伝道ハンドブック
み言に学ぶ伝道の姿勢
五、伝道について
1967年6月23日 東京教会 講論大修練会
伝道の仕方は簡単だ。自分を供え物にすることである。全体が認める環境に立って、いかに供え物となれるかという、その基準を遂げれば簡単だ。供え物にならない前に、いくら効果を願っても結果は上がらない。そこにはある段階というか、境目がある。その境目を越えたら、つまり、死んだ供え物ではなくて蕩減条件を越えた復活体となり、新しい道が開けるのが原則だ。
イエス様がいくらユダヤ人に追われても、十字架につけられて再び復活した圏内には、サタンのいかなる力も、勢力も侵入することはできない。それと同様に我々もそういう過程を必ず通過しなければならない。それは原則である。天にささげられ人々に認められる、その基準をいかに通過するかという問題は、我々のモットーとしている父母の心情です。体は僕の体でもって、汗は地のため、涙は人類のため、血は天のために流すその方法しかない。君たちは生活しながらその生活圏内において、自分がいかに天に即しているかを、自らの心に感じなければならない。「ああ、つらくて仕方がない、なぜこういう蕩減の道が残ったんだろう」。そういう気持ちをもったのでは何にもならない。
伝道のために行ったなら、一から一〇〇まで常に全体のためにやる。彼らのためすべてをささげるために来た、という心情だね。それを地元であれば地元、町であれば町というように、自分が責任をもったある地域において、いかに相対的環境へ認めさせるかである。それには、もしも東京であれば、東京は広いでしょう。一二〇〇万も住んでいる。これを一人では到底伝道できません。いくら何十年、一生涯回ったとしてもできないんだね。
そこで自分のやるべき手足としての人たちが必要である。そのためにはまず伝道をする。そうして伝道しては、自分がやるべき仕事の一部分を分担させ得るような、人格者を早くつくるんだね。そういうような人をつくるには、自分の精神を込め、自分の思想を受け継いだ自分そのままの身代わりとして、いわゆる第二の自分にしたような人をつくって全体の環境に送り、使命を与える。そうすればその環境においての蕩減復帰の基準が立つ。つまり、その圏内には自然と復帰の道が開かれてくるのです。
だから日本を伝道するといって、一人でいくら祈りばかりしてもできません。自分一人で日本全国を回れといってもできっこない。回るとしても、環境すべてがそれを認めるようにするのは、一生涯かかってもできないんだね。それにはやはり、心情をもった、全国的にそういう使命を分担させて働かせる人たちが必要です。つまり、弟子というか、信徒たちを教育しなければならないということになるんだね。修練会もその方法の一歩だ。そういう日本的復活を求めるため、神はどういう作戦をするか。全部を与えて、みんなに喜んでもらえるのだったら問題はありません。
しかし、やろうとしても受けようとしない。いくら真心込めてやろうとしても受けようとしないんですよ。そこが問題なんだ。いくら食わそうとしても口を開けない。それだからといってテコをもって開けるわけにはいかないでしょう。それは自分が自然に笑いながら開けるようにして、それを食べる形をとってくれないかというようにやる。そこが責任者としてやるべき使命なんだ。言葉をペラペラしゃべって、それだけやってしまえば、ああ、自分の責任を果たしたといえるのであれば、問題じゃないのだね。
神様の言葉は、それが現れた以上、その実体が必要なのである。創造された真価が実際の価値とする実体が必要である。その実体が現れてこないと神様のほうにはマイナスになる。自分が熱心に伝道したにもかかわらず、一人もその結果が見られなかったという場合に、自分の心霊状態において打撃を受ける。結局、それは自分のほうにマイナスになる。そういう時、もしも自分がその結果において反対の刺激を受けても、絶対にそういう打撃を受けてはいけない。それこそ、もっとやりがいがある、そういう環境的刺激を受けるような立場に立って、それは自分のためにもっともっと、良い結果をきたらせるためにこうなるんだという決心をもって進まないと、マイナスになる。伝道はそれが原則なんですね。
いかに真心を込めてやるか、やるには強制的にしたり、嫌々やるんじゃない。自分が自ら慕いつつ、そうしてその言葉についてくるかというそれが問題である。そういうようにするには何よりも人間、何と言おうかね、味のある人間だね。四方八方どこにも必要な人間です。お婆さんにも、お爺さんにも、あるいは壮年たちにも、若者たちにも、子供にまで必要な、そういう人間になったなら、自然とある一方は開かれてくる。
男性としては、彼を男性ばかりが必要とする。それではいけない。男性からも女性からも好かれる、愛されるという、その行動とかいろいろの動きに対して、自分に関心をもたざるを得ない環境をつくるんだね。そして親しくなっていく。それには「オーイ、君来い、聞け」。そうはいかない。職場へ行けば助けてやる。掃除でもやってやる。親しくなる方法はそこなんですよ。彼が一番要求しているのは何か、それを満たしてやるんですね。
人間は一番うれしい時と、一番つらい時に必要な人を求めるんだよ。一番うれしい時に必要な人は自分の愛する人、一番つらい時に必要な人は自分のために犠牲になれる人である。そして大抵の人は一番うれしい時の相手になる。一番つらい時の相手は誰もが嫌がる。そういう場面に立ったとき、彼自身が自分をたどってあらゆるものを相談し得るような立場に立つんですね。これは自然現象なんだ。そういうようにして近づくんだね。それには何よりも、彼が必要とする条件を、犠牲精神でもって奉仕してやる。
ではどこをねらうか。まず神は誰を一番愛するかだね。これをねらう。サタンもそれをねらうよ。例えば修練を受ける人たちに対して、将来この中で、どの人が日本のために貢献するだろう。そういう素質のある者は神もねらい、サタンもねらう。だから我々もそれをねらっていかに早くそれを占領するか。そういう作戦をするんだね。
我々の伝道は、もちろん言葉で伝道するのであるが、言葉が要求する目的は何か。その実体を通して心情の関係をいかに結ぶか。そこが問題である。それには相手の一番愛する、一番関心をもっているその基準を早く連結すれば、それにつれて復帰できる条件が立つというんですね。だから会社とか家庭とか社会の様々な関係を我々はすぐ見わけなければならない。そうして彼が最も愛する基準を、いかに早いうちに占領するか。それが勝利を決定する重要なポイントであるというんだね。そうなれば全日本指導者を中心として、そういう基準で伝道したら日本的救いの道が開かれるんだね。それはいろいろな方面に適用される。ある町でも東京都でも……。だから日本の伝道はそう難しい問題ではない。
日本がみんな信じるようになれば、それは国家的運動になるまいとしてもそうならざるを得ない。我々の伝道がそこまで影響をもたらすには、長い時間をかけて基台をつくって国家のために奉仕する。国家が救われるまで我々は犠牲精神をもって、一年、二年、三年、五年、十年たてば問題になるよ。一つの町だったら町において、十年くらい続けてその人が熱心に働けばその町くらいはね、少なくとも五万以上の町は動かせる。それが自分のためではなくて、公のためにだね。十年間決意して動けば、五万名以上の町は動く。日本は一億だから五万の二〇〇〇倍だ。二〇〇〇名おれば日本は完全に伝道される。だから一万だったら我々は毎年三名以上伝道しなければならない。
イエス様は十字架につけられて復活してのち、一二〇名を集めたでしょう。我々は一二〇名伝道しなければならない。本当はね、世界的なイエス様の勝利の基盤の身代わりとして蕩減し得る基準を立たせようとするには一二〇名が必要である。だから先生において、一二四双の合同結婚式をやったんだね。そうなると君たちも一二〇人を伝道しなければならない。そして伝道するばかりじゃないよ。それをみんな信仰的に指導して協助させて、結婚までさせてやらなければならない。それはイエス様が地上に来られて、世界を中心とする出発基準をつくる時の最初のものである。そうすると蕩減原理において君たちは、イエス様の身代わりとなる立場を目標として進んでいくことになる。
統一教会の人たちはみなこの基準を越えなければならない。だからこの一二〇人はどうしても伝道しなければならない。もし一年間に三名ずつやれば、四十年かかるよ。もしも兄弟が一万あって三人ずつやれば、二年目には四万人になるでしょう。三年目には十六万、四年目には六十四万。まあ三人ずつ続けてやるとしても、日本伝道は十年以内だね。
君たちは一二〇人をいかに伝道するか。これは最後の目的がそうなんですよ。三人じゃないよ。これは仕方がないから最低の問題として、もうそれがなければ天国に入れない。最低が三人だ。だからイエス様は一二〇人を目的として世界的基準をつくろうとしたが、みんな去られて、三人の弟子を引き連れながらゲッセマネの祈りに臨むという、惨めな段階に落ちた。最低が三人だね。
イエス様の願いは最低の義人でなく、最高としての一二〇双、これ以上世界的各国家を代表し得る天的勝利者として立たせなければならなかった。だから君たちの祝福を完成し得た義人たちとして立たせられるべき立場である。その基準を成し遂げないものは、そういう立場に立つことはできないというんですね。しかし先生が今までずーっとやった基準を条件として立つんだね。だから君たちも結婚しても生涯を通して、その基準をいかにしてやるべきかを君たちの信条としなければならない。
さあ、だからね、そういう基準をどういう時期に全うするか。イエス様の立場に立ってやれるか。男だったら一人でやる。家庭をもったらなかなか難しい。子供が生まれてくるよ。子供ができるのだね。自分は東に行くというのに、その子供は西に引っ張るんですね。しかし、この引っ張る感動がもっと強い。だから難しい。一人でいる時に何とかしよう。
もしも君たちが一瞬間にやろうと決意するなら、そこにはまず第一に自分自身を中心とした蕩減条件が必要である。伝道するには、自分自身の先祖から受け継いできたあらゆる罪の現象が残っているが、これをみんなきれいに蕩減しなければならない。我々は個人を中心として蕩減条件を立たせないと、相対環境圏内において勝利の基準を立たせ得ない。だから自分自身の蕩減条件と、それから環境に対して、その環境を救うためには、四人であれば四人に比例した条件的な蕩減を自分が立たせてやらないと、その環境は崩れてこない。それは原理原則なんです。こういう二つの蕩減条件をいかにしてやるか、いかにして決めるか、それを完成することができるか。自分一人では絶対できない。だから、その環境を求めていくのが伝道師である。
もしも十万人の町で十万人が一度に反発し始めたら、自分の蕩減条件は一日以内に立たせることができる。だから問題を大きく起こすほど、蕩減条件を起こす方法としては有益である。やっかいな問題になり、死にもの狂いになる。こういう環境に立つほど自分の蕩減条件としては早いというんだね。
蕩減条件というのは何か。供え物となれというんですね。供え物は血を流し、打たれなければならない。善なる立場に立って、数多くのものに打たれるということは、いずれ数多くのものが屈伏する時、天が褒めたたえる条件になる。それは現象なのですね。したがって、そういう蕩減条件を早く立たせるには、いわゆる正義に立って悪にぶつかる。その方法を使う。
悪なる環境が大なれば大なるほど、自分にとって蕩減条件の期間は短縮する。反比例だね。それは即時に、自分の蕩減条件を立てるとともに、彼らの蕩減条件も立たせ得るというのである。イエス様が十字架につけられる時、世界を支配するローマの兵士たちが、ユダヤ人と一体となってキリストを打ったということは、自分の一個人の蕩減条件とともに民族の蕩減条件、世界の蕩減条件をも立たせたことになるのです。