には善霊が、悪なる人には悪霊が協助 … 1037
4 霊界の協助を受けようとするならば … 1041
5 霊界動員 … 1048
6 祖先協助 … 1053
7 先祖解怨 … 1056
三 真の父母様と霊界 … 1059
1 天上からのみ印を受けたお父様 … 1059
2 霊界と肉界を統一させてこられたお父様 … 1062
3 真の父母と霊界 … 1065
4 真の父母様の霊肉指導と統一教会の信徒 … 1071
5 霊的世界の定住時代 … 1076
一 時の区分と時の意味 … 1080
1 年代区分と解説 … 1080
2 先生の在世時の価値 … 1083
3 今日の時の意味 … 1088
二 主要行事――名節制定、儀式、宣布 … 1092
1 父母の日――先生の佳約(婚約)式 … 1092
2 先生の聖婚式 … 1093
3 三子女の祝福式――万物復帰の式と子女復帰の式 … 1096
4 心情復活の日宣布 … 1097
5 子女の日 … 1100
6 四位基台復帰 … 1100
7 女性を代身した奉献儀式 … 1100
8 実体復活の日宣布 … 1101
9 勝利の山祭(礼拝) … 1102
10 天勝号進水式 … 1102
11 万物の日 … 1102
12 蕩減基金の献納に関する儀式 … 1103
13 象徴的な聖殿建築宣布式 … 1104
14 実体サタン屈伏儀式 … 1105
15 キリスト教のための式 … 1108
16 霊的サタンを打つ式 … 1108
17 肉的サタンを打つ式 … 1109
18 心情のろうそく伝授式 … 1109
19 聖石奉献式 … 1109
20 「神の日」宣布 … 1110
21 長成期完成級を越える式 … 1114
22 「神の日」を宣布したのちの七カ月 … 1114
23 イエス様御聖婚の特別式 … 1114
24 勝祝日 … 1115
25 文氏氏族解放式 … 1117
26 勝恨日 … 1120
27 総解怨式 … 1127
28 救国世界大会―南北統一と世界統一の宣布式 … 1133
29 統一式 … 1135
30 天勝日 … 1136
31 地勝日(天地勝利の日)――天紀元年宣布 … 1139
32 文氏氏族解放と世界氏族解放宣布 … 1140
33 私の日――転換期(一九七八年十二月三十一日) … 1145
34 霊界統合宣布式 … 1146
35 世界平和教授協議会 議長団宣言決意文 … 1147
36 宇宙的主権転換期 … 1149
37 愛勝日 … 1151
38 一つの世界創建宣布式 … 1152
39 愛天日宣布――愛天燭伝授、一情祈祷会実施 … 1152
40 開天門日(開天日) … 1155
41 一勝日宣布――聖水式挙行 … 1157
42 統一教会が世の中に現れる時 … 1158
43 南北統一運動国民連合創設 … 1159
44 摂理的統一転換式 … 1160
45 世界統一国開天日宣布 … 1163
46 一心式 … 1164
47 愛援摂理時代宣布 … 1165
48 八定式 … 1167
49 天父主義宣布 … 1167
50 天地父母宣布 … 1168
51 神様祝福永遠宣布式(七・一節) … 1169